荒い呼吸音と、激しい嵐が森を騒がせる音だけが暗闇を支配している。
雨は止む気配がない。雨脚は強くなるばかりだ。視界を遮られて走りづらくて仕方ない。
あまりの悪条件に舌打ちを堪えきれず、さっきから何度も打たされてしまっている。
不意に斜め後ろに奴の気配を感じ、泥濘に足を取られかけながらも何とか横に飛ぶ。
おかげで避けきれず左脚に掠めた鉤爪に肉を抉られ、転びそうになった。
「ぐぁッ……」
本当なら足を止めちまいたいほどの痛みに思わず呻いてしまうが、気合で捻じ伏せてひたすら駆ける。
楽しむような獣の唸りが背中に掛けられた。振り返ると、闇の中でギラギラと輝く狼の目が俺たちを見ている。
チッ、あの化け物ッ。わざと決定的な傷を与えず、付かず離れずの距離で追い、弱りながらも逃げる俺で遊びやがって!!
「け、ケムリンッ!」
「大丈夫だ、何でもねェ、安心しろッッ」
制服の肩口を小さな手が握り締めてきた。不安と涙に揺られたルフィを落ち着かせるように、抱える手に力を込める。
頭に血が上って向かってくるのを待っているんだろうが、わざわざ乗ってやるか。
担いだロイとルフィを落とさねェように、木々の間を駆け抜ける。
ただひたすら海岸を目指して。
見たこともねェほど馬鹿デケェ狼。こんな島に、こんな化け物が潜んでいたとは気付きもしなかった。
いや、子供連れの手前それほど深く森に踏み込まなかったから、単に奴の痕跡を見つけられなかっただけなんだろう。
それに俺たちは森と海岸の境界線でしか活動しておらず、夜も火を絶やさずに過ごしていた。それで今まであちらが仕掛けてこなかったってところか。
本当はずっと狙われていたのかもしれない。おそらく、見るからに弱そうな子供のルフィが一人きりで森に入ったのを狙って姿を現しやがったに違いない。
俺が見つけた時、先にルフィを見つけたであろうロイは既に奴に倒されていた。
咄嗟のことでルフィを庇うのに精いっぱいで、ろくに能力を使えなかったんだろう。
制服の背中が無残に引き裂かれ、溢れ出す血で真っ赤に身体を染めてルフィの呼びかけにもピクリとも反応できず倒れ伏していた。
反射的に飛び出して、止めを刺そうとしていた化け物の前からルフィとロイを拾い上げて逃げた。
正面から立ち向かおうにも、ルフィたちがいる。弱い者から狙うこうした獣の前で、こいつらを放り出すのは危険だ。それに武器も無いこの状態で勝てるかどうかわからない。結果的に逃げることが一番の方法だった。
そこから始まったのが、俺たちの命だけが掛かったシャレにならない鬼ごっこ。
鬼の狼は最初こそ怒りに塗れて俺を追い回していたが、そのうち適度に攻撃しては弱らせ弄びながら追うようになった。
腹立たしいことに、こいつの前では俺ですらも兎か何かと同じ獲物。体力がある分嬲って遊べて面白いんだろう。進路を邪魔して走りにくい方へ誘導したり、前肢で引っかいては軽く噛みついてみたりと、好き放題してくれる。
さっきから何度も追詰められそうになり、それを躱すの繰り返し。心も身体もすでにギリギリのところまで追いつめられている。
でも、ルフィやロイがいる。こいつらを守らなきゃならない。
その思いで自分を支えて懸命に逃げて続け、ようやく小屋の場所に飛び出した。
ロイとルフィを抱えたまま、小屋に飛び込む。
何か武器になる物を探した。武器さえあれば間に合わせ程度だが戦える。ルフィを遠くに逃がすなり、隠れさせるなりする時間くらいなら稼げるはずだ。
ひっくり返した荷物の中から、軍用ナイフを引っ掴み取る。
「ルフィ」
振り返ると、相変わらずルフィは目覚める気配がねェロイにしがみついていた。
死んじまったみてェだが、ロイはまだ生きている。細く頼りないが呼吸はしている。だが、傷からの出血の具合と体温の低下のせいで、放っておけば死んじまうだろう。
それがわかっているのか、ロイを温めようとしたり気づかせようと揺さぶったり必死でくっ付いていた。
そんなチビのびしょ濡れの黒髪に手のひらを置いてしゃがみ込み、目を合わせる。
「今すぐこっから逃げろ」
「え……」
「できるだけ遠くに走れ、島の反対側に行けるぐらいな。そんで木に登れ。登り方は教えてやったろ? 登ったら朝になるまで降りるな」
「う、うん、ケムリンとにいちゃんもいく?」
心細そうにルフィの黒目が見上げてくる。
「いかねェ。お前一人で行け」
「どうしてっ、いっしょがいいよ!!」
「俺はあの化け物をぶっ倒しに行くからダメだ」
お前を逃がすためにという言葉は飲み込む。後々変なトラウマを残すようなセリフは吐かねェようにしてやるのがルフィのためだ。
「でも、にいちゃんは?」
「ロイはどうにかしてお前を追いかけさせるから、心配すんな」
ロイには悪いが、自分で動けねェなら逃がしてやれん。ここで俺と一蓮托生させるしかねェんだ。
だがそれを言えば、ルフィは今以上に泣き喚いてここを離れなくなるから言わねぇでおく。それにロイにかなり懐いているだけに、見捨てろなんざ可哀想で言えねェってのもある。
「ほらさっさと行け! お前がいると足手まといなンだよ!!」
「でも、ケムリンッッ」
「わがまま言うんじゃねェッ……ッッ!?」
背筋がぞわりと粟立った。
嫌な感覚を感じると同時に、ロイと何か喚こうとしていたルフィを掴んで小屋の外に投げ飛ばす。
間髪を入れず屋根の椰子の葉を、狼が突き破ってきた。その勢いのまま、押し倒される。
右肩から、倒れ込む。ゴキリと骨が折れる音が鈍く耳元に響いた。
俺を地面に縫い付ける獣の前肢にさらに重量が掛かり、鉤爪に肩口の肉を裂かれて鮮血が噴き出す。
「―――――――――――ッッ!!」
全身を焼き尽くされるような経験したことが無い激痛。声も呼吸も奪われた悲鳴を上げさせられる。
獲物を捕らえた喜びに満ちた咆哮が、嵐の夜を震わせる。
早い、もう来やがった。
これじゃルフィを逃がす時間なんか、ろくに作れねぇじゃねェかッッ。
せめてすぐさま逃げてくれてねェか。そんな微かな期待もすぐ断たれる。
雷鳴を背景に轟く遠吠えの合間に、ルフィの泣き声が混ざっていた。
目だけを何とか動かせば、いくらも離れていない場所に投げ出されたロイの側にいる。
あいつ、逃げろっつったのに……!
猛威を振るう化け物への恐怖に脚でも竦んだのか、自分だけでは逃げ切れねェと悟って嘆いているのか、小さな子供は震えながら俺やロイの名を叫び続けている。
これで終わりなのかよ、俺は終わっちまうのか。
こんな場所で、こんな奴に喰われて、終わりなのか。
守り手ぇもんや、自分すら守れずに死んじまうのか。
まだ始まって間もないのに、何も為せていないのに。
絶望と悔しさが激痛で痺れた頭に渦巻く。子供も、親友も、自分すらも守れねェ弱い自分を呪って喚き散らしている。
「くそォッ……ぁぁあああああああッッ!!!」
泣き喚くルフィ。動かないロイ。殺されかけの俺。
何もできずただ蹂躙されるだけの状況を呪うように叫ぶ。
当然それでどうなるでもない。負け犬の遠吠えは、この残忍な化け物を勝利に酔わせるだけだ。
抵抗にもならねェが、苦しくて悔しくて、めちゃくちゃに自由な左腕を振り回した。小屋の木切れや小石に掻かれて傷ついていく。
あまりの惨めさに視界が歪みかける中、こつり、と何かが振り回した腕の先に触れた。
何だろう。縋る思いで目をやる。
赤黒く絶望に染まりかけた視界の先に、ソレは転がっていた。
悪魔の、実。
小屋が壊された拍子に放り出されたのか、あの宝箱の悪魔の実があった。
考えるよりも先に手が実を手繰り寄せていた。
力を振り絞って掴み取り、口元に運ぶ。
一口、一口でいい。このゲテモノを喰えば、何かしらに力が手に入る。
何でもいい。この状況をひっくり返せるチャンスが欲しい。
不味かろうが、泳げなくなろうが、どんなデメリットがあろうが構うもんか。
こいつが倒せるなら、弱い自分から抜け出せるなら、化け物でもなんでもなってやる。
俺の不審な動きに気づいたのか、不機嫌そうな唸り声とともに狼が腕に噛みついてきた。
容赦ない噛みつきで、腕の骨が折れる。肉が裂かれる。
新たに加わる耐えがたい痛みに苦鳴が喉をせり上がるのを、無理矢理噛み殺して悪魔の実に口を寄せた。
その禍々しい果実に、歯を突きたて齧り取る。
途端に口内に広がる、えぐみ、渋み、苦み。耐え難い刺激が舌を痛めつける。
身体が拒絶反応を起こし吐き出そうとするのに全力で逆らう。
ついに一欠片。一欠片だけ、飲み下すことに成功した。
同時に、腕に喰いついていた化け物の咢(あぎと)がついに噛み合わされた。
畜生ッ、腕を持ってかれた。
その光景を見た瞬間そう確信した。
間に合わなかった、隻腕にされちまったと。
「あ?」
何だ? どうして腕を落とされた痛みも喪失感もやってこねェんだ?
薄く目を開けば、噛み切られたはずの腕は、確かにがっつり生臭い吐息を吐き出す化け物の牙の下から見えていた。
そういや右肩を抑えつけているはずの重量や鉤爪が肉に食い込む痛みも、唐突に消えちまっている。
驚いてそっちにも目をやれば、デカくて太い前肢が右肩を貫通していた。しっかりとめり込んで、俺の身体を貫いてやがる。
明らかに動脈やら臓器やらを盛大に傷付けているだろうに、嘘みてェに何も感じられない。
異常な事態に狼の方も混乱してやがるらしい。
低く不機嫌そうに唸りながら、更に俺を抑えつけようと体重を掛け、ゾッとするほど鋭い牙を左腕を噛みつけている。
だってのに何も感じられん。新しい痛みもこねェ、血も吹き出さねェってどういうことだ。
化け物に食らわせられた苦痛が過ぎて幻覚を見てるようでもねェし、脳内麻薬でも出過ぎて痛覚が麻痺したでもない。
もしかして……悪魔の実の、能力、か?
混乱した頭がようやくその可能性を見つけ出す。
悪魔の実の能力。あの悪魔の実で得た力が、この状況を生み出しているのか?
幻覚や脳内麻薬じゃねェってんなら、それしか考えられん。
こうなりゃ、一か八かだ。
覚悟を決めて、噛まれている左腕に意識を集中させてみる。
ロイやヒナが昔に言っていた。能力を使いたい時は、使いたいと思う場所に意識を向けるんだと。それを思い出しながら、縋る思いで左腕を睨み据える。
出やがれ、何でもいい、出てきやがれ! 俺の能力!!
ユラリ、と。
白く左腕が霞んだ。血塗れでズタボロな腕の輪郭がぼやけた。
腕が腕で無くなっていき、代わりに腕のあった場所が真っ白に霞み始める。
揺らぎながら広がるそれに一瞬呆気に取られちまう。
霧、か? いや、雲?
違う。揺らぎながら広がっていくそれから、独特の、俺が常日頃から親しんでいる匂いがして、正体を確信する。
これは……この、匂いは、煙。煙草の紫煙、だ。
ギャウンッ、と犬が蹴飛ばされたような悲鳴に、ハッとする。
狼が煙になった俺の腕から口を放して、のた打ち回っていた。
煙の匂いか。刺激の強い匂いは、鼻が利く狼には耐え難てェもんだ。ましてや、至近距離で大量に嗅ぐ羽目になったんだ。
ダメージはさぞデカイんだろう。転がるように飛び退り、俺の煙から逃げようとしている。
巨体が上から退いてすぐ起き上がる。ロイとルフィの方へ走ろうとしているのが目に映った。
「オイ、そっちに行くんじゃねェよ!!」
咄嗟に自由になった右手を伸ばす。
焦るその気持ちのせいか、ボウンッ、と勢いよく右腕も煙に変化しちまった。
見る間にキツイ風に乗り、狼に絡みつく。
無意識に捕まえようと思った瞬間、右腕だった煙から固い毛皮の感触が現れた。
煙のくせに物が掴めるのか。
なんつうご都合主義の塊だ。悪魔の実の能力ってのは、予想以上にデタラメ過ぎるぜ。
だが今はそれがありがてェ。
対抗しようがなかった化け物を、傷一つ負わず抑え込めちまえるんだ。アドバンテージは一気にこっちに傾いた。
軋む身体を全身煙に変えながら立ち上がらせる。煙になっちまえば折れちまった骨に負担を掛けずに済むみてェで楽だ。
「け、ケムリンッ」
真ん丸に目を見開いたルフィが俺を心配そうに見上げていた。
ロイの手をしっかり握りつつ、片手で恐る恐る近くを漂う煙に触ろうとしている。一応この煙が俺だってわかっているみたいだ。
場違いに微笑ましい仕草に、ホッとさせられた。
煙のまま頭を撫でてやる。一瞬だけ、ルフィが身を固くするのを感じた。
「大丈夫だ、すぐ終わる」
こくん、と神妙な顔をして頷くルフィをもう一度撫でてやり、バタバタと暴れる感覚が伝わってくる狼の方へ向き直った。
自分を捕まえた未知の存在に狼狽え悲鳴を上げる奴には、あの嫌味なほどの高慢さや狡猾さは欠片もない。
さっきまで俺たちを一方的に嬲りまくっていた暴君ぶりが嘘のようだった。
「ハッ、ハハハ……ッ」
自然に口角が上がっていく。
相変わらず身体中とんでもねェ激痛が走ってやがるし、グラグラして今にも意識が飛びそうだ。
だってのにこの状況が心底愉快で堪らない。こりゃ、脳内麻薬の出過ぎだな。
「やられっぱなしってのはよ、性に合わねェんだ」
煙の量が、俺の昂ぶりに合わせて増えていく。
苦みの強い紫煙の匂いを、折れた肋骨の悲鳴を無視して肺一杯に吸い込む。
もの凄く、心地よかった。
「覚悟はできてんだろうなァ、犬ッコロ!」
さァ、散々嬲ってくれた礼をさせてもらおうか。