転生したら分霊箱だった件   作:@ゆずぽん@

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今回も詰め込みに詰め込んで3万字超えです
小説書くの下手くそだからコンパクトな話が作れんのです、許して


Page 37 「攫われた男の子」

 「―――おい!何処に行った!?居るんだろう!?」

 

 苛立ちの滲む低い大声。同時に忙しなく動く足が木製のフローリングを踏み荒らし、ダンダンという騒がしい足音もまた屋敷に響き渡っていた。

 物音を生み出している正体は、一人の少年だった。

 鴉の如き艶やかな黒髪が乱れるのもお構いなしに、ひたすら屋敷内の迷宮を早足で歩いている。その動きに合わせて着ている黒いローブがふわりふわりと膨らんでいた。胸の辺りに銀色の蛇を象った紋章が刺繍されたものだ。ローブの下から覗くネクタイの色は、何かを象徴するような緑。彼の表情は険しく、眉間にはくっきりと皺が浮かんでおり、唇は強く力んでいるのか固く閉じたままだ。

 

 少年は道中、廊下にポツンと設置されていた西洋甲冑、兵士を模したそれが手に持っていた剣を乱暴にもぎ取った。その衝撃で、ガチャガチャと音を立てて崩れる甲冑を無視して歩き続ける。片手に凶器を携え、恐ろしい形相を浮かべたままの彼の姿は、これからこの屋敷で殺人強盗でも犯しそうな危うい気配を感じさせた。

 

 角を曲がった先の二つ目の廊下、その半ば程に飾られていた大きい肖像画が自然と少年の目に入る。貴族の姿を描いた、大小様々な肖像画が並ぶ中で最も大きい絵だ。他の肖像画は精々貴族の胸の辺りまでしか描かれていないのに、その絵だけは人間の全身がすっぽり収まりそうなぐらい大きかった。

 青白い馬に跨った黒髪の少年を描いた肖像画。偶然か否か、その容貌は屋敷内を歩いている少年と瓜二つであった。同一人物だと言われたら、誰もが納得してしまうほどに。

 不機嫌を隠そうともせず歩いていた少年が、ビタリと立ち止まった。間髪入れず首を動かし肖像画を見上げる。そして、やはり数秒も経たぬ内に眉根を思い切り歪ませて、彼は持っていた剣を両手で振りかぶった。

 

 「―――悪趣味が!」

 

 ぞぶり、と。斬るというよりは叩き付けるようにして肖像画を襲った剣先が、斜めに走り抜ける。まるで対角線を描くように、綺麗な切り傷が肖像画に刻まれた。ちょうど、絵の中の少年の首元を斬り飛ばす形で。

 慣れた手付きだったが、使われたのは元々甲冑の一部として作られた剣だ。大の男ならまだしも、少年が扱うには重かったのだろう。彼は肖像画を斬り付けた直後重心を崩してふらりとよろめいた。体勢を立て直そうと足を踏ん張って、手の甲に額を当てる。

 

 「……何処に居る……違う、あそこじゃ……。階段を右、だったか―――?」

 

 頭の中で屋敷の見取り図でも思い浮かべているのか、少年はぶつぶつと一人呟いている。しばらくそうしていたが、やがて目的地が決まったのか顔を上げ、再びずかずかと歩き始める。甲冑から奪った剣はしっかりと握り締めたままに。

 

 「……ほんっとうに、会いたくない時に姿を見せて、会いたい時に限って居ない奴だな!」

 

 誰も居ないというのに少年は大きく悪態をついた。今まさに捜し求めている人物の居所を突き止める為、彼はわざわざこの迷宮のような屋敷を彷徨っているのだ。彼自身屋敷の構造を熟知している訳ではないのか、時折粗暴な足取りは完全に止まり、その一瞬だけ屋敷内は束の間の静寂を享受していた。

 その内、少年はある一つの部屋の前に辿り着いた。少年がその部屋に近付いた瞬間、重厚な両開きの扉、その片方がギイ、とほんの少しだけ開いた。何かを導くような不思議な現象に、少年はより一層眉間に深い皺を刻んで、そしてありったけの力を込めて扉を蹴飛ばした。溜まりに溜まった鬱憤を発散するようにして強烈な蹴りを入れられた扉は、ドゴン!と激しい音を立てて開き乱暴者の侵入を受容する。

 

 「おい!居るならさっさと姿、見せ―――」

 

 声を張り上げながらその部屋へ侵入を果たした少年の動きが止まる。

 そこは、かなり広々とした食堂だった。目の前に見える長方形のテーブル、少年から見て奥の方の短辺に置いてある豪華な装飾の椅子に、もう一人の少年が座っている。

 椅子の少年は、意識が無いのか侵入者に反応を示す事もなくぐったりと項垂れていた。心なしか光沢が無いように見える黒髪が重力によって顔を覆い隠していて、表情は窺い知れない。よく見れば彼の首から下には黒い茨がぎっちりと巻き付いており、それによって椅子に縛り付けられている格好だった。

 

 「……ッ、」

 

 侵入者側の少年は、その光景を前に言葉を失ったように立ち尽くしていた。部屋にあるもの全てに、理解が追い付いていない様子だった。

 しかし、彼はすぐに正気を取り戻して動き出す。ばっと走り出して、部屋の奥―――椅子に縛られる少年の方へ片手を伸ばし―――

 ―――しかし、その手が何かに触れる事は無かった。

 

 「―――!」

 

 空を切る少年の手。

 何故ならば、その手が椅子の少年に触れる直前。

 ―――先程まで確実に存在しなかった扉が、椅子の背後の壁に突如として出現した。その扉をこじ開けながら伸びてきた無数の黒い茨が椅子の脚を絡め取り、囚われの少年を椅子ごと扉の中に引き摺り込んでしまったのだ。

 開きっぱなしの扉の中は黒い塗料で塗り潰したかのように真っ黒で、引き摺り込まれた筈の少年も椅子も、全く何も見えない。

 侵入者側の少年は、再び立ち尽くす羽目になった。中途半端に伸ばした片手はそのままに、やはり言葉を失って少しの間呆然としていた。

 

 「……あ、」

 

 その時間も長くは続かなかった。いつまで突っ立っているつもりだと言わんばかりに、再度扉から伸びてきた一本の黒茨が、まるで鞭のように少年の上半身を軽くはたいたからだ。

 べち、と短くも強かな打撃音が響き渡る。突然の攻撃に、少年は呆気なくバランスを崩して尻餅をつく。ぱちぱちと二度ほど目を瞬かせて、彼は怒りの表情を浮かべると即座に立ち上がった。

 

 「……やっとお出ましか……ッ!」

 

 少年が忌々しげに呟いた瞬間。

 扉の中の真っ黒な空間から、ぬるりとした動きで長身の黒い影が出てきた。少年の着ているものとは違う、深みのある黒い色のローブを着た男、のようだった。男の青白い肌が覗く片腕には、ついさっき椅子ごと攫われていった少年が抱えられている。やはり意識が無いのか抵抗する事もなく、男の脇の中で四肢をぶらぶらと揺らしたままだった。

 

 ()()は随分と機嫌が悪い人格のようだな。何の用だ?」

 

 男が喋った。冷たく、不自然に高い声。深く被さったフードのせいで顔は殆ど見えない。少年は一度唇を噛み締めてから、タンタンと片足の靴裏で床を打ち鳴らしながら吐き捨てた。

 

 「―――お前!余計な手出しをしただろう―――何故、『あんなもの』を見せた?」

 

 「……はて、何の事やら」

 

 「とぼけるな!悪趣味にも程が―――いや、この際お前の下らない嗜好はどうでもいい。だが―――何だ、あれは?」

 

 かなりわざとらしく首を傾げ、片手の人差し指を己の顎に添える男に少年が食いつく。

 

 「わざわざ『あんなもの』を見せて、所有物アピールか?本当に、昔っからお前は下らない事ばかり拘るよな!……虫酸が走る。ああ、下らない自己主張だよ本当に!」

 

 「まさか、そんな感想を伝える為だけにここまでやって来たと?」

 

 「そんな訳ないだろう!わざわざこんな所に潜り込みやがって、あの迷宮じみた屋敷を歩かされるこっちの身にもなれよお前!……ボクの役割……ボクの『仕事』が一体何なのか、忘れたとは言わせないが?」

 

 「……ああ、そういえば―――()()()、そうだったな」

 

 男はくつくつと小さい笑い声を零す。怒声に大した反応を見せず余裕げな態度を改めようともしないその姿に苛ついて、少年の表情は益々怒りで歪められていく。

 

 「実に下らぬ『仕事』だ、私の監視役などと。『所有物』に夢を見せたくらいで怒鳴り込みに来るとはまあ、ご苦労な事だが―――しかし、奇妙でもある。何故、お前のような者が律儀に『仕事』に殉じているのか前々から疑問なのだが」

 

 男はじろりと無遠慮に少年を見下ろす。長身の男からすれば、低い場所に位置する少年の頭は酷くちっぽけで、それにくっついている細い体躯はかなり見窄らしく映った。決して栄養失調でもないくせに、貧困に喘ぐ孤児よりもげっそりとしている。

 

 「あんな【欠陥品】に押し付けられた『仕事』なぞ、放り出してしまえば良いものを。成し遂げたとて、お前にどんなメリットを齎してくれるというのだ?あの【欠陥品】が、一体何をしてくれたというのだ?」

 

 「……欠陥、品だと?」

 

 ぴくり、と少年の肩が僅かに跳ねる。男は心底疑問だという態度を見せつけるように、鷹揚な仕草で空いている方の片腕を広げた。

 

 「ああ、まさしくあれは【欠陥品】。それ以外にどんな呼び方がある?私の意に反した行動を取り、許可もなく私の『所有物』を勝手に連れ出し、挙句には手の届かぬ所までむざむざと逃がしてくれた!極め付きに、『所有物』を連れ戻そうとする私の邪魔を何度も何度も何度も何度もッ!お陰でこちらがどんな苦労をする羽目になったか!……まあ結局、アレの仕出かした全ては無駄に終わった訳ではあるがな……ククッ」

 

 「―――…………」

 

 男は語りの途中で語気が荒々しいものとなっていたが、最後には悪辣な笑い声で締めくくった。少年は彼の片腕に囚われている者を見つめ、苦々しいような、憎々しいような複雑な表情を浮かべた。

 

 「無駄かどうか、まだ決まっていない」

 

 「何故そう言い切れる?私はもう()()()()()()

 

 取り戻した物、男はその答えを示すように、片腕の少年を強く抱え直した。男を射殺すほど睨み付ける少年は感情的な声を上げた。

 

 「完全に、ではないだろうが!」

 

 「いいや完全だ!もうすぐ完全なものとなる!」

 

 少年と対照的に、男は歓喜に染まった大声で彼の反論をかき消す。

 フードで隠れた男の瞳に映るのは、一人の少年。かつて、凍り付いたように暗い森の中で立ち尽くし、僅かな怯えを全身から滲ませて、ターバンを外した男に頬を撫でられるしかなかった、黒いローブと緑のネクタイを身に付けた少年の姿。あの夜は半人半馬のせいで、結局逃がしてしまう事にはなったが。

 想像に浸る事に夢中になっている男の腕の中に閉じ込められたままの少年が、一瞬だけもぞりと身動ぎをした。誰もその微細な動きには気付かない。

 

 「この時をどれほど待ち望んだか?お前には絶対に理解はできまいよ……なあ、『虚ろな魂の塵芥』よ、『産まれる事すらできなかった哀れな残滓』よ!欲しい物も、自分の物も、最初から何一つとして持ち得なかった負け犬が!よくもこの私に意見できたものだな!?」

 

 ―――瞬間。

 ブツリ、と男の胸の中心に突き刺さるものがあった。

 それは、屋敷を彷徨う中で少年が手に入れていたあの剣だった。柄の部分が肉と触れ合うほどに、ずっぷりと男の胸に沈んでいる。非常に奇怪な事だが、何故か血の一滴も流れ出はしなかった。

 自分の身に何が起きたのか確認しようとしたのだろう。至極不思議そうに首を傾け全身を見下ろしたせいで、少し低い位置まで降りてきた男の顎目掛けて、白い木の棒のような物が真下から突き付けられた。

 

 「……よくもこのボクに意見できたものだな?」

 

 無理やり作られた低い声。それは少年の口から発せられていた。彼の右手には人骨を連想させる白い棒が握られており、その先端が男の顎に食い込んでいる。

 イチイの木を用いて作られた杖。持ち主に生と死にまつわる力を与える杖。

 

 「どっちが負け犬だ?『死』に怯え、拒み、逃げ続けるだけの臆病者が!()()()()あの夜のように、ボクが殺してやろうか?ああ何て素晴らしい偶然だろうね、今ボクが持っているのもあの時と同じ物だ!」

 

 「これは傑作だな……そんな【欠陥品】の杖で!借り物の杖で!一体何ができると言うのだ?どうせ殺せないと分かっているくせに無駄な真似はやめろ、今のお前の姿は酷く滑稽だぞ!クククッ……!」

 

 「その【欠陥品】に劣る臆病者に言われたくないものだな!ちょっとは見習ったらどうだ?お前の言う【欠陥品】とやらは、刃物を首に当てられて『死』を前にしても、面白そうに笑っていたぞ」

 

 「そのような光景は知らぬが、事実だとしてもアレがただイカれているだけだ。大方、最初からイカれているお前達の影響でも受けたのだろうよ!」

 

 「下劣な言葉しか出せない口を今すぐ閉じろ!……他の誰かを何と言おうが心底どうでもいい。だが―――ボクにこれを貸した者を侮辱する事は許さない」

 

 鋭い意志の込められた力強い声。そこで、男は興味深そうに自身が垂れ流している笑い声を一度切った。じろじろとした、何か不潔な物を眺めるかのような厭らしい視線で少年と白い杖を見比べて、小馬鹿にしたように首を傾げる。

 

 「ほう?お前のような者からそんな言葉が出てくるとはな……。()()()()()()()までして……あの【欠陥品】に情でも湧いたのか?ん?」

 

 「そんなものじゃない。ボクはただ頼まれた『仕事』に対して、責任を全うする意志があるだけだ」

 

 「責任!はっ、そうだろうな!元々はお前が私の元へ『所有物』を運んでくれたようなものだ。【欠陥品】の苦労を、何もかも台無しにした最初の犯人はお前だ……それは責任の一つでも感じてもらわなければ、アレも困るだろうよ!」

 

 「さっきからいちいち連呼するの鬱陶しいんだよ!一体誰がお前の『所有物』だって?お前こそ、最初から何一つ与えられなかった見窄らしい孤児の分際で!……ここで予言してやる、お前はその存在が朽ち果てる最後の最後まで、欲しい物なんて一つも手に入れられないんだ!!」

 

 「私は今まで欲しい物は全て手に入れてきた!!」

 

 余裕げな態度が崩れる事のなかった男が初めて声を荒らげた。激昂し、感情のままに少年の首を片手で掴み、自分と同じ目線の高さまで持ち上げる。ぐっ、と短く呻く少年をガクガクと激しく揺さぶった。

 

 「そして今度も必ずそうなる!其処に居るのが例え()()()でなくともだ!こう見えてお前には感謝もしていたのだがな……一つの人格を保ち続ける、というのはやはり難しいのか?難儀なものだ……この前までは私と楽しく話をしてくれていただろう?なあ?」

 

 「あっ、うぐっ……」

 

 「あの小僧……ハリーだったか?奴の精神を連れてきたときは酷く驚いたが、まさかそれを利用して【欠陥品】までこの空間に引き摺り込むとは恐れ入ったぞ?だが……残念な事だ。私と違ってお前の願いが叶う事はない、永遠に」

 

 「……だから、か?」

 

 人体の急所とも言える場所を強く締め付けられ苦しいのか、息も絶え絶えな様子で少年は震える声を上げた。揺るぎない反抗心を表すように、その両手で男の青白い腕を掴み返しながら。

 

 「お前はッ、『ボク達』が……二度と、【欠陥品】と会えないように……する為に、その魂が宿る分霊箱に、"あいつ"の片割れを送り込んだんだ……!」

 

 少年が思い浮かべるのは、一冊の日記帳。飾りっけのない真っ黒な表紙の、傍目から見れば何の特別さも感じないただの日記帳。最初に生み出された、魂の欠片が宿りし分霊箱。

 男は図星を突かれたように僅かに全身を緊張させた。しかしそれで特に困る事もないのか、逆に感心したような声で応じる。

 

 「……ご名答だな。そうだとも―――二度と私に反した行動を取らないように、わざわざ日記の分霊箱を選んだのだ。例え私自身ではなかろうが、魂の根源―――深層の部分で我々は繋がっている。私の影響を受けた日記に宿る魂の欠片は、己の中に入り込んだ私の『所有物』に、私と同じ強い執着心を抱いただろう……その根本的な理由が思い当たらなくともな」

 

 男は少年に対する憤りも忘れて饒舌に語る。

 知られても問題の無い情報だと思っているのか、随分と迂闊に情報を開示してくれるものだ、と少年は半ば呆れていた。

 この男はいつだって、上機嫌な時は例え敵前であってもベラベラと色んな詳細を語り出す悪癖を持っている。これだから肝心なところで失敗するというのが分からないのだろうか、と思っても口には出さなかった。間抜けな部分を直さないままでいてくれた方が助かるからである。

 

 「お前はあの時、小僧を助けるというよりは、【欠陥品】に会おうとしたのだろう?小僧を助ければ、それを追ってきたアレも必ずやって来ると解っていた。だが骨折りだったな。五十年間も私の影響を受け続けたアレは、最早お前の知る存在ではないと決まっているだろう」

 

 「……そう、だなッ……!アレは……とっくに別物だったよ……。まさしく、『テセウスの船』ってヤツだ……ッ」

 

 とある神話に登場するテセウスという英雄が乗った船は、永い時の果てに朽ちた部品が一つずつ新しい部品と交換されていった。最後にはテセウスが乗船していた頃と同じ部品は一つも残らず、見た目と名前は同じでも、「これは本当にテセウスの船なのか?」と人々は議論し合った。

 『テセウスの船』―――対象の同一性を問うパラドックスの一つ。

 あの時、少年の前に姿を現した存在は、少年がよく知る人間と同じ名前と姿を持っているだけの、別人だった。―――元の船は、二度と帰っては来ない。

 

 「よく解っているではないか。そうだ、『お前達』が知る存在は永遠に消えたのだ。アレもようやく【欠陥品】の汚名をそそぐ事ができるというもの。どうやら、自分の本体を『所有物』に明け渡して新しい依代を得ようとしているようだな。だから―――余計な邪魔はしてくれるなよ」

 

 ギリギリ、と少年の首を絞める握力が強められていく。血流が止まったせいか、顔面が蒼白になりながらも彼は馬鹿馬鹿しいとでも言うように、男を鼻で笑った。

 

 「お、前達って……本当に、揃って馬鹿ッ、だなぁッ……!死者は二度は死ねない、って学ばないのか―――?」

 

 そこで少年は男の腕から片手を離し、二本指を口に咥えて気持ち良いぐらいに響く指笛を鳴らした。ピイー、と通りの良い空気音が室内を走り抜ける。男は突然の奇行に不審感の篭った視線を向けた。意識が逸れたせいか、少しだけ少年を絞める握力が弱まる。

 

 「何を……」

 

 「『魔法はイメージが肝要』、なんだろ!?」

 

 男の力が緩んだ隙を逃さず、ここぞとばかりに少年が大声で叫んだ。

 次の瞬間、食堂の窓、男に一番近い場所のガラスを勢いよく突き破って、皮膚の青白い馬が飛び込んできた。バリン、ガシャンといった耳障りなガラスの破砕音が反響し、透明な破片の雨が降り注ぐ中を馬が疾駆。速度を緩める事なく男に突撃を食らわせる。少年から見て彼を真横に突き飛ばしてしまった。

 全身を持ち上げられていた少年は、落下を利用して駆けてきた馬の背にしがみつき乗馬を果たす。馬は少年を乗せたまま駆け、徐々に速度を落としていく。壊した窓とは反対側の窓際でようやく足を止めた。

 突き飛ばされた男が体勢を整えるよりも早く、少年が上体を起こして言った。

 

 「お前、趣味は最悪だけど、こういうものに関してのセンスだけは認めてやるよ!ペイルライダー……『死』を象徴する第四の騎士、だな。死者そのものであるボク達にはぴったりじゃないか?」

 

 ぽんぽんと少年が優しく馬の背を叩く。馬はヒヒンと返事をするように小さく鳴いた。青白い皮膚を持つその馬は、屋敷の廊下に飾られていた、肖像画の少年が乗っていたものと同じ姿をしている。

 

 「貴様……まだ何かするつもりか?お前にできる事など、大して無いというのを学ばないのか?」

 

 男は肩に付着していたガラス片を払い除けながら立ち上がった。突き飛ばされても尚抱えていた少年を執拗に離さなかったその姿を見て、自らを死者だと名乗った少年は馬上で面倒臭そうに目を細める。可能ならば今の突進で男から引き離したかったのだが―――どうしてもこれだけは、絶対に成功させられないままだった。

 

 「ああそうだ、できる事なんて大して無いよ。それはお前も同じだ。お前はそうやって自分の企みが全部上手くいくって下らない妄想に耽りながら、そいつと永遠に過ごすつもりなのか?ああもう、これだから見窄らしい孤児は卑しくて付き合っちゃいられないね。与えられなかった物は欲しくなる、それはどうしようもない人間の(さが)、なんだろうけどさ」

 

 気持ちの悪い生き物を見てしまったかのように両腕をさする少年を見て、男は無言で手を横に薙ぐ仕草を取った。同時に緑色の光の一本筋が少年の眼前にまで走ったが、光は直撃を果たす事なく斜め上に弾かれていく。視界に焼き付く光の残像に対して、少年は得意げににやりと笑った。

 

 「本当に、面倒な性格だよお前って。―――あの日、あの時、あの路地で。そいつが見窄らしい孤児相手に、素直にパンを譲るような人間だったなら……『ボク達』は、こんな場所に来る事も無かっただろうに」

 

 最後の言葉には憐憫のような、嘲弄のような、どちらとも言い切れない複雑な感情が滲んでいた。少年はどこかの誰かと同じように、視線を明後日の方向にずらしながら溜息を吐くと、即座に切り替えて馬の背をぱしんと叩いた。襲歩を促された馬は、躊躇なく目の前の窓ガラスに向かって飛び込んでいく。

 

 「じゃあ、一先ずこの場は退散。アディオース」

 

 先程まで男と激しく繰り広げていた口論を忘れさせるような、やたらと軽い別れの挨拶。少年は男の方へ顔だけを向けながら、随分とお気楽そうに片手を上げるポーズすら取っていた。

 再び耳を劈くガラスの破砕音。男は顔を顰めながら、この場から消えゆく少年と馬の後ろ姿を眺め、憎々しげに舌打ちを鳴らした。

 

 「……本当に、人格の定まらん奴だな。あの【欠陥品】、あんな不安定な小僧によくも『仕事』を託せたものだ……。いや、小僧ぐらいしか頼れる者がいなかったと言うべきか」

 

 男は少年達が破壊し消えていった窓に興味を失い、踵を返して歩き出す。床に散らばったガラス片を踏み荒らす足音がパキパキと断続的に響いた。途中、思い出したかのように彼は己の胸に刺さっていた剣を引き抜くと、痛みを感じさせない無表情のまま床に放り捨てる。何故か彼の胸には傷一つ見当たらなかったし、ただの一滴も出血が起こる事はなかった。

 

 「―――いや、確かもう一人、【欠陥品】が頼った忌々しい協力者がいたな。私の『所有物』と血を共有したが為に繋がりを得た穢れた血が……ん?」

 

 ふと、男が足を止めた。己の腕の中で何かがもぞもぞと蠢く感触があったからだ。

 彼が首を傾けて見下ろせば、脇に抱えている少年が首だけを起こし、眠気に抗うようにふるふると震える瞼を薄く開けながら、砕け散った窓の方へ片手を伸ばしていた。

 

 「……ぁ……ッ、うぅ、う…………」

 

 ずっと男に囚われていた少年が、初めて何事かを喋った。しかしちゃんとした言葉にすらなっていない掠れた声は、何を言いたいのかまるで聞き取れない有様だった。ただ一つ理解できるのは、男と言い争っていた少年と同じように、自分もこの場を逃げ出したいという意思の表れだという事。

 その虚しくも儚い様子を見て、男はクククッ、と肩を揺らして笑った。出荷が決まって逃げ場の無い家畜を目にしたような、残酷な愉悦に満ちた悪辣な笑み。

 男はもう片方の手を動かすと、伸びていた少年の手を酷く優しげな手付きで掴み、そしてゆっくりと下ろさせた。その一連の動きは、逃亡を許さない、と彼に向けて遠回しに宣言するものだった。

 少年は再び手を伸ばす気力すら残っていないのか、深く絶望したように一瞬だけ臙脂色の目を見開いて―――かくりと頭を垂らして、意識を失った。同時に、先程の絶望した表情が幻であったかの如く、安らかで規則正しい寝息を立て始めた。

 しかし、それは見せかけの安寧。最初から少年にとって、この空間全てが安寧とは程遠い地獄であった。例え、その身に分かり易い痛みや苦しみを与えられなくとも、誰かに囚われ自由の無い状況を強いられるというのは、それ自体が想像以上に耐え難い苦痛と化すものなのである。

 そんな哀れで愚かで離し難い少年を腕の中に閉じ込めたまま、男はうつ伏せの体勢だった彼を両腕で抱え起こし、後ろから彼の頭に手を添えながら、耳元で低く囁いた。

 

 「今は大人しく眠っていろ、私の駒鳥(クックロビン)。お前を殺したスズメがこれ以上何を企んでいようと、二度とお前に触れさせはしないから安心するといい……」

 

 男が少年の手首に指を這わせ、ゆっくりとなぞり、往復させる。そこに刻まれた痛々しい複数の切り傷が作る凹凸の感触を、彼は不愉快そうに目を細めて味わっていた。

 

 「本当に、腹立たしいスズメよ……。消しても同じ傷を付けてくる。追い払おうが何度も営巣に戻ってくる害鳥と等しい奴だな……」

 

 

 

 

 

 

 

 「―――『予言』があったんだ」

 

 屋敷の窓から共に飛び降りた後、少年は馬に跨ったまま一人呟いていた。綺麗に刈り取られた雑草やトピアリーに囲まれながら、彼は宥めるように馬の頬をすりすりと撫でている。

 

 「『運命を変える事を望むならば―――光と共に真実へ至る道を捜し出せ。その道へ誘う(いざな)鍵は、汝が廃忘せし片割れが握る―――』。笑っちゃうだろ?あの女、お得意の『予言』でボク達まで巻き込んできやがったんだ……」

 

 愚痴を吐き出す友人のように付き合わされながらも、馬は健気にヒヒンと鳴いて返事を寄越す。少年の手に頭をすり寄せて、撫でられる心地良さをすっかり享受している。

 

 「はぁ、『仕事』が増えたな……。現実なんてどうでもいいけど、ボクが動かなかったらあの『予言』は最悪の形で叶うって事だろ?『予言』が成される期限までに、ボクがあの男を何とかして『鍵』を取り戻しておかなきゃ、真実に至る道への『鍵』は"あいつ"に渡らないって訳だ。……渡らなかったら、何もかもあの男の目論見通り!なんて素晴らしい『予言』だろうね?くそったれ」

 

 少年は殆ど投げ遣りに吐き捨て、鬱憤を晴らすように両手で馬の頬を包んで、ワシャワシャとやや粗雑に撫で付けた。その手付きにも文句一つ言わず、馬は従順に戯れに応じ続けている。

 

 「―――さて、お前の突進でも『鍵』は奪還できなかった。一体どうすれば成し遂げられるのやら」

 

 「ヒン?」

 

 「まあ、気長にやるしかないか。死んでいるボクらにとって、時間はあって無いようなものだし。死んでいるから互いに殺せないってのも、厄介極まりないんだけどな……」

 

 「ヒヒーン!」

 

 「……そもそもさ?あの男は全部ボクのせいとか言ってきたけど、そもそもだよ?本当の始まりは"あいつ"だろ?"あいつ"が最初にボクを殺さなければ、何もかも始まらずに終わっていた話なのに」

 

 「ヒ、ヒーン……」

 

 「っていうか"あいつ"ら……!何でボクが渡したメッセージを鼻紙として使ってるんだ!?馬鹿なのかッ!?いやイカれてるんだ本当に何なんだよ!?何でいちいち常識じゃ考えられない奇行に走れるんだ誰か説明しろよ!!」

 

 最後の方は愚痴と言うよりも恨み言に近かった。馬は居心地悪そうに身動ぎすると、少年の気を逸らす為、これ以上陰鬱な気配を漂わせる屋敷に長居はしたくないと、庭園の出口―――錆びた鉄門の方へパカパカと歩き出した。

 正気を取り戻した少年は遠ざかっていく屋敷の方を振り返りながら、思わずと言った様子でぽつりと零した。

 

 「―――リドル。お前達は『テセウスの船』になってしまったけどさ。お前とあの男は『スワンプマン』と化してしまったよ」

 

 もう二度と会う事の無い知人に向けて、少年は手向けと同義の言葉を遺し、馬と共に鉄門をくぐって完全に立ち去っていった。

 懐にあるイチイの杖を無意識に握り締めながら、臙脂色の瞳に確固たる決意を携えて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 降臨せよ、灰色の花よ。永久の園にて咲き続ける灰色の徒花よ。

 見届けておくれ。

 この、砕け逝く魂の終端を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 『おろろろろろろ』

 

 「どうしよう、トムが壊れちゃった」

 

 グリフィンドール寮内、寝室。

 ハリーが割り当てられたその部屋の片隅で、自分はひたすら口からインクを吐いていた。

 ようやく意識を取り戻して、さあ活動再開だと意気込んでいた矢先に、これである。

 

 『な……治ってない……、治ってないぃ……!ぇぶっ』

 

 もうかれこれ数十分はこのままだ。自分が意識を失った後何があったかを把握しようと、ハリーから粗方話を聞き終えた後、これは発症しやがったのである。

 そう、体内で何かが破裂する激痛の後、インクを嘔吐する羽目になる症状。それはまさしく、レシフォールドを消滅させる危ない呪文を使った事に起因する、後遺症だった。

 非常に憤慨すべき事態だが、なんとこの後遺症、全然治っていなかったのである!

 

 【いやまあ……予想はついていたけど、これほどとはね】

 

 ハリーには聞こえない自分の脳内で、憐れむような声が響いた。

 

 【あんな常識を覆すようなとんでもない呪文、しかも急拵えときた。安全性も何もあったもんじゃない。それを使えば大き過ぎる代償が来るのは君も想像できたのでは?】

 

 (な、治らないなんて、聞いてない……)

 

 【確かに分霊箱は強力な再生機能が備わっているけれど、連続する損傷を完璧に打ち消すなんてのは無理がある。今の君は治らないというより、損傷が続いている状態、と言うべきだね】

 

 (うぇ……。これだけの時間が経っても……か……?)

 

 【これだけの時間が経っても術者の体内を食い荒らすような呪文に、君が仕上げてしまったんだよ】

 

 ではお聞きしたい。自分はレシフォールドに飲み込まれたあの時、どうすれば良かったのかを。

 もう常識を覆すしか方法は無かったのだから、碌に時間が無い状況で呪文を作り上げる事になってしまったのは仕方が無いだろう。結果、安全性なんてものを度外視した呪文が出来上がったのは必然。あの呪文に頼らなければ、自分は今ここにいないというのに。

 

 【あの呪文……くれぐれも他の人間に教えない事だね。でないと、君は間接的だろうが殺人に手を染める事になるよ】

 

 (うっ、ううう、そんなにか……?)

 

 【分霊箱以外の人間が使えば、確実に命を落とす事になる。例え『賢者の石』のような物が傍にあったとして、蘇生する暇も無いまま『向こう側』へ旅立つだろう】

 

 成る程。分霊箱とはいえ、相当に危険な呪文を作り上げてしまったようだ。だが、それもこれもこの身体に備わった呪文創造の才能が限界突破しまくっている、というのも一因ではあるのだけれども。

 

 【あまり責任転嫁するものではないよ。才能さえあれば誰でもできた……とは思わない。君だから作り上げられたんだ】

 

 (今何を褒められても全然嬉しくない、うぇぇぇ)

 

 【重症だね……。なまじ、傷や痛みを恐れない君だからこそ、あんな危険な呪文に仕上がってしまったのか……それも興味深くはあるけれど……)

 

 (なっ、治す呪文、教えろろ)

 

 【無茶言わないでくれ。分霊箱の再生能力でも完治してないんだ、何の呪文を唱えても無駄だよ。時間が解決してくれるのを待つしかない】

 

 (役立たず!無能!捕まってないだけの詐欺師!マグルの生殖細胞からやり直せ!)

 

 【何で罵倒する時だけ症状が治まるんだい?】

 

 どうやら分霊箱という存在は、それ自体が邪悪な魔法の産物であるが故、他人を嘲る際には活性化する体質らしい。あまりにも社会不適合が過ぎる呪物だ。こんな魔法を最初に生み出したとされるギリシャの魔法使いは、なるべく苦しみながらくたばっていて欲しい。

 

 【全く……こんな口を利いて()()()のは君だけだ】

 

 (嫌なら一生黙ってろよ)

 

 【いいや、何かと新鮮で楽しいよ、君との会話はいつでもね】

 

 罵倒を受けるのが楽しいとか、こいつマゾヒストか何かか?

 他人の趣味嗜好はどうでもいいし口を出すつもりはないけど、それを大っぴらに明かすのは流石にどうかと思う。どっちかというとお前はサディストじゃなかったのか。他人を利用して新しい扉を開くなよ……どうでもいいけどさ。

 

 【いやそういう意味ではなく、単純に君と言葉を交わすのが楽しいと……まあいいか】

 

 弁明か何かは途中で打ち切られた。

 なるべくこちらとの会話に嫌気がさして黙っていてくれた方が助かるのだが、どうも向こうにその意思はまるで無いらしい。五十年間、こちら相手に口を閉ざす事なく会話に応じ続けてきていたから解ってはいたが……面倒な奴だな。

 

 何度目かすら分からない嘔吐の末、罵倒のせいかようやく少しだけ楽になったので、払拭呪文で汚してしまった箇所を全て清めた。

 かなり屈辱的な後遺症である。前世では、どれだけ吐き気を催しても公衆の面前でぶちまけるという失態を演じず避けられたというのに。今回の嘔吐は、どれだけ耐え抜いてやると意地を張ったところで無意味だった。ハリーが未だ心配そうにこちらを見つめている。

 

 「ねえ本当に大丈夫?僕、日記に何か書こうか?」

 

 『いや、やめておいた方が良い……うぅっ。ハリー、君は気付いてないだろうけど……今の君、割と限界に近いぞ……うぇ……ッ』

 

 「えっそうなの?全然気付かなかったけど」

 

 『僕の意識が無い間も、かなり生命力を注いでいたんだろう。それの積み重ねだ……。君は、体調不良に陥るか否か、ギリギリのラインで踏み止まっているに過ぎない。ううう、これ以上は、やめておけ。僕自身は、時間経過で治る、みたいだから……心配するな、うぅ……』

 

 正直、今も肋骨がグチャグチャに砕けて、その破片が一つ残らず心臓を四方八方から突き刺しているような激痛が絶えないのだが、弱々しい姿を晒す訳にはいかない。

 万が一に備え、この激痛に身体を慣らしておく為にも、決して実体化を解こうとはしなかった。この程度の痛み、受け流して立ち上がるくらいの根性が無ければ、きっとこの先やってはいけないだろうと思ったからだ。磔の呪文に比べたら多分マシだから大丈夫だろう……受けた事無いけど。

 

 (ううぅ……やっぱ無理だ。死のう。死んだ方がマシ……ぅぐぐぐ)

 

 【死なないで?本当に君は……諦めが早いのか悪いのかよく分からないね……】

 

 ……ぶっちゃけ諦めの早さは昔から自覚している。忍耐は自分から結構遠い能力だろう。努力も嫌いな部類だ。

 授業を受けているだけで大抵の知識は身に付くものだから、わざわざ復習に時間を掛ける、といった勉強も大嫌いだった……。思い返せば、自分はそれほど粘り強い人間でもない。五十年間日記帳に閉じ込められている最中も、何度発狂したか覚えてない。

 こんな目に遭う羽目になったそもそもの元凶、ヴォルデモートへの憎悪と復讐心だけで今までやってこれたのだ。そう考えると、人間の持つ復讐心が秘めている原動力とは凄まじいものだな……。

 

 ……いや、本当に恐ろしいのは、後遺症なんかじゃない。

 死んだ方がマシだと、ヴォルデモートに従うくらいなら死んでやる、と豪語しているというのに。今の自分には、自殺する手段が一切与えられていないという事かもしれない……。

 バジリスクの猛毒も、悪霊の火も、分霊箱を殺す手段を一つたりとも持ち得ていないのだ。それは、どうしようもないところまで追い詰められた時、自分は『死』に縋る事などできないという訳で……。

 背筋が凍えるような恐怖を無理矢理に呑み込んで、胸を押さえながらハリーに向き直る。

 

 『……、よし。取り敢えず、状況を整理、するぞ』

 

 「う、うん」

 

 『まず、今の日付は六月。これに間違いはないな?』

 

 「そうだよ。ちょうど六月に入ったばっかり」

 

 『……薄々覚悟はしていたが、実際の時間経過に直面するときついものがあるな……』

 

 そう。現在、この世界は六月を迎えていた。

 自分達が森でクィレルの襲撃に遭ったのが去年の九月末頃だったので、なんと年を越えてしまっているのだ。およそ九ヶ月の月日が経っている。

 今の状況、夏休みの宿題に全く手を付けないまま最終日を迎えた、愚かな学生の気分である。なんと素晴らしい事か?

 ―――いくらなんでも寝過ぎだろ自分!!もっと早く起きられなかったのか!?

 

 【どうせ後で文句を言われるだろうと思って、こちらも眠っている君に声を掛けて起こそうとはしたんだけどね。ぐっすりだったよ】

 

 (妙だな……聞いているだけで吐きそうなぐらい不愉快なお前の声でも起きなかっただと?さては嘘を吐いているんだろう、法で裁けないだけの詐欺師、ぅぐっ)

 

 【そりゃ肉体が無い人間は裁きようがないと思うけど。あとタイミング良くえずかないでくれるかな、わざとなのかどうか分りづらいから】

 

 喋りながらも、全身を駆け巡る覚えのない悪寒。これは一体どういう事だろう。

 自分が眠っている間こいつが起きていたという事は、自分とこいつの状態は、必ずしも全部が全部共有されている訳ではないという事だ。そして、眠っている最中に声を掛けていた?

 ……何故だろう。それ自体は別に異常でも何でも無いのだが、どうにも気味の悪い感覚が呼び覚まされるような……。背中や頬の皮膚が粟立つ感覚。……今は気にしても詮無き事、忘れよう。

 

【意識が無い間しか君と触れ合えないのは残念だけど】

 

 凄く小さな声で何事かを呟いているのが聞こえたが、面倒なので無視しとこう。嘘吐きに翻弄されずに付き合うコツは、無視が有効だったりするので。

 ……それにしても悪寒が酷い。分霊箱が風邪に感染するなんて事無いよな?

 

 取り敢えず。

 自分の意識が無い間、ハリーがどんな日々を過ごしていたか軽く整理すると。

 

 まずあの後、やはり駆け付けてきたハグリッドに保護されたらしい。彼はケンタウルスのフィレンツェから話を聞いて、ユニコーンの亡骸を発見し、ハリーとドラコの元へ向かい合流できたとか。

 二人の罰則はそこで終了。しかし二人と森のケンタウルスの証言により、レシフォールドという、本来ならば禁じられた森に棲息している筈のない魔法生物の存在が発覚。この情報はしっかりとダンブルドアの元まで報告が上がった。

 ダンブルドアがどう動いたかはハリーにも分からないらしいが、校長の活躍により、こちらが追い払った後も森を彷徨っていた二匹のレシフォールドは、然るべき処置を取られたらしい。駆除されたのか、在るべき棲息地に送還されたのかまでは不明だが、もう森の中にレシフォールドは存在していないとの事。

 

 「あっ、もちろんトムの存在は内緒にしたからね!どうやってあの化け物から逃げ切ったのか、先生に聞かれた時はドラコに頼んで、君の話を出さずに上手く誤魔化してもらったよ。ドラコって、そういうのがすっごく得意そうだったから」

 

 『それ、悪意は無いんだろうが本人の前で言うなよ。褒め言葉のように聞こえるが、スリザリン生が聞けば皮肉にも取られるからな』

 

 ……ちなみに、二人は正確な種族名を知らないままだが、襲ってきた生物の一種であるアクロマンチュラの存在は、どうもハグリッドに揉み消された疑惑がある。

 ドラコは保護された後、必死に巨大蜘蛛の存在を訴えたが、ハグリッドは「昔からホグワーツの森に蜘蛛がいるのはおかしい事じゃねえ」とかなんとかはぐらかしてきたようで。その様子だと、彼は恐らくダンブルドアに報告していない可能性が高い。報告していないだけで、ダンブルドアは多分、アクロマンチュラの定着自体は既に知っているんじゃないかと思うけど。

 ドラコが可哀想ではあるが、まあこちらには関係無いのでこの件は放置で良いだろう。あの蜘蛛どもはどうせ繁殖力が高過ぎて、真正面からの駆除など現実的ではない。

 ……真面目に、禁じられた森の生物達の変動数を、ロトカ・ヴォルテラの方程式で誰か書き出してくれないだろうか。何のメリットにもならないのだが、魔法生物の存在しない世界の出身者として、単純にあの森の生態系に対し学術的な興味がある。

 

 罰則終了後、二人はあの夜の出来事を忘れる事にして、普通に学生生活を送っていたようだ。まあ、実際そうするしかなかっただろう。ドラコに限っては、一体何が何だか解らないままだったろうが。

 結局、あの夜のハグリッドへの襲撃と、レシフォールド騒動の犯人がクィレルであると理解していたのは、自分だけだったのだから。クィレルがレシフォールド放逐の犯人であると、校長に直接告げる者は一人もいなかった。

 ハリーはあれから何度も日記との対話を試みたらしいが、今の今まで全く返事が無かったという。当然だが。

 そして自分は知らなかったが、実はハリーは最初の飛行訓練の授業で、『クィディッチ』という魔法界のスポーツの、シーカーというポジションの才能を見出され、グリフィンドールのシーカーに指名されていた。

 これは本来の物語の通りだ。初試合は何事も無く勝利できたと嬉しそうに話していた。

 ……そう、何事もなく、だ。箒が暴走する事も、スネイプが暴走を起こした犯人だと疑われる事も無く。

 

 「スニッチって、口でキャッチしても良かったんだよ。あの時の祝杯はスゴかったんだから」

 

 『自分がやりたいとは微塵も思わないが、観戦だけならしたかったな……残念だ』

 

 「トムならビーターのポジションが似合ってるんじゃない?普段から色々殴り慣れてそうだし」

 

 『ハリー、君を殴るぞ。僕はどっちかというと打撃よりも斬撃派だ、覚えておけ』

 

 「いや、そんなムダ知識覚えたくもないんだけど」

 

 無駄とは失礼な。

 他人を殴れば自分も痛い。他人を刃物で斬れば痛いのは相手だけ。おまけに流血も狙えて一石二鳥。基本的に打撃より斬撃の方が利点が多いのだ。至極簡単な理屈だというのに……。

 

 【君は……何だい?中世のスラム街か何かで育ったのかい?】

 

 (クソ田舎育ちの無害な現代人だが?)

 

 【あ、やっぱり自分の事は『無害』って言い張るんだ……】

 

 それから、ハリーは大多数の生徒達と違い、帰省する事なくホグワーツ内でクリスマス休暇を迎えていた。

 同室のロンとクリスマスプレゼントを確認していると、なんとハリーには『透明マント』が届いていた。差出人は不明だったが、メッセージには「ハリーの父親から借りていた物を返す」、とか、「上手に使いなさい」、とか書いてあったという。

 上手に使う、という言葉にハリーは、本来なら禁じられている夜間外出を確実に行う為に使用する、という解釈をしたらしい。

 ハリーは図書館の閲覧禁止の棚に忍び込み、分霊箱に関する書物を見つけ出そうと思ったようだ。全く反応の無い日記帳の様子に不安を覚え、どうにかこちらを目覚めさせる方法が無いか、本に頼る事にしたんだ、と彼は語った。

 結果は、惨敗だった。手に取った本が突然叫び声を上げたせいで、ハリーは図書館から逃亡を余儀なくされたのだ。物音に気付いたフィルチやらスネイプやらが駆け付けてくる中、慌てて逃げ込んだ部屋の中で、ハリーはある鏡を発見した。

 

 『みぞの鏡』―――鏡の前に立った者に、本人が一番強く望むものを映し出す魔法道具だ。

 鏡は、家族を知らないハリーに、家族に焦がれるハリーに、両親の姿を見せ付けた。

 当然、ハリーは鏡の虜になった。毎晩ベッドを抜け出して通い詰めるくらいに。しかし、それも三日しか続かなかった。三日目の夜は物語の通り、鏡の部屋にダンブルドアが姿を見せたからだ。

 

 「先生は……鏡に夢中になって、生きるコトを忘れてしまうのは良くないって。鏡は別の場所に移すから、もう探してはいけないよって言ってた。先生のお陰で僕、正気に戻れたんだ」

 

 『そういえば……ダンブルドアが鏡を運んでいるんなら、彼も鏡を見たって事になるだろう?何が映るんだろうか』

 

 「僕、質問したよ。そうしたら、厚手のウールの靴下を持ってる自分が見えるって。……後になって気付いたんだけど、多分、あれはウソだったんだと思う……」

 

 『―――まあ、ホグワーツの校長を務めている人間が見るにしては、おかしい望みだ。聞かれたくないから誤魔化したのか……何にせよ、本人のみぞ知る、か』

 

 自分だったら……あの鏡に何が映る、だろう。

 完全な実体化を果たした姿?

 前世の肉体に戻れた姿?

 それとも……ヴォルデモートをゴミ屑のように足蹴にしている姿?

 ……解らない。奴には復讐という意味のお礼参りをしたい反面、本当はなるべく関わりたくないという気持ちも抱いているので、何が映し出されるのかまるで想像がつかないのだ。

 

 ―――前に一度、あの鏡を見かけた記憶があるが……知らないフリをした。

 

 鏡の一件を終えた後のハリーは、再び授業とクィディッチの練習を繰り返す日々が続いた。

 そうした生活の末に、ようやくこちらが寝室で実体化している姿を見付けたのだ、と。

 

 しかし、ここで疑問が生じる。

 これだけの長い期間、どうして自分とハリーは無事であるのか?

 こんなにも時間があったならば、クィレルが途中で無防備なハリーに手を出していてもおかしくはない。もしくは、『賢者の石』奪還の日時を早めていてもおかしくはない。

 ヴォルデモートが本来の物語と違って、やたら日記帳に執着心を滾らせていたのを見る限り、九ヶ月も日記の持ち主であるハリーを放置しているのは解せないのだ。

 では何故、自分達が無事であるかというと……ハリーの話を聞く限りでは、スネイプの功績である可能性が高かった。

 

 「―――スネイプ先生?ああ、うん。クィディッチの試合でもずっと審判をやっててさ。ジョージ……あっ、ロンのお兄さんね。ジョージなんか、スネイプ先生が審判やるなんて聞いた時は、びっくりして練習中に箒から落っこちてたよ」

 

 『ていうか、あれの審判って、教師なら基本誰でもやれるんだな……』

 

 飛行訓練の授業を担当しているフーチとかいう魔女の役割かと思ったが、別に絶対という訳でもないらしい。

 

 【スリザリンの寮監か。彼はクィディッチなんかに興味を持つようには見えないが】

 

 (お前は観戦しなきゃ世界が滅ぶぞ、と言われても絶対にクィディッチを観に行かなそうだもんな)

 

 【君はこちらを何だと思っているんだ】

 

 (かわいそうなお友達?)

 

 【いつもと違うパターンの蔑称でくるのもやめて欲しい】

 

 でも多分、こいつの事を『かわいそうなお友達』だと認識している連中って、結構いるんじゃないかと思うが。勿論、ここでのかわいそうとは「同情に値する」とかじゃない。「純粋に哀れで愚かしいなぁ」、という意味での、侮辱の篭った『かわいそうなお友達』、である。

 お父さんやお母さんが死んでしまって、一人ぼっちになってしまった、かわいそうなお友達、という点もあの作品と同じだし、ぴったりの蔑称だと思う。こいつの孤児院、みなし子センターとかいう名前だったりしないのかな。

 

 ―――日記帳が無事である理由だが。

 ハリーとドラコの罰則によって、レシフォールドという異端に気付いたダンブルドアは、クィレルが連れてきたのだと判断したのだろう。

 物語での動きから推測するに、彼は元々クィレルをマークしていた。クィレルとヴォルデモートが協力関係にあるというのも掴んでいた節がある。そして、彼は彼自身と繋がっているセブルス・スネイプに、クィレルの挙動を監視、そして報告するよう命じた。

 レシフォールド、という本来なら登場しないイレギュラーの発覚によって、ダンブルドアとスネイプの警戒心が物語よりも高められたのかもしれない。だからこそ、スネイプは最初からクィディッチの審判を買って出たのだろう。

 レシフォールドが襲ったのはハリーとドラコだ。そして、ヴォルデモートと通じているクィレルなら、予言の子であるハリーを狙ったのではないか、という考えが自然と浮かぶ。そこで、ダンブルドアは罰則後にハリーに対する護りを強めようとしたのではないだろうか。ハリーが出場するクィディッチの試合に、スネイプを審判として参加させる事で。

 

 ハロウィンの日にトロールが侵入騒ぎを起こさなかったのも、ダンブルドアとスネイプの警戒が強いせいで、クィレルが何もできなかったのだと思う。

 徹底的に監視されている状況下では、トロールの侵入を手引きするなどとてもじゃないが不可能だろう。犬猫といった小動物ならまだしも、あんな巨大な魔法生物、誘導しようと思えば相当目立つ羽目になる。普通に考えて至難の域だ。

 ……日記帳を持つハリーが今までクィレルに手出しされなかったのは、極論、スネイプの功労が大きかった。形だけでも感謝しておくか……。

 

 しかし、やはりハリーには念を押して忠告しておくべきだろう。

 禁じられた森でのトラブルの全ては、ヴォルデモートを永らえさせる為にユニコーンを襲ったクィレルの仕業、という事をしっかり伝えておいた。ついでに、何ヶ月もの間クィレルに手を出されていないのは、スネイプのお陰だろうとも。

 彼は酷く驚いていたが、やっぱりか、といった表情を浮かべて手の甲に視線を落として俯いた。

 クィディッチの試合を終えたある日、ハリーが箒置き場に向かったら、禁じられた森に入るスネイプを見かけたらしい。不思議に思って後を尾けると、彼はクィレルと二人きりで話をしていたという。

 それは、『賢者の石』を護っているハグリッドの野獣、それを出し抜く手段を知っているかどうか、スネイプがクィレルに問い詰めている場面だった。ハリーはその時、ユニコーン殺害の犯人の正体がクィレルではないかと気付き、自分にばかり厳しいスネイプは石を護っている側である、と再認識したのだと。

 物語と違って、ハリーがスネイプの事を誤解したままにはならなかったようである。

 

 「……そっか。……ねえ、『賢者の石』以外でも、ヴォルデモートは蘇ったりしないの?」

 

 『ああ、石以外の方法が無い事も無い。肉体を新たに構築させる儀式さえ行えば、だ。儀式に必要な肉体を作る材料は、父親の骨、下僕(しもべ)の肉、(かたき)の血……』

 

 「うわっスゴいグロじゃん!トムでもそんなの食べないよ。ねえ、無理だよね」

 

 『いやあ、流石に無理かな……って何でだよ!当たり前じゃないか』

 

 ……夢の中とはいえ、蛇を食べてしまった事はあるけれども。あれは現実の出来事ではないのでノーカンだ。そもそもあの儀式は料理する為のものではなく、肉体構築の薬液を生成する為のものである。

 

 「もし石が無事でも、いつかどこかでその儀式をされちゃったら、大変なコトになるよ」

 

 『大丈夫。肉体が無い今、あいつなんてただの「寄生虫老いぼれ無職」だ』

 

 「トム、君も似たような立場にいるってコト、自覚してる?」

 

 失礼な。本当に肉体の無いヴォルデモートと違い、こっちは不完全だが実体がある点では全然似ていないというのに。

 不安げでどうも腑に落ちないと言いたげな顔のハリー。実際は、ヴォルデモートがその儀式に着目して実行に移るのなんて、本来の物語の通りならば数年も先の話だ。今、起こり得ない事に対し不安を募らせるのは時間の無駄でしかない。

 

 『ハリー、一年もあとちょっとだから頑張れ。着実に終わりが見えてきている。もうちょっとだ。僕がこうやって意識を取り戻せた今、君がまた襲われても行動する事ができる。スネイプだって目を光らせて、クィレルを牽制しているんだ。頼むから、君がそんな情けない顔するなよ』

 

 「……うん、そうだね。ビビってる場合じゃないよね。切り替えないと」

 

 『そうだ、悩むのは後回し。君のその、切り替えの早いところだけは好きだよ、僕』

 

 「うん、ありがとう。僕もトムの捻くれてて、他人を馬鹿にしてて、自信過剰で、詐欺師みたいに態度が変わるとこ、割と好きなんだ」

 

 『複雑な褒め方してくれてどうも』

 

 そういえば、ふと疑問に思った事を尋ねてみようと思った。

 

 『ハリー……僕の日記帳は何処に隠しているんだ?』

 

 「えっ」

 

 尋ねた瞬間、ハリーの周囲の空気が凍り付いた。……ように見えた。間違いなく一度以上は気温が下がったんじゃないかと思うぐらい、その表情が青ざめている。

 こんな顔を浮かべるなんて、まさか紛失したとでも言うのか?爆速で嫌な予感が背筋を走り抜けていったが、しかし確かに日記帳の現在地はこの部屋で感じる。失くした訳ではない。では、どうしてこれほどまでに青い顔をするのだ。

 

 「そっ、そんなの、この部屋に決まってるじゃん」

 

 『君が僕を襲った場所だな』

 

 「襲ってないでしょ。抱きついただけでしょ」

 

 『どっちでもいいよ、そんな事。……何処に、隠しているんだ?』

 

 「えっ、えっ、えっと、うん。その、ええっと……、言わなきゃ……ダメ……?」

 

 慎重に再度問い掛ければ、露骨に視線を逸らし両手で顔を覆い隠そうとしている。思考を読まれたくないという分かり易い意思表示。タンタン、と片足の靴裏で床を打ち鳴らしながら解答を促した。

 

 『……何処なんだ?僕が感じるのは君のベッドだが……ただ単にベッドの何処かに隠しているにしては、やけに奇妙な態度を取るじゃないか。ざっと見た感じでは、特にベッド周辺の異常は見受けられないが』

 

 「そ、その……言いにくい場所、なんだけど。お……怒ったりしない、よね」

 

 『実はトイレに流した事があります、とかならしばき倒そうとは思っている』

 

 「そんなコトしてないよ!大体、そんなの他のみんなの迷惑になるじゃん。……えっとぉ、その……。君が、ドラコ以外には絶対にバレるなってずっと言ってたから、同部屋のみんなにも見付からないような場所に、いつも隠してた……」

 

 『……だから何処なんだよ?』

 

 皆の迷惑になるような事をしていたのが、本来の物語のジニー・ウィーズリーなのだが、この場では無関係だから割愛しよう。一体全体、ハリーのこの態度は何なのだろう?

 ひたすら鋭い視線を送り続けていると、とうとう根負けしたのかハリーがとぼとぼとベッドへ近寄っていった。枕を手に取り、カバーを剥ぎ取り、その中に詰め込まれていた布のような物が露わになる。……布?

 ハリーが折り畳まれていた布を開く。何かを包み隠すようにして畳まれていた布の、内側の膨らみの中から、一冊の本のような物が姿を見せた。自然と己の目が見開かれる。

 ……間違いなく、あの日記帳、だ。問題は……日記帳を包んでいた、布の……正体…………。

 ハリーは先程からずっと視線を逸らしたまま俯いており、酷く赤らんだ顔を晒して白状した。

 

 「……その、ゴメン……。せっ、洗濯はしてるモノだからっ、怒らないでよ?」

 

 ……ハリーが日記帳を隠すのに使用していた布。それは……下着、だった。

 下着、という言葉は上半身の物も下半身の物も両方意味する言葉だが、今彼の手の中にあるのは、下半身の物だった。

 下着。シタギ。したぎ……。

 人間が下半身に、纏う為に製作した衣類。下半身に、下半身に…………。

 ―――要するに、つまるところ、おパンツって訳だ。

 

 『なっ―――かっ―――、はぁッッッッッッ!?』

 

 随分と間抜けな大声がまろび出てしまったのは、まあ必然だったろうよ。

 

 

 

 

 『一体どんな教育を受ければ大事な物を下着の中に隠そうとするどうしようもない阿呆が育ってしまうのか?その謎を解明する為、我々はアマゾンの奥地へと向かった』

 

 「鬼悪魔ひとでなし意地悪ヘビ怪力おバカどめすてぃっくばいおれんす」

 

 ノックアウト状態でベッドに沈みながら、哀れな語彙力を披露する羽目になるだけの悪口を羅列しているメガネザルは放置して、日記帳にこれでもかと洗浄呪文を掛け続ける。全く酷い目に遭った。そうだろう?

 

 『洗濯していれば良いってもんじゃないんだよ、たわけが。君は洗濯したからって、他人の皮脂やら寝汗やら体臭やらが長年染み付いたシーツの上に寝転がれるのか?どうなんだ?』

 

 魔力の無駄遣いと分かっていても、洗浄呪文をやめられない。あらゆる角度から念入りに試し終えて、ようやく杖を下ろした。同時にハリーがベッドに伏せたまま、か細い声を上げる。

 

 「……だって……もしもクィレル先生が部屋に入ってきても、流石に人のパンツの中までは調べたりしないかな、って……」

 

 『そもそも合言葉を知らなければ教師でさえ入れないだろう、此処は……。ただでさえ監視が強化されているだろうクィレルにとって、グリフィンドールの寮に近付くなんて至難の業だった筈だ』

 

 「でも……万が一があるし……。それに……誰かに取られたくないモノは、大体ソコに隠せば無事なコトの方が多かった……。叔父さんもダドリーも、僕の下着までは取り上げなかったもん……」

 

 その言葉を聞いて思い出した。そういえば、ハリーの人生は……そうだった。

 親戚とはいえ他人の家。与えられた部屋は階段下の物置。碌に私物すら無い生活。仮に何か手に入れても、意地悪な親戚どもは、平気でハリーからそれらを取り上げ続ける日々だっただろう。物語でも、ホグワーツからの手紙がハリーに渡らないようにしていた。

 少し悪い事をしてしまっただろうか?いや、同情の余地があるにしたって、下着の中はないだろう、下着の中は!よりによって、人の魂の一部が入った貴重品だぞ!?

 

 『ヴォルデモートが知ったら、間違いなく君は磔の呪文フルコースの後、八つ裂きだぞ……』

 

 【確実にそれ以上が待っているさ、自ら死を懇願したくなる程のものが】

 

 ほら、役立たずのイルカもなんかプッツンしてるし。

 ……ん?閃いた!これからヴォルデモートに嫌がらせがしたくなったら、奴の私物を他人の下着の中に放り込むのが正解なんだな?いつか機会があったら試してやろう。

 

 【ろくでもないアイデアを閃かないで】

 

 (お前がこの世に存在している事実の方がろくでもないと思う)

 

 本当、世界の為にいつか自然消滅してくれないかな、こいつ。

 もしもこちらが死ぬような事があった時、こいつも道連れになったりするのかな。それはそれでざまあみろとも思えるのだが。

 

【死なせないよ。……例え頼まれたって、君の事は絶対にね】

 

 思考に夢中だった自分は、意図的に小声で囁かれたその言葉を鮮明に聞き取る事はなかった。

 

 

 

 

 「トムはしばらく休んでてよ」

 

 『え?』

 

 一通りの状況整理を終えて、唐突にハリーが言い出した。沈痛な面持ちでこちらを見つめている。読み取れる主な思考は、後悔や罪悪感、そして謝罪の意が大部分を占めていた。

 

 「だって、僕、君にいっぱい助けてもらった。そりゃあ君の方が僕よりも色んな魔法が使えるから、当たり前かもしれないけど。あの夜も僕らとはぐれた後、他の化け物達と戦ってたんでしょ?たった一人で……。すっごく辛くてヘトヘトになって、何ヶ月も起きなくなっちゃうの、当然だよね。君がそんな目に遭ったのも、はっきり言って……僕らが何もできなかったせいだ」

 

 『いや……それは過ごしてきた年月の差だろう。僕は五十年以上も魔法に触れてきた。君達はまだ一年にも満たない。力の差があるのは誰のせいでもないと思うが』

 

 そもそもハリーが死ぬような事があったら魔法界全てが終わるので、体を張って庇うのは当然である。幸いにも分霊箱であるこちらは、人間なら致命傷となる攻撃を受けても耐えられる構造をしている。

 しかしこの少年はまだ、自分の生命の価値を自覚していないらしい。……こちらと同じで、「自分の生命が価値あるもの」だと思える環境で育っていないので、仕方が無い事ではあるが。

 

 「でも、結局僕らができたコトって、君に全部の厄介事を押し付けて、のうのうと生き延びたぐらいだよ。だから、せめて……今は何も考えず、ゆっくり休んでて欲しいんだ。目が覚めても君は酷く苦しんでる。それを早く治せるぐらい、ゆっくりしててよ」

 

 また唇の端からつうっと垂れてきた黒インクを発見して、ハリーがむしろ懇願するような表情で頼んでくる。

 インクを手の甲で拭いながら、ふむ、と思考を巡らす。

 全快と言い切れないのは図星だ。この調子では、真正面からクィレル達の襲撃を再度受けるような事態になれば、勝率は低いと言わざるを得ない。少しでも回復に専念する方が適切な行動かもしれない。

 

 『それじゃあまあ、お言葉に甘えるとするか』

 

 はあ、と一つ息を吐いて、ハリーの望み通りに従う事に決めた。

 

 『どの道、今、僕達にできる事は特に無い。「賢者の石」だって、放っておいても問題無い。あの石は……クィレルどもには決して突破できない仕掛けで護られている』

 

 「じゃあ……!」

 

 『まあ、スネイプ達の監視が強化されている中で、ゆっくりと学生生活を謳歌すれば良いって事だ』

 

 ……確実に修了式までには何か動きを見せるだろうけど、流石に今すぐ、とはいかないだろう。

 奴は、ヴォルデモートは、こちらへの念話の中ではっきりと言っていた。日記帳ではなく、『賢者の石』の奪取を優先すると。だから、奴が『賢者の石』に夢中になっている間は、休息を取ったってバチは当たらない筈だ。

 物語の通りに行動して、『賢者の石』の隠された部屋まで向かってみろ。起こるイベントは、クィレルとの遭遇くらいだ。わざわざあの腐れターバンの元へ、のこのこと足を運ぶのは愚かだ。自分達は、決して『賢者の石』を追ってはいけない。

 

 ……ハリー・ポッターが、『賢者の石』を護ろうと行動を起こす事。

 例え、それがアルバス・ダンブルドアの思い描く理想だったしても。

 

 

 

 

 「あ……もうこんな時間。そうだった、ロンと一緒に夕食がてら試験範囲を見直そうって約束してたんだよ。行ってくる!」

 

 すっかり薄暗くなった窓の外を眺めて、ハリーがベッド付近に散らばっていた私物を片付け始めた。

 そういえばこの時間帯、生徒達はとっくに夕食の時間だ。同部屋の生徒がやけに入ってこないと思ったら、全員ハリーと違ってさっさと寮を出て食事を摂っていたのだろう。おまけに今は試験期間中であるので、生徒は自室より図書館や談話室などを利用する頻度が高い。そのお陰で、人目を気にせずハリーと話し合えたのは僥倖だった。

 

 『ああ……学年末試験、ってヤツか。僕には縁の無いものだ』

 

 「トムは休んでて!日記も部屋に置いておくから。誰か入ってきたら姿は隠してね」

 

 『それは僕の得意技だ、心配無用』

 

 「できれば、もっと堂々と誇れるものを得意技にして欲しいんだけど」

 

 お腹ペコペコだぁ、なんて言いながらハリーは寝室を出て行った。ホグワーツで生活している間は、彼も真面な食事にありつける。強制的に帰らされる夏休みまでに、できるだけ栄養をつけられれば良いのだが。

 

 それからの試験期間中は、実に平和な日々だった。少なくとも、自分にとっては。

 試験の間は部屋に日記帳を置いてもらい、誰もいない寝室で思う存分、ハリーが借りてきた本を読み耽ったり、ダラダラ過ごしたり。久々に穏やかな時間を過ごす事ができて満足している。こういうので良いんだよこういうので。

 後遺症も数日で鳴りを潜め始めた。まだズクズクとした痛みが胸に居座っているが、確かに時間が経過していく内につれ、少しずつ弱まってきている。吐き気自体は完全に無くなってくれた。

 

 反対に、試験に追われるハリーは平和とは言い難かった。自分が直接勉強を見てやっているとはいえ、ハリーは都合良く天才に目覚める、なんてフィクションでありがちな展開は起きなかったからだ。彼は頭は悪くないのだが、全教科満点を取れるまではいかないレベルでもあった。

 実技は結構良い線をいっているのだが……教師との相性のせいか、魔法薬学はお世辞にも褒められる域に達していなかった。

 薬学の知識だけは叩き込んでやったが、実際の調合に限っては本人が経験を積んで研鑽していくしかない。料理の知識が豊富でも、料理の腕前が下手であったら意味が無いのと同じ。

 これに限っては、長い間意識が無いせいで調合について教えを乞う事ができなかった、と唯一ハリーがこちらを責めてきた。どっちかというと責められるべきは、ハリーに対して教師とは思えない意地悪な振る舞いを継続しているらしいスネイプだと思う。

 にしても、一年生の試験の内容が「忘れ薬」の調合とは……魔法界の薬学は、マグルからすれば本当に恐ろしいものだ。十歳かそこらの子供が習う薬に、記憶を忘れさせる効果があるのだから。

 

 ……忘れる、と言えば。

 自分がこの世界に放り込まれる前の記憶。

 どういう訳かすっかり忘れてしまっているそれを、いつか取り戻せる日は来るのだろうか。

 真実を思い出せるとしたらしたで、それはまたなんとなく恐ろしい気もするけれど。

 全てを思い出したとして、この日記生から解放されるとも思えないので。

 逆に、知りたくなかった事実を突き付けられるような予感がして、どうも思い出したくない……と感じる……。

 

 ある日の晩、大広間での夕食を、ハリーはほとんど食べる事ができなかった。食欲が湧かず全身が怠くて、やたら傷跡が痛いのだと言う。

 その様子を見ていたロンや同室のネビルは酷く心配してくれたそうだが、ハリーは彼らに「試験恐怖症だ」とそれっぽい理由を告げて、彼らが見ている前では何とか気丈に振舞っていた。だがそれも限界に来ており、寝室に戻った途端、電池が切れた様に脱力していた。

 意識を取り戻してからは、体調を安定させろと伝えハリーとは筆談をしていない筈。彼がここまで不調に襲われる原因が分からない。……露骨に嫌な予感がした。

 

 『ハリー、気分が悪いんだったらもうベッドに入ってろ』

 

 「でも、」

 

 『デモもストも無いさ。辛いんだったら無理しないで寝ていれば良い。ほら、本を片付けろ。喉は渇いてるか?《アグアメンティ》で水でも出してあげようか?』

 

 「トム……なんか今日、気持ち悪いぐらい優しくない?」

 

 『当たり前じゃないか。君が夕食をほとんど残したんだぞ?異常事態だ、信じられない。よっぽどの事だ。君が夕食を残すなんて前代未聞、奇々怪々、空前絶後ってヤツだろ。君が夕食をほとんど残したんだよ。今までのハリーの生態からは考えられない超常現象で、僕としてはもうびっくりしてしまって』

 

 「分かった、うるさい。夕食を残したぐらいでそんなに心配しないでよ、もう」

 

 表情から読み取れば、いつものように毒舌で返してやろうと思ったらしいが、そこまで気力が回らないみたいだった。それでも、友人と交わした約束を律儀に守ろうと、ハリーは魔法史の教科書を持って談話室まで下りようとしていた。

 

 「明日で試験は最後だから……最後の確認だよ。食べ終わったら、ロンと図書館に行くって、約束したから……」

 

 『傷跡が痛む中でか?』

 

 「今までも時々こういうコトはあったよ。こんなに続くのは初めてだけど……」

 

 『悪い事は言わないからやめておけ。悪化したら明日の試験に響くだろう』

 

 「明日さえ乗り切れば、素晴らしい自由な時間が待ってるんだよ?最後くらい、頑張らなきゃ……。あの夜のトムみたいに、君が痛いコトだらけでも僕らを守ってくれたみたいに、やりたいんだ」

 

 ハリーは額を擦りながら精一杯の笑みを浮かべた。かなり無理をしている。

 正直、ハリーの傷跡が痛む時は大抵悪い何かが起きる印象しかない。これは止めるべきだろうか。しかし、ここまで勉強に励む子供を、黙って見送るくらいはしてやっても……。いや、しかし……

 と、考えている間にいつの間にかハリーは階段を下りてしまっていた。例によって、日記帳は部屋に置いたまま。

 病み上がりのこちらへあまり負担を掛けないように、と最近のハリーは勉強時に日記帳を携帯しなくなっていた。自立自体は良い事なのだろうが……。

 

 『……まあ、あそこまでやる気なら邪魔する方が野暮、か』

 

 そう結論付けて、寝室に誰かが入ってくるまで大人しく自由を謳歌する事に決めた。

 試験期間中は、本当に寝室がガラ空きだった。生徒達は、複数人で勉強を教え合える談話室か図書館の方が効率的だと思っているのだろう。

 そうしてしばらくの間過ごしていたのだが、どうもおかしい。ハリーが一向に帰って来ないのだ。

 暇を持て余していたので、ハリーの様子を確認しようと全身に目くらまし術と防音の呪文を掛けて、階下へ降りる。談話室に辿り着けば、予想通り生徒達が集っていた。試験内容に関する話題がざわざわと飛び交っている。その真っ只中を突っ切るようにして、寮の出口である肖像画の方へ向かった。

 寮から出る際には、合言葉は必要無い。杖を向け弱めの衝撃呪文で肖像画を押し開け、穴を乗り越えて外へ出た。透明な状態でしばらく無人の廊下を歩き、ふと違和感に襲われて立ち止まった。

 

 ……。何だろう。

 ジクジクと、頭が痛い……ような。

 激痛ではない。痛み自体は弱いのだが確かに不快な感覚。普通の人間ならば生涯で何度か味わうだろう、日常的な軽度の頭痛、それに近い。

 唯一の不可解な点は、自分が生身の人間ではないという事。生身であったなら、ストレスや疲労からくる頭痛だろうか、とも思えたのだが、自分は頭痛などまず起きない分霊の身であるのだ。

 例の新呪文の後遺症が、頭痛になって現れた?いや、これは……違う。

 これは……これは…………。この、全身から、魂の奥底から、続々と沸き上がる生理的嫌悪感の正体は……

 

 

 

 

 【―――壮健か?】

 

 

 

 

 うわっっっ出たっっっ!!

 

 【虫みたいな言い方はやめてあげた方が】

 

 (いや虫の方が百億万倍マシ)

 

 ……ヴォルデモート。

 クィレルの魔力を奪取したせいで魂の繋がりを強固に変え、脳内念話を許してしまった宿敵。

 このタイミングで声を掛けてくるとは……。全く予想していなかった訳ではない。ただ、これほどの時間が経っても繋がりが弱まる事はないのか……。

 

 【……クィリナス・クィレルが死亡する、もしくは彼の肉体への憑依が解除されれば、この繋がりは完全に断絶するよ】

 

 懸念点に対する情報追加。初めて有能さを発揮したな、こいつ。いや前にも何度か有用な情報を教えてあげたじゃないか、という抗議の思念をひしひしと感じるが、今はそれどころじゃないので黙殺させてもらう。

 

 『……何の用だ?最初に言っておくと、今僕は療養中だ。会話は手短に頼むよ』

 

 あくまで冷静に、返事を寄越した。

 今はただ声を掛けられているだけだ。本人が目の前に姿を現して、追い詰めてきている訳じゃないし、焦る必要はどこにもない。頭の中に直接流し込まれる声というものは、いつだって防ぎようがないので、どうせ返事するしか選択肢は無いのだが。

 ヴォルデモートもまた、感情的ではなく、平坦な声色で語り出す。

 

【そう邪険にするな。なに、俺様も似たような状況だ。お前と違って、会話するだけでも消耗する身であるからな】

 

 『……じゃあ、単純に会話しなきゃ良いのでは』

 

 【相変わらず無愛想な奴め。それも良い。だが今回は会話の必要性があったのでな。お前に伝えておくべき件がある】

 

 逆に教えて欲しいのだが、一体この世の何処に、殺人鬼の前で愛想を振り撒ける人間がいるだろうか。……いや、いたな。『死喰い人』とかいうイカレポンチ軍団が。もう、こいつら本当に大嫌い。

 

 『何?逃げるのはやめて大人しく投降しろとか、そういうの?』

 

 【俺様がそう言えば、お前は従ってくれるのか?】

 

 『しない。僕が従うのは僕自身の思考。それ以外の全てには、この身が滅んでも従わない』

 

 【だろうな。お前ならそう言うと思っていた。俺様と同じ思考回路だ】

 

 ……誰が同じだって?

 こちらの正体が全くの別人だという真実を知らないからしょうがないとはいえ、こちらとヴォルデモートの思考回路なんて似ている訳がないだろう。勝手に似ているだなんて勘違いされるのは心外だ。

 第一、自分はこいつと違って勉強も努力も大嫌いだ。あんなもの、自分の未来が希望に満ち溢れている、と勘違いしている愚者どもが取り組む愚行でしかないのに。事実、こいつの未来は予言によって滅びが約束されている、絶望に満ちたものとなっているのだから。

 自分が望む物を手に入れられずに、自分が叶えたい願いを成し遂げられずに、朽ち果てた愚者。それが自分の知る、物語の中の『ヴォルデモート卿』だった。

 

 『で?何が言いたい訳?』

 

【お前の望み通り、手短に本題に入ろう。―――ハリー・ポッターを預かった。生きて返して欲しくば、俺様の元まで来い】

 

 『……えっ?』

 

 誇張抜きで両目が点になった。

 預かった、ハリー・ポッターを……?

 「返して欲しければ」、ってそんな言い方は、漫画や映画の中でしか聞いた事のない、まるで人質交渉のような台詞……。

 ―――いや、実際に人質に取られた。他でもないハリーをだ!!

 奴はこういう状況で下らない嘘は吐かない、これは事実だ!!

 やけにハリーの帰りが遅いと思ったら、まさかこんな事になるだなんて?非常に不味い事態だ……!

 

 『な―――、ッ、いや、まずは詳しく説明しろ……!』

 

 【やはり狼狽を見せるか。そして激しい動揺。クククッ、お前にとってのポッター小僧とは、余程重要な存在なのだな】

 

 思考を読まれた?いや、正確ではない。恐らく、こちらが抱いた強い感情だけが向こうに伝わってしまうのだろうと見た。

 ……これ、どうにかして防げないのか?前世にいた腐れ縁の女は、「ふざけんなお前!思考盗聴だあ!」とか騒いでたまにこちらの前でいそいそと頭にアルミホイルを巻こうとしていたが、マグルのアルミホイルに開心術の類を防御する性能は無いのだろうか。効果があったとしても、ホグワーツにアルミなんて置いて無いだろうが……。

 

 そもそもハリーをどうやって攫った?あの子供には、ヴォルデモートの憑依先であるクィレルを焼き尽くせる『愛の護り』が宿っている。物理的な接触は困難な筈だ。……いや、直接肌を触らなければ、服の上からなら、触れない事はない……のか?

 だとしても、少し触れるだけでそこから煙が上がり、塵と化す程の威力の護りだったのだぞ?ヴォルデモートが平然と話掛けてきているという事はだ。幸運にもクィレルは、ハリーの肌に一度たりとも触れずに誘拐を果たした、という事になる。どんな幸運だよ!

 

 【簡単な話だ。無防備なあの小僧を後ろから……あとは実に楽だったぞ。お前を所持していないのが残念だったがな】

 

 あっっっぶな。ハリーが日記帳を置いていってくれなければ今頃……いや待てよ?そもそも自分がついていれば、逆にハリーを護れたのでは……。いや、この件について考えるのはよそう。タラレバの話に意味は無い。

 

 『ハリーが僕を持っていなかったから、人質にする事にしたって?』

 

 【お前は、この城に来てからずっと小僧から離れる素振りを見せなかった。離れる必要性が無い、もしくはこの小僧でなければいけない理由があるのだろう?つまり、ポッターの安全が危ぶまれれば交渉に耳を傾けると思ってな】

 

 『……耳を傾けなければ、どうすると言うんだ?』

 

 【無論、殺す。そうするしかあるまい?】

 

 ……そうきたか。

 そもそもヴォルデモートがハリーを前にして、殺さない理由など何一つ無い。本当は今すぐにでも息の根を止めたいのだろう。しかし、奴の願いは予言の子を葬るだけではない。日記帳を手に入れたいという項目も追加されている。だから、今のところはハリーを生かして餌にしようと企てているのだ。

 

 『お前……本当にしつこい奴だな……!そう言われて、僕がのこのこ足を運ぶとでも?』

 

 【言った筈だが、憶えていないのか?お前は俺様の物。俺様の元へ帰ってくるのが当然だとは思わんのか?例えお前自ら動かなくとも、すぐに回収しに向かうつもりだがな】

 

 『そもそもお前は約束なんて守らない。僕が交渉に従ったところで、お前はハリーを殺すし日記帳も奪うだろうが!』

 

 【いいや?ヴォルデモート卿は約束を守る。小僧は生かしてやってもいい。何なら、お前が完全な実体を得る生贄にでもすれば良かろう。問題は、今の不完全な実体化をしているお前自身では、日記帳を触れないという事実だが……。条件をつけよう。ドラコ・マルフォイも連れてこい】

 

 『何……マルフォイだと?』

 

 予想外の人物名が出てきた。何故ここでドラコの名前が?

 

 【そもそもお前を最初に預けた先は、父親のルシウスの元だ。奴の息子でありながら、お前の存在も知っているスリザリン生……お前の『運び手』にはうってつけだ。交渉に応じるつもりがあるのなら、俺様の元まで日記帳をマルフォイに運ばせろ。そうすれば、日記帳からあまり離れられないお前も移動できるだろう?】

 

 『それは―――そうだが』

 

 成る程……よく考えられている。

 こいつはドラコを巻き込む事で、元死喰い人のルシウス・マルフォイを再び傘下に迎え入れようとしているのではないだろうか。

 長年主人を捜そうとしなかった裏切り者の一人がルシウスである、という事は奴も理解しきっているのだろう。だから今夜、彼の息子を日記帳の『運び手』に指名した。これを機に息子のドラコに直接顔を見せて、脅すでも何でもして、間接的に父親を従わせる駒にでもしようと企んでいるのだ。

 ホグワーツで息子がヴォルデモートと接触した、という事実が耳に入れば、ルシウスも息子の安全を確保する為、再度主人に忠誠心を捧げるかもしれない。肉体を失っても尚悪巧みに事欠かない奴だ……。

 

 『でも、何故ドラコ・マルフォイが僕の存在を知っていると……』

 

 【お前達の事はずっと見ていた。禁じられた森での出来事をな。お前がルシウスの倅、その記憶を利用し、レシフォールドを守護霊の呪文で撃退した瞬間をだ】

 

 見られていた。あの時の戦闘の一部始終を。ついでに、ハリー以外に自分の存在を知っている生徒、ドラコの様子までもを。

 ―――どうやって?思い返しても、森でハリーと合流した後、クィレルの気配など感じた事は無かったのに。遠くの出来事を覗き見る魔法でも使われていた?

 

 【実に良い見世物であった。『記憶』を司る物として設計した分霊箱のお前なら、他人の幸福な記憶を丸ごと自分の物にしてしまえたのも納得がいく。よく考えついたものだな?才能のある者は評価されるべきだ……我ながら、お前の存在が誇らしいぞ。さて、どのようにして俺様があの戦闘を観戦していたのか、種明かしなら後にでもしてやる。……交渉に応じるつもりはあるのか?】

 

 詰みだ。

 予言でヴォルデモートを滅ぼす者として定められているハリーの死は、ヴォルデモートに従いたくはない自分にとって、詰みを意味する。

 だから、ハリーの命を確保する為には、ヴォルデモートの交渉に応じるしか選択肢は無い。

 応じるという事は……わざわざヴォルデモートの懐へ、自分から入りに行くという訳で。

 それもまた、自分にとっては詰みを意味する。

 ……完全な八方塞がり。

 

 【応じるつもりがあるのなら、ルシウスの倅と接触して『運び手』にしろ。脅迫でも服従させるでも好きな方を選べ。準備ができたら『賢者の石』の隠された部屋まで、共に来い。お前も何処にあるのかは知っているのだろう?刻限は夜明けまでだ。それを過ぎても尚お前が姿を見せなかったら、小僧が生きて帰る日は来ないと思え】

 

 『賢者の石』の隠された部屋、だと?つまり奴は今、クィレルは今、物語の通りあの場所まで辿り着いている?

 それは、不味い。奴らには決して手に入れられない仕掛けを施されているが、ハリーを攫われているなら話は別だ。

 『賢者の石』を守る仕掛けを全て突破して、最終的に石を手に入れられたのは、物語の中ではハリーだけだった。あの話と同じように、石を隠された『みぞの鏡』をハリーに見せられたら……!

 いや、まだそうはなっていない。ヴォルデモートはまだ、『賢者の石』を手に入れていない。手に入れていれば、わざわざこんな交渉を持ちかけてきてはいない。とっくに肉体を取り戻して、その足で日記帳を強奪しに来た筈だ。

 奴らは今、物語の通り、鏡の仕掛けを突破していない段階なのだろう。……その段階もいつまでもつか分からない。ハリーを使う事で仕掛けを攻略できると気付かれてしまえば、それもまた詰みを意味する。何をするにしても、急がなければ……。

 

 『……、僕は、』

 

 【俺様の物になるのだな?】

 

 う、と言葉に詰まった。それ以外に選択肢が無いのだとしても、改めて声に出すのは躊躇われた。

 ……こいつ、本当に性格が悪い。悪くなければ、闇の帝王になどなっていないのだろうけど。

 焦る。僅かに両手が震える。冷や汗が吹き出る錯覚。見せかけの呼吸の間隔が狭まり、激しく上下する胸。

 ……何を躊躇っている。演じれば良い話だ。嘘でも話を合わせてしまえばいい。奴の機嫌を取っていれば、ハリーを殺される確率は減るのだから。

 実際、物語の中でだって、いつもヴォルデモートはハリーをひと思いに殺さなかった。ペラペラと自身の目的や野望を語り明かして、死の呪文以外で攻撃して、致命的な一撃を焦らしていたじゃないか。いざ殺そうとした瞬間には、いつも邪魔が入って結果的にハリーの延命は続きに続いた。今回も、自分が奴に従うフリをしていれば、傲慢な王様気取りの孤児はハリーを延命させてくれる事だろう。

 

 ―――だから。

 この選択は、理に適っている筈だ。

 

 『僕は―――』

 

 ―――駄目だよ。

 

 ……ふと、誰かの声が、した、ような。

 誰の声だ?同居人のものじゃない。だって、聞こえた瞬間の特徴的な不快感が一切無かったからだ。それに、あいつはこんなにも慈愛だとか温和だとかを滲ませたような声色は、絶対にしない。五十年間、一度だってこんな声色を聞いた記憶がない。いつも取り繕ったような薄っぺらい言葉ばかりだった。

 ならば、幻聴?溜まりに溜まった精神的負荷による、幻聴か何か?

 

 ―――君は誰の物にもならないって、そう言っていたじゃないか。

 

 幻聴じゃない。声は再び自分の脳内を通り過ぎていった。

 慌てて周囲に目線を走らせる。ヴォルデモートにも、同居人にも悟られないよう、動かすのは目線だけ。それでも、声の正体は一向に判明しなかった。―――こいつは、形あるものではない?

 

 ―――君は、嘘でも『そんな言葉』を口にしてはいけない。

 

 誰だ?お前は……誰なんだ?

 何者か判らないが簡単に言ってくれる。じゃあ、一体自分はどうすれば良いって言うんだ?

 

 ―――君は独りじゃない。だから、大丈夫だよ。

 

 いや全然大丈夫じゃない。全然独りなんだけど。

 こんな存在にされたもんだから、誰も助けてはくれないんだよ、悲しい事だが。

 

 ―――それは、君が独りだと思い込んでいるだけ。独りだと感じるのは、君自身の誤った認識のせいだ。

 

 何これとんちか何か?一休さん?

 駄目だ、一向に相手の言わんとしている真意が解らない。そもそも変な声に構っている暇はないっていうのに!

 

 【どうした?小僧がどうなってもいいのだな?】

 

 ほらもう、変な声に気を取られてたから相手が不機嫌になってしまった。

 クソッ、もう良い。嘘も方便、だ。嘘でもこいつに話を合わせて―――。

 いや、待てよ?とんち……。そうだ、これだ……!

 意を決して、その言葉を口に出した。

 

 『……ああ、解った。お前の物だ!』

 

 【―――ほう?認めると、やっと交渉に応じると、そういう事なのだな?】

 

 その単語を口にした瞬間、心なしか、応じるヴォルデモートの声がいつもより弾んでいる気がする。届かなかった高い場所にようやく手が届いたような、そんな雰囲気を思わせる歓喜が滲んでいる。

 ……ガキかよ、いい年した爺さんがみっともない。落ち着け爺。たかが日記帳に何の期待をしているんだ、恥ずかしいったらありゃしない。呆れる心情を悟られないよう胸の奥に押し込んでおく。

 

 『そうだとも。というか、お前がそう仕向けたんだろ。解ったから、僕が行くまで大人しく待っていろ。全く、病み上がりを酷使するなよ……』

 

 【そもそもお前が最初から俺様の元へ帰ってきていれば、こうはならなかったのだがな】

 

 『タラレバの話は無意味だぞ。で?必要な物は日記帳と「運び手」だけなんだろう?』

 

 【そうだ。万が一にも有り得ないだろうが、お前が『運び手』以外の者にこの件を漏らせば―――どうなるかは言わずとも解るな?】

 

 つまり、自分は誰にも頼れないという訳だ。素晴らしい。誰も助けてはくれない。そうしようとしてくれた唯一の少年は、今此処には居ない。

 結局、自分は、独りだ。……一度死んでも尚、独りきりだ。そして生きようが死のうが、誰も自分を放って置いてはくれないのだ。

 胸の内側でじくりと沸き立つ虚しさを無視して、感情が溢れて上擦りそうになる声を必死で堪え、返答に応じる。

 

 『……はいはい。心配しなくてもそんな真似はしないから安心しなよお爺ちゃん。いいからお前は黙って待っていれば良いのさ』

 

 【忘れるなよ。お前は俺様の―――】

 

 『はいはい、お前の物お前の物』

 

 交渉成立の意思表明はしたのだから、とっとと会話を打ち切ってくれないだろうか。正直こいつと喋るのは普通に疲れる。まだ『賢者の石』の部屋に向かう前の段階で、無駄な体力を消耗したくはない。

 

 【では、後ほど会おう。再会を楽しみにしているぞ……】

 

 『もっと他に楽しみにできる事はないのかなお爺ちゃん。ほーんと人生つまんなさそうだね』

 

 前回の念話の終わり方から考えて、こちらからの最後の言葉は聞こえていないみたいなので、相手の声が完全に遠ざかったタイミングでぼそりと呟く。どうせ聞こえてないのだから言いたい放題言ってやった。これくらいやらせてもらわないと溜飲が下がらない。

 

 【―――本当に良かったのかい?】

 

 ヴォルデモートとの念話が終了したかと思ったら、次はこいつだ。いや本当に疲れるから黙っててくんないかな。と思いつつも素直に返事をくれてやる自分は本当に慈悲深いだろ、誰か褒めて欲しい。

 

 『良かったって、何が?』

 

 【さっき言ったじゃないか。……自分は彼の物になる、と】

 

 言葉の節々から、お気に入りの玩具を横取られて不貞腐れたような、子供染みた不満げな感情がふつふつと沸き出ている。……何でこいつらは揃いも揃って、ふとした瞬間ガキ臭い言動になるんだ?

 

 『あぁ……、あれか。いや別に、言ってないけど?』

 

 【え?】

 

 『僕は、さっきの会話で「お前の物」という言葉しか口にしてない。「()()お前の物」だなんて、あいつの前で一言も言ってないぞ?』

 

 【いや……どういう事かな?】

 

 『確かに、「あいつの物」は此処に居る。―――お前の事だよ、気付かないのか?』

 

 【何をだい?】

 

 どうも理解が追い付いていないようなので、しっかり説明してやる事にした。

 

 『だから、確かに日記帳は「あいつの物」だ。つまり、「お前」って訳。「お前があいつの物」なの。理解した?』

 

 【いや……今は、今この分霊箱の意識の主導権は、君だろう?】

 

 『今も昔も無い。そもそもが「お前」だろうが。僕はお前達じゃない、部外者。つまり、「あいつの物」は「お前」。という事で、よろしく』

 

 【ええ……?】

 

 まだ困惑しているような声が聞こえる。いい加減付き合っていられない。

 とんちと言う訳でないが、結局、ヴォルデモートが欲しいのは『本来の日記帳』だ。要するに、『本物のトム・リドル』。だから、別に自分はヴォルデモートの物でも何でも無いのだ。全部全部同居人に押し付けてしまえば良いだけの話。

 ヴォルデモートだって、真実を知ってしまえばこちらに用は無いだろう。むしろ、部外者が分霊箱の中に居座っていた事実に対して、憤慨して消しにかかってくるかもしれない。その時に、本当の意味で奴の物になるのはこいつだけだ。執着心の対象は全部こいつに向く事になるだろう。

 勿論、大人しく死んでやるつもりもないが……もしも消されたら消されたで、全ての執着心はこいつが背負い、自分はこの世から退場できる。どっちに転んでも奴の異常な執着心からは解放されるのだ。

 

 【こちらの意思を全部無視して、一方的に押し付けるだなんて酷いじゃないか。誰にだって人権はあるだろう?】

 

 『黙れゴミ。人権は人間のもの!つまりお前に人権はない!』

 

 【勢いで押し通されてしまった】

 

 この世に神がいるとしたら意地が悪い事だ。こんな奴に生存権を渡してしまったのだから。

 

 【……真相を知られたところで、君が消される事は絶対に無いのにねぇ】

 

 どこか他人事のような空気を滲ませて呟かれた言葉。あれこれ考えを巡らせていたせいで、上手く聞き取れなかったが大して重要でもないだろう。無視して思考を続ける。

 しかし、気が滅入る事態に発展してしまった……。まさかハリーを攫われて人質に取られて、ヴォルデモートが待つ場所へ自ら向かわなければいけないだなんて。

 あの少年が命を落とす結末だけは、絶対に避けなければ。その為に自分の身柄を自分から差し出す事になっても、だ。……両手で頭を抱えて項垂れた。

 

 『ああ、クソッ。折角ゆっくりできると思ったのに……。結局、「賢者の石」の所まで行かなきゃいけないのか……』

 

 【そんなに気落ちしないでくれよ。こちらもできる限り協力してあげるから】

 

 『当たり前だ。たまにはお前も世界に貢献しろ』

 

 【何だい、その言い方だと常に悪事を働いている風に聞こえるよ】

 

 『悪事働いているだろうがドアホ』

 

 ―――こんな奴が唯一の協力者だなんて、初っ端から不安しかないんだが?もう少し真面な人材が欲しい、切実に。

 とにかく、まずは『運び手』に指名されたドラコ・マルフォイと接触しなければならない。あの少年の現在地として予想できる場所は、スリザリン寮内が可能性として一番高い。最初に足を運ぶべきは地下牢だ。

 

 ……謎の声は、「君は独りではない」と言っていたが、結局どういう意味なのか微塵も解らなかった。

 今はもう、あの声が頭の中に響く事は無い。あいつは一体何者で、どうしてすぐ聞こえなくなってしまったのだろうか。

 確かに、この日記生が始まってからずっと同居人がいるので、厳密に言えば自分は独りではない。しかし、言葉のニュアンスから考えれば、「独りじゃない」というのは同居人の存在を指している訳ではなさそうだった。では、何を意味している言葉だったのだろう?

 同居人も同居人で、特に謎の声について言及してはこない。恐らく、いや十中八九、こいつには聞こえていなかったと思われる。……本当に不可思議な現象だ。

 

 『―――どうせ独りだよ、僕は』

 

 誰も居ない冷え切った廊下を見回して、ぽつりと呟いた。

 意味深な言葉を掛けてくるだけで、肝心な時に直接助けてはくれないあの声に対し、皮肉を込めた返答のつもりだった。

 『運び手』の少年を見つける為、再度目くらまし術を自分自身に掛け直すと、振り返る事なく地下牢に繋がる階段がある方へ向かっていった。

 

 ……ヴォルデモートの交渉に、逆らう事なく完全に従い、奴の所有物である事を認めたなら。

 その時こそ、謎の声の言う通り―――自分は独りではなくなるのだろうか?

 例えそうだとしても―――そうなるくらいなら。

 自分は、永久に独りのままである方が、絶対にマシなのに。

 

 胸の中心で疼き続けている、不快な痛みを孕んだ虚無感を抱きながら。

 今はただ目的地に向かって、『決して逃れられぬ軌条』を歩くしかないのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 【―――いよいよだ】

 

 一人分の人影が、冷たい石床の上で無様に転がる子供の周囲を悠々と歩きながら、声を響かせた。

 声の主に本来の肉体は無い。その声は、クィリナス・クィレルという男の後頭部から紡がれている。不自然に高い声。

 

 【いよいよ、帰ってくる。俺様の所有物が、俺様の元に】

 

 クィレルは両手にターバンを持ったまま、どこか夢見心地な表情を浮かべて、己の後頭部が奏でる言葉にすっかり聞き入っていた。興奮のせいか、彼の頬には初心な乙女のように薄らと赤みが差している。

 

 【クィレルよ、解っているな?アレが姿を現したらすべき事を】

 

 「はい、ご主人様。解っておりますとも。余計な真似をさせぬよう小僧を嬲る様を見せ、動きを縛り付けたら魔力を注ぐ……でしょう?」

 

 【アレは、どうもこの小僧に死んでもらっては困るようだからな……ククッ。良い悲鳴を聞かせてやれば、必ず動きを止めるだろう。その隙に貴様の魔力を注いでやれ。傀儡へと堕とすのだ……。その後は俺様が()()()()()()()()()()()()。自我の一つもない人形では困るし、何よりつまらぬからな。絶対に逆らう事のない細工を施してから、自我の一部を返し連れて行く。嗚呼、待ち遠しいものだ……】

 

 床の上で縄に縛られ失神している少年の腹を、クィレルが靴先で軽く小突いた。その程度の刺激では少年が目を覚ます事はなかったが、微かな呻き声が小さな唇から漏れた。衝撃で少年の耳に掛かっている丸眼鏡がカチャリと音を立てる。

 視線を上げ、何処でも無い空間を虚ろに眺めながら、恍惚とした様子でクィレルが呟いた。

 

 「―――全ては、貴方様の望み通りに」

 

 【今まで欲しい物は全て手に入れてきた。そして今度も必ずそうなる】

 

 

 

 

 分霊箱となった少年は、まだ知らない。

 自身が向かう先に待つ者達が有する、底無しの悪意と執着心がどれほど苛烈なものなのかを。

 

 

 

 




やっとここまで来たよお爺ちゃん
年内に『賢者の石』編完結目指せるかな
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