Fate/Cinderella night. Encored Grail war ~ニュージェネ+αで聖杯戦争~ 作:藻介
Prologue/S(mile)ING(1)
もう何年も、同じ夢を見続けています。
キラキラと輝く舞台があって、数えきれないほどのお客さんがいて、その視線の中心に立って元気を分け与える。そんなアイドルになるのが、島村卯月のたった一つの夢でした。
けれど、今までも、そしてこの日だって。ステージに立つたった一人、わたしの姿だけが、黒く塗りつぶされて見えていました。
それをステージ脇から一歩引いて見守るもう一人のわたしは、やっぱり、と。ひどく冷めた目線を向けているのです。
もう何年も、同じ夢を見続けています。
島村卯月、十六歳。
わたしはまだ、自分がキラキラと輝くところを想像できずにいます。
1月31日(火) 早朝
住宅街の広がる深山町。その北部には洋風のお屋敷がたくさんあって、その中でも一際歴史を感じさせるお宅の玄関先で、わたしは学校の友達を待っていました。
「卯月ちゃん。どうかしましたか?」
冬木の冬は短いと聞きます。他では穏やかに寒くなって、穏やかに温かくなる気温の移り変わりが、ここでは短い間に訪れます。
ついこの前までマフラーなんていらなかったのに、今ではそれに加えて、手袋を外しての外出が億劫になってしまっています。
そんな中にありながら、その声は、まるで太陽から温もりを分けてもらったような独特の雰囲気を持っていました。
高森藍子ちゃんです。
彼女はここの家の住人ではありません。ですが故あって、両親の出張で家に一人でいることの多いもう一人の友達を朝、起こしたり、よくご飯を作りに来ています。外は寒いからと中に入れてくれて、お茶まで出してくれる、年下なのに、本当によくできた子ですよ。
「あれ、わたし、ぼーっとしてましたか?」
「うん。何か考え事?」
「まあ、考え事と言えば考え事、ですかね。でもいつものことなので、藍子ちゃんが気にすることでもないですよ」
「そう……。なら、いいんですけど」
お茶、ごちそうさまです。と伝え、空になったティーカップを渡すと中へと戻っていきます。制服の上にエプロンを重ねた姿と入れ替わりに、藍子ちゃんの学生鞄を預かって、また一人、靴箱横の椅子に腰かけました。
もう一人の友達の名前は、本田未央ちゃんと言います。
小学校二年生に上がった直後だったので、いまから丁度十年前になるはずです。空き家だったこの家を借り受けて、本田家は冬木に越してきたそうです。そのころのわたしはとてもわんぱくで、当時魔女の家と呼ばれていたそこにやって来た引っ越しトラックと、仲の良さそうな三人家族にとても興味を持っていました。魔女の家に住んでいる人たちはどんな人たちだろう? 気になって何度も訪れたわたしを、未央ちゃんのご両親は邪険に扱うことなく、お茶会に混ぜてくれたり、絵本の読み聞かせをしてくれたり、優しく接してくれました。
そんなご家庭の娘さんと仲良くなるのは、そう難しいことではなかったはずです。一学年離れた彼女とわたしは、自然と一緒に学校に通うようになるまでになっていました。担任の先生に「一年生の本田さんと親友なの?」と聞かれて初めて、あ、わたしたち親友って呼ばれるくらい仲がいいのか、そう気づいたほどでした。
今こうして玄関からあちこち見渡すだけでも、装飾や家具の一つ一つから思い出がよみがえってくるようです。
「お待たせしました。卯月ちゃん」
廊下の奥から、エプロンを脱いだ藍子ちゃんと、少し寝ぼけまなこの未央ちゃんが出てきました。また夜更かししていたのでしょうか。彼女の快活さを一番に主張する大きな目の下に、ほんのりクマができていました。
「ほんとごめんね、しま、む?」
ほんの一メートルほどの距離に近づいてきた時、未央ちゃんは何かおかしなものでも見たように、言葉を詰まらせました。けれどすぐに復活して。
「左手、どうしたの?」
と、聞いてきました。彼女の指さしたわたしの左手、その付け根辺りには、新品の白い包帯が巻かれています。
「ああ、これですか? 藍子ちゃんにはもう言っちゃったんですけど、知らないうちに擦ってしまっていたみたいで。心配かけたくなかったので包帯撒いて隠していたんですけど、えへへ」
「いや、包帯撒いてても普通に心配するから。むしろそっちの方が大変に見えるよ?」
「それもそうですね。なのになんで巻いてきちゃったんだろ? 今外しますから、少し」
少し待っていてください、そう言おうとしましたが、未央ちゃんはそれを遮って。
「……いや、そのままでいいと思う。ただの擦り傷だったんでしょ? なら大丈夫だよ。結局菌が入らないようにすれば、それでいいんだからさ」
「うーん。まあ未央ちゃんが言うなら、なんだかそんな気がしてきました」
結び目にかけていた手を止めて、宙に放ります。
「二人とも、急がないと遅刻しちゃいますよ!」
いつの間にか玄関扉の前に立っていた藍子ちゃんが、ドアノブを捻っていました。
「行きましょうか。未央ちゃん」
「……あ、うん。分かったよ、しまむー。あーちゃん」
なんだか、今日の未央ちゃんはいつもに比べて歯切れが悪いです。いえ、未央ちゃんが事をはぐらかすのは割といつものことなので、今更気にしたりしませんが。
通学路の曇り空と同じです。どんなに不穏なものに見えても、結局は日常でしかないんです。
その下を、わたしたち三人はやっぱりいつも通り急ぎ歩きをして、学校に向かいました。
「はい。最近また物騒な事件が増えてるから、早く家に帰るのよー。解散!」
そんな藤村先生の言葉で、その日の学校生活は締めになりました。
「よっしゃー! 放課後だーーーー!! ナナキー、クレープ食って帰ろうぜー」
「タツコお前……、タイガーの話聞いてなかったの? 今さっき早く帰れって言われたばかりじゃんかよ」
「そうだよタツコちゃん。早く帰ろう? (締め切りが……)」
「だな。クレープはいつでも食えるし、また今度行こうぜ。な? (早く帰って春コミのプロットしあげてぇ)」
クレープを連呼するタツコちゃんを引きずりながら、四人は教室から出ていきます。しかし私は見逃しませんでした。ミミちゃんとスズカちゃんの間で交わされた意味深なアイコンタクトと、それを黙殺するナナキちゃんの溜息を。
「(あの四人は、相変わらずだなぁ)」
きっと教室中の誰もがそう思っていたはずです。小中高とエレベーター式に学年を重ねてきたわたしたちにとって、あの四人組と藤村先生の圧倒的パッションな空気は、チャイムと同義です。
私立穂村原学園。その高等部1ーBの教室からは、徐々に人が減っていきます。わたしもその例に漏れず、足早に教室を出ました。
一人、校門までの道のりを歩いていきます。帰りに未央ちゃんたちと一緒になることは珍しいです。まだ小学生だったころはよく、二人並んで帰っていたように思います。けど、一学年上のわたしが先に中等部に上がってからは、互いに時間が合わなくなったのでしょう、二人別々に帰ることが多くなりました。それに、わたしはわたしで、放課後にすることができていましたから。
去年から未央ちゃんと一緒にいるようになった藍子ちゃんも、基本未央ちゃんと一緒に帰るので、やはり一緒になることは少ないです。
ですが今日は、その少ない方の日だったようです。校門を出たところで道の脇に見慣れたお団子頭を見つけました。早歩きをして声をかけます。
「藍子ちゃん、待って」
「……えっ、卯月、ちゃん?」
反応に少し違和感がありましたが、とくに気にしません。
「未央ちゃんは? 一緒じゃないんですか?」
「あ、ええと。未央ちゃんは生徒会室に忘れ物があって、それを取りに戻るって。待ってるって言ったんだけど、結局押し切られてしまって……。せっかくお仕事も無い日だったから、ゆっくりできると思ったのに」
ナナキちゃんのと違って、本当に悲しそうな響きを含む溜息が漏れました。
藍子ちゃんはわたしたちと出会う少し前からアイドルをしています。見習いのわたしからしてみれば、藍子ちゃんは憧れの内の一人なのですけど、本人たっての希望で普通の友達として接しています。彼女が言うところによれば、目指している理想のアイドル像にはまだまだ遠く、胸を張ってアイドルだと言い切る自信がないそうです。
謙虚な彼女が、わたしにはお姉ちゃんとしてとてもかわいく、また誇らしいです。
「本当に藍子ちゃんは未央ちゃんのこと、大好きですね」
「えっえええ!! い、いえ、そ、そそそ、そんなこと!」
唐突に大きな声を上げる藍子ちゃん。通学路を歩いていた人の何人かが驚いてこっちを見ていた気がしますが、無視して藍子ちゃんの頭を撫でます。
「うん。こんなにかわいい藍子ちゃんを放っておくなんて、やっぱり未央ちゃんには一度喝を入れておかないと。明日会ったら、わたし未央ちゃんにチョップしちゃいますよ、チョップ」
「ふふ。私も一緒にいいですか?」
「もちろん」
坂を中ほどまで下り切るころには、藍子ちゃんの表情に曇りはなく、いつもの笑顔に戻っていました。やっぱり、友達には笑っていてほしいものです。
「あ、わたしこっちなので」
住宅地端の信号機。その角の右側を指して、またねと切り出します。
ちなみに、その先に私の家はありません。私の家があるのはもう少し坂を下って左に曲がったところ。つまり今から行くところは、家とは逆方向です。では、そこに何があるのかと言えば——————。
「今日も、やるんですか?」
そう口にする藍子ちゃんの表情は、少しだけ、申し訳なさそうに曇っていました。それを元の笑顔に戻したくて、わたしは自分の顔に笑顔を作りました。
「大丈夫です、もう日課みたいなものですから。藍子ちゃんも気を付けて帰るんですよ」
藍子ちゃんは何かを察したみたいで、意識した微笑みで「また明日」と言って、信号を渡って帰っていきました。
それを見送って、わたしは道の先を目指します。そこにあるのは、小学生のころから通い続けているアイドル養成所です。
途中、なんとなく足を止めて、別れ際に藍子ちゃんが見せた笑顔を思い出します。誰の目から見ても、作り笑いだと分かるでしょう。
————けれどそれを、わたしはどうしても嫌いになれませんでした。
いつからアイドルに憧れていたのか。はっきりとは覚えていません。ですが未央ちゃんと出会っていた頃には、自分もいつかはああなるのだと、心のどこかで思い込んでいて。近くにアイドルの養成所があると知った時には、お母さんに必死になってレッスン代をねだっていた。そんな記憶があります。
あれから、十年が過ぎようとしています。養成所の鏡に映る自分の姿が、どれだけあの頃の憧れに近づけているのか。それが、今のわたしには分かりません。
わたしが養成所に入ってすぐに、デビューしたお姉さんがいました。
同い年で、いつか一緒にアイドルになろうねと約束した子がいました。
小さいのにしっかりしていて、養成所に入って一年も経たずにテレビに映った男の子がいました。
長い間一緒に続けていて、いつの間にか来なくなっていた子もいました。
思い出せばきりがありません。その名前と顔一つ一つを今でも手に取るように思い出せます。けれど、そのうちの大半は、今この養成所にはいません。
彼らは夢を叶えたのでしょうか。キラキラと輝くアイドルになれたのでしょうか。いつからかテレビを見ることが少なくなったわたしには、それも分からないことでした。
「卯月ちゃん。そろそろ閉めるわよ」
ふいにトレーナーのおばさんの声が聞こえました。どれだけの間踊っていたのでしょう。ふと窓の外に顔を向ければ、星の瞬かない暗い曇り空が見えました。時計の短針はすでに半分少し手前まで登っていました。こんなに待ってくれていたおばさんには、申し訳なさすら感じます。
「すみません! すぐに着替えてきます!」
急いで更衣室で制服に着替えて、おばさんの待つ入口まで走っていきます。
「ごめんなさい。いつも遅くまでつき合わせてしまって」
「いいのよ。卯月ちゃんはうち一番の頑張り屋さんだから。それを知っているから、私だってここを続けていられるのだもの」
「そうですか。では……、やっぱり」
「ええ。業者さんは三月いっぱいだって言ってたわ。何度もお願いしてみたんだけど、それがおばさんにできた精一杯だったみたい」
わたしが子どものころから通っていた養成所でした。住宅地のまんなか、駅からもバスで何駅か乗ってこないといけないところです。ずっとはいられないと思っていました。ですがまさか、自分から卒業するよりも先になってしまうなんて。
「もう一度ここで、卯月ちゃんの誕生日を祝いたかった。それから、事務所所属祝いも」
おばさんは空を眺めています。その目に星が映っていないのが残念に思えました。もしもわたしが、キラキラと輝くアイドルであったなら、おばさんを笑顔にできたのでしょうか。
「さあもう帰りましょうか。車に乗って。おうちまで送るから」
きっと返事が遅れたのは、悲しいことばかり考えていたせいです。改めて返事をしようとした丁度その時に、送られてきたメールにスマートフォンが震えたのも。きっと誰のせいでもないはずです。
唯一恨めるとしたらそれは、自分の運命だけだなのだろうと、そう思います。
『未央ちゃんがまだ帰ってきていないみたいなんです。卯月ちゃんは何か知りませんか?』
おばさんの誘いを断って、わたしは学校に戻りました。
別に、未央ちゃんがまだ学校に残っているかもしれないだなんてことは、思っていません。仮にそんな確信があったとしても、夜の学校、それも早く帰るよう言われているこんな日に、危険を冒してまで連れ戻しに行くような情に厚い聖人では、わたしはそんなではないはずです。たぶん。
ではなぜ戻っているのかと言えば、それはただ、忘れ物を思い出しただけなんです。
帰ってきていない未央ちゃん。あれほど学校を上げて早く帰るように言っていたのにも関わらずです。普通なら、きっとどんな理由で残っているんだろう、とか、無事なのか、とか、今どこにいるんだろう、とか未央ちゃんの安全を心配するはずで。
なのにわたしが真っ先に思い出したのは、部活動中止に不満を垂れ流す藤村先生をよそに、机の中に置いて来てしまった進路希望調査表でした。
そんなわたしが、聖人であるはずがありません。
おばさんと一緒に来なかったのだって、もし万が一未央ちゃんがいたとき、未央ちゃんはそのことを黙っていたいだろうと。そう、なんとなく思っただけですし。
校門の前に鞄を置いて。
「警備員さん、ごめんなさい」
と、一言小声で謝ってから、校門そばの壁をよじ登って中に入ります。靴箱までたどり着いてから、警報器の灯りでスカートが破れていないことを確認します。心の中でほっと安堵の声を出して、土を念入りに落としてから土足で上がりました。先に警備員さんに謝っておいて本当に良かったです。
夜の学校は、昼に見る時とは全く違った雰囲気で満ちていました。沈黙が耳に痛い、だなんて、よく聞いたことのある表現ですけど、本当にしーんという鈴虫の鳴き声のような音しか聞こえません。それ以外の音が、全くないんです。曲がり角から誰かが突然出てきても、全然おかしいことではないとも思えます。
「早く、帰ろう」
そう呟いた自分の声が少し大きくて、何か、誰もいないはずのどこかにいる誰かに聞こえたんじゃないかと、びくびくしながら二階まで階段を上って、すぐ右にあった教室にたどり着いた時には、安心よりも先に疲れが出てきました。
全く。十六にもなって学校のお化けだなんて。
自分のことながら呆れてしまいます。呆れながらも、まあしょうがないとも思います。
「(早く帰ろう)」
知らず、さっきと同じことを、今度は心の中で呟いていました。
少しだけ開けたドアから足早に入って、廊下側後ろから二つ前にある自分の机を覗きました。
よかった。ちゃんとあった。
後はこれを持ってさっきと同じように下——————
キン!
「え?」
さっきまで耳鳴りのようなしーんとした音以外何も聞こえなかったはずの校内で、明らかに何かの金属同士がぶつかったような音。
キン! キン! キィン!
まるで刃物でも打ち合わせているみたいに、何度も何度も聞こえてきます。
そこまで考えたところで、わたしは首を振っていました。
刃物だなんて、まさか。誰かが戦っているわけでもないのですから。きっとわたしと同じように遅くまで残っていた陸上部の誰かが、暗くなったの気づいて片づけをしているだけ。そうに違いありません。
……一歩、また一歩と、わたしは窓際へと歩いていきます。
戻れ。戻れ。戻れ。戻れ。
心の奥深くから警告が聞こえてきます。
戻れ。今ならまだ引き返せる。それ以上進んだら、その先にあるものを見てしまったら、きっと今日までの自分ではいられなくなる。そんな、根拠のない、けれどこれ以上ないほどに確かだと頷ける予感めいたものがありました。
いえ、根拠ならあったんです。藤村先生は確かに言っていたはずです。今日の部活動は全面的に禁止だと。なら、こんな時間まで残っていること以前に、今日部活動をしている人すらいないはずなんです。
では、いま校庭で刃物を打ち合っているのは、戦っているのは誰なんでしょう。
止まりません。足は滑らかなステップを踏むように、警鐘を鳴らす心臓の音に逆らって、止まることなく進んでいきます。
そしてついに、窓際までたどり着いてしまいました。そこでわたしの目には。
「誰だ!!」
最初から気づいていたみたいに、一目見た瞬間に気づかれてしまいました。直感します。あれは人間ではありません。人間の形をしていました、青い全身タイツを着ていましたが、向けられた目線は、見たこともないですけど、確かに獣の物だと思えました。
殺される。
目線だけであんなに怖かったのだから、絶対に、目の前に立たれるなんてことがあってはいけません。
逃げないと。
頭の中が一瞬でその言葉で埋め尽くされて、ドアまで全力で走って乱暴に開けて、今度は真正面の窓を同じように開けて、そこから、二階の高さから飛び降りました。以前、自称世界一カワイイらしいアイドルさんが『五点着地はアイドルの基本』と言っていたのを参考に練習していて本当に良かったと思います。
擦り傷を負った程度で特に痛みもなく、このまま走っても何の問題もなさそうです。ならこのまま校門までもう一走りすれば逃げられる。
「黒、か。いやお嬢ちゃん、中々いいもんはいてんじゃねーか」
反射的にスカートを抑えていました。まさか生命維持よりも優先されることが、こんな身近になっただなんて、つゆほども思っていませんでした。
ですがそんな恥ずかしさも、少し顔を上げればすぐに消えてしまいます。そこに、ついさっきまで校庭にいたはずの、獣の目をした人が、校門に向けて走ろうとするわたしを逃がさないように、しっかりと立っていました。
「何も恥ずかしがるこたあねぇ、自分を着飾れるのはいいことだ。自分のことを多少にしろ分かってる証拠だからな。その上で、あの高さから魔術なしで飛び降りる度胸と、それを実現できるだけの体力もある。いい女だ。ああ、それだけに惜しいぜ」
忘れていました。あんなに怖い目をしていたんです。なら、それ以外も怖くないはずがありません。ここまであり得ないくらい、それこそ動物みたいに速く走ってこられても、全く不思議ではないのだと。
なのに、逃げられるだなんて。はじめから、たぶんそれが間違いだったんです。
「アンタみたいな女が、マスターだったんならよかったんだが。まあそんなことを言ってもしゃーねーか。ったく、ままならないもんだぜ。聖杯戦争ってのは」
なら、わたしはこれから、死ぬんでしょうか。
「分かってる、これも仕事だ。恨むなよお嬢ちゃん。割と巧く刺してやるから、せいぜい痛みを強く感じないように、早めに往生してくれや」
男の人が、いつの間にか握っていた赤い棒、あれは、槍でしょうか、それを私に向けてきます。その先が心臓に向けられていると分かった時、距離とか次にわたしがどう逃げるとか、そういったあれこれをすべて抜きにして心臓に突き刺さる。そんな明確な死のイメージが確かな予感としてよぎりました。
わたし、死ぬの? 本当に?
「じゃあな」
来てほしくないと思った時は、案外すぐに来てしまうものです。けどこの時は、後で考えても信じられないくらいに、ひどく時間が遅くなっていたように感じました。走馬灯、という言葉があります。死ぬ前に、生きていた頃を思い出すことらしいです。まさに、今のわたしはそれでした。
わたしには、すぐ目の前に迫っている死よりも、そちらの方が苦しいです。
このまま死ぬ? 本当に? だって避けられない。だからって、このまま死んでもいいの? 後悔しない? 死んだあと恨みで化けて出ないなんて本気で言える? それは——————
——————それは、簡単に頷ける問いかけではありませんでした。
わたしはまだ、何もしていません。憧れの、アイドルになる夢だって、まだ叶っていません。わたしはまだ、キラキラしたモノを何もつかんでいません。まだ、わたしには。
「死ねない」
死ねるはず、こんなところで終われるはず、ありません。あってはならないんです。だってまだ、わたしには、何にもないのですから。……だから。
「助けて」
助けを求めます。わたしを殺そうとしている目の前の男の人だっていいです。その人と鉄を打ち合っていた誰かでもいいです。もしくは、ただ通りがかっただけの関係のない第三者でも構いません。誰か、誰か。
「わたしを、助けてください!!!!」
風が、吹いていました。それに流されたのでしょうか、雲が少しだけ晴れて、月明りが辺りを照らしていました。
その中に、わたしを殺そうとした青い人が立っているはずのそこに、一人の女の子が立っています。
「ねえ、答えてよ」
長い黒髪が舞い上がって、その一本一本が月明りに濡れているように輝いていました。彼女はその手に握っていた、深い、蒼と呼べる色の剣を腰の位置まで下ろして。
「あなたは、島村卯月で間違いない?」
わたしの名前を、確かに呼んだんです。