狭間の領域から帰ったアリーゼが甲板へ上がると、そこにはレックスが待っていた。
「先生? どうしたんですか?」
「アリーゼ、話があるんだ」
レックスに来てほしいと言われ、アリーゼはその後ろをついていく。
既に日は暮れ、甲板を漂う空気は肌寒い。
船首付近に着くとレックスは足を止めて振り向いた。
「なんですか話って……」
家庭教師が改まって話があるなどと言いだしたことに生徒は疑問を浮かべる。
「実は……」
レックスから語られたのは今日の昼間に彼の側で起こった出来事だった。
鬼妖怪シルターン出身の住人達が暮らす風雷の郷を訪れたレックスは、鬼姫ミスミと出会う。
一児の母でもある彼女は、子供たちに島の外のことを教えてほしいとレックスに言う。
ミスミに頼まれて、島の子供たちの先生をやることになってしまったのだ。
「……そういうことで、島の子供たちの先生をやろうと思う。アリーゼは嫌かな?」
レックスとしては家庭教師としての誠意としてアリーゼに説明をしたつもりだった。
だが──。
「ずるいですよ……先生はもう約束しちゃったんでしょう?」
レックスのそれは事後報告だ。事前にアリーゼに確認したわけでもなく、彼女の意志を無視して約束し、その後に報告しているだけだ。
そこに誠意はあるのだろうか、と疑問に思ったからこそアリーゼはずるいと評する。
「約束したからやろうってわけじゃないんだ。胸を張って君の先生だって言えるように、先生としての勉強をしたいんだよ」
レックスにとって家庭教師をするのは今回が初めての経験だ。
だからこそ彼は先生としてまだ未熟であり、アリーゼに先生らしいことがあまり出来ていないと自分でも思っている。
アリーゼの家庭教師としてスキルアップするためにも経験を積ませてほしいということだった。
「……わかりました。でも、私の勉強もちゃんと見てくださいね。先生は私の家庭教師ですから……」
「わかってるよ。アリーゼのこともちゃんと見るって約束する」
「……絶対ですからね」
「うん。……さあ、明日の準備をしなくちゃな。俺は部屋に戻ってるから、アリーゼも早く寝るように」
そう言ってレックスが船内へ入ると、甲板に積まれた木箱の影から銀髪の男が姿を現した。
「アリーゼさん、本当によかったのですか?」
二人の話を隠れて立ち聞きをしていたメルギトスは少女の隣に歩み寄る。
「……良いわけないです。でも、あそこで私が反対したら先生困っちゃうから……」
「でしょうねぇ。彼は決定事項をアリーゼさんに伝えただけですから」
実質的にアリーゼに拒否権は無かったと言ってもいいだろう。
有無を言わさず頷かされた形となったアリーゼの中では不満が生まれていた。
「……先生は約束してくれました。私の勉強もちゃんと見てくれるって。だから……不満が無いわけじゃないけど……信じます」
ちゃんと自分の勉強も見ると約束したレックスを信じて、アリーゼは生まれた不満を抑え込む。
まだ短いながらも生徒と先生として過ごす中で、アリーゼはレックスに少しずつ信頼を寄せ始めていた。
そして、翌日。初めて島の子供たちも参加する授業が始まった。
『青空学校』は湖の畔に作られた。
切り株を椅子がわりにして、小さな黒板をノート代わりに。
大きな木の枝に大きな黒板が掛けられ、そのにレックスが文字を書きこむ形式となる。
「今日から君たちにこの世界の勉強を教える、先生のレックスだよ。よろしくね」
大きな黒板の前に立つレックスが自己紹介をしたことで青空学校が始まる。
「ほう……案外順調みたいですねぇ」
それを少し離れたところで見ている人影が三人。
メルギトス、ミスミ、そして昨日レックスに先生としての心得を叩きこんだ老人ゲンジだ。
「さまになっとるようじゃな……ところで、お主は?」
先生として授業を進めるレックスに感心するミスミは綺麗な黒髪を揺らして横に立つメルギトスの顔を見た。
「申し遅れました。あちらで授業を受けているアリーゼさんの護衛獣メルギトスと申します」
「妾も自己紹介が遅れたの。ほれ、あそこに鬼の子がおるじゃろう? あの子──スバルの母ミスミじゃ」
「なんじゃ、あのお嬢ちゃんの知り合いか。ワシはゲンジと言う。さて、あとはあの若造に任せるとしようかい」
「心配して見に来る必要もなかったみたいじゃからな。それじゃあメルギトス、妾たちはお先に失礼するぞ」
ミスミとゲンジが立ち去ってしばらくすると、青空教室に変化が起こり始めた。
「先生、この部分の計算がわからないです……」
「どれどれ……」
「やめろってば!!」
計算問題を解いていたアリーゼだったが、分からない箇所が出てきたらしく、レックスに尋ねる。
レックスがアリーゼの教科書を覗き込むと、スバルの大声が青空学校に響く。
「ごめん、ちょっと待ってて」
アリーゼに教えるのを中断したレックスは、計算が解けなくて困っている少女の目線をうけながらも、大声の発生源に向かってしまう。
子供たちの集中力が切れてふざけ始めてしまったようだ。
レックスは子供たちに注意をすると、アリーゼの下に戻ってくる。
「お待たせ、アリーゼ。ここの計算はね──」
「返してってば!!」
「……また……」
今度の大声はスバルの友達、犬の獣人パナシェの声だった。
再びふざけ始めた子供たちを注意するためまたレックスがアリーゼから離れ、レックスは島の子供たちにかかりきりになってしまう。
レックスが子供たちを止めようと注意を続けるが、彼らは聞かずにはしゃぎ続ける。
先生は離れていなくなってしまい、子供たちの大声が響き、授業が滅茶苦茶になってしまったことで、ついにアリーゼの堪忍袋が切れる。
少女は約束を破った先生と、五月蠅い子供たちに腹を立てて立ち上がり、苛立ちのままに叫び声を上げようとする。
『いい加減にして!!』と普段は物静かなアリーゼから怒鳴り声が放たれようとする──その時だった。
「アリーゼさん。この計算式はここの部分の応用ですよ」
「……メルギトス?」
彼女の護衛獣が教科書を覗き込み、落ち着いた声で語りかけたのだ。
メルギトスの優しげな声を聞いて熱くなった思考が冷めたアリーゼは、護衛獣の色白の顔を見つめる。
「ほら、やってみてごらんなさい」
「うん……ほんとだ、出来た……」
メルギトスのアドバイスを受けたアリーゼが先ほど解けなかった問題に挑戦すると、今度はいとも簡単に解けてしまった。
「わかってしまえば簡単でしょう?」
「うん……ありがとう」
「さあ、次に行きましょうか」
アリーゼはメルギトスの教えを受けて次々に問題を解いていく。
もう彼女の顔に先ほどまでの苛立ちは無く、青空教室の終了を知らせる鐘が鳴った時までずっと笑顔だった。
「先生!! またね!!」
授業が終わり、子どもたちはそれぞれの集落への帰路に着く。
元気よく手を振る子供たちに手を振り返し、見えなくなるまで見送ったレックスは疲れたように肩を落とした。
「はあ……先生って大変だな……。子供たちがあんなに元気だなんて」
「ずいぶんとお疲れのようですね」
「ありがとう、メルギトス。アリーゼの勉強を見てくれて」
「いえいえ、お気になさらず」
レックスは心底助かったといった風に言う。
彼はこの授業がメルギトスの助けでなんとか無事に終わったと思っているようだ。
「(ふふふ……本当にそれでいいのですか、レックスさん? 手遅れになっても知りませんよ)」
メルギトスはレックスの浅はかな思考を嗤う。
レックスは気が付いていない。
メルギトスの隣にいるアリーゼがレックスに向ける目が以前とは変わっていることに。
少女の目は自身の家庭教師を『うそつき』と暗に糾弾していることに。
自分が一番最初の生徒からの信頼を無くしてしまったことに。
すでに歯車が狂い始めていることに。
悪魔王は嗤う。嗤う。
ここの先生は正直擁護できない。
そして悪魔はそこにつけこむ。