「―――いったぁ……!」
背中から勢い良く地面に叩き付けられて、ハリーは周囲を考慮せずに思い切り呻き声を上げた。
しかしふと冷静になって考えてみると、痛みは無い。衝撃を感じて自然と「痛い」という言葉が口を衝いて出たものの、何故か体のどこも痛んではない。
「か、帰れた……のかな」
雑草が伸び放題の草地に落とされたらしく、視界は緑で一杯だ。ホグワーツの校庭なのだろうか?今は良く分からない。
先程青年に突き飛ばされたのをしっかりと憶えている。背中から堕ちる様な感覚も。あれは悪夢から帰す為の行動だったのかもしれない。なら、もう此処は安全な現実なのでは―――
「お、憶えてる」
まだ、青年の事を
彼は言った。現実に帰れば、自分は全て忘れ去って何も知らぬまま目覚める筈だと。
「まだ夢の中!?」
―――話が違うじゃないか!そう叫びたかったが、生憎文句を言う相手は居ない。
とりあえず独力で何とかするしかない。そう諦めて立ち上がり、夢の出口的な物を探そうと周囲を見回す事から始めた。
そして幸運な事に、いきなりあっさりと目に付く物を発見してしまった。
「あっ、あれは……!」
どうやら此処はただの草むらではなく、墓地の一角だったらしい。あちらこちらに墓石が立ち並んでいる。その墓石の一つの前で、スリザリンの制服を着た青年の後ろ姿が見えた。青年は右手にサンザシの杖を握り締めている。間違いない、彼の姿だ。
此処は現実ではない。そんな空間に彼が居るのはおかしな話だ。とはいえ、無視するのは筋違い。ハリーは彼の元へ全力疾走で近付く事にした。
……もしかしたら、その並外れた勘の良さで自分の危機に気付いて、夢の中に来てくれたかもしれない。そんな期待すらも抱いて、彼の近くへ急ぐ。
「―――ねえ!」
自分はここだ、と伝えようとした。
しかし、その言葉が続く事は無かった。
彼の真正面に、突如として謎の存在が虚空から姿を現したからだ。
(え、何、あいつ―――)
大理石の墓石の上に現れ、まるでそこが玉座の様に、尊大に高慢に腰掛けている。墓碑銘は隠れて見えない。
そいつは真っ黒な陰気臭いローブを着ていて、頭をフードですっぽりと隠していた。唯一露出している青白くて細い、しかし健康的な肌を備えた手に、白い骨の様な杖を持っていた。それを目にした途端、大きく脈打つ心臓。
瞬間、彼が凄まじい速度でこちらを振り向いた。あまりのタイミングの一致に、自分の心臓の音を聞き取られたのかとさえ思った。彼の表情は驚愕に歪んでいて、両の目は大きく見開かれている。
彼の唇が、何か短い言葉を呟いた。唇の動きで何となく読み取れる。きっと自分の名を呼んだのかもしれない。ハリーは止まっていた足を動かそうとしたが、彼の足元に見える物体に気付いて竦んでしまった。
「っ、ヒッ―――、」
草むらのせいで最初は見えなかったが、彼の足元には大蛇がいた。大蛇が長くて太い全身を、彼の両足に絡ませていたのだ。足首から太腿に掛けてしっかりと巻き付いていて、彼をその場に縛り付けているようだった。
ハリーは動けなかった。彼はそんなハリーをしばらく見つめて、やがて忘れる様に正面へ顔を戻した。サンザシの杖を目の前の存在へ突き付ける。闘うつもりなのだろうか?
しかし、ローブの人物が白い杖から素早く放った何かの魔法により、彼の杖は吹き飛ばされてハリーの足元まで転がった。彼が態勢を整えるよりも早く、次の魔法が飛来する。閃光が彼の胸を貫いて―――意識を奪った。
力の抜けた彼は大蛇に絡まれたまま前のめりに倒れる。地面に触れるより早く、腰掛けていた墓石から降りたローブの人物が彼を抱き留めた。同時に大蛇が彼の足からするりと離れ、ローブの人物の足元を這い回り始める。
「ちょっと、まっ―――!!」
掠れ声で真面に言葉を紡げなかった。ローブの人物はハリーに気付かない。彼を捕らえたまま、空いた片手で邪魔だと言うかの様に、顔を覆うフードを脱いだ。
「…………、」
言葉を失うより他無かった。
取り払われたフードから現れたのは、―――彼と全く同じ顔をした、若い青年だった。
黒髪に赤い瞳の、背の高い男。相違点など一つも無い、鏡写しの肉体。
ただ一つ両者の明確な違いを挙げるとすれば、身に纏う服装のみ。
その時、突然右肩にヒヤリとした感触が襲ってきてハリーは飛び上がった。どうやら誰かの手が肩に置かれたらしい。
「んぎゃぴっ!」
『変な悲鳴上げるなよ』
凄く冷たい。しかもこのタイミングでこんな感触、驚くなと言う方が無理である。右肩を高速で擦りながら振り向くと、そこにはフードを被ったスリザリン生が立っていた。
―――何でどいつもこいつも顔を隠しているんだ。ハリーが何も言えずに口をパクパクさせていると、思い出した様に相手は顔を隠していたフードを脱いでくれた。
『ああこの格好、結構気に入ってるんだよね。ごめんごめん、顔が見えなかったよな。―――君、まだこんな所で道草食って、一体何してるんだ?』
それはさっき助けてくれた青年だった。見間違う筈もない。まさか、夢の中を自由に移動出来るのだろうか。どういう存在なのか本当に一から十まで説明して欲しい。というか、向こうに立っている男が持っている杖を、彼もまた持ってはいなかっただろうか……?
『折角良い感じに帰したのに、これじゃ締まらないじゃないか。……【あいつ】は戻ってるみたいだが』
言いたい事が一気に込み上げて来て口を開こうとすると、再び冷たい手が近付いて来て口を塞がれた。
『あー、言いたい事は解る解る。「此処は何処だ」、「帰れてないけどどういう事だ」、「彼処に居るのは誰だ」、……さあて、どれから説明したもんか。まず此処は何処だという話だけど―――ボクは知らん』
「はっ?」
『そうだなぁ。無理やり解釈するとしたら…………「君の本能が感じ取った避けるべき光景」……警告、いや予知夢に近い何かかな。言っとくけど、これを作り出してるのは君自身の頭だから、【あいつ】やボクは一切関与してないよ。被害妄想はやめときな』
「よ、予知夢、」
『ケンタウルスお墨付きの直感力が関係してるのか知らないけど……多分、もうしばらくでこれも終わるだろう。そしたら、君はやっと現実に帰れるんだと思うよ。君の直感が、君が帰ってしまう前に何かを報せようとしてるんだろうね』
何故ケンタウルスに言われた事を知ってるんだ。問い質したかったが、今すべき事ではない。塞いできた手を払って必死に口走る。
「予知夢だとしても、た、助けなきゃ!僕の友達が襲われてるんだよ!」
『……ああ……ほっときなよ。どうせ夢だろう?彼処に居るのは本人でもないし、此処で何が起きたって死にゃしないさ』
青年はどうしてか突然素っ気ない態度になった。他人事の様に、向こうで意識を失いされるがままになっているハリーの友人を眺めている。まるで実験動物を観察する研究者みたいで―――その冷酷とも言える視線は、前にケンタウルスが送ってきた物ととても酷似していた。
「ど、どうして。そりゃ、君にとっては他人かもしれないけど、僕にとっては友達なんだ!」
『別に他人じゃないさ。ボクにとっても彼は深い関係だしね』
「ならどうして!」
『……ボク、彼に死ぬ程嫌われてるしなぁ』
青年がポツリと漏らした何気ない一言に、ハリーの怒鳴り声が止まる。
『とっても酷い事をされた時もあったんだよ?ああ、君には想像も出来ないだろうけど……ボクみたいな奴には当たりが強いんだよ、彼。罵詈雑言は当たり前だし、親身になって助言をしようとしても聞く耳を持ちやしない。はっきり言って虐めだよね。助けたところで、罵倒されるのがオチだろうさ』
「……な、なんかケンカでもした、の?」
『喧嘩……そういう物なのかな。まあ酷い話さ。ボクが存在するのも元々全部、彼がやった事の結果なのにね……』
その時、空気が弾けるのに近い音が連続で響いた。周囲を見回すと、黒いローブを身に纏った人間が随所に立っているのが見える。その数はそこそこ多く、少なくとも十人は超えていた。顔は奇妙な仮面を被っていて全く見えない。
仮面の連中は中心に立つ男を確認すると、全員がさっと地面に跪いた。頭を垂れ、一言も発さない。動くものはただ一つ、地面を這う大蛇のみ。
その異様な光景に顔を顰めていると、青年がぽん、とハリーの頭に一瞬手を置いた。やっぱり彼に触れられた部分は冷たくて、何とも言えない感触を与えてくる。その他愛のない仕草を、ハリーは慰めの為の行動だと感じた。
『―――分霊箱は』
青年は、仮面の連中に囲まれている二人を眺め、歌でも歌う様に語り出す。
『殺人によって引き裂かれた魂を保存する代物だ』
どうして今ここで、その話が出てくるのか。
『「死」の味を知らない、健全な魂を組み込む事は出来ない―――』
青年の真意など知らないハリーは、口を噤んだまま大人しく聞くしかなかった。
『それは、異邦人であっても例外はない』
異邦人。それは、恐らく彼の事なのだろう。
「さ、殺人によって、引き裂かれた、たましい……」
『―――彼はいずれ、向き合わなければいけない』
古傷が痛むかの様に、青年は己の胸を片手で押さえた。その視線は連中に囲まれ、どこか満足そうに顔を歪めて笑みを浮かべる男と、その男に凭れて失神しているハリーの友人へと注がれている。その様子に、ハリーは何となく憎悪といった負の感情を感じた。理由は解らない。けれど目の前に居る青年は、間違いなくあの二人を―――強く嫌悪している。
『自分が、一体何を殺してしまったのかをね』
その言葉にハリーが青年をはっと凝視すると、彼は憎悪など微塵も感じさせない表情に戻っていた。愛想よく微笑んで違う話を持ち出してくる。
『そういえばさ、君って結構良いお友達を持ってるみたいじゃないか』
誰の事を言っているのか一瞬解らなかった。
『えっと……ロナルド・ウィーズリー、だっけ?君の事をそれはそれは心配していたよ。良い友達じゃないか。そっちも大事にしなよ?ああいうのは中々お目にかかれないからさ』
「心配してたって……えっ、えっ、逢ったの!?」
まさかこんな時にロンの話が出てくるとは。一体どうやって彼と対面したのだろう?本当にこの青年、何でもありだなと思う。彼が唯一出来ないのは、現実への直接的な干渉ぐらいだろうか。
『うん、ついでにちょっとした挨拶もしてきた。まあ……あの子も目覚めた時、何も憶えちゃいないだろうけど』
そういえばこの男はそういう存在だった。やはりどう足掻いても彼の事を、彼と関わった出来事の記憶を現実に持ち込む事は出来ないのだろう。この現象を無効にする方法は無いと、改めて思い知らされる。
と、青年の話に集中するべきか、捕らわれた友人を助けに行くべきか葛藤していたハリーを見兼ねてか、青年がハリーの背中を軽く押し出した。
『……この先どうするかは、君が選択するんだ。夢だろうが現実だろうが、彼を見捨てるのも助けるのも自由。他の誰がどう捉えようが、少なくともボクは君のあらゆる選択を尊重するよ。むしろ、その選択を観るのが楽しみだからね』
「……楽しんでる、の?」
無視出来ない単語が聞こえて、思わず顔が曇る。
『前に言ったろう。ボクは善意だけで君を助けたんじゃない。君がこれから歩んでいく道を見届ける為に助けた。君達が何を為しどう生きていくか、それを観るのがボクの娯楽だって。君達の選択の末に世界が光に包まれようが闇に沈もうが、ボクにとってはどちらでも構わないんだ』
その言葉に、自分は怒るべきなのかもしれない。人の行動をただ傍観しているだけで何もせず、あまつさえそれを娯楽にしている人間に対し、怒りの感情を抱かない方がおかしいと言える。けれどハリーは、不思議と目の前の青年に対し怒りに関する激情を抱く事は無かった。自分でも奇妙に思っていた。
「……君は、神様、なの?」
ふと思いついた疑問が口をついて出る。それを聞いた青年は控え目に吹き出した。その様子はやはり嘲笑ではなく、こちらを不快にさせる事は無い不思議な笑い方だった。
『はは。まあ、全てを観ているだけで何も齎す事なく、希望も絶望も与えないっていう点では、ボクはある意味では神様―――みたいなものなのかもしれないな。……でもさ、やっぱりね』
「やっぱり……?」
『―――どちらでも良いとは言ったけど、やっぱり、ほんのちょっとだけは期待してるんだよ。君達が、良い未来に辿り着く光景ってヤツを』
……ハリーはどうしても、この傍観者の青年が悪だとは感じられなかった。今の言葉に悪意は何も含まれていない気がしたし、青年の表情がどことなく憂いに近いモノに見えたからだ。
そんなハリーの考えを見透かしてか青年は鋭く目を細めた。墓石前に立っている男の方へ向き直り、そのままハリーより後方へ一歩下がる。
『―――君は、
まるで窘める様に―――ハリーが、たった今こちらへ抱いた印象が間違いであると、背後から教え諭す様に言う。
『
その言葉に反応を返すより早くハリーは背中を押され、強く前方へ突き飛ばされた。倒れそうになるのを踏み留まって振り返ると、もうそこには誰も居ない。
「……、…………!」
激励の様に押された背中が、じんわりと温かい。青年に触れられて初めて感じるその熱さを受け入れ、ハリーは勢い良く走り出した。目指す地点はただ一つ。
足音を聞きつけてか、跪いていた連中がこちらを振り返る。懐から杖を取り出しながら立ち上がり、全員が様々な色の閃光を一斉に撃ち出してきた。
ハリーは回避行動を取らなかった。変に立ち止まったり方向を変えては、余計に全弾の餌食になると思ったからだ。ただひたすらに真っすぐ疾走を続ける。功を奏したのか、閃光はただの一つも被弾する事は無かった。
中心に立つ男は攻撃に移行する事は無く、こちらに向かってくるハリーをじっと観察しているだけだった。その余裕ぶった態度がやけに苛立ちを与えてくる。敵がどんな行動を取るか注視しているとかではない。完全に敵を舐め切っているが故の傍観姿勢だという事が、嫌でも分かった。
走りながら、杖を取り出す。どこから出したのか自分でもよく分からない。ただ、相棒の柊は確かにそこに存在していてくれた。心なしか熱を孕んでいるそれを、男に向かって突き付ける。
その瞬間を目にして初めて、男は傍観を止めた。不気味さすら感じる無表情でこちらを見据える。ハリーの友人を片手で抱きかかえたまま、待っていたと言わんばかりに白い杖を同じく突き付けてくる。二人の体勢が、鏡合わせとなる。
先に呪文を放ったのは男だった。詠唱は聞こえなかった。緑色の悍ましい光が、稲妻を散らしながら向かってくる。
「《エクス―――」
懐かしさすら感じる目の前の光に、ハリーは
「《エクスペリアームス》!!」
――――――――――――――――――――――――――――――――
目覚めて一番最初に感じ取ったのは、額に落とされた心地よい冷たさだった。
ゆっくり、ではなくパチリと素早く瞼を咲かせると、視界に飛び込んできたのは血の色だった。艶のある黒髪の隙間の奥で、輝きが赤く染まっている。
突然覚醒したこちらに驚いたのか、その目は大きく見開かれていて、額の冷たさがぱっと離れた。置き場を無くした片手を宙に浮かしたまま、しばしの沈黙が流れる。相手は、何を口にしたら良いか迷っているようだった。
ハリーが眼球の動きだけで相手の瞳を覗き込んだ途端、その輝きが揺らいだ。瞳の奥深く、確かに誰かがこちらへ確固とした憎悪の視線を注いでいた。
咄嗟に、弾かれる様にハリーは彼の胸に飛びついた。彼を抱きかかえる格好で、床に倒れ込む。「うわぁ!」という叫び声が聞こえた。
一瞬、触れ合った箇所から濃厚な鉄の匂いがする。ダーズリー家で何度も何度も飽きる程嗅いできた、人の傷口から滲む鉄の匂い。どうしてなのか何も考えられない。
彼に覆い被さったまま、じっとしていた。こうする事が彼を守る事だと、自分の勘が告げていたのだ。何故、彼を守らなければならないかは解らない。解らないまま、彼の体を抱き締めていた。
『ハリー……?』
数十秒経っても動く気配のないこちらを怪しみ、やがて彼が大きく息をついた。背中に絡められた両手をグイグイと引き剥がしに掛かる。
『いや、長い!何の時間だこれ。そろそろどいてくれよ。君、見かけによらず重いぞ』
その言葉で我に返った。周囲を見回すと、同室者の寝息と月明りだけが満ちていた。静かな夜の気配がある。
『ほら、もしも誰かが起きてきたら、僕らの関係を誤解されるだろ』
「え?」
顔を上げるとトムの赤い瞳とかち合った。訝しそうに目を細めている。その表情はまるで、不審者に襲われた女性の様な被害者染みた面持ちだった。その瞳の奥に、誰かの気配はもう消え去っている。ハリーは慌てて全力で彼から飛び退いた。うっかり苦手な生き物に触ってしまった子供の様な動きだった。
「あっ、えっ、うわっ!別に、トムと抱き合うつもりは無かったんだよ」
『抱き合ってただろ。それも、ハリーから強引に。まさか、そういうのに目覚めたのか……?』
「バカ言わないでよ。君と抱き合うくらいなら、ファングとキスする方がまだマシだから」
両手で肩を抱き、ドン引きしながら距離を取ってくる真剣な彼の態度に、ハリーはすぐさま反論を投げ付ける事を忘れない。ここまではっきりと明確な恐怖を滲ませている姿は初めてだ。何だか、実際に誰かに襲われた事があるかの様な様子にちょっぴり同情してしまう。そういえば、昔ストーカーに狙われていた事があるという話をしていたような。顔が良いというのも実に考え物である。
『いや、それなら全然良いんだが。もしも君がそういう人間に成り果てたら、僕はどんな手を使ってでもここを逃げ出すからな……』
「だから、有り得ないって!天地がひっくり返ってそんな人間になったとしても、君のコトだけは絶対選ばないから安心して」
全力で否定しても、彼はまだ疑わし気な目付きで見つめてくる。一体過去に何を経験したというのか。
「―――というか昔、何に襲われたのさ……」
『か、母さんが……』
「は?えっ、えっ?」
『いや、何でもない……』
犯人の名前にとんでもない単語が聞こえてきた気がして聞き返すも、彼は目を閉じて口を固く結んでしまった。集中して観察しないと分からないぐらい小刻みに震えるその姿は、まるで捕食者に睨まれた草食動物に近い儚さを感じさせる。ここまで演技無しの様子を曝け出すのはとても珍しい。
聞こえてきた単語が間違いなければ、彼はとんでもない被害を経験している事になる。もうちょっと詳しい話を知りたかったが、今ここでそれに踏み込むのは鬼畜の所業。勿論鬼畜になる気は一切無いので、ハリーは我慢して話題を戻してやる事にした。
「ほ……ほら、あの、何か、夢見ててさ。悪夢、予知夢?なのかな。君が危険な目に遭うんじゃないかと思って、つい……。咄嗟に体が動いた、というか」
『予知夢?』
「何か危ない予感とかしなかった?……ねえ、そういうの鋭いじゃん、君は」
肩を抱いていた手を放して彼はゆっくりと首を横に振った。
『僕は別に何も感じなかったけど。ハリーは動物に近いから、危険を察知する能力が高いんだ。ああ、僕の知性が邪魔になる時もあるんだなぁ』
「ちょっとトム、言ってくれるじゃんか」
相変わらず早めに気持ちを切り替えたのか、さっきまでの慄然とした様子はどこへやら、皮肉交じりの返しが飛んできた。人が心配してやっているのに、とねめつけるハリーを無視して、トムは抑揚の無い声で淡々と説明してくる。
『何の夢を見てたか知らないけど、その間に君の杖を拾って帰ってきた。君を起こそうか迷ってたら、君が起きて飛びついてきた』
彼が持っていた柊の杖を見せてくる。眠りに落ちる前に、確かに彼は自分の紛失した杖を探しに行った記憶がある。無事に発見してきてくれた、という事だろうか。
それでも先程まで魘されていた悪夢のせいか、未だに暗い表情の晴れないこちらを見つめて、彼が問い掛けてくる。
『僕がいなくなった後、何を見たんだ。言ってみろ、ハリー』
「えっと……」
続けようとした言葉が出て来ない。何か、彼に今すぐ伝えなければならない事があった筈……なのだが、その何かが解らない。
喉の入口まで出掛かったと思ったら、言いたい言葉が形となる前に霧散していく。記憶を辿ろうにも寝起き故かどうにも頭が働かず、結局言葉がつっかえるだけだった。
「……お……もい出せない、や。ごめん。あ、いや、でも覚えてる様な気もして、」
『覚えてるんだろ。誤魔化すなよ』
「トム、頼むから、そんなドスの効いた声出さないでよ。威圧すれば、相手が必ず白状するとか思ってない?脅かしモードに入られたって、僕は君みたいに詐欺が出来る程口が上手くないんだから」
『一体どこの誰が、詐欺が出来る程口が上手いって?』
「君の他に誰がいるのさ。口だけで金儲けしてやろうってタイプじゃん」
『やかましい。話を逸らすな。痛い目に遭わないと口を割らないつもり?』
「いや、だから、あの、変な夢を見てた様な気がして、それで何と言うか、悪夢っていうか、嫌な感じ……?金縛りみたいな。寝汗とかぐっしょり掻いた気も……あれ、でもどういう訳か途中からすっきりした様な……」
自分でも魘されていた記憶はある。しかし妙な事に、しばらくして体調が快方に傾いた感覚が残っているのだ。まるで誰かが自分を―――
(助けて……くれた……)
頭の中で、閃光の様に過る記憶があった。夢で誰かと逢った気がする。初対面だった様な気もする。色々話をした気も……
「…………」
『…………』
「うん、睨まないで、ちょっと待って。ちゃんと説明す…」
立ち上がり、笑ってみせようとした顔が強張る。表情全部が強張ったのが分かる。
『ハリー?何だ?君、何を見てる?』
こちらの視線を追って一瞬だけ背後を振り向き、トムは形の良い眉を顰めた。
「トム……あれが、あれが見えないの?」
『は?僕には何も見えないぞ』
彼に見えていない。あれが、見えていない。悲鳴を上げそうになる。ハリーは両手で口元を押さえて必死に声を呑み込んだ。
彼の両の目と視線が交わる。赤い瞳だ。常人なら有り得ない色をしている。透き通った紅玉、いや、人体を流れ廻る液体。
どうして、こんな変わった色をしているんだろう。
頭の隅でチラリとそんな事を考えた。疑問が余りに今更過ぎて、思考力も集中力も緩んでしまったようだ。
単にその体の持ち主が充血し易い体質だとしても、こんなにも瞳全体が赤いのは異常としか考えられない。
本当に、こんな変わった色、どうして……。
『ハリー!』
強い声がした。強い力で手首を掴まれた。
『しっかりしろよ。今、何を見てるか、僕に言うんだ』
トムの眼の光が飛び込んでくる。それは、早朝の澄んだ冷気に似て意識をはっきりと目覚めさせてくれた。現実へと引き戻してくれた。
「……蛇だよ。蛇が見えたんだ」
『蛇?』
正確には蛇の影だった。黒くぼやけた太い縄に見えるものが彼の、トムの腰から肩に掛けて巻き付いているのだ。輪郭が黒炎の様に揺らめいていて、その物恐ろしい揺らぎを前にもどこかで見かけた気がする。それが蛇だと判ったのは、肩の上で楕円形の頭らしいものが動いたからだ。眼球にあたる部分は刳り貫かれた様にぽっかりと穴が開いていて、底無しの暗闇が広がっている。
頭はハリーの視線に気付き、一瞬だけ牙を剥いて威嚇の意を示した。それからぬるりと動き、まるで甘える様に、見せ付ける様にして彼の首に絡み付く。チロチロと出入りする裂けた黒い舌先が、見ているこちらが目障りに感じる程彼の頬を擽っている。だというのに、彼自身は全く気が付いていない。こちらを怪訝そうに見つめているだけだ。
不吉で禍々しい外見とは対照的に、絡み付いた対象を愛おしむかの様な蛇の一連の仕草が、底知れぬ不気味さを沸き立たせる。彼に纏わりつくその生き物を、今すぐに引き剥がして仕留めたい謎の衝動に駆られる。
しかし、その欲求が叶う事は無かった。長い間目を見開いていた為、乾きに耐え切れず瞬きをした後、蛇の影はもうどこにも見えなかったからだ。額の傷跡がチクリと疼く。それもほんの一瞬の事で、すぐに治まる。
「……多分、ね、寝惚けてたんだと思う……」
そうだ、きっと幻覚に違いない。だって彼は普通の人間ではないのだ。例え何かの間違いでこの部屋に蛇が潜んでいたとして、彼の体に触れる事なんて出来っこない。色んな事象に対し鋭い直感力を持つ彼も気付く素振りを見せなかったし、己の視界からもすぐに消えてしまったのだ。
「きっと、さっき悪い夢見てたせいだから、……大丈夫だよ、ただの見間違い。昔から僕って夢見が良くないんだ。……知ってるでしょ?」
『……ふーん』
トムが真顔で軽く頷く。疑り深い彼にしてはやけに理解が早い。何故かやたら額の傷跡への強い視線を感じるが、今何を思案しているかは彼にしか解らない。
視線の強さがどうにも居心地悪く、彼の注目を逸らしたい気持ち半分、疑問を訊ねたい気持ち半分でハリーは問い掛けてみた。
「……君って、何でそんなに目が真っ赤なの?」
『は?』
「何かの病気なの?目はちゃんと視えてるの?心配になるんだけど……」
『……今更過ぎないか?その質問』
確かに言う通りだ。初対面からずっと気になっていた事だったのだが、訊ねる機会をいつの間にか失ってしまっていた。
『ん……【本人】がどうしてこうなのかは知らないな。ただ、僕自身も昔はこんな症状があった』
「君も?」
『結膜下出血、っていうヤツさ。確かに他人からは結構驚かれる見た目だけど、命にも視力にも別状は無いから、深刻に悩む症状でも無かったけどな』
「そう、なんだ……」
別状は無い、それを聞いて少し安堵する。
いや、違う。別状が無いのはあくまでも『元の世界』の彼の事であり、今目の前に居る彼ではないのだ。非常にややこしいが、とにかく【本来の人物】、つまりヴォルデモートが何故こんな症状を抱えているのかは実質不明のままなのである。
『僕もこの体になった時はびっくりしたさ。これが病気……かは解らないところだが。あとはそうだな、【本人】がクルタ族の血筋っていう可能性があるが』
「はあ、クルタ族?」
『感情が昂ると眼が赤くなる一族さ。この世界に実在するかは知らないけどな』
彼はふう、と一つ息をつくと、それから室内のベッドを素早く見渡した。ハリーの悪夢に関してそれ以上追及する事なく、無言で姿を消す。長居する事によって同室の生徒達に発見される可能性を考慮しての行動だろう。そういえば防音呪文も無しで随分と騒いでしまった。ハリーも気を取り直して床から起き上がった。
(…………全部、言ってしまえば良かったかな)
幻か実体か分からない物を彼に告げるのは無意味かもしれない、そう考えて寝起きにみた幻覚という体で説明してしまった。
とはいえ、全て伝えたとして自分達に出来る事などない。だってあの不吉な蛇はとっくに消え失せてしまったのだから。
ハリーは今しがたの出来事を忘れようと二度寝の準備に取り掛かる。杖も友人も戻って来たし、今晩はこれ以上起き続ける必要は何一つ無くなった。まだ時刻は深夜だ、明日の為にもしっかりと休んでおかなければいけない。
―――この時、自分が目にしたモノを白状しなかった事に対し、永遠に後悔する羽目になるとは知らずに。
―――本当にびっくりした。
まさか、こんな所であんな記憶を思い出させられるなんて。
ハリーにそういう気は更々無く、単に悪夢から来る不安であんな奇行に走ったらしいが、それでもあの光景を脳裏に蘇らせるには十分過ぎた。
焦点の合わない血走った斜視を迫らせ、
何度「違う」と訴えようが暴れようが、古来より身近に存在し、人間を依存させ惑わすあの飲料の前では無意味だった。あれを摂取した猛り狂う大人なんて、非力な子供が到底逆らえるものではない。
……だから、大嫌いなんだ。
あの女が望んだ名前も姿も、何もかも。
……この魂になってしまったのは、果たして偶然なのか?
ふとした時に、考えたくない疑問が浮かび上がってくる。
……気持ち悪い。気味が悪い。吐き気がする。
何で、こんなにも、同じなんだ。
もしも。
もしも、この状況が人為的に引き起こされたものだとしたら。
自分を、こんな存在に堕とした何者かがいるのだとしたら。
―――どれだけ時間が掛かろうとも、絶対に見つけ出して。
そして…………必ず、殺してやる。
――――――――――――――――――――――――――――――――
【―――ねぇ、本当にやるつもりなのかい?】
【あの連中に見付かる可能性もあるというのに、些か大胆が過ぎると思うんだけど】
【昨日の出来事を忘れた訳じゃないだろう?よりにもよって『分霊箱』に向けて、《服従の呪文》を掛けてきたんだよ。もしもまた遭遇したら、次はどんな目に遭わせられるか】
翌日、ハリーと別れた後。
クィレルの動向を探る為、生徒達が授業に出ており、廊下を出歩く者が殆ど居ない城内を歩いている間、同居人がやたらしつこく忠告を続けてきていた。
『―――お前さ……』
あんまりにも鬱陶しいのでただただノーリアクションを貫いていたのだが、そろそろ我慢も限界だった。こいつの声は脳内に直接響くので、耳を塞ごうが《マフリアート》を自分に掛けようが、防ぐ事は一切不可能。心底面倒だったが反応してやる事にした。
『何をそんなに恐れてるんだ?』
【……そういう訳ではないけれど】
『連中が何で何の接触も無しにいきなりあの呪文で挨拶してきたのかは、まあ概ね予想はついている。次も同じ轍は踏まないさ』
【―――君は、自分が誰に狙われているか解っていないんだ】
まあ、確かに直接本人と対峙した事は一回も無いのだが、相手がどういう人となりをしているのかは理解しているつもりだ。
『特別心配する事は無いだろ。どこかの誰かさんが人の精神を弄り回してくれたお陰で、精神干渉に対して恐れる心配は無くなったみたいだし?』
【君だって想像はつく筈だ。……誰かを服従させるのに、時として魔法は必要無い。人を従える方法は、他に幾らだってあるんだよ】
『流石、経験者かつ実行者は言葉の重みが違う』
【茶化さないでくれ。君は断言出来るのかい?脅迫、拷問、 醜行などに見舞われて尚、絶対に誰かに屈服する事は無い、そう言い切れるのかい?】
何だか妙だ。こいつの執拗なまでの警告。「巻き添えを食らうから迂闊な行動は止めて欲しい」、というよりは、まるで……
「誰の手にも渡って欲しくはない」。
……いや、そんな事はないか。こいつみたいな人種に限って、そんな思考回路は存在しないだろう。
他人を心配したり気に掛けたり、そういった類の感情とは無縁の人間だ。万が一そんな心があったとしても、こいつにだけは死んでも心配されたくはない。本当に頼むからやめて欲しい。
『そりゃあ、僕だって所詮人間だし。もしも死にたくなるぐらいの悲惨な拷問なんかに遭ったら、まあどうなるか解らないよな。苦痛から逃れる為なら、人間はどんな選択肢だって取れる生き物だ』
【だったら……】
『だから、そうならないように今動いてるんじゃないか。何も考え無しに動いてる訳じゃないのはお前も解るだろ。あいつらに振り回される時間はもう終わってるんだよ』
【……そうさ、絶対に渡すものか。もう僕の物なんだ。数十年も掛けて唾を付けたのに、横取りされるなんて洒落にならない……】
『……何か言ったか?』
かなりの小声だったので、何を言わんとしたか解らなかった。相手はすぐに話題を変えてくる。
【こっちの話さ。……君、理解してない訳じゃないだろう?君は『未来』を識っているんだ。もしもその情報が敵に渡ってしまったら―――そんな可能性を視野に入れているのかい?】
『まるで自分は敵じゃないと言いたげだな』
【少なくとも君の邪魔をする気はないし、する気があっても何も出来ない身なのは君自身、良く知っているじゃないか】
『あの羽根ペンについて訊ねてきた癖に、よくもまあ抜け抜けと……』
……こいつは、その気になれば現実での行動を可能にする術を持っていた。その可能性を危惧して、無い知恵を振り絞りながらせっせとあの道具を作っておいて本当に良かった。日記帳に刻まれた幾多もの『知識』と、ホグワーツにあった大量の書籍のお陰だ。決して談話室でただサボっていた訳ではないのだ。
『しかしまあ……天下のダンブルドアのお膝元にも関わらず、相手は「賢者の石」を諦めるつもりは……毛頭無いみたいだな』
【手に入れるのが難しい物こそ、余計に欲しくなるというものさ】
『確かにそういう事もよくある―――ん?』
何だろう。今、言葉に表現し難い悪寒と謎の違和感を感じたのだが……。気のせいか?最近、何だかこういった感覚に襲われる機会が増えた気がする。
しかしこいつの言う事も人間心理の的を射ている。簡単に達成してしまう物に、人間は魅力や価値を感じづらいのだ。苦労して成し遂げるからこそ、そこにある種の幸福感や満足感を得る。
ゲームだって、ラスボスが弱過ぎたりこちらのレベルを上げすぎて圧勝してしまったら、肩透かしを食らってつまらなさを感じるだろう。ちなみに、自分は推奨レベルより下のまま挑んで勝利した時の優越感に浸るのが好きだ。知識や工夫次第で状況を好転させられる全能感や支配感というか、そういう物が何とも心地いいという人間はそこそこいる筈だ。
『まあ、お前って見るからにがめつそうだし、独占欲強そうだもんな。物欲の方も』
【それに関して君に言われるのは少し、いやかなり引っ掛かるけど、まあ否定しないよ。今までに望んだ物は全部、しっかりと手に入れてきたからね】
『へえ~、そんな事でいちいちマウント取ってくる姿勢、僕は嫌いだよ』
【……そう、全部手に入れる。そうならなかった物は無い……】
何だか途中からブツブツとした小声で聞き取れなかったが、まあこいつの身の上話にあまり興味は無い。
わざわざ説明されなくとも既に知っている情報だ。こいつは幼少期から色んな物をくすねてきた畜生。他人の物を横奪するなんて本当に最低だ。アズカバンに入れられれば良いのに。
……ん?この杖は借りてる物であっていつか返すから問題無いのだ。決してブーメランは刺さらないのだ。持ち主が今も生存しているかは知らぬけど。もう故人だとしたら晴れて自分の物だし何も心配ない。
と、人気の無い廊下を選んで探索していたところに疑問が投げ掛けられる。
【何について調べるつもりなんだい?】
『お前を消す方法』
【―――誰にだって傷つく心はあるんだよ?】
『役立たずのイルカは黙って見てろ』
【何故イルカ……?】
こいつが生きていた時代にパーソナルコンピュータなんて普及していなかったし、説明したとして絶対理解出来ないのでしない。
……というか地味に気になるところなのだが、「自分の世界」と「こちらのマグル界」は、同じ歴史・発展を辿っているのだろうか?
両世界全く同じだとしたら、この世界のマグルもいずれは魔法族もびっくり仰天の大進化を遂げてしまうのだが……。
大地を高速で駆け巡り、大海の深淵にまで手を伸ばし、母星を離れての生命活動を可能とする技術の数々。加えて、梟等による郵便物の運搬を馬鹿にする程の、直接的かつ迅速な意思疎通・情報交換はお手の物だ。人間が動く必要も無く、教育の手間も省ける数多の労働人形の製造etc。こういった文明は、もう「魔法」と呼称しても差し支えない。そんな力を得た未来のマグルを、魔法族が知ったらどう思うだろうか……。
……やはり故郷の世界の詳細情報は、この世界のどんな人物にも流すべきではないだろう。ハリーにもほんの少ししか話していない。
この世界で未来のマグルがどんな力を得ようが、それは自分には関係無い事だ。日々進化を続けるマグルとどう付き合っていくか考えを巡らせるのは、この世界の住人の仕事だ。
まあ、自分としては故郷と同じ進化を遂げて欲しい。この世界で碌な娯楽が生まれないので非常に困るのだ。将来その娯楽にありつく為にも、己のやるべき事を片付けねばならないので頑張るしかない。
―――一つだけどうしても気になる事がある。
故郷の歴史も地理も、この世界とほぼ同一だとすれば。
あの国のあの土地に赴けば、自分の家も其処に実在しているのだろうか。
はたまた全然違う土地と化していて、知らない他人の家がどっしり建っていたりするのだろうか……。とても気になるとこだ。
小さい頃はあの古臭く退屈な村が大嫌いで、娯楽満載の都会暮らしをよく夢見たものである。
両親共典型的な田舎者特有の頑固頭で、引っ越しなんて特大イベントは決して起こる事は無かったが、まあ住み易さは良い方だろう。
電波はしっかりと届いていたし、生活に不自由した記憶は無い。虫や鳥獣は何匹殺そうが掃いて捨てる程棲息していて、
全てが片付いたら、あの場所を訪問してみるのも良いかもしれない……いや、この世界に実在するかはまだ不明なのだが。
【何を思い返しているんだい?】
『故郷の兎みたいにお前の首を切り落としてやろうかなーと考えてた』
【また野蛮な事を―――、……兎……首……?】
黙らせる目的で過激な話を持ち出したのだが、何故か相手は疑問符を浮かべてきた。何がそんなに奴の気を引いたのか知らないが、とりあえず黙り込んでくれたので良しとしよう。
【ビリーと喧嘩した時と似ている……】
まだブツブツとした小声が聞こえる気がするが、無視してそのまま廊下の奥へ踏み込んだ。
すると、ピリっとした微かな痺れが全身に走る感覚に襲われた。すぐに立ち止まって周囲に視線を巡らせてみる。人影もゴーストも、誰一人として見当たらない。
しかし間違いなく、この付近には
『《アパレシウム》!』
これは魔法的に隠蔽された何かを強制的に暴く呪文だ。その効果から、主に犯罪の痕跡を探る闇祓いの間でもしばしば使われるらしい。例えば透明インクで書かれた文字なんかはこれで大体解析出来てしまう。
呪文を唱え終わった瞬間、目の前に光線が走った。廊下の壁と壁の間を光る白線が伸びている。線があるのは胸の辺りぐらいの高さだった。リンボーダンスでも出来そうな位置である。
(何だこれ)
好奇心から現れた白線に指を触れさせようとしたその時、鋭い声が脳内に響いた。
【迂闊に触れるのはやめた方が良い。目に見えない様に隠されていた代物だろう?良くない物であるのは確かだ】
確かに正論ではあるが、これの正体を確認しておくのも必要な事である。直接触れるのが駄目なら別の方法を取るまでだ。
『ふーん、だったら……《エイビス》』
サンザシの杖先から光の粒子を散らしながら、一羽の鳥が出現した。種も仕掛けも無いマジックだ。魔力を使って疑似的な生命体を形作る、という真面目に解説すれば難しそうな印象の呪文だが、実際は割と簡単なのである。鳥という身近な生き物をイメージするなんてお茶の子さいさいというヤツだ。
鳥を生み出して何をするのかと疑問を浮かべる者もいるだろう。この一見あまり役に立たなそうな呪文でも、使い道はちゃんとある。こういう未知の物に対する実験として使うのだ。
『行け』
数歩下がって白線から十分な距離を保ち、生み出した仮初の命へ命令を下す。イメージしたのが鷹や鴉などではなく、田舎に良く居る貧相な野鳥だったのには突っ込まないで欲しい。
と、案の定、目聡い同居人が鋭い指摘を入れてくる。
【君の実家は田舎だったのかい?】
『……自分が都会育ちだからって調子に乗るなよ』
【はは、まあ―――調子に乗れる程整った環境では無かったけどね……】
やはりこいつは要注意人物だという事を再認識する。こういった些細な情報からプロフィールを確実に探られる。しかし出身地が割れたくらいじゃ痛くも痒くもない……かもしれない。
【君の家は一つ一つの部屋すら大きくて広いみたいだし……両親のどちらかは裕福な家系だったのかな?】
前言撤回。痛くも痒くもあった。前に空き教室でハリーと交わしたどうでも良さそうな会話をしっかりと拾ってやがったのである。こいつのこういう能力は非常に厄介だ。まるで相手の素性を執拗に探り当てようとするストーカーの如き性質。
『お前本当に気持ち悪いな。囚人服着てくれよ』
【遠回しに犯罪者扱いしないでくれ】
『お前自身が罪の塊みたいなものだろ』
【君に対して何か直接的な害を齎したかな?】
『―――存在』
【ここに居る事が罪……?】
なんて下らない会話の最中にも、生み出した鳥は動き続けている。
魔力で作られた鳥がゆっくりと飛行し、白線へと触れた。その瞬間、白線を通過して飛行を続けようとしていた鳥は、突如としてその身を床へと堕としてしまった。良く観察すると全身がピクピクと痙攣している。電流でも浴びてしまったかの様だ。
『ッ、何だ!?』
何かが動く音を聴き取り、さっと天井を見上げる。丁度その時、天井から何かが落ちてきているところだった。何かの落下に合わせて視線を落とすと、未だに痙攣を続けている鳥に発光する網が被さっていた。床にピッタリと縫い付いた様に固定されており、鳥の逃げ道を完全に潰していた。
(シンプルイズベストな罠……)
己が囮に使ったとはいえ、麻痺と網の二重の拘束に見舞われている鳥が何だか不憫に見えて、しばらく立ち尽くしていた。すると、鳥を捕えている網が激しく光り始める。まるで何かを呼び寄せている様な―――
(……、嫌な予感。僕のサイドエフェクトがそう言っている)
【同感だね。身を隠した方が良い】
素早く自身に目くらまし術を掛け、廊下の壁の中に入り込んだ。今だけは実体ではないこの身に感謝する。壁の中は無機質な石材の断面が視界中に広がる、何とも不思議な空間だった。気分は完全に*いしのなかにいる*というヤツである。
それから数十秒経ったくらいだろうか、廊下へ近付く足音が響いてきた。やはりあの罠は、獲物が掛かったと同時に術者に通知するシステムでも搭載されているのだろう。シンプルかつ高性能で、少々感心してしまう。
しかしまあ、やけにお早いご登場ではないだろうか。今壁の中から顔を出すと見付かってしまう恐れがあるので、情報源は聴覚だけだ。真剣に耳を澄ます。
音の感覚から推察するに、早足らしい。罠が無事作動して興奮でもしているのかもしれない。掛かった獲物が囮とも知らずに。
『………………』
しばらく耳を澄ましたままじっとしていると、網のところまで辿り着いたのか足音は止まった。何か、苛立たし気な唸り声が聴こえた気がする。
次の瞬間、バチッという電気が弾ける音が耳を劈いた。近距離であった為、音の大きさに条件反射で全身が一瞬震える。
何かがジュウジュウと焼け爛れる様な、不快感を煽る音が続けて上がる。同時に、鳥の存在を維持していた魔力が消失するのを感知した。どうやら―――あの鳥は、その仮初の命を散らしてしまったようだ。心の中で形だけの黙祷を捧げておこう。南無。
きっと掛かった獲物が目当てのモノでは無かった為、腹いせに消し炭にでもしたのだろう。
足音の主はしばしその場から動かず、何事かを呟いていた。独り言の類ではないようなので、恐らく罠の張り直しでもしているのかもしれない。
やがて呪文の様な言葉を呟き終えたのか、再び足音が響く。今度はここから遠ざかっていく―――立ち去っていく足音だ。
足音が完全に聴こえなくなってからも、念の為もう数分程たっぷり間をおいて壁の中から抜け出した。視界が一気に開ける。同時に目くらまし術を解除するのを忘れない。発動したままだと魔力を継続的に消費するので、不要な時にはしっかりと解除して少しでも魔力を節約するのだ。
(……成程)
再び襲ってくるピリピリとした不思議な感覚。これは恐らく、相手の魔力にこの体が反応しているからなのだろう。相手が何かしらの魔法を行使し、その魔力が空間に解き放たれ、こちらが魔力の残滓に近付くと感知した体が反応を示す。その結果、この様な微かな痺れが走るという事なのだ。
(他の魔法使いの魔力じゃこんな反応はしなかった……。やっぱり、
早急に『分霊箱になった時のマニュアル本』を求む。
本当に、転生するにしたってチュートリアルが欲しいものだ。文句を垂れたところで、そんな都合の良い説明書は何処にも存在しないのだが。
唯一説明書代わりになりそうな同居人は、平然と嘘を吐くド畜生なので迂闊に質問も出来ない。自分でも良く今まで正気を保って生きてこられたな、と心底思う。誰か褒めて欲しい。
【一つ、気付いた事があるんだけど。……発言しても良いだろうか?】
これまでに散々な対応をし続けたせいか、何となくこちらを気遣った様な言い回しで声を掛けられた。
低姿勢で会話する技術があるなら初めからそうすれば良いものを。そもそも、生前の実年齢を考えればこちらの方がこいつより僅かだが年上なのだ。気を遣うのは当然の事だろうに。これだから最近の若者は……うん?何十年も経っているし、若者と呼べるのだろうか……?
『役に立ちそうな話じゃなかったら処刑だな』
【いちいち脅しを入れるのはやめて欲しいけど……。…………うん、やはりね。この独特な魔法式は―――】
【これはどうやら―――剥き出しの魔力、それも濃厚な物に対してのみ発動する仕組みのようだね。その辺の生徒が触れても、きっと何も起きないのだろうさ】
『濃厚な、剥き出しの魔力……?』
【魔法使いには必ず魔力が宿っているだろう。しかし、その魔力は普段は肉体の内を循環しているだけだ。ごく微弱な魔力は常に体外を流れ出ているけれど、魔法を発動するといった行動以外で、強い魔力が外界に放出される事はまず有り得ない。つまり……うん。他者の魔力を運用して仮の肉体を構成している君の様な存在は、剥き出しの濃厚な魔力の塊、と呼べるね】
しばし、両者の間に沈黙が訪れる。言葉の意味を理解出来ても、返事を考えるのに時間を要した。
この罠が《エイビス》で生み出した鳥に反応した理由は、普通の動物ではなく「全身が魔力で形作られた擬似生命」だったから、なのだろう。
こめかみに人差し指を当てて両目を閉じながら口を開く。
『ああ、うん。成程、成程……。罠に掛ける獲物を、端から選定していたと……そういう事……ね』
やがて眼を開いた瞳の奥に、静かな憤りが渦巻いていた。
『人の事を鼠だとでも思っているのか……?本当に、舐められたものだ。やっぱり《クルーシオ》特盛コースは決まりだな』
【そういえば昨日から指摘したかったんだけど、君って『許されざる呪文』、何気に習得してるよね】
『役に立ちそうだったから。それ以外に何かあるか?』
【いや……でも、
『許されざる呪文』は全部で三つ。行使すると即アズカバン送りとなるが、関係無い。もしも使うとしても、それは自衛の時ぐらいと決めている。そもそも自分は分霊箱なので、魔法省に感知される事もまず無いだろう。
同居人は何故だか
(しかしまあ……軽率に城内を動き回れないって事か。厄介だな)
だが、これではっきりした。
……敵は、確実にこちらと友好的な接触を取るつもりはゼロ、という事実が。
この罠自体は攻撃力、殺傷力共に皆無だ。対象を行動不能にするだけの能力しかない。害するつもりは無いというのは確かだが、
(……目的は攻撃じゃなく、行動不能。その真意は……)
全力で嫌な予感がする。どうしてこんな方法を取っているのかは推測不能だが、とにかく何が何でも敵の思い通りにさせる訳にはいかない。
『……?何か騒がしいな』
窓の向こう側から、叫び声に近い雑音が響いている、気がする。悲鳴の様な声、歓声の様な声……一体何処の馬鹿共が騒いでいるのだろう。
何となく気になって、窓の外を覗いてみようかな、と考え始めた時であった。
『ッ!!?』
フラリ、と。
まるで夢遊病患者の様な足取りで、廊下の角から女性が姿を現した。
ここまで接近されれば間違いなくその気配に気付けた筈だが、どういう訳か自分の感知をすり抜けられたらしい。クィレル相手でも支障なく働いた気配察知力をこうも簡単に掻い潜られ、目を丸くして後退る事しか出来なかった。
(ま、ず―――てか、どこから湧いてきたんだこいつ!?)
ハリーとドラコ以外の人間に己を認識されるのは非常に不味い。もしも相手がダンブルドアだった場合、間違いなくゲーム・オーバー。
校長という立場上、彼は生徒を守るのが仕事。だが、生徒だった頃の闇の帝王の分霊に限っては例外だろう。こちらが如何なる事情を抱えているとはいえ、彼にだけは何が何でもエンカウントしてはならない。そんな展開が万が一にも起きないよう、日々密かにお祈りタイムを設けているのはここだけの話である。
見たところ現れた女性は制服を着用しておらず、また年齢も成人を超えている様だ。という事は生徒ではなく職員の誰かなのだろう。
幸いにも女性はその様子通り、周囲の状況に全く気付いていないようだ。お互いかなり近くに居るが、こちらに目を向ける事はない。寧ろフラフラと俯きながら歩いており、いつ倒れてもおかしくない彼女はどちらかというと他人の助けが必要にも見える。
「う、うう………ぁ」
ゾンビみたいな呻き声が聴こえてくる。体調でも崩しているのだろうか。しかし、こちらに構っている余裕は無い。姿を見られるのは絶対に避けなければならないのだ。足音を立てぬ様細心の注意を払いつつ、女性から距離を取ろうとした。ステルス行動ならお手の物だ。
ここで再び目くらまし術を使用出来れば尚良かったのだが、少なからず動揺を消化出来ていなかったせいかすっかり術の存在を忘れ、ただただこの場から離れようとした。
だが、女性はそれを許さなかった。
「―――覚悟せよ!」
『へぁッ?』
クワッ!と、女性が勢い良く顔を上げ、大声も上げた。突然の奇行に流石の自分も驚愕を抑えきれず、つられて声を漏らしてしまう。
顔を上げ表情が露わになった女性はというと、大きな眼鏡の奥で白目を剥いたまま両眼を見開いていた。ここまで表情を歪にされると、何を考えているか全く読み取れない。呆然と立ち尽くしているこちらを差し置き、女性は芝居がかった様な野太い声色で何事かを呟き始める。
「覚悟せよ、『死を越えし契約者』。晴れぬ事無き闇を携える汝、やがて『
『ごめんなさいちょっと何言ってるか解んないです』
「鍵は生死の狭間にて汝の訪れを待つ。死を越えよ、異邦人。手に出来ぬならば、汝は未来永劫闇の手の内で生きねばならない。汝の存在、世界にある意味で希望を齎し、ある意味で絶望を齎す。どちらを選ぶも、汝の歩む道に掛かっている―――」
『いや、長い長い!いきなり何言ってるんだこいつ』
突然現れ突然訳の分からない言葉を聞かされたとて、真面目に全てを聴き取る人間はそうそういない。自分もその一人だった。そもそも彼女、割と早口なので非常に聴き取り辛かった。何を言っているのかさっぱりだ。
しかし、ついつい突っ込みを入れる人間の存在など眼中に入っていないのだろう。女性は直接こちらに声を掛ける事も、その白目を向ける事も無い。ひたすらに、誰に向けているのか判らぬ言葉を垂れ流していた。
思わず突っ込みモードに入ってしまったが、この奇行を続ける人間の近くに居るのはよろしくない。そう判断し、女性を完全放置のまま今すぐに本体へ帰る事にした。罠が仕掛けられている城内を無理してうろつくのは危険だ。今日のところは日記帳へ戻ろう。
(暖かくなるとおかしな人が出て来るとは言うけど、これからはもう冬だぞ……)
生憎と、奇人と楽しく親交に興じる趣味は持ち合わせてはいない。念の為己の気配を限界まで抑えつつ、滑る様に女性の傍から逃れた。そのまま廊下を移動し続け、物理的な距離を離す事に成功する。
彼女は、終ぞこちらの存在を認識する素振りを見せなかった。
「あら……あ―――あたくし、どうしてこんな所まで降りてきてしまったのかしら……。俗世に降りてしまうと、『心眼』が曇ってしまうのに……」
一方その頃。
ホグワーツにて『占い学』の教師を担当するシビル・トレローニーは、我に返った様に周囲を見回して困惑していた。
展開遅いのゴメンネ…ユルシテ…
次回から原作イベント進めます。
主人公が言っていた症状名で画像検索しないでね。
苦手な人にはちょいショッキングなので検索しちゃダメだぞ。絶対だぞ!