窓から差し込む淡い月明かりを頼りに、アリーセはベッドの上で手帳サイズの小さな本へと目を通す。
それは、ダイナがもしも自分がアリーセを残して先に死んでしまった際に、残された彼女が1人でも敵と渡り合えるよう『原作知識』の中の必要な部分のみを抽出して書き記した手記だ。
調査兵団やマーレに奪われると、その瞬間に全ての情報が交渉材料としての価値を失ってしまう危険を孕んでいるが、その対策として中身は全て日本語で記されている。
「うぅ……また読めない漢字が出てきた……。これ、何て読むんだっけ……?」
尤も、ダイナから「壁外の言語」として日本語を教わったアリーセも未だ完璧ではないらしい。現在のアリーセの日本語力は、小学生低学年の同程度といったところか。
アリーセはひらがなやこの世界の文字と似ているカタカナは簡単に習得できたのだが、ダイナの予想通り漢字で躓いた。
外国人が日本語が難しいと感じる元凶なだけあって、比較的学習能力の高いアリーセでもそう簡単に読み書き出来ない。
それを考慮して、ダイナもひらがなとカタカナを多めで書いてはいるのだが。
「ユミルの呪い――、」
ダイナの文字で丁寧に綴られたそのワードを細い指先でなぞり、呟く。
それこそ唯一無二の親友の命を脅かす、その名の通りの呪い。強大な力と引き換えに、命の残り時間を13年にまで縮める呪縛。
ダイナに残された時間は残り8年。
それまでに呪いを解除しなければ、親友は死ぬ。
「…………」
訪れるかもしれない最悪の未来を首を振って払い、アリーセは手記のページをめくる。
次頁に書かれているのは『ユミルの呪い』を打破できる可能性がある幾つかの方法だ。
その中で最も成功する可能性が高い方法は、調査兵団とマーレを同時に敵に回してしまう。
何せ、「九つの巨人」を全て集める必要があるのだから。必然的に調査兵団とマーレが保有する力を奪い取る必要があり、エレンやジークも殺す必要がある。
しかし、
「調査兵団にとっての人類の希望と、マーレの切り札である『戦士隊』に置いて最強の存在。寄越せと言っても、両陣営が「はい、どうぞ」と簡単に渡してくれるものじゃない……」
だからこその全面対決。
交渉しても相手が拒むのなら、力で奪い取る以外の方法はない。
そして、その為には力が必要となる。『国』を丸ごと2つ相手取っても、対等以上に戦える絶大な力が。
ダイナは既に「国崩し」が出来るほど強大な力の片鱗を見せているが、対するアリーセはせいぜい並みの兵士よりは強いといったレベルだ。
ミカサとの組手で、包帯だらけになった己の体に触れる。
「彼女1人も倒せなかったら、ダイナさんの助けになるなんて夢のまた夢だよね……」
単騎で並みの兵士100人と等価とまで謳われる104期の首席を比較対象にするのが間違っているのかもしれないが、壁内人類全てを敵に回すのならいつかは倒さなければいけない相手である事も違いない。
「取り返しがつかなくなる前に、私が強くならないと……」
ダイナの手記を枕元に置くと、アリーセは代わりに小さな箱を手に取る。その中身はダイナの脊髄液が入れられた注射器だ。
試作段階の巨人化薬。
「九つの巨人」を継承するのがダイナに追いつく最も手っ取り早い方法ではあるが、それをやってしまうと将来的に自分はダイナに喰われることになってしまう。
それで「ユミルの呪い」が破れ、ダイナの寿命が増えるなら望むところだが、彼女がアリーセを食い殺してまで延命を求めることはまずあり得ない。
何か他の方法を模索する必要がある。
「待ってて、ダイナさん。私が必ず呪いを打ち破るから……この命に代えても」
呟き、アリーセは手記と脊髄液を隠し場所へと戻した。
方や残り8年の命を燃やし尽くし、平和な世界を築いてそこへ友を送り出すことを願い。
方や「九つの巨人」を全てを奪うために世界との戦いに命を賭し、友に未来が戻ることを願い。
――そうして、ダイナとアリーセは決定的にすれ違う。
◆◇◆◇◆
ジャブジャブ、バシャバシャという水の音が連鎖する。
その音源は、窓から夕日が差し込み、室内が赤く染まる我らが調査兵団の隠れ家だ。もっと具体的に言うのなら、隠れ家の片隅で向かい合って食器洗いしている俺とコニーの手元。
中央憲兵団とか言う(こちら側の観点では)害悪極まりない集団が科学発展を抑圧しているせいで、当然ながらこの壁内世界に水道という便利なライフラインは存在しない。水仕事がしたければ、近くの川から木桶で水を汲んでこなければならないのである。
「コニー、残りの食器って後何枚ですか?」
「え? えーっと……15枚くらいか……?」
洗い終えた食器を織物で拭き取る作業を中断したコニーが、食器の枚数を数えて報告してくれた。
まだ半分近く残ってんのかよ……いや、ホントにないわー。
ちくしょう、余計なことをするんじゃなかったな。
本来なら、自分で使った食器は自分で洗う。それがここでのルールだ。では何故、俺とコニーの2人だけが全員分の食器洗いをさせられているのか。
事の発端は、俺がアリーセと食事中にパンを賭けて「ジャンケン」をしていた時にまで遡る。
ジャンケンは日本人なら知らない者など存在しないメジャーな遊戯だが、この世界の住人にとっては違う。初めてジャンケンを知った時のアリーセと同じく、この遊戯に104期たちは興味を示した。主にいち早く食事を終え、暇を持て余していたコニーとかサシャが。
そこで俺がジャンケンのルールを説明すると、全員参加によるジャンケン大会が始まったのだ。
ここまで言えば、もう察しが付くだろう。
負けたのである。それも、コニー以外の全員に。付け加えるとコニーは全戦全敗した。
何つーかもう、サシャとヒストリアが強すぎるんだよ。
それぞれ黒星が2つか3つくらいしか無かったんじゃねぇの?
アレは皆から愛される可愛い女神クリスタから、親の愛情を得られなかった悲劇の少女ヒストリアにランクダウンしたのに、それでも神に愛されているとしか思えない強さだった。
サシャは間違いなく野生の勘とか言うヤツだろうな。
反対にユミル、ジャン、アルミン辺りが弱かった。
ユミルに至っては、負けがもう1つ多かったら俺の代わりに食器洗いをしてたくらいだ。
最後の最後で俺に勝った時に見せたユミルのあの黒い笑みは、生涯忘れない自信がある。それはもう煽られて、危うく『女型』と『顎』による巨人対戦が勃発する寸前までいった。
まぁ、開戦前に兵長の拳でユミルと一緒に沈められたけどな。今もまだ後頭部が痛い。
そう、その兵長だ。後ミカサ。
アッカーマンはマジで反則。
もうこの2人とは絶対にジャンケンしねぇ。
だってさ、バカみたいな動体視力でこっちの指の動きを確認して手を出してくるんだぜ? 合法的な後出しジャンケンとか、反則一歩手前だ。
誰もあの2人に「反則ー! 罰ゲームどーん!」とは言えないので、チートは見逃しとなったのも――……
「リヴァイ兵長! エルヴィン団長からの伝令です!」
腹いせに次は兵長やミカサが負けそうなゲームを提案しようと画策していると、もの凄い勢いでニファが隠れ家へと飛び込んできた。
彼女の雰囲気からただ事ではないと判断した兵長が、すぐさま全員に召集をかける。
「何が起きたんだ……?」
「……さぁ? コニー、私たちも行きましょうか」
食器を片手に首を傾けるコニーの背を押し、俺達も兵長の元へ。
長机を囲んで全員が席に座ると、先程まで緩んでいた空気が一気に張り詰め、隠れ家の中は息苦しさすら感じられる空間へと変わる。兵長はニファから手渡された紙に目を通すと、顔を上げて即座に指示を出した。
「全員撤収だ、ここは捨てる。全ての痕跡を消せ」
案の定、とでも言えばいいのか。
ニファが持ってきた伝令は『原作』と同じ内容だったらしく、すぐに撤収作業が始まる。
椅子を倒す勢いで立ち上がった104期に続き、俺とアリーセも与えられていた部屋へと飛び込んで私物の回収を開始。
とは言っても、俺もアリーセもこの隠れ家に持ち込んだ私物は少なくて直ぐに終わった。
痕跡を消せとの命令だが、DNA鑑定や指紋検査もないこの世界だ。何もかもを持ち去らなくとも大丈夫だろう。
衣服類などの生活必需品をカバンに詰め込み、腰に立体機動装置を装備。上からマントを羽織ることで、巨人殺しの兵器が見えないように隠す。
後は巨人が相手なら無用の物と化すが、対人戦となれば効果を発揮する銃を担げば準備は完了だ。
最後に忘れ物がないかもう一度だけ部屋を見渡して廊下へ出ると、同じタイミングで支度を終えたのか、向かいの部屋からアリーセが出てきた。
「アリーセ、『手記』と『薬』は?」
「大丈夫です、ダイナさん。ここに」
有事の場合に備えてアリーセに渡している最重要アイテムの確認を行うと、親友は軽く左胸を叩いて忘れていないアピール。
良し、その2つさえ忘れてないなら大丈夫だ。
2人揃って廊下を駆け抜け、隠れ家の外へと転がり出る。
すぐに後ろからヒストリアとユミルが現れ、少し遅れてアルミンとエレンも外へと出てきた。
その他の面々は俺とアリーセより早く外で待機していた為、ちょうど今出てきたアルミンとエレンで全員だ。
「この場を離れるぞ。全員、俺に続け。音を立てるな。それと、足跡を残さないよう注意しろ」
「「「了解」」」
出された指示に小声を揃えて応じ、本当に人間かと改めて思ってしまうほどの速度で森を駆け抜ける兵長に必死で追い縋る。
けど、なかなか追いつけない。それどころか兵長の背中がどんどん遠くなっていく始末だ。
いやいやいや、何で足場の悪い森の中をそんな速度で走れんだよ。俺、さっきから木の根や落ち葉に足を取られて転びかけ――
「うわっ!?」
見事につま先が木の根に引っかかった。
一気にバランスが崩れて、俺は顔面を地面に打ち付ける……直前に、後ろから誰かにマントを掴まれる。強引に体勢が戻され、何とか無様を晒さずに済んだ。
走り続けながら後ろを振り返れば、俺とは違って全く息を切らせていないサシャと目が合う。
流石は狩猟民族の家系、森の中を走るのはお手の物ってことか。
「ありがとうございます、サシャ」
「もっと視野を広げて下さい。前だけ見てるんじゃなくて、周囲の全てを見る感じで。森を舐めて平原を走る感覚でいると死にますよあなた!」
「まさかその台詞を私が言われる事になるとは思いませんでした!」
サシャの忠告に軽口で返し、言われた通り前だけでなく足元や木々の配置にまた意識を向けていく。
……成る程な。
要するに、立体機動と同じだ。
高速で移動しながら周囲の立体物の高さや位置を把握し、瞬時にアンカーを打ち込むのに最も最適な箇所を割り出すのと同じように。
周囲の木々の位置。踏み場にしやすい場所。反対に踏むと危ない場所。それらを周囲に見分け、走り易いルートを見つけ出せばいい。
それも足だけでなく、全身を使って移動しろ。
木の根と根の間を踏みつけ、足場が特に悪い時には幹を足場にし、枝にぶら下がり、速度を落とさないように森の中を駆け抜ける。
おお、さっきまでと比べて格段に楽になった。
これなら兵長に引き離されずに済むな。
調子に乗ってどんどん速度を上げていると、並走していたサシャが僅かに驚きの感情を滲ませた瞳を向けてくる。
「……何か?」
「あなた、私と一緒に狩りに行きませんか!? 絶対に才能がありますよ!」
「この厄介事が終わった後、私がまだ調査兵団と敵対していなければ是非とも」
そんな感じでハイペースを維持しながらサシャと談笑していると、森が開けて高台のような場所へと出た。
下を見下ろすと、ちょうど中央憲兵が隠れ家に入っていく景色が見える。
「危ねえ……もう少し遅かったら、俺たちどうなってたんだ……?」
隣で同じように隠れ家を見下ろしたコニーが、引きつった顔で呟く。
いや、マジで間一髪だったな。
リヴァイ兵長が一瞬であの隠れ家を引き払う決断をしていなかったら、俺たち確実に中央憲兵に捕らえられていた。
コニーの言葉を聞いた104期が一様に頷く中、アルミンが兵長へ問いを投げかける。
「どうして、エルヴィン団長はこの事を?」
「中央から命令が出たらしい。調査兵団の壁外調査を全面凍結、エレンとヒストリアを引き渡せってな」
帰ってきた答えに、この場の全員が息を呑む。
まぁ、王様がマジで敵に回ったってことを意味するからな。壁内世界の最高権力に目をつけられたとなれば、及び腰になるのも当然だろう。
しかし、嫌な知らせはこれで終わりじゃねぇことを『原作知識』を持つ俺は知っている。
予想通り、追い討ちをかけるようにして伝令兵のニファが口を開く。
「それと、私が手紙を受け取った直後、団長のところにも憲兵団が……」
「まるで犯罪者扱いじゃないか!」
自分たちの統率者が実質的に身柄を確保されたという報告に、ハンジさんが真っ先に反応した。
まぁ、確かに『鎧』を降した英雄に対する扱いじゃない。『原作』と比べて調査兵団は市民の支持をかなり集めているので、もしかしたら強引な手段は取らないかもと考えていたが……レイス家もそんな余裕じゃないって事だろう。
「もう裏でどうこうってレベルじゃねぇな。なりふり構わずってことだ」
「それだけ中央にとって、エレンとヒストリアは重要ってことだろうね。特に、エレンはダイナが警戒する程の何かがあるみたいだし」
険しい表情で発された兵長の言葉に頷きながら、そう言って意味深な視線を送ってくるハンジさん。
うへぇ……やっぱり、エレンを避けてるのがバレてやがる。
まぁ、それなりの時間を同じ屋根の下で暮らしてたからな。ハンジさんが気づかない方がおかしいか。
この分だと、アルミンや兵長も察してたな。
『始祖』の存在が明らかになるのも、いよいよ時間の問題になってきた。エレンの持つ『座標』の力を知れば、調査兵団はすぐに俺がエレンと接触しない理由に辿り着くだろう。
そして、俺が始祖の巨人を狙っていることにも。
あやふやになっている今のうちにエレンを襲うことも考えたが、流石に兵長のお膝元でそんな真似は出来ねぇし。
こっちはこっちで、早く対策を立てないと。
「とにかく、これで敵の狙いははっきりした。このままこの辺りをウロついてるのはマズイ。エレンたちをトロスト区へ移動させる」
「それが良いだろう。敵の本拠地である中央に行くより、彼らの手が比較的届きにくく、まだ先の襲撃による被害の復興が終わっていないトロスト区なら、簡単に紛れこめるだろうし」
「ああ。それに、いざって時にはコイツも使えるしな」
そう言って、マントの下の立体機動装置を見せる兵長。
完璧なフラグですよ、と。
『原作』で嫌という程に見たもう1人の最強……否、最凶ケニー・アッカーマン。
間違いなく訪れるであろう彼の襲来に戦慄しているうちに、兵長は今後の方針を決めていく。
「一方的に狙われるのは不利だ。こっちも、敵の顔くらいは確認する。ハンジ、お前の班から何人か借りるぞ」
「もちろん。……良し、私はエルヴィンの方につく。モブリットは私と。他の者はリヴァイに従ってくれ」
刹那の思考を挟んだ後、そのように指示を出したハンジさんはすぐにモブリットさんと共に馬に乗って中央へと向かって行った。
本来ならここでエレンがベルトルトとユミルの会話内容を思い出して書いた紙をハンジさんに渡すのだが、そもそもエレン誘拐イベントが発生してないので、そのイベントも強制スキップである。
同時にハンネスさん死亡イベントも消えてるので、これは良い方向に転がったと言えるだろう。
ハンネスさんが
いくつかの違いはあるが、ここまでは概ね『原作』通りだな。
「兵長。敵の顔を確認すると言っても、具体的にどうするんですか?」
ハンジさんとモブリットさんの後ろ姿が見えなくなったタイミングで、今度はエレンが問いを発した。
「囮を使う。エレンとヒストリアに扮した影武者を敢えて敵に掴ませ、敵の情報を割り出す。囮役は……ジャン、お前がエレン役だ。それとヒストリア役はアルミン――」
リヴァイ兵長から、通称アルミン大火傷作戦が発令された。
初めての殺人を体験されられた挙句、男に全身を弄られるという地獄を味わうことになる彼に敬礼。
と、心の中でアルミンの未来を憂いていたら、兵長の視線がアルミンから俺へと移った。
兵長と目が合った瞬間に、俺の中で強烈に警鐘が鳴り響く。
そして、嫌な予感は見事に的中することになった。
「いや、ヒストリア役はお前がやれ」
「本当に言ってるんですか!? 普通、一度襲われて刺された人を囮役にしませんよ!?」
「お前なら万が一の時でも、自力で対処できるだろう。自衛の為なら巨人化も許可する。……尤も、街に多大な被害を及ぼす巨人化はあくまで最終手段としろ。それに、お前以上の適任はこの場にいないしな」
兵長に命令されて、自分の私服を差し出してくるヒストリア。俺はそれを無言で受け取り、深いため息をつく。
ジャンの方もエレンに変装するのは気が乗らないのか凄く嫌そうな顔をしているが、側から見れば俺も同じような顔をしているのだろう。
確かに
いや、俺とアリーセの努力で、ダイナの体は今でも十分に若々しいけどさ。
まさか「嫌だからアルミン代わりにやって」とは言えないので、俺は抵抗を諦める。
こうして、『原作』とは異なる形で囮作戦が始まった。