一年経っても文章力が上達してない自分に驚いたんだよね
ハリー達がアクロマンチュラの襲撃を受ける少し前。
三人はなるべく互いの距離を付かず離れずにして、周囲を警戒しながら森を探索していた。
努力や根性では抑えようがない恐怖を紛らわせる為か、ドラコは隣を歩くハリーと他愛のない会話を続けていた。少しでも話が途切れてしまうとどうにかなってしまいそうだからだ。
少し離れた所、トムは並んで歩く二人の斜め後方に陣取って、最小限の首の動きで森の様子に気を配っている。この中で一番の年長者で、二人に比べれば自在に魔法を操れるくせに、あろうことかこの男は結局、自分よりも遥かに未熟な一年生を先に歩かせていたのである。
しかし、スリザリンに相応しい狡猾で高貴な純血の一族として、幼き頃より厳しい貴族社会について教えられてきたドラコにだけは、彼の真意が理解出来る。生物として人間として、己の背後を取られるという事は時に「死」を意味するのだと。
不意を突かれる、寝首を掻かれる、そして裏切りや奇襲……そういった類の「事変」は、当人の背後から始まりやすい。あの青年は敢えて二人を前に配置して、「死」が運ばれてくる事の多い背後を護ってくれているのだ。ハリーは先頭を歩かされてポツポツと文句を垂れていたが、ドラコは率先して自分達の後方に陣取ってくれている青年に、内心で深い感謝の念を抱いていた。
「ハリーはその、リドルさんとはどのくらい一緒に居るんだ?」
「え、まあ、そうだね。ホグワーツに入学する前から……だったりするかな」
「リドルさんは、僕に自分の事を詮索するなって言ってたけど……。なんていうか、君が持ってる日記帳……僕の家で似たような外見の本があった気が……するんだよな」
「……まあ、僕の所にやってくるまで色々あったみたいだし……」
ハリーはそれとなく顔を逸らした。
彼はダーズリー家に到着するまで、かなり苦労していたらしいというのは本人から聞いた事はある。しかし、その時の経験を語る彼の眼は、それはもうバキバキに据わっており、普通に不気味だったのであまり思い出したくはない。
例えば『五億年ボタンって知ってる?』と死人のように青白く虚ろな笑みを浮かべて尋ねてきたり、『眠る事が出来ずに意識が続く苦しみは分かるか?』と首を真横に傾けたまま目を逸らさずハリーの瞳を覗き込んで理解を求めてきたり、『暇過ぎてひまわりになってた』と笑っていい場面なのか分からずハリーが困り果てるだけだったり。
終いには、『NP完全問題を多項式時間で解けたら……いや、でもそんなアルゴリズム、存在するのか?』、と、ハリーのちっぽけな脳味噌ではおおよそ理解出来もしない独り言をブツブツ呟いて自分だけの世界に入っていく様子は、長く見ていたいものでもない。全てを語らせるとハリーの精神がもちそうにもなかったので、程々にして話を切り上げてもらったのだ。
恐らく、ダーズリー家に来るまで日記帳の中での生活が長過ぎて、あの時は情緒が不安定になっていたのだろう。
今でもたまに、『すべての非自明な零点の実部が1/2だなんて、美しい主張だ……』とか意味不明な事を口走って、何故か決まって北西の夜空を眺めながら、不気味な忍び笑いをし始めるのだ。
とても可哀想な話だが、彼が分霊箱として強いられた不自由な生活はハリーの想像以上に、彼の心に浅くない傷を刻んでいるようである。
「トムはトムでやらなきゃいけない何かがあるんだよ。僕も全部を教えてもらったコトはないけど、多分……僕の力じゃ、足手纏いだったりするのかなぁ」
「リドルさんと君は、お互いにとても必要なのだと思うけど。ずっと二人で一緒に居れば、大抵の事は大丈夫なんじゃないのか?」
「ドラコのバカ。ずっとだなんて、何でそこまでトムと一緒に居なきゃなんないのさ。トムはね、十代であそこまで捻くれてるんだよ。年取ったら、最高級の意地悪ジイさんになるの見え見えじゃん。歩行杖で誰かを殴ってルンルン喜んだり、ナメクジに砂糖を振りかけてキャッキャ楽しんだり、人が飼ってるペットの顔に落書きしてゲラゲラ笑ったりするジイさんになるんだから、冗談じゃないよ」
『好き勝手言ってくれるじゃないか、ハリー?』
「げげげっ、トム!?」
いつの間にかすぐ背後に距離を詰めていたトムがハリーの耳元で囁いてきて、危うく盛大にこけるところだった。そういえばこの男、物音と気配を完全に消してこういう事をしてくる奴だった。すっかり忘れていた。
彼は両腕を組みつつ、ドラコがいるからか顔全体に紳士的な笑みをこれでもかと浮かべている。四方八方からカブトムシとミツバチが突撃してきそうな、やけに甘ったるい声で宣言した。
『ハリー、君がそこまで言うのなら、一生傍にいてあげる。杖で殴ってもあげる。ホグワーツの監督生の一員として、生き残ったアホな男の子を末永く見守っていくさ』
「ひぇっ!そんなの、ヴォルデモートに狙われるよりホラーな人生になるじゃん。勘弁してよ」
『何言ってるんだ、このアホたれが』
にっこりとした不気味な笑みを浮かべたまま、トムが振り上げた拳を回避せんと走り出すハリー。その後ろ姿を視線だけで追い掛けながらドラコは、刹那に抱いた違和感にふるりと身を震わせた。
……今、ハリーの口から飛び出してきた単語。
名前を言ってはいけないあの人。
死喰い人の経歴を持つ父の書斎で見かけた記憶がある、黒い革表紙の本。
その本に似た外見の日記帳と関わりを持つらしい、ゴーストのような青年。
ユニコーンを立て続けに殺害する為、禁じられた森に侵入している謎の犯人。
それらが妙に繋ぎ合わさっている気がするのは……果たして、自分の勘違いなのだろうか?
たった今己の目の前で、生き残った男の子と戯れている彼と、例のあの人。両者は似ても似つかない容姿と言動をしているけれども。
ドラコはしばらくの間、未だ正体が判然としないスリザリン生の姿をした何者かから、視線を外す事が出来なかった。
何故ならば。
『名前を言ってはいけないあの人』も。
此処にいる青年と同じ、スリザリンの魔法使いだったのだから。
……ああ、どうか、全部ただの偶然でありますように。
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突然だが、あなたは誰かに触られそうになった事はあるだろうか?
いや、今のは言葉が足らなかったかもしれない。厳密には、『陰気臭い森の中で追い掛けてきた不審な二十代男性教師』に、である。
怪我の手当てでもない、体に付着した汚れを取ってくれる訳でもない、そんな不審極まりないお触りを受けた経験はあるだろうか?
否、あってはならない。そんな事案はあってはならない。
昔、通りすがりの赤の他人でしかないクソバ、いや腰の曲がった老婆に、「とっても綺麗なお顔だねぇ」、なんて粘っこい猫撫で声と共に頬を触られそうになった記憶がある。が、
だって今目の前にいるのは、何の力も持たないマグルの老婆ではない。しっかりとした力を持った、若い魔法使いであるからだ。
こちらへ手を伸ばしたクィレルは、今や殴り殺したくなる程の憎たらしい笑みを湛えていた。
少しでも長く距離を離そうと、上体を後方へ傾けようとする獲物の様子を眺めて、内心で嘲笑っているのだ。気持ち悪いぐらいきゅっと上がった口角が、わざわざ心を読み取るまでもなくそれを証明してくれている。
クィレルの血色の失せた不健康な痩せ気味の手は、せめてもの抵抗でこちらが生み出した透明な盾に阻まれ、動き自体は停止している。だが、それも永遠には続かない。虚空に出現した盾に爪を立てるようにして、彼の五指がギリギリと曲がっていく。亀裂を示す白い光が盾全体に広がりあっという間に埋め尽くした。
手の平に魔力を込めて、触れた魔法の盾に損傷を与え破壊する。相変わらず何の呪文も唱えず平然とやってのけるその芸当に、最早苛立ちしか感じられなかった。
今や足首に絡み付く草は、這いずる蛇のように曲がりくねった伸長を繰り返し、太腿まで迫っている。この草をどうにか切り飛ばしたいのは山々なのだが、そうするとクィレルの手を阻んでいる盾の維持は不可能になる。……二つの魔法を同時に発動させるという高等技術は、まだ身に付いていない。
結局、自分は脚部の拘束から逃れられないまま、至近距離でクィレルに接触を強いられそうになっている状態から脱する事は叶わなかった。一方的に追い詰められている現状が受け入れ難く、掠れた声で悪態をついた。
『……ふッ、くそ……』
「往生際の悪い子だ。しかし随分と顔色が悪い……大丈夫かね?」
『ぅ……っ、ん……ッ!』
「おや、わざわざ心配してあげているというのに、返事をする余裕もないのか」
脂汗が滲む、というのはこういう感覚だろうか。この体が発汗する事は絶対にないのだが、今だけは全身の毛穴が開いているんじゃないかと思う。魔法の維持に注力し過ぎて、そんな感覚が続いている。ほんの少しでも集中を切らせば、唯一自分を護ってくれるこの盾は崩壊してしまう故、一瞬たりとも気を抜く事は許されない。
【いや、あんまり毛穴とかそういう生々しい表現は控えてくれるかな……】
こいつ本当に黙ってろよ。緊迫した状況でいきなり喋ったと思ったらこんなアホくさい内容ばっかりだからな。生々しい表現をしたとしてこいつに何の不利益が発生するんだよ。もっと実りのある会話は出来ないのか、このポンコツは。
クィレルの空いた手に掴まれたままの杖を握っている両手に、くっきりと青筋が浮かび上がる勢いで自然と力が篭る。その握力の増量に気付いた彼は、どこか小馬鹿にする様子でわざとらしく首を傾げつつ問うてきた。
「何をそんなに必死になる必要が?君は『在るべき場所』へ戻るというだけの筈だろう」
勝手に言いたい放題言ってくれるものだ。こちらの事情も真実も知らないのだからしょうがない事ではあるが、やはり腹立たしい。そう考えている間にも、盾の亀裂は止まることを知らない。猶予など大して残されていないだろう。
クィレルは尚もこちらを見下しつつ、しかしどこかヤケを起こしたように虚ろな瞳を伏せて、ふっと小さく笑いながら言った。それは、自分より恵まれた地位に立つ人間に対する妬みが滲む表情だった。
「それに、大人しく戻れば君には最高の栄誉が与えられる。闇の帝王の傍らで使命を遂行するという栄誉がね」
『えっ、要らないです』
咄嗟にいつもの調子に戻って答えてしまったこちらの声を聞いて、クィレルが芸人のように分かり易く眉を顰めた。一瞬とはいえ、完全な素を出した光景が余程不審に映ったのだろう。
というか、今のどこが最高の栄誉なんだ?
どうせ貰えるなら、バレンタインに押し寄せる赤の他人のチョコレートの方が余程マシである。好きな部類の菓子であったし、大抵は異物混入の見られない既製品だったし、問題無いと判断した物は普通にもぐもぐ食べていた。
たった一人だけ、自分用に買ったチョコレートケーキを間違えてホールで頼んでしまい、しかも消費期限ギリギリで困っていたところを処分してもらう為に、というふざけた理由で半分をこちらに譲渡してきた腐れ縁の女子がいたが。それでも、あの時貰った消費期限があと僅かばかりだったケーキの方が、下らない栄誉に比べて3ミリぐらいはマシである。本当に僅かだったので、相手の顔面にケーキを投げ返してやろうかと真剣に悩むレベルではあったけれども。
それに、何か貰えるなら金銭しか勝たないだろう。いっそのこと金を持ってきて欲しい、現金で三千兆円ぐらい。そうしたら、馬鹿げた
【いや、どっちみち協力しないのかい】
(相手が善良で無害な場合に限る)
不審にこちらの表情を眺めるクィレルの侵攻が、ほんの少し緩んだ隙を突いて内なる声と会話に興じる。勿論、現実の体は追い詰められた獲物の表情を貼り付けるのを忘れずに。
【善良で無害な人間なんて存在する訳がない。全ての人間には本能として加害性が備わっているものだ】
(こんな奴らより僕の方がよっぽど善良で無害だろうが)
【えっ】
(あ?)
演技ではない驚愕に染まった声が響いて、心底不愉快だったので思わず喧嘩腰で尋ね返した。
【ごめん、君にとっての『善良』と『無害』という単語に対する認識が、世間一般と比べてあまりにも乖離している気がして】
(何言ってるか分からないなお前。二回くらい死んだ方がいいんじゃない)
パキパキ、と盾の破壊を示す音が迫り来る。
亀裂が入るそばから修復を促す魔力を充填し続けてはいるものの、相手の技量の方が一枚上手らしい。ただ、クィレルの侵攻と拮抗出来るレベルで魔力を消耗するのは賢明ではないと判断したからこそ、修復に注いでいる魔力を控えめにしているだけである。盾が破壊されるばかりなのは、決してこちらが未熟だから、ではない。……そうだ、これは別に虚勢を張っている訳じゃない。
「ほうら、これが君の限界だ」
バキッ!と一際大きな破砕音が響いた。
とうとう盾に穴を穿って、クィレルの爪先だけが突破に成功した。激しく損壊が進んだ盾は全体が点滅し始めて、消滅まであと一歩であるという事実を主張している。その光景をまざまざと見せ付けられて、殆ど無意識にくっ、と小さく息が詰まった。背中から地面に倒れそうな勢いで後退しようと足を動かす。だが草の拘束力は思った以上に手強く、一マイクロメートルすら立ち位置が変わる事はなかった。
『……、はぁ』
けれど、不思議と己に焦りは無かった。常人よりも聡いこの耳が、こちらへ駆け付けて来る足音をしっかりと捉えていたからだ。
一つ短い息を吐き、極めて冷静を保ち続ける事を意識する。クィレルはその吐息を、こちらが観念したからこそ出たものと解釈したようだ。ここぞとばかりに歪んだ笑みを深める男を、冷え切った目で睨み付けて、低い声で述べる。
『残念だったな。……お前の企みは成就しない』
「戯言を。傀儡と化した君を、ご主人様に献上する……全てが計画通りだ……」
『そんな未来はやって来ない。此処が何処であるかはお前も解っているだろう?そしてこの場所は、昔からある事象が言い伝えられている。一体何だと思う?』
「……この術に欠点は無い。時間稼ぎなど無意味だ!」
『―――「ホグワーツでは助けを求める者には、必ずそれが与えられる」』
その言葉を耳にした途端。
一瞬にしてカッと顔を真っ赤にさせたクィレルが、一度盾から指を引っこ抜いたかと思うと、今度は拳を握り締めて全力で振り下ろしてきた。それこそが、ギリギリのところで形成を保っていた盾への決定的な一撃となり―――彼の拳が触れると同時に、粉々に砕け散っていった。淡く光る白い魔力の欠片がいくつも飛んできて、こちらの頬を撫でては霞のような気体状になり、跡形もなく消滅していく。
何も知らない者が目撃すれば、単に綺麗としか思わないその光景を、無表情のままじっと眺めていた。自分が盾の形成に使っていた魔力は、こんな色の美しい光に変化したんだなと、悠長に。
光の破片が吹き荒ぶ向こう側。
クィレルの表情は、只々憤怒に満ちていた。
……「自分には、その助けは与えられなかった」と。
彼の心は怒気と悲痛を孕んだ叫び声に満ちていて、開心術を発動せずとも網膜を通り抜けてきて、こちらの脳内に激しく木霊する。その強烈な感触に、半分程両の瞼を閉じて耐えた。
再び不躾に心を読まれたという事実に気付いたのか、彼はぱっと大きく目を見開いた。それから数秒の後、足跡がくっきり残る程強く踏み込んで、今度こそ無防備になったこちらの額へ向けて手を伸ばしてきた。
―――同じタイミングで、特徴的な蹄の音が響いてきた。演技無しでニヤリと笑う。予想していた足音の主と、近付いて来る足音の主が同様のものだったからだ。
意を決して、距離の縮んだクィレルの胸元へとこちらも片手を伸ばす。そこにあったネクタイを引っ掴んで、ひと思いに引き寄せた。
「ッ!?」
まさか獲物自ら接触してくるとは思ってもいなかったのだろう。クィレルは呆気なくバランスを崩した。こちらの額を鷲掴みにしようとしていた彼の手は、こちらの肩の真横あたり―――何もない空を切るだけで終わった。その隙に素早くネクタイを手離し、布越しに彼の胸板へと、自分の手の平を一瞬だけ当てては離した。
しかし、彼も間抜けではない。すぐに崩した体勢を整えて、再び青白い手が視界に迫りくる。
だが―――
「うぐぁッ!?」
真横から巨体による猛烈な突進を貰い、獲物を捕らえる前にクィレルの細い体が宙を舞った。それを見て、胴体にまで伸びようとしていた草を杖のひと振りで残らず切り裂き、すぐに数歩下がって距離を取る。
『―――ほら、本当に現実になった。どうやら僕はまだ―――ホグワーツに見限られてはいないらしい』
状況が好転した余韻に浸っている間、ゆっくりとした足音が近付いて来る。やがてこちらの目の前で停止し、顔だけを向けてくる足音の主―――ケンタウルスのフィレンツェが、真顔の中に若干の焦燥を滲ませながら口を開いた。
「間に合いましたね……。本当に、貴方という存在は星を曇らせる……」
『本来の物語』では、あの状況―――クィレルに迫られている時に、突如として駆け付けたケンタウルスに助けられる人間は、ハリーだった。
それを憶えていたからこそ、聞き覚えのある蹄の音が接近してきた瞬間。直感で、足音の主は記憶の通り、目の前のターバン教師に突っ込んでくるに違いない、と確信したのだ。
敵意こそ感じないものの、この半獣には前に苦汁を呑まされた経験がある。複雑な心情を隠さず、心底不本意だが短い謝礼を述べる事にした。ちらりとクィレルが吹っ飛んでいった方向へ目を走らせ、すぐには戻って来る気配が無さそうなのを確認しながら、ぽつりと漏らす。
『……助太刀、どうも』
「礼は不要。今のは私の独断ですから。それにしても、やはり貴方の存在は色々な『厄』を引き寄せるようですね。星が示した通り……随分危ないところでした」
『……何だ?引き寄せる?つまり、迷惑だからホグワーツに来ないで引き籠ってろって言いたいのか?』
「いいえ。貴方の運命は……どちらの選択を取っても危難が見えますのでね。恐らくホグワーツより離れた地に身を潜めても、いずれは別の『厄』に」
『何だよそれ。どうしようが僕の未来はお先真っ暗だって、そう言ってるのか?』
一瞬だけ脳裏に浮かぶ、同居人が零した言葉。……世界の何処に居ようが、ヴォルデモートはこちらの居場所を掴む事が出来るという、忌々しい情報。少しだけ表情を曇らせたこちらの様子など知ったことか、と言わんばかりにフィレンツェは語る。
「貴方の未来が光であるか闇となるのか。それは運命が決めるのではなく、貴方自身が決めるものなのです」
『出たよ、また曖昧な回答。それなら、何でお前はたった今僕を助けたりなんかしたんだ?』
ケンタウルスという種族は確か、占星によって様々な事象―――これから先起こり得る、様々な出来事でさえ見通す生物だ。だからといってそれを親切に人間に教えたり、ましてや救いの手を差し伸べる事なんて決してしない。そもそも彼らは、マグルも魔法使いも端から信じてはいないのだ。閉鎖的な種族、それが彼らケンタウルス。……と、日記帳の中の知識にあった。
「……私はこの森を守りたい。その為の行動を成し遂げた。ただ、それだけの事」
フィレンツェは物憂げな青い瞳を夜空へ向けた。透き通ったサファイアの海面を思わせる角膜に、点々とした光が降り注ぐ。
「貴方を助ける為ではなく、この森を守る為です」
『あぁ、自分達さえよければ良いっていう理論は嫌いじゃないよ。別に訂正しなくて良いさ、お前なんかに助けてくれなんて頼んでないからな。どうしようもない時の奥の手なら、こっちにもあった事だし』
それが真実か、それとも虚勢か。どちらか判別はできない様子だったがフィレンツェは、こちらが安堵したように大きく肩の力を抜くところをしかと見ていた。
言葉の上では平然としていても、やはり少なからず動揺していたのを悟られた。ちょっとやそっとでは被害を受けない自分の身を脅かす手段を、敵が持っていた。その事実を知って尚、平静を保てる人間はそうそういない。
「では、
『もう一つ、だって?』
唐突にフィレンツェが話し始めた。何だかこの時点で酷く嫌な予感がする。ケンタウルスがまず絶対にしない、人間への情報の譲渡。それを今ここでされる事の異常さ。それがひしひしと感じ取れるからだ。
「……やはり貴方でも知らないようですね。貴方には知る権利があると思いますし……ここで伝えておきましょう。本来の惑星の流れでは、告げられる事の無かった予言を」
『何なんだ?一体』
聞いた方が良いのか聞かない方が良いのか全く判断がつかず、その場で突っ立っている事しかできない。そんなこちらを無視して、フィレンツェがまるで呪文でも唱えるように予言の内容、その一部を読み上げる。
「―――『闇の帝王を打ち破る運命を背負いし子の元へ、死を越えし契約者が現れる。その者の携える闇の全てが奪われし時、帝王を越える怪物が羽化を遂げる。その時こそが帝王の終焉となり、新たな帝王の誕生となるであろう』」
……ちょっと待て。それは色々とぶっ込み過ぎだ。
文脈から推測して、『闇の帝王を打ち破る運命を背負いし子』は、ハリー。
そして『死を越えし契約者』は、恐らく自分の存在を指している。
『携える闇』についてはあまり見当がつかないが……『新たな帝王』とは一体?
『は―――はあ?何だそれ……一体、いつ誰が言い出したんだ?ていうか待て待て、新たな帝王が生まれる?』
情報の出処も不明だしまず信用していいのか疑うべきなのだろうが、この半獣が出鱈目を言う為にわざわざ姿を見せるとも思えない。ケンタウルスが人間を騙すなどという話は、日記帳の知識や架空の物語含め、聞いた事が無い。
『な、何なんだ……新たな帝王?もしかして―――【あいつ】の手下の中に、下克上を目論んでいる奴が潜んでる?』
思い当たる可能性と言えば、それだ。寝耳に水な話であるが、有り得そうな話でもある。
(……まあ、【あいつ】が姿を晦ませた時、手下の一部は主人を見捨てて逃げたもんな。ルシウス・マルフォイのように、操られてたとか何とか言って。つまり、死喰い人は元々忠誠心が揺らぎやすい、ロクデナシ集団だった。だったら誰か一人くらいは、『新たな帝王』の座を狙っていても何らおかしくはない―――のか)
ヴォルデモート全盛期は、手下の誰もが彼の実力を疑わなかっただろう。しかし、ハリーのせいで彼は肉体と力を失う羽目になり、その実力は疑わしいものとなってしまった。彼はもう終わりだと、そう思い込んだ手下の一部は魔法省に寝返ったのだ。その程度の忠誠心しか無かったとも言えるが、裏切った動機はハリーに返り討ちされたのが大部分を占めているだろう。
『うん、まあ……お前達が、何で僕の事を契約者だの呼んでくるのかは解ったけども。―――その予言は、確かなものなのか?まさか、僕を騙そうとしてるんじゃないだろうな』
運命を背負いし子、というのは間違いなくハリーの事だ。それならば、彼の元へ現れる契約者というのは自分の事だろう。前に会った時、無礼なケンタウルスが『死を越えし契約者』と呼んできた事は、記憶に新しい。
だが、やはり契約者などという話には覚えが無い。自分が他人と何かしらの契約を結ぶなんて有り得ない。そんな胡散臭い上に堅苦しい話に乗っかる人間ではないのだ。
「星々は嘘を語る事などありませんから。ケンタウルスが惑星の流れを読み間違えた事はありますが」
『いやそれ駄目じゃん。読み間違えてたら嘘の情報と同じだろうが。まあ、今のが嘘偽りの無い真実だとして。一体誰が、そんな傍迷惑な下克上を企んでるんだ……?』
非常に残念な事に、自分には死喰い人一人一人の情報を全く知らない。流石に極一部の名前や人相は何となく覚えているが、全員分の情報は所持していない。多分、ヴォルデモート本人でさえ知らないのではないだろうか。全盛期に従えていた数が多すぎるのだ。奴も奴で、取るに足らない下っ端の名前など律義に覚えていないだろうし……。いや、実は案外、全員把握していたりして。
『その予言は―――名指ししてないのか?誰が帝王の座を狙ってるのか……』
「してません」
『即答かよ』
「しかし貴方なら、その者の正体に辿り着けるのでは?」
『え?突然の他人任せ?』
正体の看破を押し付けられた。死喰い人について大した情報を持ってないのに、理不尽である。
『使えない駄馬め。これだから「予言」なんて曖昧な情報は大嫌いなんだ。ま……貰える情報は貰っておくけど。言っておくが、まだ完全に信じた訳じゃないからな』
「それが賢明です。特に貴方の場合は、全てを疑うという事を忘れない方がよろしい」
『また上から目線か、お前達って本当に何様なんだよ』
【彼らはそういう種族なのさ。いちいち目くじらを立てていたらキリがないよ】
突然脳内に聴きたくもない声が割り込んできた。瞬間的な苛立ちが溢れそうになるが、ここで冷静さを欠く訳にはいかない。そう、冷静、ステイクールだ。落ち着け自分。そうだ、やれば出来る子、頑張れ自分。
【死喰い人が怪しいと睨んでいるんだろう?なら推測は容易さ。君自身が知らなくても、その身に刻まれた『記憶』を探れば良い】
確かにこいつの言う通りではある。分霊箱その物に仕込まれている『記憶』の中から、死喰い人に関する情報を覗き見すれば良いだけの話なのだ。なのだが―――
【……出来れば『記憶』に触れずに情報を得たいんだろう?ならこちらが直接教えてあげるよ。それなら君は余計な情報に一切触れずに、知りたい部分だけを知り得る事が出来る】
(わざわざそんな申し出をする辺り、お前もこの予言は寝耳に水だったんだな)
【……ああそうさ。こちらにとっても嬉しくはない情報だ。そしてそこの半獣が言った通り、君なら予言に語られる何者かの真実に辿り着けるかもしれないだろう?】
(随分と買い被ってくるな。僕に考えさせなくても、お前なら予想がつくんじゃないのか?)
【……死喰い人は、多過ぎるんだ。誰か一人に絞れと言われても、難しいよ】
ここまで協力的なところを見る限り、『新たな帝王』の座を狙う誰かが存在するという可能性は、こいつにとっても不都合なのだろう。出来れば早いうちに排除したい、だから情報提供に努める、という魂胆だろうか?
……しかし、何だろう。
どうも腑に落ちないような感覚が、全身を駆け巡っている。
何か……
『……っと、クィレルの奴は…………』
会話中にも彼が吹っ飛んだ方向をしばし眺めていたが、反撃してくる様子は無くむしろ地を這いずる音が遠ざかっていく。どうやらここまで来ておいて一時撤退、といったところか。
あと少し、というところまで獲物を追い詰めたのに、こんな失態を晒したのだ。絶対ヴォルデモートにこってり絞られるだろう。いやはや、想像するだけで実に愉快である。他人の不幸は蜜の味。
『あいつは……逃げたみたいだな』
あんな突進をノーガードで受けたのだ。反撃に転じるような体力は残っていないのだろう。交通事故並みに凄惨な衝突だった。相手の体がどうしてバラバラにならずに五体満足だったのか、実に不思議である。だが確実に骨の一つは折れているだろう……。
……交通、事故……。
ふと、重要な何かを思い出した気がする。この感覚、クィレルの操るトロールに殴り飛ばされた時も起こっていたような。
……しかし大した記憶ではない筈だ。確かに昔、車に轢かれた経験はあるけれど。
『まあ何にせよ、危難は去った訳だ。一件落着、と』
助けて貰ったとはいえ、前回で散々癪に障る話をされた人間としては、これ以上ケンタウルスと一緒に居る理由は無い。じゃあ解散、という雰囲気を放ちながら帰路に着こうと離れていくこちらの背中へ、フィレンツェの窘める様な声が突き刺さる。
「……貴方の危難はまだ去っていませんよ」
『は?何を言ってるんだ?たった今あいつは逃げ出しただろうが?』
「あの者が齎す危難ではなく、別の危難です」
別の危難。果たしてこれ以上の『厄』はあっただろうか。確かにこの森は危険極まりない地帯ではあるが、それ故にしっかりと森番という管理人を置いている。森番は『森に棲む会話の通じる生物』に生徒を襲わないよう言い聞かせている筈だし、実際にケンタウルスは森番の言葉に従い生徒を傷付けないし……。
―――森番?
『あっ、ちょっと待って、今思い出し――――――ぁぁああアア!!』
危難の正体に辿り着き慌ててフィレンツェの近くへ戻ろうとした時。
クィレルとの攻防による疲労で、何もかもが鈍っていた体では、
「……ああ、だから忠告したというのに。彼の危難は常に纏わりついて離れないようだ」
呆れた表情のまま、徐々に小さくなっていく甲高い叫び声をBGMとしてフィレンツェは踵を返す。自分のやる事は無事終わった。森を守る為の行動はこれにて終了したのだ。これ以上あの異邦人に助力する必要は無くなった。これから先は、彼が己の力で道を切り開くしかない。
「怒り……無数の怒りが視える。かつての『罪』を背負わされた者の怒りが。数十年の時を経て、その報いを突き立てようと憤る正当な怒りが」
再び星空を見上げて、聴く者は誰一人としていないのにケンタウルスは語る。誰が聴いていようがいまいが、そんな些事は彼にとってどうでもいいのだろう。
「彼はその怒りの中で、果たして生還出来るだろうか」
星が示す答えは曇りとして返ってきた。突如として空を覆い尽くしてきた黒い雲が、フィレンツェの瞳を濁らせる。
「……成程。雲……か」
―――何かに吊られている。その感触だけがはっきりと自身へ伝わって来る。
この体に直接どうこう出来るのは、ハリーという少年と先程襲来してきたクィレル、そして魔法生物のみ。である筈なのに、何故か自身は逆さまに宙づり状態のままどこかへ運ばれている。つまり、犯人は消去法で魔法生物一択であるという事だ。
―――これが生身だったら、間違いなく内臓の中身をここで散乱させている。それ程までに強烈な酔いが只今己を苛んでいた。かなりの速度で運ばれながら、逆さま宙づりなんて目に遭わされているのだ。加えて、昔から酔いというものにはめっぽう弱い人間であった。この状況で、己を運送している何かの正体を確かめる余力は皆無、であった。
学生時代の修学旅行先のテーマパークで、同じ班になった腐れ縁の年上女子に無理やり同乗させられたジェットコースターなんかは、筆舌に尽くし難い有様だった。その年上女子を五回ぐらい殺してやろうかと当時本気で考えたまである。実際はまともに歩ける状態になく、その様子すら指差して嗤ってきたそいつに怒りをぶつける余裕なんてまるで無かったが。
……田舎の、舗装の完全でない道路。
無理やり車内に押し込められ、白くて大きな施設にかなりの頻度で連れて行かれた。
凸凹だらけの最低な悪路を、何時間も、何回も往復させられて。
恐怖と緊張と振動が、幼少期の絶望を彩っていた。
忌まわしい記憶が、再び強制的に呼び起こされる。呼び起こされて、己の自由を奪い取る。
完全に無抵抗のまま運ばれていると、しばらくしてようやく移動が止まった。何かを巻き付けるような音がしたかと思うと、続いてガサガサという不快感を煽る物音が周囲で生じる。
正気に戻って瞬きを繰り返しながら頭上を見上げると、そこには木の葉に覆われた地面があった。逆さまになっているのだから当然だ。……その地面の上に、忙しなく動き回る謎の生物が見える。
『な、に……?』
まだ安定しない視界の中で疑念を浮かべていると、ガサガサという音がガシャガシャに変わった。間違いなく危険の真っ只中だという事は理解しているのだが、生憎この身は未だに酔いから覚醒してくれない。器は他人の物となっても、本来の自分の性質までは変わらないようだ。
「アラゴグ!」
「アラゴグ!」
誰かの名前を呼ぶ騒がしい声。―――人間の声ではない、という事が嫌に鮮明に伝わって来る。直感だ。直感で、声の主が人ならざる者であるという事が解る。
「……何の用だ、お前達」
苛立った様にカシャカシャと物音がなったかと思うと、同時に嗄れた声が響いた。低く、疲弊を感じさせる声。まるで老人だった。
「人間!半獣が助けた人間!」
舌足らず(舌があるのか不明だが)な子供染みた声が答えた。だが、この森に子供と老人など居る筈がない。最早視覚に頼らずとも、会話をしている生物が何なのか理解してしまった。
「この人間おかしい。肉が無い!」
「匂いがしない。人間の匂いじゃない。でも人間の形」
「服に蛇がいる!蛇がいる!」
次々とあちこちで声が上がる。何かを打ち鳴らす音も。こうも同時に喋られては何を言っているのか聞き取れない。聖徳太子でも無ければ不可能だ。今すぐにでも喧しいこの生物達を焼き払ってやろうとも思うのだが、体調は全快とまでいってなかった。非常に屈辱であるが、不快感による呻き声が口から洩れるだけだった。
「……蛇だと?何と言った、お前達……」
巨大な影が目の前に近付く気配がした。脱力して地面とにらめっこしていたところだが、首に力を入れて正面へ視線を向けて―――そこで一気に目が醒めた。
とんでもない大きさを誇る黒々とした蜘蛛が、びっしりと覆い尽くす毛の奥から八つの目でこちらを覗き込んでいたのだ。つい先刻襲ってきた個体よりも大きい。具体的な体長は逆さまで良く解らないが、小型の象くらいはある。複数存在する真っ黒な眼球は、どれもが白濁していて古臭さを感じさせる。―――白内障?
この状況、最早生命の危機とかいう次元を越えている。越え過ぎて驚愕する気力も起きない。
―――いや、落ち着いてじっくり見ればこれはいけるか?
巨大な体は人間にとって脅威そのものであるが、全体的なバランスを考えるとギリギリ可愛く見えなくもない。そういえば昔から虫の中でも蜘蛛は好きな部類であった。あのクソッタレな黒い害虫を好んで食してくれるからだ。
森番と同じく常人には決して理解出来ない好意的な感想を抱き、無言、無表情で見つめ返してくる人間の様子に、巨大蜘蛛は不審げに頭の鋏を動かした。ギョロリと八つの眼球が蠢き、こちらの顔とローブ―――スリザリン寮所属である事を示す胸の校章を、舐め回すように見つめている。
「その顔、その恰好……覚えがあるぞ。お前には見覚えがあるぞ。昔の記憶だ。あれはいつだったか……。あの時からわしは、ここに居るのだ」
鮮明になった視界が、靄のようなドーム型の蜘蛛の巣を捉える。巨大蜘蛛は、その真ん中からこちらを観察していた。
―――そう、ここは魔法生物・アクロマンチュラの巣窟だ。
クィレルは、群れからたまたまはぐれた個体を襲撃に利用していたに過ぎなかった。
一匹だけではなく、群れているアクロマンチュラが攻めてくるとしたら、どれほどの危機的状況となってしまうのか。
……今まさに、目の前でそれを見せ付けられている。
「ただの獲物なら殺せば済む。我が子の餌になるならばそれで良い……。しかし、お前は―――」
醜い顔は人と違って表情など読み取れたものではなかった。それでも沸き上がる怒りの空気は、この場にいるのが自分じゃなく他の誰かであっても、流石に感じ取れたに違いない。年老いて盲いたとはいえ、己を処分しようとした怨敵の顔は早々忘れられるものではないだろう。
『お前……あの時の。確かアラゴグ―――』
蜘蛛と同じく記憶を辿っていると、とある名前が浮かんできた。ここで森番を務める人間が、かつてホグワーツで隠れて飼育していた危険生物。それに与えられた名。
そしてその名を持つ生物は、かつての【本人】によって居場所を追われており、最終的にこの森へやって来るしかなかった筈だ。
「やはり、お前か?」
鋏を鳴らす音の間隔が早まっていく。不味い。このままでは自分も"この蜘蛛と同じ様に罪を着せられる"。
『ま、待て。僕じゃない。あの時お前を害した奴と僕は違う!クソ、【あの野郎】、ホントにふざけるな、僕まで濡れ衣じゃないか!?』
最悪だ。最悪だ。最悪だ!
自分は何もしていないのに、こんな存在になってしまったせいで!
……ああ、まただ。またこんな目に遭わなければいけないのか。
好きでなった訳じゃない。誰が好き好んでこんな人間の魂になりたいだなんて望むのか。本当に、この世界に来る直前、自分は何をやっていたのだ。もしもその時間に戻れるとしたら、絶対に過去の自分をぶっ飛ばしてやる。
いや、つい冷静さを放棄してしまったが、まだ諦めてはいけない。この生物は会話による意思疎通が取れる。弁明の余地は完全に絶たれた訳じゃない。
しかし、この怒り狂う生物にこちらの事情を語っても理解はされないだろう。戯言か言い逃れだと片付けられてしまうのがオチだ。それでも、冤罪なんてものに屈する訳にはいかないのだ。そうだ。冤罪、良くないよ。
『よく見ろ、あれから何年経ったと思ってるんだ!?お前はすっかり老人みたいじゃないか。僕はどうだ?お前みたいに老いてない!別人だ。早とちりは勘弁してくれ……』
情に訴えても意味が無いのは解る。そういうものを理解する生物ではない。ならば、ここは理屈で攻めるべきだろう。なるべく辻褄が合うように、アクロマンチュラの知性でも理解出来るように言葉を選んで弁明してみる。
「お前はわしの名を知っている。その名を呼ぶのはハグリッドだけだ」
はい終わり。解散!
早速矛盾点を指摘されてしまった。この蜘蛛、何で馬鹿そうな顔をしていてこうも賢いのだ。やはり五十年も生きていれば、人並みの知性を手に入れるという事か?
『それは、……そう、祖父だ!祖父からお前の事を聞いたんだよ。僕の祖父こそが、お前に濡れ衣を着せたんだ。見間違える程僕は祖父と瓜二つだったんだな、びっくりだ』
秘技、その場凌ぎの大嘘投入。魔法生物程度なら、これでコロリと騙されてくれる筈……だ。実際、ごく自然な説明になっていると我ながら思う。
と、内心高笑いを上げて完全に調子に乗っていたこちらを、地獄の底に突き落とす発言が差し込まれた。
「その人間おかしい。肉が無い!」
「肉の匂いがしない」
「肉が無いなら成長しない!」
的確に嘘を暴いてくる子蜘蛛達の声。見ると、アラゴグよりも一回り小さい子蜘蛛が一斉に鋏を打ち鳴らして抗議の声を上げていた。―――余計な事を。頼むから黙ってろよ虫ケラども!
「……お前からは人の気配がしない。我らは人を喰らう故に、人の気配には敏感なのだ。これはどういう事だ……?」
『それは……君達の気のせいじゃないかと……』
完全に追い詰められている。もう弁明を述べられない。顔を逸らして、これ以上のボロを出すまいと口を結ぶ事しか出来なかった。
「魔法か?よくは知らぬが、魔法で老いを止める方法があると聞いた事がある。それで、お前は再びわしの元へ現れたのか?」
新発見。アクロマンチュラは想像以上に賢いようだ。ニュート・スキャマンダー氏著の『幻の動物とその生息地』改訂が早急に求められる。そういえばあの人、この時代でも在命なのかな。パン屋のマグルと仲良くやってるのだろうか。ああ、パン食べたくなってきたな。お腹空かないけど。自分は米もパンも両方好みなんだけどな。ああ現実逃避。
「何をしに来た……?お前は、"また"わしを脅かす気なのだな?」
『いや、違う、それはない。どうぞご自由にこの森で過ごすといい。僕は用事を思い出したから帰るね』
「わしはこの時を心のどこかで待っていたのかもしれぬ。お前に怒りの牙を突き立てられる、この機会を」
『あの、頼むから、僕の正体が分かるぐらい賢いなら会話のキャッチボールをしてくれないかな。違うって言ってるだろ。あぁ、その目って白内障だったりする?僕が治してあげようか?ははっ』
「何年も何年も前の事だ。忘れはしまい。わしは無力だった。ただ無様にお前から逃げる事しか出来なかった。だが今は違う。わしはこの通り力を身に付けた。今こそハグリッドの無念を晴らそう。我が子達と共に!」
『絶対に許さんぞ虫ケラども!じわじわと嬲り殺しにしてくれる!!』
最早成り立っていない会話を打ち切って、闇の帝王ならぬ宇宙の帝王の言葉を借りてから杖を足に向ける。両足を戒めている蜘蛛の糸を切り裂いた。
『《ディフィンド》!!』
拘束から解放された身体が今度は重力に捕らわれ、真っ逆さまに落下の道を辿る。全く同じ経験をした事がある身としては、最早慣れたものだ。その愚行とも取れる様を見ていたアラゴグが嘲笑う。
「馬鹿め。下にも子供達が居るぞ。お前は自殺が好きなようだな」
『悪いけど、
空中でくるりと身を捻り、足から地面に落ちるよう体勢を整える。ようやく逆さまの状態から脱し真下へ杖を向けた。
『《ヴェンタス》』
杖先から突風が巻き起こり、落ちて来る人間を今か今かと待機していた子蜘蛛達が吹き飛ばされた。突風は攻撃と落下速度減少の両方を担っている。減速しながらふわりと安全に地面に着地した光景を見て、アラゴグは面白くなさそうに鋏と肢を擦り合わせている。
「……死にゆくまでの時間が伸びただけだ」
アラゴグが一際強く鋏を打ち鳴らす。それを合図として、子蜘蛛達―――マグル界の蜘蛛サイズの奴らまで―――が一斉に詰め寄ってきた。こちらの安全地帯が円状に狭まっていく。虫が苦手な人間はこの時点でとっくに失神しているだろうなぁ、と呑気に思った。
『怪物に迫られるっていうのは中々に迫力があるね。風の谷の女の子もこんな感じだったのかもしれないな』
あの女の子は怪物に轢死されかけるも、最後は怪物自身の手で蘇生させて貰っていたが……この蜘蛛たちにそれは期待出来ない。というか身体の一片も残さず胃袋の中に放られるのが精々だ。「その者黒き衣を纏いて怪物の腹に降り立つべし」、ってか。
分霊箱である存在を、アクロマンチュラが食す事は可能か否か。答えがどうであれ、大人しくこの身に群がせるつもりはない。そもそも最初に捕らえられて運ばれているのだ。少なくとも接触は出来るのだろう。ならば益々近付かせる訳にはいくまい。……例え再生する身体を持っていても。
(ふうん……接触、ねぇ)
脳裏にある作戦が閃いた。しかしそれを実行、及び成功に導く為の材料が残念な事に不足している。成功率は高くはないが、これを実現出来なければ確実に詰み、だ。
(まあでも、さっき
【さて、誰のお陰だろうね?】
(
【君はどうして他人を馬鹿にする語彙がそこまで豊富なのか】
(お前が言うなよタコ)
臨時収入とは一体何か?
さて、説明しよう。
それは、さっきクィレルの体に自分から触りにいった理由と密接な関係がある。
あの時、どうして一瞬だけクィレルの体を触ったのか?
答えは単純、奴から魔力を奪う為、である。
「あれ?日記帳の分霊箱は、誰かに文字を書き込んでもらわないと魔力なんて奪えないのでは?」と思うであろう。それは間違いではない。
ただ、クィレルがしようとしていた事を思い出してほしい。彼はこちらの体に直接触れて、彼自身の魔力を注ぐ事で、《服従の呪文》でも操れないこちらを操ろうとしてきた。
これを、逆に考える。
「クィレルがこちらの体に触れて魔力を注ぐ」。
それが出来るなら―――「こちらがクィレルの体に触れて魔力を奪う」事もまた、可能なのである。
要するに、こちらと触れ合える存在同士の間で、魔力の応酬が出来るという事だ。
あの一瞬。クィレルの胸板に触った瞬間。とても短い時間の中で、出来る限りの魔力吸収を試みていた。結果、ごっそりと―――とはいかなかったが、それでも臨時収入と呼べるくらいには、魔力の強奪が叶ったのだ。
大量に奪えた訳ではないので、クィレルも自分の体から魔力が抜けていったのに気付くのは容易ではないだろう。彼が5000の魔力を持っていたとして、奪ったのはおよそ1000くらい。何かしらの違和感は覚えるかもしれないが、腹八分の食事をして、しっかり睡眠を取れば回復する量だ。生命活動に支障が出る数値という訳ではない。魔力の強奪にすぐ気付くとは考えづらい。
クィレルのせいで、長年コツコツと貯蔵していた魔力をそこそこ失ってしまったのだ。彼自身の身を以て、帳尻を合わせてもらう事にした。……クィレルから魔力を奪えるという情報は、同居人がこっそり齎したものではあるが、まあ使える情報は有効的に使うだけだ。
ただ、どうも触れ合えるなら何でもいい、という訳ではないらしい。クィレルから魔力を奪えた理由は、分霊箱の【本体】であるヴォルデモートが彼の身に宿っていた事も、深く関係しているようだ。
とにかくも。
この臨時収入のお陰で、アクロマンチュラの大群と戦える程度には回復を遂げられた、という事が言いたかったのだ。疲労の全部が消えた訳ではないが、前に同居人が言っていたように根性でどうにかしてみせる。
―――さあ、それでは殺虫のお時間である。
意識を現実に戻せば、蜘蛛特有の八本肢がバラバラと蠢いてじわじわと距離を詰めてくるのが見えた。
蜘蛛の長所と言えば、糸による対象の拘束、毒牙による対象の行動抑制と絶命、そしてその八本肢による機動力の高さだ。彼らほどの巨体ともなると、これが一番厄介とも言える。人間よりも大きい生物が、人間よりも多く長い肢を持つ―――これがどういう意味か。
『……流石に速いな』
先頭を陣取っていた二、三匹が一気に加速してきた。直線的な突進だったので、何とか巨体の隙間に体を滑り込ませて回避する。まるでドッジボールの避ける側みたいだ。腐っても知性を持つ魔法生物、どう攻めるべきかを今ので学習してくる筈。次は簡単な回避とはいかないだろう。
糸よりも毒よりも怖いのは、この機動力だ。まずは動きを封じる事が肝になってくる。
続けて突進が来るよりも前に、目に付く個体に可能な限り切断呪文を肢に向けて放つ。
『マグルの世界だと益虫だから、殺生はしたくなかったんだけどな……《ディフィンド》!』
骨肉を切り裂く生々しい音が連続して響いた。蜘蛛の胴体から肢が綺麗に分離していく。切断面は滑らか過ぎて逆に気味が悪い。噴水の様に彼らの体液が空気中に噴霧しゆく。
コストも殺傷力も高い呪文で仕留めるよりも機動力の要となる肢を削いでしまえば、生きていても殺したのと同義。切断呪文は大して魔力を使わないし、節約にもなるので一石二鳥というやつだ。
言葉にならない絶叫が蜘蛛達の間で上がる。人語ではなく本能に基づく鳴き声なのだろう。よく見ると、彼らの中には肢が完全に切断されず千切れかけていたり、僅かな擦過傷だけで済んでいる個体も何匹かいた。
『防がれた……いや、表面は効きにくいのか……』
魔法生物の中には魔法耐性を持つものもいるのは知識として知っている。正面から呪文を放っても効果が弱まったり、そもそも無効化されたりするらしい。対処法としては呪文に込める魔力量を多くしたり、生物によっては耐性を持たない弱点部位があるのでそこを狙う、といったところだ。
肢には個体差があるが問題無く通じるらしい。では、やはり一際硬い外骨格に覆われている胴体に呪文を放っても意味が無いのかもしれない。肢を狙い続けるのが得策か。
(もしかしたら本当は肢にも耐性があるのかもしれないけど……そこはごり押しが効く、って事で)
他の魔法使いなら肢にすらダメージを負わせられなかった可能性があるが、こちらは闇の帝王ご本人様の強大な魔力の一部を過去に頂いており、それを保存していた。今肢を切断出来たのは、この点が少なからず影響している筈。
とは言っても、その有り難い魔力も無限ではない。しっかり考えて立ち回らなければ、折角の優位性もお釈迦となってしまうのを意識しておかねばならない。
「おのれ、我が子達をよくも……!」
アラゴグが無残な姿に変わり果てた数匹を見て憤怒する。初期位置からあまり動いていないのを見る限り、まずは子供達に襲わせて弱ったところに自分でとどめを刺すつもりなのだろうか。老体に無理な動きは出来ないという可能性がある。何にせよ、あの巨体が自分から襲って来ないのは僥倖だ。
『いや、先に仕掛けたのはそっちだし僕は正当防衛で、』
「許さぬ。……思えば、お前はあの時も
『会話の通じない奴は嫌いだよ。あと、その台詞はお前が言うな』
滅茶苦茶なブーメラン発言だが、まあ間違ってはいない。彼らアクロマンチュラは人食い生物とはいえ、それは生きる為の本能によるもの。時に人肉でさえ喰らうその行動は自然の摂理。生物として咎められる行為ではないのだ。だとすれば、捕食目的ではないのに殺戮を行う我々人間という存在の方が、やはり外道と言えるのかもしれない。
『外道呼ばわり結構。僕に限った話じゃない、人間なんてみんなそういう生き物だ。しかしまあ、お前達虫ケラ相手に会話が成り立つ事を期待する方が愚かだったな』
このアラゴグは育て主であるハグリッド以外の人間には平気で牙を剥くし、言葉が通じても聞き入れる事は無い。それがアクロマンチュラとして普通だ。たった一人とはいえ、ハグリッドにだけ従うところは魔法界において称賛ものだ。通常この生物は飼い慣らす事は出来ないとされている。ハグリッドがどれだけ凄いのか(そして如何に奇人か)がよく解る。
「お前がいたからハグリッドは退学させられた。お前さえいなければ……。お前が、わしを『秘密の部屋』の怪物だと吹聴しなければ!」
『うーん、残念だけど【本人】は反省も後悔もしてないと思うぞ、絶対。むしろ想像以上に上手くいったもんだと調子に乗ってるな』
「訳の分からない事を!」
『さっきから人の話を聞かずに訳の分からない事を言ってるのはお前だよ、無駄に大きく育っちゃってまあ』
人間も魔法生物も、怒り狂った際は意思疎通が取れないのは非常に一致している。
会話の最中にも襲い掛かって来る蜘蛛達の肢を切り裂いていく。肢の数が減少し、動きの鈍った者達の残りの肢を確実に削ぎ落とす。彼らは次々と達磨の様な形へと変貌し、地面を力無く転がった。
今のところ順調だが、数が多すぎる。隙を見ては背後から跳んでくるし、一瞬たりとも気が抜けない。このままではジリ貧だ。この大量の蜘蛛を全て無力化するよりも先に、こちらの魔力が尽きてしまう。
『あー、本当に滅茶苦茶だな……』
いつの間にやら全身は彼らの返り血ならぬ返り液に塗れていた。浴びる者に対する嫌がらせの意図すら感じる、粘っこい青緑色の体液。冷たくヌルヌルした感触が、親であるアラゴグから継承した怨念のように纏わり付いてくる。
魔法生物だけあって、彼らは肉体だけでなく体液にまで魔力が詰まっているのだ。だからこそこうして分霊の身に体液が付着してくる。先程彼らの出す糸に捕らわれた謎もこれではっきりした。
戦闘の最中に全身の汚れを払拭する暇は無い。何とも言えぬ濡れた感触に顔を顰めつつも蜘蛛達を捌き続ける。正直言って虫の体液に塗れながらの作業は地味に辛かった。
『死んだなら経験値だけ残して消滅してくれないかなぁ』
現実は非情で不便。苦労して敵を倒してもレベルアップして魔力が増えたりしないし、敵の亡骸が勝手に消える事もない。死体と体液が残るのはとても鬱陶しい。偶に肢を失った亡骸が自身を潰さんと転がって来るので、それも回避しなければならない。
「この化け物めが……貴様は人ですらない!ハグリッドとは違うのを感じるぞ。わしの本能で解るのだ。とうに人間とは違う『なにか』に為っている。貴様の魂は欠けておるな。不思議なものだ……
アラゴグが激昂した様子で憎悪と疑問を投げ付けてくる。
魂が欠けているというのは分霊箱の事を指しているのだろう。魂なんて人間の五感ではまず知覚不可能なのに、まさかこんな化け物蜘蛛に魂の状態を見透かされるとは、意外である。
「解っているのか……。貴様は己を捨てたのだぞ。何処へ置き去りにしおったのだ。……
言っている事があまり解らないが、とりあえず罵倒されているという事だけは理解した。
殆ど真顔のまま単純作業の如く夥しい数の死体を築き上げ、我が子の体液に全身を汚して戦い続ける姿。それは確かに、アラゴグの視点では化け物としか表現しようがないのだろう。だからといって、彼らにだけは言われたくない言葉だ。
そもそもこれは正当防衛なのだ。今自分がしている行動は、
『どっちが化け物だよ』
自身を取り囲む蜘蛛の数が少なくなってきた頃を見計らって、奥で高みの見物を決め込んでいるアラゴグにも呪文を飛ばす。閃光は腹部の側面へと直撃するも、当の本人は全く痛がる素振りを見せない。体表も無傷だ。
やはり、馬鹿正直に体の表面を狙うのは愚策なのか。どれか一匹から牙を捥ぎ取って武器に使えば、あの硬い外骨格を貫く事自体は可能だろうが……。
(襲撃に付き合って無理に殺す必要は無い。あれを呼び寄せる隙さえ出来れば良い)
もう何匹仕留めたか確認するのも億劫になる。肢を捥がれた蜘蛛が地面を埋め尽くさんとする勢いで転がっていく。仲間の体を踏み台にして、勢いを止める事無く次の集団が伸し掛かろうとしてきた。
しかし蜘蛛の物量戦は一向に成果を上げる事は無い。こちらを押し潰す前に虚空に生み出された盾に弾かれ、すぐ後ろで待機していた仲間を逆に潰してしまう。
(盾の呪文は……なるべく使いたくないな)
地味に発動が難しいし、消費魔力も切断呪文より多い。魔力に余裕があったら全方位に展開して完全防御みたいな真似が出来たのだが、世の中上手くいかないものだ。
……なんか自分、いつも節約の事ばかり考えてる気がするな。世知辛い分霊生にも程がある。もっと気軽に色んな呪文を連発したい。だが悲しい事に、それは無理な話なのだ。
未だに好転しない戦況に、アラゴグがカシャカシャッと激しく鋏を震わせる。興奮により、嗄れている筈の声に幾分か活力が滲み出ている。老体のくせに生意気な。
「お前達、いつまでそうしているつもりだ……早く殺せ!」
『悪いけど、お前ら如きの毒じゃ僕は死なないよ』
「黙れ!一体何匹だ。何匹わしの子供達を殺した…………」
『お前は今まで食った獲物の数を覚えているのか?』
その時、群れの中にザワっとしたどよめきの声が上がった。飛び掛かるタイミングを窺っていた蜘蛛が、サッと何かを避けるようにして遠ざかる。突進中だった数匹は止まらずそのまま跳び上がってきたので、もれなく全員肢を切り裂いてやった。
『何だ?』
空中で肢を失い落下してくる一匹を突風で押し退け、頭上を見上げた。そこにはなんと、いつの間に接近したのかアラゴグの肢があり、今にもその凶器を振り下ろさんと狙いを定めているところだった。疎らに白が混じった黒い毛に覆われている肢の先端は、ナイフなどよりもよっぽど鋭利で命の危険を感じる。
さっき子蜘蛛の一部が遠ざかったのは、アラゴグに道を譲る為だったのだ。今までの傍観姿勢から一転、遂に動き出した大将に僅かながら反応が鈍る。
「死ねい!!」
恐るべき速度で肢が振り下ろされた。頭ではなく、丁度胸を穿つようにして凶器が迫って来る。
『あっ、そこはやめろそこは!』
本来の物語にて辿る結末。胸を穿たれ消滅していく光景が頭に浮かんで、慌てて地面を蹴る。飛び込んだ先に、いただきますと言わんばかりに鋏を全開にして待ち構えていた奴がいたものの、咄嗟の追い払い呪文で退場してもらった。
あの白く濁った目を見る限り、老化による失明がかなり進行している筈。それでも正確に攻撃を放ってきた。魂の状態すら認識できる不思議な本能の力とやらで、こちらの具体的な位置を把握できているのだろうか。
『クソ……そろそろ
これ以上は限界だ。アラゴグ本人が殺しにかかって来るのなら、切断呪文だけで対処するのは困難だ。あの巨体に、今までの子蜘蛛達と同じように呪文が容易く通用するとは思えない。
一見こちらが優勢に見えるが、蜘蛛達はまだウジャウジャと周囲を這い回っている。数こそ少しは減ったものの、包囲網は依然瓦解していない。
数十年の間に一体何匹産み落としたのだ、この爺蜘蛛の番は。強くて繁殖力も高いとなると、この森の生態系は滅茶苦茶だろう。自然界では普通被食者、つまり弱い生物の方が高い繁殖力を有しているものだが……。魔法界の生態系は、マグルの常識が通用せず不可解だ。
「お前は、わしの手で殺す……!」
『お前に肢はあっても手は無いだろ。人語をもうちょっと勉強するんだな!』
斜め上からの刺突。呪文で肢を切り落としてやろうとしたが、表面を浅く裂いただけで終わった。勢いを落とす事無く凶器の肢は迫ってくる。杖を構えたままだったので、ギリギリまで全身を動かせない。どうにか首を逸らすだけの回避で事なきを得た。勿論完全に避けられはせず、左耳の縁に、尖った物が掠っていく感触がした。追撃を防ぐ為、地面に刺さった肢から素早く距離を取る。
『……流石にヒヤっとしたな……今のは』
耳にじわりと痺れるような痛みが生じる。生身の人間と同じく正常に働く痛覚が、本当に恨めしいものだ。僅かに表情が強張ったこちらを、アラゴグがここぞとばかりに嘲った。
「臆したか?お前も所詮はか弱き人間の一人に過ぎぬ」
『ところがどっこい、人間には強い者も存在するんだよねこれが』
「人間などわしらの糧に過ぎぬのだ。どれ程強がったところで、その事実は変わらぬだろう」
『どうかな。お前はもうちょっと人間という生き物を学んだ方が良い……』
ゆらりとアラゴグの巨体が近付いて来る。逃げ場を狭めようと、子蜘蛛達が取り囲んでくる。鳥でもなければ、この危機的状況を脱する事は不可能だった。
流石にここにいる蜘蛛全てを一瞬で仕留められる魔法は習得していない。有効打になりそうな火を生み出す呪文は使えるが、そんなものを放てばこの辺は火事となり大騒ぎだ。それに自分も被害を受けかねない。いくら再生する体を持っているとはいえ、全身火だるまになるのは本気で遠慮したい。
何よりもそんな問題を起こしてしまえば、巡り巡ってダンブルドアが異変に気付く恐れがある。禁じられた森に火をつけるなど、生徒以外の何者かの仕業である可能性が存在する事を、あの校長は難なく見通すだろう。
(虫に有効そうな火も駄目、箒が無いので空も飛べない、この状況を突破する方法は―――)
「どれ……最期に遺言ぐらいは聞いてやろうではないか。名は…………。ハグリッドはお前の事を、『トム』と呼んでいたな……」
『ああ、有り難いね。じゃあ一つだけ』
しっかりと肢の狙いを定めながら、アラゴグがこちらの顔を覗き込もうと体を傾けた。もしもアラゴグが人間であれば、その表情は勝利を確信してほくそ笑んでいたことだろう。
そして、そんなアラゴグの心意を裏切る為にスッと杖先を向けた。濁った八つの目がギラついている、顔の中央へと。―――年老いた巨大蜘蛛は、衰えた視力のせいで敵に杖を向けられた瞬間を捉えられなかった。
『《アラーニア・エグズメイ》!!』
―――それは、生物の中でも蜘蛛に対する特攻呪文だった。
かつての『記憶』の中で、【本人】が使用していた蜘蛛を害する為だけの呪文。効果が絞られているだけに、与えられるダメージは格別に強大だ。この呪文ならば、アクロマンチュラの強力な魔法耐性を完全に無視して、ダイレクトに攻撃をお届け可能なのである。
確実に命中させる為、無闇に連発して警戒されるのを防ぐ為、今の今まで発動を控えていた。こちらにもう武器は無いと、同じ様な攻撃しかできないのだと、彼らの油断を誘う為に。
真っ直ぐに駆け抜ける白い閃光。
巨体であるが故に的が大きく、また素早い回避も不可能なアラゴグは、ほとんど無抵抗なまま呪文をもろに浴びた。バシュッ!という衝撃音の発生と共に、ドーム型の巣全体が激しく揺れ始める。他の呪文ではびくともしなかった筈の、ずっしりと構えていた体は呆気なくひっくり返され、アラゴグの柔らかな腹部の裏側が剥き出しになった。
「ヌオ、ォ…………」
そよ風程度の強さでも吹き飛びゆく塵を思わせる、か細い呻き声が聞こえてくる。父親を傷付けられた怒りで、子蜘蛛達が感情のままこちらに雪崩れ込み出した。その勢いが激し過ぎて、流石にノーリアクションという訳にはいかなかった。無い筈の心臓がびくりと脈打った気がする。
「殺せ、コロセ、ころせ!!」
『《アクシオ》!』
子蜘蛛が体に触れるより早く、ある物に向けて呼び寄せ呪文を唱えた。同時に地を蹴り上げて宙に浮かぶ。ついさっきまで立っていた地は無人となり、子蜘蛛の鋏は悉く空を切り、虚しい音を連続で打ち鳴らした。
『あぁ、思った通り。ありがとう、アクロマンチュラ。お前達が
―――呼び寄せ呪文で呼び寄せたのは、周囲の樹木から幾つも垂れ下がっているアクロマンチュラの糸だった。まるでターザンのように糸を掴んでぶら下がり、弧を描いて優雅に空中を移動していく。
「ま、待て……」
まさか、自分達が作り出した物質が原因で獲物に逃げられるとは思ってもいなかったアラゴグが、ひっくり返ったまま制止の声を飛ばす。その声は相変わらず弱々しくて、最早制止の役割など機能していない。
……アラゴグにとどめを刺すのは簡単だが、とどめの一撃に使う魔力すら惜しい。
それにこいつを殺してしまえば、こいつと親しい関係を構築している森番のハグリッドが、いつか死体を発見するかもしれない。
こんな化け物を本気で友達だと信じているお優しい彼のことだ。きっと死体の傷を見て、「誰が殺しやがったんだ」と大騒ぎするだろうということは、想像に難くない。そうなってしまえば、やはり巡り巡ってダンブルドアがその騒ぎを耳にして、アクロマンチュラを殺せる程の「何者か」の存在に気付く……という、全力で避けたい展開が起こりかねない。
ここは、殺意に殺意で報いることに執着せず、何事も無かった顔をして立ち去るのが無難。
存在そのものを知られてはマズイ分霊箱である自分は、敵を生かすべきか殺すべきか、その時その時で正しい判断を下さなくてはならない。
これから先、アラゴグがハグリッドと顔を合わせる時がくれば、奴がこちらの存在をハグリッドに洗いざらい話してしまう可能性自体はある。だが、それは恐らくゼロに等しいと思う。
……こんな化け物だって、友を想いかつての怨敵に報いを受けさせようと動いたのだ。しかしアラゴグは無様に失敗した。退学の原因となった話をわざわざ蒸し返してまで、結局仕留められなかった怨敵の存在をハグリッドに伝えるなど、無駄に賢かったこの化け物はしないだろう。
『さっきのお返しだ。お前は当分逆さまになってろ。ま、お前達との死闘は結構楽しかったよ。良い経験にもなったし……。じゃあ―――解散』
その台詞を最後に移動した先にあった次の糸へ飛び移る。そのまま再びターザンムーブを披露し、みるみる内に蜘蛛達と距離を離していく。
当然この程度で諦めない子蜘蛛達は、動けない父に代わり逃げる獲物を追跡せんと走り出すも、妙に手際の良いこちらの移動速度には敵わない。両者の差は少しずつ離れるばかりである。
不完全な実体だが、高身長に反してこの体は見た目以上に軽い。こういったアクションで移動を行うにはとても都合が良かった。
(ああ、本当に危機一髪だった。一発で成功して良かった)
表面上は余裕ぶっこいているが、内心は冷や汗が垂れていた。なにせ、《呼び寄せ呪文》を使ったのは今のが初めてなのだ。今まで一度も使わなかったが故に、唱えたところで成功するかどうかは分からなかったのである。呼び寄せられる効果範囲も、今夜の罰則に同行する前に読んだ本に書かれていた情報を仕入れただけで、具体的な検証をした事は無かった。だからこそ、この逃走手段はギリギリまで決行出来なかったのだ。
今度から攻撃以外の呪文もちゃんと習熟させておかないと、こういう状況で苦労するばかりになるだろう。山積みの課題に辟易しながらも、逃走に意識を集中させる。
アクロマンチュラとの死闘は、実に良い経験となった。とにかく、この後は油断せずに奴らと距離を引き離し、ハリー達と合流を目指す。当面の目標はそれだ。
蜘蛛の糸にぶら下がりながら、口笛でも吹くような軽い気持ちでしばしの間ターザンムーブに興じる事にした。やがて、ワシャワシャと騒々しい足音が完全に聞こえなくなるまで。
【君って色々あったとしても、結局は危機を乗り越えてしまうね】
『こんなところで躓いていられる程、世界が優しくないだけだろ』
【じゃあ、情報を教えてあげたこちらは優しいという事になるよね】
『すまない、寝言は寝てから言ってもらっても?』
【うん、君は本当に優しくない】
『秘密の部屋』編で発生するイベントを『賢者の石』編で味わう男
真面目な話、『秘密の部屋』編の真実を全て知ってる奴が主人公の話なので、ここで登場させないと蜘蛛の出番はこの先必要ないからね仕方ないね。
つまり二年目は(アラコグの出番)ないです。
前の話の後書きに追記していたのですが、
Switch2の抽選販売に落選したので宣言通り、
次話でもっとトム虐したいと思います。
この世界が分霊箱に優しい訳ないだろ
そういえば映画版でトムの日本語吹き替えを担当された声優様も落選してるみたいっすね。ナカーマ