肉を裂く、鈍い音がした。
スローモーションでドレークが、仰向けに倒れてくる。
身体が勝手に動いて、ドレークが床に打ち付けられる前に、受け止めた。
俺の視界いっぱいに、真紅の血が、飛び散る。
ドレークは胸から、顔から、見飽きるほど見てきた色で染まっていた。
「ドレ……!」
息と一緒に詰まった呼び掛けに、返事はない。
微かに、白く染まりつつある唇が動いただけ。それだけ。
「あらあらぁ、海兵もたわいないねェ?」
頭上に降りかかる耳障りな雑音が、廊下に響く。
「本部海兵だってのに、簡単に死ぬんだ? ちょぉっと引っ掻かれたくらいで? ねェ?」
うるさい。雑音が、思考が白くする。
止めろ、止めろ、今は止めろ。自分に言い聞かせるけれども、雑音は止まらない。
「キャハハッ、とんだ雑魚だね!!」
頭の奥が、冷たく焼ける色を見た気がする。
腕が上がる。後ろでヒナが叫ぶ。スモーカーに腕を掴まれるより、俺は早かった。
高笑いする女海賊に、真朱の焔を、躍らせた。
嘲笑が悲鳴に。そして断末魔に変わるのに、さして時間は必要なかった。
当たり前だ。手加減など放棄している。死ねない程度に焼いておくつもりだったが、あの女、最後の一言が余計だった。
ああ、唇がベタついてきた。良い具合に焼き上がっている。もう雑音もない。
ガープ中将たちからの叱責は決まったのも同然だが、まったく後悔はない。
「ろ、い……」
朱の中で大人しくなった炭の塊を見ていたら、袖を引かれた。
ドレークが俺を見上げていた。
「すまん、私の不注意で、酷い目に遭わせて」
「ちが……お、れ、また、おまえの」
「傷に触る、もう喋るな」
「ろ、い」
「すまん、ドレーク、すまんっ」
俺の判断ミスで傷付いたドレークに、申しわけなさが込み上げる。
必死で謝りながら、ヒナの手も借りてドレークに応急処置を施していく。
ドレークの碧い眼が、俺に向いている。
その色合いに自分の未熟さを突き付けられている気がして、胸が苦しくなる。
「……私が至らないばかりに、すまん」
辛くてドレークと目を合わせられないけど、後悔と申しわけなさを込めて謝る。
ドレークが意識を失って。ヒナにその場を任せて病院船に向かって。医者にドレークを預けるまで。
俺は、ずっと、ずっと謝り続けた。
□□□□□□□
気が付くと、目の前には真っ暗な海が広がっていた。
だいぶ長い時間が過ぎていたらしい。銜えていた煙草はいつの間にやら揉み消してあり、紙コップのコーヒーは冷めきっていた。
妙に喉が渇く。口でも開けっぱなしにしていたんだろうか。俺らしくねぇと思いつつ冷めたコーヒーを含む。
とたんに酸味と温さが口に広がった。海軍本部名物と言われるほど不味いコーヒーが、さらに飲む気が失せる液体になり果てている。
泥水を飲んだ方がマシだと思わされる味だ。こんなことならロイのティーパックをちょろまかせばよかった。
コーヒーは止めにして、煙草を吸うことにする。
ポケットからひしゃげた安煙草のソフトケースを出して一本だけ取る。誕生日にヒナから贈られたジッポで火を点した。
美味くはないが、ニコチンは肺に沁み渡る。まあ満足だ。吐き出した煙が潮風に乗って流れるのを目で追う。
暗い夜空にぽっかり浮かんだ満月が嫌味なほど明るい。星の小さな光を塗り潰し燦然と輝いている。よく晴れているせいだろうか。
名月というやつだが、生憎今はそれを楽しむような気分ではない。
どうしようもなく胸の内がざわついている。ドレークが目の前で負傷した。たったそれだけで。
任務の終盤、ロイが任されていた血浴のマリー捕縛を手伝う中でのことだった。
捕り漏らしてしまったマリーに、ドレークは俺やロイ、ヒナの目の前でやられた。
動物系能力者の刃物のように鋭い鉤爪を容赦なく見舞われ、血塗れになって廊下に沈んだ。
一瞬、本当に一瞬の出来事だった。ドレークが倒れるさまがスローモーションで見えたほどだ。手も足も出せなかった。
鉤爪はドレークの胸を大きく裂き、白いコートやスーツを真っ赤に染めかえた。言うまでもなく出血多量。
ロイが間髪入れずにマリーを焼き殺した後、急いで運んだこの病院船の医者共もどこか険しい顔をしていた。
万が一を考えろ。医者の憐れむような忠告と、ドレークを乗せて遠ざかるスレッチャー。あの瞬間が目に焼き付いて離れなくなってしまっている。
士官学校を卒業して二年。俺たちの同期もちらほらと殉職している。
命を張り続けるのが軍人だ。俺たちはいつだって薄い氷の上を歩いているようなもの。だからいちいち気にしていられない。
それは理解している。でも、ここまで近しい奴の殉職を目の当たりにするかもしれない機会など俺には初めてだった。
正直に言う。こんな無力感も後悔も二度と味わいたくない。
俺たち四人が戦場で逝くのなら、自分が誰よりも先に逝ってしまいたいと考えてしまうほど苦い味がする。
耐えがたい苦痛だ。俺らしくもなく逃げ出したくなってしまう。
仲間の喪失は、海兵として生きる辛さの代名詞。
誰か年嵩の海兵が嘯いた言葉が過ぎった。
他人事だった言葉の意味が、今は身に染みた。
「スモーカーくん、ここにいたの」
背後で船室のドアが開いた。首を巡らせると、ヒナが息を弾ませていた。
ドレークの容体が急変したかと不安を覚えたがヒナの表情は明るい。
「ドレークくんが目を覚ましたわ」
背負わされた重い石が取り払われ多様な安堵が体中に満ちた。
知らず深く息を吐くと、ヒナにくすりと笑われた。いつものように突っかかる気は起きなかった。
「ようやくお目覚めか、あの野郎……」
「もう面会できるみたいよ、行く?」
「おう」
煙草を携帯灰皿で揉み消して船内に戻る。
「思ったより意識回復が早かったな」
「ドレークくんがあの時、反射的に身を引いたのが良かったみたいよ」
なるほど。頭部への直撃を免れたから脳へのダメージは防げた。だから出血多量でもまだ回復は早かったのか。
突発的な事態で瞬時に回避行動を取れるようになるには相当な訓練が必要だ。ドレークの奴、流石学年主席だけはある。運だけでなく用意まで良い。
「不幸中の幸いってか」
「ええ……それにしてもよかった、ヒナ安心」
並んで歩き出したヒナの顔には一つの憂いもない。見た目に反してこういうところは簡単なやつ。ほんの四時間前まで泣きそうになっていたのが嘘みたいだ。
航海中でも艶やかな髪を撫でてみる。ヒナは擽ったそうに身を捩って「何よ、気持ち悪い」と口を尖らせた。いつも通りのヒナだと確認するには十分だった。
病院船も兼ねた船の船室は無駄に広い。ドレークは最上階の病室にいるので、甲板からは遠かった。
ヒナとだべりながら階段を昇っていく。もうドレークの命の心配がないだけで足取りが軽くなっていた。
「ヒナ、スモーカー」
「あら、ロイくん」
顔を上げると、ちょうど階段の上にロイがいた。先にドレークの元へ行っていたのだろう。
ドレークを運んだ時の自分が殺されたみたいな顔色は元に戻っていた。
表情を緩め、小走りに俺たちの前まで降りてくる。
「何だ、お前、先に行ってたのか」
「ああ、説教食らっていたらな、連絡が入ったんだ」
屁理屈こねて切り上げてもらったと笑う顔には疲労が濃いが柔らかい。
こいつの心配もないな。もう一つ肩が楽になった気がした。
「ドレークくんとは話せた?」
「あー……うん」
「どうした?」
僅かな言葉の濁りが、引っ掛かる。海兵にしては繊細な作りの顔を見ると黒い目に睫毛の影が掛かっていた。
何かあった時の表情だ。俺の視線に気づいたロイは首を軽く横に振った。
頬を指先で撫ぜて、いや、まぁその、なんて誤魔化すように微笑む。
「あいつは怪我人だからな、手短にはしてきたよ」
「そうだったわね、私たちもあまりお喋りはしない方が良いかしら」
「んー、それでいいんじゃないか。明日も面会にこればいいし……っと」
気付いていないヒナに応えつつロイは胸元を探り、懐中時計に視線を落とす。
「ガープ中将たちに呼ばれているんだ、すまんが私はこれで」
「まだお説教かしら?」
「それはもう終わり。ドレークが見つけた麻薬取引関連の証拠絡みでごたついているんだよ」
「引き継いだのか」
「証拠の書類があった状況を聞くついでにサインもらってきた」
ロイは片手に持っていたファイルを振ってみせた。
透明なファイルの中にはメモらしき紙切れと、ドレークのサインが入った引継を申請するため書類があった。
「じゃあお前ら、今日は振り回して悪かった、また明日な」
「いいえ、ロイくんもお疲れ様」
「無理すんじゃねえぞ」
「はいはい、わかっているさ」
背を向けたまま片手を振ってロイは階段を降りていった。正義の文字が階段脇へ消えるまでヒナと二人で見送る。
普段通りに見えたロイ。いつもと変わらないあいつの微笑に違和感を覚えた。
第六感と言えばいいのだろうか、俺の無駄に勘が良い。その勘が、士官学校の頃あいつが俺たちにも何も告げずに一人怯えていた頃と似た雰囲気を読み取っている。
またぞろロイのやつは何かを隠していやがる。俺に心当たりはないが続くようなら問い質してやらなければ。
「スモーカーくん?」
「ぁんだよ」
目の前で白い手がヒラヒラと泳いで我に返る。
「ものすごく凶悪な顔になっているわ、貴方」
ほっそりした指が、俺の眉と眉の間を撫でた。
雪の色にふさわしくひんやりした指の感触がするあたりには深い縦皺が刻まれていた。
「気になることでもあったの」
「いや、まだなんでもねえ」
「まだって何が?」
「あーそれよりもドレークんとこ、行くぞ」
面会時間が終わってしまうと訝しげなヒナを急かして再び階段を昇る。
手が掛かるあいつを悩ましく思いつつ、眉間を指で解して足を動かした。
ドレークの方では、何事もなければいい。そんな平穏を願う気持ちは、そうそう叶うもんではないらしい。
「おい、ドレークっ、あのスカした野郎を殴りに行かせろ!!」
階段を昇りきった途端、殺気立った怒声が飛んできた。
この声は知っている。確か、ドレークと同じ隊の同期の奴だ。
僅か十秒足らずで、俺はロイ自身に聞くまでもなかったと気づかされた。
……やっぱり、揉めたか。