転生したら分霊箱だった件   作:@ゆずぽん@

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今回ちょっとしたゴア表現が含まれますので苦手な方はご留意ください。
いちいちグロいです。つまりトム虐です。


Page 35 「降誕する帝王の御業(後編)」

 誰かに鋭い声で呼び掛けられた気がして、意識が浮上する。

 視界が途切れる前に憶えている光景は、生きている泥のように這い上がってくる黒い衣。

 目覚めたことにより再開した感触は、どこまでも冷たかった。凍てつく油が肌を侵して上塗りしているような、吐き気を催すもの。布でも液体でもない、ぞっとするような質感。いつの間にか杖はどこかへ消えており、両手は背中で一纏めに縛られていた。

 自身を苛む感触を振り払う為杖がなくても呪文を唱えようとした瞬間、黒い布がより一層強く顔を覆い、口と鼻を塞いだ。呼吸が止まり、喉奥が発声の自由を求めて痙攣したが、吸い込むのはただの闇と腐臭に似た異様な匂いだけだった。

 

 そして、痛みが始まった。

 レシフォールドの内側からねっとりとした液体が滲み出し肌に触れた瞬間、焼けつくような激痛が走った。それは酸とも毒ともつかぬ、肉を溶かし生命の根幹まで侵すような感覚だった。

 始めにローブ、それから皮膚がジュウジュウと音を立てて溶け表皮が剥き出しになり、まるで無数の刃物で削られるように肉が剥がれ落ちた。普通に生きていればまず味わう事のない未知の地獄に思わず絶叫したが、声は黒い布に飲み込まれ、くぐもった呻きが漏れるだけ。

 

 『ぁあ゛、~~~ッ!!……ぇぅ、ぐ―――ッ、ん゛うッッッ……!!』

 

 痛い。冷たい。痛い。冷たい。

 熱い。苦しい。熱い。苦しい。

 レシフォールドの全身は四肢が悴む程に冷たく、消化液は焼鏝を押し当てられているかのような炎熱。去来する対極的な苦痛に、温度を感知する機能が狂ってしまったのかと思った。

 だが、この地獄に終わりはない。

 分霊箱に備わっていた自動再生が発動する。

 生身の人間ならば溶けて戻らない筈の皮膚が泡立ちながら再生し、剥がれた表皮と破れたローブが蠢くように元に戻った。しかしレシフォールドの消化液は止まらず、新しく再生した肉と生地を即座に侵し、溶かし続けた。再度全身は軋みながらも再形成され、肉が無理やり縫い合わされるような感覚が新たな痛みを呼ぶ。消化と再生が引き起こす痛みは途切れることなく、まるで永遠に続く拷問の如く繰り返された。

 最早、身体は溶けては再生し、再生しては溶けるという無限の輪廻に囚われていた。

 表皮が露出しては再び肉に覆われ、ローブが破れ裂けては修復される。その度に鋭利な痛みと激烈な灼熱が、身体と精神の両方を刺し貫いては焼き尽くしていった。

 今起きている現象は、アクロマンチュラの体液に塗れた時と同様だった。魔法生物の体液は、こちらの身体を透過することはない。実体化した身体が完全に裏目に出ていた。

 

 今やレシフォールドの黒い体は自分を完全に包み込み、まさしく『生ける経帷子(リビング・シュラウド)』のようだった。内側から聞こえるのは、痛みから逃れようと暴れる獲物の身体が軋む音、肉が溶けるジュウジュウという音、そして自身の絶え間ない呻き声だけだった。

 激痛と恐怖の二重苦で意識は薄れそうになるが、再生する身体のせいで決して気を失うことはできなかった。ただ目を見開くことしかできず、闇の中で自分の身体が溶け、再生する様子を感じ続ける。

 レシフォールドの内側は無限に広がる胃袋のようで、自分はその中で永遠に消化され続けるしかない、哀れな獲物に過ぎなかった。どれだけ目を開けようと見えるのは闇だけで、鼻を突くのは溶けて溢れるインクのようなツンとした匂い。

 少しでも激痛を発散させる為に叫ぼうとしたが声は出ず、ただ闇が答えた。レシフォールドは静かに、満足げに蠢き続け、こちらの絶望を養分にして味わうかのように、ゆっくりと締め付けている。

 

 ―――どうして、こんな目に?

 

 呪文による反撃を許さんとしているのか、最初に開きかけた口に腕のように伸びてきた黒布が粗雑に突っ込まれ、食道にあたる部分にまで入り込んで一切の詠唱を封じている。噛み千切ってやろうという抵抗力は既に奪われていた。連続する激痛に意識の大部分が割かれ、顎に力など入らない。咽頭に押し入った異物に対する反射のせいで、止まらない吐き気が更なる苦しみを呼び込んでくる。何度もえずいたところで、侵入し固定された布を押し出すことは叶わなかった。

 外部の状況を把握させない為か外耳道の奥、鼓膜に突き当たるところまで無遠慮に布をねじ込まれ、ズキズキとした痛みが絶えない。聴覚を強引に低下させられた蝸牛が聞き取れるのは、自身から発せられるグチャグチャという悍ましい崩壊音のみ。

 

 『ぁぐ、ぅ……、……~~~ッ!』

 

 今感じるもの、それは痛み。ただ、それだけ。

 どこもかしこも痛いだけで、それ以外に感じるものなど何もなかった。

 全てが無意味だった。全てがこの地獄へと繋がっていた。

 誰も自分の存在を知らず、誰も自分の苦しみを知らなかった。

 

 ……どうして、自分ばかり苦しまなければならない?

 

 前の世界、そこで受けさせられた下らない授業。あれは確か、「道徳」と呼ばれていた筈だ。

 その授業では、世界中で常にたくさんの人間が苦しんでいるだとか教えていた。

 一秒経つごとに、地球上でおよそ二人が死んでいる。疫病、戦争、災害が絶えない多くの国。あなた達は安全な国に生まれた事に感謝するべきだ。争いのない平和な社会を目指してどうだこうだだの、実に下らない教えだった。

 あの授業の内容が事実ならば今現在、苦しんでいる人間は自分だけではないのだろう。だが、これだけは間違いなく言える。たった今、この世界で一番苦しんでいるのは、誰よりも酷く苦しんでいるのは、自分一人だけであると。

 

 『ッぁ、い゛、あ―――……ッ!!』

 

 無限に再生を続ける身体も、元から日記帳に備わった『知識』も、何の役にも立たない。

 全身が元通りになったところで、抵抗できなければ意味は無い。対処法を記憶していたところで、実行に移せる技術が身に付いていなければ意味は無い。

 ……当たり前の話だ。ヴォルデモート卿はその長い人生の中で、レシフォールドに生きながら消化される、なんて経験をただの一度も味わった事がないのだから。

 経験していないのだから、分霊箱に最善策など与えられている筈がない。レシフォールドの生態と、一般的な対処法しか知識がない。その弱点を理解しているからこそ、あの化け物はレシフォールドをこちらに嗾けたのだ。

 改めて思い知らされる。ヴォルデモート本人と、自分の実力差。

 こんな状況だというのに、苦しくて悔しくて仕方がないのに。……あの化け物が、レシフォールドに翻弄される光景が想像できない。こちらと同じような目に遭っても、きっと奴は涼しい顔を崩さぬまま、杖の一振りでこの生物を退けてしまうに違いないのだと。

 

 『はぁ―――ッ、あ、あ゛、ぁぁぁッ……!!』

 

 こんな思いをするくらいなら、『本来の物語』の通りに―――バジリスクの牙でひと思いに貫かれた方が、きっと何百倍もマシだった。

 終わらない苦痛、何度願っても変わらない現況。全ての生命に平等に与えられている筈の「死」の権利すら、自分には得る事ができない。その気になれば簡単な筈なのに、世界中のどんな生き物よりも「死」に手を伸ばすのが困難な存在、それが今の分霊箱(じぶん)だった。

 

 ……許さない。

 唐突に、そう思った。

 激痛に焦がされ狂っていく頭の中で、憤怒だけがごうごうと音を立てて沸き上がっていた。

 意識した訳ではない。自分でも理由は解らない。どうしてか無意識に、それらが黒い炎へと姿を変えて燃え盛り始めている。

 黒炎はやがて、痛みを塗り替えるように、痛みを覆い隠すようにして、癒しすら感じさせる錯覚を伴い、ゆっくりと全身に広がっていく。為す術もなく悶えるだけだった四肢に、じわじわと力が漲っていく気さえした。

 

 許さない、こんなことは許されない。

 許さない許さない許さない許さない許さない許さない許さない。

 ああそうだ、絶対に許してはならない。

 

 殺してやる。

 全て。

 何もかも。

 逃さずに。

 一つ残らず。

 ―――こいつさえも!!

 

 (……、寄越せ…………)

 

 今夜、初めて自分から声をかけた。

 相手はただ一人、この世界に放り込まれた時からずっと一緒だった存在。

 そいつの言葉に嘘偽りが無ければ、そいつはヴォルデモートが送ってくる精神への干渉を、魔力に変換することができる筈だった。

 何も見えず何も聞こえない意識の中、確かに誰かが息を呑む気配がした。構わずに、今まで何度も何度もそうしてきたように無視をして、声無き叫び声を響かせた。

 

 ―――寄越せ!!【お前】が持っている魔力の全部!!!!

 

 もううんざりだった。

 死ねない苦しみを齎すだけの魔法生物も、勝手に所有者を名乗ってくる自惚れ屋の惨めな孤児も、全てがうんざりだ。

 ……だから、ここで決める。

 奴がこちらの所有者だと自称するのならば。

 奴の物であるこの身体も、この才能も、こちらの物であるということ。

 好きで為った訳ではなく、何も分からないまま入れ替わっただけの異邦人でしかないが―――この身体と才能を、全てを貰う事にした。

 

 ―――【お前】の物も、僕の物だ。

 だから、寄越せ。

 【お前】の持つ全てを!!

 

 有りのままの傲慢を乗せた思念を放った瞬間。

 クィレルから奪った時とは桁違いの魔力が、どこからともなく全身に注がれるのを感じた。

 このままでは何も進展しないと向こうも理解しているのだろう。酷くあっさりと、命じた

通りの魔力を明け渡された。

 ―――こいつは、何も嘘を吐いていなかった。本当に、変換した魔力を今まで蓄えていた。ドクドクと満ちていく魔力が体内で揺蕩う感覚に身を任せる。最早駆け巡る激痛は失せていた。

 見開くばかりだった目を一度閉じて、ただ静かに、念じる。

 

 ―――爆ぜろ。

 

 (《ボンバーダ》)

 

 杖もなく、声も出せなかったが、心中で念じたと同時に視界が開けるのが分かった。固い地面に投げ出されたのを感じる。直前まで鼓膜と接する深さまで布をねじ込まれていた為、物音だけは捉えられなかったが―――一拍遅れて、気味の悪い鳴き声が響き渡った。

 

 ギイィィィィ!!

 

 布が喉と耳の奥からずるりと引き抜かれる感触と共に、耳障りな甲高い唸り声が鼓膜を揺さぶる。狭い外耳道を無理やり嬲られた為に、解放されても尚両耳がジンジンと痛み、顔を顰めた。長い間呻き続けてひりつく喉元へ、自由になった手を添えながらなんとか立ち上がる。

 

 『ぅう、げほっ……。はっ………はぁっ、《テルジオ》……』

 

 身体の至るところに付着している消化液に向けて、払拭呪文を唱えた。一瞬にしてそれらは跡形もなく消え去り、残ったのは新品同然に艶めくスリザリンのローブだけとなった。

 ふと両手が空いているという簡単な事実に気付き、軽く周囲を見回す。杖灯り無しでは暗くて碌に見えない森の中に、目的の物は発見できなかった。舌打ちを一つ響かせて、苛々とした気分を冷静に抑えて呼び寄せ呪文を唱えた。……そうだ。本来この体の持ち主は、杖がなくとも自由に魔法を行使できる才能に恵まれているのだから。

 

 『……、《アクシオ》』

 

 虚空へ向けて手を伸ばせば数秒の後、低木が密生する茂みの中からサンザシの杖がくるくると宙を舞いながら飛んできた。慣れた手付きでキャッチすれば、ようやくじわりとした安堵感に包まれる。

 

 ―――ギッ、ギイィ、ギュイィ……!

 

 ノイズが走るような掠れた鳴き声。衣擦れにも似た音源へ振り向けば、ボコボコとした奇怪な膨張と収縮を繰り返す黒いマントが地面の上ではためいていた。

 流石、《守護霊の呪文》しか対処法が無いと紹介される魔法生物だ。無言の爆発呪文を一発打ち込んだところで滅ぶ訳がない。教科書の体験談に書かれていた、失神呪文や妨害呪文は爆風を引き起こすタイプの攻撃ではないので無意味なのだろうが、流石のこいつも体内で爆発を発生させられれば堪えるらしい。

 

 『……おい、化け物』

 

 レシフォールドは、怒っているようだった。マントが異常な動きをしているのは、怒りを表現しているのだと思った。

 それも当然かもしれない。最初に鬱陶しい光を浴びせられて、怒りのままに獲物を頬張ったというのに、いつまで経っても消化を果たせず、挙句の果てにはゼロ距離で爆発を起こされて。これで怒らない生物の方がどうかしているだろう。

 そんな目の前の怒りを一切合切無視して、ひたすら低い声で語りかける。

 

 『僕は、受け入れることにしたよ』

 

 何を、とは声に出さなかった。

 ……そう、全ては、受け入れなければ始まらないのだ。

 気付くのが、あまりにも遅過ぎて、あまりにも愚かで情けなくなる。

 

 『……五十年も、この体で過ごすことを押し付けられたんだ。ただの一度だって、元の生活に戻れたことなんてなかった。受け入れない奴の方が、間抜けだ……』

 

 自分は今まで、いつだって、一線を敷いていた。

 自分自身と、この体―――トム・リドルは、全く別の存在であると。

 それは当たり前の事実であり、誰にも否定できない理屈であり、決して崩れることのない境界線であると、信じて疑わなかった。

 だって自分は魔法界の住人ですらなく、異邦人のマグルなのだから。突然魔法使いの、しかも分霊箱の器に魂を放り込まれて、適合する訳がないと。

 魔法使い(トム・リドル)にできる事は、自分(マグル)にはできない。

 実際、初めの頃は魔法など発動できなかったし、杖なし呪文や無言呪文も不可能だった。どれほど鍛錬を積んだところで、生まれた時から魔法使いだった人間の才能に匹敵する訳がない。誰がどう見ても実力差など明白だろう。

 ……だが。

 

 『もう、やめにするよ』

 

 レシフォールドは襲撃をすぐさま再開に移しはせず、やけに穏やかな表情で一人語り続けるこちらの様子を認識しては、無意味にも警戒しているらしかった。

 

 『どんなに拒絶し続けたところでさ。今更……僕がこの体から解放されて、元の体に戻れる日は来ないんだろうね』

 

 ただ、怖かったのだ。

 この体で生きていく。それを心の底から、完全に受け入れてしまった瞬間。元に戻れなくなるのではないか、と。

 別に、前の世界に未練がある訳ではない。本来の体が好きな訳ではない。それでも、生まれ落ちた時に与えられた唯一の肉体を、諦め切れなかった、それだけだ。

 誰だって、自分が本来持っていた筈の体に、大なり小なり執着はしている筈だ。特に自分のように、為りたくもない人間に為ってしまった場合には。

 こんな人間の魂の欠片として生きていくぐらいなら、好きではないが本来の体に戻れないかと思っていた。前の世界に帰れなくても構わない。単純に、肉体だけでも戻りたかった。

 ―――でも、それはきっと叶わないのだろう。ならば受け入れるしかない。

 受け入れなければ……この体が保有している筈の性能の全てを、引き出せはしないのだから。

 

 『今更、気付いたんだ……。我ながら実に馬鹿だったよ、本当に。だって―――』

 

 手の中の杖を愛おしげに撫でる。五十年という長過ぎる月日を共にしてきた唯一の相棒は、盗品なのに随分と従順に、忠実に馴染んでくれている。自分の体の一部であるかのように、踏み出した新たな一歩を祝福するかのように、魔力を込めていないのにも拘らず杖先から緑色の火花が一つ、パチリと咲いた。

 

 『―――受け入れた途端に、無言呪文も杖なし呪文も使えるようになったんだよ』

 

 杖から視線を外し、一切の曇りない笑顔でレシフォールドと向き合う。それがまるで合図かのように、レシフォールドがこちらへ大きく飛びかかってきた。

 ―――嗚呼、こいつは本当に救いようのない愚かな生物だ。わざわざ制御の効かない空中へ己の身を投げ出すだなんて、愚か過ぎて笑いが止まらなくなる。

 教科書では、レシフォールドの生態は這いずって移動するものだと説明されている。つまり、こいつは鳥のような自由飛行が可能ではないのだ。一度空中に飛び上がってしまえば、人間と同じ無防備な隙を晒す羽目になる。わざわざ自分から火に突っ込む虫の如き愚行を見て、笑わずにいられる奴がいるだろうか?

 

 『あはッ、は、ハハハッ……!』

 

 どうしてもおかしくて、笑い声が零れてしまった。それでもヴォルデモートみたいな間抜けな高笑いは避けたくて、ひくつきながらも途中で唇を引き結んだ。

 身体の内側を絶えず循環している全能感が、とても心地良い。今なら何でも、どんな事でも叶えられると本気で思った。ヴォルデモートも全盛期はこんな気分だったのだろうか?そこまで考えが至れば、傲慢さ故に滅びた孤児と同じ末路を辿るまい、と自制心が湧き上がってきた。落ち着いた心境で、杖の照準を合わせる作業に移行する。

 

 『ああ、そうだ、そうだとも。僕は―――僕こそが、トム・リドルだ!』

 

 胸に空いている片手を置き、しかと宣言する。

 それは、この世界で生きていく為の、自分の名前。

 【本人】が新しき名を手に入れると同時に、捨てられてしまった過去の象徴。

 要らないと言うのなら、捨てるに値すると言うのなら。

 喜んで貰っておいてやろう。

 

 ―――やっとこの時が来た。

 殺してやる。

 《守護霊の呪文》しか効果が無い?

 そんなものは関係無い。

 この体の持ち主は、杖なし呪文や無言呪文の天才というだけではない。もっと素晴らしい才能に恵まれているからだ。

 そして、この体を完全に受け入れた今。その才能はこちらの『所有物』となった。

 

 『ハハッ―――《守護霊の呪文》しか効かないなら―――』

 

 興奮ですっかり開き切った瞳孔をギラギラ輝かせて、獰猛さの滲む笑みを混じえながら叫んだ。

 

 『お前に効く呪文を、()()()()()()()()()()なんだよッ!!』

 

 告げる。

 たった今、誰に教えられるでもなく、頭の中だけで魔法式を組み立てて、即興で創り出した新しき力を。

 

 

 

 

 『―――《アニマ・フランゴ》ッ!!』

 

 

 

 

 今までの鬱憤を晴らさんと、その名を高らかに唱えた。

 《死の呪文》のような、分かり易く目視できる閃光は生まれなかった。

 ただ、人間の視力でも、レシフォールドの感知能力でも観測不能な不可視の念力が、杖先から走り出した。再びこちらの全身を包み込もうと迫る黒いマントは、眼前の空中でびきり、と静止する。髪先に触れるか触れないの至近距離、マントの端がびくびくと不自然に痙攣し始めた。

 

 『……、死ね』

 

 簡潔に、呟いた。勝利を確信して吊り上がっていく口角はそのままに。

 直後、レシフォールドの全ての動きが止まった。常に波打っていたマントが見事に凍りつき、静止画を見ているみたいだった。

 そして、絶命。

 一度だけメキリという何かが捩れるような音が響いたかと思うと、黒いマントの中心から円状に崩壊が始まった。書類細断機(シュレッダー)に入れられたかのように、ボロボロとマントが塵と化していく。やがて細切れになった穢らわしい粒子は夜風に乗って、行先不明の旅路へと誘拐されていった。

 

 ―――ギッ!

 

 完全に塵と化す直前、最期に聞こえた鳴き声は酷く短く、想像以上に大きくもないものだった。もっと凄惨に喧しく喚き散らすのではないかと期待していたのだが、なんとつまらない結末だろう。苦しみにのたうち回る様を眺めたかったのだが、酷く残念だ。

 

 『……お前がれっきとした「生物」なら、生命活動に欠かせない魂のようなものが存在する筈。《守護霊の呪文》が唯一撃退できる手段なら、そもそもお前の魂を破壊して殺してしまえばいいだけの話だ』

 

 レシフォールドの殺害に成功できたのは、生物学として簡単な理屈。

 だが実際には、常人が到底理解不能な、遥かに高度で難解極まった魔法の構築が必要不可欠だった。それはマグルとして過ごしてきた自分には、とてもじゃないが追いつけるものではない。全ては、魔法使い(トム・リドル)に為ったからこそ実現できた『御業(みわざ)』であった。

 あらゆる魔法に関する好奇心、探究心、執着心。そして、アルバス・ダンブルドアさえも凌駕する知識があってこそ成り立つ、「新たな呪文の創造」。奴がこれまでの生涯で成し遂げてきた功績を真似させてもらったのだ。魔法界において、新しい呪文をゼロから開発するなど並大抵の努力で達成できるものではないらしいが、今やヴォルデモートの分霊箱である自分は、その『努力』をすっ飛ばすことが可能なのである。

 『杖なし呪文』、『無言呪文』、そして『呪文創造』。……全ては、分霊箱としての生を完全に受け入れたからこそ手に入れた、力。

 

 『―――ぐ、ぐうッ!』

 

 ―――だが、当然、代償は存在する。

 身体の中心、心臓にあたる部分が捻られる感覚が激痛と共に襲来してきた。胸を押さえて膝から頽れる。同時に、《死の呪文》を発動した時と変わらぬ脱力感。

 同居人に無理やり命じて献上させた魔力の大部分が、痕跡も残さず綺麗さっぱり失われているのが知覚できた。つまり、魔力のプラスマイナスがゼロの状態に戻った、という訳だ。素晴らしい。

 撃退方法が一つしか有り得ない筈の生物を強引に消滅させるような、とんでもない効果を持った呪文だ。その反動も魔力消費量も凄まじいのはある意味当然と言える。世の中、そう都合の良い事ばかりではないと。……本当に最低な世界である。

 

 『……さ、すがに、急拵えの呪文じゃ、こうも、なるか……っ』

 

 研究に適した環境でゆっくり時間をかけて開発すれば、詠唱者の安全性がもっと確立された呪文に仕上げる、それ自体は叶ったかもしれない。だがそんな時間など与えられていないのだからしょうがない。そもそもこちらの活動範囲はイギリスなのだ。「熱帯に生息する生物を殺せる呪文創造」、に取り掛かる機会など普通は無いに決まっているだろう。クィレルの奴、覚えてろよ……。

 

 『分霊箱じゃっ、なかったら……、死んでただろう、な……』

 

 胸の内側が延々と捻られる激痛が止まらない。本当に心臓が存在していれば、とっくに捩じ切れて破裂しているに違いない。とはいえ、レシフォールドの消化に比べれば耐えられないレベルでは、ないかもしれない。それでも無視できる苦痛ではなく、しばらくの間蹲った体勢から動けなかった。

 

 『ぁう、がはッ……!』

 

 こぷり、と競り上がってくるものを吐き出せば、黒いインクの塊が姿を現した。それも一回では止まらず、地面に数回嘔吐してようやく収まる。やはり体内のどこかがちゃんと破裂してしまっているらしい。……いい加減、黒は見飽きたししばらく見たくもない。

 

 まだだ。まだ終われない。まだ止まれない。

 まだ―――ハリーの無事を確認できていない。

 

 口の端を拭いながら立ち上がる。興奮か全能感のお陰か、疲労で限界に至っている筈の身体はまだ、動いてくれている。だが……それも長くない。身体を自由に稼働できる猶予は、どれだけ多く見積もっても残り数十分程、だろうか。

 それを過ぎれば―――確実な意識の喪失が待っている。今度はいかなる誤魔化しも効かない。どれだけ興奮していようが、絶対に避けられはしない。……既に秒刻みで時間との勝負が始まっている。

 意識の喪失から逃れられないなら、せめてハリーと日記帳の安全を見届けた後にしなければ。

 ヴォルデモートの目的が『賢者の石』に移ったとはいえ、こんな森に滞在する限り、ハリーを襲う危難は完全に去ってはいないのだ。

 

 『とはいえ、どうするか……』

 

 立ち上がることはできても、今の余力では到底走れそうにない。どう頑張っても歩行が精一杯だ。こんな移動速度では、ハリーと合流する前に終わってしまう……。

 ―――だが、この敷地は―――「ホグワーツでは助けを求める者には、必ずそれが与えられる」ものらしい。

 

 『……あ、』

 

 ガサガサ、という茂みを掻き分ける音。

 見れば、黒い毛むくじゃらの大蜘蛛―――アクロマンチュラが一匹だけ、茂みから半分顔を出す格好でこちらを見つめていた。顔の位置がこちらの腰あたりにある、成体よりもやや小さめの個体だ。

 アラゴグの巣から撤退して結構経っている筈だが、諦めず律儀にもここまで追い掛けてきたのだろう。念の為周囲の気配を探るが、自分の元に辿り着けたのはこの一匹だけのようだ。

 

 『―――ナイスタイミングだッ!』

 

 嗚呼、自分はなんて運が良いのだろう!

 結局、ホグワーツはまだ自分を見放してはいないのだ!

 全能感に満ちた今の自分にとって、アクロマンチュラの追跡など不幸中の幸いでしかない!

 

 『《コンファンダス》!』

 

 獲物を認識してから襲撃に移るまでの、思考の遅延時間(タイムラグ)の隙を突いて、アクロマンチュラの顔面目掛けて錯乱呪文を撃ち込んだ。少しばかり仰け反って更なる隙を晒した大蜘蛛の真横に回り込む。長い肢に手を添え、足掛かりにして大胆にも胴体に飛び乗った。突然自身に伸しかかった人間の体重に驚いて、アクロマンチュラが全身を揺さぶり始める。

 

 『なんだ、ロデオでもやりたいのか?でも残念、付き合ってる暇は無い―――《ディフィンド》』

 

 錯乱呪文の効き目が薄いので、確実な方法に切り替えることにした。

 アクロマンチュラの頭胸部に向けて、切り落としてしまわないよう慎重に威力調整を施した切断呪文を放つ。目論見通り、呪文は頭胸部の表面をぱっくりと縦に裂くだけに留まった。半透明の体液が滲み出す。

 虫の脳は大体人間と同じ頭の部分に位置する。前の世界で、何度も彼ら相手に実験した(あそんだ)事があるからしっかりと把握している。まあこいつらは厳密には蜘蛛ではなく、「蜘蛛の姿をしているだけの魔法生物」であるのだが―――心配する必要は無かったらしい。マグルの虫と同じく、頭胸部の裂傷部分からアクロマンチュラの脳―――恐らく神経節と呼ばれる部分が剥き出しになっている。

 神経節。それは神経細胞の集まりで構成されている、虫にとっての『脳』。感覚情報の処理や運動制御、学習、本能的な行動などを司る部位。

 見た目は小さな灰白色の塊だった。まるで柔らかな真珠のように微かに月光を反射し、表面には微細なシワが刻まれている。生き物の思考そのものが凝縮された有機の結晶、といったところか。こんな小さな塊が、あの執拗な狩りの本能を宿していたなんて、地味に腹立たしいことだ。

 

 『《コンファンダス》』

 

 再びの錯乱呪文。今度は神経節に直接浴びせる。呪文に耐性を持っているのは体表だ。剥き出しの脳から浸透する呪文には、どんな魔法生物であっても防ぐのは至難であろう。

 

 「ア、アァ?アッ、ァッ……」

 

 ほら、すぐに支離滅裂なことを口走り始めた。笑みが零れるのを抑え切れぬまま、振り落とされないように胴体にしっかりと跨って、神経節が覗く裂傷に顔を寄せて囁くように命じた。

 

 『……今は僕がご主人様だ。お前の役割はただ一つ、奴隷みたいに走って僕を目的地まで運ぶこと。それ以外の価値なんて求めていない……解ったか?』

 

 裂傷の縁に親指を這わせ、ぐちりと一度抉ってやれば、哀れに思うぐらいガクガクと胴体を跳ねさせた。すっかり錯乱呪文に侵されたアクロマンチュラは、返事代わりの奇妙な鳴き声を上げる。

 

 「アァ、ア……イ……?」

 

 『よーし、いい子だ……』

 

 本体である日記帳へと意識を集中させる。すぐにその所在地は判明した。ここから北西の方角にはっきりとその存在を感じられる。軽く杖を振り、地面に直撃すると同時に大きめな音を出す閃光を放った。

 

 『今、感じた光と音の方向へ真っ直ぐ走るんだ。いいな?真っ直ぐだ……お前が例えどんなに出来損ないの役立たずだとしても、欠伸が出るレベルの簡単な命令だろう……?』

 

 神経節に直接吹き込むかの如くそっと囁いた。塊は怯えるように小さく震え、蠢く。同時に、アクロマンチュラがその八本肢をわしゃわしゃと動かして走り始めた。

 初速はいまいちだったが、速度が乗れば人間の走るスピードを大きく上回っていた。一切の労力無しで夜風を突っ切っていく感覚は、先程悲惨な目に遭った直後とは思えないほど爽快だった。気分は完全に競走馬を駆る騎手である。

 

 『ははっ、これは良い!原付の法定速度なんかよりよっぽど速い!』

 

 もっと確実な手段―――クィレルのように《服従の呪文》で操る方が手っ取り早いのだが、《許されざる呪文》は例外なく魔力消費量が極めて多い。代替手段として錯乱呪文で脳を直接侵す方法を取ったが、これでも正解だったようだ。

 

 【―――…………】

 

 何故か、唖然としているような、目を疑われているような気配がするのだが……これは気のせいだろうか?

 子供の頃、祖父に首切り猫の死体を抱いている瞬間を目撃された時のような、空気が冷え切った心地を感じる。―――まあ、取り敢えず無視しておくか。虫だけに。

 今は一分一秒が惜しい。知識の提供か魔力の貯蔵庫、その程度の有用性しかない存在に構っている時間など、どこにも有りはしないのだから。

 

 

 

 

 時間にして三分程、だろうか。しばらくの間蜘蛛ドライブを楽しんでいたところ、ようやく目的地へと到達することができた。

 

 『―――っ、止まれ!』

 

 手綱を引いて馬を停止させるように、頭胸部の毛束を毟り取る勢いで引っ張ればアクロマンチュラの全ての肢は硬直した。

 数メートル前方に確認できた、見知った二つの人影。片方はくしゃくしゃの黒髪で赤いローブ。もう片方はプラチナブロンドの髪で緑のローブ。この森に同行していたハリーとドラコに間違いなかった。

 ―――良かった。どこからどう見ても、二人は死んでいない。

 クィレルが撤退を決定した今、生徒の救出を目指しているであろうハグリッドを阻む者は誰もいない。あとは彼があの二人を森から連れ出してくれるだろう……。

 そう思って、長かった実体化をようやく解除しようとした時、

 

 ―――ギアアァッ。

 

 全身が凍りついた。

 それは酷く聞き覚えのある鳴き声で、それはこの場所で聞こえてきて良いものではなかった。

 だって、その衣擦れのような鳴き声の主は、自分が大きな代償を払って滅ぼした筈だ……。

 

 「うっ、うああああ、わあああああッ!」

 

 情けない泣き声もやや遅れて響き渡る。これもまた聞き覚えのあるものだ。臆病なスリザリンの卵、ドラコ・マルフォイ。背後に庇うようにして、ハリーが彼と密着した体勢で杖を構えているのが見える。

 

 「ドラコ、静かにして!もしかしたら、気を引いちゃうかもしれないんだよ!」

 

 一年生がたった二人きりの状況で、勇敢にも友を庇っているグリフィンドールの卵。

 上手く理解が追いつかず、いや、理解するのを拒んでいる頭を自ら軽く小突いた。止まっていたアクロマンチュラの胴体の側面を一度蹴りつけて、襲歩を促し前に進ませる。

 理解は後回し、今はさっさと二人に姿を見せて合流した方が最善。

 

 『ハリー!今何が起きている!?』

 

 アクロマンチュラの頭上で叫ぶ。

 ハリーとドラコの二人はようやくこちらの帰還に気付いて、ぱあっと花が開くような笑みを浮かべたが、それは瞬時に曇って動揺と絶望を全面に出した表情へと様変わりする。

 やっと再会を果たした知り合いが、自分達を襲ってきた化け物蜘蛛に乗ってシャカシャカとやって来たのだから、あんな表情になるのも無理はない。まあ、普通に怖いだろうな、この絵面。魔法界の歴史上でも、アクロマンチュラを乗りこなした魔法使いなんて自分しかいないのではなかろうか。

 

 「と―――トム……っ!ぼっ、僕達、僕達―――っ」

 

 『―――僕が降りたら待機していろ』

 

 未だ剥き出しの神経節に告げた後、走るアクロマンチュラの上で素早く立ち上がる。恐竜っぽい生き物を乗り捨てる世界一有名な赤い配管工の如く、頭胸部を思い切り蹴って大きく跳躍。回っていない舌を縺れさせるハリーを飛び越えて、彼の前に着地を遂げた。

 

 「な、な、あの蜘蛛、何でここに、」

 

 『ハリー!今の僕には時間が無い。何が起きているか説明するなら手短に』

 

 ガチガチと震えるばかりのドラコはひとまず放置し、慌てる眼鏡の少年を軽く睨み付けながら詰め寄る。彼はごくりと息を呑み込んだ後、前方に並び立つ樹木、その木陰を指差して言った。

 

 「トム……っ、君がいなくなった後、なんとか捜し出そうとして、ここまで来たのにっ、あ、あそこに、変な化け物、黒いマントみたいなのが!ズルズルって近付いて来て……!ふ、二つ!いや、二匹……!?」

 

 『―――何だって!?』

 

 咄嗟に振り向いて確認する。距離にしておよそ十メートル先。ハリーが指差した木陰、ちょうど木の根を越えようとその上に覆い被さっている黒いマントが一枚。その右隣にもう一枚が草の上を這いずっていた。

 ……見間違えようがない。あれは誰がどう見ても、クソッタレシフォールドだった。

 

 『おい……ふざけるなよ……!何で二匹もッ、あ……?』

 

 反射的に悪態をつきそうになったが、ふと、思い返してみる。

 あの時……こちらにレシフォールドを嗾けてくる直前、ヴォルデモートは何と言ったか?

 

 ―――今し方、クィレルがそいつ()を解き放ったぞ。

 

 (そいつ、()―――?)

 

 「そいつら」。つまり、複数形、である。

 最初から、レシフォールドが一匹だけだなんて誰も明言していなかった、のである。

 まず先に自分のところに一匹が襲いかかってきたので、すっかり「レシフォールドは一匹」だと、勝手に思い込んでしまっていた。

 ヴォルデモートは、何も嘘を吐いちゃいなかった。しかし、森に放ったレシフォールドの具体的な数を、こちらに教えることもしなかった。

 

 『あ……あいつ―――ッ!!下らない叙述トリックかましてんじゃないぞ……!!』

 

 いや、叙述トリックというか、まあこちらが勝手に一匹しかいないものだと勘違いしていたようなものだが……。あの状況で現れたのがレシフォールド一匹だけだったら、必然的に勘違いもするに決まっているだろう!

 ……いいや!あいつは絶対、狙っていた!

 本当にこちらを消耗させる目的ならば、三匹全てを一斉にこちらに向かわせた筈だからだ。取り敢えず一匹をこちらに嗾けて勘違いを誘い、他にもレシフォールドがいるという事実をわざと伏せていた。はぐれたハリー達は残りの二匹に襲わせて、あわよくば分霊箱の協力者を排除しようと考えていたのだろう。

 ―――なんと姑息な連中だ!いや、そもそもヴォルデモートは姑息極まりない、スリザリン生の一人であった……。

 今回に限っては、完全にしてやられた。言い訳のしようもない敗北。

 

 『……やっぱり僕、ホグワーツに見放されたのかもしれない』

 

 思わずくらりと傾く頭を止められない。

 死にたくなるほどの酷い目に遭わされて、この世で一番嫌悪している人間の体を受け入れてまでそれを突破してきたのに、最終的に辿り着いた終着点が、これなのか?

 レシフォールドを殺す術自体は習得している。だが、今目の前に見えているのは二匹だ。二匹とも殺すのに必要な魔力など残っちゃいない。

 残っていたとしても、術の使用後に避けられないあの反動はどうすればいいのだ。二匹分の反動、それは想像もつかない程恐ろしいものになるに決まっている。少なくとも一、二年は意識が吹っ飛ぶ羽目になるだろう。その間に、肉体を取り戻したヴォルデモートが確実に日記帳の回収を成し遂げる。そんな結末は到底受け入れられない。

 

 「トム!?どうしたのさ、やっぱり僕達とはぐれた後、何か―――」

 

 ハリーが心配そうにこちらの顔を覗き込んでくる。一年生の彼には、迫り来る黒いマントの正体や危険性も、何一つ正しく理解していないだろう。

 ……ハリーは未来で、レシフォールドを撃退できる《守護霊の呪文》を習得する可能性を秘めている。だが、今ここにいる少年には……不可能だ。そもそもあの呪文は、どれだけ適性のある魔法使いでも、一朝一夕で習得できるような低難易度ではない。

 ……ではない、が、一部の狂気じみた天才ならば……。

 

 「やっぱり君、何かに襲われたんじゃ!?ほっぺにインクみたいなの付いてるし……。あれ?なんか……、すっごくインク臭っ……」

 

 『やかましい。さっきまでナワバリバトルしてたんだよ。リッター4Kに撃たれたんだ』

 

 「何の話?」

 

 こんな状況でも、相変わらずハリーはハリーらしい。

 今のこの空間は、本当はこの世の終わりみたいな地獄であるのに、そうとは露知らず生存を諦めていない。インクの匂いを漂わせるこちらをわざわざ心配しながら、健気に杖を構えてレシフォールドに向けている。

 奴らは三人の内誰を先に平らげようかと、こちらを悠々と品定めしているようだった。すぐに飛びかかってくる気配は、今のところない。だが、少しでもこの場から逃げ出そうとする素振りでも見せれば、すぐに襲撃に移行してくるだろうという気配はひしひしと伝わってくる。ひとまず会話だけなら続ける猶予はあると見ていいかもしれない。

 

 「……ねえ、トム、僕達、ホグワーツに帰れるよね。何とかなるよね。大丈夫だよね」

 

 『勿論。今の僕の日記帳には「不可能」という文字しか書いてない』

 

 「その日記ゴミだから今すぐ捨ててもいい?」

 

 『おいふざけるな、本気で捨てようとするんじゃない!普通この状況で捨てる奴がいるか!?君が管理してくれなかったら誰が日記帳を守るんだふざけるな!』

 

 ヴォルデモートの計算通りの設計にされているのか、今の不完全な実体化状態では、本体である日記帳に直接触れる事はできない。同居人は昔この理由について、「自分の右手首を自分の右手で掴めないようなもの」と解説していた。

 今ならこんな仕組みになっている理由がよく解る。分霊箱が実体を得た後に自分の本体を自由に持ち運んで、好き勝手に行動しようとする可能性を潰す為だろう。だからわざわざ生身の人間に日記帳を託す必要があるのだ。その託した人間、つまりハリーには何が何でも日記帳を死守してもらわなければ困る。

 レシフォールドにロックオンされているというのに、やけに真剣な表情で日記帳を手放そうとするハリーとひとしきり取っ組み合った後、こんな事をしている場合ではないと荒くなった息を整えて凄む。

 

 『ハリー、よくもやってくれたな。本当に、いい加減にしろよ。舐めたら許さないからな』

 

 「誰も舐めないよ、トムなんか。すっごいマズそうだもん」

 

 『誰が味の話をした?僕だ、このトム・リドルを舐めてかかったら痛い目に遭うぞ。覚悟しろ』

 

 「トム、本性出てる。出過ぎてる」

 

 『あ、はっ、えっ。いや、ははは。いやドラコ、これは違う。僕怖くないよ、はは』

 

 遠回しにドラコの耳にも入っていることを指摘されて、咄嗟に優等生モードに切り替える。彼はハリーの背後でずっと震えているだけだったが、ハリーとこちらの寸劇じみた会話を聞いている内に正気を取り戻したのだろう。震えて止まらない唇を懸命に動かし始めた。

 

 「ど、ど、どうも、リドルさん。ぼっ、僕、あいつら……知ってるんだ。屋敷の本で……魔法生物に関する本、それに載ってて―――あいつら、レシフォールドなんだって―――」

 

 『知っていたのか?』

 

 「ま、マルフォイ家には、大きな声で言えないけど、闇の魔術とか生物に関する書物が、たくさんあって……。レシフォールドは、一般的に闇の生物だとされている、から」

 

 『でも、仮に君達があいつらの正体を知っていようと状況は何も変えられない。この場にいる全員が、誰一人としてレシフォールドに対する呪文を使えないからだ』

 

 「あ、ああ……、情けない話だけど、そうなんだ。レシフォールドは、ディメンターと同じ―――《守護霊の呪文》じゃないと、どうにもできないと……」

 

 「トム、《守護霊の呪文》って、一体何なの?」

 

 『幸福な記憶から守護霊と呼ばれる存在を生み出し、一部の魔法生物から身を守れる特殊な呪文だ。熟練させれば伝言にも使えるらしいが―――死喰い人は、「闇の印」があるから必要性は低いだろうな』

 

 「……そう、だ。父上でも……きっとお使いにはならないだろう」

 

 居心地悪そうに顔を伏せるドラコの姿を横目で見て、突如、起死回生の一手が天啓のように降って湧いた。

 ―――幸福な記憶?自分の人生には、《守護霊の呪文》の燃料に足りうるものは存在しない。

 では、この体には?日記帳には?いいや、ある訳がない。

 《守護霊の呪文》など、【本人】にとっては嘲笑の対象でしかない。学ぶ価値も、習得する価値も無い魔法。それはある意味必定だっただろう。天才的な魔術の才能を持ちながら、愛だけは奴を見放した。

 だが、自分の近くには少年がいた。ドラコ・マルフォイ。ホグワーツの一年生で、純血の裕福な家に生まれ、両親の愛を一身に浴びて育った十一歳。普段は高慢な態度で、本来ならハリーや自分のような「マグル育ち」を鼻で笑う人種だ。だが今、少年の顔は恐怖ですっかり青ざめ、杖を持つ手が震えていた。

 

 「り、リドルさん……!」

 

 影が二つ、蠢いた。

 一メートル程距離を詰めてきたレシフォールドに気付き、ドラコの声は上擦って闇に溶けた。

 

 『―――ドラコ』

 

 このままじゃ、自分以外は殺される。だがドラコの震える姿を前にして、先程から頭の片隅―――端っこの方で冷徹な頭脳が素早い計算を始めている。

 彼の記憶―――両親に愛され、欲しいものは全て手に入り、不自由を知らない少年の幸福な記憶。それがあれば、レシフォールドを撃退できる筈だ。

 遂に獲物の追跡態勢に入った二匹のレシフォールドのマントが渦を巻き、その動きによって引き起こされた旋風が足元を這う。何処からともなく発された囁きが耳に響く。

 

 ―――お前も愛されなかった。【奴】と大して変わらない怪物だ。

 

 どうしてか膝が震え、杖を持つ手が僅かに緩む。……違う。怪物は【奴】の方に決まっている。

 首を軽く振って囁き声を振り払う。意を決してドラコの方を振り向いた。

 

 『ドラコ・マルフォイ!ここで死ぬくらいなら、何を差し出しても構わないと思えるか?』

 

 「えっ……何を、えっ」

 

 突然声をかけられて、ドラコは理解の及ばないまま呆けた声を上げるだけ。

 ……たった今閃いて、瞬時に構築を試みどうにか仕上げた、この場を切り抜ける唯一の解決策。それを何の支障も起こさずに、首尾よく実現する為には「協力者の強い同意」が必要だ。苛々とした気持ちをなんとか鎮めながら再び告げる。

 

 『レシフォールドを退ける方法……ぶっつけ本番でしかないが、最早「この魔法」しか考えつかなかった。そして、この魔法を成功させるのに必要な材料がある。……君の同意、それだけだ』

 

 「そっ、そんな魔法が?でも、同意……それって……」

 

 「トム、一体何を言って、」

 

 『早く答えろ!今君が一番望んでいるものは何だ!?分かりきっているだろう、ホグワーツに帰る事なんじゃないのか!一番望んでいないものは何だ?「死」―――これ以外に何も無い、その筈だ。君がここで僕に出す回答はたった一つしかない!どうなんだ!』

 

 ハリーの戸惑う声を遮って返事を催促する。強制させるのではなく、ドラコ自身が心の底から同意の意思表示をしなければ意味が無い。先程から錯乱呪文を唱えようとしたがる思考を霧散させ、根気強く問いかける。

 彼はこちらの気迫に押されてびくりと体を揺らしたが、すぐに瞬きを数度繰り返してぐっと息を呑み込んだ。

 

 「……、リドルさんの魔法……なんでもいい!僕、こんなところで死にたくない!」

 

 ドラコの目は恐怖で潤み、涙の膜が張り付いていたが、決意も宿っていた。

 無意識に唇が、ほんの一瞬、歪む。嘲りとも憐れみともつかない表情だった。

 ―――同意したか。なら、遠慮しない。心の奥でなけなしの罪悪感が疼くが、すぐに冷徹な理性がそれを押し潰す。全てはハリーを生かす為だ。

 

 『……分かった』

 

 杖をドラコの額に向けた。少年の瞳に強い不安が過ぎって揺れるが、逃げない。戸惑うばかりのハリーをひと睨みして、有無を言わさせず黙らせた。

 

 『ドラコ、生粋の魔法族である君なら、《守護霊の呪文》に必要不可欠な燃料は解るだろう。前に僕が君の記憶を引き出したことを思い出すんだ。ニコラス・フラメルの記憶を引き出した時だ……。あの時みたいに、全神経を注いで一つの記憶に集中しろ。君が今考えるべきものはただ一つ。今までの人生の中で体感してきた、幸福な記憶を!』

 

 咄嗟に両目を閉じ、ドラコの口元が力んで歪んだ。必死に命令通りの記憶を思い浮かべているのだろう。

 全ての準備は、これで整った。

 低く、抑揚なく、一気に唱える。

 

 『《エクストラクト・メモリアス》!』

 

 瞬間、ドラコの身体が硬直し、瞳が虚構を宿して焦点が合わなくなった。銀色の糸が少年の額から溢れ出し、まるで命そのものを引きずり出すように、サンザシの杖先に絡みつく。糸は朧げな光を纏う虹色に輝き、こちらの心へと流れ込んだ。

 突然、視界が眩んだ。

 

 ―――暖かな日差しの中、今よりも背の低いドラコが、父親が眺める中初めて箒で空を飛ぶ。小さな体が風を切り、笑顔のルシウスが「よくやった!」と叫ぶ。

 ―――スリザリンの談話室で、父親の手紙を読む。呪文のコツを丁寧に書いた手紙に、ドラコのじわりと胸が熱くなる。

 ―――母親とキッチンで誕生日ケーキを食べる。甘ったるいクリームの味、母親の温かな手がドラコの髪を撫でる。「愛しているわ、ドラコ」、ナルシッサの唇がその短い言葉を紡いでいた。

 

 痛い。

 熱い。

 心が焼ける。幸福だ。あまりにも眩しく、温かく、純粋な愛。

 だが、それは自分のものではない。異物のように心に居座り、凶器に似た輝きを伴って胸を締め付けている。

 

 『こんな……こんなものが……!』

 

 訳も分からず声は震え、目の前が霧がかったように霞む。

 ドラコの両親の笑顔が、自分の記憶―――父親の冷たい目、母親の嗚咽と混ざり合い、心の中で止められない暴風雨を巻き起こす。

 自分には……こんな記憶、無かった。心がギシギシと軋み、身勝手に叫びそうになる。だが、レシフォールドの影がすぐ近くまで迫っている。他人の記憶に翻弄されている暇は無い。下らない感傷をどうにか思考の隅に押しやって歯を食いしばり、杖を高く掲げた。

 

 『―――《エクスペクト・パトローナム》!』

 

 杖先から白い光が迸り、闇を切り裂く。光はしゅるしゅると伸び、美しさを孕んだ煙を携えて徐々に生物の形を成し、やがてくっきりと姿を現した。

 その生き物には、本来備わっているべき尾が無かった。尾がある筈の位置に、もう一つの頭がある。大樹と見紛う程の、太く長い身体の両端に頭を持つ巨大な蛇が、金剛石のような白銀の鱗を輝かせながら煙の中を優雅に滑っているのが見えた。

 

 『…………アンフィス、バエナ?』

 

 アンフィスバエナ。

 現れた守護霊の正体を突き止めようと咄嗟に閲覧した、日記帳の中の魔法生物に関する『知識』の引き出しに、その名が収められているのを発見できた。

 ギリシャ語で「両方向に進むもの」という意味を持つ、蛇の姿をした伝承上の生き物。時には、ドラゴンのような翼や脚を持つ姿を描かれる場合もある。

 神話に登場するエキドナやメデューサの血から生まれたとされる説があるが、ホグワーツの教科書に載っているような有名な生物ではない。少なくとも、『幻の動物とその生息地』には一切登場しない。要するに、魔法界でもマイナーな生物であった。

 両端に頭を持つことから、相反する性質や二面性を象徴し、移動の際片方の頭に噛み付き円形になって転がるという伝承から、永遠や時間の循環、再生をも象徴する。

 非常に毒性が高い一方で、薬効があるとも信じられていたらしい。その皮や牙は薬や魔術の材料として珍重された記録があり、中世では病気の治療や魔除けに使われるとされ、錬金術でも重要な素材だったとか。

 

 ―――二面性を象徴するという、圧倒的な存在感を放つこの巨大な毒蛇が、自分の守護霊?

 

 アンフィスバエナはこの世に顕現を果たした満足感からだろうか。主人であるこちらへ二つの顔を向けると、感謝と忠誠の意を示すように悠然と頭を下げてきた。

 突然巨大蛇から向けられる敬意にどう反応したらいいのか迷っていると、アンフィスバエナはすぐに前方へ向き直った。片方の頭は近付いて来る黒い影に気付くとギリギリと睨み付け、鋭い牙を剥いた後キシャーッと攻撃的な咆哮を上げた。もう片方の頭は余裕を感じさせるゆっくりとした仕草で鎌首をもたげながら、静かに目を細め守るように身を構える。伝承通りの二面性を象徴しているかのようなその姿は、自分の凍えた心とドラコの純粋な幸福とが混ざり合ったものなのだろうか。

 

 「あ、あ……、へっヘビだ……ッ」

 

 ハリーの驚愕と感動の混じった呟きを合図にして、アンフィスバエナが二匹のレシフォールドに突進する。

 異例な手段で生み出された守護霊の攻撃は、自分でも信じられないぐらい正確で素早かった。

 片方の頭が狙い違わず力強く噛み付き、首を振って一匹を暗闇の彼方へ放り捨てた。もう一方の頭はハンマーのように身体を振り上げてから、二匹目を自身の腹で叩き潰してしまった。二つの頭が同時に攻撃するその動きは、まるで生き物の本能を超えた魔法の舞いだった。

 潰されたレシフォールドが悲鳴のような唸りを上げた。アンフィスバエナの腹と地面の隙間からその薄い全身を精一杯伸ばして脱出を遂げると、そのままズルズルと滑る速度を落とさず森の奥へと退却していく。

 敵の無様な逃走をしっかり見届けて、アンフィスバエナは互いの頭を寄せ合い巨大な指輪のような姿を形作る。こちらの緊張を解すような、不思議な暖かさを感じさせる白い煙を残し、露となって消えていった。

 

 『―――、はっ…………』

 

 禁じられた森にようやく静寂が戻り、息を荒げて膝をついた。背後でハリーも大きく息を吐いて項垂れている。

 ……まだ終わりではない。ドラコの記憶がまだ胸の中で燻っている。父親の笑顔、母親の抱擁―――自分が決して知らなかった愛が、まるで火傷のように心を焼き続ける。頭が割れそうなぐらいジクジクと不快げに痛み、視界がぼんやりと揺れる。こんな記憶は……耐えられない。

 すっかり脱力して地面に座り込んでいたドラコが、虚ろな目で呟く。

 

 「……なんだか……頭が……空っぽだ……」

 

 少年の声は弱々しく、普段の高慢さも恐怖から来る震えも無くなっていた。まるで魂の一部を失った廃人のように、焦点の合わない目でレシフォールドが去っていった方角を見つめている。

 彼の近くに立っている樫の幹、その傍に、縄に似た細長い影がするすると蠢いて、茂みの中へ消えていくのが見えた。シュー、という空気が抜けるような音、その余韻が聞こえてきたのは思い過ごしだろうか?

 

 「ドラコ!……ねえトム!ドラコに何をしたのさ、あ……いや……、あいつらを追い払う為だっていうのは、分かる……けどっ」

 

 明らかに様子のおかしいドラコの体を支えながら、ハリーが当然の疑問を投げてくるが答える余裕はない。震える手で杖を握り直し、ドラコに向き直った。

 

 『……返す。こんなもの、僕には要らない』

 

 声は低く掠れて、どこか壊れそうだった。疲労で震える杖をドラコの額に近づけ、新たな呪文を唱える。

 

 『《レスティトゥート・メモリアス》……」

 

 銀色の糸がこちらの杖先から溢れ出した。もどかしさすら感じる、酷くゆっくりとした動きでドラコの額へと戻っていく。少年の瞳に段々と意志の光が漲り、全身がぴくりと小さく震えた。

 少年の記憶―――父親との箒の飛行、呪文の手紙、母親のケーキが彼の心に還った。自分の胸から幸福な映像の数々が消え去る。代わりに安堵すら覚える、いつもの馴染み深い虚無感が舞い戻ってきた。火傷のような痛みも薄れ、心中で悲鳴を上げていた暴風雨が遂に静まってくれる。

 ドラコがハリーの肩を借りてゆっくり立ち上がり、混乱しながらも正気を取り戻した目でこちらを見つめた。

 

 「……リドルさん?何……何だったんだ、今の……?」

 

 少年の声には、微かな恐怖と不信が入り混じっていた。だが、一から十まで丁寧に説明している時間は残されていない。目を逸らし、杖をローブにしまう。

 

 『当事者の君には、知る権利はあるだろうが……。もう、時間、が……ッ』

 

 ―――そう、最早限界だった。とうとう全身が薄らと透け始めた。とてもじゃないが説明してはやれない。

 この体の持ち主に備わっている天才的な魔法の才能。初めて習う呪文は大抵初回で成功してきた確かな実績。そこに幸福な記憶さえあれば、一発で《守護霊の呪文》は形を成すだろうという確信があっての、この所業だった。

 単純な話だった。幸福な記憶がそもそも無いのなら、他人から奪えば良い。だからこそ記憶を暴いて閲覧するだけの『開心術』ではなく、『記憶を抽出し吸収する類の魔法』を新たに構築させる必要があった。

 とても都合の良い事に、この体は『記憶』に関する日記帳の分霊箱だった。他人の記憶を奪うだけでなく、完璧に取り込んで自身のものにしてしまえるよう機能を拡張させるのは、そう難しい事ではなかったのだ。この事が知られたら、勝手に改造するなと【本人】に怒られそうではあるがどうでもいい。

 

 結局、自分はホグワーツに見放されてはいなかったのだろうか……。

 虐待されて育ってきたハリーと違い、幸福な記憶をたっぷり溜め込んだドラコが同行していたのは、偶然とはいえとんでもない幸運だった。

 「助けを求める者には、それが与えられる」―――あれは、【本人】と全ての分霊箱にとっての天敵であるダンブルドアの言葉ではあるが、今だけは深く感謝していた。普通の人間では絶対に乗り越えられなかった今夜の危難を、全て片付けられた……。

 

 「トム……!か、体が!!」

 

 わたわたと焦るハリー。大慌てで日記帳を開き、魔力を提供しようと何かを書こうとしていたので、静かに止めた。その間にも体はどんどん薄れて存在感が消えていく。比例して意識も揺らぎ始めた。

 

 『いい……いいんだ、ハリー。これは、魔力の問題じゃない―――蓄積した疲労、なんだ……。君が何を書こうと、僕はじきに消える……』

 

 「ちょっ、ちょっ……ちょっと!消えるって……!僕達、どうしたらっ」

 

 『もう……君達を襲う連中は、とっくに全部、僕が片付けた。あ…あとは……ハグリッドに回収してもらえ……』

 

 「トムは!?ねえ、トムは……君は……死なないよねッ!?」

 

 『死ぬ、もんか……。ちょっと休む、だけ……ッ、だから、ハリー。……日記を……そのまま―――も、持って―――』

 

 「わ、わ……分かった。持ってるよ、ちゃんと!誰にも触らせないから!でも、ああ、どうしよう、消えちゃう……!」

 

 もう体を支えていられない。力の抜けた全身を地面の上に投げ出し横たえた。そうしてしまえば、這い上がってくるような眠気に捕らえられて、いよいよ逃げられなくなった。

 

 『は、ハリー…最後に、頼みが……』

 

 「何!?早く言って!何でもするから……!」

 

 『ぁ……、あ、く…………、―――ぇ、…………し、……』

 

 「き……聞こえないよ……何をすればいいの!?」

 

 唇は動けど声が出ない。最後の足掻きで、要望の詳細を文字にして日記帳のページに浮かび上がらせることにした。トントン、と人差し指で地面を叩き、帳面を確認するようジェスチャーで伝える。すぐに気付いたハリーは、はっと息を零して日記へ視線を移している。

 

 ―――ああ、もう、無理だ。

 どうしようもなく眠い。

 あれだけ、頑張ったんだ……。ここで少し休んだって、誰も責めはしない、だろう……?

 

 駆け寄ってくるハリーとドラコの姿が、視界に収まった最後の光景だった。

 意識が完全に途切れる瞬間、全身が淡い光の粒子へと変換され夜闇へと舞い上がり、頼りなく周囲を照らしては消えていくのを感じた。

 

 ―――次に意識を取り戻した時。

 願わくば、ヴォルデモートの懐ではないことを祈るしか、今の自分にはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 【―――やあ。おかえり】

 

 ぬるま湯に沈められているかのような、全身を覆う浮遊感。

 頭上から降ってくる、聞き飽きた誰かの声。

 床も地面も無いその空間で、何にも触れていない背中に、人の両手が添えられる感触。

 

 【災難だったね。傍観者からしても、君は本当に酷い目に遭っていたと思うよ】

 

 仰向けに抱きかかえられるような格好を強いられていても、意識は深い眠りへの旅路に連れ去られており、何も見えず、何の行動も起こすことはできなかった。

 どういう訳か唯一働いている聴覚と触覚だけが、自身に起こっている状況を漠然と報告しているのみ。

 

 【―――でも、非常に面白かった。君はいつもこちらの想像を越えてくるのだから。レシフォールドを消滅……挙句の果てには、《守護霊の呪文》ときたものだ。君の守護霊はとても美しかったね。信じていたよ、君ならあんな絶望的な危難さえ、全て片してしまえるって】

 

 独占欲を秘めた手が顎を掬うのを感じる。やや遅れて、振り払いたくなる鬱陶しさも。

 

 【……だが、レシフォールド―――やはりあの下等生物は許し難い。君に触れるどころか、あまつさえ養分として自分の物にしようとするだなんて。こちらの依代を手に入れたら、マグルよりも先に滅ぼすとしよう】

 

 傲慢さの滲む怒気が声に乗って飛来し、皮膚の上を這いずってくる。やはりその感触は鬱陶しくて、けれども絶対に逃れることはできない。

 

 【魔力を寄越せと言われた時は流石にびっくりしたけど……今まで散々こちらを雑に扱ってきた君の方から、あんなにも激しく求めてくるのは……初めてのことだ。応えない訳にもいかないだろう】

 

 言葉の内容が、不明瞭な意識では正しく理解できなかった。何を言っているのか聞き取れても、何を意味しているのかが一向に呑み込めない。

 

 【それに……嬉しかったな。君がその体を受け入れてくれたのは。是非とも大切に扱ってほしい】

 

 すり、と片頬を撫でられた。鈍くても稼働している触覚が、その手付きを気色悪いものだと訴えてきても、体のどこも動かせない。早く終われ、という受動的な思考力しか働いてくれなかった。

 

 【ありがとう。受け入れてくれて】

 

 短い感謝の言葉。

 こんなにも不愉快な気持ちが沸き上がる「ありがとう」なんて、他にあるだろうか。

 何も聞きたくない。ぼんやりと考えても、そんな自分を嘲笑うかのように聴覚は問題なく声を受け取り続けている。

 

 まるで暗示でもかけるかのように、声の主が耳元に顔を近づけてくる気配がした。

 これから訪れるであろう不確定な未来や、起こりうる可能性の全て。それらを何もかも飲み込み、娯楽として愉しむかのような高揚した声が、密やかに囁いてくる。

 

 

 

 

 【―――今宵、ここに『新たな帝王』は降誕した。誰もその事実を知りはしない……僕以外は。全く、素晴らしいことじゃないか?指を咥えて見ているがいい、ケンタウルスども。お前達が知り得た情報を本人に譲渡したところで、『予言』は何一つ変わりはしないという結末をね】

 

 

 

 




作中オリジナル呪文
《アニマ・フランゴ》(Anima Frango)
⇒レシフォールドの魂を破壊し生命活動を停止させる呪文。
レシフォールドへの憤怒のあまり創造された呪文なので、効果はレシフォールド特攻に全振りされており、他の魔法生物、動物、及び魂を持った物質(分霊箱)には今のところ効果は無い。《リディクラス》がボガート以外に効果の無い呪文であるのと同じようなもの。
《アバダ・ケダブラ》と文字が同数になるように創らせていただきました。

《エクストラクト・メモリアス》(Extracto Memorias)
⇒詠唱者が他者の記憶を自分のものとして取り込む為の呪文。
『記憶』に関する日記帳の分霊箱にしか使いこなせない。忘却呪文とは全く違う性質なので、取り込んだ記憶を一切の欠落なく持ち主に返還することが可能。
《エクスペクト・パトローナム》に語感が似るよう創らせていただきました。

《レスティトゥート・メモリアス》(Restituto Memorias)
⇒詠唱者が記憶を奪った対象へ記憶を返還する為の呪文。
『記憶』に関する日記帳の分霊箱にしか以下略。
《エクスペクト・パトローナム》に語感が似るよう以下略。


同居人君が不自然に沈黙してるシーン、
あれはただ単に《脳クチュコンファンダス》にドン引きしていただけです。
伏線も何も無いです。
魔法族は脳に直接錯乱呪文や服従の呪文かけるなんて惨い所業しないので……。

ということでお疲れ様でした、これにて長かった『禁じられた森』編は完結です。
今回だけでも前後編合わせて合計文字数40000字越え。イカれてらぁ!
次回から『原作第一巻クライマックス』編開始ってところですかね。
もうちっとだけ続くんじゃ。

8/18追記
この暑さでおいらの脳味噌がクルーシオなのでしばらく更新が困難です。土下座。
皆様も体調にはくれぐれもお気をつけ下さい
近年の夏季はマジで簡単に人がアバダりかねないので
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