転生したら分霊箱だった件   作:@ゆずぽん@

31 / 39
都市伝説:Mさんの日記
白紙の日記帳を眺めていると浮かんでくる文字。
「今○○に居る」と現在地報告が次々と書かれていき、
段々と日記帳の持ち主の場所へ接近してくる。
背後まで近付かれたら最後、持ち主がどうなるかは誰も知らない。
ちなみにマグル界バージョンだと日記ではなく電話になるらしい。


Page 27 「水面下にて、蠢く邪悪」

 いつの間に、生まれてしまったんだろう。

 

 こんな自分は要らないよ。

 

 大切じゃないから。

 

 要らないんだよ、本当に。

 

 でも、殺せない。どうしてかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――世の中には、時に大胆に動かなければ上手くいかぬ時もある。

 

 どこかの誰かさんがまさにそうだ。

 「死」という全生物を襲う災厄を回避する為に、一つでも割と十分そうに思える分霊箱を、無駄に作りまくってしまい肝心な自分自身の魂をズタボロにしてしまった。

 だが本人の魔力と頭脳はそれでも劣化する事なく健在であり、自身の野望を果たす為には魂を何度も引き裂くなど何ら支障のないものであった。……外見は大分崩壊してしまったが、それでも生命活動を送る分には何一つ問題は無い。

 

 そう、つまり何が言いたいかと言うと。

 結局のところ、人生は大胆に動いてしまっても何となく上手くいっちゃう事が多いのである。

 元来一つしかない魂を引き裂くなんて大胆極まりないイカれた行動も、結果として本人のしぶとさを底上げするのに役立っている。一つ魂があったと思ったら実は七つに分かれてました、なんてどこぞの黒い害虫じゃあるまいし、気持ち悪いったらありゃしないが。

 

 まあそういう訳で、別にどこかの誰かさんを見習った訳では決して無いのだが。

 自分もまた、大胆に行動してしまおうという思考になったのだ。

 本当ならばもっと慎重に。自分が動いた結果何が起こるか、動こうとしている道の先に何かしらの危険が無いかをじっくりと推測してから、初めて行動に移すべきなのだろう。

 だが、時間は無限にある訳ではない。実質この身が破壊されるまでは寿命は無限に近い物なのだが、それでも全てを溝に捨てる事は、与えられた時間を無駄にする事は出来ない。

 

 何故か只今絶賛狙わている身としては、じっくり慎重に動いていては拉致が明かないのだ。

 石橋を叩いて渡るのが悪いとは言わない。

 たった一つの失態で、人は簡単に呆気なく命を落とす事がある脆弱な生き物だ。うっかり毒物の混入している飲食物を摂取してしまったり、崩壊寸前の手すりに気が付かずに高所から落下してしまったり。日常的に「死」の危険は常に付き纏ってくるのだ。

 自らを襲う可能性のある危険から身を守る為に、例え取るに足らない道端の石ころであろうと、一つ一つ丁寧に確認する様な行動を取ってしまうのは仕方がない事である。代償として、貴重な時間の一部を失ってしまうとしても。

 しかし、自分はその時間を失う訳にはいかなかった。

 だからこそ、慎重なんて言葉をかなぐり捨てて大胆に動こうとした。

 

 ―――動いた結果、どうなったかと言うと。

 

 

 

 

 『此処はきっと、ロックビルの神殿に違いない』

 

 【いいや違うけど?】

 

 尊大に両腕を組んだまま、逆さまになったホグワーツ城内をたっぷりじっくり見回して、大きく溜息をつく。

 全く空気の読めない奴だ。ほんの少しくらい現実逃避したって良いじゃないか。どこかの緑の勇者が、光の矢を使って世界を反転させたかもしれないだろうが。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()

 鈍色の長い鎖が、天井から植物の様に生えていた。鎖の先に付属している手錠の様な枷が、両足首を戒めピンと真っ直ぐ張っている。まるで蝙蝠にでもなった気分である。

 

 結局、最初に罠を暴いてから数十分後。

 白目の奇人から逃れたのは良いものの、帰る途中で別の罠に引っ掛かってしまった。廊下を歩いていたら突然両足を吊り上げられ、あっという間に蝙蝠人間の出来上がりである。

 何故?と聞かれると、単純にこの身体が悪いとしか言いようがない。

 知っての通り、この身体は非常に燃費が悪い。故に他人の魂を奪い取って己の糧とし実体を得る機能が与えられている。だが、自分はその選択を取っていない。だからこそいつまで経っても燃費が悪いままなのだ。

 罠を暴く呪文を習得しているとはいえ、それを行使するのも結局は魔力が必要だ。そして、城内のあちこちにその呪文を使っていてはあっという間に魔力が底をつく。ホグワーツは一種の巨大な迷路だ。廊下や階段だけでも、数えるのも億劫になる程沢山存在する。それら全てに対し、移動する度罠を暴こうとすれば必要魔力はどれ程になるか考えたくもない。

 だから、魔力の節約の為にも罠を暴かず大胆に動くしかなかった。その結果がこれなのだから目も当てられない。あのピリっとした感覚を頼りに、なるべく痺れが走る空間には近寄らずにしていたつもりだったのだが、やはりその感覚だけでは完璧な罠回避など無理だった。敵の魔力に反応出来るとはいえ、罠の正確な位置は呪文無しでは視える筈もない。

 最適解は何だったかというと、単純にその場で実体化を解いて、ダイレクトに日記帳に戻る事。しかし「もう少しだけ」、と帰るついでに探索を続けようとしたのが甘かった。数分前の呑気な自分をグッサリ刺殺したい。分霊箱だし、今の自分じゃ自殺は不可能だけれども。

 

 この状態になってからまだ数十秒しか経っていないが、後どれほどの猶予があるだろうか。こうして普段は見れない逆さまの世界を眺めるのも悪くはないので、出来ればもう少し時間が欲しいところだ。嘘である。ただの現実逃避である。

 鎖に繋がれたまま、目を閉じて思考を働かせる。

 

 (……やっぱりこの身体って、血液とかは無いんだな)

 

 逆さまになった時の苦痛は一切感じなかった。生身ならこんな体勢を長時間強いられれば、頭に血が昇ったり胃の内容物が逆流して気道を塞ぐ危険性に見舞われるが、幸運な事にその心配は要らない。こんな状態になっている時点で幸運も糞もないのだけど。

 付近には誰も居ないので目撃される心配は無い。まあ自分がそういう場所を選んで動いていたので、当たり前っちゃあ当たり前なのだが……。

 

 (―――戻れない、か)

 

 さっきから実体化を解こうと何度か試みているのだが、どうにもそれが成功する気配は無さそうだ。恐らくこの枷にそういった行動を阻害する何かしらの効果が付与されているに違いない。全く厄介な事だ。逃げられる可能性を少しでも潰すつもりか。

 しかしここで焦燥してパニックに陥るのは愚者だ。何事にも冷静に対処しなければ道は切り開けない。成功するとは思えないが、取り敢えず最初にこれを試してみよう。

 

 『《レダクト》』

 

 天井から生える鎖に向けて呪文を撃ち込んでみる。逆さまだと非常にやりにくいが何とか命中させられた。しかし、やはりというか呪文を受けても鎖はビクともしなかった。そう簡単に破壊出来る代物なら罠の意味が無いので当然か……。

 まだ破壊に使えそうな呪文は他にもあるが、一発目からこの結果である。他の呪文でどうなるかは概ね想像がついてしまう。下手に何発も試して、こちらの魔力が枯渇したら本末転倒だ。これ以上はやめておこう。人生、時に一つの物事に執着せず、潔く考えを切り替えるのも肝心なのだ。

 

 【どうするつもりだい?まさかこのまま諦める、訳ではないよね?】

 

 『当たり前だ莫迦。敵がやって来るまでまだ猶予がある……その間に―――』

 

 そう。罠を仕掛けた張本人―――敵は、「教師」だ。そして今は授業中の時間帯。

 向こうが授業を途中で抜け出すにしても、絶対に多少の時間は使う筈だ。いきなり抜け出したって、絶対誰かに怪しまれる。善良で無害な教師の皮を被っている本人としては、例え子供相手でも怪しまれる行動は避けたい筈だろう。なるべく自然な抜け出しに見える様振舞うに違いない。そして、その振る舞いには大なり小なり時間を要する。

 

 『馬鹿でも解る事だ。……蜥蜴が敵から逃げる時、一体どうすると思う?』

 

 【蜥蜴……、……。君、まさか…………】

 

 『……今の自分は「分霊箱」だ。()()()()()()()、別に死にはしないさ』

 

 一度大きく息を吸う。いや、呼吸の必要は無い身だが、これからする事を考えると何となくそうしたかっただけだ。

 ついでにある可能性を視野に入れて、「本体」の方へとある情報を一気に送信しておく。これで対策はバッチリだ。

 

 そして、()()()()()()()()()()―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 アーガス・フィルチは管理人である。

 

 相棒の猫ミセス・ノリスと共に、日々ホグワーツで働く中老。

 

 普段は校内を歩き回り、校則違反に手を染めた生徒をハンターの如く狩り、教師に突き出したり指導してやったりするのが主な業務だ。その他色々な雑務を長年こなし続ける大ベテランである。

 その仕事内容と本人の底意地の悪さ故に、生徒達からはもっぱら嫌悪の対象となっているが、彼はこれからも自身の行動を改めるつもりは一切無い。

 しかし生徒達が目の敵にしているにも関わらず、極一部の変わり者は彼の存在に悩む事無く校内での問題行動をやめる気は無かった。お構いなしにフィルチにとって腹立たしい行為を入学当初から続行している。それが彼にとって唯一の悩みだった。まあ、自身の行動を改めろだの、彼もまた人の事は言えないのだが。

 

 「―――またあの双子共の仕業か!」

 

 フィルチがいつもの様に廊下を歩いていると、その真ん中に黒い大きな水溜りを発見した。

 彼の仕事には清掃も入っている。こんな大きい汚れを生み出されてはたまったものではない。そして、今までの経験則から犯人は問題行動の常習犯、グリフィンドールのとある双子だと断定する。

 

 「何だこれは……インクでも零したのか?また変な悪戯グッズの実験でもしたに違いない!余計な仕事を増やしおって……!次は絶対に現場を捉えて突き出してやるぞ!」

 

 増やされた仕事に文句を垂れ流しながら、「ミセス・ゴシゴシの魔法万能汚れ落とし」を持って来て掃除に取り掛かる。何だかんだ言って、彼は自身の仕事を放り出したりはしないのであった。まあそんな事をしたら、次は自分がホグワーツから放り出されるのがオチなのだが。

 そうして汚れを落としていると、ふと気付く。水溜りの中央に、濡れて黒色になった鎖が沈んでいた事に。

 

 「何だ、鎖か?」

 

 十メートルはある長い鎖だ。しっかりとした作りで頑丈そうに見える。先端に手錠の様な枷が付いていて、今は閉じていた。()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 何かの悪戯グッズだとしたら、随分と趣味の悪い物だ。しかし、趣味が悪いのはフィルチも同様だった。鎖を発見した瞬間、にやりと口元を歪める。

 

 「丁度良い!奴らの『指導』に使わせて貰おうじゃないか?えぇ?」

 

 これを持ち帰って、今度違反を犯した生徒に使用してやるのが一番良い。間違いなく良いに決まっている。

 そうして鎖を手にしようとしたフィルチだったがしかし、その企みは成就する事は無かった。

 

 「ん?んん?」

 

 鎖は何故か何もしていないのにボロボロと崩れてしまい、やがて黒い水溜りに溶ける様にして消え失せてしまったのだ。後に残るのは清掃の面倒な水溜りのみ。フィルチは折角想像した楽しい未来を泡にされ、歯噛みした。

 

 「クソ!全く、ぬか喜びさせおって……」

 

 悪態をつきながらも、止まっていた手を動かし水溜りの除去に移る。幸運な事に、水溜り自体には魔法的な何らかの効果は付与されていないようだった。落とせない魔法汚れもある「ミセス・ゴシゴシの魔法万能汚れ落とし」だったが、今回は何の苦もなく綺麗さっぱり清掃に成功してしまった。

 悪戯グッズによる汚れではなかったのか?と訝しむフィルチだったが、仕事を全う出来たのであればこれ以上考える必要は無い。

 

 フィルチは再び校内を歩き出す。

 授業が終わって廊下に溢れ出してくる生徒を見回る為に。

 あわよくば、あの双子の犯行現場を目撃出来れば一石二鳥、と目を光らせながら―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 「でっ、ですから、トロールは一見してど、鈍重で間抜けに捉えられがちなのですが、これは、ま、魔法使いに、良く見られる愚行なの、です。相手を、が、外見で判断するのはいっいけません。み、皆さんも目の前のき、危険に対し、ま、ま、慢心する事がないよう」

 

 ハリーはホグワーツ城二階、「闇の魔術に対する防衛術」の教室で、クィレルの話を聞きながら目を伏せていた。

 

 教室中はニンニクの何とも言えぬ臭いが充満していて、決して居心地の良い空間とは言えなかったが、魔法薬学よりはかなりマシであった。グチグチと何かと因縁を付けては絡んで減点をプレゼントしてくる蝙蝠教師はいないし、材料の量や作業工程のミスに気を配る必要の無いこの授業は、いくらか心を落ち着けさせられる。……最も、肝心の教師が「真面」であれば、だが。

 クィレルが『賢者の石』を狙っている―――そう教えられてから、ハリーはこの授業で顔を上げられなくなった。紫ターバンを巻いた頭から逃げる様にして、何かと目を伏せて机の上の教材を眺める時間が増した。あの人物と目が合うのが、何よりも恐ろしい。

 まさか、生徒達の相手をしている時に本性を出して襲ってきたりはしないだろうが、それでも自分を殺そうとした悪鬼を宿している教師だ。不必要に目を合わせたくはない。

 

 ちなみにこの謎過ぎるニンニク臭だが、何でもクィレルはルーマニアで吸血鬼に襲われた事があり、再び出くわすまいと対策しているからだそうだ。ホグワーツに吸血鬼が侵入出来るならとっくにされているだろ、という突っ込みは野暮だという事で、その事実に気付いても生徒は黙っているだけだったが。

 

 「トロール……こっこの生物は、主に三種存在します。ま、まっ、まずですね、か、川トロールに、森トロール、さっ、最後にや、山トロールと―――」

 

 隣のロンをチラリと見る。つまらないと言った様子でクィレルの説明をノロノロとノートに書き取っていた。その唇は今にも欠伸を放出しそうにモゴモゴと蠢いている。

 この態度は何もロンに限った話ではない。ほぼ全員が、クィレルの授業は肩透かしだと感じていた。「闇の魔術に対する防衛術」という授業名の通り、本格的な魔法を学べるのではないか、と少なからず期待していた生徒が多かったからだ。

 だが、当時目を輝かせていた生徒達の面影は最早無い。唯一、グリフィンドールの少女、ハーマイオニーは至極真面目に授業に取り組んではいたが。

 

 ハリーと同室のシェーマス・フィネガンは、面白そうに質問を出してはクィレルの顔を赤くさせるのが癖になったらしい。

 

 「先生、トロールは、頭も悪ければ足も遅いんですよね?だったら、離れた所から呪文を撃てば僕らでも勝てるのでは?」

 

 誰もが思う疑問だ。クィレルは一瞬硬直したものの、どもりながらも的確な答えを返す。

 

 「……え、えぇ。そ、そ、そうです、ね。しっしかし、えぇ。彼らのひ、皮膚は我々などよりもよ、よっぽど硬いのです。きっ、きっ、君達が使えるじゅ、呪文では、傷付ける事すらむ、難しい、かもしれません」

 

 教科書に載っているトロールは鈍重そうで距離さえ取れば楽勝に見えるが、実際はそう上手くいかない強さを秘めているのだろう。確かに見た目だけで敵を知ったつもりになって慢心するのは良くない事だ。

 

 「く、加えてっ、彼らはこ、棍棒を持っているこっ事がお、多いです。そ、そして、それが無くても、ですね。素の力はいっ言わずもがな、とんでもな、なく、きょっ強大です。鈍いからと、あっ、安心してはい、いけませんよ、ミスター・フィネガン。彼らに命をう、奪われた者は、確かにそ、存在し、しますから」

 

 クィレルはそう言うものの、殆どの時間を安全なホグワーツで過ごす事になる自分達は、トロールと出くわす機会などまず無い筈だ。ハリーは大して正しい恐怖感を学べなかった。こういうのは、実際に対面しないと中々理解出来ないものだ。

 

 ハリーは段々手持ち無沙汰になってきたので、持って来た机の上の日記帳を見る。開かれた白紙には、少し前から一定の間隔でひとりでに文字が浮かんでは消えていた。戯れに返事を書き込んでいく。

 

 "僕マールヴォロ。今四階の廊下に居るよ……"

 

 『そこ立ち入り禁止の廊下が無かった?』

 

 "僕マールヴォロ。今三階の廊下に居るよ……"

 

 『あっ、こっちに近付いて来る』

 

 "僕マールヴォロ。今二階の廊下に居るよ……"

 

 『どうでもいいけど、よく他の人に見付かんないね』

 

 "僕マールヴォロ。今クィレル先生のターバンの中に居るよ……"

 

 『それ冗談でも縁起悪いからやめて?』

 

 "僕マールヴォロ。今二階の…………二階の…………マグル学の教室前に居るよ……"

 

 『ねえ何か迷ってない?』

 

 "僕マールヴォロ。今天井からぶら下がってるよ……"

 

 『それはホントに何で???』

 

 その一文を書き終わった直後、何故かクィレルの解説が唐突に途切れた。

 思わず顔を上げると、彼は口をわなわなと動かし、明後日の方向を呆然と眺めていた。一体どうしたのだろう。

 

 「先生?どうしたんですか?」

 

 誰かが言った。誰かは解らない。その声を皮切りに、クィレルはギョロリと眼球を動かしハリーの方を見た。完全に目が合った。

 

 「……ッ」

 

 反射的に唇を引き結び、手元を見ずに素早く日記帳へ文字を書き込む。目線はクィレルの方を向いたまま逸らせない。

 

 『―――トム、何かヤバイよ。今どこにいるの……』

 

 まるでこちらの目を通して頭の中を覗き込まれるようだ。視線を逸らしたいのに、ここでそれを行ってしまえば妙な疑いを持たれてしまう気がして出来なかった。怪しまれる行動を取らなければ、ここを乗り切れるのでは……?

 そう考えていると、クィレルはハリーから一切視線を逸らさずにこちらへ向かって歩いてきた。隣のロンは俯いてノートを取っている為気付かない。一言も発さずに無表情で接近してくるその姿は、不気味さを掻き立てるのに十分過ぎた。ハリーの淡い希望は早々に崩れ、思わず助けを求めて手元の日記帳へ視線を落とす。この際怪しまれたって構わないから、この状況を彼にどうにかして欲しかった。

 

 "僕は今…………"

 

 彼の文字が浮かんでくる。彼の現在位置を訊いたところでクィレルをどうこう出来る訳ではないのに、ハリーは文字の続きが気になって仕方が無い。

 

 "―――君の後ろに居るよ"

 

 「は?」

 

 素っ頓狂な声を上げて後ろを見る。幸いな事に小声であったので他の生徒達には聞かれなかったようだ。そして振り向いた先に、当然ながら誰も居なかった。

 

 「ぽ、ポッター君」

 

 顔を戻すと、目の前にクィレルが立っていた。喉の奥で声にならない悲鳴が生まれかけるが、咄嗟に呑み込んだ。相変わらず無表情のまま、彼はこちらを見つめている。隣のロンは一体どうしたんだと言わんばかりに、心配そうな目付きでハリーを見ていた。

 

 「ど、どうしたのですかな?さっきから様子がおっ、おかしいようですが。―――それに、い、一体な、何を熱心に書いて、いるのです?」

 

 「せ、先生―――……」

 

 やばい。日記帳の事を追求しているのだろうか?しかし、手元の物に何かを書き込むなんて授業中であれば至極当然の行為の筈だ。現にさっきまで隣のロンもノートへ文字を書いていた。自分にだけこんな質問を掛けるなんておかしな話だ。―――そこを攻めるしかない。

 

 「ノートを、書いていただけですよ……。僕、何か特別変な事、してますか……」

 

 なるべく表情を消して返答する。

 周りはかの英雄が人畜無害な教師に声を掛けられている事実に、不思議そうな視線を両者に送っていた。ハリーは別に素行の悪い生徒でも無かったので、こんな風に教師に接近されて直々に声を掛けられる事の方が珍しく映ったのだろう。魔法薬学の授業だけは例外だが。一人だけ、ハーマイオニーだけがすぐに机へ向き直り、クィレルの解説が止まった時間すら有効活用しようと教科書を読み漁る作業に戻っていた。いや、本当に平常心を取り戻すのが早くはないか。

 クィレルは妙な動きを取る事は無かったが、ギョロギョロと忙しなく蠢く彼の眼球は、何かを見つけ出そうとハリーの机の上へ熱心な視線を落としていた。

 

 (あっ、やばい……)

 

 今、日記帳を見られたら非常に不味い。これは、「持ち主が書き込んだ文字」も「彼からの返信」も含めてすぐに消えてしまうのが常だ。そう、つまり今、この日記帳は白紙だという事だ。ノートを取っていると言ったのに、肝心のそれが白紙だったら相手は訝しむに決まっている。すっかり失念していた!数秒前の自分を叱咤したくてたまらない……!

 

 (でも、だって、大丈夫って言われたから……!)

 

 自分自身に言い聞かせる。……そうだ。彼は、トムは確かに入学前からハリーに承諾していた。「授業に日記帳を持っていき、なんなら書き込む行為を許す」、と。

 誰かに見られるリスクがあるのに良いのか、と訊ねても、彼は首を縦に振るだけだった。見た目だけなら古いノートに見えなくもないし、変に勘繰られる事も無いだろう、とも。だからこそハリーはそれを鵜呑みにし、例えクィレルの授業であろうともこれを持ち込んでいたのだ。何かあった時、クィレルの動向をリアルタイムで彼に報告する為に……。

 

 「いえ、いえ。きっ、君に限ってそんなこ、事はなっ無いでしょう。た、ただね。君が、授業とは関係のな、ない事を、書いているのでは、ないかとお、お、思いまして、ね。どれどれ……」

 

 クィレルは心中が焦燥感で埋没しているハリーの様子などお構いなしに、机上で開かれている日記帳を覗き込んだ。かなりがっつり見られている。ここから誤魔化す術など何も無い。

 嗚呼、万事休すか……と、瞳のハイライトを失いかけたハリーの耳へ、思いもしない言葉が流れ込んできた。

 

 「これは、これは…………。い、いえ、……ポッター君。じっ実に、良く書けて……いますね……」

 

 「へ?」

 

 想像とは全く違うクィレルの言葉に耳を疑った。慌てて日記帳を確認すれば、

 

 「……あっ……」

 

 そこには、先程までクィレルが解説していた―――トロールについての生態がびっしりと書かれていた。トロールが三種存在する事、訓練により人の命令に従えさせる事が可能だという記述、未熟な魔法使いでは討伐など出来やしない点まで。それはもう丁寧に、まるで優等生のノートがそこにあるかの様だった。そしてこの文字の全ては、他ならぬハリーの筆跡と何ら変わらぬ形をしていた。少し丸みのある、柔らかなフォントを感じさせる自分の筆跡。だが、自分はこんな詳細を書き込んだ覚えは無い。断じてだ。

 クィレルはそんな真実を知ってか知らずか、本当に申し訳無いという声色で謝ってきた。

 

 「す、すみません。こ、ここまで書いていたというのに、私は君をう、疑ってしまった。ぽ、ポッター君、素晴らしいです。ぐ、ぐ、グリフィンドールにい、一点与えましょう」

 

 「ええっ?」

 

 今日一番、自分に驚愕を与えた出来事だった。まさか、宿敵に寄生されている教師が、こちらの所属寮に得点を贈るなんて。演技なのか素でやっているのかハリーには判断がつかない。この場にトムが居れば、この教師の真意などすぐに見抜いてしまうのだろうか。思わぬ得点アップに、少なからず気分が高揚してしまう。

 ……いや、浮かれるところじゃない。授業に良く集中している(様に見られた)生徒に対し、点を与えるのは教師として当たり前。むしろ、そうしなければ他の教師や生徒から怪しまれるに決まっている。スネイプの様に昔からグリフィンドールに当たりの強い人間ならともかく、クィレルはそういった確執が特に無いと周囲から認識されている男だ。そんな教師が、突然特定の寮に対しやたら得点を与えなくなったらその変化を疑われる。これは、ホグワーツに溶け込む為の―――周りの目を欺く為の行動だ。その身に宿る宿敵は、本当はこんな敵に塩を送る様な事を望んじゃいないだろう。

 

 「しかし、本当によ、良く書けています。宜しければ……もっと見せてい、頂いても?」

 

 「えっ、それは……」

 

 再び危機的状況が舞い降りる。この日記帳に直接触れるつもりだろうか。流石にこんなたくさんの他人の目がある状況で、まさかいきなり盗られるなんて事態には発展しないと思うが、何か非常に嫌な予感がする。この男に指一本だろうが、ほんの一秒だろうが触らせるのは絶対に避けねばならない、そんな曖昧な予感が沸き起こる。

 そもそも、何故クィレルはこんなにもしつこいのだろう。

 今まで授業でノートをちゃんと書いている生徒はいた。ハーマイオニーという少女。彼女もまた今の日記帳と負けず劣らずのノートを取っている筈だが、それを見たクィレルは褒めはしてもこの様に中身を見せてくれとは言い出さなかったのだ。ノートだと言い張っているが、やはりこの日記帳が何なのか知られているのか?知った上で、こんなにも関わろうとしてくるのだろうか?

 

 「あっ、あまりにも解り易く書けているもので。こ、今後の授業のね、さ、参考になればいいと、思いまして」

 

 「あ、あの……」

 

 どうすべきだ。クィレルは何もおかしな事は言っていない。ここで断れば、おかしいと思われるのは自分だ。しかし、己の直感はノーと叫び続けている。どうすれば……

 

 「先生」

 

 と、その時、予期せぬところで救いの手が舞い降りた。隣から上がった声の主へ振り向く―――ロンだ。

 

 「僕もハリーのノートを見た事があるけどさ……参考になるなら、どっちかと言うとあの子の方が役立つんじゃないですか?」

 

 「み、ミスター・ウィーズリー……あの子、とは、」

 

 クィレルも思わぬ横槍にロンを凝視している。ロンは彼の視線が心地悪そうに頬を掻きながら、前の席に座るふわふわの栗毛を―――ハーマイオニーを指さした。

 

 「えっと、ハーマイオニー、だったっけ?君、入学前から教科書読み終わったとか言ってたし……ノートも完璧なんだろ?」

 

 持て余した時間で教科書を読み耽っていた少女は、まさかそんな事を言われるとは思ってもいなかったのだろう。顔をほんのり赤くさせて、こちらの方を振り向いてきた。

 

 「……え、ええ。そうよ。確かに、ノートだってちゃんと取っているわ……い、今までもね……」

 

 「だ、そうだよ、先生……彼女の方が、きっとずっと参考になると思う。だって僕、知ってるんだ。ハリーがこんなにばっちり書いてるの、今日が初めてだし」

 

 言葉をそのまま受け取れば、ロンが言っているのはハリーの評価を貶めるモノだ。しかし、今日だけがばっちりであるという彼の言葉は事実であり、今はそれに救われた。クィレルがハリーのノートに触れる口実を奪ってくれたのだ。代わりにハーマイオニーを差し出す様な形なのは、アレだが。

 

 「そ、そうです。僕達、互いのノートを良く見るので。今日は偶々、ちょっと上手く書けただけなんです。その、授業の参考になる出来じゃないと思うし……ハーマイオニーの方が、よっぽど……」

 

 ロンの言葉に乗っかる。ここまで言っているのに、それでもハリーのノートへ関わる行為は、周りから見れば奇妙に映るに違いない。そしてそういう状況を避けたがっている立場からすれば、ここは退くのが最適解の筈。

 

 「……、そ、そうですか。でっではミス・グレンジャー。授業が終わったら少しあ、貴女のノートをみっ見せて頂いても?」

 

 案の定、クィレルはこの件から身を引いてくれた。矛先を変えられたハーマイオニーは、突然の事に目を見開きながらもはっきりとした声で答える。

 

 「はい、先生。私ので良ければ、その……お願いします」

 

 言葉の端々から、彼女が嬉々とした感情が抑えられないという事が解る。授業の参考になる人材になったといった事実が、純粋に嬉しいのだろう。生贄に差し出した様で少し不安だったが、彼女自身があんな様子だし、誰も不幸にならない良い結末を迎える事が出来た。ハリーはほっと胸を撫で下ろす。

 とりあえず日記帳への接触を防ぐ事が出来た。そしてロンの言葉を、この場にいる皆が聞いている。この先、クィレルがハーマイオニーではなくハリーのノート(日記帳)を無理に見ようとする事は無いだろう。他の生徒におかしく見られる事になるのだから。

 

 「……少し、な、長い間授業を止めて、しまいましたね。つ、続けましょう。では、トロールの種類別のせ、生態から行きますよ―――」

 

 クィレルが身を翻して教壇の方へ戻っていく。ハリーは小声でロンにお礼を言った。

 

 「……ありがとうロン。僕、そのさ……」

 

 「良いって。僕もちょっと驚いたんだぜ?あんなノート取ってたの初めてだったじゃないか?でもさ、何より……君がそれに触られたくなさそうなの、すっごく解かり易かったし」

 

 「そ、そこまで解って今のをやってくれたの」

 

 「だって、ほら―――友達だし?」

 

 改めて言われると照れ臭い。見れば向こうも顔が赤くなっている。それを見せるまいとしてか、ロンは私語をやめて俯き、さっきとは打って変わってひたすらクィレルの説明をノートに書き始めた。

 ハリーも一息ついて日記帳へ目をやると―――そこには、少しだけ薄くなったトロールの生態記述があった。ページの一番下に、さっきまでは無かった文字が色濃く浮かび上がっている。

 

 "あと十分で消えます"

 

 ハリーは慌てて日記帳とは別の、白紙のノートを取り出して内容を書き写す。ロンは照れ隠しに夢中でハリーの行動には気付かない。何故わざわざ別のノートを書いているのか聞かれないのは幸いだった。

 

 (……全部、見通して、トロールの事を……?)

 

 ―――日記帳にトロールの詳細が記され、それが長い間消えずに残っていたのは間違いなく彼の仕業だ。

 普段から彼には全ての授業内容を伝えている。何を学んだか、どのペースで進んだか、そういった物を毎日必ず報告しろと言われていたからだ。既に色んな知識を蓄えている癖に、何故?と思ったが、まさかこういった状況を乗り切る為に……?

 授業中、誰かに見られる事があっても不審に思われないように。日記帳に授業と同じ内容を浮かび上がらせる為に?

 確かに、クィレルの授業ではトロールについて学ぶ段階に入ったと伝えていた。だからあんなびっちりトロールの生態を、あのタイミングで浮かばせた、と……。ご丁寧に、筆跡までハリーと同一にして。

 

 (ええぇ……?もう、察しが良いとかそういうレベルを越えてる様な……。もしかして、あの時、本当に後ろに居た?)

 

 幾ら授業内容を把握しているからとはいえ、日記帳に記すタイミングまでは解らない筈。だって彼はあの場に居ないし、日記帳に書き込まれた文字でしか外の様子を理解出来ないのだ。何故、クィレルに覗かれるタイミングが解った?後ろにいると書いていたが、その時本当に自分の背後で実体化していたとしか考えられない。

 

 (でも、だと先生が見てる筈だし……)

 

 考えても考えても解らない。とにかく、今は授業に集中しよう。折角質の良いノートが目の前にあるのだ。消される前に自分自身のノートに写してしまわなければ。

 そんな風に、隣のロンと同じく俯いたハリーは気付かなかった。

 

 ―――クィリナス・クィレルが、氷の様な冷酷な視線を、ハリーの横に居る赤毛の少年へ注いでいた様子に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『……ッ』

 

 フラフラと覚束無い足取りで、ホグワーツの廊下をよろめき進む。立ち上がる事も出来ない赤子に退化させられた気分だった。

 

 (いや、解ってたけどさ。何でこの身体……痛覚があるんだよ……おかしい、だろ……)

 

 先程の激痛の余韻がまだ残っている。未だに感覚の無い足を動かし、緩慢ながらも確実に歩を進める。立ち止まるわけにはいかなかった。

 本当に、タイミングが悪過ぎる。まさか他の誰でもない、ただの職員に発見されそうになるとは。早急に現場から立ち去る事を優先した為、己の痕跡を隠滅し損ねた。とんだ大失態である。

 唯一救いなのは、あの男が魔法に精通している訳ではない、出来損ない(スクイブ)と呼ばれる部類の人間であった事か。あの痕跡を見られたとて、それが何を意味するのか彼には解るまい。魔法族生まれでありながら魔力を持たない人間、それが彼の様なスクイブなのだから。

 

 普段からハリーを叩いたり逆に叩かれたりしているので理解していたが、この身体は分霊箱の癖に痛覚が存在する。そういえば本来の結末でも、消滅する寸前は苦痛に満ちた断末魔を上げていたな、と思い出す。まあ、誰だって殺人級の猛毒を流し込まれたら、幽体であろうが絶叫したくもなるだろう。

 何で痛覚なんて機能があるのか解らない。というか、普通に考えて要らない筈だ。制作者の意思で痛覚の有無を設定出来るのかどうかは知らないが、もしも出来ると仮定しよう。その場合、何故痛覚を設定したのか非常に謎である。邪魔な感覚に違いないだろうに……。

 まあ、幸いにも耐えられない痛みでは無かった。そもそも、この世界で一番最初に覚醒した時の激痛の方が程度で言えばヤバかったのだ。あの痛みを一度経験したら、他の痛みなんて何でもマシに感じるくらいである。

 ……今でも、あの激痛の正体は不明だ。本当に、あれは一体何だったのだろうか。胸部を貫かれる様な痛みと、全身が千切れる様な痛み。あれがもしも此処に来る直前に味わった物だとしたら、生前、自分は一体どんな目に遭ったというのか。やはり向こうの世界での死因は、交通事故か何かで体がミンチにでもされたのだろうか。だがあの頃の自分が屋外に出るなんて考えられない。家に隕石か飛行機かが墜落してきたのか?だとしたらなんて不運な……

 

 (……、いや……確か、あの時)

 

 脳裏にとある光景がフラッシュバックする。

 室内と思しき空間で、床一面を覆い尽くす赤い水溜り。その中心で横たわる誰かの姿。

 

 (そうだ。何で、今の今まで忘れてたんだ……?あの時、確かに……誰かが、あの場所で死んでいた……!)

 

 とんでもないタイミングでとんでもない事を思い出してしまった。忘れようのないインパクト大の記憶だろうに、何故さっぱりすっかり忘れていたのだ。

 あの死体は誰だっただろうか。両親はとっくに家から居なくなっているし、親戚も近所も訪ねてくる事は有り得なかった。

 

 (泥棒にでも押し入られて、取っ組み合いの末お互い三途の川送り、なんてオチじゃああるまいな……)

 

 断片的な情報から推理するに、この可能性が高いのだが何とも言えない。例え凶器を振り回す通り魔に強襲されたとしても、返り討ちに出来る力と自信はあったのだ。誰かに殺害されてしまっただなんてあまり考えたくない。

 しかし何故、向こうの世界での最期の行動がはっきりと思い出せないのだろう。おかしな話だ。家族も幼少期の思い出も鮮明に記憶しているのに。

 ……ああそうだ。そういえば本名もいつの間にか忘れていたのだった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。奇妙な現象だ。別に本名を思い出したいなんて思わないが、絶対に忘れる筈のない記憶だけ抜け落ちている事実には違和感を拭えない。普通、自分の名前を忘れる奴がいるだろうか?

 本名なんて忘れようが思い出そうがこの世界に於いてはクソ程の役にも立たないが、何かそこに、重要な事が隠されている気がするのだ。何故忘れる筈のない記憶が抜けてしまったか、其処に思いも寄らない真実が秘められている気がする。

 だがどうやって真実を捜し出せば良いのだろうか。頭を強烈に叩かれれば思い出したりしないだろうか?……無理そうだな。この記憶を取り戻すには、どうも一筋縄では行かないようだ。まあ、最悪一生取り戻せなくても良いのだけれど。

 

 (それにしても……。ああ、この感覚……)

 

 先程からこの身を襲う飢餓感に呻き声を上げる。

 実を言えば、ホグワーツに到着してからしばしばこの感覚に苛まれていた事があった。当初はまだ微弱な物だったので、気のせいだろうと楽観的に考え放置していたが、今になって誤魔化せないぐらい肥大してきた。

 胃袋なんて存在しないのに、腹の底で湧き上がる空腹感。酷くお腹が空いている。耐え難い苦しみだ。漠然とした脱力感も同時に押し寄せてくる。

 

 食べたい。喰らいつきたい。

 早く、早く、人間の魂に―――

 

 『―――ッ!?』

 

 その時、一際大きくよろめいてしまった。近くにあった階段の手すりで身体を支えようと試みたが、愚かな自分はある特性をすっかり失念していた。

 

 (おっ、堕ち―――)

 

 ―――この身体は、魔力の篭っていない物体には触れられず、透過してしまう事を。

 

 手すりを掴もうとした両手が空を切り、勢い止まらず階下へ落下する。激痛の余韻と空腹で何らかの魔法を行使する余裕も無かった。どういう訳か、こういう緊急事態に声を上げそうな同居人は沈黙を保ったまま何も言ってはこなかった。

 「ああー」、とどこか他人事の様に虚ろな瞳のまま頭からダイブ。死ぬ訳が無いと把握していれば高所からの落下もいくらか平常心でいられる。『魂まで蝕む毒牙(バジリスクの牙)』で刺されたり、『生物を象る呪炎(悪霊の火)』で炙られたり、『ゴブリン製の強力な武器(グリフィンドールの剣)』で首を刎ねられるよりマシというヤツだ。

 

 「―――おっと、危ない!」

 

 予想していた衝撃は何時まで経ってもやってこなかった。男の声が響いたと同時、空中で誰かに背中から抱きかかえられたからだ。見ると銀色に鈍く光る男が浮遊しており、こちらを心配そうに見つめていた。時代遅れなひだえり服を着ている男だ。非常に不本意だが、その人間にお姫様抱っこされる格好になっていた。

 

 「……ふむ?見かけぬゴースト……新米ですかな?気を付けたまえ!『成り立て』は君の様に上手く飛べず堕ちる事が良くある!……しかし君、何だか姿が妙ですが、大丈夫なので?その一昔前の制服は、『嘆きのマートル』と同じ―――」

 

 こちらの姿をまじまじと眺めると同時、顔を顰められた。見た目だけなら今の自分は生者と何ら変わり無いのだが、一発でゴーストに近い存在だと看破された。つまり、相手の正体はそういった類の知識に詳しい存在―――本物のゴースト様だ。

 男は自分でやった事の筈なのに、己の体とこちらの体が触れ合っている事に自分で驚いているようだった。視線が自分の腕とこちらを交互に行き来し、戸惑っている。

 

 「お、おや?咄嗟に飛び出してしまったが、何故我々はお互い触れ合えているのでしょう……?き、君、生者ともゴーストとも違う存在なので―――」

 

 『《オブリビエイト》』

 

 助けて貰っておいて何だが、自分の姿を目撃されたのであれば、例え人生の大先輩とも言える死者であろうとも忘れて頂かなければならない。

 さっと杖を取り出し、相手の頭に向けて忘却術を放つ。直撃を受けると同時、相手の首が真横にぱっくりと割れ、首の皮一枚繋がったまま肩まで折れ曲がった。連鎖して自分を抱く力が失われ、再び重力に従って落下を始める。だが地面までの距離が近くなっていたのか、背中に軽い衝撃を受けるだけで済んだ。

 ゴーストであろうとも、一部の呪文は通じる事を知っている。というかゴーストがもし何の呪文も食らわない無敵の存在であれば、とっくにやりたい放題現世を荒らしているだろう。魔法省にゴーストを管理する役職もあるらしいし、魔法使いは彼らに対し干渉する術を持っているのだ。

 

 しかしまさかゴーストに触れられると思わなかった。魔力を流す物や魔力の篭った物にしか触れられない身体だが、何と接触出来て何と接触出来ないか地味に謎なところもある。杖に鏡に屋敷しもべ妖精にハリー、そしてゴースト。何故ゴーストも……?どうしてか良く解らない。

 

 (あー…………。成程)

 

 この身の『知識』へアクセスし、今理解した。ゴーストというのはこの世に留まった「魔法使いの霊魂」であり、基本的にマグルはなれないのだ。つまり魔力を持つ死者が為れる者、それがゴースト。彼らの霊魂には、死して尚魔力が備わっているのだろう。

 ……しかし、魔法使いが死ねばゴーストが生まれる可能性があるという事は、つまり……ヴォルデモートが完全に死んだ場合もか?あの男は死を恐れ意地でも受け入れない人間だ。死んだとして、絶対未練ありありでゴーストに転じる可能性が高い。別にあの男を殺したい訳ではないが(その選択を取れば自分も死ぬ羽目になるので)、何となく気になる。実際に検証出来ないのが本当に残念だ。

 

 重苦を紛らわす目的の思考だったが、かなり脱線してしまったので現実に意識を戻し、頭上を見上げる。首の断面を晒し頭部が真横に傾いている男が浮遊している。今は自分の呪文が原因とはいえ、こんな醜態を晒す恐れのあるゴーストを常駐させて良いのか?純粋無垢な子供もやって来る学校に、こんなグロい奴置いとくなよ……と、ついつい心中で突っ込んでしまう。

 

 『「ほとんど首無しニック」……ね。生前の肉体損傷が、ゴーストになっても反映される……興味深いけど、調べる時間も意味も無い』

 

 空中で首が裂け、口を開けたまま硬直していたゴースト・ニックは少しして自我を取り戻し、慌てて己の傾いた頭部を元の位置に押し込んだ。周囲をきょろきょろと見回す動作をしているが、すぐ下に居るこちらには気付かない。咄嗟に目くらまし術を使用したのだ。

 グリフィンドールの寮憑きゴーストが、スリザリンである闇の帝王の分霊を助けるなんて、どんな皮肉だろう。今の様に、寮など関係なく助けに入る行動を生者が行えたならば、グリフィンドールとスリザリンの確執は解れるだろうに。……本来生徒ですら無い自分には関係の無い事だが。

 

 まさかこんな所でゴーストに目撃されるとは……。まあ相手の記憶もしっかり消したし、特に問題は無い。ゴースト特有の気配も同時に憶えた。今後彼らが接近してきたとしても、すぐに察知して身を隠せる。思わぬ収穫を得た。

 

 (でもこっちは解決、してないんだよな……)

 

 無意識にお腹を押さえる。もう滅茶苦茶にお腹が空いている。今まで空腹感とは無縁の生活だったのに、それがこうもあっさり崩壊するとは誰が予想出来るだろうか。

 実はさっきも危なかった。ゴーストは肉体を抜け出た魂の塊だ。その身に触れられないからと言って、彼らは何も所有していない訳じゃない。己が糧となる食料―――つまり、魂。それをしっかりと持っている。

 ニックに救われたあの時など、目の前に突然ご馳走をぶら下げられた様なものだ。自制するのに苦心したのは語るまでもない。

 

 【こっちへ来い……】

 

 ヤバい。空腹の余りに幻聴まで聴こえて来た。しゃがれた老人みたいな声がなんかエコーしている。お前は浴室にでも居るのか?

 

 【其方ではない……此処だ……。此処へ来るのだ……】

 

 未だに城内を見回しているニックから距離を取ろうと近場の廊下へ逃げ込んだ瞬間、浴室のジジイ(暫定)が偉そうに命令してきた。

 幻聴だとしても喧しいなこのジジイ。誰に指図してんだ。細切れにするぞ。

 

 (―――、嘘だろ。何でこのタイミング?)

 

 空腹感と幻聴に心を乱されまいと、内心で全力格闘していた時、廊下の向こうから生徒が歩いてきたのだ。その真っ赤なローブが示すはグリフィンドール。

 いやいやいや、待ってくれ。今は授業中の筈では?何でたった一人で彷徨いてるんだ。おかしいだろ。あのスクイブ仕事しろよ、役立たず。

 ボロクソに悪態をつくが、非常に不味い。目くらまし術中なのでこちらを視認されはしないだろうが、この術を意地する気力が持たなくなってきた。魔力が足りないとかではなく、単純に空腹感が強さを増し魔法に集中出来ないのだ。あの生徒が廊下を通り過ぎるよりも早く解けそうだ。

 

 (あっ無理だこれ。バレるなこれ)

 

 ここまで来ると容易に未来が予想出来る。最早悟りの境地に至る。もうどうにでもなれ。

 最悪バレたらニックにやった事をもう一度行えば済む話。諦観の領域に入り、脱力感に身を任せその場で項垂れた。アンパンのヒーローではないが、お腹が空いて力が出ないというヤツである。

 と、しばらく廊下を歩く足音をBGMに目を閉じて待機していると―――不意に、全身を襲う重苦が消え去った。本当に唐突に、綺麗さっぱりと吹き飛んでいった。

 

 (……、………………???)

 

 空腹も幻聴も何も無い。即効性の麻酔にでも掛けられた様だった。苦しみから解放されても、原因不明の回復現象に素直に喜べない。ここで喜ぶのは最早馬鹿である。

 

 『いや、今はそれより―――《ステューピファイ》!』

 

 疑問に終止符を打つよりも優先すべき事がある。こちらへ向かってくる生徒の足止めだ。足止めというより失神になってしまったが、半ばパニック状態だったので乱暴な選択肢を取ってしまったのは大目に見て欲しい。『全身金縛り(ペトリフィカス・トタルス)』でも足止めは出来るが、あれは動きを止めている間も対象の意識は継続するので、この場で使用するにはよろしくない呪文なのだ。

 突然の攻撃に戦闘慣れなどしてない生徒は勿論反応出来ず、きょとんとした表情のまま廊下の真ん中で仰向けに倒れた。目くらまし術中の攻撃だったので、あの子から見れば虚空からいきなり呪文が飛んで来た様に感じただろう。姿を見られていないのは僥倖だ。

 ひとまず窮地を脱し大きく息をついていると、今の今まで沈黙状態だったあの声が響いた。

 

 【……今、少し良いかな?】

 

 『爆発させるぞ二秒以内に』

 

 【まだ用件、何も言ってないんだけど】

 

 『じゃ、永久の眠りにつかせてもいい?』

 

 【うん、もしもこちらが現実に居たら、殺人予告で君を訴えているからね。すぐにウィゼンガモット法廷から出頭命令が届くだろうからね】

 

 『お前が強気に突っ込み入れるの、珍しくないか?』

 

 【君とあの少年の会話を参考に少々真似してみただけさ】

 

 『お前それ、「私は少年達の会話を盗み見るのが日課です」って告白してるのと同じだから控えた方が良いと思うぞ』

 

 【いやそういった類の趣味は無いから普段の君と打って変わって本気で心配しないでくれないか?】

 

 割と真面目に助言をくれてやったつもりだが、淡々と全力で否定された。気まぐれだが心配してやったというのにつれない奴だ。もしも本当にこいつにそういった類の趣味があって現実でも実行しようと企むものなら、世界の為に何に代えても全力で滅ぼさなければならないのでまあ良かった良かった。

 

 【君は、たまに良く解らない事に使命感を燃やすよね……】

 

 『その時その場の気まぐれってヤツだ。それより、用件は何だ?さっさとしてくれ鬱陶しい』

 

 【話の腰を折ったのは誰?】

 

 正当な指摘は無視して倒れている生徒へ近寄る。しゃがみ込み杖先で片頬をつついてみるが反応が無い。完全に失神している。成程、道具を介してならハリー以外の人間に触れるのだろう。

 しかし、ふむ、人間相手に失神呪文が成功するとこうなるのか。人に向けてあの呪文を使って命中したのはこれが初めてなので、成功した結果を見ると少し感慨深いものがある。この調子でゆくゆくはあの調子に乗りまくった帝王様へとぶち込みたいものだ。その時はクルーシオでも良いかもしれない。

 

 【これは、こちらにとっても思わぬ事態なんだ。だから一応、君にも報せておこうと思って】

 

 『殊勝な心掛けだな。下の人間が上の人間に対して報連相を遵守する、どの世界でも常識だ』

 

 【勝手に下にしないでくれと言いたいが今はまあ置いておくとして。君も知っての通りだけど、今、謎の苦痛に苛まれてはいなかったかい?】

 

 さっきのあれの事だ。素直に首肯しておく。

 割と長話になりそうなので手慰みに倒れている生徒で遊ぶ事にした。超弱めの《インセンディオ》で相手の特徴的な赤毛の一本を燃やしてみる。かなり弱くしたのだが、チリっと一瞬で焦げてしまった。呪文の威力調整技術もこの先しっかり熟練させないといけないな、これは。

 

 【あれはきっと、いや絶対に「本体」の影響が及んでいる証だね。考えにくいけれど、向こうは直接でなくとも、離れたところからこちらへ何らかの精神的干渉を行っている事が確定して―――ねえ、ちょっと、聞いているかい?】

 

 『聞いてる聞いてる。そのままどうぞ。要は呪文とか無しで僕に何かをしてきたって話だろ?―――《アグアメンティ》、っと』

 

 頭部全体に燃え広がりかけた弱火を硬貨サイズの水滴で消化する。髪の一部分が濡れただけで生徒を水浸しにはさせなかった。うーん、水操作に関する技術は完璧だ。これ以上はもう磨かなくてもいいな。

 

 【……本当に他の作業をしながら人の話を理解出来るんだね。それなら構わないが……うん、続けよう。まあつまり、さっきのあの苦痛も、間違いなく向こうの仕業という事さ。どういった手段を用いたかはまだ調査中なんだけどね。それで君に訊きたいんだけど、具体的にどんな影響を受けた?やはり痛みかい?】

 

 『痛み……は、無いな。強烈な空腹感、それに……幻聴』

 

 濡れた部分の髪の毛を《グレイシアス》で凍らせる。カチカチに白く凍結してまるで氷柱の様だ。勿論弱めなので凍傷は起きないし相手の意識を覚醒させる事はない。

 

 【成程、幻聴か―――、……ねえ、あのさ、そろそろやめてあげたまえよ。生身の人間に実験なんてやりたいとしても今は控えてくれると嬉しいんだが】

 

 確かにうっかり目に見える傷でも残すと、誰にやられたんだと騒がれて後で面倒な事になりそうだ。ここら辺で《フィニート》を唱え、髪の毛を解凍させる。すまなかったな少年。

 

 【幻聴と言ったけれど、もしかして何か命令でもされたかい?】

 

 『そういえばこっちへ来いとか言ってたな。行かなかったが』

 

 【……うん、君にとっては些細な事だったかもしれないけど、精神的に作用する命令だから。多分、逆らうのは相当に困難だった筈だよ。意識せずによく拒絶出来たものだね】

 

 『「うるさいなこいつ」って思ったらあんまり気に掛からなくなったな』

 

 【「うるさいなこいつ」で済んだら誰も《インペリオ》なんかで困らないんだよ……】

 

 確かにそうだが、あの呪文に掛かった事がなくまた掛けられても無効化してしまう身としては、インペリオで苦しんだ人間の気持ちなどよくは解らないものだ。

 

 『あの程度で済んだのはお前が耐性を付けさせたからだろ、多分。で、結局お前は何が言いたんだ?』

 

 【―――「敵は強硬手段に出た」、という事さ。あの罠もそうだが、ダンブルドアも校内を歩き回るというのに、何故あちこちに魔法的な罠を仕込んだか気になるだろう?あの老人は―――認めたくはないが、そういった罠などすぐに見抜くだろうさ。そして、誰が仕掛けたかまで把握する実力も持っている。露見すれば己の立場が危ういというのに、君の為に危険な手段まで手を染め始めた。精神的な影響も同時に、ね】

 

 『それは言われなくても理解してる』

 

 【つまり、ね。最早敵がどんな強引な手を使ってくるか解らないから、今まで以上に注意した方が良い。……君の本体は、あの少年に預けたままだろう?こちらから言わせてもらえば、不用心としか言いようがない。あの子供は君の様に自衛する力など無いだろう?無理やり本体を奪われでもしたら、】

 

 『ああ、別にそっちの心配は良いんだよ。するだけ無駄だ』

 

 【―――、―――?】

 

 『……お前には仔細を語るつもりはないけど』

 

 全く意味が解らないと言わんばかりに疑問符塗れの同居人は放置だ。どうして本体をみすみす無力な少年に預けっぱなしなのか、生憎と誰にも教える気は無い。まあ、ハリーにだけはたった一つの対処法を伝えてはいるが。

 もしもクィレルに何かされそうになったら―――「どこでもいいから全力で相手の素肌を触れ」。それだけの対処法を。

 どうして『賢者の石』を巡る騒動に幕を下ろせるその方法を初めから選ばないのか?―――そんなのは決まっている。

 自分は、直接逢わなければならない。騒動を解決するよりも先に、あの男と。あちらにされるがままではなく、こちらが優位な状態で。だから、今はまだ、目立った行動を起こさない。

 ……まさかクィレルに己の存在をアピールしてから、こうも早く色々と手回しされるとは思わなかったが。ハリーにも悪手じゃないかと言われたあの行動にも、ちゃんとした意味はあったのだけど。

 

 『にしても、罠だとか遠隔命令だとか。やる事成す事幼稚な奴らだなぁ。素直に直接逢いに来るという選択は取れないのかね、臆病者共め』

 

 【それだけ向こうも慎重に動いているという事だろう。あの老人も目を光らせているのだし】

 

 『で、さ。一つ答えて欲しい事があるんだが』

 

 【君がその台詞を言う時は言外にかなりの圧を感じる】

 

 知っていたけど、こいつもこいつで人の感情の機微に凄く敏感だな、ホントに。きっと、人の顔色を窺いながら生きる惨めな人生の中で習得した才能なんだろう。口に出すのも面倒なので、心の中だけで侮辱の眼差しを向けておく。―――ん?何故かこっちにも侮辱的な視線を感じるのはどうしてだ?おい、何処のどいつだよ、この視線。

 

 『さっき僕が色々苦心していた時。お前、音沙汰無しだったよな。―――何かしていたんだろう?そして、不意に僕を苛んでいた苦痛が消失した。さて、犯人は一体だーれだ?』

 

 核心を突く一言で沈黙が返って来た。こいつが沈黙する時って大体肯定してるパターンなんだよな。隠す気あるのか?

 ……あれ、何か前にもこんなやり取りをしていなかっただろうか。そしてその時、こいつは酷く憤慨していなかっただろうか……?はて、これはいつの記憶だったか……。こいつが本気で怒ったところを見た筈は無いのだが、奇妙な既視感だ。

 

 【……そうだよ。君の言いたい事は合っている。君に声を掛けるまで、君を襲う精神的作用の正体を突き止めようと働いていたんだ】

 

 疚しい事は何も無いと言わんばかりに、スラスラと言葉が並べ立てられる。浮気現場を目撃された男が取り繕って言い訳マシンガンしているみたいで、何か妙に笑えるんだが。

 

 『それが忙しかったから、会話する余裕が無かったと?』

 

 【やっていた事は調査だけじゃなかったしね。……君に掛けられた干渉を、どうにか出来ないかと思って―――まあ、少々苦戦していたという訳さ】

 

 『で、結果は成功に終わってめでたしめでたし、僕に声を掛けたってオチか』

 

 【うん、その―――君の苦痛を肩代わりする形で、吸収させて貰ったよ】

 

 Hey, you! just a moment! could you say that again? I may have misheard.

 

 【急にこちらの言語になるのはふざけているのか単に驚いているのか分かり辛いから戻してくれ】

 

 くっ、まさかこいつに突っ込まれてしまうとは。なんたる失態。一瞬言ってる事に理解が及ばず、ガッチガチに封印していた多言語スキルがつい溢れてしまった。これ、嫌な思い出しかないからなるべく封じ込めたままにしておきたかったのだが……まあ仕方無い……。とにかく、故郷の言語に直して話す事にする。忘れがちだが、この全自動英国語翻訳スキル(分霊箱になった瞬間から存在した)は地味に便利である。

 だが、相手は妙にこの事実に食いついて追求してくる。特別重要な事でも無いだろうに、どこか威圧感を滲ませて。

 

 【……もしかして、本当は話せるのに出来ないフリを?今の今まで、何十年もずっと―――?】

 

 『いや待て、別にフリって訳じゃなかったんだよ、外国語に関連する事に昔ちょっとトラブルがあって、それで封印を―――って、しれっと話を逸らすな。こっちの話は良いんだよ。今はお前に質問してるんだ』

 

 本当に何なんだ。罪悪感に似た物を感じさせられるが、何で若干責められてる形になってるんだ?こいつには何の関係も無いというのに、変な奴だ。

 

 【……まあ良いさ。それでさっきの言葉の真意だけど―――簡単な話、君の精神的な干渉を、こちらが全て引き受けたという事が言いたかったんだ。つまり、吸収って訳だね】

 

 平然と言ってくれるが、それって逆にこいつが危ないんじゃないのか。素直に喜べないんだが?

 

 『別にお前がどんな目に遭おうがどうでも良いんだけど……お前に何かあったらこっちにも影響が来ないのか?その辺大丈夫なのか?』

 

 【問題無いよ。完全に吸収したから、こちらにも君自身にも影響は何一つ無い。ついでに補足すると、今現在も干渉は続いているからずっと吸収中なんだよね。君は何も感じないだろうけど】

 

 ……、今現在、も。

 だとしたら、こいつがやっている事は認めがたいが凄く有り難い、という事になる。なってしまう。

 あの空腹感も、不快感マックスの幻聴も、全てこいつが肩代わりしているというのだろう? お陰で、自分はすっかり回復した。

 まあ、吸収と言っているので、厳密にはこいつが苦痛を引き受けているのではなく、苦痛を自らに引き寄せてから逆に糧としている、というのが正しいのだが。

 

 『吸収、って事は何だ、あの感覚を魔力にでも変換しているのか?』

 

 【そこに気付くなんてやはり抜け目がないね君。まあそういったところだ。向こうの精神的干渉を、逆にこちらの養分にする、実に合理的かつ有効な対処法だろう?】

 

 『あー……、普通ならこういう時、感謝の言葉とか言うべきなんだろうけど』

 

 【……良いさ、別に謝礼の類が欲しくてやった事じゃない。こんな手段を取ってきた相手が気に食わなかっただけだから】

 

 『いや、一応言っておく。ありがとう』

 

 淡々とその一言を口にすると、相手の顔は見えないが「まるで意味が分からんぞ」という表情をされた気がした。

 

 【―――そういうところはちゃんとしてるよね、君】

 

 『そう。単なるマナーに則った感謝の言葉。それ以上でもそれ以下でも無い』

 

 【ちなみに好感度は?】

 

 『50年前より下がってるね』

 

 【それは本当に何で?】

 

 少し考えれば解るだろうが。相手の事を理解すれば理解する程、性根の腐った点が浮き彫りになってますます嫌悪感が掻き立てられるものなのだから。あと、未だにちょくちょく嘘を吐いて欺こうとしてくるところとか、そういうのでマイナスポイントを稼いでしまっているのだ。いい加減気付けばいいのに。

 多くの人間は昔こいつに魅了されたとの情報だが、一体何に惹かれたのかさっぱり理解出来ない。こんな溝みたいな本性をしている人間の何処が良いのやら。余程騙すのが得意だったのか、騙される周囲の人間が愚か過ぎたのか、今となっては考えても無駄なのかもしれないが。

 ……うん、こいつの場合多分両方だな。騙される方も悪いと良く言うし、結局はどっちもどっちだ。一人だけ真実を見抜いていたダンブルドアは地味に凄いのでは……。こいつは異様にあの老人を毛嫌いしているが、直接関わった事も無い自分としては、あの老人に対し特別嫌悪の情を抱いてはいない。

 ダンブルドア。果たして彼は今、一体何を考え何を計画しているのだろうか。そして、【こいつ】の事をどう思っているのだろうか。もう、分霊箱の存在に気付いていたりするのだろうか。当人にしか知る由も無い事は、考えるだけ無駄だ。

 

 【これは予想なんだけど―――多分、さっき君が引っ掛かった罠。あれが干渉する為の直接的な切っ掛けだったんだと思う。もしも罠を逃れられたとしても、精神に干渉して都合の良い場所に誘導しようとでも企んでいたんだ。あの後、急に具合が悪くなっただろう?】

 

 『それは僕もそう思った。……いや、でも、微弱な干渉ならこの学校に着いた時からされていたかもしれない』

 

 ホグワーツに来てから頻度こそ少ないものの、本当に僅かな空腹を感じる事があった。気のせいと流したあの感覚はもしや……。

 

 【それは向こうも意図していない物だと思うよ。互いが近くに接近してしまったからこそ、本体の飢渇が微弱ながら分霊である君の方に流入してしまったんだと考えられる】

 

 『本体の飢渇って何だ?』

 

 【……今、向こうはある意味死の淵に立っている不安定な状態だ。生への渇望、執着―――純粋に、己を生者たらしめる力全てへの飢え、といったところかな。常に漠然とした飢餓感に苛まれているんだ。それが、ホグワーツへ到着し距離が縮まった君に自然と流入した……こう捉えるのが自然だろうね】

 

 疑問が少しずつ解けていく。そして増えもした。この学校にはもう一つだけ、『別の分霊箱』が眠っている。そっちの方には何の影響も無いのだろうか。

 

 『―――「これ」以外の分霊箱は、あいつに近付かれたらどうなるんだろうな。自我なんてあるのかどうか……』

 

 こいつには『別の分霊箱』の所在を知られたくないので、遠回しに訊ねてみる。この身体には『別の分霊箱』の「現在地に関する情報」が一切残されていなかった。こいつにとって何処に何の分霊箱が隠されているか、全く知らない筈なのだ。自分しか知らない情報は少しでも渡したくはない。

 

 【流石に『これ』より後に作られた分霊箱については専門外かな……。本人にしか知り得ない情報だ】

 

 『……まあそう都合良くいかないよな』

 

 仮に。

 仮に他の分霊箱全てに自我があって、何の間違いか実体化出来る機能があったとしたら。

 冗談抜きで羞恥心なんかほっぽり出して泣きそうになる。

 あの男と同じ人格、性質を持った存在が複数いるなんてどんな地獄絵図だろうか。そいつら全員が意志を持って襲ってくるとか、そんな展開は本当にやめて頂きたい。エンディングまで泣くんじゃないというキャッチコピーがあるが、こっちはエンディングなんて待たずに泣きそうだ。

 

 【いやそうはならないと思うよ。分霊箱というのはそういう使い方をするものではないから……】

 

 『じゃあ何で「これ」は実体化出来る機能があるんだよ』

 

 【それは―――…………、本当のところは彼にしか解らないよ……】

 

 今の声色で何となく察した。

 こいつは恐らくある程度の想像がついているが、こっちには伝えない心算だろうと。その真意までは掴めないが、無理やり白状させる手段はどう足掻いてもこちらには無いので、現状はスルーするしかない。残念である。ああ、本当に残念である。大事な事なので二回言っておく。

 

 まあ、分霊箱は「隠す物」であって「攻撃に使う物」ではない。他の分霊箱全員も実体化出来る、なんて展開は起きないだろう。

 この日記帳は『秘密の部屋』を開く為に色々な機能が追加されているだけで、他に特別な意味は無い筈。複数作るのだから、一つくらい「攻撃に使う分霊箱」として利用しよう、そんな思いで作られただろうからだ。

 その筈なのに……何か妙な胸騒ぎがするのは何故だろう。

 そもそも部屋を開く為ならば、他人を操る機能だけで十分なのでは?わざわざ肉体を得る機能を付けた理由は?

 

 (……?確かに、自分がもう一人増える様なものだから、便利と言えば便利な機能だろう……。他の分霊箱は、単純に破壊される危険を減らす為に、特別な機能は付けず隠すだけに留めた―――これがきっと正解に近い筈だけど)

 

 何か、誤った解釈をしてしまっている様な気がしてならない。

 部屋を開く。それ以外にも実体化機能を付けた理由があるのでは、と勘繰ってしまうのだ。

 

 ―――そろそろ思考は中断して、この場から離れた方が良いかもしれない。疑り深いが故に思考の泥沼に潜ってしまうのは昔からの悪い癖だ。

 この生徒もいつ目覚めるか判らないし、授業が終われば廊下に他の生徒が溢れてしまう。

 しゃがんでいた体勢から立ち上がり、そのまま廊下の奥へ立ち去ろうとした時だった。

 

 【それはそうと、君―――ここに来てから、他人の魂を喰らっていないね?】

 

 踏み出した足が止まる。何気ない一言であるのに、己を引き止めるのに十分過ぎる力が其処にはあった。

 

 【あの少年から受け取った『魔力』だけでは()()()()()は創れない。魔法を使えても、()()()()は出ない。今の君では『本体』に適わないよ】

 

 それは、何十年も前から嫌でも理解している事だった。

 

 【分霊箱の力の源は、人間の魂を喰らう事が故に】

 

 先刻の空腹感を思い出す。

 魂なんて不可視な存在など見た事も触れた事も無い筈なのに、それを喰らえばさぞや鮮烈な歓楽を得られるに違いないと、この身体の本能の様な何かが明確に告げていた。

 

 【さて、この廊下の周囲には人気が無い】

 

 そうだ。

 気味の悪い程静まり返った空間で、飛んで火に入る夏の虫の如く迷い込んだ獲物だけが息をしている。

 誰も居ない。何も居ない。

 

 【―――そこに赤毛の子供が居る以外はね】

 

 振り返れば視線を惹き付ける倒れた生徒。ピクリとも動かない。されど規則正しい呼吸音を生み出している、新鮮な獲物。

 実技に踏み出せない料理の初心者に、熟練のコックが包丁をわざわざその手に握らせてやる様に。親切丁寧かつ危険性を孕む扇動。

 

 【何かを成し遂げるには犠牲は付き物さ。躊躇う事は無い】

 

 ―――そんなもの、最初からとうに理解している。

 倫理観など偽善ぶった体裁を度外視すれば、どんなに効率的で順風満帆に事を進められるかなど。

 解かり切っているのに、そうしてこなかった。

 それは最早単なる意地。

 自分と【あの男】は絶対的に違うのだと、それだけを証明する為に張り続けている、つまらなくも強固な意地。

 

 『……………………』

 

 返事を返す事は無く。

 

 捕食者の眼前で無防備な様を晒している哀れな子供を、無感情な光を湛えた瞳でじっと、只々眺めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロナルド・ウィーズリーは、後頭部から背中に掛けて味わっている冷たさと硬い感触に、不快感を伴う覚醒を促された。

 むくりと上体を起こす。どういう訳か、廊下のど真ん中で気を失っていたらしい。何があったのだろう。先生に呼ばれた場所へ向かっている最中だったのに、最悪だ。到着に遅れたせいで、何かしらの罰則を与えられるオチなんて勘弁願いたい。

 

 「いてて……!何なんだ、一体」

 

 倒れた拍子に肩甲骨辺りを軽く打ったらしい。痛みに顔を顰めつつも、これ以上遅延するまいとこの場から移動を開始した。廊下にはまだ誰も居ない。気を失ってからそこまで時間は経過していないと見える。

 

 「ピーブズにでもやられたかな……くそう、あいつめ……」

 

 己を襲った(かもしれない)犯人の心当たりは、それしかない。

 ホグワーツにかなり昔から住み着いている謎の幽体生物・ピーブズ。基本的には皆ポルターガイストと認識している。悪戯や嫌がらせを全生徒へプレゼントしてきやがる迷惑極まりない存在だ。フィルチはよく追い出そうと躍起になっているものの、あいつをこの城より追放出来た者は誰一人としていない。

 ついてないな、と心の中で溢し、廊下を歩き出したその瞬間。()()()()()()()()()に肩を掴まれ、何事かと理解するよりも早く無理やり後ろを振り向かされた。

 

 

 

 

 「……ッ、えっ?」

 

 

 

 

 少年が最後に見た物は。

 

 己の額へ無慈悲にも突き付けられる、残酷な輝きに満ちた杖のみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「遅いなぁ、ロン」

 

 校庭へ続く廊下の壁に凭れながら、ハリーが何度目かの愚痴を呟いた。目の前を通り過ぎる何人もの生徒達と廊下の奥を代わる代わる見ているが、呼び出されてしまった友人、ロンはまだ帰って来そうにない。午前中の授業が終わり、次の授業へ向かう間の出来事だった。

 

 『はは、ハリーは短気だな。子供みたいじゃないか』

 

 生徒の一団が通り過ぎて無人になると、狙い澄ましたかの様に実体化したトムが隣で笑う。

 

 「子供みたいって、君もまだ子供でしょ」

 

 『精神年齢の問題さ。僕は早熟だってしょっちゅう言われてたからな』

 

 「トムは早熟っていうか半熟じゃん。変に子供っぽいとこあるクセに」

 

 『僕は卵か、アホ』

 

 バシっと小気味良い音を立てながら、相変わらず冷たい手でトムに頭を叩かれた。これから寒い季節がやってくるので、出来るならその手で叩いてくるのは控えて欲しい。

 卵で思い出したが、そういえば今日の朝食にスクランブルエッグを食べた事を思い出した。毎日三食を胃袋に詰め込められる生活は本当に有り難い。たまに感激の余り涙が零れそうになるぐらいだった。ダーズリー家で味わった地獄の空腹感に、もう悩まされなくて良いのだ。人間があの欲求に抗う事など、出来はしないのだから。

 

 「別に短気とかじゃなくて……。ほら、僕ら新入生、まだ学校の構造に慣れてないからさ。迷ったとか、階段から落っこちたとか……ロンに何かあったんじゃないかって心配なんだよ、トム」

 

 『トイレにでも寄った時に寝ちゃったんだろ。あの子、いっつも寝惚けたアホ面してるじゃないか。ちょっと用を足すだけのつもりが、我慢出来ず便器に座った状態で爆睡してしまったんだな。床に涎なんか垂らして、ズボンとか下ろしたまま寝てるよ、きっと。変な夢見てたりして。あっ、もしかしたら僕の姿とか出てきてるかもしれない。うわぁ、嫌だな』

 

 「トム、何でロンがよりにもよってトイレで、逢った事も無い君の夢見なきゃいけないのさ。最低の悪夢じゃん。トムが夢に出てきたら、そんなの僕でも(うな)されるでしょ」

 

 『おい、人をホラー映画みたいに言うなよな。ハリーなんか、夢に出たら絶対メガネザルの化け物になってるだろ。トラウマになるさ』

 

 「うわっ、そこまで言う?君こそ、夢に化けて出て事件とか起こしてるんでしょ」

 

 『僕はエルム街の悪夢か?』

 

 「ホラー映画懐かしいな、こっちでもまたゆっくり観れる日が来ればな……」とノスタルジックに呟く彼を尻目に、ハリーは疑問を解消しようと先程の現象について訊ねた。

 

 「そういえば、さっきのコトだけどさ……」

 

 『さっき?』

 

 「うん。あの、闇の魔術に対する防衛術の授業の時―――」

 

 『ああ、トロールの授業?』

 

 「そう。……何で、先生に見られるタイミングが判ったの?」

 

 直前まで自分と筆談していた筈なのに、あの時日記帳には突然トロールについての詳細が浮かび上がった。彼は一体どうやってクィレルの接近を知り得たのだろうか。

 

 『―――まあ、あの時はこっちでも色々あったからな。丁度君の方はあいつの授業中だったし。あのタイミングで「本体」()()手を出されそうだってのは嫌でも予想はつくさ。最低限、ただのノートに見える様細工したって訳だ』

 

 「色々あったって……?」

 

 『それは後日話すとして。ま、引き続き「本体」をよろしく。ホグワーツの未来が懸かってるからな』

 

 「僕だけ責任重大なの?」

 

 他の生徒は何食わぬ顔で日々を謳歌し楽しんでいるというのに、自分だけそれに(あやか)る事が出来ないのはちょっと不満だ。唇を尖らせ、ハリーは「まだかな」と身を乗り出して廊下の奥を覗き込む。と、見慣れた赤毛の少年が丁度向かって来るところだった。そこそこ遠い。

 

 「あっ、ロンだ!」

 

 ロンの視力ではまだ自分の存在を視認出来ないのを良い事に、実体化したままのトムが小声で愚痴にも似た言葉を零す。

 

 『さっきから何だ、この学校の生徒達は。殺人鬼が校内に紛れ込んでるっていうのに、どいつもこいつも呑気で平和ボケした面しちゃって。類人猿じゃあるまいし、少しは気を引き締めろっての。ホグワーツは動物園じゃないんだぞ』

 

 「そんな風に見えるのは、トムが捻くれてるからだよ」

 

 『ケッ!全く、メガネザルと類人猿が一緒に飼育されてるんだから、ホントやってらんないね』

 

 「誰がメガネザルさ!」

 

 彼の立場からすればクィレルの正体など露知らず、ほのぼのと穏やかな学校生活を送っている子供達を目にすると癇に障るのだろう。自分は黒幕への対応で苦労しているのに、目の前で平穏な生活風景を見せ付けられれば楽しくないのも、ハリーにとってはまあ分からなくもない。

 トムと言い争っていると、ロンがハリーの大声を聴き取って怪訝そうに近付いた。

 

 「ハリー?誰と話してるんだ?」

 

 「あっ、いやっ、これはその」

 

 いつの間にかすぐ傍に接近されどう言い訳を並べようか迷っていると、隣に居たトムは跡形も無く姿を消していた。

 自分の存在を決して気取られない隠密行動。こういう技術に関しては邪智深い事に、彼は超一流だった。

 

 「ご、ゴーストが通って行ったんだよ。ちょっと……いや、かなり、それはもうメチャクチャに口の悪いゴーストがね、居たんだ。性格も悪いけど」

 

 ゴーストと聞いて、魔法族故にその手の話題にはハリーよりも詳しいロンが食いつく。興奮げに光った彼のブルーの瞳が、一瞬だけとろりと微睡んだ気がした。

 

 「へえ、もしかしてピーブズかい?それとも、『嘆きのマートル』?」

 

 「嘆きの……マートル?何か不穏な響きだけど……」

 

 「何十年も前から居るらしいんだ。女の子のゴーストで、そこそこ有名らしいんだけど……ある日忽然と姿を消したんだって。長男のビルは見かけた事があるって言ってた。でも、パーシーやフレッド達は入学してから一切見てないんだってさ。僕もまだ見た事無くて。どこかに引き籠っちゃったのかも」

 

 「ゴーストでも引き籠ったりするの?」

 

 「さあ……。ホグワーツにはおかしな話がいっぱいあるからなぁ……。そうだ、ハリーはもう聞いた?ホグワーツの怪談!」

 

 彼は良くこんな風に、ハリーの知らない話を語り聞かせてくれる。きっとこういうのが好きなのだろう。親切心でやっているのもあるのだろうが、他人が知らない情報を他でもない自分が教える、そういったところにある種の快感を見出しているのかもしれない。

 

 「え?……何それ?」

 

 「フレッドとジョージが教えてくれた話だから、ちょっと大袈裟に話を盛られてるかもだけど……」

 

 フレッドとジョージというのは、グリフィンドールの有名な双子である。好奇心旺盛かつ悪戯好きの彼らが流した話だ。ハリーは何となく嫌な予感を感じたが、好奇心が勝りロンの話に耳を傾ける。

 ロンは恐怖を煽る様にわざとらしく低い声色で語り始めた。

 

 「……何でも、しっかり鍵を閉めた筈の扉がいつの間にかぜーんぶ開いてたり、誰かの気配を感じて振り向くと黒い影が視界の端に映ってたり、湖を眺めてると男の子の溺死体がプカプカ浮いてたり……あっ、森の方でも生き物の死骸が立て続けに発見されたとか言ってたような。その全部が、見るも無残な傷だらけなのに食べられた痕跡が無いから、獣の仕業とは考えられないんだと。当時森番になったばかりのハグリッドは、随分苦労したみたいだ。……とにかく、今はパッタリ途絶えてるから怖がる事は無いんだけど、昔のホグワーツは気味の悪い怪奇事件がちょくちょくあったらしいんだよ」

 

 怪奇事件、起こり過ぎじゃないか?今年もある意味悪霊が忍び込んでる様なモノだし……と、ハリーは話を聞く内に遠い目になっていった。

 

 「おかしな事が起きる前には大体、湖に男の子らしき死体が浮かんでるのが目撃されてるらしいよ。だから、当時の生徒達は水妖(ナックラヴィー)の仕業じゃないかって噂をしてたんだって」

 

 ハリーはこの時、何となくだがその水妖の正体を掴んだ気がした。()()()()()の談話室はホグワーツの湖の下の地下室にある。ますます己の目が遠くなっていくのが自分でも分かった。

 

 ロンの説明では、ナックラヴィーとはスコットランドで発見された怪物らしい。人間や家畜を殺したり不作を齎すなどといった蛮行を繰り返す邪悪な存在で、ある季節が来ると陸に上がってきて人々を苦しめるそうだ。ホグワーツに実在するとしたらある意味ヴォルデモートより恐ろしい。

 

 「でも……だとしたら矛盾してるんだよな。ナックラヴィーは確かに水の中を棲み家にしてるんだけど、淡水が弱点なんだ。湖に怪物が潜んでたとしても、それがナックラヴィーだとは考えにくいと思うんだ……おかしいよなぁ」

 

 ロンが更に解説を続ける。弱点があるとはいえそれをやたら突くと逆上し、凶暴化して疫病をばら撒くといった性質を持ち合わせているらしい。なのでもしも遭遇したら闇雲に退治しようとせず、川の向こうに避難するのが最善策だと。

 

 ……弱点を突いて怒らせると手が付けられなくなるのも、どこか似てるなぁ……。

 

 ハリーはロンの話に相槌を打ちながら、ぼんやりとそう考えていた。

 

 今も昔も、色々とやり過ぎだナックラヴィー。正体を隠す気本当にあるのか、ナックラヴィー。

 

 ここまで聞くと、わざとやっていたんじゃないかとさえ思えてくる。校内で広がっていた噂は、間違いなく耳聡いナックラヴィーも把握していた筈だ。後でナックラヴィー本人に問い質すのもアリかもしれない。

 ただ、その質問タイムはしばしお預けだ。何せ今日は、新入生達にとって特別な日。

 

 「次は待ちに待った飛行訓練だよ。怪奇事件なんか忘れて楽しくやろうよ」

 

 「でもナックラヴィーが箒に呪いでも掛けてきたらさぁ……」

 

 「……ナックラヴィーは多分校庭まで上がって来ないよ。篭もりがちでお外に出たがらないから」

 

 不安を払拭し切れない様子のロンを見て、ハリーはポケットに片手を突っ込んで、中の日記帳を軽く小突いた。

 

 今日が、自分に秘められたとある才能を開花させる特別な日になるとは露知らず。

 目的地である校庭へと、少年は友人と共に歩き出した。

 

 

 

 

 ―――同時に今日が、友人に惨憺たる厄災が降り掛かった最悪な日である事も知らぬまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

 『―――あの赤毛の様子…………。気のせいなら良いんだけど』

 

 

 

 

 眼鏡の少年の隣を歩く赤毛の少年。

 去り行く二人の背中を見つめながら。

 青年は彼らが完全に見えなくなるまで、黯然とした思案顔のまま其処に立っていた。

 

 

 

 




2021年初の投稿です。今年もどうぞよろしくお願いします。
原作イベント進めると言っておきながらこの体たらく。また一つ詐欺罪を重ねてしまった。
そして回を追う毎に増え続ける平均文字数。
読みにくかったら申し訳ない。今回初の3万字超えですので…

ヴォルデモートが死んだ場合、
ゴーストになるのかどうかは公式で明言されてましたね。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。