Fate/Cinderella night. Encored Grail war ~ニュージェネ+αで聖杯戦争~ 作:藻介
ははは、そーんなまさか。
…………ほんまや。
とまあだいぶ遅れましたが、後日談藍子編、ようやく開幕です。
Interlude
数日の間中、人目を避けた場所でずっと血を吐き続けていた。
あらかじめ分かっていたことだった。当然の結末だった。
一晩でできる最大限の準備をしておいたとは言え、魔術刻印を強引に廃棄した。それは九歳の誕生日からずっとずっと手放さないように、無理をし続けてまで維持していた臓器。手放すのなら、この六年間にしてきたのと同じだけ、無理をしなくちゃならない。
「…………ッ」
……それに、したって——これはきつい。
今朝、あーちゃんの前で堪えきれていられたことが、二度と起こり得ないような奇跡に思えてしょうがない。
吐き出す。血の一滴、胃液に唾液に涙。体中ありとあらゆる箇所を裏返して絞り出す。そうまでしても吐き出せないものがあった。
右手を強く握りしめる。今日一番最初に吐いた時、咄嗟に口元を抑えた右手のひらはその時の血で赤黒く汚れていた。
「病欠の連絡、済んだわよ」
洗面台の鏡に凛ねえの姿が映っている。
「あ、ごめ…………う」
油断した。
「……っ、バカ! こっちはただの報告。ただあんたは黙って聞いてればよかったのよ。だってのに……」
返事さえ、今、凛姉がどんな顔をしているのか、頭を上げて確認することさえできない。
また、しばらくの間吐き出し続けていた。
視界にはシンクの白と吐き出した諸々の混ざりあった黒だけが映っている。もうとっくに凛ねえは立ち去った後で、背後にはもう誰もいないものだと思っていた。
「ねえ、苦しい?」
だから、すこしだけ驚いた。まだそこに彼女がいたことにもたけど、それ以上に彼女の言葉がこれまで聞いたこともないような調子で言われたものだったから、その声を聞いている間だけは、忘れられない物からも、驚きで目を反らすことができるような気がした。
「なんて、そんなこと聞くまでもなかったわね。苦しいのは当たり前。だって、あんたはその苦しみと同じだけ大切なモノを手放したんだもの。これまでの研鑽も努力も、それまでに捧げた犠牲も全部。今のあんたが苦しければ苦しいだけ、みんな等しく平等に、あんたにとって大切だったモノで——全部、意味のあるモノだったのよ」
独白は続く。私がこれまで必要だったもの、これから不要になるものを吐き出している。一方で凛ねぇは、これまでも、そしてこれからも、自分にとって不要になる何かを吐き出しているみたいだった。
「未央、あんたは幸せになりなさい。でなきゃ、そうでもなければ……分からないじゃない」
けれど、その先だけは彼女にとっても捨てられないものだったらしい。これまでとは打って変わって必死なその声は、私がいつも想像している凛ねえのイメージとは、ひどく食い違っていた。
「あんたは何のために、あなた達はどうして、そんな地獄を生き抜いて見送られたのか。あなた達みたいなのが報われなきゃ、そんなの、どうしたって嘘じゃない」
——何のために、どうして、私は生きているのか。その答えなら、もうとっくに得ている。
始まりが何だったのか。そんなこと、もう私には思い出せもしないことだけど、それでも今の私は自信を持ってこの答えを張り続けていけるから。
目をそらし続けられたのはどうやらここまでだったらしい。いつもの情景が脳裏に蘇ってくる。片時も忘れたことなんてない。いつだって忘却を望んでいた。けれど、私がけっして手放せないもの。
顔を上げる。吐き出しかけた何かをもう一度、喉の奥に押し返した。
Interlude out
2016年 5月14日(土)
聖杯戦争終結 一年後
その日のお昼は数日ぶりにアーネンエルベでとることにしました。
午前でお仕事が終わり、帰り際にと立ち寄ったのです。未央ちゃん茜ちゃんたちはもう少しかかるとのことで、まだ事務所の中。今頃は食堂でB定食のカレーをお代わりしているころなのではないでしょうか。
「ひびきさん、シエルスペシャルお代わり」
「なんの。私もお代わりをお願いします」
「は~い! かしこまりました~」
丁度、私が座っているカウンター席の一つとなりで繰り広げられている光景と、同じくらいには。
「あんたらさあ。フードファイトじゃないんだから、もっとゆっくり食べたらどうだ?」
ウェイトレスの千鍵ちゃんが、お皿を山のように積み上げているお客さん二人に話しかけました。するとお客さんのうちの一人、シスター服と眼鏡を着こなしたカリー・ド・マルシェさん(仮名)、そのお隣からひょっこり出てきた小さな女の子が代わりに答えます。
「そうですそうです。そこのカレーマスターはともかく、セイバーさんまで張り合わなくてもですよねぇ。あ、こっちもニンジンお代わりでお願いしまーす」
「てめえも人のこと言えた立場か!! ……はあ、冷蔵庫の食材、あとどんだけ残ってるんだろ」
憂鬱げに溜息をつく千鍵ちゃん。その脇で
『どおしたんですかぁ、ミスミドリ? そーんなに嫁の作ったまかないを食べられないのが心配ですかぁ?』
「誰が嫁だ、誰の」
「チカちゃん。今日のお昼なにがいい?」
「オムライス!」
『やっぱ嫁じゃ————スターライッッツ……!』
真っ二つに両断されるケータイさん、なおも積み上げられるお皿の山、描写が追い付かないほどに数多く訪れたお客さんたち、そして止まらないカレースパイスの香り。
パンケーキとコーヒーのおいしいおしゃれな喫茶店アーネンエルベ。この場所では時折こうして、会えるはずのない人たちが出会い、一緒にお茶を楽しむことができます。
つい先日も、
「アイドル!? しかも本職?! いいわ。私の歌声がどこまでプロに通用するのか、ここで試して……って子リス? 子ジカまでそろってなにするのよう! 待って、アタシのメジャーデビューがぁぁああ!!」
他のお客さんたち曰く絶体絶命の
「ごめんね藍子ちゃん。いつも騒がしくて」
「いえいえ。賑やかなのは嫌いじゃありませんから。むしろこうして、皆さんと会えるのを楽しみに来ているくらいなんです」
「そう言ってもらえると本当に助かるよ」
「チカちゃーん! 料理出来上がったから持ってって!」
「今行くー! じゃ、藍子ちゃん、難しいだろうけどゆっくりしていってよ」
「はい。千鍵ちゃんもお仕事頑張って」
キッチンからの呼び出しを受けて、千鍵ちゃんは奥へと戻っていきます。
お昼はすでに片付いて、けれど夕飯の買い出しにはまだまだ早い時間です。アーネンエルベのお店の中からも、少しずつ人が減り始めていく。お茶を一杯頼んでゆっくりしていると、隣にかけていたお客さんが、
「大変美味でした」
と、ずいぶん今更になって手を合わせました。さらにそのお隣ではスプーンを握ったまま、空っぽのお皿に顔をうずめたカリー・ド・マルシェさん(仮名)……長いので、この際私もシエルさんと呼ぶことにしますが、そのシエルさんがいたく幸せそうな顔で気絶していました。
「あの、大丈夫なんですか?」
けろりとした様子で口元を拭いているお隣さんに尋ねました。
「ああ。ご心配には及びません。シエルでしたら、一日のカレー摂取量を200
「いえ。むしろ私はあなたの方が心配というか」
あのシエルさんが倒れるほどのカレーと同じ量を食べておいて、平然としていられるというのは、一体どういうことなのでしょう。
「私ですか? 5食、いえ、あと4食は入ります。それ以上は夕飯に差支えが出てしまいますから」
つい目線が下へと移ってしまいました。……ウエストは、見たところ私よりも細い。しかも食後でふくれている様子もなくって——いったいどんな体重管理をすれば、あれだけ食べてこのスリムボディに……!?
「あの。どうかしましたか、レディ」
「……あ! いえ、なんでもないんです! なんでも……」
「?」
傾げられた首について行くように、金糸の前髪が碧色に透き通った瞳の前で揺れ動きます。
一つ一つの所作がおとぎ話に出てくる騎士のようでした。かと思えば、その容姿は同じくおとぎ話の、こちらはお姫様のよう。
そのちぐはぐさに戸惑います。私のほうから話しかけたんだから、やっぱり話題はこっちで出したほうがいいのかな? いや、それよりも前に、まずは。
「高森藍子です。アイドルをやらせてもらっています。お名前、教えてもらってもいいですか?」
「おや、これは失礼しました。しかし……そうですね」
頭を捻って、なにやら考えこんでいる様子をとります。ですが、それもすぐに終わり。
「かつては名前を秘することも必要でしたが、それにももはや意味はないでしょう。アルトリアと、今はそうお呼びください。藍子」
金色の髪を長く垂らした、水色のワンピースドレス姿の少女は柔和な笑みを浮かべて、そう自分の名前を明かしました。
「それじゃあアルトリアさんは、冬木じゃなくて、もっと遠いところに住んでいるんですか?」
「はい。アーネンエルベには比較的よく
地図にも載らず、人がつけた名前も持たない理想郷。英霊の座からも遠く離れたその場所で、彼女はずっととある人物の到着を待って、眠り続けているのだと言いました。こうしてアーネンエルベに姿を見せているこの瞬間は、本来の彼女にとって夢の中でのほんのひと時なのだそうです。
これまでアーネンエルベで出会ってきた人たちの中でも、アルトリアさんはまた、不思議な存在みたいです。
「いえ。アルトリアさんの方こそ気にしないでください。しょうがないことなんですから。それに、今日こうして出会えたんです。それだけで十分ですよ」
「そう、なのですね。はい。私も今日、藍子と会えてよかった」
柔らかく笑う人でした。つられて、私の頬までほころんでしまいます。
「それで、アルトリアさん」
「はい。なんでしょう。藍子」
「アルトリアさんは——」
——どんな用事でアーネンエルベを訪れているんですか。
つい口走ってしまいそうになったその先を私は喉元でひっこめて、
「聞かせてもらっていいですか? その、アルトリアさんが、待っている人のこと」
自然と、今日初めて会った相手に対しては不自然なほどに自然と、そんなことを尋ねていました。
「……あ、ごめんなさい。やっぱり、おかしいですよね。私たちまだ会ったばかりなのに」
「え。あ、いえ。そんなことは」
アルトリアさんからの返答もはっきりとしないものでした。
「あの。どうかしましたか? アルトリアさん」
「……いいえ。どうやらこちらの気のせいだったようです」
「はあ」
何か気にかかることでもあったのでしょうか。ですが、アルトリアさんはそこには触れることなく、話題を元に戻していました。
「それでたしか、私の待ち人の話でしたね」
頷きます。
「無理を言ってまでは聞きません。それでも、私はやっぱり気になっちゃうみたいです」
どうしてここまで気になっているのか。その理由をしっかりとした形のある言葉にすることはどうにも叶いませんでした。しいて言えば、直感でしょうか。
今日この日、このアーネンエルベでアルトリアさんと出会ったことには、きっと偶然ではなくて、何か理由があるんじゃないのか。そんなふうに思っただけ。
例えそれがどうしようもなくちっぽけで、くだらないことだったとしても。
私には、この人から聞いておくべきことがある。そんなふうに感じてしまったんです。
「なるほど。構いませんよ。——それに」
「それに?」
つい前のめりに、アルトリアさんの話の続きを促してしまっていました。しかしアルトリアさんはそれを気にすることもなく、遠く、注がれた紅茶の湖面に映るどこかを見つめています。
その目元は、かつて凛ちゃんを探し続けていた時の卯月ちゃんに、よく似ていて。
「今日ここに来たことは、彼と全くの無関係というわけでもないのですから」
だから、それはきっと、鉄を飲むような運命のお話で。
同時に、どこまでもまっすぐで力強い、愛の物語なのでしょう。
「————彼の名前は、衛宮士郎というのです」
第五次聖杯戦争。
私たちが体験したあの再演された聖杯戦争、そのオリジナル。
アルトリアさんは、その第五次聖杯戦争にセイバーのサーヴァントとして召喚された英霊でした。そしてこの時、彼女のマスターになったのが衛宮士郎さん。
私が知っている人と同姓同名のその彼とアルトリアさんは、聖杯戦争の期間中、お互いの意見の食い違いから何度も衝突したそうです。
「とてもそんな人には見えませんでしたけど」
「いいえ。シロウはとても頑固なのです。マスターなのにサーヴァントである私を守るだとか。そのくせ魔術の腕は素人で、私への魔力供給も雀の涙ほど。これではとても聖杯など手に入らない」
士郎さんへの不満そのものを言葉に詰め込むアルトリアさん。けれど、その表情は違っていました。くすくすと笑いながら、思い出を並べています。
そこにすこしだけ陰りが混じりました。遥か後ろへ過ぎ去った景色を思い返しているみたいでした。
「私は、失ったモノを取り戻したかった。終わってしまったものをやり直して、よりふさわしい誰かが治めた故国を夢見たのです。彼は、……彼にだって、失ったモノがありましたから。だから私は、きっと彼ならば、この願いを分かってくれると思っていました。
けれど——」
——そんなことは望めない。
かつての士郎さんはアルトリアさんの前で、そう答えたとのことでした。
「それは裏切りだと。起きてしまったことを無かったことにはできない。そんなことをしてしまえば、失った意味さえなくなってしまう。そうならないために、次にもし、もう一度同じことが起きてしまったなら、その時には、一つでも多くの命を救い出してみせる。だからシロウは自分を助けだしてくれた者と同じ、多くの人々を助ける正義の味方になりたいのだと」
「そんな、……けど、それは」
都合のいい幸せを、手触りのいいごまかしを素直に受け止めることができず、自ら傷ついていく。その在り方は。
「はい。その在り方は人間としてひどく歪です。彼はいずれ破綻するでしょう。それでも私は、彼の誇りを否定したくなかったのです」
————たとえその歩みの向かう先が、地獄だと分かっていたとしても。この
それは、過去を背負って未来へひたと歩き続けるその在り方は、この一年間私が見続けてきた未央ちゃんのそれに、どこか似ているような気がして。
「聖杯を破壊したのち、私たちは別れました。互いに互いの譲れない思いを愛して、それを大事に守ってもらうために、私たちは道を違えたのです」
だから、だったのでしょう、
「……寂しくは、なかったんですか?」
私は自然と、私たち二人をアルトリアさんたちに重ねて、つと胸を押し上げたこの気持ちをこらえることなく溢してしまっていました。
「いいえ。——と言ってしまえば、嘘になってしまうのでしょうね」
これにもやはりアルトリアさんは、穏やかな様子で微笑んで返します。それから、すこしだけ頬を朱色に染めて告白しました。
「夢の続きが見たくって、もう一度、もう一度と、何度もまぶたを開いてはつむってを繰り返したのです。部下が遠くに行っていたことを良いことに、我ながらほんとうに未練がましく。
その内に永いまどろみが訪れて、今もこうして眠りこけています」
「……すごいんですね。アルトリアさんは」
「む? なんのことですか、藍子」
「ああ、いえ。ただ、すごく強いんだなあって思って」
アルトリアさんはなおも首をひねっていました。そんな彼女にどうにか伝えようと、必死に言葉を探します。その結果、私はもう一人、その強さを尊敬する大切な友達のことを思い浮かべました。
「私の友達に、アルトリアさんと同じような、全くとは言いませんけど似た経緯を辿った人がいるんです。互いが互いを思い合っていて、それでも互いの在り方を強く尊重し合ってもいたから、そのために一度離れて。離れている間も彼女はずっと相手のことを思って、待ち続けていました」
「その方たちは?」
「はい。次の春、どうにか無事に再会しました」
「————そう、でしたか」
アルトリアさんは心底ほっとしたように胸をなでおろしていました。
頼んでいた二杯目のお茶が届きます。砂糖とミルクを一つずつ、マドラーで溶かし込んだそれらは、いつか学校の屋上から卯月ちゃんと見上げていた薄い筋雲と同じ色をしていました。
「彼女のことを私は尊敬しています。どんなに辛くても寂しくても、思う相手のことを信じていられた。純粋に恋をしていられた。私には彼女たちがとても眩しく見えました。——だって、もしも私が同じ状況に陥ったら、その時には私はきっと耐えられないはずだから」
とてもあの時の卯月ちゃんみたいに、今も隣で微笑みを絶やさないアルトリアさんみたいに、心の底から笑うことなんてできなくなってしまっていたから。
「だから、一人でも立っていられるアルトリアさんたちの事を、私は強い人たちなんだって思うんです」
「それは違う。藍子」
「え?」
思いもよらない強い否定に、俯けていた顔を上げました。
「一人でも生きていくことのできる人間ならば、たしかに存在するのでしょう。しかし、寄る辺を失くして生きていられる人間は、その実一人もいない。誰もがそれを持ち、失くした時にはひどく弱るものです。藍子のご友人もあるいはそうだったのかもしれない。貴女に強いと言ってもらえた私だってそうだ。
——現に、私はそれを求めて、今日この日、アーネンエルベで彼を待ち続けているのだから」
「……士郎さんに会いたい。そういうことですか?」
私の憶測にアルトリアさんは首を振ります。
「私と彼が会うべきは今ではありません。いえ、貴女の話を聞く限りではこの冬木の彼は、私が会うべき衛宮士郎ではないのかもしれない。きっと一目見ることも叶わないでしょう」
微笑みの絶えなかった表情が、この時だけは俯けられていました。その奥にある碧色の瞳も頼りなく揺れていて、唯一、自分自身を鼓舞する声音だけが毅然としたまま。
それはまさにアルトリアさんの言う、寄る辺を失くして弱ってしまった人そのものでした。——だからこそ、その願いは誰よりも切実なものに聞こえたんです。
「けれど私は、どうしても確かめたかったのです。
彼の歩む道は長く険しい。心がくすんで、体がさび付いたとしても途絶えることのない旅路。そんな道を、今も彼が諦めずに歩んでくれていると確かめたかった。その道の先で私が、これからも待ち続けていられるように、彼のことを信じ続けていられるように。
彼がまだ自らの誇りを諦めずにいてくれているのだと確かめたかったのです」
「…………」
優しくない私は胸の内で考えてしまいます。
率直に言って、アルトリアさんの望みは叶わない。一目見ることさえもできない相手のことを詳しく知ろうとすることは、ひどく難しいことです。
そのことに気づいていないはずがありません。
————それでもアルトリアさんは、確かめずにはいられなかった。
「……士郎さんのことを信じたいから、アルトリアさんは今も待ち続けているんですね」
ほとんど自分自信に向けて呟いていたこれに「はい」とアルトリアさんの返事が追ってかぶさりました。
自分の弱さを否定しないこと。弱さを拒まず受け入れて、それを愛おしく思うこと。
——ああ。なんだか、やっと分かった気がする。
きっとこれが、私が憧れていた卯月ちゃんやアルトリアさんの持つ強さの正体。ただ彼女たちが真剣に恋をして、ときおり辛いことに涙を流して、それでもあきらめずにいただけのこと。それは————
「アルトリアさんは士郎さんのことが大好きなんですね」
そんなごくごく平凡で特別でもない小さな、けれど何物にも代えがたい青く晴れ渡った空の眩しさのような。
——ただ、それだけのことだったんだ。
不意なことだったからか、アルトリアさんは目を大きく見開いて、少し前よりも急激に頬を朱色に染め上げてしまっていました。すぐに紅茶を二、三口。落ち着いたのかと思えば、まだ顔は赤いままで、さっきまでの凛々しさが風に吹かれて、どこかへ飛ばされてしまったよう。
それから優しく微笑んで「はい」と、ずいぶんと時間のかかった返事をくれました。
なんだか私も嬉しくなって、精一杯に口端を押し上げて、
「私もただ、未央ちゃんのことが好きで好きでたまらなかっただけなんだ」
そう、いつかの自分を笑い飛ばしました。わけも分からないでしょうに、これにもきちんとアルトリアさんは「はい」と頷いて、私たちはまたお茶に口をつけます。
「ずっと、ずっと考えていたんです」
紅茶が喉を通り過ぎるのを待ってから、溜息のように吐き出しました。アルトリアさんは何も言わず、私が先を続ける様子を見守っているみたいで。それを見た私はなんだか安心しきって、誰にも相談できずにいたことをぽつぽつと手の中のカップへと浮かべていきます。
「一度、大好きな人のことを信じられなくなったことがあったんです。私にはあの人のことがどうしても必要だけど、あの人はそうでもないんじゃないかって。
今も私は、またいつか大好きな彼女のことを、未央ちゃんのことを信じられなくなっちゃうんじゃないかって、そう思うことがずっと怖いままで。きっとその時には、未央ちゃんの味方でさえいられなくなってしまうかもしれない。そう考えただけで、息をするのがひどく難しくなってしまって。私は、なんていやな女の子なんだろうって。
そんなふうに、あれからずっと考えていました」
でも。
「でも、違うんですよね。こんなことは全然、特別なことでもなんでもなくって。全然おかしなことでも悪いことでもなかった。
——私、未央ちゃんのことが嫌いになったわけじゃなかったんだ」
ただ、見上げた空があまりにも青く広がっていたから。それに比べて、私はなんでこんなにも汚れているんだろうって、そう考えてしまっていただけだったのでしょう。
けれど、だからこそ、特別でもなんでもないこの痛みに気づくことができた。
「ありがとうございました。アルトリアさん。あなたに会えたおかげで私、大切なことに気づけた気がします」
「……いいえ、私は何も。私はただ貴女に話を聞いてもらっていただけだ。それでも藍子が何らかの答えを得たというのなら、それはきっと貴女が初めから自分の中にしっかりと持っていたものだったはずです」
「い、いえ。そんなまさか」
首振り否定する私を、そんなことは言わせないとアルトリアさんはまっすぐに見つめます。
「貴女は気づいていないのでしょう。ですが私は貴方も十分に強いと思うのです。貴女の強さは我々のそれとは本質的に違うものだ。私たちの強さが戦闘という否定から入るのに対し、貴女が持っているそれは特別ではない様々なもの、何気ない幸せを純粋に肯定できる強さなのでしょう」
「否定ではなく、肯定……ですか」
「はい。だからどうか、藍子。貴女は、そんな自分自身の強さをこそ、自分の正直な気持ちをこそ大事にして欲しい」
——私はそんな当たり前の営みを信じて、あの日、選定の剣を抜いたのだから。アルトリアさんはそう言って、紅茶の最後の一滴を片付けたのでした。
鐘の音が聞こえました。
ふと背後の大きな壁掛け時計を見やれば、それはいつの間にか夕方の6時を知らせていて、通りに面した大きな窓からも西日が射し始めていました。店内にはあれだけいたお客さんが誰一人として残っておらず、厨房から聞こえる水音さえなければ、アルトリアさんと二人、無人の街に飛ばされたのだと錯覚してしまっていたところです。
「すみません、アルトリアさん。こんなに長く付き合わせてしま……って、あれ?」
そのアルトリアさんの姿も、いつの間にか消えてなくなっていました。テーブルの上にポツンと、先ほどまで彼女が使っていた空のティーカップが残されていて、それだけが今までの出来事が白昼夢なんかではなかったのだと主張しているように思えました。
手に取ってじっと見つめます。そんなことをしていたら、奥から千鍵ちゃんがやってきました。
「あれ、藍子ちゃん? もうすぐディナー営業に切り替えるから、一旦閉めるんだけど」
「あ、はい。すみません。すぐに出ますね」
席を立って、千鍵ちゃんに持っていたティーカップと、ついで私が持っていたカップも手渡し、お勘定も済ませます。
「あの、千鍵ちゃん」
「ん。どうかした?」
「私のとなりで、ついさっきまで私とお茶していた人がいたはずなんですけど」
「ああ、セイバーさんね」
私が聞いていた物とは違う名前で(おそらくは)アルトリアさんのことを呼ぶ千鍵ちゃん。
「大丈夫だから。藍子ちゃんが心配するようなことはないって。たぶんもうじき」
何か思い違いがあるようです。千鍵ちゃんは私が一体どんな心配をしたと考えているのでしょう。聞き返そうと口を開きかけたちょうどその時、
「あ。ほら来た。いらっしゃいませー」
と、私の肩越しにお店の入り口を目線で指します。
「ああ、えっと。電話で呼ばれた衛宮ですけど……っと、高森か?」
「はい、ご無沙汰してます。士郎さんこそ、どうしてここに?」
去年の冬、聖杯戦争が終わったその後に未央ちゃん経由で知りあった義姉さんの恋人、衛宮士郎さんが、ドア上縁の柱材にぶつけてしまった紅茶色の髪を撫でていました。痛がっているその表情からは、実際の年齢よりも幼いような印象を受けます。
「いや、ただの野暮用だよ。もともと別に用事があって冬木に戻ってたんだが、そんなときにここから電話が来てな」
「はあ」
いまいち事情がつかめません。それは士郎さんの側も同じみたいで、撫でていた髪をかき上げてはにかみます。
「(あれ? 髪、すこしだけ白くなってる?)」
指の隙間からこぼれた一房二房、まとまった小量の髪の毛が色を失っていたように見えた気がしました。
一年前には見られなかったことでした。若白髪にしては多いようなと、目をこすって見ればどうやら私の見間違いだったらしく、かき上げていた手を離して下ろされた士郎さんの髪の毛は、その一本一本まで私の記憶と何一つ違わない赤銅色一色のままでした。
「それで、そこの君。君が俺を呼んだ桂木千鍵で合ってるか?」
「おう。私だ。あんたが衛宮士郎……て、なんかでかくないか?」
「は?」
「ああ、いや。こっちの話。気にすんな。それで用向きなんだが」
そう言って、千鍵ちゃんは一枚の紙を士郎さんに差し出します。あれは……
「アーネンエルベC定食、通称シエルスペシャル税込み874円。それが23皿とアイスティー2杯で、しめて21,074円。さっきの客があんたにつけといてくれってさ」
「…………なん、でさ」
千鍵ちゃんの側で立ち尽くしていた私には、彼女が突き出した領収書の裏側に何か、文字がかかれているのを見ることができていました。
『またお会いしましょう。 アルトリア』
「——はい。また」
その時には、アルトリアさんのお代わりをもう少し早く止めることにしようと、渋々ながらもお財布を懐から出す士郎さんを見て、私はそう思ったのでした。
私の電話が着信音を鳴らしたのは、ちょうどそんなタイミングです。
「文香さん?」
以前、
「もしもし」
『……高森藍子さんの携帯で、お間違えないでしょうか』
「はい。間違いないです」
受話口の向こうで、一つ安堵の息が漏れているように聞こえました。それもそう長くは続かず、彼女の声色になんだか張り詰めた空気を感じます。
「なにか、あったんですか?」
つい、尋ねていました。
『どうか……落ち着いて聞いてください。未央さんが、事務所内で失踪しました』
私はとても落ち着いてなんかいられず、電話を切ってすぐにアーネンエルベを飛び出していました。