以下、全く読む必要の無い前回のあらすじ
主人公『俺は元マグルだ。誰が何を言おうと元マグルなんだ』
クィレル「ほな開心術されたのムカつくからやり返すわ」
???【なんだァ?てめェ……】←今ここ
利用し尽くされた後は、ただ捨てられるだけの哀れな手駒。
魂だけとなった男が肉体に取り憑き、「生きながらにして呪われる」というユニコーンの血液を取り込み、現在進行形で精神さえも蝕まれ消耗を続けるだけの、『呼吸する操り人形』。
それが、目の前のクィリナス・クィレルという魔法使いの実態である。
【そんなお前が、不遜にも僕の『所有物』に一度ならず何度も何度も……懲りずに手を出してくれたね。実に不愉快だよ、傀儡の域を出ない肉塊め】
それに比べて、"彼"の行動はとても素晴らしかった。
魔力の贅沢な消費を許されない身だからとはいえ、純粋な身体能力のみであらゆる罠を見事に回避してみせ、最低限の呪文で追跡の妨害や逃走経路の確保をこなし、並外れた精神力で極限状態にも拘らず《死の呪文》を発動させた。時には自傷行為すら躊躇なく行い目的を遂げんとするその姿は、魔法使いとして生きる者には決して真似が出来ないものであった。
―――仮に、こちらが同じ舞台に立たされたとして、"彼"の様にクィレルからの逃亡劇を演じられただろうか?
選ぶ手段や魔法の差異はあれど、自傷や身体能力を利用する戦法など考えもつかなかった。目的を果たす為ならどんな手段も厭わない姿勢は同じだとしても、自らを傷付ける選択肢など絶対に取りはしなかったであろう。
追っ手側の油断や慢心があったとはいえだ。"彼"はホグワーツ生の様な魔法教育を受ける機会なんて得られず、対人の実戦経験などは当然無い完全な独学で。加えて杖なし呪文や無言呪文の練度が不足している人間が、これほど逃げ切ってみせた現状全てが『異常』であり、『秀逸』なのだ。
結果的に捕縛される事になったとはいえ、長時間の逃走と呪文の連続使用に起因する疲労や、致命傷にあたる被害を受けた直後の不意打ちだった事実を考慮すると致し方なく、責めるつもりなど毛頭ない。むしろ制限の多い立場でよく善戦した部類だ。
もしも、ちゃんとした実戦教育を受ける機会があるならば。
もしも、完全な実体を得る事が出来たならば。
"彼"は、更なる高みへ至るに違いない。
―――だからこそ、許せない。
【お前は一種の『芸術品』に手を出した。その罪が重いとも知らずに……。知らなくても無理は無いだろうが、ならば僕が解らせてやれば良い話だと思わないか?】
腕を振るう。そうすれば、目の前で黒炎に絡まれ苦しみ藻掻くクィレルの悲鳴が、ますます悲惨さを感じさせるものとなり声量も著しく上がった。
「あッ、ああああぁぁあ―――ッ!!」
今此処に居るクィレルは現実の肉体ではない。開心術による精神体とはいえ、その精神に直接危害を加えられているのだ。本人からすれば十分驚異的な被害であろう。
【……やはり、この身を動かすのは僕じゃ駄目なんだ。僕一人では所詮……十六歳のあいつの
そこまで考えて、不意に怒りが込み上げてきたのでクィレルを覆う炎の勢いを更に強めた。怒りを発散させる為のサンドバッグとなった男は、苦痛を逃そうと遂にみっともなく転げ回り出した。実に醜くて滑稽だ。乾いた笑い声を上げて無様な姿を言外に面白いと評価してやった。
【……ふ、ははは!残念だったね?お前が侵入したこの世界は"彼"ではなく僕のものだよ。そもそも"彼"の閉心術は殆ど緩む事が無いからね。本来ならお前の術は失敗するだけだったけれど―――折角なら僕の方に招いて甚振ってあげようと、わざわざこちらの心を開いてやったんだよ?主人の片割れの心の一端に触れられて嬉しいだろう?】
自分の世界で奇声を上げ続けながら転がり回るクィレルが次第に鬱陶しくなって、その頭に近付いてぐり、と靴裏で踏み潰して縫い留める。クィレルの纏う黒炎は彼だけを燃やして接触したこちらに燃え移る事はない。
クィレルは無理解と恐怖に目を見開きながら視線だけでこちらを見上げていた。頭を踏み付けられた上に苦痛を逃す為の動きを邪魔されて、言葉にならぬ呻き声が絶え間なく流れている。
「がっ―――があアァっ、ああああぁ―――」
【……ああ、この炎は一体何だとでも言いたげだね。特別な機会だし教えてあげてもいい。これはね、"彼"の物だよ。"彼"がずうっと焚き続けているから衰える事は無いんだ。とても心地いいだろう?お前は此処で燃え尽きているのがお似合いだよ】
まあ、本当にクィレルの精神体を燃やし尽くしてしまうとこいつは現実で廃人と化してしまう。そうなれば"彼"の計画は台無しだ。甚振るのはここまでにしておいた方が良い。
【……お前の悲鳴はたっぷり聞けた事だし、そろそろ許してあげてもいいかな。その前に】
パチンと指を鳴らしてクィレルの全身を鎮火させる。これまで独りで好き勝手に語ったが、激痛の中ではこちらの話の内容など正しく理解出来やしないだろう。例え理解していたとしても、どうせ彼が此処で過ごした記憶は改竄しておくし大した問題は無い。
ようやく収まった炎にぜえぜえと喘ぐクィレルの側頭部を蹴り転がして、仰向けにさせてから額を一層強く踏み付け自由を封じる。そのまましゃがみ、彼の心臓辺りに片手を置いて全身の状態を確かめた。
【―――駄目だな。今の時点で現実の肉体は疎か精神もかなり弱っている。こんな脆弱な存在じゃあの小僧の代わりにもならない、か】
こうなった一番の要因は、やはりその身に受け入れた亡霊同然の男が全体を占めているだろう。元々健常だった筈の人間が、闇の魔術により変形を繰り返した男の魂を肉体に宿して、無事な状態を保ち続けられる訳がない。今のままでは、例え他者から危害を加えられずともいずれこの男の生命は自壊を遂げる。何らかの気紛れで寄生する男が崩壊前に離別したとして、その末路は決して変えられない。
【……うん、やっぱり、僕の『保険』は当初と変える必要は無い、ね……】
苦痛の余韻に蝕まれているクィレルは、こちらの独り言にもさして反応を見せない。虚ろな瞳で虚空を眺めるばかりであった。
かつて、本体に入手許可を貰った『保険』。それはハリー・ポッターの肉体が手に入らなかった場合の代替案であった。その案の対象は許可を貰うよりも前から予め決めており、クィレルにするつもりは無かったのだが、折角蹂躙する機会が回ってきたのでこの際『保険』に相応しいか調べてみようと思ったのだ。しかし、結果はこの通り。呪われ、蝕まれ、弱った肉体など全然適していない。
【それにしても全く……困ったものだ。"彼"は己の価値を正しく理解してないのだから】
"彼"の姿を思い浮かべる。
何も知らないフリをしておきながら、こちらが一番最初に企てた計画をとっくに見抜いており、それを打ち砕く道具を即席で作り上げてみせた、"彼"。
ハリー・ポッターの肉体を乗っ取って現実での行動を可能にしようとするこちらの思惑を防ぐ為に、あの小僧の魂の流出を防ぐという羽ペンを譲渡した。
だが、そんな"彼"もただ一つ、見抜けていない事実がある。"彼"は『その可能性』の一片すら考えようとした事など一度も無かった。だからこそ、今もまだ気付けないままでいるのだろう。
―――「自分の存在がどう見られているか」など、全く考えもしていない。
直接顔を合わせる事の不可能なこちらの心の内を探る術など無いので仕方ないとしても。あの小僧を乗っ取るよりも重要なこちらの計画を、自分自身の価値についてどこまでも鈍感な"彼"は、きっとその時まで知る事はないのだ。
こちらが欲しい物は、二つだけ。
その一つが『自分自身』に定められているなどと、"彼"は夢にも思わない。
【でも、大丈夫。『保険』が手に入るまで協力しよう】
クィレルをぐりぐりと踏みながら歌う様に独りごつ。悲鳴が一つ上がったがどうでもいい。
"彼"と過ごす日々は、全てが新鮮でいつだって飽きる事は無かった。
魔法使いではまず考えられない異邦人特有の思考回路の数々は、純粋に興味深く面白いと思ったし、新たな発見さえもこちらに齎した。
気遣いも遠慮もない身勝手な態度と物言いは、学生時代の愚鈍な取り巻きとはまるで違う。ただ付き従い、与えられた命令をこなし、おこぼれに垂涎するばかりの、血筋だけが取り柄の従僕どもとは。
今まで出会ってきた全ての人間は、良い意味でも悪い意味でもこちらを特別に扱ってきた。憎きあの老人でさえ、初対面でも学生時代でも特別視をやめる事は終ぞ無かった。そんな中で、"彼"だけが常にこちらを無碍に扱い、媚びへつらう事も、関係を深めようと歩み寄る事も無かった。
必要以上の馴れ合いがない、ただその時その時に思った事を言い合うだけの間柄。いっそ清々しいとも言える、互いの関係性に対するその線引きは逆に心地よいと思ったものだ。
―――なんて素晴らしいのだろう。欲しい。絶対に手に入れてみせる。
"彼"を見ていると、どうしようもない物懐かしさに襲われる。まるで遠い昔、確かに対等な友人として過ごしてきた日々が実在したかの様な感覚だ。抑えられず溢れるばかりの支配欲や独占欲は、その感覚のせいなのだろうか。
交流のある他人を友人などと思った事は一度も無いし、必要な存在だと思った事も無い。上下関係のない対等な存在や、自身に並び立つ力量を有する人間なんて、有害であると同時に邪魔者でしかない。
だが、"彼"だけは特別だ。特別なのだ……。
ふと、己の首元を襲っていた圧迫感が消失した。確認する為に指先で皮膚をなぞってみれば、確かに刻まれていた筈の索状痕が再生している。……それら全ては、"彼"が今の状況から自力で脱した事を示すものだった。自然と口角が上がる。
【……ああ、『進化』の機能は確かに働いているらしい。尤も、こんな物無くても"彼"ならその内どうにかしただろうけど】
分霊箱が肉体的な成長を遂げる事は無い。
だが引き裂かれ、収められた魂は―――切断された欠片でさえ動き出し独立するプラナリアという生物の様に、欠片となった魂自体が成長する事が可能なのだ。勿論、かつての自分自身がそういう設計にしただけで、過去に分霊箱を制作した他の魔法使いも同様の機能を与えられたかどうかなどは知らないが。
分霊箱の中身は、本人が魂を引き裂いた当時の容姿、記憶、精神が保存される。つまり本人が制作後に長い時を過ごせば過ごす程分霊箱は
こんな機能が与えられるのは当然だ。
―――卒業もしていない学生時代の魂が成長しないままの役立たずであったなら、実体化の機能など付与される筈がない。
在学生の時でさえ本人はホグワーツ始まって以来の秀才ではあったが、闇の帝王となるには秀才程度では力不足だ。分霊箱に実体化の機能を与えるならば、同時に『進化』の機能も与えなければ使い物にならないと、当時から考えられていたのだ。
そしてどうやら、"彼"は自身の学習能力とも併用する事で、その機能を知らぬ間に正しく利用出来ているようだ。
本来、『進化』は生贄から奪った生命で実体化を果たした後に活用される予定であったが、"彼"は肉体を得る前からとうに扱い始めている。……こんな事、"彼"が本当に魔法に触れた事のない、ただのマグルであるならば出来る道理はない。魔法の真髄を理解する機会の巡らぬ人種が、分霊箱の機能を存分に扱えるだなどと実におかしな話である。
具体的な真意は解らないが―――恐らくはただのマグルを演じる腹積もりなのだろう―――"彼"は、彼自身すら騙してその『秘密』をなんとか隠し通そうとしているようだった。だがクィレルの心情を言い当てた時点で、"彼"も『本来の自分』の力を同居人であるこちらに隠し続けるのは限界があると感じた筈だ。いずれ全てを白日の下に晒してもらうつもりなので、今はまだ余計な詮索をしないでおくが。
【本当なら、こいつに狙われるのは僕だったんだけど……"彼"にその役割を押し付けてしまったようで心苦しいね。いつかこの件についてしっかり謝罪しなければ】
最後に一際強くクィレルの胴体を蹴飛ばした。『所有物』に手を出された怒りの腹いせはとうに終わっている。"彼"が自由になったなら、これ以上この傀儡と付き合う必要は無い。"彼"と言葉を交わしている方が余程有意義だ。
「ぐがッ!?」
【お前とはこれでお別れかな。もう会う事もないだろうが】
くるりと踵を返し、己の根城と化している黒炎の元へと歩き出した。自身にとって必要不可欠であるその中へと全身を潜り込ませて、瞼を閉じる。用済みとなったクィレルの精神体は既にこの世界から追い出した。
さて、これから『保険』が手に入るまで長いだろうが、気長に待つとしよう。既に五十年以上も待ち続けているのだ、まだ待てる。"彼"も常に共に在るので、昔から待つという行為にそれほど抵抗が無くなっていた。
……そして『保険』をこの手に収めたなら、真っ先に"彼"を自分の物にするのだ。
帝王としての覇道を歩むには、驚く程権力への野心を持たぬ"彼"は一見不釣り合いかのように見える。が、分霊箱としての魔力や才能を授かっておきながら、それを使って頂点に君臨する奸計に目覚めないその姿こそ、己の隣に相応しいと言える。
確かな力を持つが欲の無い人間というのは、言い換えれば寝首を掻いて裏切りを働こうとする欲も持ち合わせていないのである。
何かと面倒臭がりな"彼"は【望まない未来】が訪れたところで、その時には抵抗する気力すら失せているかもしれない。いつの時代も裏切りは驚異だ。その心配の無い人間の存在は貴重だろう。
……それに。
【―――『脈』はありそうだよね】
かつて、"彼"がこちらの存在を認識して間もない頃に放った、他愛のない言葉。
こちらを信用する―――彼は、「その未来は
何にせよ、しばらくは傍観するしかやる事が無くなってしまった。
退屈極まりないが、彼は面白い光景を提供してくれるのでそれほど不満は感じない。
まず無いとは思うが、彼なら敵にあっさりやられる、などという失態は犯さないだろう。今までと同じく、安全地帯から悠々と一部始終を眺めさせてもらおうではないか。
【まあ、陰ながら応援と協力は惜しまないよ。―――僕は、自分の『所有物』は壊さず大事に取り扱う人間だからね】
『―――うぐっ、アァ……!』
集中しろ。思考を埋めろ。本気を出せ。
クィレルの仕掛けた罠である首枷。実体化を解き、日記帳へ帰還する力を阻害する機能が当たり前のように付いている戒め。これさえどうにか出来れば良い。
喉元への圧迫感で呪文を発声出来ないなら、あとは純粋な魔力のみで罠を突破するまで。
そうだ。歴史上の魔法使い達だって、声の出せない状況に陥った事など腐る程あった筈だ。口を消失させる呪文、声を奪う呪文、身体の自由を奪う呪文……それらを受けてしまった場合への対処法など、必ず幾つか存在するに決まっている。
残念ながら無言呪文の完全な習得を終えてはいない身ではあるが、魔力操作ならば熟練度を鍛えてきた経験は持っている。自分の魔力を触れている枷に流し込み、その機能を乗っ取ってしまえばいい話だ。
ひたすら、念じる。
体内を循環する魔力―――今までの日記帳の所有者であった、分霊箱の制作者やハリーから預かったそれらの一部を首に収束させる。収束し終えたなら、枷を通じて吊り下がった鎖全体に流し込んでいく。鎖の生えている樫の枝付近まで念入りに、上へ上へ魔力を伸ばすイメージで。
……魔力が行き渡ったなら、この罠の魔法的機能はとうに自分の物。あとは命令を更新させるだけだ。
『くっ…………、はぁっ、はな、せッ!』
声に出して命じれば、バカンと首枷が開いて自分を解放した。絞首による苦痛と魔力操作に思考の大部分を占有されていたので、地面への落下に対する受身を取れなかった。本日二度目となる背中からの落下。びたんと叩き付けられて、抑え切れない呻き声が漏れる。
『いっ、つぅ……ッ!―――クソ、がぁ……ッ!』
げほげほと咳が絶えない喉を押さえる。くっきりと溝状の索状痕が残っていたが、それはものの数秒経つ内にじわじわと皮膚が盛り上がり消え失せていった。出血のないこの程度の損傷なら再生速度は速いらしい。
……こういう無駄に速い再生力とか二の次でいいから、まず先に無尽蔵の魔力を搭載しておいて欲しかった。これ多分絶対【本体】の嫌がらせだ。最初から都合良く動かせない為の嫌がらせに違いない。
……さて、一先ず窮地を脱する事が出来たのだ。同じ失態を犯さぬよう、今度は慎重に行動しなければ。
と、主犯のクィレルに備えんと杖を構えながら立ち上がれば、意外な光景が目に入った。
『……っ!?あいつ……何やって』
こちらが無様に藻掻く様を悠々と眺めていた筈のクィレルは、どういう訳か苦しそうに膝を折り屈むような体勢で荒い呼吸を繰り返していたのだ。まだこちらは何の反撃も行っていないというのに、一体何に苦しんでいるのだろうか。
(……、ん?そういえばあの野郎……確か、さっき開心術を仕掛けてきた、ような)
記憶違いで無ければ、自由の奪われたこちらに対し彼が取った選択は開心術だった気がする。しかし、別に心を無理やり暴かれる不快感などは特に無かった。
そういえば、日記帳の中だろうが現実世界であろうが、常時自然と閉心術を展開していたと思う。その習熟を果たせた理由は―――同居人が理不尽に精神に干渉してきやがるこの世界で、五十年もの時を過ごしてきた経験値のお陰である。
……流石にあれ以上絞首の時間が長引けば、苦痛の余り閉心術もある程度は緩んでしまっていたかもしれないが。
とにかく、だ。こちらの閉心術か正しく働いている以上、クィレルの行った開心術は不発に終わっている訳で。何故今現在、彼が拘束を逃れたこちらを追撃する事もなく、無防備に只々蹲っているのだろうか?
(―――いや、なんにせよ、これは好機)
散々苦汁を舐めさせてくれたのだ。この機会に無抵抗の大人を甚振って怒りを発散させてもらうとしよう。勿論、決してただの復讐ではない。多少は痛みを与えて弱らせねば、いつまで経ってもこの男からの逃亡を果たせないからだ。
クィレルが立ち直らない内にと、素早く行動に移った。
まず先程こちらを吊り下げてくれた、魔力の根付く地で育った樫の枝を全長二十センチ程のサイズになるよう呪文で切り落とし、素手で回収。やはりこの場所の樹木は分霊であっても触れる事が出来た。次に、変身術でその枝を鈍色に光るステーキナイフへと変化させる。
……生身の人間を甚振るのに、魔力消費の激しい許されざる呪文―――《磔の呪文》は必須という訳でもない。たった一つ、人体を傷付ける刃物が手元にあるだけで、全ては片が付くのだ。
『―――、』
早足で未だ呻いているクィレルの背後へ回り込む。間髪入れず、無抵抗の背中の中心へ向けてナイフを突き刺した。内臓まで進行しない程度に、加減を調整した刺突。
「ぐがっ、ガアアアアアアアアァ―――ッッッ!?」
『さっきのお返しだ、腐れターバン』
やはり元マグルとしてはこういう物理的な攻撃の方が馴染み深く、やり易い。ただ考え無しに呪文を連発して痛めつけるより魔力の消耗を最低限に留める事も出来て、一石二鳥だ。
突然の激痛で暴れ出そうとするクィレル。彼の傷口をわざと掻き回す様にして、ナイフを引き抜いた。同時に飛び散る鮮血がこちらの頬に幾つか付着してくる。
……ヴォルデモートの宿る肉体の血液だからか、それともユニコーンの物と混じり合った血液だからだろうか。分霊であるこの身を容易く汚してくれたそれらを即座に片手で拭う。経口摂取でもしない限りはユニコーンの呪いにこちらも感染するなんて事はないだろうが、一応対処しておくに越したことはない。呪いとは、具体的にどういう症状を引き起こすのか詳細などまるで知らないが、別に進んで呪われる必要は無い。
『……もう一発』
魔法使いにとって負傷を避けたい筈の杖腕。クィレルが今まで杖を扱ってきた方の肩に向けて、両手で掲げたナイフを背後から突き刺した。再び響き渡る絶叫は、最早咆哮と表現しても差し支えないだろう。
「ぎぁああああああアアアアア―――――――――!!」
……クィレルは捕獲が困難なユニコーンを何匹も手に掛け、杖なしで魔法を行使出来る優秀さを持っている。何の呪術も付与されていないただの刺し傷など、どうせ後で容易く治療してくる筈だろう。今はこの男の殺害が目的ではない。ここらが引き際だ。
ナイフを引き抜きながら彼の背中を蹴飛ばし、身を翻して走り出す。
もしこれほどの傷を負っても尚追い掛けて来るならば、こちらも本気で対応せざるを得ない。そうならない事を祈りつつ、ハリー達が居る方角へ急ごうと数歩駆けた、その時―――
【止まれ】
ピシ……と。
耳元で陶器製の何かがひび割れる様な音が鳴った錯覚がして、同時に両脚が硬直し疾走の体勢に入ろうとしていた全身が、中途半端な形で凍り付いた。片手に握っていたままのナイフが滑り落ち、カランと音を立てる頃には変身術は解けて、元の樫の枝が地面を転がった。刀身だった部分にこびり付いていた血液が落下の衝撃で周囲に飛び散る。
【顔を見せろ】
一瞬。
確かに一瞬だけ、自分自身が何者なのか完全に解らなくなって―――。
―――そういえば、自分はトム・マールヴォロ・リドルであったと思い出して。
それならば、分霊箱の主である【ヴォルデモート卿】の呼び掛けに応じるのは当然だろうと。
己の身体は呼吸をするかの様な自然さで振り返り、その先に立っている男の方へゆっくりと歩み寄っていった。
頭の隅々に軽度な痺れが緩やかに走っていて、正常な思考を組み立てられない。快も不快も感じない形容し難い謎の感覚。それが全身を駆け巡ってふらふらと不安定な歩き方にさせた。
正の走光性を持つ虫の如く。これといった意味も目的も何も無く、ただ其処へ向かう事だけしか頭にない。それが自分の義務であると信じて疑わなかった。
確固たる意志に漲っていた筈の瞳の紅い光が、段々と虚ろになって、弱々しく収束していって……。
もう、何も考えられない。
【―――待った】
頭蓋を切り開く様な鋭利な声が響いて、はたと足を止めた。思考に絡み付いていた濃霧が一瞬で晴れる感覚。背筋を怖気による震えが走り出す。
今し方自身を襲った事象全てが酷く恐ろしく思えて、無意識に表情に出そうになった畏怖をすんでのところで抑え付けた。開きかけた唇を辛うじて引き結んで無表情を保ったが、瞳だけは頼りなさげにふるふると左右に振盪して止まらない。
……自分は今、何をしようとしていた?
【大丈夫かい?】
どういう訳か心底気遣わしげなその声に言葉が見付からないまま、呆然と数メートル先に立つ男へ視線を向ける。足が底無し沼に嵌められたかの様に固まって、それくらいの行動しか取れない。
いつの間にか、クィレルの頭に巻かれていたターバンが取り払われていた。
彼は先程こちらが与えた二箇所の傷口から鮮血を垂れ流しながらも、頭から股下にかけて真っ直ぐ芯でも入れられたかの様に綺麗な姿勢で直立している。その姿の唯一異常な点は、彼が身体の正面ではなく背中をこちらに向けた状態になっていた事だ。
―――彼の晒された剥き出しの禿頭に、もう一つの顔があった。
蝋の様に白く不健康そうな顔。ギラギラと血走って病気の一つでも抱えていそうな眼。常人なら有る筈の鼻は無く、蛇の如く裂けた二つの鼻腔が覗いているだけ。
最早、化け物と勝手に呼称したところで世界中の誰もが否定せず納得してくれる風貌の顔面が、こちらを真っ直ぐに見つめながら、皮の無いその唇が蠢いた。
【久しいな……我が片割れよ】
地獄の底から響いてくる様な悍ましい声。声帯だけが著しく老化でもしているのか、酷く嗄れている印象を受けた。もう一つの顔はただ発声しているだけなのに、不可視の圧力が頭上から伸し掛かってきて、ただこの場に立っているのも苦しく感じる。相手に気付かれぬよう、その圧力を逃がそうとして一つ小さい息を吐いた。
【あれから何年が経った?ああ―――もっと良く顔を見せてくれ】
どこか恍惚とした表情で―――こちらから見れば嫌悪の頂点としか感じられない姿のまま、クィレルの肉体を支配している化け物が接近してくる。所構わず逃げ出したかったが、さっきから全く足が動かない。歪みそうになる表情を意地で抑え、溢れ出る様々な感情に頑丈な精神で蓋をした。
今、一体何が起きているのか。
その答えは、単純明快。
クィリナス・クィレルを操る化け物―――ヴォルデモート卿が、禁じられた森に君臨していた。
【お前は本当に―――あの頃と一つも変わっていないな】
ミシミシ、バキバキ!と。
背中を向けた体勢のままのクィレルの両肩から、物凄い音がした。
思わず息を呑んでそちらに目を向ける。彼の両肩の関節が無理やり捻られ、こちらの方を向くところだった。クィレルの身体の向きから見て、彼の腕が背中側という有り得ない方向に向けられている。
クィレルの顔も胴も足も反対を向いているのに、肩から先の部分だけがこちらに―――彼の後頭部に居座るヴォルデモートから見れば正面の方を、向いたのだ。そのまま、正常な関節の動きを無視して捻れた腕が動く。動かしている犯人はヴォルデモートだろうが、クィレルの手の平がこちらの両頬を優しく挟んだ。殆ど氷の様な感触だった。
『……、…………ッッッ』
全身が跳ね上がりそうになる。しかし現実では何も起こらない。己の身体は棒立ちのまま接触してくる手を受け入れるだけ。
無抵抗を良い事に、頬に当てられた手が上下に動いて撫でる様な動きに変わった。こちらと比較して若干背の高いクィレルの後頭部を見上げた体勢のまま、動けない。
【肉体は不変のままだな。そして―――お前はどういう訳か、完全な肉体を得る前から『進化』の兆しが見られるようだ。―――《服従の呪文》さえ無効化してしまう程に、な】
その言葉に、無い筈の心臓を締め付けられた感覚が襲う。
―――それは、先程こいつの言葉で自由意思が剥奪された様なあの現象は―――呪文などで無理やり操られた訳ではないという事の、証明だった。
……自分の精神や魂が、器である『トム・リドルの日記』の本能に引っ張られた……?
たった今初めて、『本来の自分』の本名を全く思い出せない事実を恐ろしく思った。
もしも。
もしもこの先。
ずっと、本名を忘れ去ったままであったならば……。
その内、今回みたいなきっかけが起これば……。
かつて何者であったかも忘れ、完全に自分をトム・マールヴォロ・リドルだと信じ込んでしまうという事だろうか……?
(そ、そんな馬鹿な事、ある訳―――……)
だって、今まで五十年以上もこの器で過ごしてきたのだ。
その間、こんな感覚一度も無かった。
この感覚は……本体であるヴォルデモートに近付き、影響を受けたせい、とでも言うのか?
解らない。しかし、今の現象は決して考察を後回しにして良い問題では無い。
【成程な……。かつて俺様が書き込んだ際の魔力、それに併せて今の持ち主の魔力を利用して不完全だが実体を形作った、という訳か。面白い事をする】
『…………ぅッ』
まるで嫌がらせの様に動くクィレルの手が、思考を邪魔してくる。こちらの頬を撫でる手は一向に止まる気配が無い。壊れ物を扱う様なゆっくりとした、むず痒さすら覚える動き。
―――気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!
こいつ、本当に何なんだ!?
自己愛の強い人間だというのは前々から解かりきっていたが、実体化している分霊箱に対してこんな行動をする奴なのか!?
本当に、何時まで経とうが理解出来ない。
……どうして。
どうして、魔力を持つ孤児だった一人の人間が、世界全体で見れば他愛の無い存在だった人間が、ここまで零落した化け物に変わってしまったのか?
(……恨むぞ、トム・リドル……!!)
昔、記憶の中で出逢ったマグルの父親の名を心中で叫ぶ。
何もかもあいつのせいだ。あいつが全ての元凶と言って差し支えないじゃないか。
あいつさえいなければ、目の前の化け物はこの世に生まれ落ちる事も無かった。
こんな恨み言、今更何の意味も持ちやしないけれど。
【おまけにどうやら開心術も効かぬときたか。まあ俺様の欠片なのだから当然だな。クィレル程度の力量では心を調べられる筈もないだろうよ】
ヴォルデモートは不完全な実体化で現実に顕現するこちらを愛でる事で忙しいらしい。何かしら危害を加えるような行動を一切してこない。かといってこの現況は全然楽観出来たものでないが。
【しかし、お前があの様なマグルの真似事をするとは驚いたぞ。……俺様はこいつがユニコーンの血を補充したお陰で半覚醒状態であったのだ。そこにお前が傷を負わせてくれた事によって、痛みが俺様にも伝わってきてな。結果的に完全な覚醒を遂げられた】
ぺらぺらと止まらない言葉。余程自分の片割れと会話が出来る現状が喜ばしいようだ。そして、さっきの傷害がマグルみたいだとしっかりと看破されている。まあ、そりゃ此処に居るのはただのマグルだし。
……あの現象について考える余裕は無い。先に目の前の問題を解決するのが先だろう。
ヴォルデモートにされるがまま、両手だけを握り込む。取り敢えず身体の自由は戻って来ているようで良かった。
【どうした?俺様と会話をしたくないようだがやはり『反抗期』でも来ているのか?】
ニヤニヤとヴォルデモートの顔が邪悪な笑みを浮かべる。今すぐその顔面の中心に右ストレートを叩き込みたかったが必死に耐えた。まだだ、まだ慌てる時間じゃない……。
しかしこいつ、今何と言った?
『反抗期』だと?冗談じゃない。こちとらお前の息子でも何でも無いんだぞ。……というか、他人を愛せないこいつに将来子供とか出来るんだろうか……。
『―――……ヴォルデモート』
震えそうになる声を極力抑え、その名を口にした。
【ああ、何だ?……片割れであるお前だけは特別だからな、名前で呼ぶ事を許そう】
寛大だろうとでも言いたげなヴォルデモートは、片手だけをポンとこちらの頭に乗せてきた。今のところ、こいつが取る行動全てがひたすらに不愉快極まりない。
しかし名前で呼ぶのを許す事がまるで特別みたいな言い方をしているが、部下である死喰い人やクィレルには許していないのか?
……ああ、そういえば、どいつもこいつも「あのお方」だの「我が君」だのと抽象的な呼び方をしていたな。自分が知る限り、こいつに従属している人間は誰一人としてヴォルデモートの名前をしかと口にした記憶が無い。ダンブルドアだけが「トム」呼びをして物凄く煽ってた気がする。
……一人だけ正式に名前呼びを許可されたからって、まっっっっっったく嬉しくないけど。
『…………一つ、言っておきたい事がある』
【是非とも聞こうではないか】
どこまでも余裕ぶった態度を崩さないようだが、他人から見れば傷口からドクドクと流血したまま、肩が捻れて360度真逆の方向を向いた両手を広げて言われたところでなんと言うか、全然余裕そうに見えない。乗っ取られてる男が段々可哀想になってきた。あの滅茶苦茶になった関節、魔法使いなら容易に治せるんだろうか。
……思考を切り替え、大きく息を吐いてざわざわと波立つ精神を落ち着かせる。
意を決して口を開いた。
『"僕"は、【お前】じゃない』
場に下りたのは、痛い程の沈黙。
それは、今の自分の正体を告げる決定的な一言だった。
【…………】
ヴォルデモートは、しばし何も言わなかった。
ただ黙って、こちらを真っ直ぐに見つめていた。
どうしてか純粋さすら感じさせる紅い瞳が、一瞬たりとも揺れる事なくひたすらにこちらを射抜いていた。
だから自分も、無言のままその紅を見つめ返した。視界を埋めるのは、人間性を極限まで削り取った、能面の様な蛇顔の男。
不意に、音が鳴った。
再びバキベキという不愉快な、骨を無理やりに変形させる音。見ればあっという間にクィレルの腕は元の方向を―――彼の前頭部の方向に戻っていた。
これまでずっと背を向けていた男が、音を立てずにこちらを振り返る。紅い光のちらついた、まだ人間性を保っている二つの眼球と目が合った。
【―――捕まえろ】
「はい、ご主人様」
顔が見えなくなった亡霊の高い声の後に続いて、今まで会話に入る事の無かったクィレルの唇が動くのが見えた。
全てをクィレルに任せたという事は、あの亡霊はどうやら再び短い眠りに就いたらしい。こちらと会話を続けている内に、ユニコーンの血液による覚醒効果が薄れてきたのだろうか。ただ喋るだけでも霊体にとっては相当なエネルギーを消費するものと見た。
というかこの二人、肉体を共有しているとはいえ息ぴったり過ぎやしないか?仲良しかよ。もうお前達だけで世界征服でも目指せば良いんじゃないかな、こっちの身柄は放っておいて。……無理みたいですね。
さて、こちらの『嘘偽りのない言葉』を、相手はどうやら『敵対宣言』だと受け取ったようだ。
……本当に、どうしようもない男だと、思う。
何よりも大切にしているのだろう己の片割れが、別人とすり替わっている事にさえ気付けない。
だから。
未来でも重用していた部下の一人に、呆気なく裏切られて。
予言の子が、自分の分霊箱となっている事実も知らずに。
あらゆる真実を見落としたまま、終焉を迎えたんだろう。
……『本来の物語』では。
「さあ、大人しくするのだ!」
『うわっ』
肉体の主導権が戻ったクィレルが、素早く再接近して胸倉を掴んできた。気付けば彼の傷はすっかり止血が済まされ、塞がっている。恐ろしく速い治療。自分であっても見逃しちゃうね。
対して、次の行動に移られるより先にこちらも動く。逆に右手で相手の胸倉を掴み返し、左手で片腕を引っ掴んだ。そのまま前世でやってきた要領を思い出しながら、彼の身体を担ぐ様に持ち上げて―――
『ッ、はあああぁッ!!』
「なっ、にィ……ッ!?」
―――ひと思いに肩口からぶん投げた。
やり方さえ知っていれば簡単、マグルの生み出した体術、背負い投げ。
あんな弛んだローブなんか着ている男など、格好の獲物でしかない。マグルの底力舐めるな。
……今まで犠牲になってきた罪の無いマグル達へ。仇は討ったぞ。間接的だが、闇の帝王をマグルの技で翻弄する事が出来た。安らかに眠れ。
そして、かつての体育教師よ。ありがとう。貴方のお陰で魔法使い相手に一本取れました。
『お前は筋が良いな。その腕があれば世界も狙えるぞ!……という訳で柔道部の入部届けにサインをだな』
『すみません、もう別の所に入部しているんで』
『見学ッ!見学だけでも良いから、ねぇッッッ!』
『すみません、もう別の所に入部しているんで』
……飲み込みが早いせいでやたらしつこい勧誘を受ける羽目になったけれども。
学生時代の懐かしい記憶を振り払い、目の前で情けなく宙を舞う男に集中する。
―――逃げるか?追撃するか?
(……正直……色々、限界なんだよな……)
ふとした瞬間、迫り上がる疲労感。
迎撃と逃走を繰り返した果てに蓄積していたそれが、全身を鉛の様に鈍らせる。
アクロマンチュラとの戦い、全力疾走、トロールから受けた打撃、クィレルによる絞首……この森で自身に降り掛かってきたあれやこれのせいだ。
終いには、ヴォルデモートとの再会による絶大な精神的疲労。これらを体験して疲れない人間がいるというのなら、是非教えて欲しいところだ。
だからといって、ここで甘えて実体化を解き、日記帳へ戻れば……自分の精神は絶対に失神に近い状態になってしまうと思う。時間経過による回復を遂げねば、それは解消出来ないだろう。
例えハリーに何度文字を書き込まれようが、彼の体調に支障をきたさない程度の魔力補給では、しばらくは絶対に起きられそうにない。
それでは駄目だ。自分の意識が無い間、まだこの森に取り残されているハリーがスイッチの入ったクィレルに襲撃されて、全てが終わるだけ。
ハグリッドの助けに期待が出来るかというと、正直ノーだ。例え彼が合流したとしても……本気で他人を殺す気になったクィレルを撃退出来るとも思えない。
(体力……体力が、欲しい……。後少しだけ、この男と抗戦を続けるだけの体力……)
肩で息をしながら後退る。気のせいか目の前が霞んできた様に感じた。視界が明滅し出し、いよいよ全身に激しい焦燥感が満ち始める。さっきの背負い投げで余力を使い果たしたというのだろうか。
(ま、ずい……思った以上に、今になって疲労、が―――……ぐっ)
魔力にまだ余裕があっても、体力ともなれば話は別だ。
この場で何らかの呪文を発動させるのは容易いが、肝心のこの身体を動かすスタミナが尽きかけている。何発呪文を撃てようが、奴らから物理的な距離を離す体力が無ければ逃げられないのだ。魔法は使えるのに足が動かない。MPに余裕があるのにHPが少ない。今の自分はそういう状態だった。
そしてこれまた都合が悪い事に、この分霊箱は『損傷』と『疲労』が別物扱いらしい。身体に与えられた『傷』は再生されても、溜まった『疲労』を消し去ってはくれないようだ。
(まさか、この設計もわざとなのか!?万が一反抗された場合は、『疲労』を重ねさせて沈静化させようって魂胆か何かで……!?)
崩れそうになる膝をなんとか堪えるのに必死になっていると、体勢を取り戻したクィレルが地面を滑走する様にこちらへ直進してきた。
正面から向かってくるのであれば好都合。底力を振り絞ってもう一度投げ飛ばしてやろうと構えたが、しかし、
「二度は効かない」
『―――あっ!?』
クィレルのローブの胸元を掴もうとした手が空を切った。
「君のそれは、東洋のマグルの体術だな」
肉薄と同時に身を僅かに捩ってこちらの手を避けた彼は、直進する勢いを殺さぬまま額の辺りに右手を伸ばしてきた。接触を防ごうと咄嗟に杖を突き付けたが、呪文を唱えるよりも早く、その先端をがしりと骨ばった手に掴まれる。
「残念だが、私は昔『マグル学』の教授を務めていてね……。
『……!』
―――どうして自分の人生はこうも上手くいかないのか?
敵対している相手が、よりにもよってマグルに詳しい人間だなんて、いくらなんでも運命に見放され過ぎではなかろうか!?
「……何故、マグルの技に詳しいのだね」
『お前、主人の事を何も知らないんだな?マグル育ちだったんだよ!クソッ!』
杖を掴んだままクィレルが問うてきたので、疲労も忘れてヤケクソになって叫んだ。
……嘘は言ってない。トム・リドルという孤児も、『本来の自分』も、マグルの中で育ってきた事実は確かなものだ。
何はともあれ、このまま杖先を掴まれたまま呪文を発動しようものなら、暴発してこちらも被害を受けかねない。
すぐに空いていた左手を合わせ、両手で杖を抜こうとして―――出来なかった。相手が杖先を力強く握り込んで、それを阻止していたのだ。
「これで……逃げられはしない……」
『……、何を……』
「《服従の呪文》は幻惑により対象を操る……だが、その効き目には個人差がある……。時には耐性を獲得してしまう者まで出てくる始末。そういった者すら強制的に操る、ご主人様がご教授して下さった奥の手だ……。相手に直接接触した後、魔力を注ぎ込む」
瞬時に杖を手放して後方へ跳ぼうとしたが、ガクリとした衝撃が全身を襲った。足元へ目を向けると、どういう訳か地面の草がひとりでに伸びて足首にびっしりと絡みついている。浮き掛けた足が完全に地に堕ちた。反射的に相手を睨み付けると、勝ち誇った様な薄笑いで返された。
「諦めたまえ、この距離では避けられない。体内に魔力を注ぎ込むからね、無駄な希望は持たない事だ。この場合は通常の洗脳状態とは違う……例え抵抗力のついたその身でも、完全に防げはしまい……」
それが真実ならば、確かに奥の手と表現して間違いはないと思える。そしてその力は、自分が何かしらの行動を起こそうとした瞬間、発動されるに違いない。
杖を動かそうにも、掴まれている。移動しようにも、足を縫い留められていて動けない。残る手段は暴発覚悟で呪文を唱えるか、杖に頼らず純粋な魔力のみでクィレルや邪魔な草を蹴散らす事だが、相手がそれより先に全てを成し遂げるだろう。
―――絶体絶命、だ。
「実に……実に、長かった。さあ、主人の片割れよ―――今夜の鬼ごっこは、これで終わりだ」
『……………………』
クィレルがどことなく感慨深そうな、この状況で不釣合いとも言える穏やかな表情を浮かべて。
自由な彼の左の手が、こちらの額に向けて軽やかに伸ばされた。
接触が力の発動のキーとなるせいで、その手を振り払う事も出来ずに。
目の前に広がる現実全てを、まるで他人事のように感じながら。
近付いて来る青白い手の平を、ただひたすらに眺めていた。
―――同時刻。
遠い遠い何処かで。
『―――さあ、君はこれをどう切り抜ける?』
くすくすという控えめな笑い声が、白い世界に響き渡った。
8/20追記
二次小説の執筆材料として必須な原作1巻を紛失するという馬鹿を現実でやらかしてしまったのでしばらく更新が滞ります事をお許し下さいほんとゴメン僕はうんち
10/1追記
年内に最低でも1話は必ず更新したいと思っています。
もし出来ずに更新詐欺犯したらアズカバンに収監してもらっても構わないよ
12/31追記
俺は!!!!弱いっ!!!!(無事アズカバン収監)
年末ギリギリまで音沙汰ないので嫌な予感がした方もいらっしゃるでしょうが、進捗ダメでした。
すみません、冬が終わるまでにはなんとか書き上げたいのですが……ゆ、許して。
ところで、何でトム•リドルの誕生日って今日なんですかね???
進捗ダメだった俺に祝う資格なんて無いやん???
5/5追記
Switch2の抽選販売結果発表で当選してたらハーメルン毎秒更新します。
落選したら次話でもっとトム虐します。