2025/5/9追記
後半の戦闘シーンが明らかに描写不足と感じたので加筆修正しております。
判断が遅い修正が遅い。未熟者で申し訳ありません。
「規則を破る前に、よーく考えるようになったろうねぇ。どうかね?」
時刻は夜の十一時。
ハリーは管理人のアーガス・フィルチの心底意地の悪そうな視線の元に晒されていた。
意地悪な扱いには昔から慣れている筈なのだが、この男の纏う雰囲気と放たれる威圧感は格別だった。何と言うか、理不尽さとか捻くれ加減が、トムよりも遥かに超越している気がするのだ。粘っこいというか嫉妬深いというか、ドロドロした感情を感じる。
トムはどっちかと言うとサバサバした(?)捻くれ者というイメージだが、フィルチの方はもっと質が悪く、言い表すならば熟成し過ぎて飲み干せる物ではなくなったワインの如し。
「規則破りの生徒にゃ、痛い目に遭わせるのが一番だと思うがねぇ……昔の様な体罰が無くなって残念だよ。あの頃は楽しかった……悪ガキ共をドラゴンの生き胆みたいにな、天井から何日も吊るすのさ。その時の鎖はいつ必要になっても良い様に、今でも事務所でピカピカに磨いて取ってあるからな。いつかお前達も吊るしてやるぞ―――さあて、行くとしようか。逃げようとするんじゃあないぞ?もっと酷い目を見る事になるからねぇ」
フィルチが耳にするだけで悍ましい武勇伝を語らいつつ、ランプ片手に先頭を歩いて行く。玄関ホールから城の外へ出て、真っ暗な校庭を横切った。ハリーの隣には、罰則仲間のドラコも一緒に歩いている。
「……はっ、ハリー、絶対に生きて帰ろうな」
彼の顔はこの時点で色々とグチャグチャだった。これから受けさせられる罰則内容の想像が、ちゃんとついているらしい。
さて、こうなった発端を語るとしよう。
遡る事数十分前。一日の授業が無事終了し、生徒達の就寝時間が近付いている頃だった。
いつもの様に、無人の談話室で一人読書に耽っていたトムの背中に(この時、彼が読んでいる本のページには『呼び寄せ呪文の効果範囲』と書かれていた)ハリーが藪から棒に声を掛けた時の事だ。
『……ハリー、もう一度言ってくれ』
「だから、罰則。この前、クィレル先生に夜中出歩いてるのを見付かっちゃったじゃん。その時は、僕が倒れてたから罰則は一旦見逃してたみたいで。今夜、いよいよ受けに行かなきゃならないんだ」
トムはハリーの方を向いた。ハリーは彼の瞳の中で、複雑な感情が入り乱れてグルグルと回転している様な気がした。
『……今になって、か。君一人で?』
「一人じゃないよ、ドラコも一緒。先生……あの時ドラコも近くに居たコト、知っちゃったみたい」
『まあ、確かにあの夜出歩いていた規則破りは君達二人だったな』
「よく言うよ。あの時、わざとクィレル先生に見付けさせたのは君でしょ」
その指摘で、トムはピシャリと綺麗に沈黙した。どこか疚しい事がある時の表情だった。こんな状況でも紅い瞳が煌めいて美しいのが、妙に癪に障る。前から気になっているのだが、この鮮血を連想させる瞳は何なのだろうか。充血なのか病気なのか偶に心配になる。これといって痛がる素振りも見せないので、多分問題は無いのだろうけど。
「君は気付いてたんだ。先生が近付いて来てるのに気付いて、あの時わざと僕をそのままにしてたんでしょ。もっと早く傷の痛みを消す事も出来たのに」
『そうだな。僕が鎮痛してやらなかったら、アホなミミズみたいにのたうち回ってた筈だな』
「アホなミミズって、それ僕のコト?」
『君の他に誰がいるんだ?君はクィレルが近付いてきた時、アホなミミズになって苦しんだ。あれは、死の呪文の―――呪いの傷跡のせいだ。治療魔法でも精々痛みを和らげる事しか出来なかったからな。多分傷跡を付けた張本人のヴォルデモートが近付いてきたら、それに反応して痛みが増すんだろ』
「ちょ、ちょっと待ってよ。あの痛みって、ヴォルデモートのせいなの?あいつが近くに居るだけで、僕は苦しまなきゃいけないワケなの?」
ハリーは少々絶望感を味わっていた。直接的に何もされていないのに、ただ傍に接近されただけで地獄の苦痛に苛まれるなど御免である。
しかし、そこでふと気が付いた。ヴォルデモートのせいで傷が痛むという謎現象が引き起こされるのならば、彼の分霊であるトムは……?
今まで彼と共に過ごして、傷跡が痛みに疼いたのはたったの一度だけである。それも、クィレルの時程酷くはなかった。あれ以降、彼の傍に居て傷跡に何かしらの変化が起きた記憶は一切無い。
「ヴォルデモートのせいなら……何で、君の近くに居る時は痛みが無いの?」
『そんな事、知る訳ないだろ。分霊の場合はこうなりますなんて説明書なんか無いんだから。君に傷を付けた張本人、つまり分霊じゃなくて本体の存在にだけ傷が反応するとかじゃないのか?』
「……そういうもの?」
『第一、君には赤子の時から母親の護りがあるんだ。それはこの歳になってもまだ生きてる。その護りは確か、「ヴォルデモート」と「ヴォルデモートに取り憑かれた人間」相手に発動する筈。君との接触を許さないっていう護りだ。でも僕は、君に触れても何とも無い。一応あいつの一部なのにな』
彼の言う通りだった。ハリーが何度も彼に触れたところで、そういった護りが発動した様子は一度も無かった筈である。
『多分……この世界の法則だと、分霊は本体とは別物扱いなんじゃないか?だから僕が居ても傷は痛まないし、僕は君に触れても何とも無い。こんな推測しか出来ないよ』
母親の護り。その単語を聞いた時、ハリーは何かを思い出しそうになった。しかし、一体何を忘れているのかさっぱり分からない。この護りについて、前にも誰かと話をしたような気がする。
『ハリーがいきなりアホなミミズみたいにのたうち回ったんだ。それがただの傷跡な訳が、ない』
「だから、アホなミミズじゃないって」
相も変わらず失礼な事を言い出す彼に突っ込みを入れ、ハリーは手に持っていた日記帳をしっかりとポケットに収める。そして未だに動く気のない彼を一瞥して談話室の出口へと向かった。
「言っておくけど日記は置いて行かないよ。こういうのって『連帯責任』って言うんでしょ?君のせいで先生に見付かって罰則を受ける羽目になったんだし、一緒に来て貰うから」
ハリーは内心、ちょっぴりご立腹だった。彼にとって意味がある行動だったとしても、そのせいで自分が被害を被る結果になった事に対してだ。
初めての飛行訓練の授業で意外な才能が開花したり、心躍る体験が今夜の憂鬱な気分を幾らか払拭してはくれたものの―――やはり、罰則については納得がいかない。
しかし怠惰な彼の事だ、きっと今も面倒臭そうにこちらを睨んでいるに違いない―――と、思っていたところだった。不思議な事に彼はしっかりと立ち上がっており、いつの間にかハリーのすぐ後ろに移動し終えていた。親鳥の後から離れない雛鳥の如し姿だったが、それを見て和やかな心を取り戻せる訳がない。ハリーは短い悲鳴と共に飛び退いた。
「そっ、それ、音無しで近付くヤツやめてよ。本当にびっくりするんだから!君の前世って絶対暗殺者だ!」
失礼な抗議の声に、しかしトムは何も反論を述べない。大きく息を吐きながら腰に片手を当てて、どことなく虚ろな瞳を携えハリーを眺めるばかりだ。これまた失礼な感想だが―――妙に大人しいその姿は、自分に従順だからといって何も安心出来なかった。
「……な、なにさ。君、何かあったの?」
『……別に?ただ―――』
「ただ、何?」
『……今の僕にとって、君のすぐ近くが世界で一番安全な場所だという事さ』
「は、はぁ…………」
それは母の護りの事を言っているのだろうか。それにしても世界で一番安全とは大袈裟ではないか、とハリーは曖昧な返事をするしか出来なかった。
恐らく、ハリーが日記を携帯するつもりがなくとも、彼は今夜の罰則に最初から同行する予定だったのだろう。日記帳に戻れば良いのに、彼は実体化したまま罰則へ向かうハリーの背後を(流石に廊下に出る頃には実体を解いたが)ぴっとりと追随していた。
やっぱりハリーは、彼がどれだけ自分の近くにいても傷まない傷跡の謎が気になって気になって仕方が無かった。
しかしそれは言い換えれば、ヴォルデモートと彼は根本的に別個の存在であるという事の証明みたいで、何となくだが喜ばしい事だと思った。
―――この世界の法則も、呪いの傷跡も、母の護りも。
きっと、『闇の帝王』と『異邦人の魂』は別存在であるという事実を、ちゃんと理解してくれているのかもしれない。
ハリーはそう思う事にした。
「遅かったなフィルチ。三十分も待っとったぞ。もう出発したい」
フィルチに連れられてやってきた場所、即ち罰則を行う目的地はハグリッドの小屋の前だった。ハグリッド本人が、大きな石弓と矢立を装備した狩人の格好で現れる。その立ち姿を見せられると、やはり罰則とは危険が伴うものなのだと思い知らさせるみたいでどうも居心地が悪い。飼い犬のファングを引き連れた狩人姿のハグリッドは、様になっていて決して悪くはなかったのだが。
「ハグリッドと一緒なのは良かった……のかも?」
元からだが青白い顔のまま口数少なく隣を歩くドラコに、ハリーは小声で話し掛ける。
「こ、これはやっぱり、森の中に……行くっていう事だよな?」
ドラコは既に冷静さを失ってしまったようだ。半端に賢い頭が罰則の行われる場所を突き止めたせいで、彼の声は情けない音色へと変換されていた。
小屋へ連行してきたフィルチの愉しそうな顔、完全装備のハグリッド、彼の後ろに広がる森の姿……それら全てが、罰則内容を物語っている。
「それじゃ、私はこれで。夜明けに戻ってくるが……半分でも残るのを祈る事だねぇ、その体。まあ、見付かればぜーんぶ引き取ってあげるよ、ヒッヒ」
魔力の無い身分であろうに、残酷な笑い声を上げながら暗闇の向こうに消えるその姿は童話に登場する意地悪な魔女そのものだった。魔女フィルチが消えた後、ドラコは無意味にも声を上げた。
「ぼ、僕は森に行きたくない。他の罰じゃ、駄目だっていうのか」
「ホグワーツに残りたいなら行かねばならん」
ハグリッドの口調は厳しい。
「悪い事をしたんだから、その償いをせにゃならん」
「……そうだね、ハグリッド。でも……やっぱり、森に行くしかないの?」
ドラコが隣で余りにも恐怖を拡散し続けてくるせいで、幾分か余裕のあったハリーも今は怯え腰だ。恐怖は伝染する、これは一つの事実である事を思い知った。二人は哀願の表情でハグリッドの巨体を見上げた。
「ハリー、ドラコ、お前さん達は知らなきゃなんねえ、これがホグワーツの流儀だ。俺達が今夜森に入るのは決まっちょるんだ。危険だからな、絶対に軽はずみな事はしちゃいかんぞ。それじゃ、俺に付いてきてくれ」
どうやら腹を括るより他はないらしい。二人は最底辺まで沈み込んだ気分のまま、先頭を歩くハグリッドの後ろを付いて行く。ただ一匹、ファングだけがふがふがと呑気に鼻を鳴らしてその隣を歩いている。
森の外れ、生い茂った木々の奥にある曲がりくねった獣道の先を、彼は指差して言った。
「あそこだ。見えるか?地面に光った銀色のヤツだ……。ありゃ、ユニコーンの血だ。綺麗なシルバーなんだがな……今年になってよく見掛けるようになっちまって、実際何匹かやられ始めた。何者かに傷付けられたユニコーンを探すのが、今夜の仕事だ。二人共、解ったか?」
「ユニコーンを襲った奴が僕達を先に見付けたら、どうするんだい」
殆ど泣きべその様な声でドラコが言った。
「俺やファングと一緒におれば、この森に棲むものは誰もお前達を傷付けはせんて。さあ行くぞ。そこら中血だらけだからな、ユニコーンのヤツ、少なくとも昨日の夜からのたうち回っとるかもしれん」
「ハグリッドは魔法を使えないんだよね?」
「ああ―――まあ、使っちゃいかん事になっとる。お前さん達、俺も十分気を付けるがな―――もしも逸れちまったら、杖で赤い光を打ち上げろ。良いな?すぐ助けに行く―――そんじゃ、出発だ」
ハグリッドは何かをはぐらかすようにして出発を急いだ。ハリーとドラコはしばらく無言で、足元だけを見ながら歩いた。
森は真っ暗で視界良好とはいかなかったが、枝葉の隙間から漏れる月明かりのお陰で落ち葉の上に滴る液体―――ユニコーンのものらしき血痕を発見する事が出来た。途端、ハグリッドの表情が深刻なものになる。
「ハグリッド……ユニコーンを襲う生き物って、どんなの?」
「うーむ……。あいつらは大抵の生きモンより素早いからな、滅多に捕まる事はねえもんだ。俺もここで長いこと森番をやっちょるが……あいつらが怪我したなんてこたぁ聞いた事ねえ」
その時、何かがすぐ傍を滑る様な音―――マントが地面を引き摺る様な音が鳴った。ハグリッドが咄嗟に二人を引っつかんで、身を隠すのに適した巨木の後ろへ放り込んでくれた。彼はそのまま矢を番えて弓を構える。やはり本物の狩人みたいで様になっている、とハリーはしみじみ思った。
張り詰めた空気の中しばらく周囲を警戒し続けていた三人を嘲笑う様に、謎の異音は段々と小さくなって消えていった。唸る様にハグリッドが呟く。
「思ったとおり、ここにいるべきでない何かがおる」
「おっ、狼男!?」
両親からホグワーツの森の詳細について聞いていたのか、心当たりのある生物の名前を挙げるドラコ。しかしハグリッドはあっさり否定した。
「いんや……こりゃどーも、狼男でもユニコーンでもなさそうだ」
「……ケンタウルス、とかは?」
前にこの森で出逢った生物、ハリーが唯一知る森の住民について訊ねてみた。
「あれが蹄の音だって?違ぇな、俺には解るぞ。ありゃあユニコーンを殺した犯人の音に違いねえ」
犯人。その単語が耳に入るだけで少年二人の心臓は分かり易く縮み上がった。
そして―――ドラコが堪え切れないといった様子で数歩後ろに後退してしまった時、それは起こった。
「―――ぇ、あっ、ぎゃああああああアァッ!!」
「何だァ!?」
響く絶叫。同時に吠え出すファング。
ハグリッドが瞬時に石弓を構えながらドラコの方へ振り向くも、その頃には哀れな少年は―――全身を大の字にみっともなく伸ばし切った体勢で、何かに首根っこを引っ張られる様に暗闇の中へ飛んでいくところだった。恐ろしい絶叫を上げながら、ハグリッド達の方へ縋る様な視線を向けたまま、背中から木立の奥に吸い込まれていく。何かに掴まって留まろうと虚しくバタバタと足掻いた手足は、しかし何の成果も得られずただ空を切るだけ。
「ドラコッ、何しちょる!何があった!クソ―――そっちは危ねぇっ!!」
「ど……ッ、ドラコッッッ!!」
ハリーは駆け出していた。暗闇へ単身乗り込む恐怖とか、頭からすっかり抜け落ちていた。
後ろでハグリッドがドラコの二の舞にさせないようにとその首を掴んで止めようとしたが、小柄ですばしっこい獅子の子は大きな手を躱し、蛇の子が攫われた方向へ真っ直ぐ走り去ってしまう。
「ハリー、戻ってこい!そっちは駄目だ!俺が行くまで奥に進むんじゃねぇッ―――うおぉッ!?」
無謀な子供を連れ戻さんとハグリッドが巨体を走らせようとした、その時。彼の頭のてっぺんを赤い閃光が走り抜けた。すんでのところで屈んでそれを回避したハグリッドだったが、お陰ですっかりハリーを見失ってしまう。それでも少年らが消えて行った方向へ自分も向かおうと一歩踏み出すが。
「なっなんだぁ、クソ!誰かいやがるな、出てこい!こっちには武器があるぞ!」
再びハグリッドへ向けて走る閃光。それは一つではなく何度も何度も煌めいて、彼の進行を完全に阻害する様に絶えず360度全方位から射出されてくる。閃光の一つがハグリッドの髭を掠めて、ほんの少しだけ焦がした。
「ハリーッ、ドラコッ、駄目だ戻ってこい!!ぐ、ぐっ―――俺を邪魔するヤツぁ誰だ?姿を現しやがれッ!」
ハグリッドが閃光を何とか避けながら必死に叫ぶ。森番と子供達は、完璧に分断を許してしまった。
彼は途中で回避を完全に諦めて子供達の救出を最優先に、巨体のあちこちに傷を負いながら走り出していたが、残念な事にその方角は二人の消えた場所ではなかった。
「ファング、お前は向こうに隠れちょれ!おいっ、ハリ―――!!ドラコ―――!!」
ハリーの耳には、最早森番の呼び声は届かない。
一心不乱に、何かに取り憑かれた様に両眼をかっ開きながら疾走する。
だって、明らかに普通ではなかったからだ。友人の身に起こった不幸は、明らかに普通の現象ではなかったのだ。
まるで、魔法使いに攫われる無力な子供みたいな光景。ハリーにはもう冷静でいられる理性が残っていない。ただ黙って事の終わりを見届けるなんて無理だった。
「ドラコッ……、ドラコ―――ッッッ!!」
あらん限り、喉の奥から大声を引っ張り出して現実へ解き放つ。走りながらの発声は、鍛え上げられている訳でもない平凡な少年の肺からあっという間に酸素を奪っていく。すぐに限界がせり上がってきて、ハリーの速度は徐々に減少していった。その内傍らの樹木に寄りかかる羽目になって、ひゅうひゅうと荒い息を吐くだけの置物となってしまった。
「どっ……らこっ、ハァっ、ハっ…………!き、きつい……」
ハグリッドと二人でドラコを助ける―――その考えは、もう浮かびやしない。
言いつけの通り、例え今ここで赤い光を上げハグリッドを呼んだとて助かるのは自分だけ。それはハリーの願うところではなかった。
そんな風に、自分の安全を蔑ろにした考えのまま疲労に喘いでいるハリーだったが―――。
『捜し物はこれか?』
聞き覚えのある声が頭上から降って湧いた。
跳ね上がった天秤みたいに頭を上げる。
「あぁ―――ッ、トム!!」
全身をだらりと弛緩させているドラコを浮遊呪文で空中に浮かせ、その傍らに立っているトムがハリーの無様な醜態を殆ど真顔で眺めていた。
彼に『はいよ』、と雑に平たい地面へ仰向けに転がされたドラコは、相変わらず青白い皮膚をしているものの意識が無いだけのように見える。傍から見たら思わず笑ってしまうような恐怖の表情を貼り付けたまま、白目を剥いていた。
「と、トム、何でここにっ、っていうか―――あれ、ドラコを助けてくれたの?」
『なんなら、割と最初から君達の近くに居たけどな。真っ暗だし、目くらまし術掛けるだけでだーれも気付きやしないんだから』
「それで、僕より先にドラコを助けて?でも、ど、どうやって―――あんなに飛んでったのに」
『落ち着けよハリー、まずはこいつの安否確認が先じゃないか?』
トムに促され、ハリーはそれもそうかとしゃがんで当初の優先目標―――意識の無い友人の顔を覗き込んだ。その後ろでトムも様子を観察する。一見するとドラコの全身にこれといった外傷は全く見当たらなかった。
『うーん、暗くてはっきり分からないけど、よっぽど怖い思いをしたようだ。だからブサイクなアホ面晒してるんだろうな』
「死んでるの?」
『ハリー、こういう時、普通の子は「生きてるの?」と聞くんだ。大丈夫さ、心臓は元気らしい。どうやらショックを受けて気絶してるだけみたいだ』
冷静に気絶者の診断を終えたトムがローブから杖を取り出して、ドラコの胸に向けて呪文を唱える。
『《リナベイト》!僕流にアレンジを入れた、ちょいと効果増量の蘇生呪文だ。こいつに追加で魔力使うの、勿体無いけど…』
数秒程でドラコの意識は回復を遂げたらしく、むう、と呻きながらゆっくりと彼の血色の悪い瞼が花開く。トムの魔法力は治療術に関してもやはり一流のようだ。
『ドラコ、しっかりしろ。僕が判るか?』
「あ……あ、」
目覚めたばかりで焦点の合わない灰色の瞳が少しばかり右や左を遊泳したかと思うと、夜闇の中に立っている同じスリザリン生の姿の元へ吸い寄せられた。
『ホグワーツ五年生、スリザリン寮所属、トム・リドルだ。監督生で主席の、どこからどう見ても優等生だったトムだ』
「トム、何で今、昔の成績なんか関係あるの?」
『ハリー、こういう意識がはっきりしない奴に応対する時は、なるべく具体的な事実を多く告げてやるのがベストなんだ』
「ホント?」
『僕が嘘吐いた事ある?』
「ほぼ毎日」
『なんて事言うんだ。……まあ言ってろ。ドラコ、こっちの子判るか?ハリー・ポッター』
「グリフィンドール生のハリーだよ。今日の大広間の夕食は、シェパーズパイ、ベイクドビーンズ、チョコアイス、かぼちゃジュースにミルクだったよね」
『ハリー、馬鹿馬鹿しい程具体的過ぎるぞ』
しばらく二人の様子をぼんやりと見ていたドラコだったが、ふと我に返ったらしくよろよろと起き上がった。ローブはすっかり落ち葉と枯れ枝に塗れ台無しになっていたが、たった今五体満足である事に比べれば些事であろう。衣服の代わりは幾らでもあるが、己の命の代わりなど―――分霊箱の制作者にならない限り、そんなもの有りはしないのだから。
「ハリー……良かった、なんとか、合流でき―――……、んな―――、リドル、さん?」
『どうも。さっきは災難だったみたいで』
ひらりと何でもない事のように手を振るスリザリン生の姿に、ドラコの瞳は再び右往左往を始めた。丁度いい頃合だと思って、ハリーはどうして自分達の罰則中に姿を現したのか彼に訊ねる事にした。
『まあ、さっきのあれ―――目撃したし、体感しただろ?明らかに普通じゃない。まるで森に潜む誰かがドラコ―――君を引きずり込んだようにしか見えなかっただろう。きっと、呼び寄せ呪文かそれに近い魔法を使われたんだな。だから僕も君達を助けてあげようと思って、こうして出てきたんだ』
「あっ、ありがとう、リドルさん。でも……だっ、だっ、誰がそんな事を?やっぱり狼男―――いや、奴らは魔法を使えない―――じゃあ、何故!?その誰かってユニコーンを狙ってるんだから、僕は関係無いとおっ思うんだが」
『僕が途中でドラコに浮遊呪文を掛けたんだけど、やけにあっさり君が捕まってさ。きっと僕が呪文を使った時には、ドラコを攫う魔法は効果が切れていたのかもしれない。これらを踏まえると、相手の狙いは君じゃない。君を森に引きずり込む事によって得られる副産物が目的だったんだ』
「ドラコを、攫う事で得られる物って何―――?」
ハリーはざわざわと不安が波打つ心中を必死に抑制しようと努めながら、若干掠れた声で問い掛ける。トムは真顔に近い思案顔で二人の顔を観察していた。
『……ハリー、君は友人が攫われそうになって、ハグリッドの制止も聞かずに飛び出した。だから気付かなかったんだろうけど、ハグリッドは今―――呪文を浴びせられて君達の捜索を邪魔されている真っ最中だ。それも、別に殺される程の勢いじゃなかった。動きを嫌らしく邪魔する様な攻撃のされ方だったな』
「えっ、ハグリッドがそんな風に襲われてるってコト?じゃ―――じゃあ、相手の狙い……っていうのは」
『まあ……君達とハグリッドを分断してしまおう、って事だろうな……。ドラコが突然姿を消せば、ハリーがボケた猪みたいに突っ走ると推測したんじゃないのか』
「ちょっとトム、こんな時にも僕を変な生き物に例えないでよ」
「何の為に!?」
ドラコはハリーの様に恐怖を抑制出来無かったのだろう。声を荒らげて問うた。そんな事をしても現況は何も好転しないのだとしても、まだ哀れで未熟な少年は、感情をコントロールする術など知らない。
「その犯人って、ユニコーン殺しじゃないのか!?僕達、どこをどう見たってユニコーンじゃないぞ!どうしてこんな事されなきゃ―――ううっ、されなきゃ、いけない―――っ」
「ドラコ…………」
ハリーは今までトムと過ごしてきた時間があるから、彼がこの場に居る事で心の安寧を幾分か取り戻す事が出来た。しかしドラコはそうではない。彼に救われたからといって、彼が具体的にどういう人物か知らないので、傍に現れたからといって安心出来ないのだ。
『犯人の狙いは一先ず置いて、取り敢えずドラコ……ハリー……君達は、当初の予定通りにユニコーン探しを続ける方が良いだろう』
「えっ!こんな状況なのに、まだ罰則してる場合?」
『さっき言っただろ?ドラコを攫い掛けて放置を決めた犯人は、次にハグリッドの足止めを実行して―――それからあまり時間が経ってない。この状況でハグリッドのいる方へ近付いたらどうなると思う?―――こんな状況を作り出した犯人とのご対面に決まってる』
「あ……なるほど。むしろハグリッドから遠ざかれば、相手に出くわさずに済むっていう―――」
「そっ、そんな馬鹿な事!あんな森番でも居ないよりマシなんだ!今すぐ合流した方が……っ!」
『ハグリッドと分断された場所から大分離されてしまっているから……ここから合流を目指すのは少々骨が折れるだろうね。どの道、罰則内容―――ユニコーン探しが終わらないと、この森から本当の意味で逃げられないと思うけど』
そういえば、そうだ。
ハグリッドはこれがホグワーツの流儀だと言っていた。
例え危険が待っていたとしても、悪い事をした生徒はこういった仕事を全うしなければならない。ハリーの心の中は、ふつふつと湧き出した覚悟で満ち始めた。
『つまり、僕達にとっての最善は、ユニコーンを探しながら助けを待つ事。ハグリッドの言っていた赤い光で自発的に救援を呼ぶのはナシだ、敵にも居場所を知らせる事になる。流石にハグリッドも自分一人じゃ生徒を助けられないと判断したら、他に応援の先生でも呼んでくれるかもしれない。その間に罰則を終わらせていれば、もうこの森に入れられる事は無いさ。さあ、二人共―――そろそろ覚悟を決める時だ』
トムが赤い瞳を光らせて、二人の顔へ力強い視線を向けた。どうやら、彼はこの地獄みたいな罰則が終わるまで付き合ってくれるつもりらしい。ハリーは殆ど迷わずに頷いた。
「解ったよ、トム。僕は決めた。ちゃんと全部終わらせて、ホグワーツに帰るんだ」
『……ドラコ、君は?』
「えっ、あぁ、うっ―――、僕、は………………」
ドラコも反論や我が儘がこの場から自分を救ってくれる材料にはならないと、ようやく思い知ったようだ。両手で頭を抱えながらも、トムを正面から見返して震えた頷きで肯定の意志を示した。
「……解った、解ったよ!僕も……魔法使いだ。誇り高いスリザリン生だ。ホグワーツの罰則は、ちゃんと終わらせるよ……」
こうして、三人は絶望的とも言える状況の中突き進む事を決断した。
改めて、自分達を囚人の様に取り囲んでいる闇をそっと見上げる。
その闇の中、ドラコが立ち竦む。ハリーの動きも止まった。トムは彫像の様に動かない。
黒い大きな森だった。そうとしか形容出来ない。影絵みたいに塗り潰された黒を纏う林、灰黒色の大地。聳え立つ木々とか蔓延る雑草とか、目に映ったままを言葉にしようとしても、目前に広がる樹海の真の姿を伝えた事にはならない。
底無しに暗く大きな物が、闇の中にじっと座っていた。鳥獣が棲み、生活を営んでいる空間ではなく、得体の知れない生き物が其処にいるのだ。トムでさえ一瞬前に進む事を躊躇った。
しかし、それはほんの一瞬だった。硬直を解す様に一度首を傾け顎を上げると、彼は大きく一歩を踏み出した。ハリーがその足跡をなぞって後を歩く。
『急ぐぞ』
まるで恐怖など何のそのといった感じで彼は歩き続ける。その頼もしい後ろ姿を見て、ハリーは感じた。要は心なのだ。
心が怯んでいなければ、竦んでいなければ。この先出くわす相手が魔であろうと、怪物であろうと、人間であろうと負けはしない。
相手の正体がはっきりしないのに、やたら騒ぐ事や恐れる事は愚行だ。魔だと思っていた者が正しい心を持っていたり、人間だと見えていた者の中に邪悪な姿が潜んでいたりする。それらの判断は、冷静で偏らない心で物事を見なければ不可能だ。それもまた、これまでの人生経験から身に染み付く程に理解していた。そう、心が
少し大きな木の根を跨いだその時。ハリーの額にぴりっと電気が走った。心臓がドクリと脈打つ。その原因不明の感覚に襲われたのはハリーだけではないらしく、いつの間にかトムも歩みが止まっていた。二人は無言で立ち止まったまま顔を見合わせた。
「ねえ……これって、」
『ハリー、黙ってろ』
何か声に近しい物音が聴覚を基点にして、精神の中に侵入してくるようだった。ハリーの言葉を遮ってトムは耳を欹てる。
……かなり小さいが、シュー、という掠れた呼吸音が断続的に聴き取れる。小さ過ぎて集中しなければ分からない。事実、ハリーとドラコの様子をチラリと見るが、二人は全く聴こえていないようだった。
それは人の声にも聴こえるし、人とは違う生物の声にも聴こえる。集中を掻き乱されて不快になる音だった。体が、心が、他のどんな音よりもこの音を優先して捉えようとしている。何故か、その音の方へすぐに向かわなければいけない気がした。ただの音に対して、どうしてそんな考えが浮かんでくるのか、冷静に考えると酷く馬鹿馬鹿しいと思った。思っているのに、聞き流せない。どこまでも執拗に纏わりついて鬱陶しい音だ。
【……これは……この音は…………】
そして、こういう時に限ってソレは独り言を呟いてくる。無意識に出てしまったかわざと出したかは知らないが。無言で続きを促す意思を送ると、奥歯に物が挟まった様な言い方で返された。
【……いや、まだそれが確定した訳でも無いからね。はっきり分かってから伝えるよ】
不意に風が吹いた。枝がザワザワと動く。木々の密生した斜面は真っ暗で、そこから湿り気を帯びた冷ややかな風が微かに吹いてくる。透明な何かに息を吹き掛けられている感覚だった。
腐っても魔法界の森林。風という空気の流れにも微量な魔力が混在しているのだろう。生身ではないこの身に感じる初めての感覚だ。その森はしんと静まり返っていて、深い。
何故虫は鳴かない?獣は動かない?みんな息を潜めて、じっと三人を窺っているのだろうか。
何かが見ている。窺っている。耳を欹てている。その気配に虫も獣も怯えているのだ。
「―――あっ!あった!?」
不意にハリーが声を上げた。恐る恐る屈むと、丸い点々となって落ち葉の上を彩る銀色の液体を指差す。
「これは血の跡……だよね」
『そうだな。ほんとにあるものなんだな。けど……これ、ユニコーンの血なんだろうか。他の生物の血って事は……いや、それはないな』
「うん。多分……違うよね、赤色じゃないし。ハグリッドも言ってた。ユニコーンの血は綺麗なシルバーだって……」
『そうだな。けど……思ったより血の量が少ないって思わないか?殺されたんなら、もうちょっと血の量が出てる筈じゃないか』
「トム、死んだなんて決め付けちゃって良いの?死体も無いのに」
『そう。それだ』
血痕を観察していたトムが顔を上げる。艶のある黒髪が月明かりを受けて輝いた。
『果たして、襲われたユニコーンは生きているのか、もう死んでいるのか。生きているなら、何処に身を潜めているのか。殺されたのなら、どうやって命を奪われたのか……。ハグリッドも言っていたけど、あの生き物は捕まえるのが非常に難しいっていうのが常識だ』
「そうか。ちょっとやそっとで仕留められる……なんてコトは考えられないんだな」
『うん、考えられないね。ユニコーンの逃げ足の速さは有名だから。それを簡単に襲って仕留められる魔法使いがいたら、魔法界でとっくに噂されているんじゃないかい?』
トムが気持ち悪いぐらい柔らかい口調でドラコの言葉に同意の姿勢を見せる。ハリーは彼の後頭部を引っ叩きたい衝動を抑えながら訊ねた。
「普通の魔法使いじゃ、ユニコーンをどうこうしたり出来ない……ってコト?」
『そういう事だ。答えとしては一つ。今回の犯人は優れた魔法使い、それも生物を殺す事を躊躇しない残虐非道の魔人、という事だな。何の為に危険な森に入って、ユニコーンを襲わなくちゃならなかったのか』
ハリーは何だか彼にはぐらかされている気がした。単なる直感に過ぎないのだけれど、彼はその答えを既に持っているのではと思った。何か考えがあってわざと核心に触れていない、のだろうか。……そして今の彼の発言のどこかに、何かとんでもないブーメランが紛れている気もした。
「……本当に、謎は深まるばかりだな」
ドラコが澱んだ顔で溜息をつく。人間社会に疲れ切った中年男性を感じさせる、何とも言えない哀愁を漂わせる姿だった。見ているこちらも哀しくなる。
「でもさ、こういう謎は授業みたいに解けるハズ……じゃない?」
『馬鹿。謎ってのはな、「解ける筈」じゃなくて「解いてみせる」ものなんだ。もうちょっとしっかりしろ、ハリー』
「……ユニコーンを何匹も殺せる魔法使い……か。やっぱり想像するだけで寒気がするな……」
『そうだねドラコ。実は僕もさっきからゾクゾクしてるんだよ。ふふっ』
「トム、君の態度の方がゾクゾクするんだけど。何で僕とドラコとの対応でそんなにコロコロ変われるのさ、まったく」
『え、良く分からないなハリー。僕がいつコロコロ変わったんだ?』
「今すぐ胸に手を当てなよ」
『当てた』
「何か思い当たるコトは?」
『いやぁこの体、筋肉スカスカで男として終わってるなって。これじゃモヤシだよ。きっと幼少期から碌な物食べてなかったんだろうなぁ、可哀想に』
意図は不明だが、この場に居ない『第三者』に向けた挑発の言葉により、ごく自然に話題を逸らしたずる賢い彼の様子にハリーは追求を諦める。と同時に、君が言うな、という本音を呑み込む。
彼の演技についてはもう放っておこう―――そう思い、五歩程歩みを進めた時だった。暗くて良く見えない視界の隅に、大きな塊が映った気がした。
「ぎゃっ!」
ハリーとドラコは、思わず同時に悲鳴を上げていた。
数メートル先、開けた平地の向こうに真っ白な獣が横たわっているのが見える。四足を持つ馬の姿で、額には一本の立派な角が生えていた。傍目には角が生えている事以外、マグルの馬となんら変わりはなかった。
―――紛れもなくユニコーンの死体だ。実際に目にして、こんなにも美しく悲しい生き物はいないだろうと思った。その生き物の周囲には、苦しみにのたうち回ったからなのだろう―――先程ハリー達が見た血痕とは比にならないくらいの、大量の血が飛び散っていた。
ハリーは肩を震わせながらも、死して尚美しいユニコーンの死を悼む為、うろ覚えながらも不器用に追悼の言葉を紡いでみる。
「やだよ、トム。僕、ナマモノは苦手なんだ。恨まずあの世へ向かっておくれ、あーるあいぴーあーるあいぴー」
『ハリー、急に葬儀のジジイになるなよ。それよりあまり声を出さない方が良い。こいつがここで息絶えているって事は、実行犯が近くに居る証明だ』
こんな時でも冷静なトムの姿は、本当に有り難いものだった。仲間の中に一人でも平常心でいられる人間がいるというのは、残りの者にとって想像以上に精神安定剤の代わりとなってくれるのだ。
「でも、見付ける事が出来たよ、良かった……。確か、ユニコーンの角とか尾の毛って、魔法薬の材料になるんじゃなかったっけ。犯人はそれが欲しかったのかな」
しかし自分で言っておきながら、ハリーは不思議に思った。ちょっとばかり近付いてちゃんと確認してみれば、ユニコーンの死体から角や毛が拝借された様子はどこにも見当たらない。はて、どういう事だろうか。
「ただ殺すのが目的なワケ……ないよね?捕まえるのが難しい生き物をわざわざ追い掛けてるんだもの、何が狙いだったんだろう」
「ハリー、これ以上深追いするのは危険じゃないか。ユニコーンを殺せる様な魔法使いが本当にいるんなら……僕達生徒じゃどうにも出来ない。こ、ここはもう、大人しく森の出口へ向かおう」
『そうだよね、ほんとそう。僕も恐怖からのショックで心臓がはち切れそうなんだよ。さ、ドラコ、こんな面倒な罰則とっとと終わらせて、一緒に帰ろうか』
真剣な表情でユニコーンの死体を凝視していたトムが、いきなりドラコの意見に同調し出した。死体を発見する前と明らかに態度が違い過ぎる。とはいえ、それは彼が恐怖を感じているからではなく、ドラコだけはこの場から遠ざけようとしている風に見えた。
「ほらハリー、リドルさんだってこう言ってるんだ。引き返すのが正しい選択だろ」
「目の前でアナコンダとゴーストがフォークダンスしててもショック受ける様な男じゃないから、トムの方はほっといて良いよ。確かに帰った方が良いかもしれないけどさ……ハグリッドは魔法を使えないんでしょ。だったらここで帰っても、すぐに犯人に対処出来ないってコトだよね?」
「それは、そうだが……あの木偶の坊、いや、ハグリッドから他の先生に報せて貰えば良い話であってだな……」
もごもごと言い難そうに話すドラコを尻目に、死体から遠ざかる方向へ伸びる狭い道へトムが入ろうとする。彼にとってはその道が帰還への最善手なのだろう。
その後ろ姿を見ていたハリーの身体の中を、冷たい風が吹き抜けた。
―――ダメだッ!
「トム!!」
彼の足が止まる。近くにいたドラコの動きも止まり、ハリーへ視線を向けた。そのくらい大きな声だった。
『ハリー、何だ?そんな大声でいきなり』
「え……いや、だって、危ないから」
『危ない?何が?』
色々勘の鋭い彼がハリー程の警戒の色を見せず、こちらを見つめている。その様子に息を呑んだ。
危ない?何が?自分は何を危ないと感じたのだろう?
道は狭くて急ではあったが、人一人が歩ける幅は十分にある。森の斜面を縫う様に伸びており、例え転んでも大怪我をするようなものではない。危険とは程遠い場所に思えた。
なのに、何故……?自分は、何を感じたのだろう……?
「あ、危ないって?なっ何が、うわぁっ!」
その時、ハリーの大声で狼狽したらしいドラコが悲鳴を上げる。足を踏み外したのか、そのまま後ろに倒れ込んだ。
「ううっ……痛い……!」
『ドラコ!大丈夫?怪我は無い?』
声変わりを地平線の彼方へでも不法投棄したのか、嫌に高く中性的な声を上げたトムが素早く駆け付け、ドラコの顔を心配そうに覗き込む。その姿、将に歴戦の応急救護班の如し。彼の本性を知るハリーにとっては、普段の姿と現在の姿との矛盾っぷりにただただ不快感を感じるだけである。
「あ、あぐ……何とか……あっ、頭を少し打ったみたいだけど……」
『うわっ、お
「リドルさん」
『ああ、流石。意識がぼんやりしていても、目の前にいるのが僕なのは理解出来るんだね。いやぁ、やっぱり僕の存在って偉大で、』
ボコッ!
『ぐわっ、痛い。こっ後頭部に謎の衝撃が。ドラコ、やっぱりここは危険だよ。すぐに離れよう。得体の知れない何者かが、僕達をも暗殺しようと狙ってるのかもしれない』
「僕が素手で殴ったんだけど」
トムが頭の後ろを押さえながら振り向くと、右手に握り拳を作っているハリーが立っていた。その目付きは、昼夜問わず堂々と詐欺を働く罪人を見る様な冷たいものであった。周囲が吹雪いているんじゃないかと錯覚するぐらい、キンキンに冷えている。
『ハリー、君か!何で人の頭を殴ったりするんだ』
「演技がアホらしくて見てられないもん。大体、何でドラコがちょっと転んだだけでそうも豹変出来るのさ?」
『何言ってるんだ。そもそもハリーが危ないって大声出すからじゃないか。ホント人騒がせな』
「うわっ、人のせいにするんだ。もう、すぐ他人に罪をなすり付けるんだから。トムは政治家を目指したら成功するね、きっと」
『メガネザルが言ってくれるじゃないか。君はマグルのしけた家にでも帰って、傷跡に玉ネギでも塗っとけ』
「休暇が来たってあんなとこ絶対帰らないもん。それにメガネザルなんかじゃないよ。トムの蛇頭」
「あのさ、ちょっと……」
完全にエンジンが掛かりヒートアップしそうになっている二人の口論の間に、少しふらつきながらドラコが割って入る。恐怖で思い切り引き攣った表情を貼り付けながら、ハリーの肩に手を置いた。
「ハリー、一体何に危険を感じたんだ?」
「え?あっ、それは……」
ハリーは顔を上げ、林の先を見つめた。闇の奥から夜風が吹いてきて二人の髪を靡かせる。ただ一人、トムだけは髪もローブも靡く事は無い。この世界に腐る程充満している空気という物質でさえ、今の彼に物理的影響を与える事は出来なかった。
「上手く説明出来ないんだけど、何だか急にぞくっとして。危ないって……そんな感じが」
『……危ない、ね。ただの直感だろ?』
トムに胡乱げな視線を注がれて一瞬言葉が詰まる。彼は前にも言っていたが、こういった曖昧なものが好きではない。だからこそ、当たるかどうか誰にも知り得ない『予言』などといった代物も毛嫌いしているのだ。
「うっ、うん。でも、この先に危険な何かがあるって……、用心しなきゃと思って。トムが無防備に踏み込もうとしたから、咄嗟に止めなきゃって思った」
自分が全身で感じた感覚の詳細を明かすと、ドラコはますます縮こまった。裕福な家でぬくぬくと暮らしてきたせいか、体格ならハリーよりも微妙に勝っている彼だったのだが、今は頭一つ分ハリーに惨敗している気がした。
『ハリーの直感は……ケンタウルスのお墨付きだからな。ハリーが言うなら、この先に何か危険があるって事は凡そ当たってるんだろう』
「ひっ、引き返そう!リドルさん!」
いつになく真剣で凛々しい目付きで語るトムとは対照的に、ドラコはすっかり腰が引けた姿勢で彼に縋り付こうとしている。といっても今のところ、ハリー以外の人間は分霊の身である彼に触れる事は出来ないので、その手は空を切っていた。
トムはそんなドラコに向かってゆっくりと頭を振った。
『いや。ハリーの感じた危険こそが、ハグリッドの探していたものじゃないのか。ユニコーンを襲った犯人』
トムが挑戦的な笑みをニヤリと浮かべる。その表情からは微塵も恐怖を感じない。
ハリーは前から思っていた。彼は大多数の人間が恐れる存在に恐怖を感じないごく少数の人間にあたるだけであって、勇気だとか勇敢だとかそういう言葉が当てはまる訳ではないと。例えば虫を見付けたら、悲鳴を上げて遠ざかる人間と、平気で触って捕まえようとする人間に分かれるのと同じ。彼は後者の仲間というだけだ。グリフィンドールが謳う勇敢さとはちょっとズレている。
『じゃ、行くしかない。ここまで来ておめおめ引き下がる訳にはいかないさ。ま、細心の注意を払いながら、だけど』
絶望的な表情で立ち尽くすドラコを放置して、トムは彼とは違い直接触れられるハリーの背中をグイグイと押して先に進ませようとする。さっきまでドラコに意見を同調させていた演技はどこへやら、といった様子である。人前で優等生のフリを続ける事よりも優先度の高いものが現れた場合、彼はあっさりと手の平を返すのだろう。
『さあ、ドラコ、先頭はハリーが行ってくれるらしいから、僕達はちょっと離れて付いて行こうか』
「はっ?何で僕が先頭なワケ?僕、先に行くなんて一言も言ってないよ」
咄嗟に突っ込みを挟むハリーを当然の如く無視して、トムはわざとらしい微笑みを浮かべる。とてもあくどい笑みだった。今なら確実に悪役ランキングのトップを狙えるに違いない。
他人の台詞を勝手に捏造しながら、彼は半ば突き飛ばす様にしてハリーの背中を押してくる。
『いやあ、かっこいいね、友人を守る為に危険な道を率先して進むなんて。騎士だね、勇者だね、主人公だね』
「主人公って、誰のコトさ?」
『君に決まってるだろ。襲い来る危険から、自分を犠牲にしてでも僕を守るって決意がよーく聞こえてくるよ。ふふっ』
「まったくもってそんな決意してないけど。君の耳って、どうしてそう都合の良い幻聴を聞き取るの?それと、その胡散臭い『ふふっ』はやめてよ、『ふふっ』は。君がやるとスゴく気持ち悪いから。ほら、鳥肌がびっしり出ちゃってる」
『ふん、鳥にでも蛇にでも好きなモノに変身したら良いじゃないか。ほら、ドラコ!そんな所で突っ立ってたら置いていくよ。こういう状況って大体、一人で単独行動してる奴が一番先に殺されるパターンだからねぇ。どうなっても僕達は責任取れないよ』
ズンズンと森の奥へ進んでいく二人(内一人は強制連行)を呆然と見つめていたドラコは、トムの恐怖を煽る言葉が決め手となったのだろう。刹那、未練がましい視線を後方へ向けるもワタワタと二人の元へ駆け寄ってくる。一人で夜の森を逃げ惑うよりも、誰かと共に行動する事を選んだらしい。根は臆病であるが、この場では実に賢くスリザリン生らしい選択だ。
そうして―――何か劇的なアクシデントが発生する訳でもなく、三人はしばらくの間穏やかとさえ表現可能な探索を続けていた。
ハグリッドとはぐれてしまった絶望感が嘘みたいである。夜の森を彷徨う三人の少年達を、何者も脅かす事が無い。そんな時間が続いた。
―――だが、その時間も永遠には続かない。いつかは終わりが来ると決まっているものなのだろう。
『ハリー、これ』
ふと立ち止まったトムが一本の大木を指差す。絹の様な白くて長い糸が、束になって太い枝から垂れ下がっていた。
「これ、クモの糸……なの?」
トムもドラコも答えない。強張った顔のまま、目を見開いている。
これが本当に蜘蛛の糸であるならば、サイズがおかしいのだ。
今までの人生の中で、ハリーが目にした蜘蛛の糸は精々が数ミリ、といった程度だった。物置で何度も目にした子蜘蛛の糸。しかし目の前の糸束は、人間の腕と同等ぐらいの太さがあった。こんなにも太い糸を生成出来る蜘蛛が実在すると考えれば、その大きさは子供の自分達を軽く超すに違いない。
「ねえ、なんか、この辺りだけ糸がたくさんあると思わない?巣でもあるのかな。ねえトム、どこを指差してんのさ」
『ハリー、蜘蛛だ』
「やっぱり。ってコトは、この近くのどっかにクモが居るかもしれないよ」
『どっかじゃなくて、君の後ろ』
「へ?」
振り向いたハリーの心臓が一回転した。
目の前に、巨大な蜘蛛が居た。
自分より高い位置にある頭から生えている
かなり大きい黒々とした蜘蛛だ。堂々とした体に大地を踏み締める八本足。この森の主と呼んでもおかしくない迫力が、そこにあった。
しかし、それは後になってしみじみと感じた事だ。蜘蛛のギラついた八つ目と目が合った瞬間、ハリーは文字通り金縛りに遭ってしまった。手も足も指の先も、ピクリとも動かせない。恐怖が雁字搦めに肉体全てを縛り付ける。口内がカラカラに乾いて、舌すら動かない。マグルの世界で生きている蜘蛛には決してない、猛々しい威圧感だった。
「っは、ハリー」
ドラコの喉から搾り出す様な声がした。呪縛が解かれるように、ふっと体が軽くなる。同時に、蜘蛛が大地を蹴って飛び掛かってきた。
『ッ、ハリー!《プロテゴ》!』
トムの手がハリーの首根っこを掴んで引っ張った。蜘蛛に襲われたのが自分で良かったのかもしれないと、頭の片隅でハリーは思った。これがドラコだったら―――きっとトムは触れられず、助ける事が出来なかっただろうから。
ひっくり返ったハリーのすぐ目の前で、蜘蛛が派手な音を散らして弾かれた。
負けじと再び巨体が跳ね上がり、展開された防御壁にぶつかってくる。鳴き声一つ出さない。無言の襲撃が不気味さを掻き立てていた。あの足に、鋏に、体中に漲る力に比べたら、人間の肉体などどれ程鍛え上げたとしても、ひ弱な脆い容れ物に過ぎない。
トムが必死に盾の呪文を張っている後ろで、ハリーは獲物を捕え、食らう為に生まれてきた生き物の力に圧倒されていた。こんな状況だというのに、畏敬の念さえ浮かんでくる。凄い。とにかく凄い。
『駄目だ、破られる!』
トムが叫ぶ。語尾が震えていた。
突然の襲撃に、魔法の発動に必要不可欠なイメージが固まっていないのだ。攻撃を喰らう前に盾を生み出した反射速度は完璧だったが、肝心の強度はお粗末な物となってしまっている。平常心であれば堅実な盾を張れたのだが、人間はやはり突然の出来事というモノに弱い。
ハリーは強張る舌を動かして、ドラコを呼んだ。彼は完全に腰が抜けていて、立つ事もままならない醜態を晒している。まあ無理もない。こんな場面に出くわしたら、老若男女問わず誰だってこうなるに決まっている。
「ドラコ……た、立って。このままじゃ、ホントにやられちゃうよ」
「ひっ……ヒァ、はっハリー、でも、こんな、どうやって、」
まるで携帯のマナーモードの様に震え続けるドラコは、完全に使い物にならなくなっていた。顔は恐怖に歪みまくり、へたり込んで嗚咽を上げている。
トムが鬱陶しい蠅を追い払うかの様な目付きで、一瞬だけドラコを睨んだ。そういえば、前にも誰かがこんな鋭い眼差しを向けてきたような、とハリーは既視感を感じた。彼は近距離にいるハリーにしか聴こえない小声で、ブツブツと独り言を漏らしている。
『ああもう、腐っても男がピイピイ泣くなよ。しもべ妖精みたいなマスコットならまだしも、マルフォイが泣いたって絵にもなりゃしない』
「しもべ妖精がマスコットに見えるの、君と乱視の人だけだから。でも……僕だってホント、泣きそうだよ」
ハリーは一度ホグワーツに従事しているしもべ妖精という生物を目にした事があったが、あの外見をマスコットと形容する魔法使いなんて目の前の感性が著しく狂った男しかいないだろう。
トムの独り言の内容で一瞬だけ気が逸れたものの、逃がさないと言わんばかりに生存本能に基づいた恐怖が頭を擡げ直す。―――死にたくない。殺されたくない。
自分は一度殺されかけた事があるが、恐怖の「きょ」の字も理解出来ない赤子の時だからまだ良かった。それを理解出来る年になって、初めて味わう明確な死の恐怖。ハリーの目元にはすっかり水分が溜まって、今にも決壊しそうだった。
『二人共、涙ぐんでる場合じゃないぞ。今度本気で掛かってこられたら、僕の盾じゃもたない。あの牙、見てみろ。あんなのに腹を裂かれたら、一巻の終わりだ。内臓飛び散るぞ。血飛沫だよ。殺人現場の出来上がりだ。僕の二度目の人生が、ああ勿体無い』
二人を勇気づけるでも落ち着かせるでも無く、トムはどこまでも現実的だ。ドラコは彼の言葉を聞いて更に震える速度が増した。真冬に裸で外に放り出されたのかと思うぐらいの凄まじい震えだった。
ハリーも正直に言って、所構わず泣きたかった。だが、今すべきなのはそれじゃないという事も理解している。どうにかしてこの状況を乗り越えなければ。
―――僕達、まだ十一歳なんだよ。簡単に死んじゃっていい歳じゃないんだ。
ハリーが無言でドラコの目を真っ直ぐ見つめると、彼もハリーの想いを理解したのかぐっと涙を堪えよろめきながらも立ち上がった。どうにか最低限の魔力で盾の綻びを補修しようと、四苦八苦して余裕の無い様子のトムへ声を掛ける。
「り、リドルさん。僕、全く状況が読めて無いけど、とりあえずあいつから距離を―――」
『やかましい!今ゴチャゴチャお喋りしてる場合じゃないって、見て解らないのか?状況でもお経でも勝手に読んでろ、このカスカス頭』
「トム、今の僕じゃなくてドラコなんだけど」
『ドラコがどうした。千切りにしてバジリスクの餌にでもしたら良いじゃないか…………、は?ドラコ?』
我に返り、激昂の頂点から下山してきたらしいトムがさっと振り向く。そこにはずっと同行していた筈の、開いた口が塞がらない様子の金髪の少年がいた。
『あっ、うわっ。ドラコ、いつからそこに』
「ずっと居たじゃん。おバカ」
『コラッ、ハリー、英国紳士の卵が「バカ」なんてはしたない言葉使っちゃ駄目だよ。ねぇ、ドラコ』
バシバシとバスケットボール選手が行うドリブルの様にハリーの頭を叩いて口を挟ませないようにしながら、トムは慌てて「対人用」の表情を取り繕う。ドラコは口をポカンと開けたまま、彼を見つめた。
「リドルさん、なんか……いつもと違ったような……」
「人間、追い詰められると本性が出るんだよ」
ハリーがボソリと的を射た発言を飛ばすと、フンと鼻を鳴らしたトムが一際強い拳骨を喰らわせた。唯一接触可能な人間だからとやりたい放題だ。もしかすると、彼は魔法を使わなくても強いのかもしれない、なんてたまに思う。
この中で一番魔法に精通した頼れる人物はトムだけである。しかし、彼はその身に宿る魔力を消耗し切った瞬間にこの場から消えてしまう定めだ。その最悪の事態を防ぐ為か、蜘蛛に対してすぐ反撃に転じる事はない。
むしろ、
トムは二人を背にしてジリジリと後退しつつ、慎重に蜘蛛の出方を窺う。
いつの間にか蜘蛛は馬鹿正直に突っ込む事を中断し、三人の周囲を楕円形に這い回っている。
立ち並ぶ木々や生い茂る枝葉、加えて夜の帳がその姿を時折隠蔽してしまうので、はっきりとした位置を捉えられない。なので姿は良く見えないが、鋏をガチンガチンと鳴らす音は絶えず聴こえてくる。飛び掛かるタイミングを計っているようだ。知性の欠片も感じられない出で立ちだが、学習能力はそれなりにあるのかもしれない。
『あぁ、クソッ。あと二、三回ぶつかってこられたら僕の盾、壊されそうだ』
「盾を消そう」
『そうだ、壊れる前に盾を消して……はぁ?ハリー、何言ってるんだ?元から緩かった頭のネジが、とうとうぶっ壊れたんだな?』
「トム、やってみようよ」
『何を?主語と動詞をきちんと使って喋ってくれる?』
「だから、このまま守る事を続けてもいずれやられちゃうんでしょ?だったら、盾が壊されるのをただ待つんじゃなくて、こっちから追い払ってみようよ」
『何を言ってるんだ。君達の実力じゃ精々、杖から火花を出すくらいしか出来ない癖して』
「確かにそうだよ。けど、やっつけるまでいかなくても、追い払うだけなら……やってみようよ、トム」
トムの表情が引き締まる。宵闇の中でも紅い瞳が静かに光を放っていて妖しい。
『何だ、やけに落ち着いてきたじゃないか、ハリー』
「うん。何か、あいつがあんまりにもスゴいんで、怖くて何も考えられなかったけどさ……ちょっと慣れた」
『自信あるのか?』
「あるワケないよ。けど、やるしかない。魔法薬学の授業が始まる直前の心境だよ」
トムが黙って深く頷いた。顔は暗い林へ向けながら、すらりとした長い指を差し出す。
『ハリー、手を握ってろ。ドラコは……そうだな、ハリーと繋ぐんだ。足元には注意しろよ、ここは足場が悪過ぎる』
「良いの?両手が塞がっちゃうよ」
『僕だって、君と手の握りっこなんかしたくないけどな、この暗闇だ。誰かがいつの間にかはぐれてました、じゃ洒落にならないだろ』
「そりゃあそうだけど……」
話から完全に置いてけぼりにされていたドラコの手を、ハリーは取った。彼も彼で会話の内容を理解はしているようで、ブルブルと震えながらもハリーの手を握り込んだ。
もう片方の手でトムの手を強く握る。汗ばんだ手の平を通して、彼の死人を思わせる冷たさが伝わって来る。今はそのひんやりとした冷たさに救われた。驚きも恐怖も、熱冷ましの様にするすると身の内から引いていく様に感じる。
流石のトムもこんな状況に陥るとドラコ相手に猫被りをする余裕は無いらしく、完全に素の状態で指示を飛ばした。
『ドラコ、君は手が空いてるだろ。すぐに灯りを点けろ。それぐらい出来るだろ?純血なんだから』
「は?」
『は?じゃないだろ、灯りだ。盾の呪文を発動したままなのに、僕が杖灯りを出せると思うか?さっさと灯りを点けろ。急げ』
「あっ、はい」
『それと、《ホメナム・レベリオ》を掛けろ。あの蜘蛛以外にも、襲撃者が近くにいないか確かめるんだ。これ以上の不意打ちは御免だからな。もしも使えないなら、《フィニート》で我慢してやる。目くらまし術なんかで誰かが隠れてたら、一発で判るだろ』
「はあ……僕、《ホメナム・レベリオ》も《フィニート》も使えないんだが……」
『言葉遣いが悪い!もう良いよ、使える物で良いから、この状況で役立ちそうな呪文をリストアップしておけ。それと、念の為ハグリッドを呼ぶ為の光を打ち上げる準備も。解ったか?返事は「はい」で』
「はい、分かりました」
まるで、どこかの帝王みたいに相手に一切口を挟む余地を与えず、淡々と命令の言葉をマシンガンの如く放つトムに圧倒されたドラコは完全に百依百順。命じられるままに震える片方の手で杖を取り出し、《ルーモス》で小さな灯りを点した。これが少しでも相手の姿を目視する助けになればいいのだが。
生み出された杖灯りの中心で、意を決したハリーとドラコが深呼吸をすると同時に、トムが崩壊しかけている盾を消滅させた。
森の中は静まり返っている。さっきまで絶えなかった鋏の音も、嫌悪感を煽る虫特有の足音も、まるで耳を捥ぎ取られたのかと錯覚する程聴こえてこない。静寂が余りにも不気味過ぎて、これでは楽観的な考えにも浸れない。
「あいつは……いなくなったのか?」
ドラコが恐る恐る呟く。トムが苛立ちを隠さず吐き捨てる様に言った。
『そんな上手い事行くか。キッアニヌカッセトウンタ。スキラヤ、ロンベハシラナキソンメン?ロンヤシ、ニップハトアナガベェワウンタハ。カミダルコタッサナ、コフボッヨンタメン』
「トム、どこの国の言葉喋ってんのさ?冗談言ってる場合じゃないよ」
『アルベド語でジョークでも言ってないと、心がもたないって。あの牙、見てみろ』
ドラコが向けた杖灯りの輪の先―――盾が消失するのを待っていたかの様に、闇の中で息を潜めていた蜘蛛が、のそりと身体を起こすのが見えた。
八つ目と六つの目は互いに視線を交錯させる。手を離さないまま、三人はじりじりと後方へ移動した。自分達の意思ではない。蜘蛛の迫力に押されるのだ。
『二人共、向こうに大きい木があるだろ。あの後ろに飛び込むぞ』
「わ、う、動いて大丈夫?」
『いざとなったら、君かドラコが犠牲になるんだ。大丈夫、何があっても僕だけは助かるから安心しろ』
「どこに安心する要素が?何で君だけが助かるワケ?」
『将来性の問題だ。魔法界の未来の為にも、僕は生き残らなきゃいけないだろ。第一、ホグワーツの中ならまだしもこんな陰気臭い森の中で、蜘蛛に食い殺されたなんてすっごい恥ずかしいぞ。動物園の蛇に絞め殺された方がまだマシだ』
「トムならヘビの方が嫌がるよ。大体、トムと魔法界の未来がどう結び付くのか、全く分かんない」
こんな状況でも言い合いに発展する二人の様子を隙だと認識したのか、蜘蛛が一番先頭に立つトム目掛けて突進を仕掛けてきた。
地響きが立ち、馬車馬程の巨体が地面を抉りながら接近してくる様は酷く恐ろしい光景であった。まるで
しかし、目前に迫った蜘蛛を見てトムは繋いでいたハリーの手を離し、避ける素振りもなく、むしろ勢い良くその口に飛び込むようにして地面を蹴った。残された二人が息を呑む。
鋏角がカチカチと鳴る中、彼の右側頭部を毒牙が掠めた。分霊に触れられたという事は、あの蜘蛛はやはり魔法生物の一種なのだろう。彼と接触した事により、蜘蛛の突進はハリーとドラコの立ち位置から逸れる軌道を描いた。
「はっ、ヒィ……ッ」
ドラコは半ばパニックに陥りながらも、トムこそが自分達の生存率を高く保証する唯一の鍵だと理解したらしい。事前にトムに与えられた「灯り」の役目を律儀に果たそうとした。この暗闇の中、戦闘における彼の視認性を維持する為、杖灯りを蜘蛛の居る方向へ向け続けた。ガクガクと頼りなさげに震える小さなその手でも、灯りとしての役割は十分に機能していた。
トムはうつ伏せに近い姿勢で身を低く屈め、蜘蛛の胴体と脚の隙間を縫う様に飛び込む。八本の脚が槍の雨のように降り注ぐ危険地帯を、彼は最小限のステップと跳躍で見事に回避しながら蜘蛛とすれ違った。ハリー達にとってどうしてか分からなかったが、正体の分からない黄色と青緑色が混じったような粘っこい液体も、同時にトムの頭上から滴っている。ドロリとした質感のそれらは、すぐに彼が発動したであろう魔法に弾かれて、頭髪を濡らす前に空中で掻き消えた。魔法の範囲外に落ちた液体は、鼻につく臭いと共に煙を上げ、そこに生えていた草をジリジリと黒く焦がし尽くす。
回避の途中、明らかに蜘蛛の脚の一本がトムの左肩を一度踏み潰す形で叩いていたが、彼は大きく目を見開いて息を詰まらせたように見えるだけで、呻き声一つ出さず動きを止める事もない。
ハリーは微妙に表情を顰めて不思議に思った。蜘蛛が自身の巨体を動かそうとする力量の事を考えると、あの当たり方は絶対に肩の骨が外れるか砕けていてもおかしくはないのだが……そういえばあの身体には、骨や血液は存在しただろうか。そこまで考えて、彼の安否を確認する意思を込めて叫んだ。
「トム!!」
まさか、身を挺して二人を突進から守ったのだろうか。
ハリーが声を掛けた先、杖を持たない左の手の平と右耳の上あたりの二箇所からボタボタと黒い血を流すトムが、地面を前転しながら立ち上がるところだった。アクション映画のスタントマンみたいな動きだ。かっこいい、とこの場で抱くには無意味過ぎる思考が巡ってしまった自分をハリーは恥じた。
彼は、血を流す左手に何かを持っているようだった。しっかり痛みを感じているせいか僅かに震える瞼の下、赤い瞳をぎらぎらと光らせながら二人には目もくれず蜘蛛を睨み続けている。
蜘蛛はといえば身を翻し、まだ一番近くにいるトムへ再び攻撃を行おうと構えているところだった。
先程のトムの言葉通り、ハリーを引っ張って一緒に大きめな木の後ろに身を潜めていたドラコが叫んだ。
「リドルさんっ、魔法は!?」
『―――節約中だ。黙ってろ!』
ドラコの発言は尤もだった。何かしらの攻撃呪文を放てば良かっただろうに、彼はそうしなかった。
まだ一年生の二人は知らなくても無理からぬ事ではあるが―――魔法界の生き物は、正面から馬鹿正直に呪文を放ったところで必ずしも有効とは言えないのである。彼らはその皮膚に、呪文への耐性を持っている場合があったのだ。
ドラコの言葉を断ち切って、彼はハリーの顔を余裕のない表情でひと睨みしたかと思うと声を上げた。
『ハリー!《衝撃呪文》!』
「―――《フリペンド》ッ!」
素早く反応したハリーは、木の陰から彼の要望通りの呪文を蜘蛛にプレゼントしてやった。柊の杖から生まれた未熟な衝撃呪文は、蜘蛛の全身を押し潰して殺す―――なんて事はなく。けれども、攻撃に移ろうとしていた蜘蛛の動きを確かに数秒阻害した。
僅かばかり仰け反って隙を晒した化け物蜘蛛の頭上向けて、トムが跳んだ。アスリート選手の如き跳躍力なんて、一体どこから湧き上がっているのか。その両手には、いつの間にか杖ではなく鈍い光を放つ鋭利な凶器が握られていた。
―――それは、蜘蛛目掛けて飛び込んだ時、彼が己の左手に傷を負いながらももぎ取った蜘蛛の毒牙の一本だった。ハリー達の場所から見えにくいタイミングで、トムは牙目掛けて一度衝撃呪文を当てていた。そうして脆くなったところを掴み、牙表面のトゲが食い込むのも無視して勢い良く引き千切ったせいで、彼の手は傷だらけだったのだ。あの時蜘蛛脚と一緒に降っていた、気味の悪い色をした雨の正体。それは、牙を抜いたが為に出来た創傷から噴出した、毒腺に貯蔵されていた毒液と蜘蛛の体液が混ざり合ったものだった。
よく見ると、蜘蛛の口器の左側に生えていた牙が確かに一本抜けている。ハリーは彼が取った行動の真意を知って唖然とした。いくらなんでもそんな事ってあるもんか。
『お前は、これで終わりだ』
静かに呟いて、トムが空中で掲げていた両手を、蜘蛛の脳天へと振り下ろした。その手に収められていた毒牙は気持ちが良いくらい真っ直ぐに突き刺さり―――本来の持ち主の命を、確かに破壊した。
ゴリッと硬い外骨格を砕く音が響き、蜘蛛の体が大きく跳ねるように数回痙攣する。牙から溢れた毒液が頭胸部を僅かに溶かし、黒い煙が狼煙みたいな形でゆらりと立ち上っていく。だが、命を奪った明確な原因は毒ではない―――牙の鋭さとトムの常人離れした腕力が重なって、脳へ直接「死」を齎したのだ。
殆ど同時に風船から空気を抜くような、情けない鳴き声が響き渡る。半端な呪文なら物ともしない表皮を持つ蜘蛛は、しかし獲物を確実に仕留める為に備わった己の凶器によって冥府へ墜ちる羽目となった。ぐしゃりと崩れ、地に伏した巨体の生み出す重々しい物音の余韻が辺りに拡散していく。
入れ替わりのように遠くで鳥が飛び立つ音が三人の鼓膜を擽り、戦いの終わりを告げた。トムは、毒牙を握りしめたままである自身の血塗れの黒い手を眺めながら、赤い瞳を光らせ薄く笑う。まるで、この勝利が彼の運命の一部であるかのように。
「やっ―――やった―――」
ドラコがやっとの思いでそれだけを口にした。ハリーは自分が少しでも貢献出来た喜びを心の内で噛み締める。
手負いのトムは毒牙を引き抜き、骸と化した蜘蛛の頭を蹴って地面に降り立った。彼自身が治療するまでもなく、その身に受けた傷は自然と元に戻っていった。巻き戻し操作を行なったビデオを思わせる傷の消滅。流れていた黒い血も完全に止まったらしい。彼は、自分の身体が自分の意思を無視してひとりでに修復していく様子を、不気味にも見える無感動な瞳でじっと眺めていた。その姿から、身体の状態が元通りになるという恩恵への喜びは、どういう訳かまるで感じられない。
―――やがてこの場の全ては、蜘蛛に襲われる前の平穏な状況に戻っていた。
「やった、やったよトム」
『―――僕には、やっぱり「これ」が合ってるのかも……』
トムが遠い遠い過去を思い出す様に、己の手の中でころりと転がる凶器に向けて呟いていた。ハリーにはその言葉の意味はさっぱり解らなかったが、解らなくても自分達にとって特に問題は無いだろうと思った。
「それにしても、君が蜘蛛に向かっていった時はビックリしたよ!まさかあいつの口から牙を引っこ抜くなんて―――普通、そんなの考えっこない」
「た、確かに……。僕なら真似出来ない。思いついた呪文を撃ち続けるばかりだったろうな」
『別に、君達を驚かせるつもりじゃない。―――本当に、ただの節約のつもりだったんだが……』
自分の知らぬところで勝手に評価を付ける二人を見て、トムは何とも言えない微妙な表情で答える。奇を衒うつもりとか、そういう心算は全く無かったのだが―――どうも奇妙な感想を与える羽目になってしまったらしい。
思えば自分は元々、東洋のマグルだ―――防衛術や戦闘に対する「もの」の考え方が、彼ら西洋の魔法使いとは根本的に違ってしまうのだろう。
魔法耐性のある生物相手に、如何に魔力消費を抑えつつその命を屠るべきか。合理的に熟慮を重ねた結果、魔法生物自身が持つ体の一部を武器として利用させてもらおうという判断に至ったのだ。分霊箱の自分ならば、ハリー達のような生身の人間と違って、蜘蛛毒による「死」が訪れる事はない。奴の毒牙にいくら傷付けられたところで、取り返しがつかない―――不可逆的な損傷を負う事はないのだから。
……とはいえ、側頭部と左手は普通に痛かった。とても痛かった。おまけに左の肩も踏み潰されていた。流石に途中息が乱れてラマーズ法みたいになっていた。
本当に、痛覚なんて不要でしかない。この一件が落ち着いたら痛覚を消す、若しくは軽減する魔法が日記の中の「知識」に存在しないか、優先的に探求しなくてはならない。かなり癪ではあるが、同居人にもそれとなく尋ねてみるべきか。
可能ならば、もっとド派手に炎でも操ってあの蜘蛛は丸焼きにしてやりかったのだが、炎を生み出す類の呪文は大体魔力消費が激しいものばかり。生憎と、襲撃者が蜘蛛だけなんて楽観的な思考回路は持ち合わせていない。「この先」の事を考えると、毒牙を採取させていただく戦法を選択するのが得策だと思い至った。―――そう、この毒牙にはまだ使い道が、武器として立派な価値がある。
一先ず驚異の去った森の中。三人が各々束の間の安息に浸ろうとしていた時。
「―――ッッッ!?」
ズキン、と。
脳天を貫く激痛が何の前触れも無く襲来してきて、ハリーは頽れた。痛みの余り発声もままならず、ハクハクと短い呼吸を繰り返す。
毒虫にでも刺されてしまったのだろうか?そう思い、震える両手で頭部を弱々しい手付きで撫で回してみるも、頭皮には何かが刺さった様子は無い。痛みの発生源は、額の傷跡だった。
「……っ、ハリー!?」
すぐさまドラコが駆け寄って来る。彼の顔が至近距離にやってきたところで、額を苛む激痛は頂点に達した。
―――これは、冗談抜きでやばいヤツだ。死―――……
グチャグチャになって訳も分からなくなった思考の中で、無様に息絶える結末が垣間見える。それ程までに耐え難い苦痛。ドラコが自分の両肩を掴んで必死に何かを叫んでいるが、頭を水桶にでも突っ込んだかの様にくぐもって上手く聞き取れない。瞼を固く閉じて痛みに耐えようとするも、大した成果は得られなかった。
「ハリー、おい!頭が痛いのか?……クソ、どうしたら、いいんだ!?こ……こんな時、どうしたら、」
突然苦痛に呻く傷病者の看護の手順など、ドラコは知る由も無い。そんな教育はマルフォイ家に不要だったのだ。誰かが不調に苦しんだら、屋敷で働くしもべ妖精という名の人外の召使いが全て事に当たるからである。勿論、最低限の看護に関する知識は父母共持っているが、まだまだ子供である己の脳味噌にそんな便利な物は詰まっていなかった。
「り、リドルさん!ハリーが。ハリーが大変だ。な、何とかし、て―――」
この場で唯一この状況を覆してくれそうな材料を持っているであろう青年の方へ、ドラコは縋る気持ちで振り向いた。
―――彼ならば。怪物から自分達を護り、最終的には始末する事に成功した彼ならば、きっと何とかしてくれる筈だ。治療は無理でも、看護の方法なら知っているかもしれない。そう思って振り向いた先。
「……、え」
青年は、忽然と姿を消していた。
……有り得ない。ついさっきまで、ここに立って怪物を仕留めたではないか。あの青年は、この一瞬の間に―――一体何処へ行方を眩ませたというのか?
「そんな、リドルさん……?」
目元に水分が滲み出すのを感じる。消え入りそうな声で呼び掛けてみるものの、返答は無い。自分達を護ってくれた人物が、目の前で苦しんでいるハリーを放って何処かへ消える筈が無い。慌てて杖灯りで周囲を照らしてみたが、彼の姿は確認出来なかった。
「……あぅ、うう、うん……………」
「っ、ハリー!」
その時だった。今まで断続的に呻いていたハリーの容態が、これまた突然快方に向かったのだ。さっきまでの騒ぎが嘘の様に、彼はしぱしぱと瞬きを繰り返しながら亀を思わせる緩慢な動きで上体を起こした。表情は顰めているが、もう呼吸は落ち着いており苦痛の声もすっかり収まっている。
「大丈夫なのか、起き上がって?」
「…………うん。何か……その、おかしいんだ。何なんだったんだろう。急に痛んだと思ったら、急に何ともなくなって……」
ハリーが前髪を掻き分けて傷跡を晒した。稲妻型のくっきりとした傷跡は、ただそこに刻まれているだけだ。血が滲んでいたり、傷口が開いている訳でもない。ならば、どうしてハリーは痛みに襲われたのだろう。
ドラコは連続する事態の急変に思考が混濁していて、気付くのに数秒遅れた。……そうだ。ハリーの友人らしい青年が姿を消したのだ。
「ハリー、リドルさんは何処に行ったんだ!?君が倒れてから消えたんだ!なあ、見なかったか!?」
「えっ、えっ?トムが?そんな、」
言われてみれば、彼の姿が何処にも見えない。
彼の性格の事を考えれば、罰則に付き合ってられなくなり日記帳に戻った―――と取れるのだが、どうもおかしい。前にこうして自分が傷跡の痛みに苦しんだ時、彼は助けてくれた。丁寧に鎮痛まで施して。似た様な現象が目の前で再び起こっているのに、それを無視して消える様な薄情な奴だっただろうか。
……有り得る。有り得てしまうのが困る。彼は元来から面倒臭がりな性質だっただろうし……。
―――いや。本当に心の底から面倒だったら、そもそも日記帳から出てはいない。彼は罰則が始まる前からハリーに直接同行する意志を示していたし、蜘蛛まで排除してくれたのだ。ここまで来ておいて、今更この同行を途中で投げ出すだろうか?それも、ハリーが倒れるような緊急時に。
何かが、おかしい。
「ちょっ―――、ちょっと待ってね。今、何とか連絡を取ってみる」
ドラコに背を向け、ポケットから日記帳を取り出し、深紅の羽根ペンで文字を書き込んでみる。ペン先にはまだインクが残っており、数文字程度なら書ける筈だ。
とりあえず、返答を要求する旨の文章を手早く書き込んだ。いつもの彼ならば、実体化していようがいまいが返事をページに浮かばせる事は容易だ。マグルで言うところのメール、というヤツである。
「何で、文字が出ない!」
しかし数秒経ってもページは白紙のままだった。彼の文字が浮かんでくる事は無く、古ぼけた紙は只々僅かに黄ばんだ白を晒すだけ。ハリーが書き込んだ文字は、何の異常も無く白紙に吸い込まれていくというのに。
……となると、これは日記帳の機能異常ではなく―――まさか、本人に異常が発生している?
「返事が、出来ない……?」
こんな事は初めてで、どう対処すれば良いのかさっぱりだ。ドラコが不安な表情を立ち尽くしているハリーの背へ送る。彼がハリーの次の行動を待つ中、ある一つの可能性が浮上してくる。
もしも。
もしも、何処かへ行ったのではなく、何処かへ行かざるを得なかった、のだとしたら。
だとすれば、彼の行方は。
「……っ、トム……!」
―――一方、その頃。
「お迎えにあがりました、我が主の片割れよ」
分霊箱である少年は、現在進行形で片手を取られ、己の目の前に跪いている魔法使いの存在に、殆ど引き攣った様な笑みを浮かべていた。
人生で初めて味わう侍従によるエスコート。一ミリたりとも嬉しくないその体験に身動ぎしたくて堪らなかったが、万力の如く片手を掴み続ける相手のせいでそれも叶わなかった。
―――いやこれ、本当にどうするんだよ。
相手は跪いて敬意を表している癖して、一向に手を離してくれる気配は見受けられない。
生身の人間であったら確実に出ていたであろう冷や汗が流れる錯覚に陥り、少年は内心で自虐的に嘆く様な独り言を呟いた。
ここでPage24の話と繋がります。
ここまで来るの長かった……すまない。
ちなみに主人公のアルベド語ジョークはマジでふざけた台詞しか言ってないので、
別に翻訳しようとしなくていいです。