ハグリッドが住んでいる小屋は、『禁じられた森』の端っこにある。
ハリーは言われた通り、いつもの様に日記帳をポケットに入れて向かった。校庭を通り過ぎて、坂を下り、自然に溶け込むかの如く建っている掘っ立て小屋の戸をノックする。
それに反応し、扉を引っ掻く音が聞こえてきた。きっとファングだ。ハグリッドのペットの一匹である、大きくて黒いボアハウンド犬。見た目に反して人懐こいファングが、ハリーはすっかり気に入っていた。
中からハグリッドが戸を開くと、青信号に変わった瞬間の自動車の様に、ファングがハリーの膝に飛び付いてきた。頭を撫でてやると、舌を器用に動かして両手を舐め回してくる。やっぱり可愛いかった。
「こんにちは、ハグリッド」
「よお、ハリー、来たか!ささ、つまんねえとこだけど、くつろいでくれや」
ひげもじゃの顔を綻ばせながら、ハグリッドが招き入れてくれる。
中は本当に色んな物が、倉庫の様にが詰め込まれていた。戸口には石弓、防寒用長靴。天井からはハムやキジ鳥がぶら下がっており、ハグリッドサイズの巨大なベッドが奥に鎮座している。これに限らず、ティーポットや食器などのほとんどは、彼の巨大な体格に合わせているのか大きめのサイズだった。
ハリーはテーブルに付いて、ハグリッドがお茶を入れてロックケーキを出してくれるのを眺めていた。その間にも、膝の上に顎を乗せているファングが涎を垂らしまくっている。
「ホグワーツでの生活はどうだ?ん?」
「最高だよ。びっくりしたのは、杖を振るだけが授業じゃないってところなんだ。魔法にも色々あるんだなぁって」
「そうさな、お前さんみたいな子は皆そこに驚いとるよ。俺は魔法生物学が一番好きだな」
「生き物についても学ぶの?」
「当然だ。3年生からの選択科目で選べば学べるぞ。まあ、ハリーにとっちゃまだ先の話だがな」
選択科目。ホグワーツにはそういうのもあるらしい。ますます今後の学校生活が楽しみだ。……ヴォルデモートの事が無ければ、もっと楽しめるのに。
「選んでみたいなぁ。色んな生き物のコト、知りたいし」
「この森にも色んな魔法生物が棲んどる。例としちゃ……ケンタウルスとかだな。あいつら、星ばっかり眺めて、月より近くの物には何の興味も持っとらん」
「ケンタウルスって、あの、頭が人間で、体が馬の???」
「そうだ。天文学やら占いやらが得意で、色んな事を知っとるが……俺達にゃあまり教えてくれん。だが、会話は出来るし、弓の腕だってある連中さ」
ロックケーキは歯が折れるんじゃないかと思うぐらい、硬度が凄かった。悪戦苦闘しているハリーと違って、ハグリッドはバリバリ食べている。見た目だけじゃなく、顎の力も屈強だ。
ハリーは他にも、色んな事を話した。
魔法学校でも星について学ぶとは思わなかったとか、薬草学の授業でキノコの名前を言い当てて褒められた事とか、魔法史の授業は先生が教科書を読むだけなので、とても退屈だとか……。
そして、魔法薬学での苦い思い出の事も語った。悪い事はしていない筈だが、何故かスネイプが集中砲火してきたあの日の出来事。
「気にすんな。あいつぁな……他の生徒にも、あんな感じだ、うん。みーんな同じ様に嫌われとるもんさ。ハリーだけが特別って訳じゃあねぇ」
「でも……何か、嫌われてるっていうより、憎まれてるって感じだよ」
「何で憎まなきゃならん?聞く限りじゃ、最初は点数を貰ったんだろう?グリフィンドールに。珍しいもんだが」
「うん……すぐに減点されたけどね」
「本当に嫌いだったら、減点しかせんだろうよ。あんまり引き摺ると良くねえぞ。ほれ、帰りにこいつを持ってけ」
ハグリッドが手土産用にロックケーキをどさどさ目の前に置いた。励まそうとするその親切心は非常に有難いのだが、如何せんまだ最初の分を平らげられていない。ハリーは魔法薬学での鬱憤を晴らす様に、ロックケーキに齧りついた。
そうして色々な事を話していると、ふとハリーはティーポット・カバーの下から覗いている紙片に気付いた。ハグリッドがお茶のおかわりを用意している間に、それを手元に引き寄せてみる。
新聞の切り抜きだった。『日刊預言者新聞』と書かれている。驚いた事になんと、印刷されている写真が動いている。ゴブリンが、記者のインタビューに答えているところの写真らしい。写真の中のゴブリンは慌ただしく動き、記者からの質問を捌いていた。
流石、魔法界。写真まで動くとは。
ハリーは口をぽかんと開けながらも、写真の横の文章を黙読していった。
グリンゴッツ侵入さる
七月三十一日に起きたグリンゴッツ侵入事件については、知られざる闇の魔法使い、または魔女の仕業とされているが、捜査は依然として続いている。
グリンゴッツのゴブリン達は、今日になって、何も盗られた物は無かったと主張した。荒らされた金庫は、実は侵入されたその日に、既に空になっていた。
グリンゴッツの報道官は今日午後、「そこに何が入っていたかについては申し上げられません。詮索しない方が皆さんの身の為です」と述べた。
―――『賢者の石』だ。
七一三番金庫に入っていて、ダンブルドアからの指示でマクゴナガルが引き取り、ホグワーツの立ち入り禁止の廊下に保管場所を移された、あの石の事だ。
これは、危機一髪のところで石が移送された事を示している。
あの日、ハリー達がグリンゴッツを去った後に、石を狙うヴォルデモートの配下―――トムが言うにはクィレル先生―――が、強引に侵入を謀ったのだろう。まさか、自分達が知らぬ間にとんでもない幸運に見舞われていたとは……。
もしもグリンゴッツに行く時間がズレていたら?考えるだけで恐ろしい。
金庫が既にもぬけの殻だったからこそ、ヴォルデモートはクィレルを利用してこの学校へ入り込んだのだ。自分だけの力ではどうにもならないから……。
ハリーは、新聞を見なかった事にして、そっとティーポット・カバーの下に戻した。
丁度その時、ハグリッドがお茶のおかわりを入れて戻ってきた。ハリーは素知らぬ顔でそれを受け取る。
「そういや、ハリーよ……。お前さんの事だがな……もう、他の生徒達から聞いたか?」
ハグリッドは、モゴモゴと言い出しにくそうに尋ねてきた。その様子に、「あっ」と思い当たる事があった。
そういえば、トムに聞かされていてすっかり忘れていたが……ハグリッドやマクゴナガルは、ハリーが『生き残った男の子』であるという事を、ハリー自身が知らないのだと思っている。
あの日、既に知っている事もあってか、敢えて二人に自分の両親の死因について、詳しく訊かなかった。二人も二人で、ハリーに辛い真実を伝えるのは気が引けたのだろう。ハリーが訊かなかったから、二人もヴォルデモートの事について語らなかったのだ。
入学した後は他の生徒達からの情報によって、自分の経緯について知ったのかもしれない。それを確かめようと、ハグリッドはこうして問うている。
「うん。聞いたよ。僕の両親のコト……僕が有名なんだってコト……ヴォルデモートが、僕を殺そうとしたコト―――」
ヴォルデモートの名前を出した時、ハグリッドが「ウーッ」と唸り声を上げて身震いした。
「は、ハリー、口に出さんでくれ。他の奴らから聞いたんなら、その名前が呼ぶのも恐ろしいもんだって、それも知っとるだろう?」
「あ、あぁ、ゴメン。僕、その、恐ろしさとか分かんなくて」
「ま……ずっと、あの腐った大スモモのダーズリーんとこに居たんだ。分からなくてもしょうがねぇ。しかしな、これだけは覚えて帰ってくれ。あいつは本当に恐ろしい悪よ……」
それからハグリッドは、ヴォルデモートがいかに恐ろしくて、どんな事を仕出かしたかなどを語った。ハリーが既に自分の生い立ちについて知ったからか、遠慮がちだったあの日と違って詳細に話してくれた。
まあ、ほとんどはトムから聞かされていた話と遜色は無かったが。
ハグリッドとのティータイムは、夕食の時間が近付いてきた頃に終わった。あっという間の、楽しい時間だった。
戸口を出る間際、ハリーはポケットにロックケーキを詰め込み、ハグリッドに別れを告げて小屋を出た。やはり、ああして誰かと会話するのは楽しい。筆談も良いけれど、ハグリッドみたいな、大人の人と話すのも中々に乙なものである。
と、浮足立って小屋を出たハリーを待っていたのは、腕を組んで仁王立ちしていたトムだった。
『随分長いティータイムだったようで?何を話してたんだ?』
「トム、ハグリッドに見られたらどうするのさ?」
ハリーは、姿を隠す気があるのか無いのか分からない友人へ向けて、呆れがちに返答した。彼の事だから、何だかんだで人の気配を察知して、すぐに身を隠すのだろうが。
『何か、変に硬い物が日記帳に当たってくるもんだから、試しに出てきたんだよ。これは……何だ、これ?』
「あっ、それ、ロックケーキだよ。ハグリッドがくれたんだ」
『ちょっと、僕と一緒にポケットに突っ込むなよ。無駄に硬いから変な感じだろ』
「だって、他にしまうとこ無いんだもーん」
ハリーがそう言った時、何だか妙な感覚が全身を駆け巡った。
最初に感じたのは寒気だった。背骨に沿って、氷水が滑っていく様な寒気。
え、何?
顔を上げると、何かを感じ取ったのはトムも同じ様で、顔を顰めながらある方向を凝視していた。
焼け付くような――――焼け付くような、視線を感じる。誰かに見られている。誰かが、自分達を見ている……。
「誰、誰なの?」
思わず声に出していた。視線は、小屋の奥に広がる、『禁じられた森』の方から感じる。
緊張して体が震えてきた。どうするべきだろうか。今すぐ小屋に戻って、ハグリッドの元へ避難する?
その考えが浮かんだのと同じ瞬間、トムが森の方へ滑る様に歩き出した。迷いや躊躇いが無い。視線の正体を確かめんと、ハリーをその場に残して森の茂みへ入っていってしまった。
「と、トム!」
置き去りにされる恐怖感から、ハリーは慌てて彼を追った。幸いにも、彼は歩いていたのですぐに追い付くことが出来た。トムは声を掛けられても振り返らず、一心に歩みを進めている。
「いきなりどうしたの、トム。そっちは危ないんじゃなかったの?」
『自分の身ぐらい自分で守れるさ。それより、どうも気に入らない。この感じ……正体を確かめないと気が済まない』
「待ってよ、僕も行く。僕も気になるよ」
『ハリー、君がここに入ったら、罰則にな―――』
その時だった。
ガサリ、と、茂みの中から音が立った。
トムが反射的に杖を取り出し、そちらへ向ける。ハリーが思わず感心する程動きが練磨されている。50年間の努力の成果だ。
対して、ハリーはハグリッドに逢う為に、杖などの学用品はほとんど所持していなかった。自分が丸腰である事に気付き、背筋がぞっとしたが、トムの背後に隠れる事で気持ちを落ち着かせた。
対照的な反応を見せる二人の前に、接近を隠す素振りすら見せず、人型の影が茂みを破る様に姿を現した。
―――人?いや、馬?
ハリーの頭の中に疑問ばかりが積み重なっていく。
現れたのは、腰から上が人の姿をしており、腰から下は馬の姿をしている生き物だった。人の部分は明るい金髪で、馬の部分はパロミノだ。見た目的に、きっと若いんだろうな、と場違いにもそう思った。
信じられない程のサファイアの瞳をこちらへ向け、決して逸らさぬまま、その生き物はゆっくりと近付いて来た。歩く度に、蹄の音が森に響き渡る。足音だけならば、本物の馬の様だ。
「ケンタウルス……」
ハリーが呟くと同時、トムが呪文を詠唱した。
『《インカーセラス》』
杖先から縄が飛び出し、ヒュンヒュンと風を切り裂く様な音と共にケンタウルスへ向かっていった。
『禁じられた森』は、その名前の通り、決して軽々足を踏み入れて良い場所ではない。森を棲み家とするあらゆる生物は、時に人間に対して死を招きかねないのだ。だからこそ、正体も目的も不明な存在に対する、威嚇射撃にも似た行動を彼はまず取った。
だが、放たれた縄はケンタウルスが後ろに飛び退いた事によって避けられた。本来なら、対象に命中すると同時に拘束する呪文だ。あっさり回避されてしまい、トムは舌打ちした。
「ようこそ、禁じられた森へ」
低い、成人男性の声が、ケンタウルスの口から紡がれた。攻撃された動揺などは一切感じられない。まるで無かったかの様に振舞っている。
会話が出来る―――ハグリッドの言葉その通りだ。ハリーはトムの後ろに隠れたまま、首だけ伸ばしてケンタウルスの様子を観察した。
危害を加えてくる気配は、無い。それでも、トムは油断も隙も見せず、沈黙を貫いてケンタウルスから目を逸らさない。ハリーもそれに倣い、一言も声を上げまいと決めた。
一向に返事を返さない二人に、しかしケンタウルスは憤慨する事も、返事を請う事もしなかった。ただ、無視されても構わないといった調子である。
獲物を捕らえ損ね、草の上に落ちている魔法の縄をチラリと見てから、再び言葉を発した。
「興味深い。何故君達はそんな力を持っている?突然変異……もしくは、人間の姿に化けているだけで、別の生き物なのですか?特にそこの君……君の事をもっと調べたい。こちらへ来なさい」
『―――ふざけんな!!』
視線を向けられたトムが、そこで初めて返事を返した。弾かれた様に叫んだ。
ハリーは思わず耳を疑った。彼と出逢って、ここまで怒りを露わにした声は今まで聞いた事が無かったからだ。
『何が別の生き物だ。僕らは人間だ』
「ト……トム、落ち着いて……」
ハリーは彼の激怒した様子に怯み、掠れる様な声しか掛けられなかった。
トムは突然現れて、突然琴線に触れてきたケンタウルスに、正面から怒声をぶつける。その瞳が、元より赤い瞳が、内出血を起こしたかの様に深い紅に染まり出す。
『調べるだって?ふざけるなよ。いきなり何様のつもりだ、偉そうに』
「調べなければ。君が何者なのか、詳しく調べなければね」
『人間だって言ってるだろ』
「違う。魚に翼、蛇に手足が無いのと同じ。人間は、本来君達の様な魔力は持ち得なかった。君達魔法使いは、人間とは違う」
ケンタウルスの言葉が終わると同時に、トムが握っている杖から激しい音を立てて、緑色の火花が数度瞬いた。詠唱を行っていないのに起きた現象に、ハリーは咄嗟に背後から彼に抱き付いた。温もりの無い身体が震えているのを感じる。
「トム!!」
酷く冷たい。心の芯まで凍えてしまったかの様だ。抱き付いた自分の体温をあっという間に奪い、どこかへ消し去ってしまう。彼の身体が、他者の温もりを取り込む事は無い。
それを、まるで拒絶された様に感じて。思考を混乱の最中に落とされたハリーは、壊れた機械の様に静止の言葉を繰り返すしか出来なかった。
「トム、ダメだよ。ダメだ、ダメ、やめて……」
彼の杖腕を必死に掴む。そのお陰か、その腕が振り上げられる事は無かった。ただ、時折、見た者に恐怖を与える緑色の光が、杖先から輝きを放っていた。解放の時を、今か今かと待っている。
この緑色を、自分は知っている。遠い昔に、確かにこの目が捉えた。
この光は、この色は……一瞬で全てを奪い去る凶器だ。
幸福を、希望を、願いを。……命を。
『魔法使いの起源なんか知らない。でも僕らは人間だ。他に何に見えるって言うんだ!』
「魔力は人間には無い力です。古来より誠に不思議だ。この力は、どこからやって来た?これを宿す生き物は、この星の意志で生み出されたのか……?」
『生き物だって。聞いたか?ハリー。僕らの事、生き物だって言ったんだぞ』
「トム、落ち着いて、」
『ハリー、僕は、僕らは人間だよな?れっきとした人間だろ?あいつは何で、何でそれが解らないんだ?』
かろうじて言葉に含まれる怒気は先程より鎮まっていたが、それでも声は震えていた。唇を噛み締め、瞳を鮮血の様に輝かせるトムを抱き締める腕に、ハリーは一層力を込めた。
こんな事しか出来ない自分が、酷く嫌だった。
ハリーは自己嫌悪の念に苛まれながらも、決してトムを抱き締める力を緩めなかった。
『僕は……人間だ』
自身に言い聞かせる様に、暗示を掛ける様に、呟いた。
思い出したくも無い記憶が、声が、唐突に掘り起こされ、凶器となって脳内に降り注いでくる。
―――気味が悪い。
―――あの子、人間じゃないみたい。
―――どこかおかしいんだ。
―――病院で調べてもらわなくちゃ。
『言葉』は、『死の呪文』よりも、時として人を殺しうる武器となる。心を容赦なく殺さんとする。致命傷となりかねない傷を、的確に、確実に負わせてくる。
そんな傷を幼少の頃に負わされ、血の繋がった者からも刻まれてきた。だからこそ「調べる」だとか、「人間じゃない」だとか、そんな言葉に対し、心が、魂が立ち竦んでしまう。
自衛の為に『普通』を演じ、永続的な損傷を回避したといっても、一度負ってしまった『古傷』は決して癒えてはくれない。こんなにも近くに自分を抱き締めてくれる者が存在するのに、この『古傷』を自力で治す事が出来ない。
酷く惨めで嫌気が差す。こんな、弱者の様な醜態を隠し通す為にも仮面を作ったというのに。これでは意味が無いではないか。
『言葉』などという物体的ではないモノに、こうも心を乱される。
傷を負った日から時間もそれなりに経って、本心を明かせる相手も出来た筈なのに、未だに自分はこんな凶器に脅かされている。保ってきた仮面を、容易に破壊される。
その事実が、どうしようもなく癪で目障りだった。
壊れてしまった物が、直らないのと同じ。
魔法という『反則技』を使っても、それで直るのは物体だけ。
心というモノは、時間や魔法でも修復は困難な代物なのだ。
解っていても―――崩れやすい様に、直りにくい様に出来ている人間の心に腹が立つのを抑えられない。
『なあ、ハリー……ハリーも、僕が人間じゃないって思うか?別の生き物に見えるか?あいつが言うみたいに―――』
「もういいよ、トム」
あのケンタウルスを無視して、帰ろう―――。
ハリーはそう言って、彼の腕を全力で引っ張るつもりだった。
無理やりにでもこの場を離れ、彼の心を落ち着かせる必要がある。
律義に、この会話に応じる必要は無い。少し走れば、すぐにハグリッドの小屋へ辿り着けるのだ。戻るべきなのだ。
早急にそうしないと、何かが手遅れになる気がしてしょうがなかった。
けれど、そんなハリーの思惑を、ケンタウルスは呆気なく踏み潰した。
「君は、人間ではない」
確固たる響きを以て放たれたその言葉に。
返されたのは、緑色の閃光だった。
ハリーに掴まれている筈のトムの杖腕が、11歳の弱い力を振り解き、ケンタウルスに向けられていた。
呪文を唱えていないのに―――杖先から産声を上げた緑色の光が、真っ直ぐにケンタウルスに飛んでいく。寸分の狂いも無く真っ直ぐに飛び出して―――その右頬に触れるか触れないかのギリギリの距離を、突き抜けていった。
ケンタウルスのサファイアの瞳は、瞬きすらしなかった。行き場を失った閃光は、そのまま尾を引いて飛び続け、やがて空中で霧散していった。
「トム!!」
ハリーは窘める様に叫んで、上げられたままの彼の杖腕を叩いた。無抵抗な杖腕から、サンザシの杖が零れ落ちる。彼はそれを見る事も拾う事もしなかった。
ただ、その真っ赤に染まった双眸を、顔色一つ変えず立っているケンタウルスに注いでいる。
ハリーはその様子に気を緩めず、落ちた杖をさっと拾い上げ自分のポケットに突っ込んだ。これで、もうあの緑の光を見る事は―――ひとまずは無い、筈だ。
凶器が去り静寂に包まれた空間で、サファイアの眼光が二人の魔法使いを見下ろしている。そこに、恐怖や動揺は一切存在していなかった。
やがて、痛いぐらいの沈黙を破ったのはトムだった。
『どういう事だ?』
その声には、憎悪と疑念が含まれている。彼は瞬きする事無く、目の前の半身半獣の生き物を睨んでいた。
しばらくそうして、トムはある一つの可能性に辿り着く。
『…………試した、のか?』
「え、……何それ、どういうコト?」
ハリーは尋ねずにはいられなかった。試した、という意味が良く解らない。
『あいつの顔……恐怖なんて感じちゃいない。攻撃されたのに……瞬きすらしなかった。僕が、
「え?君、人間以外でも、考えてるコト解るの?」
『……顔だけなら、人間と同じだろ』
それを聞いて、ハリーは顔色を変えた。
「え……、じゃ、じゃあ……当てないと解ってた攻撃を、わざわざ誘ったってコト?何で?何でそんなコトを?」
『予想が的中するかどうか、試したのか』
ハリーの疑問に答えながら、トムはケンタウルスに問い掛けた。ケンタウルスは相変わらず、そのサファイアの瞳でじっとこちらを見下ろしてくるばかりだ。それはまるで、肯定の意を示しているかの様である。
『……僕は、まんまと挑発に乗せられたって訳だ』
自嘲気味に吐き捨て、トムは固く唇を噛み締めた。
『どうすれば、僕が冷静さを欠いて、怒りに我を失うか、解ってて……攻撃を誘った。僕を試す為に』
「そ…んな……」
試す。一体何をだろうか。
そんな事の為に、彼の怒りの琴線を悪戯に刺激して、攻撃を誘発させた。
ハリーは体の芯が熱くなるのを感じた。ダドリーにも感じた事の無い、激しい感情。それをどうぶつけていいか分からず、無言のまま目の前のケンタウルスを睨みつけた。友人を傷付けられて、良い気分はしない。
『悔しい。僕が、こんな罠みたいな手口にあっさり引っ掛かるなんて……悔しい』
「そうだ、汚いよね。相手の心理を分析して、弱点を突いて、反応を確かめるなんて」
『クソが付く程最低だ』
「死ぬ程びっくりしたじゃん。そういう陰険な手をよくも……あれ?」
『何だ?』
「これって、トムが前に使ってた手口と似てるじゃん?」
『ハリー、この状況でふざけるなよ』
ガツンとハリーの脳天に拳骨を落とし、彼の両頬をトムは思い切り引っ張った。ハリーは抗議の声を上げているが、頬が横に伸ばされている為ちゃんとした言葉になっていない。
彼も彼で人の事は、いやケンタウルスの事は言えない筈である。相手の心の内を読んで煽るなどという行為は、彼も前にホグワーツ特急内でドラコにやっているのだから。見事なブーメランが刺さっている。特大のブーメランである。
と、揉み合う二人を黙って眺めていたケンタウルスが、唐突に言葉を発した。
「君が攻撃を当てない事は解っていた。星が教えてくれたからね」
『……何言ってるんだ?星?お前の言ってる事、さっきから全く見えてこないんだけど』
「
その、たった一言を聞いた瞬間。
トムの瞳が驚愕に染まり、見開かれた。
『……へぇ?人を挑発しておいて、よくまあ抜け抜けと……。お前は
トムが、明確な殺意を込めた視線をケンタウルスに注ぐ。そこに虚勢や誇張は一切無い。正真正銘本物の、殺意が籠められている。
その視線を無防備なまま一身に受けながらも、ケンタウルスは顔色も声色も、どれ一つとして変えず返答に応じた。
「今の君が誰かを手に掛ける事は無い。……君はまだ、自分が死刑執行人になった事が無いだろう」
死刑執行人。その物騒な単語に、トムの目が苛立ち交じりに細められる。
ハリーは無言のまま、彼の片手を握った。突然の感触に、彼はほんの一瞬だけハリーの方へ目を向けたが、すぐにその目は逸らされる。しかし、握った手が振り解かれる事は無かった。
そうしている間にも、彼の表情から目を離さなかったハリーは感じ取った。彼の瞳に渦巻いている負の感情が、徐々に徐々に存在感を失っている事を。それに、彼は全く気付いていない事を。
「人間というものは―――最初に一人、その手に掛けてしまえばもう戻れない。魂が裂かれ、心が楽になるからだ。殺すという行為への躊躇いが薄まっていく。しかし……君は、越えてはならないその一線を解っている者……」
『当たり前だろ。人殺しはいけませんて、お前は習わなかったのか?』
「では君の中のその殺意は、一体何だというのですか」
その言葉にトムは初めて、何かに怯えた様な表情になった。それは本当に僅かな表情の変化で、刹那の出来事で、ハリーはそれに気付く事は無かった。ただ一匹、ケンタウルスだけがそれを見透かした様に畳み掛ける。
「先程君が放ったのは―――『死の呪も―――」
『おい』
トムは
『さっきから訳の分からない事を言うなよ。殺意を向けられる様な事を、お前がやったんだろ。それを責められる覚えは無いぞ』
「……これは失礼。確かに私は君を試した。君が殺意を迷わず解き放つ者であるかどうかを……」
『で……失礼極まりないそのテスト結果はどうだったんだ?正直、今更謝罪されても遅いんだけどな』
「君は―――」
そこで、ケンタウルスは頭上に広がる空を見上げた。
まだ日没の時間ではない。単純な視力だけでは、星は見えない筈だ。それでも空を見続ける。人には見えない何かが見えているのだろうか。
「
『はあ』
「激情を飼い慣らす。それは君にとって当たり前で、必要な技術なのだろうが、この世界ではそもそも抱くべきではない―――」
『そうですか』
いまいち先の見えてこない話に、トムは興味無さげに無感情な相槌を打っていたが、次の言葉を聞いてその態度は一変した。
「―――君の
『奪われる?何に?』
疑問を口にして、トムは何かに気付いた様にハリーを見た。ハリーは一人と一匹の会話に一切口を挟まず、ただ黙って自分の手を握ってくれている。
新緑の双眸と真紅の双眸が、しばしの間交錯した。
二人のそんな様子を眺めていたケンタウルスは、そこで何故か憐れむ様に、悲しむ様にふっと目を伏せた。
「―――
『さっきから、フワフワ定まらない事ばっかりだな。お前の目的は何だ?意味不明な言葉で、僕を錯乱させたいのか?』
散々人を逆上させ試しておいて、挙句、ちゃんとした言葉で説明しないケンタウルスに再び苛立ちが募ってくる。トムはそれを隠そうともせずに、挑戦的な目付きでケンタウルスを睨んだ。
「確かに、何か微妙にフワフワしてるよね、話が」
『ああ。この際、ちゃんと説明してもらうさ。なんなら、もう一回攻撃されてみるか?』
トムがそう言った途端、周囲で突風が吹き荒れた。杖を使わずとも、純粋な魔力だけで空間に影響を与えているのだ。
威圧的な脅迫にケンタウルスは特に動じず、抑揚のない声を漏らす。
「攻撃的かつ残虐的で、傲慢……。人間の特性を、しっかり備えている様ですね。ますます興味深い。君は本当に何者なのですか?」
『人に尋ねる前に、自分の事を先に明かすのが礼儀ってヤツだろ』
「そうだよ。確かにトムは怒りっぽいし、たまにめちゃくちゃ意地悪なヤツになるけど、一応は頼りになるんだからね。舐めないでよ」
『ハリー、後で便所に来い。一応って何だ、一応って。全然フォローになってないんだよ』
「あ、ゴメン。つい、本音がポロリと」
『ゴメンで済んだら魔法省も闇祓いも要らないだろ。これ以上失礼な事言ったらアズカバンに無期懲役だぞ、全く』
ケンタウルスが言い合う二人の顔をまじまじと見つめ、頷いた。その瞳は、まるで実験動物の様子を見守る研究者の様だ。
「私の目的、か―――。我々は惑星の動きから、何が起こるかを読み取れる。君という、異分子の事も」
曖昧な単語ばかり喋っていた先程と違い、ようやく質問にちゃんと答えてくれた。トムは満足気に鼻を鳴らした。
『やっと自供する気になったか。それで良い。全部話して楽になるんだ』
「トム、取調室バージョンにならないの。ケンタウルスは君と違って、誰かに取り調べられる経験なんて無いんだからさ」
『ちょっとハリー、何で僕が警察なんぞに取り調べられなきゃいけないんだよ』
「恐喝とか窃盗とか、僕僕詐欺とかやってんじゃないの」
『僕僕詐欺って何なんだよ。僕が捕まるんなら、君なんて新種のメガネザルだって騒がれて、魔法生物規制管理部の職員に捕獲されるじゃないか』
またも言い合いになる二人。
不意に、ケンタウルスの目がハリーに向けられた。穏やかにも、冷ややかにも見える不思議なサファイアの瞳だ。その瞬間、ハリーは雷に打たれた様にある考えが浮かび上がった。ハグリッドが言っていた事を思い出したのだ。
「も、もしかして……トムがホグワーツに来るって、星の占いで知ったの?実際に逢って確かめる為に、こうして……僕らが『禁じられた森』に近付く時を、待ってたって、そういうコト……?」
ケンタウルスの尾が、正解である事を示す様にユラリと揺れた。その瞳が感心の色に染まる。
「君は少し直感力に優れているらしい。ハリー・ポッター。これもまた、星が示した通り……」
トムがハリーの脇腹を肘で小突いた。
『ちょっと、僕は攻撃的かつ残虐的で傲慢なのに、ハリーは直感に長けてるだって?何だ、この評価の違い』
「いやあ、事実じゃない?」
『ホント腹立つな。何なんだ、ミスター・エドじゃあるまいし、馬がペラペラ喋って。僕、馬の言う事なんか信じないからな。星を見ただけで、何で未来の事が解るんだよ。そんなもんで先の事が決められるなんて、生きてる人間を馬鹿にしてるも同然だろ。絶対信じないからな』
「馬じゃなくてケンタウルスだよ。けどさ、トム。ハグリッドが言ってたけど、ケンタウルスって、占星が得意なんだって。星を見ただけで色んな事が解るって、何か納得出来ない?」
『納得出来ません。僕はリアリストなんだ。自分の目で確かめたモノしか信用いたしません。大体な、予知だとか、予言だとか、そういう曖昧な能力で未来を決め付けられるの嫌いなんだよ。未来なんて、ちょっとした行動一つで無限に変化するもんだろ。それを確定するかの様に語るの、本当に気に入らないな』
「……そう。未来は確定されるモノではない。君の言う様に、そこに生きる者の行動で、如何様にも変化する……」
ケンタウルスはそこで一旦言葉を区切ると、突然二人に背を向けた。閉眼し、耳を澄ませ、周囲の様子を探っている様に見える。
二人が訝し気に眺めていると、少ししてケンタウルスはある一点の方角へ顔を向けた。
「……この足音は、ベインですか」
ひっそりと呟かれた一言は、ハリーの耳には届かなかった。
急に様子が変わり、何をやるつもりなのだろうとハリーは戸惑い、手を握ったままトムに身を寄せる形になった。より体温を奪われていくが、この際気にしてはいられない。
しかしハリーの予想に反し、何かしらの行動を起こされる事は無かった。
忘れ物を思い出したかの如く、ケンタウルスはそのまま四足を走らせ、二人を置き去りにし森の奥へ姿を消してしまった。随分と―――本当に随分と、呆気ない退場である。
怒りの行き場を無くしたトムは、目を細めながら息を吐いた。
『……で?僕はどうしたら良い訳なんだ?』
「さあ?何か、ズルいよね。試すだけ試しておいて、後はほったらかしなんてさ。……どうする?追い掛ける?」
『いや、めんどくさいな。確かに凄くムカついたけど、森に入るのは自殺行為に等しい』
思い出すのは、かつてホグワーツに身を潜めていたが、【本来の自分】によって追放され、この森へ棲み家を移した大蜘蛛。
人語を理解し、知性もある程度は備わっているそれは、しかし人肉を好む危険生物だ。別に自分は苦手では無いが、魔法使いとしてまだ未熟なハリーと共に森の奥へ足を踏み入れるのは、得策とは言えない。
そう考えを巡らせていたトムの表情を見て、ハリーは心配そうに声を掛けた。
「トム、深刻そうだけど、具合は大丈夫?」
『最悪だ』
「えぇ、そんなに悪い?帰って、校医のマダム・ポンフリーの所で診察してもらう?」
『しっ、診察!嫌だ、ハリー、離せ!』
ハリーからしたらちょっとした冗談のつもりだった。が、「診察」という単語に異常な拒絶反応を見せたトムは、自分の手を掴んでいるハリーを渾身の力で振り解き逃げ出そうとした。まるで病院に入るのを嫌がる子供の様だ。
「と、トム、暴れないで!」
『嫌だ、やめろ、僕は病気じゃない!』
しかし、この状況で単独行動を取られると困るのはハリーだ。腕に全力を込め、彼の逃亡を必死で阻止しながら、ホグワーツ城に引っ張って帰ろうと足を踏み出した時だった。
再び
半ば発狂し掛けていたトムは、時を止められた様にピタリと停止し、悲鳴を上げていた口を閉ざした。そのまま、二人は森から響いて来る物音に耳を澄ませる。
『……ハリー、またおいでなすったよ』
「え?何が?」
『ふん……音の間隔が随分違うな。別の個体か』
疑問符を浮かばせまくるハリーを置いて、森の方へトムは警戒の視線を向ける。やはり変わり身が早い。先程の痴態が嘘の様だ。引き摺らないところは良いのだが、急に豹変するのはやはり勘弁して欲しいものである。
馬が大地を駆ける時と同じ、蹄の音が徐々に近付いて来た。
予想通り、森の茂みから姿を現したのはケンタウルスであった。先程のサファイアの瞳が印象的だった個体とは違う。髪も胴体も、真っ黒だ。雰囲気からして、どことなく荒々しい感じを漂わせている。
足音だけで見事に別個体と見抜いたトムは、自分よりも直感に長けているのでは……と、ハリーは思わざるを得なかった。
黒いケンタウルスは自慢の脚で二人の前を素早く通り過ぎると、ホグワーツがある方向へ回り込んで、道を塞ぐ様に立ち塞がった。
「そう簡単に帰す訳にはいかない。得体の知れぬ異邦人よ……。フィレンツェと、何を話していたのだ?」
まるで怒鳴る様な声で、そのケンタウルスはトムへ問い掛けた。
威圧感に押され、ハリーはトムの高身長を利用して、その背中に身を隠した。あの巨体を、二度も近くで見せ付けられるのは心臓に悪い。対して彼は、少しも動じていなかった。考えを盗み取る様に、ケンタウルスの顔をじっと注視している。
やがて口を開くと、芝居がかった様子でケンタウルスの名前を言い当てた。
『何だ、このケンタウルス。……ふーん、あっ、そう。ベインって名前なんだ。僕はトム・リドル。よろしく』
ベインという名前らしきケンタウルスの表情が、見るからに引き攣った。ハリーにも良く解る、驚愕の表情だった。
「何故、その事を……。君は、何者だ?」
『だから、トム・リドルだって自己紹介したじゃないか。あんた、天に逆らっちゃいけないって考えてるんだろ?あの腹立つケンタウルスと大違いだな。ちょっと感心したよ』
トムの言葉が言い終わらない内に、ベインが四足を器用に操り、数メートル程後ろへ跳んだ。瞳に警戒の色を爛々と輝かせ、トムを睨みつけている。
「戯言はそこまでだ。お前は―――」
『へぇ……もうちょっと当ててあげようか?あんたら、星の流れだかを読み取って、異分子である僕に探りを入れたがってるんだろ?星を観察して……えっと、先生ってヤツで―――』
「
『そうそう、それ。占星で僕の事を知ったって訳だ?自分達にとって、有害か無害かを調べようとしてる』
次の瞬間、ベインがトムに向かって疾駆した。蹄の音を周囲に激しく響かせながらあっという間に距離を詰め、その大きな前脚が、トムを踏み潰さんと振り上げられた。
ハリーと違って、ケンタウルスはトムへの接触が可能かどうか。それは実際に行われないと解らない事だったが、この状況でそれをわざわざ確かめる程、彼は呑気では無かった。
『《プロテゴ》』
凶器と化した蹄はトムの頭上でピタリと止まった。彼の周囲に、ドーム状の膜が展開されている。その膜に防がれ、ベインの脚は鍔迫り合いかの様にしばらく動かなかった。ベインの額に汗が噴き出る。やがて押し負けてしまい、ベインは弾かれた様に後ろへ転んだ。
「ぐっ……」
苦痛の声が漏れる。この程度で負傷するケンタウルスではない。が、すぐに立ち上がったベインへ、追い打ちを掛ける様にトムが魔力を放った。
『《フリペンド》』
銃の如く放出された魔力弾が、僅かに軌道を逸らし、ベインの脇腹に命中した。衝撃で膝が頽れる。
ハリーは己の目を疑った。気付けば、自分がポケットにしまった筈のサンザシの杖が、いつの間にかトムの手に握られていたのだ。
さっき身を寄せた時に、トムがスリの如く彼のポケットから抜き取ったからである。ハリーは魔法を止めさせようと、慌てて彼の前に立ちはだかった。
「トム!この人は敵じゃないよ」
『味方でも無いだろ』
吐き捨てたトムを見て、ベインが忌々し気に呻いた。
「化け物が……」
トムの正面に立ちはだかったハリーの行動は無意味だった。地面に転がっていた小枝が突然浮き上がると、先端がナイフで削られた様に鋭利な形状と化し、ストレートの軌跡を描いてベインの右肩に突き刺さったのだ。
『もう一度言ってみろ。今度は心臓に突き刺すぞ。何が化け物だ。お前だって似た様なもんじゃないか。自分の正体や考えを知ってる者を、恐れて傷付けようとする。その程度の存在だろ。化け物と良い勝負だ』
ハリーは、鋭い眼光を輝かせるトムの杖腕を両手で抑えた。こういう時、彼に触れられるのが本当に良かったと心の底から思う。
「トム!いくら何でもやり過ぎ。君の方も悪い。誰だって、自分の考えてる事を見透かされて、ペラペラ喋られたら、そりゃあ驚くって。全く、すぐケンカ売らないでよ」
『子供相手だったら称賛されて終わるけどな。こいつが生意気なんだ。僕に探りを入れたいならポリジュース薬でも飲んで、しもべ妖精にでも化けて出直してくるんだな。そうしたら考えてやっても―――あぁ、駄目だ。どうしてもドビーの事が浮かんでくる。ドビー成分が最近不足してる』
「お願いだから、途中で脱線するのは勘弁してよ。大体、人間以外にポリジュース薬って効くの?もし効果無かったらどーすんのさ」
何かに焦がれる様に頭を抱え出したトムに突っ込んで、ハリーはベインを一瞥した。
どうやら傷は浅いようで、顔を歪めているが致命傷では無かったらしい。あの言葉の暴力の中でも、かろうじて理性を保てたトムが手加減をしたのだろう。脇腹を抑え、刺さった小枝を抜き取りながら、相変わらず観察者の様な冷たい視線でこちらを眺めている。何だか居心地が悪い。
最初のケンタウルスや、ベインの時と同じだ。
ああいう言葉の暴力を、彼は同じ人間から受けた事がある。彼の人並外れた勘の鋭い点などが、他の人間にとって怪奇なものとして映ったのだろう。そういうのが原因で攻撃されるなど、理解出来なかった幼い頃の彼は、格好の的となってしまったのだ。
だから、非情な言葉に対しこうも過剰に反応してしまう。反応し、攻撃的になるのだ。そうしないと排除されるという考えが、彼の心の深い所に根を張っている事をハリーは知っていた。自分もそうだったからか、良く理解出来る。もしも彼が居てくれなかったら、自分もあの様に攻撃的な部分が生まれていたかもしれない。
自分達と違うものは許さない。同じでないと認めない。排斥する。
そんな残酷な思い上がりが、マグルだけでなく、ケンタウルスの様な種族にも存在している……それが、ハリーにとって酷く悲しかった。
魔法生物についての詳細が載っている教科書―――『幻の動物とその生息地』という本に、ケンタウルスの事も書かれているのを思い出す。
あの本には、ケンタウルスは人間も魔法使いも信用していないという説明があった。だからこそ、彼らはこうも無慈悲な言葉を次々と投げつける事が出来るのだろうか。
「お前は天に逆らおうとしている」
ベインは、憎々し気に、悔し気に呟いた。
ケンタウルス達は得意とする占星術で、本来はハリーの元に存在しないトムの事を知ったのだろう。それがあり得ない現象だとして、異分子である彼をこうして調べようとしている。
「とても危険だ……危険を孕む行為だ。一歩間違えれば、闇に引きずり込まれるぞ……。自らの安寧を望むならば、ホグワーツより離れるべきだ……」
『生憎だけど、僕はそんな脅し文句に屈する程矮小な人間じゃなくてね。ま、一時はそういうセコイ事も考えたけど、どうするかは50年前から決めてるんだ。離れる気はさらさら無いよ』
「…………それが、想像を超えた恐怖に通ずるとしてもか?」
『大体な、僕はずっとあいつにお礼参りしたくてたまらないんだよ。それを目的に生き抜いて来た様なもんだからな。少なくとも一発、失神呪文でもぶち込まないと気が済まないね』
さらっと過激な事を言ってのけたトムに、ベインはしばし沈黙した。何かを諦めた様なため息の音が聴こえる。
「どうやら……、君に何を言っても変わる気は無いらしい」
『当たり前だ。僕は指図されるのは大嫌いなんだよ。誰かの思い通りに動かされる人生なら、死んだ方がマシだ』
「……思い通りに、か」
ベインは、先程のケンタウルスがした時と寸分違わず、憐れむ様な悲しむ様な視線を向けてきた。ハリーは眼鏡の奥で半目になる。二度続けて同じ事をやられると、流石に不快感が生じるのだ。
「君の往く道の果てに、何が待つかは我々でも見通せない。だが、君がその子を護ろうとする意志は真実の様だ。……ならば、その意志を信じてみるとしよう。どの道我々は、天に逆らわないと誓った」
『言っとくけど、別に僕は正義の味方でも無いからな。変に信じられても困るだけだ』
「今夜は火星が少し明るい。もう数ケ月経てば、より明るくなるだろう―――」
『何か、急に会話がドッジボールになってないか?』
「さらばだ、死を越えし契約者。帝王を破りし運命の子。数々の無礼をどうか許せよ。もう我々は、君達を探らないと約束しよう」
『は?契約者?何だって、ちょっと待て……それって誰の事―――」
トムが訊き返すが、それに応じる事は無く。
ベインは突然駆け出し、闇に溶ける様に、森の奥へとその漆黒の体躯を消してしまった。流石、人間と違い足が四つも付いているだけの事はある。とてつもない敏捷性だ。もうどこにも姿は見えないし、足音も聴こえて来ない。
「……行っちゃった」
『ホント何なんだ。台風の様に来て台風の様に去っていったな。あいつら―――』
最初のケンタウルスと同じく、出現と退場が唐突過ぎる。まるで台風だ。
残された二人はぼやきながらも、ケンタウルス以外の―――森に潜む、会話も望めない危険生物の餌食にならぬ為にも、さっさと入口の方まで退散した。考えを巡らせるのはそこからだ。
『「死を越えし契約者」って……あれ、僕の事なのか……?何でそんな呼び方……』
「契約って……トム、君、セールスマンでもやってたの?」
『アホか。何で僕がそんな面倒な事するんだよ』
「だって君、一人暮らしだったから結構お金に執着してるでしょ。商売目的で詐欺やってそうだし。『誰かに逢ったらまず騙し、更にがっつり大騙し』ってのがトムのモットーなんだから。ねっ、トム」
『そうそう。「見逃すまい、騙すチャンスとタイミング」ってのもあるけど……アホ!あっ、いや、ハリーの大馬鹿さん。何も解ってないんだね。ケンタウルス達は占いが得意って言ってたでしょう。それっぽい事言ってカッコつけて、惑わそうとしてるだけなのさ。典型的な胡散臭い占い師タイプなんだ。真に受けたら駄目だよー?』
「頼むからその、急にコロっと猫被りになるのだけは、やめてくんない?」
『ふふん、ともかく、あいつらの言う事は、完璧に信じられないって事さ。話半分に聞いておくに限る限る』
言いながら、トムは踵を返してホグワーツの方へ歩き出した。もうすぐ日が暮れてしまう。早い内に戻らないと、罰則されかねない。
謎は増えるばかりで一向に解けないが、解けないものにいつまでも集中する訳にはいかない。気持ちを切り替えなければいけないのが現状だった。
二人は一旦、この謎を保留にする事にした。解らない事が残るのは苛立ちもするけれど、考えても解らないのだからしょうがない。
一体全体どうして、こんな目に遭わなければいけなかったのだろう。
今日はケンタウルス達にたくさんビビらされたり、襲い掛かられたり、精神的にヘトヘトだ。寮に戻って、さっさとベッドに潜り込みたい気分でハリーは一杯だった。
グリフィンドール寮のベッドは、物置で寝起きしていた頃と全然違う。フカフカだし、毛布も暖かいし、最高の寝心地なのだ。一度そう呟いたら、同室のロンに「それは言い過ぎ」だと言われてしまったが。物置の粗末な寝床に比べれば、どんなベッドも自分にとって最高級に感じる。
そんな風に思考を巡らせていたハリーの顔を覗き込み、トムはニヤリと笑った。
『へーえ、寝心地良いんだ?じゃ、僕もハリーのベッドで寝てみようかな』
「やだ。寮のベッドはシングルだし、人の目があるもん」
ハリーは即答だった。
日記帳の中の暗闇で一晩過ごすより、ちゃんとしたベッドで寝てみたい彼の気持ちは解るのだが、それでも即否定だった。
『ちょっとハリー、何だよその冷たい言い方は。遠慮しなくたって良いんだ。一緒に寝てあげるって』
「とぐろ巻いて縮むなら、寝かしてあげる」
『僕は蛇か、このアホ』
ペシッとハリーの頭をはたき、トムはツンと顎を上げて不満げに姿を消した。日記帳に戻ったのだ。
ハリーは、はたかれた頭を軽くさすりながら帰路へついた。
帰り道は―――何事も無く、無事にホグワーツへ戻る事が出来た。ケンタウルスは最後に言った事を守ってくれたのだろうか。
ホグワーツ城へ戻ると、案の定生徒達がチラホラ居て、彼の判断は正しかった。こういう人の気配だとかを察知するのが、彼は本当に得意なのだと今更感心させられる。一部、才能の無駄遣いではないかと感じる部分もあるけれど。
正直、ケンタウルスの言っていた事は凄く気になるが、今気にしていてもしょうがない。彼らの言葉は、所々曖昧で要領を得ないのだ。トムの言う通り、全部を真に受けるのは控えた方が良いのかもしれない。それよりもハリーには、気にしなければいけない事があった。
飛行訓練―――箒での飛行技術を学ぶ授業―――が、木曜日に始まるというお知らせが、談話室に掲示されていたからだ。
ハリーはどの授業よりも、何故だかこれが楽しみで仕方が無かった。空を飛ぶというのは、マグルも魔法使いも共通の夢ではなかろうか。飛行機みたいなものではなく、生身で風を感じられるような空を飛ぶ手段を、ずっとずっと夢見ていた。
魔法族生まれの子は、掲示された日から皆口々にクィディッチの話題を上げ出すしで、飛行訓練を気にするなと言う方が土台無理な話だった。
それでも、夕食はちゃんとがっつり胃袋に放り込み、明日へのエネルギーをしっかりと蓄える事は忘れなかったが。
その日の夜、興奮を抑えてハリーはベッドに滑り込んだ。
中々寝付けなかったけれど、ちょくちょく見てしまう気味の悪い謎の悪夢は見ずに済んだ。素晴らしい快眠の日であった。
いつもの様に魔力供給も兼ねて、他愛のない筆談をして、眠気が襲ってきたら、日記帳を抱いて目を閉じて。
そんなハリーは、全く気付かなかったのだ。
部屋の窓の外に、漆黒の影がどす黒い執着心を溢れさせながら、寝息を立てるハリーが抱いていた日記帳を凝視していた事を―――
まだ箒イベントもトロールイベントも控えてるぞ。全然終わる気配がしない
ケンタウルスのヤバさって、『不死鳥の騎士団』でよーく解りますよね。
フィレンツェさんだけです、友好的なの
ミスター・エドネタ通じるんかいな、とか思いつつもぶっ込んでみる。
主人公にとってドビーは、ヴォルデモートにとってのナギニと同じ様なもん。
人外しか愛せない。人間が嫌いだから。
それ以前に闇が深い。ハリーが光になってくれたら良い。