Fate/Cinderella night. Encored Grail war ~ニュージェネ+αで聖杯戦争~   作:藻介

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ちゃんみお誕生日おめでとう!(遅い)

とにもかくにも、新シーズン『After night,and after night』編。その前日譚です。お楽しみいただければ幸いです。


After night,and after night
間奏、雨/シキちゃんの愉快な殺人計画


 聖杯戦争が終わってから。

 

 いえ。もうこの言い方は、適切ではないのかもしれません。言い直します。

 ———彼女たち、卯月ちゃんに凛ちゃん、そして、未央ちゃんをはじめとしたシンデレラ・プロジェクトの女の子たちが、ユメの道を歩み始めてから。

 それからの半年。

 その間に未央ちゃんは誰かの前で、私以外の誰かの前でも、しっかりと泣けるようになっていました。

 

 彼女たちの歩いた道のりは、短くも、決して平たんでもなくて。ともすれば、あの聖杯戦争の七日間が、踏み出す足を止めるための最後の休息だったんじゃないか、なんてふうにも思えます。

 辛く険しい、星を目指した一年間の道のり。

 彼女をただ遠くから見つめているだけだった私には、その全てを語ることができません。

 けれど、だからこそ。彼女とともにすべてを見ることのできなかった私だからこそ、語ることのできる、本田未央という一人のアイドルの一面が、私には見えていました。

 

 ————それは、脳裏に染み付いた雨の記憶。

 

 ずっと握りしめたままな傘の中で、ただ一人俯いてばかりだった女の子が、また雨の中を前を向いて、誰かと立って走っていけるようになるまでの。

 本幕からこぼれた、ひどく些細でどうしようもなくわがままな、一つの願いの物語。

 

 

間奏、雨

 

 当面の間アイドルとしての本田未央に、同じくアイドルである高森藍子は会わない方がいい。

 それは桜がまだその蕾を芽吹かせるよりも、ほんのすこしだけ前のことでした。

 未央ちゃんたちのプロデューサーさんと名乗った男の人。目つきがしっかりとしていて、一目には怖そうな印象のその人と私は、私の担当プロデューサーさんを交えて話し合いを行い、そんな結論に至ったのです。

 未央ちゃんたちシンデレラプロジェクトのプロデューサーさんが初めに提案したそれを、私は最初から受け入れていました。

 アイドルは多くの人に支えられて続けていくお仕事です。ですがどうしたって、自分一人で立ち向かっていかなければならない場面は、一人一人、形は違えど迎えてしまうもの。その時に、助けてくれる人はいるでしょう。

 ————それでも、最後に立ち上がることを決めるのは、自分自身だから。

 だからその時に、私が、未央ちゃんが一番に頼るであろう私が、少なくともアイドルとしてだけは、そばにいちゃいけない。

 何も未央ちゃん個人を助けてはいけないというわけではありませんでした。今まで通りご飯を作りに家に通って、卯月ちゃんが来たらいつものように一緒に登校する。そして、未央ちゃんが私を必要としたのなら、寄り添って慰める。ただ、アイドルとして彼女をえこひいきしないよう気をつければいいだけ。

 ただ、本田未央だけのアイドルになるのを諦めて、未央ちゃんだけの私でいればいい。

 

「————それで、彼女の願いが叶うのなら」

 

 未央ちゃんのことを、私の太陽を、どうかよろしくお願いします。と。

 それからの半年間。私がアイドルである彼女について触れることは、ただの一度もなくて。

 その間に、彼女たちがどんな苦しみを背負っていたのか。そのことを知ったのだって、ずいぶん後になってからでした。

 

 

 雨が降っていました。季節は巡って梅雨が明けて、気持ちよく晴れると言っていた知り合いのニュースキャスターさんに「嘘つき」と私はぽつりこぼします。

 レッスンが終わった帰り際でした。傘を持ち合わせておらず、駅まで走っていくかこのまま事務所で雨宿りしていくかを考えていたところで、私は呼び出しを受けました。ちょうどいいと、深く考えもせずに指定された部屋に向かいます。

 その先で私はおよそ三ヶ月ぶりに、未央ちゃんたちのプロデューサーさんに出会うことになったのです。

「本日はお帰りのところをお呼び止めして、申し訳ありません」

 呼び出された先はプロデューサーさんたち専用の個別オフィスルーム。そんな場所でその人は自分のデスクにも座らず、立ったまま、入ってきたばかりの私にお辞儀をしていました。

「いえ。雨に降られてしまって。ちょうど雨宿りするところを探していたところでしたから」

「そうでしたか。よろしければ、お話が終わったら私がお宅まで送りましょうか?」

「ああ。それは問題ないです。たぶん、すぐに止むはずですから」

 長い話ではないのですがと、プロデュサーさんは言いました。けれどきっと長くなる。私はこの時、心のどこかで確かにそう予感していました。

 三ヶ月前と同じように足の低いテーブルを挟んで、私たちは来客用のソファーに腰かけます。私が完全に腰を落ち着けたの確認してから、向かいに座るその人は私を正面から見すえて本題を切り出しました。

「本田さんはアイドルとして立派に成長しました。そろそろ頃合いかと思われます」

「…………っ。それじゃあ」

「はい。あなたと彼女との間に設けていた禁足事項、高森藍子と本田未央はアイドルとして会ってはいけない。それを解禁しようと思います。今後は良き仕事仲間としても、私共シンデレラプロジェクトのアイドル、本田未央と仲良くしていただければ」

「——————」

 ああ、やっと。

 ようやくあなたと、未央ちゃんと、肩を並べて歌えるんだ。

 喜びに胸の奥がはずみます。すぐに立ち上がってこの喜びを他の誰か、茜ちゃんや夕美ちゃんたちと分かち合って。そしてやっぱり、未央ちゃん本人に————

「ですが、その前に」

 部屋から飛び出してしまいそうだった私の心は、その声でたちまちに呼び戻されてしまいました。

「高森藍子さん。貴女には、この三ヶ月間で何があったのか。それをしっかりと伝えなければなりません。その上で彼女を、貴女の、アイドル高森藍子の隣に並び立つことのできる一人前のアイドルだと認めてほしい」

「そ、そんなの……」

 そんなの、当然です。と。

 私はそれ以上に言葉を紡ぐことができませんでした。

「これは、私個人の不手際でもありました。ですのでどうか本田さん自身を責めないであげてほしい」

 なぜなら。今から聞くそれが未央ちゃんが私に犯した酷い裏切り、その告発である、だなんて。いやに具体的で、絵空事も甚だしい被害妄想のような直感が羽蟲のさざめきみたいに、私の頭の中で鳴り響いていたから。

「彼女は、本田未央さんは、一度だけ———」

 

「———アイドルを、辞めようとしたことがありました」

 

 

 夜になっても雨はまだ降り続いていました。用事が終われば雨が上がっているなんて思っていた少し前の私に「うそつき」とこぼします。

 ビルのガラスを雨が叩きつけています。外の様子は雨ににじんで良く見えません。どうしてか、目の前にあるはずの通路も同じように歪んで見えていました。

 雨音は鳴りやみません。それがいつからか人の声に聞こえだしました。私に見えない、私の知らないどこかで、みんなが大勢でおしゃべりしている。

「うそつき」

 けれど。みんなに私の声は届いていないみたいです。多くあふれる声たちは誰一人として、私を慰めてなんかくれない。

「……こんなにも、まるでステージの電飾みたいに、窓から見下ろす雨の街はきれいなのに。どうしてこんなに寂しい」

 いつもならカメラを構えている風景にだって、手が動きません。そこに大事なものが映っていないからだと、ふいに思います。

「未央ちゃん。あなたはいつも、いつだって…………どうして、私になにも教えてくれないの?」

 

 

「待ってください」

 そうしなきゃと思って立ち上がった私を、プロデューサーさんは引き留めていました。

「……まだ、なにかあるんですか」

 一刻も早く未央ちゃんに会わなくちゃいけないと思いました。

 未央ちゃんはもう、一人の女の子が背負う分としては重すぎるほどの、辛い道を歩んできたんです。

 何度も泣いて、何度も血を流して、その果てに無くすことを悲しいと思えなくなった。流す涙さえ枯れ果てた。

 だから、もう未央ちゃんには泣いてほしくなんかない。もう未央ちゃんには傷ついてほしくなんかない。そのために私の前だけでは泣いていてほしい。なにかあったら私に相談してほしい。もう一人では、背負い込まないでほしい。

 ————なのに。

「私は今すぐに、未央ちゃんを抱き締めないといけないんです」

 どうして未央ちゃんは、私になにも言ってくれなかったの。

「——————それは」

 私の目を見て、プロデューサーさんは何かを口にしようとしました。けれどすぐに首をふって、言いかけた言葉とは別の言葉を私に投げかけていました。

「彼女を、本田さんを、信じてあげられませんか?」

「…………」

 そんなの。いつだって、私は————

「そういう問題ではないんです」

「いえ。そういった問題です」

 私が二の句を告げる前に、プロデューサーさんは言いきりました。

「私の太陽。貴女は初めて会った時に、本田さんのことをそう表現しましたね」

「はい。それが……なにか」

「私は、太陽は沈んでこそ太陽なのだと思います。

 いついつかなる時だって、元気でいられるわけではない。夜になれば沈みます。雨が降れば、例え昼間であれその姿を隠してしまう。

 けれど私たちは信じている。

 夜が明ければ、雨がやんで雲が晴れれば、きっとその元気な姿でまた私たちを照らしてくれるのだと」

「…………」

 雨音に交じってこつこつとした靴音が近づきます。その音の持ち主はテーブルに置いてあったファイルの内側から、一枚の紙片を取り出しました。

「どうか見ていただけませんか。夜明けを待ち続けた太陽がようやく登ろうと、一歩踏み出す瞬間を」

「これは……」

「夏の間に、シンデレラプロジェクト全員での舞踏会(ステージ)があります。その先頭席のチケットです。本田さん、いえ、未央さんも私も、貴女に見てほしいと願っています」

 差し出されたチケット。それを私は————

「受け取って、いただけないでしょうか」

 

 

「すみません。私にはまだ、未央ちゃんを信じ切ることができません」

 私はそのチケットを受け取ることができませんでした。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 雨粒が作り出す影に、いつからかそんな声が重なり出します。その中をゆっくりと歩いていきます。

 帰り道、どうしよう。

 このままじゃ濡れて帰っちゃう。風邪をひいてしまうかもしれない。お母さんに叱られてしまう。プロデューサーさんに心配をかけてしまう。

 未央ちゃんに——————未央ちゃんは、どうするんだろう。

 やっぱり心配するのかな。でも、雨の中を傘もささずに帰るのはきっと悪いことだから、だから未央ちゃんは私のことを叱るんだろう。あの雪の日に、互いが悪いことをしたら、互いにそうするのだと誓い合ったのだから。

 それでいいと思う。それで少しの間だけでも、未央ちゃんが私のことだけを考えてくれるのなら。未央ちゃんが、悲しいことを忘れてくれるのなら。

 それに、私だって彼女のことを叱ってもいいはず。だって未央ちゃんは私に何も言わずに、アイドルを諦めようとした悪い人————

「違う」

 水たまりに足を踏み入れたよう。滲みこんで来る強烈な嫌悪感に、私は思わず拒絶を示していました。

「未央ちゃんは、悪い人なんかじゃない。未央ちゃんは……悪くなんかない! 悪くない、のに」

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 雨音が心なしか増えたような気がします。波打つ影が多くて、どんどん足元が不確かになっていく。しっかりと踏みしめられるはずの床に、足をからめとられてしまうみたいに錯覚してしまう。

「私、わたし、……あなたのことを信じたいのに。どうしても、信じられない。心配しないなんて、できっこない」

 ねえ、未央ちゃん。今どこにいるの。私は、ここにいるよ。だから早く見つけて。

 ゆっくりと水面のような事務所の通路を進んでいきます。

 どこまでも暗闇で、どこにいても雨の音しか聞こえない———

 ———そこに、まだ明かりを灯したまま、雨音以外の音を鳴らしている場所を見つけました。

 

 きゅっ。きゅっ。

 

 床を布かなにかでこすっているような。そんな音でした。足を止めて、私はその隣の部屋に滑り込みます。

 トレーナー室と名付けられたそこは、壁の一つ、側面に大きな大きなガラスがはめ込まれていました。それが本当はガラスではないことを、この事務所に所属している人ならばみんな知っています。

 マジックミラー。魔法も魔術もかかっていない、ただ表側から視れば鏡になっているだけのガラス。裏側からなら表側で自分一人、鏡と向き合っている誰かを見ることができる。

 表はレッスンルーム。そこでステップを踏んでいたのは。

「未央、ちゃん」

 茶色のくせ毛に汗を滴らせて、その内の何本かがしおれて、それなのに彼女は懸命に、ただまっすぐに正面だけを見据えていました。

 その瞳に、痛いほど不器用に前だけを見つめるそこに、私の姿は映っていませんでした。きっと私の声だって、かけている音楽と雨音にまぎれて聞こえない。

「…………失敗しちゃえ」

 自然と口が動いていました。私は口をおさえることもせずに、むしろ自分でもそう望んで。

 何度も、何度も何度も、何度も。何度だって、呪いのように繰り返していました。

「失敗しちゃえ」

 足が間違った場所に置かれるたびに思います。

「失敗しちゃえ」

 手ぶりが先走るたびにこぼします。

「あきらめちゃえ」

 転んでしまいそうになるたびに、本当に転んでしまうたびに、ただ立ちすくんで唱えます。

 ……だって、そうすれば、未央ちゃんは私を頼ってくれる。私に駆け寄って、私の前だけで泣いてくれる。

 けれど、そんなことは一度も、この日だってありませんでした。

 

「……………………まだ」

 

 何かを間違えてしまうたびに、彼女はやり直しにとそう呟いて。

 

「………………まだ、まだ」

 

 何かを先走ってしまうたびに、彼女は自分にそう言い聞かせて。

 

「…………まだ。————まだまだぁ!!!」

 

 転んで、膝をすりむいて、足をくじいて。もう立ち上がれないと顔を歪ませるたびに、そんなふうに叫んで。

 そんなことを、私の声が出なくなっても未央ちゃんは続けていました。

 

 

 あの日、私は彼女に負けたのでした。

「さ~て。お送りしていますはマジックアワーSP! 司会は私、川島瑞樹。そしてゲストには」

「おっはようございま~~~す!!!!!! え。これが放送されるのはまだまだ夜だ、ですか!? わっかりましたあ!! みなさん、こーーんばーーーんは~~~~~!!!!!!! 日野茜です!!!!」

「こんばんは。ゆっくりできていますか? 高森藍子です」

「この三人で、引き続き盛り上げていこうと思います。さて、お次はマジックアワーメール(マジメ)のコーナー。二人とも、さっそくだけどお便りを紹介しちゃうわ。えっと、優しい世界? 在住、夢見るRさんからのお便りね」

『こんにちは』

「「「こんにちは」」!!!!」

『ボクはゲストのお二人の大ファンです! お二人が歌う元気で優しい歌にいつも励まされています』

「いやあ~~!! うれしいですね藍子ちゃん!!!」

「はい! 私たちの歌で、そんな気持ちになってくれるなんて。アイドルをしていて、これほどうれしいこともないです」

『そんなお二人に質問です。お二人は最近、注目しているアイドルはいますか? よければ教えてください』

「だって。それでそれで、だれかいい人いないの?」

「川島さん、その聞き方はなんだか少し違うような……」

「はい!!!!!!!」

「はい。元気がいい。茜ちゃん」

「ズバリ! クローネの鷺沢文香ちゃんです!!」

「あら。茜ちゃんとは全然タイプが違って見えたけど、どうしてなのかしら?」

「ふっふーん!! 文香ちゃんの魅力は見た目だけでは測れないのです!!! 話してみるとほんとうに、色んなことを知っていて、それを全力で!! 話している相手に伝えようとしてくれるんですよ!!!!」

「へえ。大人しそうに見えて、案外情熱派だったりするのかしらね、あの子。藍子ちゃんはどう?」

「私ですか? そうですね、私も鷺沢さんとはいいお話ができそうだって思います」

「そうなんですか!!!?! ぜひ今度一緒に走りましょう!!!!」

「うーんこの天然ゆるふわ空間。藍子ちゃん、文香ちゃんのことじゃなくって、あなたが最近注目してる子のことを聞いてるのよー」

「あ、はい。えっと、それでしたら…………本田未央ちゃん、です」

「それって、CPの?」

「……はい。以前、遅くまで一人レッスンルームに残って、頑張っている姿を目にして」

「————ああ。それで」

「はい」

 

「私も——————負けたままではいられないなって」

 

 

シキちゃんの愉快な殺人計画

 

「その先へは飛べないわ」

 春の生温かい雨が降っていた日のことだった。

 ふらりと立ち寄った廃ビルの屋上。まだほんの1メートルと少ししかなかったわたしの細く短い手足でも、軽くよじ登れてしまいそうなフェンスの先。わたしは傘を差して、空ではなく、眼下に這うように広がった遠いアスファルトの表面を眺めていた。

「ただ、落ちるだけ」

 振り向く。まだその手の知識には乏しかった——今のアタシにも、その手の知識が多いとは到底思えないけど——その時のわたしにも一目で高価だろうと分かる、白地の着物を着流した女の人。わたしと同じく傘を差していて、その上割合に遠くから声をかけていたみたいだったから、顔は雨粒を弾く蝙蝠の皮膜に遮られて見えなかった。

 なんだか不思議な雰囲気をまとっていて、傘なんてなくても、雨に濡れることはないんじゃないのか。

 わたしらしくもなく——そして、アタシらしくもなく——そんな現実味のないことをほんの一瞬考えた。それほど、彼女という存在はこの世界から浮いて見えていた。

 そんな現実離れしたモノを、わたしは欲さなかったらしい。ただ、何よりも重く、誰にでも平等に与えれるモノ。それを求めて、深く知ろうとしていたわたしは一言。

「識ってる」

 と、にべもなく返事を返して、またアスファルトの観察に戻った。

「あら。お利巧さん」

 赤い蝙蝠傘の下で女の人がくすくすと笑っているような気がした。

「そうよね。なら、飛べないなんて言うべきじゃなかったかしら」

 拾った石ころをフェンスの外から落とす。同時にストップウォッチを起動。ビルの高さHが決定。

「ああ、そうだ。きっとあなたには、こう言うべきだった」

 重力加速度gは9.80で固定。地面衝突時の衝撃Fが計測したT秒後には訪れる。わたしが求めるものは、きっとその先に———

「———その先には、何も無いわよ」

 雨がやんでいる。傘に雨粒が当たらない。何か、より大きなものが、わたしとわたしの傘を覆っていた。

「そんなモノを求めても、そんなモノを識っても、誰もあなたを褒めてはくれない。だって、そこには意味すらも無いのだから。無いモノをいくら集めたって、それはただ気持ちが悪いだけ」

「……それでも、わたしは知らなきゃ。だってそうでもしなくちゃ、パパは……」

「————そんなに、死にたい?」

 また、雨が降り出した。わたしを覆っていた大きなものは、わたしの傘ごと引きはがされて、雨粒に濡れるわたしと女の人の顔だけが認識の中にある。

 まるで地球(ほし)に直接覗かれているよう。アタシのよりも青いその瞳にわたしは自然と手を伸ばしていた。

「なら————オレが殺してやる」

 

 春の生温かい、血のような雨が降り続く日のことだった。

 どこからともなく振り下ろされたナイフの一振り。それと、たった一言。

 

「—————————————、———————————」

 

 それだけで、死にかけだったけれど、それでもバカ真面目に生きたがっていた一ノ瀬志希(わたし)は死んで。

 否。殺されて。

 代わりに、どうにも生き方を定められない一ノ瀬志希(アタシ)だけが生き残った。

 

 

「ま、そう思い込んでるのは、この志希ちゃん一人だけなんだけどにゃー」

 東京都渋谷区、346プロ地下、いつものラボ。

 完成した薬品とその失敗作がいくつか転がるデスクの上。そこで同薬品の研究データを表示しているPC以外に、光を放つものが一つもない穴倉。

 あくびを一つ。試験管に入れられた無色透明の液体を眠気まなこで見やった。

 面白そうだと思って作り始めてはみたものの、案外にてこずった。ようやく満足できる効果にはなったけれど、その効果も半日で切れてしまう欠陥品。今以上の延長はどうやら期待できそうにない。

「けどまあ、計画には十分かな」

 マウスを操作。閉じかけた画面は今日の日付と時間、2016年5月14日の10時24分を表示して、すぐにまた乱雑に散らばった研究データの数々を広げた。

 数字とアルファベットとほんの少しの日本語から構成されたフォントの羅列。それらをすべて後ろに追いやって、堂々と最前列に鎮座しているのは書式データではなく、一人のはねっ毛の少女を映した画像。

 それを一握りの親しみと、どうにも名付けられない感情をこめて、

「待っててよ。今すぐコレで———」

 薬品の研究データもろともに削除した。

 

 




「アホ〇トキシン346~~~」

「お、おねえちゃーーーーーん!!」

「あ、あきらちゃん。髪の毛の先すすらないで、色付きそーめんじゃないから!」

「おねえちゃん。だれ?」

「未央ちゃんだけなんだよ。今までのこと、何にも憶えてないの」

「それでも藍子さんは、未央さんを迎えに行くんですか?」

 ————私の守りたいもの。私にとって大切なもの。
 それをこれ以上、独りぼっちにさせたくないのなら。
 私は————————


 次回『After4/春の雨に連れ出して』

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