扉を叩く音に、ペンを握る手を止める。
壁に掛かった時計を見れば、いつの間にか夜も更けとった。いかん、書類整理に夢中になり過ぎた。どおりで目も乾いてきよったはずだ。
大将に昇格してからというもの、書類仕事は格段に増えた。中将の地位におった時より、権限も管轄も増えたのだ。当たり前じゃろう。
その上、必ず参加せねばならん会議や式典も一緒になって増えた。その合間を縫うように書類を裁くものの、どうしても納得いく程度に終わるのは定時を過ぎる。
センゴクさんやらに適度に肩の力を抜け、と言われたがそれもあまりしとうはない。それをすればだらけたクザンと同じになりそうじゃと思ってしまう。上に立つ者としての示しがつかん気もする。
とはいえ、今日はやり過ぎてしもうたか。
「入れ」
使い過ぎて疲れた目頭を押さえつつ、扉の向こうの奴へ入室を許可してやる。
ドアノブが回り、扉がゆっくりと開く。その隙間からひょっこりと覗いた灰色の頭に、少しばかり気が抜けた。
「サカズキさん」
「シラヌイか」
名を呼ばれてシラヌイは、緩そうな顔に笑みを乗せた。
シャボンディ諸島の任務に行かせたのに、なぜここにと疑問が浮かびかける。しかしすぐに、こんな時間じゃと思い直す。たしか午後三時に任務終了予定だ、その後真っ直ぐ帰ったならマリンフォードにおってもおかしくはない時間じゃろう。
嬉しそうにシラヌイは中へ滑り込むと、わしの前で敬礼をした。
「ただいま帰りました」
いまだに様にならんそれに苦く笑い答礼をしてやる。ますます懐っこい顔をしよった。
まるで犬コロじゃのう。二つ名ではわしの方が犬と呼ばれとるが、性質で言えばこいつの方がよっぽど犬だと思う。
「よう帰った。無事終わったようで何よりじゃ」
「はい。今日はこっちに死んじゃう人が誰も出なくてよかったです」
ソファに座るようシラヌイに言ってペンを置く。
仕事を明日に繰り越すのは好かんが、まあ今日ぐらいはええか。シラヌイの顔を見て何とはなしにそう思った。
書類を片付けつつ話しながら横目で見ると、気を回したのかシラヌイは茶を入れようと給湯スペースに立っとった。
「湯呑みは気ィ付けて扱うんじゃぞ、沸いた湯で火傷せんようにな」
やらかしそうなことは先に全部注意しておく。そうしちゃれば、シラヌイの失敗が確実に減る。二十年近く掛け、ようやくたどり着いた失敗対策だ。
はーい、と暢気な返事をしつつも真剣な様子で薬缶の湯をそろそろ急須に注ぐ姿を確認し、纏めた未決済の書類を引出しに放り込んで鍵を掛ける。
なんのかんのと後片付けを終えて顔を上げると、失敗もなく茶を入れ終えられたらしいシラヌイが、ニコニコとソファとセットのローテーブルに湯呑みを置いた。
「サカズキさん、お茶が入りました!」
「ご苦労、ついでにそこの戸棚から好きな菓子を出してもええぞ」
「はいっ」
嬉しそうに戸棚を開けて茶菓子を物色するシラヌイに少し目を細める。
しばらく戸棚の前で悩んで、ようやく箱を一つを抱えてソファに戻ってきた。
やはりこの前おつるさんにもろうた、なんたらっちゅう店のどら焼きか。これにはシラヌイの好きな甘栗入りじゃし、多分選ぶとは思ってはいたが、予想通り過ぎて笑えてしまう。
「なんで笑うんです?」
「すまんすまん、気にせんでええから早う食え」
首を傾げる姿が本当に犬のようで余計に笑えた。誤魔化すように食うよう言っちゃると、いそいそと箱を開けてどら焼きを取り出し、美味そうに頬張りおる。
わしの前にも一つ差し出そうとするのを止めて、茶を飲む。わしは甘いのが好かん。
もしゃもしゃとどら焼きを頬張り、茶を啜るシラヌイを眺める。
単純すぎる奴じゃと思うが、そのくらいがわかりやすいしこっちも気楽でええ。小難しいことを考えて複雑な欲を抱える連中と対するように、常に気ィを張らんで済む。
「シラヌイ、奇術師の坊主には邪魔されんと、ロイ少尉を見て来られたか?」
どら焼きを一つ食べ終えたのを見計らって、話を切り出す。
シラヌイはじっとわしを見つめながら、もぐもぐと口の中の物を咀嚼しとる。茶と一緒に喉へ落とし込むと、にっこりと笑う。
「リーヴィス少佐ですか? 意地悪しないでくれましたよ、そうしろってガープさんたちに言われていたみたいです」
今回の任務にシラヌイを送り出した最大の目的、それはロイ少尉の偵察じゃ。
士官学校卒業時の勧誘を断られてから二年と少し。あん時もクザンと勧誘に関してやり過ぎてしまい、結果ロイ少尉はどちらの派閥の元にも配属されなかった。
少尉の初配属先は、英雄ガープの直卒部隊。
センゴクさんから、双方頭が冷えるまで手出し無用、と言外に言い渡されたようなもんじゃった。
そのためじゃろう。ガープ中将はこの二年と少し、わしとクザン、どちらの派閥からも少尉に距離を取らせ、極力目の届く範囲に置き続けた。客観的にわしらを見せてどちらを取るか教育しとったようだ。
しかしごくごく最近じゃが、中将は少尉を外に出し始めた。例えばどちらかの派閥との合同任務に参加させたりしとる。
任務に就かせつつ、双方の派閥の人間の指揮下に一時的に入れたり、話しをさせたりし出した。まあ、中将の副官やボルサリーノが飼っとる奇術師とかいう奴を挟んでじゃが。
そろそろ、少尉を転属させる時期に来ている。この状況を皆そう見ている。
おそらく今回の転属先の決定権は人事課にない。恨みっこなしにするため、少尉の意志に委ねられとるに違いない。
中将はそのために少尉にどちらが良いか選ばせる判断材料を用意してやるため、外に出し始めたのだと見ていいはずじゃった。
好機とばかりにどちらも一斉に用意された機会に飛びついた。
今回の少尉の転属で四年に渡る争いの一つに決着が着く、大型新人の一角を派閥に引き込める。そのために本人と接触して売り込もうと、またぞろ大きな騒ぎになっとるんじゃ。
「ならよかったのう。で、お前はどう見た?」
シャボンディ諸島の任務も、そうした機会の一つじゃった。うちからも行きたがる者が多かったが、わしが強く推してシラヌイを捻じ込んだ。
少尉が今どう育ったのか。それが知りたくて。
クザンの方から推されたモモンガ大佐に功績で張れる奴を選ぶ必要があったこともあるが、わしの意が通じて少尉に警戒されん人間と考えた時シラヌイしか思いつかんかった。
じゃから、その気のまったくなかったシラヌイに言い聞かせて任務に出した。戦場以外ではからきしの奴で少々心配はしたが、無事に目的は果たして来よったようじゃ。
うーん、と考える素振りを見せたシラヌイは、すぐに一つ頷くと一言で答えた。
「良い子ですねえ」
簡潔だが漠然とした返答。他に言うことはないのかと目で促すと、もう一口茶に口を付けてからのんびりとした口調で言葉を続けた。
「士官学校の評価にあったように、とっても真面目で、仲間思いですね。命令に忠実で、比較的柔軟な思考をできる子でした。果敢ではないけど、もう繊細さや臆病さはあまりないようです。サカズキさんが気にしていた繊細さは矯正済みで、臆病さが自制心や冷静沈着さに変わりつつある、ってところかな?」
「なるほど、成長はしちょるということじゃな」
気に掛けていたロイ少尉の繊細さと臆病さは、どうやら軍務に就くうちに良い方向へ昇華されたらしい。
少尉が士官学校ん時にボルサリーノが修練がてら海賊船を攻撃させた際、過剰なほど精神的に落ち込んだという。初めての殺人行為だったそうじゃが、それを差し引いても酷い落ち込みようだったそうじゃ。
軍人にするには少々心が弱すぎるんじゃあないんか、それで軍務に耐えきれるんかと気にしとったが、克服したのであればもう問題なさそうじゃのう。
「自主練してるとこ見学してきましたけど、能力の方も実戦に馴染んで性能も上がってるみたいですよ」
「そうけ、ならば上々じゃのう」
能力の方も噂通りより強力になっとるのか。
昔も大砲数門分の威力は確実と言われておったが、それが実戦を経験してさらに洗練された今、どれだけの威力があるんじゃろうか。
少尉が戦場で力を揮うところを早う見てみたいし、力を自分の下で揮わせてもみたいもんじゃのう。
ああそれから、と思い出したようにシラヌイは付け加える。
「僕としては、ロイ少尉には、計略を叩き込んだ方が良いと思います」
「ほう?」
少々意外な提案に片眉を上げる。
あれだけの大火力があるというのに後方で参謀として使えと?
シラヌイにしてはおかしなことを言うのう。戦のことに関して的外れなことは言わんはずじゃが。
わしの様子に気づいたのか、シラヌイは困ったように眉を八の字に時に下げて指先で頬を掻いた。
「彼は頭もそう悪くないし、指揮能力も中々なんですよ。みんなが考えてるみたいに単なる機動性に富んだ大砲扱いをしたんじゃ、宝の持ち腐れになるかなぁって」
「言われるまま戦う兵ではのうて、自分の能力を最大限発揮できる状態を用意して効率的に戦える指揮官に育てた方がええ。そう言いたいんか?」
わしの言葉に、シラヌイが笑みをいっそう明るくしてこっくりと頷く。意図したところが伝わってよほど嬉しかったのじゃろう。
なるほどのう。あの大火力を如何に扱うか考えるあまり、少尉にどうそれを使わせるかを考えとらんかったかもしれん。
少尉は物言わん大砲じゃない。れっきとした人間じゃ。儂らが何かせんでも、自ら思考もすれば動きもする。
ならば、自分で自らの能力を有効に使える場を作り出せるように育てた方が得。戦場を操り兵を指揮できる指揮官に育てられれば、その能力も相まって挙げる戦果は誰かに使われるより大きくできるかもしれん。
幸い少尉は阿呆でも馬鹿でもないと聞く。むしろ頭は比較的回る方らしい。適性がないならともかく、ありそうならばそちらの方が有益か。
「ロイ少尉にそうなってもらえれば、うちは優秀な指揮官と戦略兵器を両方手に入れられますよ」
そう言いつつ何故か少しだけ口を尖らせたシラヌイは、ずいぶん減ったわしと自分の湯呑みに茶を注ぎ直して不満そうに呟く。
「それから、うちの仲間って前に出たがる人ばっかりで、僕みたいなタイプ少ないですし。もう少し後ろでの仕事をやってくれる子、いたら楽なのになって思ってたとこですから……」
その言葉に、思わずわしも溜め息を零してしまった。
ああ、そうじゃった。うちには参謀として後方で図面を引くのや後方支援をするのを厭うもんが多い。
元から戦場の、それも最前線から這い上がってきたもんが多いせいじゃろうか。戦場を掛けて敵と直接対峙し正義の鉄槌を揮うことに重点を置き過ぎ、仲間全体に後ろより前へ出ることを尊ぶ傾向にある。
それはそれでええ。臆病風に吹かれたり、決断の時にウダウダして機を逃すより、よっぽどええと思う。
だがそれをするにしても、参謀や後方支援の仕事抜きでは成果はいまいちになる。やはり事前に緻密な策や補給計画を仕込んでおいた方が、格段に効果は上がる。
参謀や後方支援の腕っぷしより頭を使う仕事の大切さは、皆一応わかってはいる。じゃが、そうしたもんが得手ではない者や、できてもやりたがらない者ばかりなのも事実。
今うちが集めるべきなのは、シラヌイのような参謀ができる人間や後方支援ができる人間じゃった。
「と、言うこともありますし。だから、サカズキさん」
仕切り直すようにのほほんとシラヌイが明るい声を上げる。
「ロイ少尉、僕にくださいね。僕のところで勉強させてあげましょう?」
上目使い気味にわしを見上げるその様は、まるで玩具を強請る子供のようじゃった。垂れがちの目の中に期待がキラキラとしとる。
「フ、それが一番言いたかったようじゃのう?」
「だって早くサカズキさんにお願いしないと、クザンさんのとこの人たちや、ドーベルマンくんたちに取られちゃうかもって」
それは嫌だ、とシラヌイは年甲斐もなく頬を膨らませてどら焼きをもう一つ頬張った。
我慢できなくなって吹き出してしまった。やはり単純すぎる、というか子供じみとるのう、こいつは。
戦場で見せる顔との差があり過ぎて、その差を面白いと思う。
天才とはえてして子供じみた生き物じゃと言うが、シラヌイを見とるとそれようわかる気がする。
「まだ少尉がうちに来ると決まっちょらんぞ?」
「でも僕はロイ少尉が良いんです。だってサカズキさんの欲しい子だし、僕に優しくしてくれるし」
「ほう」
ロイ少尉が何の弾みかシラヌイに世話を焼いとる。そういう話は確かに上がってきておった。
こいつか何かドジを踏む度に少尉が居合わせ、見捨てられずに手を貸す内に懐かれて迷惑しとるようじゃと。
どうにかせんと少尉がうちを厭う原因になりゃあせんかと報告してきた奴らは心配したが、どうやらそうでもないんかもしれん。
シラヌイの主観の話ではあるが、どうやら少尉は絆されとるらしいことが透けて見える。叱りながらも励ましたり、面倒くさがってもちゃんと心配しとる。
明らかにシラヌイを嫌ろうてはおらん。少尉本人がお人よしというのもあるんじゃろう。それに加えて、こいつの何故だか憎めんところ、捨て置けんところに見事に引っ掛かりおったと見える。
そういえばシラヌイを支える人間も、必要じゃったな。わしも階級が上がり過ぎて、昔のように構っちゃれんことも多い。
シラヌイは戦場以外では出来があまり良い方ではない、失敗の多い奴じゃ。今後はそうした失敗をフォローしてくれる人間が、わし以外にももう少し要る。
もうこいつも大佐。もう目の前に准将への昇進が待ち構えとる。ついに将官になってしまう。今まで以上に他から粗探しをされ、わしの庇護があっても失敗はあまり許されなくなってくる。
わしのためにもここで沈んでもらっては困る。シラヌイの戦場における能力は日常の失敗を凌駕する価値がある。側に置き続けたい、置き続けるべきじゃと思わせるだけの。
だからこそシラヌイをフォローして守る存在がいる。尻拭い係、と意地の悪い言い方もできるが、そういう部下が必要じゃ。
ロイ少尉にその立場が担えそうならば、それはそれでいいかもしれん。
ちょうどガープ中将とその副官のような関係を、シラヌイと持たせられればしめたもんじゃな。
「だからサカズキさん、ロイ少尉が僕のところに来るようにしてくださいね」
念押しするように身を乗り出してくるシラヌイにもう一つ吹き出す。
「わかった、わかった。そんなら次の合同任務もお前が行って、少尉を説得してきたらええ」
「はい!」
元気よく返事をして楽しみだとニコニコしている愛弟子を見て、もう冷めてしもうた茶を飲み干す。
喉も潤ったし、そろそろ帰るかと立ち上がる。
「さて、シラヌイ。もうお前も仕事は終わっちょるな?」
「はい、もうないですけど」
きょとんと座ったまま見上げてくる黒い目が忠犬のように純真じゃ。
「ほんなら、夕飯でも食いに行くか」
「やった! サカズキさんと夕飯に行くの、久しぶりですよね。嬉しいなあ」
夕飯にはしゃぐのに口の端を歪めたまま、くしゃくしゃとした灰色の髪に手を置いて撫ぜる。さらに嬉しげにその目が細まった。
「今日はご苦労じゃったのう。ようやった」
途端にシラヌイが満面の笑みを浮かべて見上げてくる。
褒められて喜ぶその様は、昔と寸分変わらんかった。