原作三巻P15の八一湘南一週間逃避行事件の銀子視点詳細。十巻初出要素はありますがネタバレ自体は三巻までになります。

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私はエリーじゃない

 新プロ中学生棋士が対局後行方不明になったらしいぞ――。

 最初、その話が飛び込んできた時は、一体何を言っているのがよくわからなかった。

「ええと……行方不明って、その、行方不明ってことですよね?」

 何を当たり前のことを、と思わず口走りたくなりそうなことを桂香さんが先に言う。

 だけど、確かに何がどうしてそうなったのかという経緯を考えたら、桂香さんのような認識になってしまっても仕方がない。だって、何がどうやったら将棋で対局して、終わったらどこかへダッシュしてそのまま行方不明ということになるのだろう?

「何というか……勝手に頓死してちゃ世話もないわね」

「ちょっと銀子ちゃん、勝手に八一くんを殺さないの!」

「死んでるとは思ってないわ。ほっておくとどこかで野垂れ死ぬかもしれないけど、流石にそれまでには誰かに保護されてると思うわよ。警察に保護されてるのが一番いいのだけど」

「確かにそれが一番安全かもしれないけど……」

 最近では深夜の未成年による外の徘徊は即警察による保護案件だ。だから、自殺に走ったとか言わない限り、制服姿のままなら余程の事が無ければすぐに見つかる。

 そして八一は幾ら負けたとしても自死を選ぶようなタマではない。だから行き倒れてない限りは最悪でもその内警察に保護されるだろう。

「ま、ほっときゃその内連絡ぐらい付くでしょ。わざわざ私達から動くこともないわよ」

「せやな、八一ぐらいの年齢じゃ、誰だってまだ子供と言ってもええ。なら、誰かから、ともすれば八一自身から連絡が入るだろ」

 そこで初めて師匠が口を開く。だけの、どうして今の一言を、わざわざ私を見ながら言う必要がある?

「ちょっと、それ私に向かっても言ってない?」

「当たり前やがな。中学生、それも一年前はランドセル背負ってた齢なんてまだひよっこのガキだわな」

 確かに師匠からすれば私も八一も年齢なんて同じようなものかもしれないけれど。

「銀子。そりゃぁ女子の方が男子より早熟と言ってもな、少なくとも五十路のオッサンからすれば、はたち以下なんて全員子供みたいなもんだ。銀子が同い年と比べても少し早熟なのは認めるが、けどだからといって精神的に成熟してるわけでもあるまい」

「くっ……」

 思わず歯噛みをする。悔しい気持ちもあるが、事実故に言い返すこともままならない。

「ま、それはともかく、だ。とりあえず連絡を待つしかなかろう。闇雲に都内周辺を探したところで、見つかるものも見つからなくなる」

「まぁ八一くんも年齢相応なところも多いし、きっとすぐ解決するわ!」

「二人が言う通りすぐに連絡あるだろうからな、気にするまでもないだろ、がっはっは!」

 

「がっはっは――はぁ。まさかこの期に及んで何も動きがないとは……」

「八一くん、流石にちょっとここまで来ると心配ね……」

 そんなどうせすぐに見つかるだろう、という私や師匠、桂香さんの甘い予想とは裏腹に、八一からの、はたまた警察からの連絡は数日ないままだった。

 

 

 八一が失踪してから六日が経った。まもなく週が一巡してしまう。

 私も、ここ数日は八一がいた際に情報が真っ先に入るように、学校以外では将棋会館には行かず常に師匠の家にいる。桂香さんは素直になれないねぇとかなんとかいうけど、そういうのがあったとしても、それを抜きにして気になるものではないか。

 死体が上がるか自力で行動が不可能かさえしなければ、見つかり次第八一にどうにかさせます、とは予め師匠からは伝えてある話ではあったのだけど、それでもそもそも警察からの連絡すらない状況だと、流石にどこかで野垂れ死んでないかという懸念が現実味を帯びてきてしまう。

 関東将棋連盟、具体的には対局していた山刀伐八段と連盟運営に携わる鳩待五段にはそれとなく話は行っているものの、ここまで音沙汰なしだと、他の棋士にも連絡して手分けして捜索してもらった方がいいかもしれなくなってくる。

 だから、今日中にでもどうにかしなければいけない――と思っていたのだけど。

「八一らしき人物の目撃情報があがったぞ! 写真付きで惣座さんが見つけてくれおった!」

 私の思考もそこで中断される。

「えっ本当に!? それにしてもよく見つかったね!」

 桂香さん、それ暗に兄弟子のこと馬鹿にしてるわよね。私が言えた口じゃないけど。

 八一が見つかった。うん。あのバカが行方不明ではなくなったということだ。ひとまずはめでたい。

「で、どこにいたの?」

「なんでも湘南の方だそうだ。茅ヶ崎の海岸でそれっぽい人物の目撃があったという情報がな」

 湘南。しょうなん。――湘南? あのバカは、土地勘もない中東京からそんなところまで行ったというのか?

 棋士をやっていると、特段興味がなくとも、日本地理ぐらいなら、対局でよく使う旅館などがある場所を中心に、ざっとしたところは覚えてしまう。湘南は――あれだ、以前公式戦で訪れた旅館陣屋がある鶴巻温泉の、その南の方か。――そりゃ警察も見つけられなくて当然だわ。

 けど、見つかったなら堪忍して一人で帰ってくるだろう。もう、私たちが心配する義理もない。

「さぁ、銀子ちゃん、早速迎えにいってあげなくちゃね!」

 ――って、ちょっと待て。

「桂香さん、何故私があのバカをわざわざ神奈川までお迎えをよこす必要があるの? 私はあのバカの子守りじゃないのよ?」

 明らかな不満を示すと、口元に手を持ってきた桂香さんが少し含み笑いをするかのように私を見下ろす。

「そりゃぁ、ね? こういう時だからじゃない?」

「いやそれだけじゃ全くわからないから」

「だって、プロになりたてで、また気持ちも不安定な状態での負けよ? 将棋会館出てすぐに雄叫びと共に走り始めたっていう目撃談もあることだし。そこで銀子ちゃんが迎えに行ってあげて、そこで不安とか聞いて上げるだけでも、八一くんの中の銀子ちゃん株は必ずアップするよ!」

 あぁ、一応これでも桂香さんなりの私への気の使い方のつもりなんだ。とはいえ。

「――その必要があると思ってるの?」

「思ってるから口にしてるんじゃない」

 そんな真顔で言われても。

「というより、よく考えたら、桂香さんの口ぶり見る限り私一人でお迎えに行けっていうの?」

「あら、理解が早くて助かるわ」

 くらっときた。一人で行って、二人で帰ってこいと宣うとは、まさに子守りのそれではないか。

「まぁ、どちらにしても、銀子ちゃん、八一くんと二人きりで話したいこともあるでしょ? 八一くんへの想いもそうだし、それ以外のことも色々」

 それを言われると確かに言い返しづらい。だけど、別にそれは今回に拘る必要性など全くないし、寧ろ大事なことを伝えたとしても有耶無耶にされかねない。

「桂香さんが、あのバカが一人で帰ってくることも出来ないと思ってるのはよーくわかりました」

「ええ。私だって八一くんぐらいの年頃の時は、私が女だからということを差っ引いても、一人で遠出なんて出来なかったわ。ましてや、今の八一くんや銀子ちゃんのように、あんなに『重いもの』を背負ってなんていなくともそうだった」

 桂香さんには悪いが、それは間違いじゃないだろう。だとしても。

「私が八一がいるとこまで出向くのもそれと変わらないと思うのだけど?」

「銀子ちゃんは一年前にタイトル取った時から殆ど一人で遠方まで出ようしていたじゃない。流石に小学生の間は強制的に付き添い向かわせてたけどさ、中学生になってから付き添いを断ってたのは寧ろ銀子ちゃんだったと思うのだけど」

 確かにそうかもしれないが。

「ま、銀子ちゃんも女流二冠だしさ、私がさっき言った通りではあるんだけど。なら余計に、肩書だとか、そういうのは銀子ちゃんの方が八一くんより詳しいでしょ?」

「間違いじゃないけど、だとしても、それを語るには格が違いすぎる」

「一緒よ。自分が何を抱えているかということに格の違いなんてない。寧ろ銀子ちゃんの方が、タイトルを二つ抱えてる分余計に人より語れるかもしれない」

 偉そうに、とは口が裂けても言えなかった。言い返したくても何も反論が浮かばない私はさしずめ詰将棋の玉でしかない。

「それにほら、これまでだって八一くんが対局の勝ち負けを伝える最初の相手は、ずっと銀子ちゃんだったじゃない。プロになってもそれを続けてほしいというのは銀子ちゃんも願ってたでしょ?」

 そこでそれを持ち出すのは反則だ。これが決定的な寄せとなった。一手先の自玉の詰みに気付いていても、投了すら許されない。

「なんなら、湘南の海を背景に八一くんに告白してきちゃいなさいよ! それじゃ、行っておいで!」

 ――そんなわけで。

 どうして私は対局をしにいくわけでもなく一人新幹線に揺られているのだろう。

 

 

 夜の海はクラゲがよく出るという。だけど、私からすればクラゲなんかより太陽光の方がよっぽど怖い。だから、海水浴に来たとしても、泳ぐなら夜しかない。

 私が、湘南の海、それも昼間に来る日が来るとは思ってもいなかった。今は夏じゃないけど、陽を浴びることを前提とするかのような観光地など、対局がなければ間違いなく来ることはない。対局で来たとしても、昼間は建物の中にでも籠っているだろうが。

 幸い十月の陽射しは、先月までの光線が持っていた熱と光量は失われ、辛うじて日傘を差していれば浜辺を普通に歩くことも厭わないぐらいには落ち着いたものになる――と思っていたのだけれど。

「なんで今日に限ってこんなに暑いのよ……」

 誰に聞かせるわけでもない独り言が思わず漏れた。脱ぐわけにはいかない長袖に隠れた腕を、ワキから流れる汗が滴り通る。

 天気、晴れ。予想最高気温26℃。これ自体は横浜の予報で、そこから30kmは離れた場所だから多少なりともずれはあるだろうが、とにかく暑い。

 故に太陽光線も今日ばかりは熱を持って私に襲い掛かる。海岸は基本遮蔽物がないから、逃げ込められるような場所もない。

 海に目を向ければ、今秋、もとい今夏最後になるだろう夏日に浮足立った男たちが、断続的に押し寄せる青い隆起目掛けて泳ぎ出す。今日は波がそこそこ高い日らしいが、ともあれ季節外れの気温に海を目指さずにはいられないらしい。

「ほんとにあのバカがこんなとこにいるっていうの……?」

 師匠から聞いた諸々の情報を改めて諳んじても、全く持ってそんな気がしない。

 棋士なんていうのは意図せずしてインドア派で、だからこそアウトドア派とは相いれないし、思考を理解も出来ないのだけど、そんな人間らに八一が混ざっているとでもいうのだろうか。

 当たり前だが、小田原から普通列車、茅ヶ崎からバスでやってきた海岸に、大阪弁は全く聞こえてこない。まだ南紀白浜の海なら言葉は近いというのに、対局で遠征した時にしか殆ど聞かない標準語ばかりが耳に入ってきて、否が応でもここが私の普段の生活圏からはかけ離れていることを音で実感する。私が昼間海にいるということがそもそも初めての経験ではあるけど。

「……疲れた」

 思わず口から零れ出る。初めての経験というのは得てして疲れるものだけど、季節外れの気温の高さが容赦なくなけなしの私の体力を奪っていっていることがわかる。

 顔を上げると、海の家らしきところがあった。仕方ない、少しばかりあそこで休憩することにしよう。ついでにそこの人にこういう人見かけませんでしたか、と尋ねればいい。

 熱を持った南風を背に建物の中に入ろうとする。サーファーショップを併設したそこはそこそこ大きめのところらしい。ここなら情報も得やすいかなと思った。のだけど。

 ふと、目の前に割と見慣れた背と硬い直毛の髪が目に入る。

「まいどー。また宜しくお願いしますー」

 そんな呑気な声が、不意に私の耳に届く。

「さーて、今日のお客さんも終わりっと」

 そして、その声の主が、徐に振り返ってこちらを見た。

「――ん?」

 思わず声が重なる。

「あ」

 いたよ。

「姉、弟子……?」

 こいつだったよ。

 正直、一目見たら怒りに我を忘れるんじゃないかと思っていた。だけど、紛いなりにも弟弟子であるこいつを見た率直な感想は『疲れた』だった。

 全く。人が心配してる中自分は呑気に海辺でまったりですか。あ、段々怒りを覚えてきた。

「さて、何か言うことは?」

「――たい」

「は?」

 最初は耳を疑った。九頭竜八一はそんなことを言う人間ではない。だけど、今のこいつは若気のなんとやらで正常な思考を失っている。

「俺もう将棋やめる! ここで働きながらサーファーになる!!」

 ここまで来ると寧ろ呆れる。とにかくこのバカさ加減に頭を抱えたい。あ、そんなこと思ったら怒りすら消えた。

「ぶちころすぞわれ」

 この男には、これくらい言わないとわからない。これでも威圧出来てるとも思えないけど。

 だけど、目の前の男はやはり引け目があるのか、勝手に縮こまってくれた。悪いと思う気があるなら初めから下手に出なければいいものを。

「はい、さっさと店の人にお世話になりましたと頭を下げてくる! 荷物持って挨拶終わらせるまでちゃっちゃかやる! 五分で帰るわよ!」

 物理的に尻を叩いて、腕を組んで店の奥に走り去る八一の背中を睨みつける。よろめきそうになりながらも慌てる八一は、後ろ姿であっても滑稽で、少しだけ頬が緩みそうになった。

 改めて八一の今日ここまでの流れを整理してみる。八一は、山刀伐七段に負けたのが悔しくてここまで来た。何をどうしてここまで来たかはわからないし、一戦負けただけで折角なったプロをやめたいなどと言うのはアホの極みではあるが、対局に負けて悔しいという気持ちは痛いほどに分かる。

 そういえば、山刀伐七段が先にミスを犯したのに、八一がその後それを上回る大ポカをやらかしていたことを、今になって思い出した。

「私の時はどうだったっけ」

 デビューして以降、タイトル戦に関しては連勝記録が途切れているわけではないから、実際そういった際に負けたわけではない。だけど、私としてはギリギリのところで踏ん張ったことがあるのも事実だ。

 その記録がいつ途切れるかは、正直私にはわからない。女流棋士のままで居続けるのならば、並大抵のことがなければそうそう大崩れすることもないだろう。

 だけど、いつか奨励会に入り、いつかそれを抜けた日には、私もきっと今の八一みたいなことになるのも、少し考えればわかることだ。連勝記録だとか言ってられない、男女関係ない、今の私にとっては雲の上の世界。

 だから、八一だって人間だとわかって、そういう意味では安心をしているのも事実だ。あぁいうミスを犯して『くれる』のならば、まだ八一が私の手の届くところにいるとわかるから。

 周りは私をミスしないとでも思っていそうだけど、タイトル戦でもない限りその集中力は天と地との差だ。デビュー前も後も、時折棋譜を見返しては、数十手の内数手早い詰め手が見つかったり、逆に頓死級のミスに指してから気付くも、対局者がそれに気付いてなかったから辛うじて難を逃れたり。

 あのミスは、祭神雷との棋戦に於ける、気付かなかった過去の私だ。そして、将来タイトル戦か三段リーグか、後から気付かされて頓死をしている私でもある。

 だが、そうしたミスも、周りが気付かなければ誰にも知られることなく風化するし、そのままならやがて今現在も続く数十連勝という文字面に埋没していく。

 女性棋士であっても、周りが弱いとは思わないし、私が強すぎるとも思っていない。だからこの数字はそういった意味では幸運だ。まだ私がうまく立ち回れているだけなのだから。

 そんな幸運も、三段リーグなどで男性と常に当たるようになればそうもいかなくなる。そうであるならば、このメッキはさっさと剥がした方がいいはずなのに。

 わかってはいる、わかってはいるのだけど。

「姉弟子」

 気付けば、諸々の準備を終えた弟弟子が、そこに立っていた。

「すみません、わざわざ大阪から。桂香さん辺りに言われて来たんだとは思いますけど。なんというか、お前が言うなと言われそうですけど、災難でしたよね」

「ええ、本当に災難だったし学校もまた勝手に創立記念日にしちゃったし、それでやってることが対局じゃないとか無駄の極みね」

 裏を返せば、八一は一週間も学校を連続創立記念日にしているわけで、八一はどう学校に言い訳するんだろうか。こればかりは私には知ったことではない。

「けど、たまには悪くないかも、とも思った」

 だって、素直な八一は、純粋に可愛かったから。今だけは、そんな若さに甘えた我侭を許してやってもいいかなと思った。勿論チャラにはしない。

「別にどうでもいいんだけど、なんでここまで辿り着いたの」

「いやぁ、悔しくてとにかく走ってたら、気付いたらここまで」

「――は?」

 聞き間違いかと思った。だけど、嘘を言っている顔ではないし、嘘だとしたらもう少しマシな言い訳があるはずで。

「何? つまり電車とかバスとか使わずに? ここまで来たって?」

「そうですね、はい」

「――正真正銘のバカじゃない。一手詰みにしなくても勝手に頓死してそうね」

 今度こそ頭を抱える。私の弟弟子は、私が考えている以上にバカだった。

 成程改めて見下ろすと、クリーニングされたらしいそれなりに綺麗な学ランに対して、60km超もノンストップで走らされてボロボロになった革靴が似つかわしくない。

 ――そりゃボロボロになるわよね。スニーカーでも底が擦り切れるかもわからないのに、ましてや革靴には有るまじき酷使をすれば。

「ところで姉弟子」

「何よ」

 弟弟子は、何やら恥ずかしいことを告白するかのように頬をポリポリと掻いた。

「どこかで靴屋って寄ってもいいですかね……」

「姉弟子命令。迷惑かけたという見せしめのために帰るまでそれを履き続ける事」

「ふあぁい……」

 観念させて、海岸を離れる。とにかくさっさと帰る。師匠と桂香さんに、このバカの面をさっさと拝ませないことには、私もオチオチ寝られやしない。

 振り返れば、冷たい海の、飛沫をあげる波の中にまだサーファーが転がり沈んでいる。波に乗ることに失敗しても、負けじと這い上がってはすぐに次の波に挑戦していくむさくるしい裸を、今はどうしてだか直視できない。

 

 

 それからのことは特筆すべきことも多くない。さっさと現地から引き揚げ、迷惑をかけたという謝罪のために、八一にとっては『また』東京の将棋会館を訪れ――謝罪自体は八一が率先してやっていたから私が出る幕もなかったのだが――、さっさと帰って来た。東京駅の地下で売っていた最近話題のスイーツやら何やらのお土産は、迷惑料の体で全て八一の実費にさせた。

 新幹線の車中は、久々に外で二人きりだったからこそ目隠し将棋をしようと思っていたのに、八一はすぐに寝てしまって、新大阪に着くまで終ぞ起きることはなかった。まぁ、その間私は八一に寝顔を眺めていられたから気持ちとんとんではあったのだけど。

 どうせ連絡を入れるなら、ということで新幹線を降りた足で師匠の家に直行した私たちを、師匠は温かく出迎えてくれた。

 で、この日は遅かったから、口数少なく食べたらすぐに寝て、そしたらすぐに翌朝だ。予定が入らない平日は、私も八一も普通に学校である。

「あ、おはようございます、姉弟子」

 おはよう、と口を開くも、寝起きはどうにも頭が回らなくて、ちゃんと言ったつもりなのにぼそりとした物言いにしかならない。

「――ただでさえ低血圧なんだから、朝こそ意識的に動こうとしなきゃ、銀子ちゃん」

「――わかってるわよ」

 全く、こっちの内心を知ってか知らずかわからないけど、こういう時だけ年上風吹いて、でも状況は確かに年相応なのが妙に腹立たしい。

 しかも昨日まではこの弟にあからさまに迷惑をかけられていたのだ。それでいてこれかと思わなくもない。

 朝でよかったわね、と内心で毒づく。体が動けば蹴りでも入れてるところだ。

 それでも、流石に何か言い返さないと気が済まない。そうこうしている内に段々と頭が回ってくるようになる。

 今の八一が困りそうなこと――あった、喫緊で八一がやらなければいけなくて、且つこの一週間の騒動で完全に停滞していた事。

「そういえばここを出る予定があるんでしょ? 家探しは早くしなくていいの?」

 思いついたままに八一に投げかけると、八一は少し上を向くかのようにしつつ右手で顔を覆った。

「あっちゃぁ……完全に忘れてた。さっさとやっちゃわないとなぁ」

「八一が決めないなら私が物件決めちゃうかもしれないから、そうならないようにしときなさいよ」

 だけど、八一のことだから、正直そういうことになりそうな気もする。その際は私の都合を押し込むのはありかもしれない。

「第一、進学するのかどうかとかすら聞いてないわよ? そろそろ方向性は決めておかないとまずいんじゃないの」

「あれ、姉弟子には話してませんでしたっけ」

 何も聞いた覚えがない。忘れてるとかではなく、聞かされたようなことが一度もない。

「高校は行かないつもりですよ、俺」

「……ふーん」

「自分から聞いといて興味なさそうですね……」

「そんなことないわよ。八一が行ってる中学、活動に全然理解を示してくれないって愚痴ってたの八一じゃない。だからそこで神経擦り減らすより初めからフリーでいる方を選ぶんじゃないかとね」

「お見通しっすねぇ……まぁ師匠から『お前は高校行くのやめとき』とは言われたのも大きかったですけど」

「師匠の一言だけで決めたというの?」

「ダメ押しってだけですよ、ちゃんと他にも要素を検討して決めてますから」

「ま、どうなるかはわかんないけど、中卒なら早いとこ強くなった方がいいんじゃないの。プロといえば顔は立つけど、その肩書を無視すればただの中卒で、それじゃ面目丸潰れよ、中卒じゃ」

「なんだかそこ拘りますね……勿論高校に行かないなら、精進するのみですよ。そりゃ高校行くと決めてた場合でもそうですけど」

「ま、まずは今日先生方にどう報告するかどうかを考えておいた方がいいんじゃないの、寝起きで頭回らずとも今の内に」

「うわぁ……自業自得とはいえ気が重い……」

 頭を抱えてあたふたする弟弟子を見ていると、反比例するかのように段々と気持ちが落ち着いてくる。そして、きっと彼の思うところに私はいないのだろうと、不意に感じた。

 ねぇ。私がどこか遠くに行っても、あなたは私とやった数々の指し手なんてすぐに忘れてしまうんでしょうね。私が仮にあなたを追い越して、あなたの手の届かない所に行ったとしても、あなたは追いかけてくれないのでしょうね。私とあなたが全然会えなかったとしても、あなたはもどかしさすら感じないのでしょうね。

 初めて私があなたと対局した時も。師匠の和服に憧れ色鉛筆で画用紙に自身の和服姿を想像して落書きした時も。まずは私の行く先にはあなたがいると思っていた。

 先にプロの舞台に上がったのは私だった。だから下に手を伸ばして待っていたのに。あなたはある時月へ行くエレベーターに乗ってさっさと置いて行ってしまった。

 あなたより二週間だけ早く入門したから、『姉弟子』としてあなたを見下ろしていられるけれど、いつか私のことを歯牙にもかけなくなるのだろう。

 

 ――そんなことを柄にもなく一日中考えてしまっていた。中学の勉強にも身が入らず、自宅で両親との少しのやり取りの後、気が重いまま師匠の家だ。今日は金曜日だからそのまま泊まって、明日明後日と連盟行きだ。主に八一に頭を下げさせるのが目的で、残り時間は八一と練習将棋になるだろう。

 ということで、昨日は出来なかった『八一お帰り記念夕飯会』を今日は供することになっている。桂香さんのネーミングセンスはどうにも少しセンスがよくない。

「はーい、どんどん食べてねー。銀子ちゃんはこのソース一本丸々置いておくから自由に使ってねー」

 とはいえ、生まれも育ちも大阪の人間からすれば、生粋の大阪人が作るお好み焼きが舌に合うのは自明の理で。こればかりは、桂香さんに早めに習わなくちゃな、と思う。

 棋戦で、割と格のある料亭や旅館に行っていて、そこの料理を食べてはいるから、舌は実際肥えているはずで、それでもソースをべた塗りした桂香さんのお好み焼きに勝るものはない――とでもいうと、将棋連盟の関係者は泣くだろうか。きっと泣く。

「八一、食欲の方は大丈夫か?」

「あぁうん、体調不良ということもないし、別に健康そのもの、だと思うよ」

「あれだけそれまで無茶をしてて翌日とかにはケロリとしてるんだものね……中学生男子って流石ね……」

 桂香さんの呟きに内心で同意する。棋戦の長期スケジュールでもそうだけど、こればかりは男女の体力差を痛感せずにはいられない。

 いつも、八一と練習将棋をぶっ通しでやる時、体力的な限界を先に迎えるのは私だった。確かに他の女子と比較しても体力は高くない方だとは思うのだけど、昔からの深夜モノポリーでマシになってるのかいないのか。

「銀子、妙に黙りこくってどないした」

 急に私の方に話が振られる。生憎特にこれ以上の話題は持ち合わせがない。

「別に。私はやることはやったしそれ以上のことは何もないから話すこともないってだけ」

「まぁそう言わずとも、なぁ」

 師匠がそう言うものの、単純に私自身が疲れ気味ということもあった。結局、あの騒動で一番疲れたのはやはり八一じゃなくて私なんじゃないだろうか。

 ――泣かした事もある 冷たくしてもなお――

 食事中の居間にある黒い箱から、何やら聞き覚えのあるような旋律が聞こえてきた。特段注意深く聴いたことはないものの、常にこの家のCDをかけた時に流れていたような、そんな旋律。

「おぉ、ラジオの曲はサザンか! ハマってた時はかなり聞いたけど、これも久々やなぁ」

 そこまで言ってから、急に師匠の顔色が変わる。主に蒼白方面に。

「って、八一が茅ヶ崎にいたとわかってたんだったらわしが迎えに行けばよかったあああああぁぁぁ!?」

「お父さんうるさい」

「だってこのチャンスをみすみすとおおおおおぉぉぉ!」

「はいはい向こう行く機会がある時に一人で行けばいいでしょ」

「誰かと一緒がいいのおおおおおぉぉぉ!」

「聖地巡礼か何かに八一くんを巻き込む気だったの?」

 やんわりと、だけど実の父を明らかに窘める声が響く。こういう時の桂香さんには、何か下手なことを言えば寧ろ状況を悪くさせるだけだと、この家に住む誰もが知っている。

「――ありません」

「宜しい」

 ――言葉につまるようじゃ恋は終わりね――

 その一節が流れた時、瞬間的に電流が走ったかのようになった。

 言葉に詰まらないことがあったか? いや、気付いた時にはいつも詰まってばかりだった。

 歌詞がどうだとかだなんて、正直どうでもいい。だけど、それとなくそういったことを考えている時に不意にその言葉を耳にしてしまうと、どうにも心動かされてしまうものがあるのもまた事実で。

「何はともあれ、八一はまだプロになりたてだしな、ひとまず今回は洗礼を受けたとでも思っておけばいいじゃろ。だからそんなに気に病まなくてええからな。わしだって似た感じのことはデビュー当時あったわけでな」

「あ、その話後学のために聞いておきたいな。師匠のストレス解消法とか、プロになる前後で変わってるならそこが参考になりそうだし」

「いやでもきっとそれお酒の話にしかならないわよ? ちらっと聞いたことあるけど大体そんな感じだったし」

「そういうなって。ちゃんとそれ以外にもある。ま、とにかく八一の今後の勝利を祈って今夜は乾杯じゃ! 桂香、ビールを瓶で持って来い! 今夜は飲むぞ!」

 桂香さんが渋々瓶ビールを持ってくるのを、遠くの出来事のように見つめる。こればかりは八一だってそうだと思うのだけど、まだお酒を飲める年齢になった頃の状況が想像もつかない。

 だけど、そもそも私が、いや八一がそれ位になる頃には、全く八一は私のことを気にかけなくなっているのだろう。それが一番怖いことなのに、それに抗う術や切っ掛けが私には見えない。

 きっと、強烈な出来事が出来ない限り、私は何も前に進むことが出来ないのだろう。なぁなぁで八一と過ごし、対局でしか理由を付けて会うことも出来ず、そしていつか雲の上へ手が届かなくなる日まで、指をくわえながら見つめるだけ。

 その間、歯の浮くような愛の言葉なんて口にしてくれるわけもない。その言葉を吐いたとしても、その時は恐らく私にではない。私が、今の状況に甘んじ続けているならば。

「よーし八一も銀子も準備はいいな?」

 My loveと言われるようなことは何も出来ない。今後もしてあげられない。

「そんじゃ、乾杯!」

 私はヒロインになんてなれない。私はエリーになんてなれない。

 ――笑ってもっとBaby むじゃきにOn my mind――

 主に師匠が騒がしく、私が一人思索に沈む間もずっと、後ろで淡々とドラムは叩かれ続けていた。

 

 

 夏の湘南の熱気が、電波の乱れとなってラジオノイズに変換され続けている。

 ガハハと笑う師匠の横のラジオが、浮ついた愛の横文字を謳っている。



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