片淵葵はなんとなく、お尻の据わりの悪さを感じています。

本作は、浅野暢晴氏の製作する彫刻作品「トリックスター」を原案とした二次創作小説です。
それを知っていないと、なにが書いてあるか分からず楽しくないかもしれません。知っていても同じかもしれません。
それでもよろしければどうぞ。

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第1話

   *

 

「落としましたよ」

「ウソ、ごめんなさい!」

 声に目を向けると、若い女性が男性から植物を受け取っていた。

 それはエケベリアだ。花のように放射状に広がる肉厚の葉の中で、小輪の花が慎ましくも鮮やかに咲いている。

 女性は手鏡を片手に、その多肉植物を頭に載せた。だが、まだ慣れていないのか、うまく固定できない。

「貸して」

 と、通りがかりの女性が立ち止まった。

 目を見張るばかりの赤いポインセチアを頭上に咲かせたその女性は、困り顔の女性から半ば強引にエケベリアを受け取ると、彼女の鉢をひょいひょいとかきわけ始めた。

「あの、ごめんなさい」

「私も苦労したし。えっと、そっちが前だよね、だから、こうか。鏡、もうちょっと上げて」

 二人の女性は二〇数秒ほどエケベリアと格闘した。そして、若い女性はお辞儀でまた植物を落としそうになるもモノレールの駅に向かい、ポインセチアの女性はパッと振り返り――

「なに?」

 ――私を見た。

「え……その、別になにも」

「見てたでしょ。あの子に声かける前から」

 女性は自分の頭周辺を指差し、最後に私と視線を交わす二つの眼窩を指差した。

 迂闊だった。

 意識していないと、つい「人の目は正面を向いているもの」と思ってしまう。

 この人には見えているのか。

「いや、その、手伝えたらな、と思ってたら……」

 弁解する言葉の途中で、女性は軽く鼻を鳴らして地下鉄に行ってしまった。

 私もそこを利用すべく、気まずさから少し距離をおいて階段を下り、ちょうどホームにやってきた各駅停車に乗った。

 何駅か進んだ時、運良く目の前の席が空いた。

 滑り込むように座り、一息。ふと、視界の端にポインセチアの赤が映る。

 さっきの女性だ。こんな時期にクリスマスの花を植えている人は多くない。

 でも、視線を向けられようはずもない。

 据わりが悪い。

 

   *

 

「最近、どうもブラシが痛いんだよな」

 爪楊枝をくりながら、独り言のような調子で上司が言った。

「穴が広がってきたっていうか、緩くなってきたっていうか」

 そこそこな声量だが、オフィスに反応するものはいない。

 座り仕事を続けながら、またもお尻の据わりの悪さを感じる。

「医者には力を入れて磨きすぎだって言われるんだが。歳かな」

 一番近いデスクに座る同僚が口を開いた。

「アレはどうです? 超音波で磨くブラシ」

 上司は「ああ」と口を開いた。その周りに走る幾重もの凹んだ線が嬉しそうに歪み、えも言われぬ表情になる。

 対する同僚は、面倒そうな調子で髪をかきあげた。

「テレビでやってたな。当てなくても汚れが落ちるんだっけ?」

「それです、それです」

「効くのか? アレ」

「僕のです? いやあ、買ってみましたけど、あんまり使ってなくて。磨かないと綺麗になった感じがしないじゃないですか」

「だよな、やっぱ男は力をこめて磨かないとな」

 同僚は愛想笑いと思われる笑顔を返し、仕事に目を戻した。

 そして上司は穴をこすった爪楊枝をしばし眺め……穴の周りの線をこすった。

 「え」という誰かの声が聞こえた。

 私も同じ気持ちだった。

 上司は線をこすり始めたのだ。一応は隠している体だが、確実に、穴ではない。

 据わりが悪い。

 穴は構造的に、汚れが溜まりやすい。世のアンケートによると、「人目がなければ思い切り穴を穿っている」と答えた人の率は、老若男女の別なく高いそうだ。その気持ちは私にも分かる。

 だが、線だ。

 線は、なぜかタブー視されている。

 穴の数に個人差があるように、線にもその有無や凹凸の向き、深さ高さなど個人差がある。人々の外見に関する大きなファクターで、強固に隠す人は多くはない。

 なのに、物理的にも話題的にもノータッチが不文律となっている。面と向かって論じたり、数えたりするのは論外だ。

 線は年を経る毎に高低差が大きくなり、数や密度も増す。ゆえに汚れが溜まりやすく、落ちにくくなり、手入れに時間をかけられる人とかけられない人とで格差の原因になる。しかし専用のブラシがある穴と違い、手入れ道具は確立されず、洗い方の指南もままならない。

 だから、今のように閾値を超えたデリカシーのなさを発揮した人に直面した時には、半端ない据わりの悪さを味わうことになる。

 時間の経過が長く感じる。

 心なしか、お尻にピリピリした痛みを感じる。

 もし私が、「背中の線、磨きましょうか?」と提案したら、どうなるだろう。

 

   *

 

「それ、可愛いじゃん」

「ん、まーね」

 離れたテーブルから女性の声がした。

 麺を口に運びながら、意識を向ける。

 長さをアピールするようにテーブルの外に向けて右脚と左脚を組んだ女性と、フォークを摘まんだ手で頬杖をついている女性が見えた。

「なに? なんか不機嫌?」

「そんなことないよ」

 脚を組んだ女性が、爪先を揺すった。そこで、脚を組んだ女性がアピールしているのが、脚ではなく、引っかけたサンダルだと気付いた。

 淡い紫色のベルトで編み上げられたサンダルは、評価の通り可愛らしい。そして、ウェッジソールの側面が足の裏を小刻みに叩く様も、評価の通り不機嫌に見えた。

 私は二人が気になった。慎重に身体をずらして、自然な角度で自分の皿とその席が見える角度を得た。

「言いなさいって。落ち着かないじゃん」

「面白い話じゃないけど」

 食い下がる頬杖の女性には、頭を覆うように垂れ下がったサルオガセモドキの葉が、脚を組んだ女性には、サンダルと同色のムラサキツユクサの花が、派手すぎも地味すぎもなく植わっている。

「で?」

 サルオガセモドキの女性は促しながら、円盤型のスポンジ生地をフォークで口に放り込んだ。

 ムラサキツユクサの女性は渋々口を開いた。

「だってさ、この店、いきなり『お客様は一足ですか?』とか聞くんだぜ?」

「あー……。専門店? だった?」

「入る前に気付いてりゃあなあ」

 女性は花を揺らせながら脚をほどき、右脚と中脚で組み直した。

 その二本の脚には、どちらも右足用のサンダルがはかれていた。

 その美しさに、私は思わず見入ってしまった。

 ムラサキツユクサでもサンダルでもなく、脚を走る線に。

 太腿から脛にかけて点在する穴を、鋭く際立った線が囲い、多角形の集合を産み出している。目の粗いストッキングにも見えるその模様は、ひしめき合う泡のようでも、割れた大地のようでもあるが、しかし多様な角形を混ぜ合わせた不完全さも含んでいるのだ。

 そして、サルオガセモドキの女性の線も悪くない。少なめの穴を取り巻く、程よい密度の円の連なりが、ぶつかっては折れ、ぶつかっては折れを繰り返し、立体幾何学模様を描いている。単純な関数とランダムなパラメーターが織り成す、シンプルな複雑さだ。

「大丈夫だよ、ぱっと見、分かんないし」

「まーね」

 そのやり取りで、我に返った。

「あ、時間」

「やばいぞ」

 三つのサンダルで床を叩いてサルオガセモドキの女性が立ち上がり、ムラサキツユクサの葉を垂れ下がらせた女性が伝票を掴んだ。

「今度、渋谷でも行く?」

「給料入ってからだなあ」

 二人はバタバタと会計を済ませ、お店を出て行った。

 今度は、私の視線は見とがめられなかった。

 それでも、据わりの悪さを覚えた。

 不躾だった。

 誰かの線をジロジロと見るなんて。

 朝からおかしなことを考えている自分を意識する。

 エケベリアを直してもらった女性を観察したからか、ポインセチアの女性に注意されたからか、上司のお手入れを見てしまったからか。

 皿に目を戻すと、麺が乾き始めていた。

 フォークでつつき、口に含むも、美味しくない。

 諦めて席を立ち――

「いてっ」

 ――お尻に痛みを感じた。

 どうしたんだろう。

 据わりが悪いどころか、本当に痛くなってくるなんて。

 午後は早退して、病院に行こうか。

 

   *

 

 自動ドアが開いて、女性が入ってきた。

 花を植える代わりに、頭の鉢に三人の赤ちゃんを載せた女性だ。母親だろう、寝息を立てる彼らに刺激を与えぬよう、二本の脚でそろりそろりと歩いてくる。

 待合室に充満していた静かな喧噪が、自然と遠退いた。その親子に注目しているようだ。

 中年の男性が入口に近い席を譲り、母親が無声音で「すみません」と言いながら腰を下ろし――

 ごん、と。

 ――いい音が鳴った。

「あ」

 途端、赤ちゃんの一人が泣き出した。母親の鉢にどこかをぶつけたようだ。

「ごめんね。どこぶつけた?」

 母親が赤ちゃんを頭から下ろし、背中をさする。

 そうしている間に、頭に載せたままの二人の赤ちゃんも、釣られてむずかり出してしまった。

「あらあら、大丈夫?」

「ビックリしちゃったね」

 そこに何人かの老人が寄り、母親の手が回らない鉢の赤ちゃんたちをあやし始めた。

 赤ちゃんは泣きながら、小さな腕を振り回して空を掴もうとする。

 老人は節だらけの線が走る手で、まだ滑らかな赤ちゃんの頭を撫でる。

 そんな様子を、私は遠巻きに見ている。あのような赤ちゃんをあやす術を知らないからだ。

 周りの大部分もそうだろう。

 やっぱり、据わりが悪い。

 五〇年とも一〇〇年とも数えられる、いわゆる変遷期は、私にとってはただの歴史だ。

 物心ついた時にはこの形が普通で、ともすれば、その事実さえ忘れてしまっている。

 だから今日のように、ふと意識に立ち上ってくる時、途方もない気持ちになってしまう。

 何もかも作り物に見えて。

 自分の形に自信がもてない。

 頭と身体が噛み合わなくなる。

「片淵さん。片淵葵さん」

 この身体を動かしているのは、本当に私?

「片淵さん?」

 あ、私だ。

「はい、はい!」

 弾かれたように立ち上がり、診察室に急ぐ。

 順番を飛ばされてはかなわない、と大声を出してしまったが、幸い赤ちゃんたちは眠りに向かっているようだ。

 一安心。

 

   *

 

「失礼しまーす」

 硬いスツールに腰を下ろし、途端、不安になった。

 お尻の診察って、具体的にはなにをされるんだ?

 撫でられたり、こすられたりするのか?

「片淵さん。お尻が痛いって?」

 私の懸念を余所に、記入済みの問診票を見ながら医師が言った。

 医師は男性のようで、髪は白いが肌は浅黒く、顔のしわは多いが体躯はガッシリしていて、年齢が推測しづらい。私より年下ということはないだろうが。

「ええ、その……座り仕事だからかもしれないんですけど、今朝からお尻の据わりが悪くて」

 色んな意味で。

「今も?」

「えー……はい」

「じゃあ、それ脱いで横になってください」

 言われるまま、ベッドにうつ伏せになる。お尻を突き出した姿勢だ。

 医師は戸棚から木槌を出して、視界から消えた。

 木槌?

「叩きますね」

「はい?」

 ごん、と。

「いっ!?」

 脳天に衝撃が走った。

「ちょ、いて――痛い! 痛いですって!」

 思わず素の声が出てしまうが、木槌はお尻の方々を叩き続ける。その度に体鳴楽器と化した身体が響き、口から漏れる。

「すぐ終わりますからね」

 その宣言通り、容赦ない打撃は一〇秒もかからなかった。

 すぐに木槌の移動がとまり、こんこんこん、と優しい振動がひとところに繰り返された。

「ここだ」

「……悪そうです?」

 顔をベッドに押し付けたまま問うと、

「いえ、多い症状です」

 医師は軽い調子で答え、身体を起こした。

「精神的なものです。一晩も寝れば直りますよ」

 音で分かるのか。まるで調律師だ。

 手で促され、スツールに座り直す。

「考えすぎないことですね。眠れるよう、痛み止めを出しておきましょう」

「……え? 精神的? じゃあ、ほんとに据わりが悪かっただけなんです? 座り仕事で痛めたんじゃなくて?」

「気持ちが身体に出たんだと思いますよ。私たちだって、ストレスで胃潰瘍になるんですから」

 そういう問題?

 座面に触れているお尻を意識する。

 木槌の衝撃が残響しているような、妙な気分だ。

 据わりはいまだ悪い。

「当院には心療内科もありますが。受診していかれます?」

「あ……いえ……」

 疲れてしまった。

 指示通り、今日はもう帰って寝たい。

「ありがとうございました」

「はい、お大事に」

 白いアンゼリカの花を携え、私は診察室を後にした。


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