今回一部暴力・残酷表現が含まれます。
苦手な方は姿くらましで逃げてね。いやほんとに。
2021/1/15追記
どうでもいい事ですが挿絵追加しました。色塗り?知らんなぁ…
―――自分はこいつを殺す。
頬を殴り、腹を蹴飛ばし、震えるそいつの背中を乱暴に踏みつける。
「―――痛いな」
決して大きくはなかったのに、嫌に聴き取りやすい声が響く。言葉とは裏腹に、全く苦痛を感じさせない冷淡な声。
―――うるさい。痛くないだろ、もう死んでるんだから。
靴裏にまで伝わって来る冷たさを持つ肉塊。液体と固体が混じった物を踏み躙る感触。
そいつはふるりと一度だけ大きく震えると、背中を向けたまま首だけで振り向いた。
そいつは奇妙な事に、
剥き出しになった右腕の皮膚は醜く焼け爛れ赤黒い。傷付けた覚えのない顔の右半分には、蜘蛛の巣を思わせる
僅かに捲れた衣服の下、先程強烈な蹴りを受けた脇腹には痛々しい青痣が刺繍の様にくっきり浮かんでいる。悍ましい。こんな醜態をいつまでも晒すくらいなら、とっとと終わってしまえばいいものを。
「君も死んでる癖に」
……死んでる?
無意識に足へ掛ける力が増す。なのに、そいつは上半身を襲う圧迫感をものともせず気軽そうな口調で話す。
「そうだよ。死んでるじゃないか」
……違う。
「…………本性を殺してるのに?」
クスクスという不快な嘲笑と共に唇を歪めたそいつの側頭部を蹴飛ばした。再び背中の上に足を戻し体重を掛ける。悲鳴も反論も返っては来なかった。
このまま背骨をへし折ってやろうか、と考えていると―――地面に縫い付けるつもりで固定した筈の片足が、仰向けに体勢を変えたそいつの背中から外れた。
赤い液体をたっぷりと含んで湿った黒い前髪が、そいつの額の上に散らばっている。それらの隙間から、液体が混入したのか同じく赤い瞳が嘲りの情を湛えてこちらを射抜いていた。
かなり嬲った筈なのに、そいつの顔はかろうじてまだ端正な様を保っていた。それが逆に苛立ちを募らせる。今まで幾度となく他人に好感を齎してきたその整った顔は、見ているだけで黒い感情が湧き上っては止まらない。
「酷い事、するなぁ。人間のする事じゃ、ないよ」
途切れ途切れに語ると、ごぷり、とそいつの口から少なくない量の赤が零れる。気管に入ったのか、苦しそうに赤の混じった咳を数度繰り返していた。
―――あぁ、汚いな。これ以上漏れ出さないようにしないと。
ぼんやりとそう結論付けて、両手を放り出して倒れているそいつの腹の上に跨り、赤で汚れてしまった両手で首を絞める。がふ、と、解り易く喘いだそいつは、しかし抵抗の意思をまるで見せない。こんな状況だというのに、無気力な体勢のまま暴れる事もしなかった。
しばらく首を絞め続けたが、意識を失う気配がない。思った以上にしぶとくて腹立たしい。このまま、呆気なく死んでしまえばいいのに。
ギリギリと力を増してみるものの、状況は進展しない。酸素の流入を完全に阻害している筈なのに、息の根を止める事が出来なかった。別に化け物じみた握力も無い己では、首を握り潰す事も出来ない。
こいつは、何だっけ?
自分が殺そうとしているこいつは何だっけ?
自分が憎くて大嫌いなこいつは―――
そんな思考に耽っていると、いつの間にか―――どうしてか、両手で戒めていたそいつの姿が忽然と消えていた。
そうして獲物を逃すまいと近くを探っていると、突然背後で何かが動く気配を捉えた。逸る心情とは正反対に、ゆっくりとした動作で振り向く。
「まだ物足りない?」
いつ整えたのか、赤に塗れていたそいつは傷一つない端正な顔を晒し、何ともない様子で笑顔を浮かべたまま立っていた。
顔の罅も、腕の爛れも見当たらない。さっきあんなに傷付けたというのに、何故か全てが癒えている。今までの行動が無駄になってしまった怒りが煮え滾る。そいつはいつの間にか魔法使いの様なローブを纏っていて、それを翻しながら歩いて近付いて来る。
一切の恐怖を感じていないそいつの堂々とした振る舞いに、動こうとした体が強張る。その隙に、互いに息の掛かる距離まで接近を許してしまう。憎悪に満ちた視線を送ると、相も変わらず気味の悪い笑顔を貼り付けたまま、そいつは立ち尽くすこちらの両手を取ってきた。酷く冷たかったので、一瞬氷その物が擬人化したのかと思った。
「じゃあ、これで満足する?」
言葉の真意が読み取れず、塞がれた両手はそのままに、余裕そうなそいつの隙を突こうと自由な足で蹴りを見舞おうとした時だった。
ズブリ、と。
何かを突き破る生々しい音が鼓膜を震わせた。同時に、両手を温かい液体が包み込む感触。
目線だけで確認すれば、いつの間にか自分の両手には何が尖った道具が握られていて、そいつの胸を穿っていた。開かれた穴から熱を含んだ赤が決壊して両手をしとどに濡らし、零れ落ちた分が地面に丸い斑点を形作る。それはまるで、子供が落書きでよく描くベタ塗りされた様な太陽だった。
気味の悪い感触に道具を引き抜こうとするも、両手を掴まれる力がぐっと増した。あろう事か、こいつは自分の行動で自分を害させたのだ。力は強く、ちっとも緩まない。道具から手を離す事も許されなかった。
「―――今更、何を驚いているんだよ。一度やった事だろ?」
致命傷を負っているというのに、そいつは平気そうな声色で語りかけてくる。一声発する度に唇の端からまた大量の赤が顔を覗かせているが、全く気にしていないようだった。水音の混じった声が場を支配している。
「でもさ、今の君がやらなきゃいけない事は、これじゃないから」
そして唐突に、掴まれていた両手が自由を取り戻す。即座に後方へ下がって、手を離したそいつから距離を取った。何故か一連の行動を見て、そいつは可笑しそうに目元を細めて笑った。
「今は、これで我慢して欲しいな。―――ほら、見なよ」
どこを、と思ったが、すぐにその考えは必要なくなった。景色がガラリと切り替わって、自分達は個室の中に立っていた。ベッドや洋箪笥が設置されている簡素な部屋で、そいつは我が物顔でベッドに腰掛ける。
「ボクは此処で隠れずに待ってるから、さ。君のやるべき事を先に片付けておいで。そうだね、そうしたら、また―――」
そこで一度言葉を切り、そいつは己の胸を上から下へ撫でる。するとまるで手品の様に、穿たれていた穴は完全に姿を消し、汚れていた服も赤を垂れ流す口も含めて元通りの状態になっていた。
「また―――
初めて憂いの表情を送ってきたそいつに答える事なく、背を向けて部屋の入り口へ足を運ばせた。
だが、自分がドアに辿り着く前に外からノック音が二度なり、無遠慮にドアが開かれ痩せた女性が姿を現した。
「あ、あら―――トム?ちょっと―――、一体これから何処へ行くの?」
用件があって赴いたのに、肝心の相手がこの場を立ち去ろうとしている様に、女性は当惑した顔を浮かべる。それらを全て無視して、彼女の横を通り過ぎ部屋を完全に退出した。廊下を歩き続ける自分の背中越しに女性の声が飛んでくる。
「ちょっと、聴こえているでしょう!何処へ行くの、トム!」
彼女が叫ぶ名前は、何だかとても懐かしい気がした。そして自分が憶えている限りでは、その名の持ち主はその名で呼ばれる事を酷く嫌悪していた筈だった。なのに、今はそれがどうしてか不思議と悪くない気分にさせてくれた。
「―――聴こえているよ、ミセス・コール。これから、契約を果たしに行くんだ―――だから、さようなら」
―――そうだ、【その名】で良い。もう、"あの名前"は必要無い。
一度だけ後ろを振り返ると、そこにはさっきまで大声を出していた女性は何処にも居なかった。
再び前を向いて廊下を進み踊り場まで来ると、階段の手すりに一羽の紅い鳥がこちらを見つめたまま止まっているのを見付けた。
自分は主人ではないというのに、忠実に待ち続けていたその姿に滑稽さと感嘆を覚える。鳥は嘴に白い骨の様な杖を咥えていて、無言でこちらに差し出している。嘴の下の方に手の平を差し入れると同時に、ポトリと杖が落とされたので軽く握り込む。赤で汚れていた筈の両手は、とっくに綺麗になっていた。
「―――行こうか」
どこか遠くの方で、古めかしい汽笛の音が響き渡った。
――――――――――――――――――――――――――――――――
自分を守る為の嘘がいつか真実に
こんな風になってしまう前に、何か方法があった筈だ。
皆がボクの事を『化け物』って言うんだ。
本当の事を言ってるだけなのに、どうして信じてくれないんだろう?
人は正しく在るべきだって。嘘を吐くのは『悪』だって。大人や本が教えてくれたんだよ。
だからボクは本当の事しか言ってないのに。皆どんどんボクを嫌いになるんだ。
悪人みたいに、何かを盗んだ訳でもないのに、誰かを殺した訳でもないのに。
嫌だ。嫌われたくない。捨てられたくない。
『化け物』じゃなくて、『人間』でいたい。
じゃあボクは、『嘘吐き』になれば良いの?
ボクが真実を言うのをやめれば、皆戻って来てくれるの?
歪んだ男の顔が見える。若い。
普通にしていれば、端正な顔立ちなのだろう。しかし、眉を寄せて嫌悪感を露わにした表情は、醜悪な程歪んでいた。
男が言う。上擦った様な掠れ声。
「―――お前、化け物じゃないか」
一呼吸置いて、また一言。
「気味が悪い」
ガンガンと鼓膜に響く、冷笑と侮蔑。何も言い返せなかった、幼くて脆い少年。
隙間から灯りの漏れる扉。足音を立てずに近寄ったあの夜。
「あの子は普通じゃない」
悲痛な女の声。聴こえてくる嗚咽。扉に触れようとした手を引っ込めた。
『嘘吐き』になるのは簡単だった。
昔のボクを知らない人は、皆親しくしてくれた。
嘘を吐くのはいけない事の筈、だけど。皆が笑っているから、これで良いのかな。
……ああ、それでも、やっぱり。
あいつの『嘘』だけは許せないんだ。
あの『嘘』は、間違いなくあの人を不幸にする物だったから。
あれだけは、見逃せない。絶対に暴かないとって、そう思ったんだ。
……それに夢中になるべきではなかったのかもしれない。
見逃して、『知らないフリ』をし続ければ良かったのかもしれない。
『嘘吐き』をやめるべきじゃなかったのかもしれない。
それこそが、賢い生き方というやつだったんだろう。
言わなければ良い事。知らなければ良い事。世界にたくさん有るのだから。
だって、ねえ、ほら。
まだ、あの人は笑ってくれない。
舞台が暗転する様に、景色は姿を変える。
暗い室内だった。
床に落ちたコップの破片。散乱した液体。汚れた絨毯。
倒れている人間と、その近くにしゃがんで寄り添っている青年。
部屋の入口で、あの男が震えていた。
浮かんでいるのは、嫌悪ではなく恐怖。端正な顔をまたも台無しにして、青年を見ている。
青年が倒れている人間から視線を男に移す。恐怖に満たされた瞳と、虚ろな瞳が交差する。その瞬間、男が尻餅を付いて喉の奥から悲鳴を漏らした。
「お前がやったのか?」
誰かが何か言った。良く聴こえない。
青年が憎悪の入り混じった瞳で男を見下ろしている。嗤っている。男の恐怖と絶望を、愉しんでいる。
不意に、青年の視線が
そうだ。自分はそれがたまらなく
―――どうして『知らないフリ』をするんだ?
青年の口が、そう動いた。声は聴こえなかったが、何を言っているのかは理解出来た。
―――いつまでこの『記憶』から逃げるつもりなんだ?
後退ろうとした足が止まる。青年の顔は、聞き分けの無い子供を叱る様な表情になっていた。
―――自分と向き合えるのは、自分だけじゃないのか?
いつの間にか、景色の中から部屋も男も消え失せていた。自分と青年だけが無の空間で向き合っていた。
―――逃げているだけじゃ、何も変わらないのに。
青年が目の前に立っている。憐れむ様なその視線が、どうしてか癪だった。
―――本当の望みを偽って、抱いている殺意からも目を逸らして、逃げる事しか出来ない臆病者。
許せない。許せない。許さない!
何も知らない癖に、嘘も真実も見抜けない癖に!
全てを理解出来たボクじゃなくて、馬鹿で愚鈍な連中が笑ってる!
何故。何故?何故!
どうして、『持てる者』じゃなくて『持たざる者』が、そんな顔をして生きてるんだ?
違う。違うよ。違うだろ。
『持たざる者』が虐げられるべきだ。『持てる者』が笑っているべきだ。
こんな光景は許せない。認めない。間違っている。
もういいよ。要らないよ。
『謝罪』も『贖罪』も、『友情』も『愛情』も、全部。
みんな、みんな、みんな。
消えてしまえ。終わってしまえ。
壊れてしまえ。崩れてしまえ。
―――ねえ。別に、構いやしないだろう?
誰かの『死』を願っても。
『―――五月蠅い!!』
ガン!と、拳が砕ける勢いで廊下の壁を殴りつける。
ホグワーツはどうも、所々に何らかの魔法が掛けられているらしい。触れられる壁とそうでない壁があった。ここは触れられる範囲だったのだろう。特定の言葉で開く扉や壁があるので、ある意味では当然の設計とも言える。
額を押さえていた片手を離し立ち上がった。まるで丸一日徹夜をした時の様な、最悪な気分だ。頭が上手く働かず意識が朦朧とする、あの気怠い感覚。
『関係無い……』
そう、今となっては関係無い『記憶』だ。『向こう』の『記憶』など、この世界で一体何の意味がある?
最早戻る事など不可能だろうし、例え戻れるとしてもきっと自分はその道を選ばない。この世界に来た当初は帰りたいと思う気持ちの方が強かっただろうが、ある程度の『自由』を得た今となってはそう思えなくなっていた。
『……戻らないと』
今すべきは、
『僕は
自分の事を自分で確認する様な言葉が口から紡がれた。不快げに、徐に、両の瞼が閉じる。
"―――本当の事を言っているだけなのに、一体ボクのどこが悪かったんだろう?"
閉じられた視界の中の暗闇に、正誤を求めて嘆く幼い少年が立っていた。少年の周囲には、気味の悪い物を見る様な視線を向ける大人達が並んでいる。懐かしくも目障りな光景。
「
その単純明快な『答え』に辿り着いたあの日から、この幼い少年は嘘吐きになったのだ。
あの日確かに、世界は嘘を吐き続けろと言った。
"考えても考えてもちっとも分からなかったから、それ以上は諦めた。
誰も褒めてくれなくなってつまらないから、今度は色んな事に対して知らないフリをすることにした。
そしたらほんのちょっぴりだけ、皆が優しくなったんだ。
それからずっと『いい子』を演じているのさ。"
『……いや、馬鹿馬鹿しい』
どうして今更、あの連中に関する記憶に悩まされなければならないのだ。
それこもこれも全部、
「最も忘れたい光景」に酷似した『あの記憶』を観てしまった時から、どうも調子を狂わされている。おまけに最近では、人間ですらないケンタウルスからも神経を逆撫でする様なちょっかいを掛けられた。人間も人外も、全てが等しく自分を苛立たせてくる。この世界は何か自分に恨みでもあるのだろうか。
……このままではいけない。
激情を在りのままに晒し、怒り狂うのは愚者のやる事だ。そんな愚行に無駄な時間を費やす気は毛ほども無い。
思考を一度リセットして、何となく重たく感じる足を動かし、来た道を戻る事にした。
結局、襲撃者の正体も目的も何一つ判明する事は無かったが、大体は推測出来ているのであまり問題は無い。今晩は下手に動き続けるより、一度ハリーの元へ戻った方が良いだろう。
それよりも―――
『あの鏡……』
鏡が設置されていた部屋の扉を睨む。
冷静になって思い返せば、あの鏡は
自分が知っている知識と噛み合わない点が存在していたのだ。
もしかして『あの時』あれは、
『どうでもいいか』
鏡の真相を知ったところで、何をするという訳でもない。この件に関してはこれ以上時間を費やすのも無駄かもしれない。
そう結論付け、グリフィンドールの寮へと帰ろうとした時。
『……ッ!?』
ゾクリ、と。
背筋に悪寒が走った。
自身の五感に従い、背後を素早く振り返る。
何の意味も無くこんな感覚は体験しない。絶対に、この悪寒の原因となる「何か」がある。そんな思考の下、振り返った己の視界に廊下の窓が映り込んだ。
―――闇に溶ける様にして、その「何か」は窓にへばり付いていた。
最初にそれを認識した時、一瞬生物かどうか判断するのに躊躇した。それ程までに、「何か」は歪な姿形をしていたのだ。
「何か」は体が黒いマントの様で、全体的な厚さが薄かった。二センチぐらいしかない。例えるならば、床に零した黒インクの水溜まり―――。果たして、こんな形の生物は存在するのだろうか。
発見された事に気付いたのか、それともただ動くタイミングが合致したのか、「何か」はこちらが振り向いたのとほぼ同時に、モソリと体を震わせて窓の内側に侵入する様な動作をした。しかし、その動きも無意味に終わる。当然だ。ガラスの壁が校内と外を隔てているのだから。
しかし「何か」はその事実を呑み込む知性が無いのか、こちらに凝視されながらもひたすらにその場でフルフルと蠢いている。
(―――何だ、あいつ)
「何か」をしばらく観察して、内心で焦燥を掻き立てられつつも冷静にその正体を分析する。
明らかに、あの動きはこちらへ接近したがっている心情の表れだ。未だに確認出来ないが、「何か」に眼球が存在するならば間違いなくこちらを捕捉している。一言で言うと気味が悪い。
(―――確か、あんな姿をした
記憶を辿ろうとした時、その僅かな隙を狙い澄ましたかの様に「何か」は激しく身を震わせ出した。ズリリリ、と何とも形容し難い不快音が鼓膜を震わす。
分厚いガラスを削ろうとでもしているのか、「何か」はへばり付いている窓から離れる素振りはない。その様子を確認して、ゆっくりと杖を窓の方へ向けた。
『《ルーモス・マキシマ》!』
詠唱と共に、強烈な光が産声を上げた。悲鳴に近い鳴き声が聴こえた気がする。魔法による光は窓を透過して、外へ突き抜け溢れていった。
数秒程光の放出を続けた後、反対呪文の《ノックス》で杖先の光を消失させ、再び闇が舞い降りた窓の向こうへ視線を走らせる。もうそこには何も居ない。さっきまでの出来事が幻であるかの様に、窓の外には夜景が広がっているだけだった。
窓に損傷を与えず、「何か」を引き剥がすつもりでこの呪文を選択したのだがどうやら最適解だったようだ。
あの姿が示す通り、光に弱いのだろうか?
あのまま放置していれば、ガラスを突き破ってこちらへ接近してきたかもしれない。だが―――あの生き物には、鋭い爪も強靭な手足も確認出来なかった。窓が破壊されるなどという事態まで発展しなかったと思いたいが……。
『何なんだ……あんなの知らないぞ……。僕のせい、なのか……?』
本来ならば、この時期のホグワーツにあんな生物は存在しなかった筈だ。いや、
【―――気を付けた方が良いかもしれないね】
と、廊下で立ち尽くしている己に向けて、再び念話が脳内に響いた。やはりこちらの行動を観賞しているのだろう。今更なので突っ込む気力も最早失せているが。
【君はどうやら目を付けられ易いみたいだ。「あれ」は間違いなく君を狙っていたようだしね】
『目を付けられる、だって?』
【悪い虫がつく、みたいなものさ。……これは冗談じゃなく、心からの忠告だ。本当に気を付けた方が良い。「あれ」の正体は量り兼ねるけれど、君にとって良いものではない事は確かだ】
『お前が他人を心配するなんて明日にはホグワーツが吹き飛ぶだろ。何だ、病気でも患ったのか?こっちに移すなよばばっちい』
【……普通に考えて欲しいな。君に何かあったら、同居人という立場上こちらまで被害を被るんだ。忠告ぐらい素直に聞き入れてくれないかい?】
『お前今まで何を見てきたんだ?僕が指図されるのは嫌いだって知ってるよな?』
【それは十分理解しているつもりだけれども】
やはりこいつはナチュラルに人の神経を逆撫でする天才だ。他人から理解しているつもりになられるのは非常に癪である。しかもよりによって一番嫌いな人種に。誰もお前に理解されたいと思ってない―――そう伝えようとして、面倒になって中断した。
こいつに何を言ったところで、返ってくるのはいつもいつも取り繕った虚言ばかり。そういえばこいつが本気で怒ったところを見た事が無い気がする。今まで大なり小なり怒りの感情は絶対に抱いた筈だろうに、巧妙に抑えているのだろう。ストレスで禿げそうな無茶をするものだ……いや、こいつにはそもそも禿げる生身も無かったか。
【何か失礼な事考えてる?】
『お得意の開心術をどうぞ?』
【…………】
察しは良いが、沈黙で答えるところを考えるとやはり覗けないのだろう。いけない事だと理解しているのだが、こいつ相手に優位を取った時は地味に愉悦を感じてしまうのを止められない。英雄王になったつもりはないのだが、やはり前々から不快な思いをさせられている身としては、こういう場合に思い切り愉悦に浸りたいのである。日記生のささやかな娯楽なのである。
『じゃあ、こっちからも一つ言わせてもらおうか』
【ああ、何だい?答えられる範囲なら何でも】
『今何でもするって言った?』
【……その返しはどうしてか不愉快になるんだけれども、何か深い意味があるのかな。それと、何でも
故郷だと割と男女問わず流行していた言葉だったのだが、こいつには癪に障る何かがあったらしい。自分も深い意味は知らずに使っていたので何が癪なのかさっぱりだが―――さっさと要点だけを喋ってしまう事にする。
『ついさっきの襲撃―――《服従の呪文》についてだ。お前に訊きたい事がある』
【……そうかい。それなら、まあいいとも】
一応の同意は得たので、この際まどろっこしい事は抜きで一気に畳み掛けてやる事にした。
『敵の正体は大体掴めている。もしも予想通りだったら―――あいつが、
『分霊箱は完全無敵って訳じゃあない。抜け穴―――つまり弱点が少なからず存在する。その弱点の一つに……
『敵はそれを知っていて、僕にそれを掛けてきたんだとしたら?』
『そう―――本来ならば、あの呪文を無効化する事は出来なかったんじゃないか、と思った訳だ』
【…………………】
『なあ―――手っ取り早く訊ねるけどさ』
『さっき何であんな嘘を吐いたんだ?』
向こうは前に確かに言った。「分霊箱の身で良かったね」、と。
言葉通りに受け取れば、「分霊箱には服従の呪文は効かない」、という事になる。
だが、果たして。
こちらにとって、有効打ではない呪文を放ってくるだろうか?
これらの推理が全て的外れで、
あんなにも早急にこちらへの襲撃を決意するなど―――ある程度の事前情報の習得、つまり『予習』をしていなければ無理ではないか、と思うのだ。敵が、何の考えも無しにいきなり攻撃態勢に入るとはあまり考え辛い。
そう。
「敵が分霊箱に対して無知である可能性」と、「同居人が嘘を吐いている可能性」。
この二つの内、どちらの可能性が高いかと言われれば、後者だとしか考えられないのである。
【―――、――――君には、本当に驚かされるね】
しばらくの沈黙を経て、感嘆にも似た響きの声が発せられる。
【些細な言葉からここまで辿り着くとは―――いやはや、中々どうして、大したものだ】
『質問に答えて貰ってないが?』
【……うん、こうもあっさり当てられてしまっては、今更誤魔化す必要も無いか。そうだよ。―――君は本来、あの呪文を無効化する事は無かった』
やはり推測は見事に的中していたらしい。と、同時に平然と嘘をほざいていたこいつにまた新たな嫌悪感を抱く。
『でも実際、僕はどうも無かった。何も影響を受けなかった。……どうしてだか、お前は知ってるんだろ?』
【……そうだね。ここまで来たのなら、いっそ全て明かしてしまおうか。君がどうして服従の呪文を無効化出来たのか―――という話だけれど。それはつまり、こちらが
『無効化する力、だって?』
【前に君に指摘された精神干渉の話を覚えているかい?】
『……ああ、あれか。当然覚えてるよ。今でも思い出すだけで腹立たしいけど』
【あれはね―――、君に程度の低い精神干渉を続ける事で、「君の魂に
思考が一瞬停止した。
―――こいつ、自分が今何を言っているのか理解しているのか?
まるで「善意でしてやった」と言わんばかりの傲慢さを滲ませて語る同居人に、返す言葉がしばし遅れた。
そんな歪んだ善意の為に人の精神を弄り続けられる存在が、どんなに異常か。解らない自分ではなかった。
結果、こちらにとって益になったとはいえ、悪意ではなく善意で精神を弄られたなど知れば、歓喜よりも嫌悪感しか湧いて来ない。
心の内を満たした嫌悪を悟られぬ様、努めて冷静に口を開いた。
『……、確かに、苛立ちは無い。呪文を受けても、操られる様な感覚は一切無かった……』
【だろう?当然さ。君の魂は耐性を得た。これから先はもう、誰かに精神を弄られるなどという不安に駆られる必要は無いんだよ。耐性を付けさせる過程で、君に多少の精神的負荷を掛けてしまったのは謝罪しよう。けれど、君にとっても悪い話じゃない筈だ。君は分霊箱の弱点の一つを克服したのだから】
こいつが自分に対して精神汚染をしていた理由は、つまりこれだったのだ。
干渉をされているという事実に気付いた時、自分は「どうしてもっと手っ取り早く汚染してこないのか」、と疑問を抱いた事があった。それは、強い精神干渉では「耐性を付ける前にこちらの魂が耐えられないから」、という事なのだろう。
だからこそ精神汚染の強さを調整して、こちらに語り掛けている時にだけ働かせていたのかもしれない。
疑問の大部分は解けたが、まだ肝心な謎が一つ残っている。
『……何でだ?何でこんな事をした?僕に耐性を付けさせて、お前に一体何の得がある?』
【……やれやれ。簡単な話だよ。君に何かあったら、こちらも巻き添えになると言っただろう?君に
確かに、理屈的には合っている。
もしも自分に何かしらの災いが襲ってきた際、被害を被るのは向こうも同じだ。
だからそんな事態に陥らない様に、耐性を獲得させる画策を働いていた―――おかしな点は、無い。
『お前の話は理解した。だったら、何でさっきはあんな嘘を吐いたんだ?無効化出来たのはお前の仕業だったんだろう。それを、「分霊箱だから良かった」なんてしれっと嘘を吐いて―――』
【君に……君をまた不快にさせると思ったからだよ。精神干渉の件を思い出させたら、君はきっと怒るだろうなと思ったんだ】
『お前……そんな気を遣う様な奴だったか?』
【酷いな。これでも周りに溶け込むのは得意だったんだよ?他者への配慮だって最低限身についているさ】
絶対嘘だ。そもそもお前は配慮とはかけ離れた存在だろうが。
そうは思っても、証拠も無いので糾弾も出来ない。
だとしても、『顔が見えない相手』を信じるつもりも仲良くするつもりも毛頭ない。
『昔から思ってたけど、お前ってさ……』
【うん?】
『お前って本当、無駄に粘着質で陰険だよな。Windows10の強制更新かよってぐらい』
【その例えは多分この世界で君にしか分からない】
『その諦めの悪さをもう少しマシな方に向けてれば良いのに』
【向けていたら
『おっ、そうだな』
さらっと親し気な方向へ発展させられようとした会話を適当に打ち切って、しばしの熟考の後。とりあえずは今回の件に納得した体で行く事にした。
『…………。……まあ、いいか。お前が何を考えていようが、今回お前のお陰で助かったのは紛れも無い事実だから、な。そう思っててやるよ』
【まあ―――でも、まだ隠しておいた方が良いかもね、君に耐性がある事は。敵の油断を誘えるだろうし。向こうもまだ、どうして呪文が効かなかったのか把握していない筈さ。情報という名の切り札は取って置いた方が良い】
『……一理はあるな』
しかし、ある一点がどうにも気にかかる。
分霊箱―――殆どの魔法を防いでしまう無敵に近い物品に、《服従の呪文》を防ぐ機能が無いとは……。
そして、敵はその弱点をどこで知ったのかいきなり呪文を行使してきた。分霊箱に関する書物か何かに、害する事が可能な魔法の一覧でも載っていたのだろうか?
(いや―――これは、可能性としては恐ろしい話だが……)
『この分霊箱』を制作した本人が、
実に恐ろしい。そんな事が出来るのか知らないし、この身に刻まれた『記憶』のどこにもそんな情報は存在しない。が、制作者本人が意図的に手を加える事は出来るだろう。何故なら、
(分霊箱が実体化出来る時点でおかしいんだよな……)
本来、分霊箱とは仮初の不死を実現する禁術であり、分霊箱その物が新たに肉体を得る機能などありはしないのだ。実際、自分以外の他の分霊箱にそんな便利な機能は付随しちゃいない。所有する者の精神に悪影響を与える、という力は共通しているが、肉体を得られる機能は日記帳にしか無かった。……『この分霊箱』だけが、明らかにやたら弄られている。
一人思考という名の泥沼で泳いでいる最中だった。唐突に声を掛けられて集中が途切れる。
【……そういえば、一つ訊きたい事があるんだけど】
『三文字以内じゃないと受け付けません』
【明らかに無理そうだから三文字以上で言うね】
『……こいつ、この数十年で慣れやがったな』
こちらの一向に改善しない塩対応にも順応している様子に不快感を禁じ得ない。何でここまで執拗に友人の様な態度を続けてくるのか、気味が悪いったらない。いっそ荒々しく対応されていた方がまだマシだ。
【君が、あの少年に渡した物だけど……】
その言葉で、すぐに渡し物の正体に思い当たった。だが反応を表に出さず、無言で続きを促す。
【あれは……あの道具は……一体何だったんだい?】
―――こいつ、何か勘付いたな。
見かけでは単なる筆記用具に過ぎないあれの事を、わざわざ訊ねてくるとは。単なる他愛のない疑問ではないという事を如実に証明してしまったようなものだ。こいつ、実は大間抜けなのか……それとも、疑われる事を承知の上で?
『あれはただの羽根ペン……それ以外の何だって言うんだか?』
間髪入れずに回答を送り、それ以上追求する意志を折らせようとした。下手に返事に時間を掛ければ、何かあると白状しているようなものだからだ。
【…………君、気付いているのかい?】
今まで聞いた事のない、やけに警戒の篭った鋭い声色。ああ珍しい、と呑気に考えつつも足を動かし、留まっていたこの場から去ろうと試みる。
『気付く?……一体何に?主語を省いて訊ねるのがこの国の言語特徴なのか?』
【……とぼけないでくれ。訊いているのは勿論、―――こちらの考えている事だ】
核心に迫る質問だった。向こうも向こうで、自分が何かしらを企んでいる事を推測されている自覚があるのだろう。だからこそここで真相に潜り込む様な真似を始めたに違いない。
『さあな?お前の考えてる事なんて解る訳ないだろ。お前はこっちの心を覗けても、こっちにはその
『あのアルバス・ダンブルドアでさえ、お前の全てを見抜けなかった―――あの魔法使いに出来なかった事を、僕が出来る訳がないだろう?』
筋の通っている理屈を並べて締めくくる。こちらが何を考え、どこまで真実に辿り着いているのか、わざわざ明かす得も義務も無い。
鼻歌でも歌う気軽さで歩調を進め、廊下を立ち去る。相手が息を呑んだ様な、そんな表現に近い何かしらの気配を感じた。
【君は……やはり……、】
―――君はもう、他者の操作を受け付けない力を得た。
どんなに優れた闇の魔法使いでも、君を思い通りに操るなどという芸当は不可能だろう。そう、例え【あの男】でも。
幾ら耐えられる程度に調整をしていたからとはいえ、何十年にも及ぶ精神干渉を防ぎ切ったその抵抗力は、やはり見込み通りだった。
己が蒔いた種は、着実に芽を出し始めている。
……そして。
何も知らないフリをして、『ある可能性』にかなり前から辿り着き、それが実行されるより早く対策になる道具を作り出した。
彼の言葉には、こちらの思い通りにはならないという脅迫めいた何かが含まれていた。
こんな推理力を持つとは当初想定もしていなかった。……やはり、逸材だというのか。
嗚呼、どうしてここまで胸が躍るのだろう。
誰かに対してこんな感情を抱く事なんて一度も無かったのに!
『創設者の遺産』よりも、『賢者の石』よりも、求めてきた今までのどんな物よりも手にしたい!
これは、『友情』でも『好情』でも『痴情』でも無い。
もっと別の、言葉では言い表せない様々な感情が己を支配している。これはまるで……
誰にも邪魔はさせない。
誰の手にも渡しはしない。
君は
お前の企みなんて引っかからねーよバーカってやってたら
ますます執着されるという負の無限ループに入ります。
皆さんも日々の振る舞いにはお気を付けください。
ストーカー被害は取り返しがつかなくなる前にさっさと然るべき機関に相談しましょう。
服従の呪文無効化なんて美味しいチートには裏がある