すっかりと太陽が西を向き、薄く夜の気配が漂い出した頃、俺たちはその店に着いた。
あの後俺たち三人は、有無言わさない少佐に急かされるようにして私服に着替えさせられ、強引に七十番台のグローブが集まる方へ引き摺って行かれた。
最初は歓楽街に行くつもりかと思った。七十番台はホテルなどが多い地域として知られるが、夜に営業する綺麗なお姉さんがいるお店も多い。
種類は豊富で、単にお姉さんたちと酒を飲んでお話しして楽しむ店から、お姉さんととっても良いことができる店まであるらしい。ホテル街の方もそのせいか、仲良くなったお姉さんとアフターで泊まって甘い夜を過ごせるようなのもあるのだとか。
嫌なことは酒と女で忘れろってことですね。予想通りの対応、どうもありがとうございました、ってか。
あからさま過ぎてあまりにも王道な解決方法を勧められるのかと思って、少しげんなりした。それは単なる逃げで何の解決にもならない。
しかし少佐はそんな場所には目もくれず、俺たちにそんなことを勧めもしなかった。
歓楽街とは全く別方向へ足を向け、何故か寄り道をするとか言って市場に入って食料品や花を多めに買い込んでいった。そしてわけのわからない俺たちに荷物持ちをさせて、花束片手に鼻歌を歌いながら無法地帯との境界辺りをどんどん歩いていく。
反抗しようものなら覇気付きのデコピンとか膝カックンとかかましてくるから、すでに三人揃ってその意思を放棄している。ほぼヤケッパチ状態で、意味不明な状況や抱えた荷物の重さに溜息を吐くだけだ。
「ハイ、到着~」
そうして歩くこと、買い物を含めて二時間余り。
もう目の前が無法地帯、十番台のグローブの地域だって場所に、少佐の目的地らしい店はあった。
暢気な声で言った少佐は、その店の落ち着いた黒茶の木の扉に手を掛けた。
今日は色んな意味で驚いてばかりな気がする。店を見上げながら、思わず立ち尽くしてしまった。
予想していたような店と全く違う外観に、戸惑いが隠せない。マングローブの根の上にできた少し小さめの島に立つそれは、煉瓦積みの外壁に蔦を絡ませた落ち着いた趣を湛えていたのだ。
ステンドグラスの窓の向こうには暖色の明かりまでチラつき、どうみても綺麗なお姉さんと遊ぶ店じゃないと無言で語っているかのようだ。
扉の側に立て掛けてあるキャンバスに、看板のつもりなのか、店の名前が洒落た字体で書かれていた。
「カフェ・アウィス?」
明らかにそういった店じゃない店名が。
驚きのあまり読み上げた声が間抜けてしまう。カフェ、ここは喫茶店なのだろうか。
揃ってきょとんとしている俺たちに、少佐は面白そうに笑った。
「どうした? とっとと入れ、お前ら」
ここまで来て帰るのもなんだし、駐屯地に帰ったって手持無沙汰になるだけだ。仕方なく扉を開いて店の中に滑り込む少佐の背中に続くことにした。
カランカラン、と軽やかなドアのベルが揺れる。店の中は思った通り、オレンジ色っぽいランプの明かりに満ち、暗褐色の木製の家具でまとめられた室内に暖かな彩りを添えていた。
いかにも喫茶店といった雰囲気だ。
扉の正面に備え付けられたカウンターに、女性が二人いるのに気付く。
碧いウェーブの付いた短髪の女性がカウンターの中にいて、もう一人の黒髪ボブカットの女性はカウンターの席についてカップを手にしている。店主と常連客って感じだね。
どっちの女性も、入ってきた少佐や俺たちに目を向けている。誰かが来るのが意外だったのか、少し目を丸くして小首を傾げる姿が妙に色っぽい人たちだ。
「こんばんは、ヒスイ姐さん」
少佐がひらひらと手を振って笑いかけたら、カウンターの中の女店主さん、ヒスイさんというらしい、は途端に半眼になってしまった。
腰に手を当てて、唇を突き出すようにする。あんまり歓迎していないらしい。
「リーヴィス。今日、定休日なんだけど?」
前髪を物憂げに掻き上げ、きつめの目で少佐をじろりと睨んだ。
相変わらず大人の色香が漂っているけど、なんだかすごく怖い。ビク、となってしまっている俺を他所に、少佐はヘラヘラ笑ってカウンターに近づいていく。
「うん、知ってる」
「じゃ、何しに来たんだい?」
失礼、なんて気取った調子で客の女性に断って少佐は隣のスツールに座ると、ヒスイさんに花束を差し出す。
「姐さんの飯と酒を楽し」
「帰んな」
来訪目的を言い切る前に、少佐は強制的に口を閉じさせられた。
いったん受け取った花束を、ヒスイさんが少佐の顔面に叩き付けたからだ。衝突の衝撃でカウンターの辺りにせっかく買ったカーネーションやガーベラの花が無残に散らばった。
チッ、と舌打ちをしてさっきより冷たい目で少佐を見下ろして、不愉快そうに細い眉を吊り上げる。
「うちはカフェだ。酒場じゃないって、何度言ったらわかるんだい」
「そこをなんとかさ! 姐さんの好きな花も飯の材料も買ってきたんだよ、ね?」
「お黙り、このクソガキ。厚かましいんだよ」
なおも言い募る少佐の花弁を付けた顔を、横から髪を掴んで今度はカウンターに叩き付けた。
痛い、痛い! と悲鳴を上げ始める少佐を、容赦なくグリグリと艶やかで硬そうな一枚板に押し付けている。
あまりの暴挙に、俺も、スモーカーも、ドレークも、声すら出せない。結構強い少佐が一方的にやられているって状況もそうだが、やっているのが細身の女性だってことに、より一層非現実感が湧いてくる。
何者だ、この人。少佐より強いってなんなのだ。
止めに入ったら、少佐と同じ目に合わされる。そんな予感がして三人とも少佐を助けに動かない。
困惑いっぱいで成り行きを見守っていると、少佐とヒスイさんのやり取りを面白そうに見ていた客の女性と目が合った。
ニコッと色っぽく笑いかけられて、どきりと心臓が跳ねる。その様子がおかしかったのか、クスクスと笑われてしまった。
「ねえ、あのボーヤたちは誰かしら?」
白くほっそりとした手のひらの下でジタバタしている少佐を覗き込んで彼女が訊ねる。
ようやく俺たちの存在に気付いたらしい。少佐をカウンターに押し付けたまま、じろりと俺たち三人に目を向けた。
「リーヴィス、あの子たちは何だい?」
ようやくヒスイさんはカウンターから少佐を開放した。ほんのちょっぴり険の取れた口調で訊ねる。
「部下だよ。今日の任務のさ」
カウンターに押し付けられたせいで汚れた眼鏡を拭きつつ、少佐が俺たちを紹介しくれた。
今日の任務、という単語に、ヒスイさんの片眉がピクリと動く。
まじまじと俺たちをもう一度見ると、深く息を吐いた。
「そうならそうと言いなよ、もう……ごめんなさい、シャッキー」
カウンターの女性に視線を移す。申し訳なさそうなヒスイさんに彼女は少し微笑み返した。
カップをソーサーに戻すと、客の女性はスツールから軽やかに腰を上げる。
「気にしないで、ヒスイちゃん。そろそろ帰らなくちゃいけなかったしね。今日はうちの人も帰ってるし、お夕飯作ってあげなくっちゃ」
彼女から千ベリー札を受け取りながら、悪いね、とヒスイさんが謝る。
「また紅茶とケーキ、いただきに来るわ」
「ありがと。次は貴女の好きなシフォンケーキ用意して待ってるよ」
会計を済ませた女性は、扉近くに立ち尽くす俺たちに、ごゆっくり、と愛想の良い笑顔を一つ残して出て行ってしまった。
展開が急すぎて付いて行けなくて、なんだか心許ない感じがする。
どうしたものかとカウンターの方へ顔を向ければ、ヒスイさんは母親が泣いて帰ってきた子供に向けるような笑みを浮かべていた。
「ほら、こっちおいで、ボーヤたち」
ついさっき少佐を抑えつけていた手が、嘘のような優しさで手招きをした。
「ガープ中将の副官だった?」
予想外過ぎるヒスイさんの発言に驚いて、思わず口に付けかけたグラスが止まる。
「そ、ボガードの前任者ってやつだよ」
何でもないことのように言ってのける彼女は、俺たちの驚愕の視線を気にもせずロックアイスを砕いている。
ヒスイさんは、実はガープ中将の副官を務めていた元軍人だったというが、まだ半分くらい信じられない。
いや、油断していたとはいえリーヴィス少佐を片手で抑え込めるくらい強いのは見てわかったぞ?
人は見かけによらないって言うけれど、こんなほっそりした女性があの破天荒を地で往く中将の副官を務めたなんてびっくりじゃないかな。
「何だ姐さんのこと知らなかったのかぁ? ドレーク君はまだしも、お前ら二人は中将の直卒部隊所属だろ」
少佐がウィスキーを手酌しながら、さも意外そうに俺とスモーカーを見た。
「……ボガード大尉の前任者の話なんか、誰からも聞いたことねェんですけど」
不機嫌そうにスモーカーが答える。
同じく俺もヒスイさんらしき人物の話を耳にした記憶はない。誰かが話すこともなかったし、特に知る必要が無かったってものあって自分から聞いたこともなかった。
まあ、大尉は中将の副官の中では二番目に在任期間が長いという話は小耳に挟んだことがあるけれども。
知らんという返事に少佐は不思議そうにしていたが、しばらくして何か思い当ったのかポンと手を打った。
「あ、そっか。中将が隠してんのか、皆気ィ遣って話題にしないのかもな」
中将が隠すか、皆が気を使っている?
なんだそれ。意味が分からない様子で、ドレークが躊躇いがちに訊ねた。
「どういうことです、少佐?」
「いやぁ、中将ってな、三十年近く姐さんを副官にしてたんだけど、その間に三回プロポ、ッぶぎゃッッ!!」
衝撃過ぎる暴露の途中で、またしても少佐は強制的に口を塞がれた。
少佐の脳天めがけて振り下ろした拳はそのままに、ヒスイさんが凄味のある笑顔を浮かべている。
「余計なこと言うんじゃないよ、このメガネザル。アンタたち、今のコレが言いかけた話は忘れてちょうだいな」
アンタッチャブルってやつだな。言われなくともよくわかった。よほど親しくない限り、女性との会話において、年齢バレや男女関係バレとかしそうなネタは好ましくない。
ガクガク頷く俺たちに、よし、と明るく頷いて、ヒスイさんは備え付けられた棚の奥から酒瓶を取り出した。
良く見かけるラベルの貼られた焼酎の瓶から、砕いた氷を放り込んだグラスへ注いで一口飲み、話しを続ける。
「ま、十年前に怪我のせいで退役して、それからこっちは海軍とあんまり関係ない暮らしをしてたんだ。ボーヤたちがアタシのこと知らなくても無理ないさ」
「十年前、ですか」
海賊王が処刑されたころだな。
俺もスモーカーもドレークもまだ子供で故郷にいた頃だろうし、当時の本部のことなんかほぼ知れる立場になかった時期だ。
誰かが教えてくれなきゃ知らなくたって当たり前ってとこか。
あれ、でもそれなら少佐と同じ時期に軍にいなかったことにならないか?
少佐は今年で確か二十九歳。そこから逆算すると任官したのは九年前のはずだ。十年前に退役したヒスイさんとは一年違いですれ違っている。
士官候補生の時に知り合ったと考えられなくもない。でも士官候補生と現役軍人って、能力者でもない限り親族か教官くらいにしか接点がないものなのだが。
一体どういったわけで少佐はヒスイさんを知っていて、親しくしているのだろう。
「リーヴィスと知り合ったのは、海兵辞めてから二年ほどした頃だったかね」
そんな疑問に気付いたのか、彼女はちらっと少佐の方を見る。
「天竜人の護衛をさせられてしょげてたアンタとボガードを拾ってやったのが縁だったよな、リーヴィス?」
「そーでしたかねー……」
一撃を食らった頭を撫でていた少佐は視線に気づくと、バツが悪そうにそっぽを向いて手元のグラスを煽った。
子供っぽいその仕草を面白そうに眺め、ヒスイさんは言葉を繋ぐ。
「今日のボーヤたちみたいに、そりゃもう酷い顔してねえ。喧嘩して酒場から蹴り出されて、路地裏に蹲って泣いてるとこを……」
「すんません、生意気言ってごめんなさい、許して姐さん」
もうそれ以上言わないでと、少佐はカウンターに手を付いてヒスイさんに謝り出した。
よっぽど恥ずかしくて思い出したくない過去らしい。珍しく顔を少し赤くして焦った顔をしている。こんな少佐、初めて見たかもしれない。
今日の俺たちと同じように、少佐も天竜人の護衛をして落ち込んだことがあるなんて意外な気がする。
だってリーヴィス少佐が、だ。いつも飄々とシニカルな笑みを浮かべていて、最近じゃボルサリーノ中将に似た底知れない不気味さまで身に着け始めたあの少佐が、天竜人の御乱行に心を掻き乱されたことがあるって、想像できない。
「天竜人関連の任務はね、コイツですら一度はヘコまされるようなもんなのさ。だからボーヤたち、深く悩まないでおきな」
ヒスイさんが諭すように言葉を続けた。
「今日のオフェリア姉妹の御乱行は聞いたよ……酷いもんを間近で見たのに、よく耐えたもんだ」
アンタたちえらいよ、と赤みがかった茶色の目が、俺たちを気遣うように細められる。
褒められているんだろうが、どうにも嬉しくない。
正義を背負っているくせに、俺は明らかな悪を保身のために見逃し、親友たちにもそれを強要した。
褒められるようなことなんて、何一つしてないんだと自然に俯いてしまう。
俺の言うことを聞いたばかりに悪を見逃させられたスモーカーもドレークも、それぞれに暗い目になってしまったのが、ちらっと見える。本当ならそんな顔する必要はなかったのに、とすごく申し訳ない気持ちが湧いてきた。
「今日の任務は、軍の矛盾に耐えるための訓練なんだ」
「軍の、矛盾」
「知らんぷりしなきゃなんない悪もあるってこと」
白い喉を逸らせて焼酎を煽ってそう言ったヒスイさんを見るスモーカーとドレークの目が、非難がましい色を浮かべる。
それに気づいた彼女は、口元を手の甲で拭いながらニヤリと唇の端を持ち上げて見せた。
「白いボーヤとオレンジのボーヤは、納得できないみたいだね?」
「……ったりめェだろ」
唸るように答えるスモーカーに、ヒスイさんも少佐も眩しいものを見るような目を向けて苦く笑った。
「軍に夢を見過ぎだな、スモーカー君もドレーク君も。人間が寄り集まって掲げたもんが、混じりっ気なしの白なはずないんだよ」
「どういう意味ですか、少佐ッ。我々が掲げる正義が正しくないとおっしゃるのですか!?」
溜め息交じりの少佐の言葉にスモーカーが反応する前に、ドレークが噛みついた。スツールから立ち上がって、強くカウンターテーブルを殴りつけ、息を荒くしている。
いつだって冷静沈着な奴なのに、よっぽど少佐の言うことが腹立たしかったのだろう。
「白黒はっきりしたもんなんか、この世にゃほとんどないんだよ」
なるほど、といきり立つドレークを他所に俺は納得してしまった。
正義も同じ。少佐の言う通り、白黒はっきりさせられているようで絶対できないものだ。完全無欠に正しいことはないし、正しいからっていつでもその通りにできるもんでもないっていうわけか。
「正しくないことも、その方がより都合が良かったり、正すともっと良くないことが起きったりすることもある。だからあえて見逃している場合もある、そういうことですか」
ぽつりと呟くと、四人分の視線が俺に集中した。
おや、とでもいうような少佐の視線と、面白そうなヒスイさんの視線。それから、何を言い出すんだこいつというスモーカーとドレークの視線。
「黒いボーヤは物わかりが良いね。そういうこと。天竜人なんかが良い例だな」
ヒスイさんの言葉に、苦笑いを返しておく。
物わかりが良いって言うか、日本にいた時から引き継いだ経験値で下駄を履いているだけだ。
俺の精神状態は交友関係なんかの影響で二十代くらいのままだけど、日本での社会人生活とかで培った経験値はそれなりに残っている。世間や組織の面倒な論理も多少経験があるから、そういう擦れたことを考えられるだけだ。
計算できるその理性に若い感情が追い付かなくて、息苦しくなることもままあるが。
「そうそう、天竜人な。お前ら、なんであれだけ好き勝手してあいつらは許されてると思う?」
唐突に少佐が振ってきて、ドキリとする。天竜人が好き勝手しまくれる理由か。
何となく俺は想像できているけど、スモーカーもドレークもピンときてないみたいだ。難しい顔をして首を傾げている。
「世界政府を作った、王たちの末裔だからでは……」
戸惑いを隠せないドレークの答えに、ヒスイさんの細く長い指が左右に揺らされた。
「ハズレ。血筋だけなら、とっくの昔に断頭台の露と消えてるよ」
確かに高貴な血筋というだけであれだけ好き勝手していれば、心ある政府内部なんかの人間のクーデターや、民衆による革命が起きて滅ぼされていてもおかしくはない。
世界政府ができて八百年だったか? あっちの世界の中国とかの歴代王朝の寿命より長いぞ。それだけ長ければ政府という表看板は同じでも、どこかの時代で天竜人が排除されて消え去ってしまう可能性の方が大きい。
「じゃあ、何故、あいつらは滅ぼされないんスか?」
「さて、な。でも見当は付くぜ」
怪訝そうな表情でスモーカーが訊ねる。
姐さんの受け売りだけどな、と前置きをして少佐は手元のグラスの中に目を向けながら答えを口にした。
「多分天竜人って奴らは、政府が隠しておきたい、もしくは都合が悪い秘密でも山のように握ってる可能性がある」
ドレークにギョッとした顔を向けられ、少佐が予想通りというような笑みを片頬に浮かべる。
「本当なら政府はそんな爆弾持ちにいてほしくないし、口封じしてしまいたいんだろう。だが、あいつらは曲がりなりにも政府の創始者の血筋。それを消し去ることは、政府が自身を否定することにも繋がりかねない。必ず混乱が起きる、それも大規模な」
「だから品良く言えば、敬して遠ざけている。悪く言えば……暗愚化して飼殺している」
しん、と店内が静まり返る。少佐とヒスイさん以外の人間の顔が少し蒼くなって見えた。口にしておいてなんだけど有り得そうで俺も怖くなってきて、顔が強張る気がした。
天竜人は先祖伝来の古代兵器とか、政府創設の重要な闇とかの秘密を盾にして、異常な治外法権を得ているんだろうとは何となく想像していた。
でもそれなら、あいつらはそうしたものを武器に使っていてもおかしくはないか?
政府内のどの人間より強力なアドバンテージを持っているのだ。それを武器に要職に就いて、政治ゲームを楽しむような連中がいても不思議じゃない。
だというのに大半の天竜人は本能のままに欲望を満たして享楽的に生きる、いわゆる我侭なバカ殿様タイプの奴がほとんど。
いくら経年劣化といっても、天竜人全体がそうなるなんて違和感がある。日本の幕末の頃の大名にしても、フランスの革命の頃の貴族にしても、バカ殿様がいる一方で才長けて活躍した人間もいたのだ。天竜人にだってそういった奴らがいてもおかしくない、というかいないのは変だ。
ではそんな奴らがいない理由は、一体何か。
「政府は天竜人に政治に関わってほしくないが、排除はできない。穏便に済ませたきゃボーヤの言う通りになる、かもね」
天竜人が政治経済の場で活躍するのを望まない人間が、政府内に大勢いる。それが優秀な天竜人がいない理由の一つなのだろう。
真っ当に血筋と秘密を盾と武器に政治や経済を弄ばれないように、と考えているのかもしれない。もっと俗っぽく自分たちより有利な立場で権力を揮う奴にいてほしくない、のかもしれない。
真相はどうなのかわからないが、そうした政府内の意向が働いている可能性は低くないと思う。
差別意識を植え付けることで一般の人間と隔離して、刹那的で享楽的になるよう恩恵を与えて贅沢をさせ、政府への反感や秘密を活用させる意思と知恵を奪って管理している。
だからああいった天竜人が出来上がるって寸法か。
「俺たち海軍にしても、政府の一機関。政府に不利なことが起き、倒れられちゃ困るからこそ、正義を曲げても協力してるってとこだ」
デカイ組織と言っても、所詮海軍は政府の一部だ。
政府という幹にダメージを与えられたら、枝である俺たち海軍も困る。だから、天竜人の悪に目を瞑って黙って守る。
目を瞑らなきゃならないのは、組織の自衛のため。海軍や海軍の後ろ盾たる政府が倒れてしまえば、それすらもできない。一つの悪に目を瞑ることで組織が守れるなら、それ以外の悪を駆逐して正義を貫ければそれでよしとする。
今の海軍は、そうして小を見捨てて大を守ることを取っているということだ。
「まだ納得できない?」
黙り込んでしまった俺たちの鼓膜を、ヒスイさんの諭すような声が揺らす。
ヒスイさんの仮説が正しいのならば、組織として、海軍がやっていることは間違っていないと思う。
誰かを守るには、まず自分を守り切る必要がある。それができなければ共倒れだ。何もかも為せないまま終わることになる。
天竜人の悪を見逃すことで組織を守って救える人々は、天竜人の被害者と比べると途方もなく多いはず。全体のごく少数が犠牲になっても、それ以外を救えるならそちらの方が効率的だ。
海軍のやっていることは、少なくとも大勢の人のためのことだ。
「それでもいいんだ。今の話も所詮は私が立てた仮説にすぎない。アンタたちが納得いかなくても仕方ないよ」
ヒスイさんの言葉が、苦い沈黙に浸み込む。目の前のグラスの中の氷が解けて崩れ、澄んだ音を響かせた。
納得できないわけじゃない。そんなこと理性はとっくに納得している。
ただ、感情が追い付かないだけだ。俺も、多分スモーカーも、ドレークも。
見えない大勢の人間が救えるとわかっても、目の前で壊されたあの家族の姿が頭を離れない。
ああしたごく僅かな犠牲者たちも救いたい。救えたなら。すくうべきじゃないのか。
そう、考えて気持ちが沈みこんでしまう。
「ただな、これから階級が上がる度にそういう見逃さなきゃならない悪は増えていくんだ。増える度にこうやって落ち込んで悩む気かい?」
顔を上げると、ヒスイさんも少佐も目の奥に痛そうな色を湛えていた。
「軍で壊れずに生きていこうってんなら、こうやって理屈付けて自分の中に落とし込むしかないんだ。嫌なもんだが、これが処世術ってやつだね」
きっとこの人たちも政府や軍の矛盾や闇を見て、俺たちと同じ思いをしてきたのだろう。最初から割り切れるものじゃない。きっとどっちも迷って悩んで海兵として駆け抜けてきた。
こんなところで俺たち立ち止まれないことを知っているから、立ち止まらせたくないから、彼らは俺たちにこうして諭している。
処世術、か。
正義のための処世術。海軍で生きる俺たちが必ず身に着けるべきもの。
嫌なものだな。正義と反する処世術なんかできれば身にも付けたくないが、身に付けなければ正義は貫けない。
正義とはもっとキラキラしたものだと思っていた。歪んだ部分も納得できないも部分もあるのだろうけど、根幹は純粋なものだと心のどこかが信じていた。
でも、現実はもっと打算的で、こんなにも残酷なものだった。
正義、か。何度も口にしてきたけれど、本当の意味でなんなのか俺たちはわかっていなかったんだろうか。
正しいこと、弱者を悪から守ること、海賊を始めとした悪を滅ぼすこと。
一面的な部分ばかり見過ぎていた、ということなのだろうか。
そのせいだろうか。勝手に正義の裏の顔を知らされたことで、胸に何かわだかまったような気がした。