――貴方の父親が立てた仮説が正しいと証明できる存在。
ダイナから発せられたその言葉が、エルヴィン・スミスにどれほどの衝撃を与えたのか。
恐らくそれは、エルヴィン本人にしか分からないものだっただろう。
エルヴィン以外の者達に衝撃を与えたのは、もう1つの方だ。
――壁の外にある『人間の世界』から来た。
人類は107年前に出現した巨人によって食い尽くされ、残るは壁の中に生きる人々のみである。
壁内で暮らす者ならば、誰もが知っている常識だ。
その前提をまるごとひっくり返すような、ダイナの言葉。
一度はリヴァイ兵長によって静寂が戻った調査兵団が、再びざわめき出す。
「壁の外の世界だと……!?」
「馬鹿な、あり得ん!」
「所詮は巨人の言うことだ! 世迷言に決まっている!」
「団長指示を! これ以上、巨人の言葉に耳を傾ける必要はありません! 早く殺しましょう! ヤツは危険です!」
阿鼻叫喚となる一歩手前、と言ったところか。
エルヴィン団長とリヴァイ兵長の静止命令が無ければ、混乱はこの程度では済まないだろう。
そしてその事実が、如何に2人の統率力が高いかを示している。
だが、この場の誰よりも混乱していたのはエルヴィンだ。
エルヴィンと父親のやり取りを知っている者は、付き合いの長いごく少数の親密な者達のみ。
間違っても、この場が初対面の相手が知っているような事ではない。何より知っているごく少数の者達ですら、つまらない冗談だと笑い飛ばした話なのだから。
エルヴィンの脳裏に、決して色褪せることのない過去の記憶が浮かび上がる。
幼い頃に、父に向かって発した問いかけ。
――何故、壁外の人類が滅んだのか分かるのか……?
王政が配布する歴史書には、矛盾点があった。
現状、人類は巨人のせいで壁外の世界を完全に調べ尽くせてはいないのだ。それなのにも関わらず、歴史書には『壁の外の人類は絶滅した』と明言されている。
調べ尽くせてないのなら、断言など出来るわけがないのに。
その矛盾点に気付いたエルヴィンの父親は、とある仮説を立てていた。
107年前に壁の中に逃げ込んだ当時の人類は、壁の王が統治しやすいように、壁の王によって記憶を改竄されたのだと。
問いの答えとして返ってきたその仮説をエルヴィンが知人に話したことで、父は死んだのだ。
それ以降、エルヴィン・スミスは『仮説』の真偽を確かめるために調査兵団で活動し続けた。
そして今、探し求めていたモノが目の前に現れた。
待ちわびた、渇望した、追い求めた、答え合わせの時が。
部下たちが純粋に『人類の自由』のために命を賭している中で、それでも見続けた夢が。
人類最高峰の頭脳は、次々とダイナと名乗る女性の危険性を弾き出している。
もし彼女の言っている事が全て虚言で、壁の中に入るための策略だったのなら。ここで彼女と『交渉』して、彼女を壁の中に入れたが最後、どれほどの人々が死ぬことになるのだろう。
このダイナという女は本当にエルヴィンが、そして調査兵団が求めている情報を持っていると確証を得られない以上、交渉に応じるのはリスクが大きすぎる。
そんな事は分かっているのに、どうしても目の前に差し出された『答え』を振り払えない。
調査兵たちが戸惑いの声を交わす中、エルヴィンだけがダイナを見つめて微動だにせず、沈黙している。
それに痺れを切らしたのは、リヴァイ兵長だ。
トリガーを引いてワイヤーを射出すると、15メートルの壁の上からエルヴィンの隣へと立体機動で移動する。
「オイ、エルヴィン。いい加減に判断しろ。ここは壁外だ、いつまでも時間があるとは限らねぇぞ」
そう言ってリヴァイ兵長が指差したのは、今しがた空に打ち上げられた赤い煙弾。
当たり前だ。
これだけの数の人間が一点に集まっていれば、巨人が引き寄せられない訳がない。
いくら高さ15メートルの壁で周囲を囲っているとは言え、10メートル超えの個体なら乗り越えてくるだろう。
事実、今まさに……
「うわああああああっ!?」
壁の上から、絶叫が迸った。
ダイナとアリーセに注目していた全員が一斉に声のした方へと視線を向ければ、そこには巨人に握りしめられた調査兵の姿が。
壁の上によじ登って兵士を握りしめているその巨人は、15メートル級。
「――チッ!」
リヴァイが舌打ちし、超硬質ブレードを逆手に持つ。
そして仲間を救出すべく立体機動に移ろうとしたところで、ダイナとアリーセが飛び出していた。
白刃が煌めき、ダイナの放った斬撃が15メートル級の両目を切り裂く。それとほぼ同時に、アリーセが兵士を握りしめていた巨人の右手首から先を切断している。
巨人の手首と共に地面へ落ちた兵士が無事なのを確認したダイナは、その勢いのままワイヤーを再射出。アンカーを15メートル級の右足首に突き刺すと、地面スレスレの軌道で踵を狙う。
反対の足を見てみれば、全く同じタイミングで左足首にアンカーを突き刺したアリーセが、ダイナと全く同じ軌道で飛翔していた。
合図もなしに行われた、非の打ち所がない連携攻撃。
高速回転しながら交差したダイナとアリーセは、巨人の足首を完璧に削ぎ落としていた。
移動に必須の筋を削がれた15メートル級が、壁の内側へと頭から落ちる。
その隙を、彼女たちは逃さない。
足首を削ぎ落とすと同時に真上へと上昇していたアリーセが、ガスを吹かして高速で下降。両目、両足首、右手を失ってまともに動けない15メートル級のうなじを、完璧に抉り取った。
赤い雨が降り注ぎ、蒸気が立ち込め、死んだ巨人の肉体が消えていく。
そんな最中で、ダイナとアリーセは無言でハイタッチを交わした。
パァンッという快音が響き渡る。
あまりに見事な連携に、何人かの兵士がダイナが巨人だという事も忘れて「すげぇ……」と感嘆の声を上げた。
リヴァイ兵長だけは、血の雨で汚れた顔を綺麗な布で熱心に拭っているが。
ダイナは軽く周囲を見渡し、他に15メートルの壁を超えられる大型の巨人はいないか確認を行う。
どうやら、今は大丈夫らしい。
壁の上から飛び降りると、アリーセと共に元の位置へと戻る。
そして助け出した兵士の方を指差すと、
「これで私たちに敵対意思がないと、少しは信じてもらえましたか?」
そう尋ねてくるダイナにエルヴィンは首肯し、口を開く。
「……ああ。だが、交渉に応じるかは別の話だ。我々は君たちが差し出す情報が正しいかどうか、判断する術がない」
その返しに、ダイナは待ってましたとばかりに笑みを浮かべた。
「壁の外にも人類が生存している決定的な証拠が存在します。シガンシナ区にある第104期訓練兵団所属エレン・イェーガーの生家。その地下室に、壁の外の世界が細かに記述された手記があります」
「……!」
息を呑むエルヴィン。
しかし彼が返答する暇を与えず、ダイナが畳み掛ける。
「エレン・イェーガーの父、グリシャ・イェーガーもまた壁外の人間です。その証拠は、恐らく調査兵団の記録を辿れば分かるでしょう。832年に行われた壁外調査で、キースという名の兵士が壁外でグリシャ・イェーガーと出会ったという記録があるはずです。その後、グリシャは無断で壁外へと出た罪で牢に入れられていますので、その記録も調べれば見つかるかもしれません。そのキースという兵士が存命なら、彼に直接聞いても確認できるかと」
一息ついて。
「私はグリシャ・イェーガーの前妻です。その証拠も地下室に。グリシャの手記には、私のことも書かれているはずでしょうから。ここで断言します。エルヴィン・スミス、あなたの父親が立てた仮説は正しいと。壁の王は107年前に、壁内人類の記憶を改竄しています。そして肝心の壁の王がどうやって人々の記憶を改竄したのか、ですが」
そこで一旦話を区切ると、ダイナはエルヴィンに向かって手を差し出した。
それを見て周囲の兵士は慌ててエルヴィンを守るように剣を構えるが、ダイナは全く気にすることなく続きを口にする。
「前払いできる情報はここまでです。ここから先が知りたければ、私の手を取ってください」
◆◇◆◇◆
エルヴィン団長から与えられた馬に乗った俺は、盛大にため息を吐いた。
未だに冷や汗が止まらねえ。
口から心臓が飛び出す幻覚が見えくらい緊張したっつーの。
最後らへんとかちょっとパニックになったせいで、自分でも何言ったのか曖昧なくらいだ。
何よりの失敗が、予定よりも情報を喋り過ぎちまったこと。
信頼を勝ち取ろうとして焦った結果があのザマ。本当に、こういう駆け引きは俺には向いてねぇなと痛感する。
グリシャの手記とかについては初めから言うつもりだったが、正確な場所まで教えはしないつもりだったのに。
いや、まぁ、エレンの名前を出した時点で十分にアレだが。
エレン本人に実家の位置を確認されたら終わりじゃねーか。
本当に馬鹿だな、俺。
壁の中に巨人が入ってるとか、始祖の巨人とか、真の壁の王とか、座標とか、マーレとか、巨人の正体とか、交渉材料になりそうな情報が全部パーになっちまう。
この辺の情報はまとめてグリシャの手記に書いてるから、手記を手に入れられたら終わりなんだよ。
何で俺は自分の首を自分で締めてるのか。
でも曖昧な情報だと、証拠になってくれねぇし。
ひとまず協力体制を構築出来たのだから、それでも良いと思うべきだろう。
……まぁ、殆ど捕虜みたいな扱いだが。
現在の俺とアリーセは、一緒の馬に乗って調査兵団と共にトロスト区へと引き返している途中だ。
アリーセが手綱を握り、俺が後ろにいる形。
そんな俺たちの四方を抜剣した兵士が囲んでいて、真後ろにはリヴァイ兵長がご降臨しているという。
それに加えて、俺もアリーセも立体機動装置を没収されてしまった。
変な動きを見せたら即殺するという構え。
当たり前だが、すげぇ警戒されてやがる。
でもエルヴィン団長は一応、俺の手は取ってくれたし。
少なくとも「壁内人類にとって必要な情報を持っている」と判断されたのなら、構わない。
これで容赦なくぶっ殺される可能性は大きく低下した。
そして気になる、俺とエルヴィン団長が交わした『交渉』の内容だ。
俺が提供するのは『情報』の続きと、巨人の力。
その代わりに調査兵団以外の者に俺が巨人化能力者だとバラさないことと、壁内で衣食住を与えるように要求した。
これでエレンみたいな裁判沙汰は避けられるし、生活の心配もない。相手に裏切られたら終わりだが、それは向こうも同じだ。壁内で俺が巨人化して暴れるだけで、壊滅的な被害が出るのだから。
調査兵団からすれば女2人分の衣食住を保証して、俺のことを上に報告しないだけで、追い求めていた『情報』と、どんな兵器よりも強力な『巨人の力』が得られるんだ。
文句はないだろう。
この内容で取り敢えず交渉成立とした俺とエルヴィン団長は、話の続きは壁内ですべく仲良く一緒に帰還中って訳だ。
人類最強の兵長に、剣先を突き付けられてるけどな。
目の前で巨人討伐して、兵士さん助けて、分かりやすい敵対意思は有りませんアピールしたのにこれだよ。最初にエレンが巨人化能力者だと分かった時の周囲の反応を見てたら、俺の扱いはまだマシな気がするが。
手枷とか付けられてないし。
「ダイナさん」
そんな事を考えている時、アリーセに話しかけられた。
「壁外の世界の出身のことや、巨人についての事は2人で生活している間にたくさん聞きました。けど、グリシャって人の前妻だったなんて話は初めて聞いたんですが」
そう言えば、勢いでそんな事まで言ってたな。
まさか「私はグリシャの前妻です!」なんて言う日が来るとは思わなかった。
マニアックな体験すぎるわ。
「あんまり人に言う話でもないですし、別にアリーセにわざわざ話す必要はないかと思いまして」
「必要ありますよ! グリシャってどんな人ですか!? その人がダイナさんを捨てたんですか!? というかエレン・イェーガーって、ダイナさんの息子!? 子持ちなんですか!?」
うわ、物凄い質問攻めが来た。
ついさっきまで命すら賭けての交渉してたのに、一気に変な話題になったなー……。
つーか、捨てられたとか言わないで欲しい。
別に俺が捨てられた訳でもないし、ダイナも捨てられてないのに、何故か惨めな気分になるから。
「エレンは私の息子じゃないですよ。グリシャの後妻の息子なので、私とは何の血の繋がりもありません」
「ちょっ……!? その人、ダイナさんを捨てて別の女の人と子供を!?」
言い方よ。
グリシャがすごい女癖悪いように聞こえるからやめなさいって。
そんなくだらない会話をしていると、後ろから兵長の冷たい声が聞こえてきた。
「オイ、何をコソコソと話してやがる。殺されてぇのか?」
滅相もございません。
慌てて弁明をして、何とか兵長に殺気を収めてもらう。
そこでようやく、数年ぶりのウォールローゼが見えてきた。脳裏に浮かぶのは、口減らしの時の惨状。
アレからもう、随分と時間が経ったんだな。
「帰ってきましたね……」
「……ええ」
トロスト区へと続く門が開くのを眺めて、アリーセと短く言葉を交わす。
だが壁内に入って、これで安心! とはいかない。
むしろ、ここからだ。
まだ『原作』は始まってすらないのだから。
これから襲い来るだろう様々な困難に立ち向かう決意を新たにするべく、俺は両頬を軽く叩いて気合いを入れた。