転生したら分霊箱だった件   作:@ゆずぽん@

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食欲の秋に失礼します。
僕も領域展開で昼メシを生み出せるようになりたいです。
対戦よろしくお願いします。


Page 36 「あの子が殺したクックロビン」

 意識がはっきりした瞬間、自分がどこにいるのか理解できなかった。

 瞼の裏に焼き付いている最後の記憶は、崩れ落ちる自身と子供の叫び声。

 憶えているのは、他人の記憶を利用し、危機的状況を辛うじて脱した瞬間の燃えるような疲労感だった。

 だがどうだろう、今の己を取り巻くのは静寂と冷気だけだ。

 不審感に促されて目を開けると、そこは現実とも夢とも判断がつかない、曖昧で不穏な空間だった。

 

 眼前には、夜の帷が落ち切った暗闇に沈む広大な庭園と、その奥に聳える西洋風の荘厳な屋敷が広がっていた。屋敷はまるで古臭い油絵から抜け出したかのようだった。

 灰色の石壁は無遠慮に繁茂する苔と蔦に侵され、所々稲妻にも似たひび割れが走っているが、その傷跡すら計算された細工にさえ感じた。尖塔がいくつも突き立つ屋根は、黒い瓦が月光を吸い込んできらりと光り、何かの生き物の鱗ではないかと思った。巨大な鉄門は錆びた装飾で覆われ、まるで中世の要塞かと見紛う重厚さである。

 しかし、真っ先に目に留まる華やかさや威厳とは裏腹に、屋敷全体からはどこか陰鬱な気配が漂っていた。まるで物語にしばしば登場する魔王が潜む古城、またはあらゆる生者を拒む死の館、だろうか。形容しがたい暗さ、といった何かがまとわりついていた。夜の闇はずっしりと深く、星の見えない空が屋敷を重く覆い、この場所が誰も知らない世界の果てに取り残されたかのようだった。申し訳程度に、唯一の光源である月だけが儚く夜空に横たわるだけ。

 

 庭園は、月光に照らされてなお暗い影を落としていた。整然と刈り込まれた生垣は毛細血管のように複雑に絡み合い、その間には蜷局を巻く蛇の形を模したトピアリーが不気味に佇んでいた。頭部の枝は月光を浴びてぼんやりと薄く光り、今にも動き出しそうな生々しさがあった。

 トピアリーのすぐ近く、庭の奥には冷たそうな白い石で形作られた小さなフォリーが立っていた。神殿にも見えるその構造は、屋敷の荘厳さに合わせた装飾が施されているが、どこか異教的な雰囲気を漂わせ、外壁に爬虫類の鱗を思わせる模様が刻まれていた。

 フォリーの中心には小さな祭壇があり、何かが供えられていたが、暗闇に沈んでその姿は定かではなかった。

 ……いや、それで良かったのかもしれない。ちらりとだけ半端に確認できた捧げ物。見間違いだと思いたいその正体が、人骨に見えたからだ。昔、祖父の火葬でも全く同じ物が目に焼き付いている。

 明らかに普通ではないオブジェばかり。この庭園全体が、客人を招くつもりも楽しませるつもりもない、自惚れた権力者が仕上げたみたいだった。

 

 呆然と立ち尽くし、冷や汗が背筋を伝うのを感じる。

 ここは……どこだ?こんな場所、知らない。ただ……懐かしさや虚しさを感じる、ような。

  頭の中で状況を整理しようとするが、記憶は寝不足が蓄積してきた時のようにぼやけ、思考は泥を被ったように重い。

 あれはどんな変人が待ち受けているかも分からない気味悪い建物だ。それに、錆や傷のいくつかが目立つとはいえ、どう見てもお高くとまったこんな豪邸。もしも不法侵入でもした日には命がないだろう。そう考え、屋敷に近付く気は毛頭なかった。

 ……だが、その決意とは裏腹に、自分の足はとことこと勝手に動き始めた。その様はまさしく光に引き寄せられる羽虫。細かい理屈なんてすっ飛ばして、本能に突き動かされるように鉄門へと向かう。足取りは不気味なほど軽やかで、肉体と意識を繋ぐ糸がぶつりと断ち切られたイメージが頭を掠める。

 

 やめろ、動くな、何なんだこの足!

 

  内心では思い切り叫び、その後じわりと浮かんできた恐怖と嫌悪感が胸を締め付けてくる。だが、どんなに抵抗しようとも足は止まらない。まるで体内に別の意志が宿り、こちらの自我を嘲笑うかのように体を好き勝手に動かしていた。嫌悪感は理由もなく沸き上がり、この屋敷そのものが自分の存在を飲み込もうとしている大蛇ではないか、と本気で仮想した。

 どうにか必死に無表情、無言を保ち、感情を押し殺そうとした。冷静でいなければならないからだ。この異常な状況で、感情に飲まれて思考を放棄したら終わりである。それでも心の奥では常に焦燥感が渦巻き止まってはくれず、胃の中に冷たい石が沈んでいる感覚が広がっていた。

 

 鉄門に近付くと、まるでこちらの到来を待っていたかのように、キイキイと小さく軋む音を立てて門がひとりでに開いた。誰も触れていない。気配すらない。なのに、門の動きは歓迎するかのように軽快で、どこか不自然な優雅さを湛えていた。誰かに見られることを意識したような、気取った動きに見えたのはどうしてだろうか。

 気持ち悪い。何故こんな現象が起きているのだ。理由のわからない嫌悪感に苛まれて唇を噛むしかなかった。

 

 門をくぐると、先程観察していた庭園だ。

 整然と刈り込まれた生垣、月光の下で銀色に輝く噴水、ローブを着た人間の色褪せた石像が並ぶ小道。その光景は人工的で、自然の息吹を欠いた作り物の箱庭だ。花々が咲いている筈なのに香りはなく、風すら感じられない。時間の止まった、死の世界の庭。蛇型のトピアリーが、まるでこちらの動きを監視するかのように、静かにその姿を晒している。

 

 庭を抜け、屋敷の玄関扉に辿り着くと、扉もまたひとりでに開いた。重たいオーク材の扉が、幽霊の手によって引かれるように静かに動く。心臓はとっくに早鐘のように鳴り、背筋に冷たいものが走った。

 やはり誰かいるのか?こんな場所に……。

 だが扉の向こうに人の気配はなく、ただ冷たく湿った空気が流れてくるだけ。

玄関扉が開いた瞬間、屋敷の奥から微かな歌声が聞こえてきた。高過ぎず低過ぎずの、中性的だが良く聴けば男だと分かる、美しく透き通った声。だが、その歌詞は異彩を放つものだった。

 

 「誰がクックロビンを殺したか? それは僕だとスズメが言った。 僕が持ってる弓と矢で 僕がロビンを殺したよ」

 

 蠱惑的に鼓膜を震わす、聞き覚えのある伝承童謡(マザーグース)。それは小さい頃、母がよく子守唄として口ずさんでいた……。

 クックロビン、という生き物の殺害から葬儀までを歌う不気味な童謡が、屋敷の廊下を這うように響き渡っていた。歌声は人間のものだろうか?それともこの屋敷自体が歌っているのか?聞き心地の良さと歌詞の残酷さが奇妙に調和している様が、何故か軽度の吐き気を誘った。

 『誰がクックロビンを殺したか?』―――それは駒鳥が殺される物語を表現する歌。童謡にしては少々猟奇的な内容。今にして思えば、こんなものをあの女は子守唄にしていたのか。

 

 「誰がロビンの墓穴を掘るか? それは僕だとフクロウが言った。 僕は持ってるシャベルとつるはし 僕が掘るのさ墓穴を」

 

 マザーグースは止まらない。不吉な予感を齎す歌声から意識を逸らそうと、自由に動く視線を巡らせる。そうして視界に広がる屋敷の中は、予想通り西洋の貴族の館そのものだった。それらを眺めている間にも、足は確実に屋敷の中を進んでいく。

 巨大なシャンデリアが玄関ホールに吊り下げられ、無数のクリスタルが窓から降り注ぐ月光を反射して鈍色の光を放っていた。ホールの奥に設置されているのは、やけに視線を引き付ける豪華な三人掛けのソファー。床には見事な深紅の絨毯が敷かれ、その上に描かれた金色の紋章は、二匹の蛇が絡み合う複雑な模様だった。

 極め付きは廊下。典型的な貴族の姿を描いた古い肖像画が、薄紅色のボタニカル柄の壁紙上を埋め尽くすように、何枚も飾られている。昔通っていた学校の音楽室を思い出した。描かれた貴族達の目は、侵入者であるこちらを控え目に見つめているようだった。

 

 『……っ、な……、何だこれ……』

 

 初めて声が漏れた。他の物よりも明確に大きな一枚、人間の全身が収まる程の肖像画に、在ってはならない存在が在ったからだ。

 黒髪に、特徴的な碧眼、だが結膜下出血によって臙脂色に染まりかけている眼球。無駄に小綺麗で腹立たしいが、やや童顔なそいつの目元、雑に伸びた前髪の裏側に不気味な隈が浮かんでいる。

 

 ……そう、それは紛れもなく、前の世界の自分自身だった。

 

 それだけでも充分気持ち悪いのに、この屋敷は自分の不快感を更に煽るのが得意らしい。肖像画は、ただ自分の姿を描いているだけではなかったのだ。

 絵の中の自分は、両端から伸びている真っ黒い茨に胴体を巻かれ、両手で黄色い水仙の花を持ち、皮膚が青白い馬に跨っていた。馬の目は死体のように空虚で光を反射しておらず、黒い茨は馬から降りることを許さない、と言わんばかりに体を締め付けているように見えた。

 加えて、肖像画の自分はそんな状態でも涼しげな顔をして、冷たく静かに微笑んでいた。両眼の焦点は危ない薬物でも摂取した直後のように微妙にずらされて、絵の中でも外でもないどこかを眺めている。この姿は最早当たり前の日常であると、自分は全てを諦め受け入れているのだと、鑑賞者に向けて主張しているみたいな……

 

 『何故……こんな絵が』

 

 有り得ない。有り得ない筈だ。

 この姿は、本来の姿は、この世界で自分しか知らない筈だ。何処の誰がこんな絵を描けるというのだ。

 仮に自分の真の姿を知っている者が居たとして。そいつは何を考えてこんな絵に仕上げやがったのだろう。あの青白い馬……確か、黙示録とやらに出てくる何かだったっけか?

 絵に込められた意図を知る材料が無いかと視線を動かせば、それはあった。額縁のすぐ下に肖像画のタイトルを示すものだろうか、文字を刻んだ銀色のプレートが貼り付けられている。

 

 [The Departed]

 

 分かり易いブロック体で短く刻まれた英語。それが意味する事を理解した瞬間、息を呑んだ。

 全身に恐怖が広がる。同時に怒りも沸き上がってきた。

 ふざけるんじゃない。何涼しい顔をしているんだこいつは。思い切り茨の棘が食い込んでいるだろうが。絶対痛いに決まっている。今すぐこの絵を引き裂いてやろうか。

 今し方脳内を支配した欲求が叶う事はなかった。野蛮な衝動は、すぐに霧に覆われたようにぼやけたからだ。足が動くまま、肖像画の並ぶエリアを通り過ぎていく。

 

 廊下を進むと、壁には乾いた血痕が飛び散っていた。それらは不規則にこびり付いており、何かが―――人間ではない化け物か何かが、ここで暴れた痕跡のように見えた。

 床にはひび割れたフローリング、窓ガラスには子供が癇癪を起こして壊したかのような傷や破損が目に入る。完璧に砕け散って外気の侵入を許しているものさえある。

 やはりこの屋敷は単なる豪邸ではない。何か恐ろしい出来事が繰り返されてきた場所だ。じくりとした緊迫感が背筋を走るが、足は止まらない。

 廊下を出てすぐの階段の手すりは黒檀でできており、彫刻された蛇の頭がてらてらと光を反射していた。調度品はどれも豪華だが、どこか古びており、埃と時間の重みが漂っていた。

 

 「誰がその棺を運ぶのか? それは僕だとトビが言った。 夜通しではないならば 僕が棺を担ぎゆこう」

 

 今や自分の足は、まるで屋敷の内部を熟知しているかのように、迷うことなく動き続けている。徐々に歌声が大きくなっていて、声の主までの距離が近付いているらしかった。

 長い廊下を抜け、螺旋階段を登り、迷宮の如き屋敷の奥深くへと導かれていく。……その構造に、迷い込んだ者を逃がすまいとした思惑が隠されている気がして、一向に心が静まってくれなかった。

 頭では「逃げろ」と叫んでいるのに、体は従順に動く。蜘蛛の巣に引っかかった無様なマリオネット。廊下の窓からは月光が差し込み、ガラスに映る自分の顔は、気味が悪い無表情で青白かった。

 

 ―――自分は、こんな顔だっただろうか?

 ……よく、分からない。

 

 肖像画の黒髪の少年と、ガラスの中で歩いている黒髪の少年。両者の姿は同一にも見えたし、全くの別人にも見えた。

 ……そうだ。同じかどうか判別する方法はある。袖に隠れた自分の手首を確認しようと一瞬思いついたが、その思いつきはすぐに消え去った。既に自分を構成する何もかもが、自由ではなくなっていた。この屋敷は、訪問者の心を少しずつ侵食しているようだった。

 

 ―――やがて、一つの部屋に辿り着いた。

 重厚な両開きの扉が開くと、そこは広々とした食堂だった。長い長方形のテーブルには真っ白なテーブルクロスが完璧に敷かれ、少しの緩みも許さないようにピンと張っていた。

 テーブルの周りには質素な椅子が整然と並び、部屋の奥には暖炉が赤々と燃えている。その炎は暖かさを感じさせず、むしろ冷たい光を放っているようだった。壁には金箔の装飾が施され、天井には天使と蛇が絡み合うフレスコ画が描かれていた。その蛇の目は庭園のトピアリーと同じく、生きているかのように自分を見つめていた。

 

 そして、テーブルの一番遠い端、短辺に位置する豪華な椅子。背もたれに複雑な彫刻が施されたそれに、男が座っていた。周りの質素な椅子と見比べれば、あの男の立場や身分は恐らく高いのだろうという事が一目で分かる。そんな彼の姿を認識した途端、ようやくマザーグースが止んだ。

 残念だ、もっと聴きたかったのに―――そんな幼稚な感想が過ぎった自分の頬を自分で殴り飛ばしたくなった。あの歌をこれ以上聴くだなんて冗談じゃない。こんな心証を抱くなんて、今の自分は間違いなく真面ではない。無論、腕はうんともすんとも言わなかったけれども。

 

 男は黒いローブをまとい、フードを深く被って顔を隠していた。ローブはシンプルだが、闇そのものを織り込んだような深みのある黒で、袖から僅かに覗く手は青白く、血の通わない石像のよう。背は高く、細身の体型だが、どこか人間離れした雰囲気を漂わせていた。

 テーブルの上、男の目の前に銀のカトラリーとクローシュに覆われた皿が置かれていたので、彼はこれから食事を始める直前だったらしい、と思った。だが、たった今部屋中に突き刺さる静けさと整然さが、とても食事時とは思えない異様な緊張感を生み出していた。

 

 男はこちらの入室に気付くと、その到来を予期していたのか、ゆっくりと顔を上げた。「ようこそ」とでも言うかのように、余裕たっぷりに手招きしてくる。

 

 「入るといい。ちょうど食事の時間だ。君も一緒にどうだい?」

 

 男の地声は低いがよく通り、絹のような上品さと柔らかさを持っていた。しかしその柔らかさの裏に、ナイフのような脅威を隠し持っている気がした。

 胸に先ほどから続く嫌悪感が再び沸き上がり、顔を歪める。

 こんな状況で食事?ふざけるな―――頭の片隅ではそう叫ぶが、口には出せない。体は動かず、まるで根が生えたようにその場に立ち尽くしていた。

 

 「心配しなくていい。変なものは入っていないよ」

 

 動かないこちらに対し男は小首を傾げ、それから内心を見透かしたように言った。

 

 「君は今、疲れているだろう。栄養を取れば回復するかもしれない」

 

 その言葉を耳にした瞬間、頭に霧がかかったような感覚が余計に広がった。思考がぼんやりと鈍り、水面に浮かぶ木の葉のように、感情が削ぎ落ち静かに凪いでいく。嫌悪感も焦燥感も全て夢だったかのように消え、男の存在が絶対的な安心感を与えてくれる錯覚に囚われた。

 一体何が起きてるんだ?微かに残る自我が叫ぶが、相変わらず声にはならない。足が勝手に動き出し、テーブルの長辺、男に最も近い席へと吸い寄せられる。

 男は満足げに微笑んだ。その笑みは唇の端が少し上がるだけで、彼は罠にかかった獲物を眺める捕食者でしかなかった。フードの奥に隠れた顔は見えないが、目だけが暗闇の中でギラギラと光っていた。

 心臓は今すぐ逃げ出したいと言わんばかりに肋骨を叩き続けていたが、その恐怖すらぼやけて他人事のように遠く感じられた。

 テーブルに辿り着くと、男は軽く腕を振った。すると、虚空から回転しながら豪華な椅子が現れ、テーブルの横に滑り込んだ。男が座っている物と全く同じ装飾の、豪華な椅子。

 

 「座るといい。君だけの椅子だ」

 

 男の言葉には、どこか意味深な響きがあった。初対面の筈なのに、「君だけの」という言葉がやけに胸に刺さる。

 何故そんな言い方をする?何故この男は、自分を知っているような口ぶりなんだ?

 だが、疑問を口にすることはできなかった。綿が詰まったように重い頭では、意識では、男の言葉に逆らえない。無表情のまま、椅子に腰を下ろした。座面は冷たく、氷の上に座ったような感覚だった。

 男はそれを見て更に微笑みを深め、テーブルの上にあるクローシュ付きの皿を手に取り、こちらの前に滑らせた。同時に銀のカトラリーがふわりと浮き、同じくこちらの手元に移動する。

 

 「これも君の為に用意した。口に合うといいんだけど」

 

 その声は甘く、しかしどこか毒を含んだ響きだ。その声が何かしらの刺激となって作用したのか、自我が一瞬だけ帰ってきた。

 

 『これ……ボクが食べてもいいのか?』

 

 しかし刹那に取り戻した自我でできた事と言えば、下らない質問を投げるだけだった。声は震え、自分のものではないように弱々しかった。頭が正常なら、こんな怪しい食事に手をつける筈がない。そもそも屋敷に足を踏み入れることすらなかった。だが今の自分には選択肢がない。抵抗する力すら奪われている。

 

 「もちろんだ。君の為に用意したと言っただろう」

 

 男が指をくい、と動かすと、クローシュが宙に浮き、くるりと回転して消えた。皿の上に現れたのは、白蛇の亡骸だった。傷一つなく、たった今殺されたかのように新鮮で、鱗は窓からの月光を反射して美麗な白銀色に輝いていた。調味料も付け合わせもなく、ただ白蛇の肉だけが皿に横たわっている。

 ……普通なら有り得ない光景だ。こういう食材を使う国や地域があるのだけは知識として知っているが、蛇などまず食卓に並ぶ筈がない。そう思っても、視線が白蛇から離れられなかった。

 ふと、腹の底から巨大な食欲が湧き上がった。ごくりと喉が鳴る。

 まじまじと観察すれば、肉の断面は最高級の霜降り肉みたいに、繊細な脂の層が透けて見えた。新鮮で柔らかく、信じられないほど美味しそうだったのだ。

 こんなもの、食べられる訳がないだろうと頭では反論したが、猛獣のような飢餓感が神経の隅々にまで行き渡ってそれは意味を成さなかった。極限まで飢えた人間が腐った死肉や汚水にすら手を伸ばしてしまうように、白蛇の肉が抗いがたい魅力で誘惑してくるのだ。

 

 ―――食べたい。今すぐ食べてしまいたい!

 

 指先が震え、口の中で唾液が勝手に滲み出す。理性では拒絶しているのに、体は肉を貪りたいと叫んでいる。何日も何日も飢えに耐えてきた旅人のように、目の前の白蛇だけが生きる為の唯一の糧に見えた。ナイフを持った手が素早く動き、白蛇が最も美しく見えた部分をせっせと切り取る。そんなこちらの様子を、男は頬杖をつきながら観察している。出来栄えの感想を待ち望む料理人のように、口を挟む事なく見つめていた。

 

 ―――嫌だ、食べたくない……こんなもの、気持ち悪い……。

 

  頭の片隅に居座る自我が必死に抵抗する。だが、今更体の動きは止まらない。両の手はナイフとフォークをしっかりと握り込んでいる。切り取った白蛇の肉の欠片にさくりとフォークを突き立てた。その直後だけ手は震え出し、一時停止して、食事に対する抵抗の意志をほんの僅か示す。男の視線はその光景すら嘲笑うようにぎらついた。

 

 「どんな人間でも、生理的欲求には逆らえない。君もそうだろう?」

 

  男の声が頭の中に直接響いてくる。彼は低く、冷たく笑った。

 その瞬間、ちっぽけな抵抗は完全に砕け散ってしまった。

 フォークに刺した白蛇の肉をするりと口に運び、押し込む。肉はひんやりと舌触りの良い冷たさで、咀嚼して味を楽しむより一刻も早く嚥下したくなって、喉の奥へと滑らせた。ゆっくりと腹の奥に沈んでいく肉。次の瞬間、全身に電流が走ったような衝撃が襲い、体がびくりと跳ねた。

 得体の知れない『何か』が体内を駆け巡り、一つになる。まるで「最初からお前の一部であった」と主張するかのように。すぐさま五感が訴える圧倒的な違和感。痛みなどはない。だが、確実に受け入れがたい感覚。

 

 これは一体何なんだ?

 その疑問に答えはない。誰も教えてはくれない。

 今の感覚が原因で呼び起こされたのか、自我がようやく戻り、ガタンと勢いよく椅子を倒しながら立ち上がった。

 

 『うぁ、はぁッ……!』

 

 はあはあと荒い息をつき、持っていたカトラリーをテーブルに叩き付けた。ガシャンと響く耳障りな金属音。冷や汗に塗れながらもぎろりと男を睨み付ける。男はこれといって動じることはせず、変わりなく優雅にこちらを眺めていた。予想通りの展開だとでも言いたいのだろうか。

 今となっては男に構ってはいられない。無視して出口へ走り出そうとした。

 吐き出さなければ。この肉を、この異物を、どうにかして体内から追い出さなければ。

 だが足を稼働させようとした時、長いテーブルクロスがひらりとめくれ、そこから黒い影がしゅるりと飛び出した。次の瞬間には、体に何かが巻き付いていた。バランスを崩し床に倒れ込む。見ると、それは巨大な大蛇だった。鱗は黒く、目は爛々と赤く輝き、シューシューと唸るような声が原始的な恐怖を煽った。締め付ける力は強く、体を完全に拘束していた。

 そこで、堪えきれないと言うように男がくすくすと笑い声を上げた。

 

 「ふっ……ふふっ、面白い……!」

 

 声は舞台の幕が上がった瞬間のような高揚感に満ちていた。大蛇は明らかに男が用意していた刺客だ。屈してなるものかと、倒れたままでも男を睨み続ける。

 その時。大蛇の締め付けに息も絶え絶えになりながらも持ち上げた視界の端が、壁に掛かった肖像画を捉えた。それは屋敷の廊下で見た時の、青白い馬に跨る自分の姿が描かれた絵だった。

 しかし、今目に映る肖像画には、決定的な違いがあった。絵の少年に絡み付く茨からは、黒い薔薇が不気味に咲き乱れていた。その中心にいる彼の表情は微笑んでいるままだったが、左目だけ一本の慎ましい涙を流している。両手に持っていた筈の水仙の花は茶色く枯れ果て、死を象徴するように萎れていた。

 そして、肖像画の下に取り付けられたプレートには、冷たい金属の文字でこう刻まれていた。

 

 [Cock Robin]

 

 タイトルが変わっている。

 此処で聴いた、あのマザーグースと同じタイトル名に。

 殺された哀れな駒鳥。()()()()()()()()()()()()()()

 ただでさえ動きを制限されている中、瞬時に全身が凍り付いた。全ての言葉を失った。初めて肖像画を目にした時の怒りや衝動は、何処かへ吹き消されていた。

 

 『あっ……、あぁ……』

 

 何も言えなくなった滑稽な姿を見て、男はこちらではなく、大蛇に向かって声を発した。シューという、まるで蛇の鳴き声のような音。人間の言葉ではない。

 

 「隕九m縲ゅ%縺ョ蟄舌?繧ゅ≧蜒輔i縺ョ莉イ髢薙□縲」

 

 意味はさっぱり理解できなかったが、反応した大蛇が鎌首を上げ、こちらの顔を覗き込む。赤い目が、魂を覗き込むようにじっと見つめてくる。最後の気力を振り絞って恐怖を押し殺し、毅然と睨み返してやった。殺すつもりならさっさとやればいい―――そう思ったが、何故か部屋には沈黙が下りた。しばらくの間、誰も何も動かなかった。

 そんな数分が永遠のように感じられたその時、突然、声が響いた。

 

 「縺ゅ↑縺溘?縺雁錐蜑阪?―――あなたのお名前は?」

 

 それは言葉の途中で意味の分かるものになった。女性のような、落ち着きがある高めの声。だがこの部屋には男と自分しかいないはずだ。動揺し、首を動かして周囲を見回す。誰もいない。そうしてもう一度、すぐ近くから声が聞こえた。

 

 「名前を教えてくれる?」

 

 今度ははっきりと、大蛇の口から発せられたものだとわかった。シューという空気音が混じる、まるで蛇の鳴き声に人の言葉が重なったような奇怪な響き。驚愕で目を見開く。

 名前……自分の名前は、名前は、何だったか?数秒で答えられる簡単な質問にさえ、言葉が出なかった。

 混乱の渦中にあるこちらを差し置いて、男が悪党のように口角を吊り上げて笑った。

 

 「もう元には戻れないよ」

 

 その言葉は、まさに呪い。

 元の状態というのは、蛇の言葉を知り得なかった時の事か?

 

 「君が受け入れることを選んだんじゃないか」

 

 男の声はどこか呆れるように冷たく、しかし楽しげな感情も篭っていた。

 受け入れることを選んだ。その言葉に、心当たりはある気がする……。だが、視界が急速に滲み、意識が薄れていく。男の姿が、大蛇が遠ざかり始める。まるで夢から覚めるように、だが同時に深い闇に落ちていくように。男の声が、現実にまで追走してやると言わんばかりに遠くから響いてきた。

 

 「君が戻ることは二度と許されない。例えその歩みがどれだけ遅くなろうとも、必ず道の先に進むことしかできないんだ」

 

 道の先。「道」とは、何だ?

 『運命を変える事を望むならば―――光と共に真実へ至る道を捜し出せ。その道へ誘う(いざな)鍵は、汝が廃忘せし片割れが握る―――』

 いつか、何処かで聞いた言葉が記憶に蘇る。あれは……誰の言葉だっただろう……。一体何が、真実だと言うのだろう……?

 

 「それまでは、束の間のお別れだ。君の歩みの最後、道の果てでまた会おう」

 

 待ち人の訪れを楽しむような、穏やかな歓喜の滲む声。その言葉が鼓膜に焼き付けられたのを最後に、意識は完全に途絶えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 (あの夢……妙にリアルだったな)

 

 四方に一筋の光も無い闇の中心で、じんわりと鮮明になっていく意識。

 ようやく完全な覚醒を成し遂げたは良いものの、今の自分には肉体が無かった。此処に在る意識は、日記帳の中のものだ。やはり実体化が解除されている。

 どうやら、あの夜の出来事から無事に回復が終わったようだ。なんとなくだが、抜けきれなかった疲労がまだ少し張り付いている感覚がする。もし体があったらラジオ体操でもしたかった。

 

 ―――いや、おかしいだろ!何で分霊箱が夢を見るんだよ!?

 

 ふと、妙な事実に気付き両手で頭を抱える。……想像をした。今は両手なんて無いんだった。

 

 【ああ、おはよう。壮健そうで何より】

 

 勘弁して欲しい。覚醒一番で最初に味わうのがコレか?拷問か?自分は何か悪い事をしただろうか?

 

 【罪の無い生き物を虐め殺したとかじゃないかな】

 

 (……、チッ!)

 

 【図星じゃないか】

 

 そりゃ、昔は結構やんちゃをして感情のままに野良猫や野ウサギをぶち殺したりもしていたが、そんなの子供の内なら誰だってやってる事じゃないのか?蜂の巣を叩き壊したり蟻の巣に熱湯を流し込んだりトンボの羽を毟り取ったりナメクジに砂糖を振りかけたり。学校の低学年の間ではそこそこ流行っていたものなのだが。ああいう虫ケラをどう扱おうが法的に問題は無いのだからノーカウントだろう。……猫とかはギリギリ法に接触するかもしれないが。

 

 【何故分霊箱が夢を見るか、か。その様子だと、随分と酷い悪夢を見ていたようだね】

 

 (その言い方だと、やっぱり有り得ない現象みたいだな)

 

 【……うん、まあ、その通り。興味深い話だよ、どんな悪夢を見た?】

 

 すぐには答えられなかった。こいつと素直にお喋りする気分ではないのも勿論だが、夢の内容が内容だったので。

 ……こいつの正体の事を考れば、こいつにとって、『蛇』は特別な生き物に違いない。その『蛇』の死体を、夢の中で美味しく頂いてましただなんて、口が裂けても……別に言えるな?

 

 (……肉を、食べる夢…………)

 

 【どうして言い淀んだんだい?】

 

 まあ、言わないに越したことは無い。夢の中でも生き物を殺すだなんて、とか、蛇さえも手にかけるのか君は、とかねちねち突っ込まれそうなので。……いや、あれは自分が殺した訳ではなく、蛇肉を用意したのは別人なのだけれど。

 ……そういえばあの夢、祖父がよく読み聞かせてくれたグリム童話の一つ、『白蛇』という物語にとても酷似していた。

 

 その物語には、全知全能と噂される『王様』と、それに仕える『従者』がいた。

 『王様』は皆から隠れて、一人きりで謎の料理を食していたという。ある日、どうしても『王様』の秘密が知りたくなった『従者』は、こっそりと皿の蓋を開けて料理の正体を見てしまう。

 それは、白蛇だった。『従者』は食べてみたい、という欲望を抑え切れずにそれを口にしてしまった。すると『従者』の耳に、人間と何一つ変わらぬ動物の言葉が聞こえるようになった。蛇を食べた事によって、動物の言葉を理解できる『特別な力』が身に付いたのだ。『王様』が知恵に長けていたのも、動物の言葉を聞いていたからなのである。

 そうして『従者』はその力を利用して、旅先で色んな動物の言葉に耳を傾け彼らを助け、最後には動物達が逆に『従者』を助けてくれたので、惚れた女と結ばれ幸福な結末を迎える―――というお話だ。例えるならば、海外版『鶴の恩返し』、に近いだろうか。

 

 ……間違いなく、あの悪夢はこの童話を元にしている。

 城と言っても差し支えない豪邸。

 『王様』のように椅子にふんぞり返った男。

 食べれば動物の言葉が分かる白蛇の肉。

 夢とは人間の記憶から形作られるものとはよく言うが、本当にそれがあんな悪夢を見た理由なのか……?

 子供の時は、何故蛇の肉でこんな力を得られるのか祖父に尋ねた事はある。

 

 『―――蛇はな、昔から特別な生き物として扱われてきたのだ。聖書の話では、蛇は知恵を与える存在として登場する。アダムとイブに善悪の知識を教えたのも蛇だった。神話や民話では、蛇はしばしば知恵や神秘、……そして()()()()()()()()。だが肝に銘じておけ。知恵は力でもあるが、力を受け入れる時には必ず代償が伴うものだ。知恵の実と引き換えに、「原罪」という大き過ぎる代償を背負ったアダム達のようにな。お前もいつか、それを正しく理解しなければならない……』

 

 そして祖父は最後に、『……蛇と関わっても碌な事にならないのはアダム達が証明している。お前も()()()近付くんじゃないぞ。奴らはいつだって巧みな言葉で人間を唆し、操るのが上手だからな』と忠告して会話を切っていた。

 ……そのすぐ翌日、悪童極まれりだった糞餓鬼(じぶん)は蛇料理に好奇心を奪われ、野生の蛇を鍋にぶち込んで焼き殺してしまったのは墓場まで持っていく秘密として抱えておこう。その日の夕方は仕置きとして、自分が物置にぶち込まれる羽目になったという事も。

 それにしても、何故あの時の祖父はあれほどまでに『蛇』、という生き物を警戒している素振りを見せていたのだろう?

 あの言い方―――まるで、「蛇が本当に言葉を話し、人間を操れる事を知っている」風ではないか?

 それに、力を受け入れるという事の代償。代償とは具体的に何なのか。確かに自分は疲労でくたばる前に、この体に備わった力を手に入れようとして、他人の体で生きていく事自体を完全に受け入れたが……。

 

 【君の事だから……どうせ、夢の中で食べたのが人肉だったりしたんだろう?】

 

 (お前は僕を何だと思っているんだよ)

 

 【おや、違ったのかい?てっきり、遂に人間料理に手を出した悪夢を見て憂鬱になっていたのかと……】

 

 (お前は僕を何だと思っているんだよ)

 

 こいつ、やっぱり処刑確定させるしかないみたいだな……。普段から、そういう物を口にしてもおかしくない人間だと思っていた訳だ。現実で出会う事があったら絶対処する。同族であるマグル達の為にもなるし、やはり自分が殺るしかない。ここに決意した。

 

 【正直な話、どうして君だけ妙な体験をするのかは現時点で不明だ。本来なら存在しない人間だから、分霊箱に何かしらの不具合が起きているのか……。まあ、あまり気にしないのが吉だよ。『此処』には実際、膨大な『記憶』が収まっているからね。その『記憶』に飲まれて夢のような映像を見る羽目になるというのも、有り得ない話ではないかもしれない】

 

 絶妙に無能を晒す結論だ。素晴らしいじゃないか?

 ……こいつ、こういう面では本当に役立たずだな。秀才だったという話が疑わしくなってきたぞ。

 

 さて、意識を取り戻したという事で、確認しなければならない件が控えている。

 果たして今、現実はどうなっているのか?

 あれからどれくらいの時間が経ってしまったのか?

 自分の本体―――日記帳の分霊箱は、無事であるのか?

 意識すれば途端に緊張に押し潰されそうになる。これは、あれだ。朝目を覚ました時、自分が寝坊しているのかしていないのか確認するのが怖くて、布団の中で冷や汗を垂らし、時計の針を見る覚悟が萎んでしまうやつ。あの感覚に似ている。自分の置かれた状況、その実態を知るのが恐ろしいのだ。

 だが逃避してはいられない。本当ならば夢の話になんか応えていないで、早急に確認すべき事案だったのだ。

 

 (……、実体化……問題は無い、か。魔力が補充されている)

 

 あの後、日記帳に何を書いても反応が返っては来ないだろうに、ハリーは律儀にも何かしらを書き込んでくれていたようだ。今、実体化を果たすだけの魔力は合格ラインに達している。問題は、実体化した瞬間、自分は現実の何処に姿を現すのか、だ。

 どうか、クィレルの―――ヴォルデモートの元ではありませんように。酷く馬鹿馬鹿しい有様だが、最早祈るしか自分にできる事は無い。

 

 【……行くのかい?】

 

 (それしか無いだろう)

 

 感情の読みにくい声。どうやらこいつは、先に答え合わせをするなどという無粋な真似はしない主義らしい。現実の日記帳がどうなっているのかについてだけは、こちらに話を振ろうとしてこない。「ここから先は自分の目で確かめてくれ」、というファミ通の攻略本スタイルを貫くつもりか。まあ、ネタバレをしないのは良い行いだ……。

 

 【こちらにできる事は少ないけれど、健闘を祈るよ】

 

 本当にいちいちやかましいんだよなこいつ。そんな無駄な行為しなくて良いから、頑張って自然消滅の力を会得できるよう研鑽してて欲しい、切実に。やる気のある無能が一番の損害を与えるという組織論だってあるから……。

 実に物恐ろしい悪夢を体験させられた直後だが、あの中で味わった恐怖と、幼少期の懐かしい記憶。その対比が、不可思議な安堵感を与えてくれていた。それを気力に変換して、実体化の覚悟を決める。

 

 ……あれ、そういえば。

 悪夢で見たあの屋敷。その内装。

 今になって思えば、見覚えのある場所もちらほら。

 玄関ホールとか、壊れた家具とか、……窓ガラスとか。

 

 『うちって昔はもっと大きかったのよね。ちゃんとした庭園もあったし。でも、お父さんがもう必要ないし、場所も取るからって、かなり色々撤去しちゃったの。ほら、トピアリーとかフォリーって、整備するの、地味に大変だったりするから。それに……無駄に広いのも掃除が面倒で考えものよねぇ。家具とか売ってリフォームしてね、昔よりも部屋が狭くなるよう建て替えたんだって。ほら、写真と見比べたら一回り小さくなってるでしょ』

 

 昔、まだ母が愛想の良かった頃に見せてくれた自宅の写真。そうだ、夢に出てきたあの屋敷は、写真の中の光景にそっくりだった。

 いやいや、待てよ……?

 とても……とても恥ずかしい話だが……。

 なんというか、かんというか……その。そもそも―――

 

 

 

 

 (あの屋敷の窓ガラス、壊したの僕じゃん……)

 

 

 

 

 こんな時に思い出した、実に恥ずかしい昔の黒歴史(きおく)

 それを無理やり頭から追い出すように振り払って、実体化を行った―――

 

 

 

 

 『……っと、どうやらセーフ、みたいだな……』

 

 視界が開けてまず目に入ったのは、ターバン教師でも蛇面でも無かった。

 グリフィンドール寮内である事を示す、赤を基調とした寝室だ。これが意味するもの、つまり、自分の持ち主は変わらず今もハリー・ポッターであるという事。

 数秒に渡る長めの溜息を吐いた。生身の頃の癖で、心臓なんて無いのについつい片手で胸を押さえてしまう。

 取り敢えず、現況の安全は保証されている。今は素直に自分の幸運を喜ぼう。身体も問題無く動かせるみたいだ。

 はっと振り向いて確認すれば、ハリーの寝床であるベッドの中から日記帳の存在を感知できた。成る程、まあ、寝室に物を隠すとしたらこういう所しか無いだろうな……。

 今までは肌身離さず持ち歩いていたが、こちらの意識が吹っ飛んでいたからだろう。ハリーは、合言葉を知らなければ教師でも入れないこの聖域に、日記帳を預ける選択を取ったようだ。

 

 『今……何日だ?そもそも何月だ……?』

 

 『賢者の石』はどうなっているのだろう。

 ダンブルドアは?スネイプは?

 そして自分を悩ます元凶、ホグワーツ一年目の苦難、クィリナス・クィレルの現在は?

 

 その時、背後でバラバラと何かが落ちる激しい音が立った。焦らずゆるりと振り向けば、そこにくしゃくしゃ髪が更に縺れたような状態の、ある意味みっともない姿を晒した少年が……ハリーが、呆然と突っ立っていた。

 眼鏡の奥の緑色はまん丸と見開かれ、唇は何かしらを紡ごうとして意味の無い開閉を繰り返している。床に落ちたのは、彼が抱えていた教科書とか筆記用具のようだった。

 互いに見つめ合う時間は、僅かしか続かなかった。緑色の光が一度ぎゅっと途絶えたかと思うと、飛び込むようにしてこちらの腹に抱きついてきたからだ。

 

 「トム!!」

 

 『うわ重っ……』

 

 小柄とはいえ十代の渾身のタックルは中々のものだ。危うく尻餅をつきそうだったが、無駄に体幹の良いこの身体は不格好に倒れる事は無かった。背が高い奴って、みんなこうなのだろうか?未だにこの目線の高さは違和感を覚えてしまう。

 感動の再会、と言えば聞こえはいいが、正直ちょっと鬱陶しいので引き剥がしたい。こちとら病み上がりみたいなもので、糞みたいな悪夢から帰還してきたばかりなのだ。少しは労わって、そっとしておいて欲しい。だが腰に回された腕の力は地味に強く、引き剥がそうとした瞬間に一層力が込められ抵抗された。クィレルのせいで接触という行為そのものに若干神経質になっているせいか、咄嗟に本能で背負い投げを発動しそうになったが、まあなんとか理性で耐えきった。

 

 「よ、良かった……!君が、君がっ……目を、覚まして……くれて……」

 

 ぎゅうう、と抱き締められる感触の中に、体温とは真逆の冷たい何かを感じて―――その正体を瞬時に察して、表情がすとんと抜け落ちたのを自分でも自覚した。

 

 『分かった、分かったって。落ち着……うわ気持ち悪っ。鼻水ズルズル出てるじゃないか。ちょっとこれ、このローブ、分霊箱としての身体の一部で、脱げないんだから。僕の一張羅で……鼻付けるなって。ハリー、ほら。こんなのしか無いけど、紙。涙拭けよみっともない』

 

 ポケットから手の平サイズの紙を渡してやった。この世界に説明もなしに放り込まれた自分の、唯一の持ち物と言っても過言ではなかった、真意の不明な短い指示が書かれたあの紙だ。何故かこんな体でも所持できる謎のアイテムで、捨てる気にもなれなかったので取っておいたのだが、よもやこんな使い方をする日が来ようとは。

 ハリーは大人しく紙を受け取ると、何かが書いてある事には気付いたらしいが、特に気にする事もなく鼻をかみ始めた。チーン、という、この場にはあまりにも間抜けが過ぎる音が空気を震わせた。

 

 『ちょっとハリー。君、こんな場面で何してんだ。僕の紙で、何で鼻なんかかんでるんだ?』

 

 「だってそっちが渡してきたから。ふう、スッキリした。あっ、返すね」

 

 『鼻水付けたまま返す奴がいるか。はあ……ほんとに頭のネジがぶっ壊れた子供だな。でも、ありがとう』

 

 「え?」

 

 『まあ、あの時、()()()()()()()()()()をちゃんとこなしてくれたみたいだから。あと、日記帳も無事なままだ。お礼は言っておかないと』

 

 そう伝えた瞬間、また顔を埋めるようにして抱きつかれる。今度は鼻水を擦り付けられる事は無かった。触れ合った部分から不思議な感覚が流れ込んできて、無理やり引き剥がして投げ飛ばす気力はすっかり失せてしまった。

 ……そういえば。この少年には、闇の帝王の魂を携える者を容赦なく焼き尽くす『愛の護り』がある筈なのに。一応は奴の一部である分霊箱の自分がここまで触れてしまっても、やはり平気なんだなぁ、と思い出した。

 理由とか原因とかの詳細は知らないし、自分に危害が一切働かないのであればあまり興味も無いが。

 ……それがどことなく有り難いというか、なんともまあ言い表すのが難しい、妙な気持ちで満たされていく気がした。少なくとも、不快ではない。

 

 だから、という訳ではないのだが。

 あれから、どれくらいの時間が経ったのかが分からないままだけれども。

 

 

 

 

 自分を守ってくれた成果に対するせめてもの見返りとして。

 目の前で確かに実在する生き残った男の子に、しばらくの間、仕方なく抱擁を許す事にした。

 

 

 

 




蛇のお肉って美味いやつは美味いらしいです。腹減った。
全くの偶然なんですけど、某昼メシアニメと食事というテーマが被ってしまった。
あと数話で『賢者の石』編は終われるんだ……終わるんだ……頑張ります。
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