ハリーの意識がゆっくりと浮上した。
最初に感じたのは、足元の柔らかな絨毯の感触だった。硬い石の床に投げ出されていた筈の記憶が、ぼんやりと頭に蘇る。
あれは……夢? いや、違う。誘拐されたんだ。
あの悪党教師―――クィリナス・クィレルに不意打ちを食らって、気絶して……。
目を開けると、そこは全く見知らぬ場所だった。ハリーは慌てて体を起こそうとしたが、既に 立っていることに気付き、よろめいた。
―――立っている? どうして?
ここは拉致されたあの薄暗い場所とはまるで違う。突然異世界にでも来てしまったかのような、豪華で不気味な部屋のど真ん中だ。ハリーの心臓が激しく鼓動を打ち、息が荒くなった。混乱が渦巻き、頭がくらくらする。
これは夢か? それとも幻覚?
でも、足元の絨毯の繊細な織り模様があまりにも現実的で、指先で触れればその柔らかさを確かめられそうだ。部屋は典型的な貴族の邸宅の一室を思わせる、贅を尽くした空間だった。
壁紙はシェーレ・グリーンの深い緑色で、優雅な蔓模様が浮かび上がっているが、その色合いには婉然でありながらも毒々しい不気味さが潜んでいる。まるで部屋全体が静かに息を潜め、侵入者を監視しているかのような心地なのだ。
天井からは柔らかな光を放つシャンデリアが吊り下げられ、水晶のプリズムが煌きを散らしている。部屋の隅には天蓋付きのシングルベッドが置かれ、漆黒のベルベットの天蓋が重厚に垂れ下がり、宝物を隠すようにベッドを覆っている。隣には頑丈そうなクローゼットが立ち、表面に彫り込まれた細やかな花のレリーフが上品さを強調しているが、その扉はまるで牢獄の門のように重く、開けようとする者を拒む気配を漂わせていた。
出窓のカウンターには磁器の花瓶が置かれ、中にイカリソウの花が活けられている。花弁の鮮やかな紫色が、部屋の緑と対比して異様に目立つ。窓からは薄暮時の弱々しい日差しが差し込み、部屋を幻想的に照らしているが、外の景色はぼんやりとしか見えず、屋敷全体が謎の霧に覆われているようだ。
壁際には分厚い本がぎっしりと詰まった本棚が並び、定期的に出し入れされているのか、革装丁の古書が埃一つなく整列している。タイトルはラテン語や古英語らしく、ハリーには何一つ読めないが、図書館の閲覧禁止の棚に置いてある書物のような、禁断とされている叡智を秘めているように感じられた。
部屋の反対側には出口とは違う扉があり、大理石の枠に囲まれ、磨き上げられた取っ手が冷たく輝いている。中央付近には豪華な装飾のテーブルと椅子が配置され、テーブルの天板はマホガニー材で、金箔の縁取りが施されている。椅子は見るからに高級そうなクッション付きで、背もたれに蛇の彫刻が施され、やけに威厳を放っているように感じた。
ハリーが周囲を見回していると、喉がからからに乾いてきた。心臓が喉元まで競り上がってくるようだ。
どうしてここに? あの冷たい石の床から、どうやってこんな場所に移動したんだ?
記憶が曖昧で、頭がズクズクと痛い。困惑がじとりと広がり手が震え始める。おろおろと部屋を歩き回ろうとしたその時、不意に声が響いた。
「おい、お前」
それはクィレルの声でも、知り合いの声でもない。無理やり低く作ったような、抑揚のない声。ハリーの体が凍りついた。ダーズリー家での理不尽な仕打ちや直近の誘拐の記憶がフラッシュバックし、散々心に刻まれた傷がずくりと疼き出す。恐怖と驚愕が一気に爆発し、パニックが頂点に達した。
「うあぁ、なっ何!?」
所構わず叫び、部屋を慌てて見回す。視界がぐわんと揺れて息が浅くなる。
誰もいない。どこから?
もう一度、低い声がした。
「おい、こっちを見ろ」
今度の声には溢れ出る傲慢さと、服従を強いる確かな威圧感が込められていた。まるで王様が家来を叱責するかのように、否定や拒絶を許さない響き。
ハリーは恐る恐る声の方向を振り向いた。そして息を呑む。そこに、さっき部屋を確認した時には誰も座っていなかった筈の、豪華な椅子の上でふんぞり返る人物がいたのだ。
謎の少年―――いや、どこか見覚えのある懐かしい黒髪の少年だった。
未成年かと見紛う童顔の容姿だが、目つきは鋭く、年齢を感じさせない冷徹さが漂っている。華美な装飾を控えた黒いローブを纏い、上質な布地が体にぴったりと沿って、貴族らしい洗練されたシルエットを描いている。
日焼けを知らない彼の美しい白い首には、小さな緑色の宝石が嵌められたチョーカーが巻かれていた。ハリーは何故か、それを見て強い違和感を覚えた。他人の格好に口を出す権利はないと分かっているのだが―――この少年にとって、あれは『余計な装飾品』だ。何故か、強くそう思った。
体が勝手に動き出し、彼の首からチョーカーを引き千切って取り除きたい衝動に駆られる。何故だろう?何かの呪いでも掛けられたのだろうか?
少年の瞳は充血しきった臙脂色で、誇張抜きで一生分の不快感を凝縮したような鋭さで輝き、ハリーを射抜いていた。
ハリーの人生からは想像もつかない豪華な一室を与えられ、上品なローブに身を包んだ彼は、まるで貴族の嫡子のような佇まいだ。
だが、おかしい。さっき部屋を見回した時は、空の椅子だった筈なのに……彼は突然現れた? ハリーの混乱が頂点に達し、言葉が出てこない。体が硬直し、足が根を生やしたように動かない。
少年は返事を寄越さないハリーに苛立ったのか、人差し指でトントンとテーブルを叩き始めた。どこか無機質な音が部屋中に響き、嫌な緊張感を高めてくる。
「お前には耳がついてるのか?その中にヘドロでも詰まってるのか?ボクが掻き出してやった方が良いのか?遠慮しなくていい、そういうのにはとっくに慣れているからな」
言葉は辛辣で残酷。童顔の容姿に似つかわしくない、冷酷な毒が滴る提案。
ハリーは否が応でも正気を取り戻し、少年の欲する返事を与えなければならなかった。ダーズリー家での虐待同然の扱いが、体に染みついた反射を呼び起こす。ほとんど無いに等しかった平静さを辛うじて寄せ集め、声を絞り出した。
「あっ、あっ、ご……ごめん、ごめんって!聞こえてるし、見えてるから、乱暴なコト言わないでよ!」
自我とは無関係に、反射的に謝罪の言葉が出てしまう。意味なんて全く分からず、この部屋に来たくて来た訳じゃないのに、この仕打ち。ハリーがもっと冷静であれば、押し付けられる理不尽さに抗議できた筈だ。後になってじわじわと押し寄せてくる恥ずかしさと屈辱感に、ハリーの体がわなわなと震えた。
少年は鋭い視線の中に、ほんの僅かな好奇心を滲ませて口を開いた。さっきまでの演技じみた低い声ではなく、やけに中性的な美しい声だった。恐らくこっちが彼の地声なのだろう。
「お前は一体何処の誰だ?名前と住所を速やかに答えてみせろ」
「じゅっ、住所も……!?」
「まさか、自分の名前も分かりません、何処から来たかも分かりませんだなんて言うつもりじゃないだろうな?」
少年の眼がより冷ややかに、鋭利に細められる瞬間を見せ付けられ、ハリーの頭からは偽名を使ったり嘘を混ぜるといったちっぽけな反抗心は弾け飛び、馬鹿正直に答えてしまった。
「ハリー・ポッター……。住んでる所は、プリベット通り4番地……」
少年はそれを聞いて満足するかと思いきや、より一層不機嫌を募らせたようだった。苛々とした様子で深く息を吐いている。
「……どちらもボクの知らない事だ」
ハリーは一瞬呆気に取られた。魔法界にやって来てからは、自分の名前を知らない人間などゼロに等しかったからだ。彼の表情だけを見ても、本当にハリーの存在を一ミリたりとも知らないようである。だとすれば、この少年は恐らくマグルなのだろうか?しかしその格好といい、どこからどう見ても彼は魔法使いの雰囲気を放ち続けている。
「そんな……コト言われても。僕を知らない人の方が、珍しいというか……」
「へえ、自分を知らない人間はいないって?随分とまあ……自意識過剰が過ぎる育ちをしてきたんだな」
「違う!なりたくてなったんじゃない……!みんなが、みんなが勝手に僕を有名にしたんだ!」
再び反射的に言葉が出た。少年があまりにもハリーを知らないまま身勝手な事を口にするからだ。
確かに今まで、魔法界を救った英雄として褒め讃えられる機会は何度かあった。知らない人から握手をせがまれ、あなたは有名人なのだとおだてられ、話した事もない同級生から奇異や憧れの視線を送られる。そういった日々が全部嫌だった訳ではない。しかし、手放しで喜べる程素晴らしい時間だった訳ではないのもまた、事実だった。
ホグワーツの生徒達は、初めこそハリーを物珍しがって虫のように集まってきたが、いざ授業が始まり、ハリーの学力がそこそこ止まりの普通の一年生であると知ると、途端に興味が失せて散っていったのだ。中にはわざわざ口に出してハリーを揶揄う者達もいた。
―――意外と大した事ないんだな。あれじゃ監督生にもなれるかどうか。自分だって例のあの人を倒せてたよ。
別に、毎日浴びせられていた訳じゃない。それでも、彼らが何の考えも無しに唇から紡いだ言葉の数々は、どれだけ小さな棘であろうとも確実にハリーの心に突き刺さっているままだ。
それに、ハリーは有名人になるよりもずっと欲しいものがあった。暖かい両親。暖かい食事。暖かい家。それら全てが、なりたくもない英雄の称号と引き換えに奪われてしまった。何一つ悪い事なんてしていないのに、理不尽に。
……こんな貴族みたいな部屋に住んでいて、そんな貴族みたいな格好をして。家の人間に暴力を振るわれて傷を負った経験も、飢えに飢えて腹が痛んだ経験など、何一つ無いだろうに。目の前の少年に、偉そうに文句を言われる筋合いなどどこにもなかった
「大体、君だって何なのさ!さっきまでいなかったじゃないか!そりゃ、勝手に部屋に入ったのは謝るけど、僕だってわざとじゃないっていうか……。どうして自分がここにいるのかも知らないのに!」
しかし、少年は聞き分けのない子供のように喚くハリーに表情を変える事はなかった。お前の癇癪など見たくもないと言わんばかりに、露骨に視線を真横にずらし、テーブルに寄り掛かって生意気そうに頬杖をつく。
「……これだからガキは……。説明してやると、君はいきなり何の前触れもなくこの部屋に現れたんだ。す~っと、まるでゴーストみたいにね。最初は薄ら透けていたけど、その内段々と輪郭がはっきりしてきた。ボクは不測の事態に、咄嗟に目くらまし術を自分に掛けて姿を消したんだ。突然現れた不審者に襲われちゃたまらないからね。で、君があんまりにも間抜け面晒しておどおどしてるから、警戒を解いて術を解除したって訳だ。そのちっぽけな脳味噌で理解できたかな?メガネザル君」
「な―――」
所々に仕込まれる悪口を聞き取り、思わず少年に掴みかかりたくなったが、すんでのところで踏み止まった。ハリーが鼻息を荒くして一歩踏み出した瞬間、少年がごく自然な動作で、空いた片手に握られた杖をこちらに向けてきたからだ。全体は灰色で、杖の柄の部分には握り易くする目的だろうか、茶色い螺旋模様のグリップが取り付けられていた。
「おっと、死にたくないなら動かない方が良い。君は……見たところ無知蒙昧な子供みたいだから知らないだろう……。呪文の中には、たった一発当てるだけで相手を殺すものもある。君が次の足を踏み出す前に、ボクは君を殺せる。試してみるかい坊や」
明日のご飯はステーキにしよう、みたいな気軽さで少年は言い放った。その眼差しに躊躇する意志はひと欠片も無い。彼にはただの気紛れで人を殺せる才能も度胸もあるという事実を、ハリーは嫌でも知る羽目になった。
それでも、一つだけハリーには自慢できるものがあった。不敵な笑みを浮かべて少年を真正面から見返す。
「……知ってる。《死の呪文》でしょ。やってみなよ、僕はそれを受けて生き残ったんだ」
「なんだと……?」
少年の説明が一から十まで真実であるか確認する術はないが、一先ずは自分の置かれた状況を理解できた。だからこそ、ここでびくびく怯えるのは馬鹿らしい。ハリーは母親の犠牲によって成し遂げた実績を、堂々とひけらかす事に決めた。少年がとても偉そうだったので、例え自分自身の実力でなくとも、こちらも大きく出たかったのだ。
案の定、ハリーの存在を知らなかった少年は酷く驚いていた。呪文を唱えようとしていた口は困惑で中途半端に固まっている。
……やはりというか、彼は本当にハリー・ポッターを知らないのだ。その事実に、ハリーの胃がきしりと痛んだ気がした。魔法使いでありながらも、魔法界で有名なハリーを知らない少年。彼の存在が、何だかとてつもなく嫌な予感を齎してくる。
「ウソだとか思ってるんでしょ。……この額の傷が証拠さ。僕はこの傷を受けるだけで、死ななかった。代わりに、僕を呪った奴がやられちゃったみたいだよ」
痛むお腹を無視して、ハリーは虚勢を張り続けた。くしゃくしゃの前髪の一部を掻き上げ、隠れていた稲妻型の傷を露わにする。少年は静かに杖を下ろし、ハリーの額をじっと睨み付けた。
「……」
数秒間たっぷりと傷跡を眺め続けて、それから少年は唐突に立ち上がった。椅子が立てるぎしりとした物音を置き去りにして、暗殺者の如く足音を一つも立てず滑るようにハリーとの距離を詰め、一瞬で目の前に接近を果たす。
「うわっ」
いつの間にか眼前まで迫っている少年に、ハリーはバランスを崩して尻餅をつきそうになった。しかし少年の手が蛇のように伸びてきて、地面に埋まった野菜を引っこ抜くようにして髪の毛をむんずと掴んできた為、それも叶わない。
「いっ―――痛い、痛い痛い!何するんだ離せ!」
悲鳴を上げる頭皮を救わんと、両手で少年を押し退けようとしたがびくともしなかった。彼はやはり無言のまま、舐め回すようにじっくりと額の傷を観察しているようだった。
「……これは……。確かに……強い呪いの傷、か。並みの呪文じゃこんな付き方はしない……。本当に、《死の呪文》を…………?」
「痛い!ねえ痛いってば!」
ぼかぼかと肩を叩き続けるハリーが鬱陶しくなってきたのか、少年は心底不愉快そうに舌打ちを響かせようやく髪の毛から手を離した。解放されても尚じんじんと頭皮が痛みを訴える為、それを紛らわそうとハリーは前頭部を両手で揉んだ。
なんて奴だ。人の髪の毛を引き千切る勢いで掴んでくるだなんて。脱毛症になったらどうしてくれるのだろう。
「……ふーん?どうやら嘘は言ってないみたいだな……。しかし、《死の呪文》を受けても死ななかった、か……。興味深いが、誰にでも真似できる芸当ではないんだろう。実際長い歴史の中で、《死の呪文》から生還を果たした人間の伝記は一切無いのだから。……君が有名人というのは、この事だったのか?」
ぶつぶつと自分の推論を語る少年は、どこか研究者じみている。そういう仕事や趣味があるのだろうか。
「……君は、魔法の研究をしているの?」
「急に気安く尋ねてくるじゃないか。……まあいいけど。別にボクは研究者でもない。……本当は、魔法使いでも、ない」
「えっ?」
少年の「魔法使いでもない」という言葉には、悲しみや怒りといった感情が込められている気がした。どういう意味なのだろう。
今し方、その口からはっきりと魔法を使ったという言葉が出たばかりではないか。目くらまし術を使って透明になっていた、だからハリーが部屋を見回した時は姿が見えなかったのだ、と。
少年は再び不機嫌な顰め面を披露してハリーをぎろりと睨んだ。
「……さっき君はボクの事を、『自分と違ってこんな部屋に住んでいるくせに』とか思っていただろう。ボクの方こそ問いたいんだが……ボクが望んでこんな生活をしていると?望んで魔法使いになったとでも?……人の事情も知らないで偉そうな口を聞けるのはお互い様じゃないか?ああそうだね、ボクは世話をしてくれる人間に殴られた経験も、食事を抜かれて飢えた経験も無い。だから君の境遇に同情して、優しく寄り添ってやるなんて善良な行いはできそうにないよ、ごめんねぇ」
ねちねちと嫌味ったらしく述べられる。ハリーは何かを言い返そうとしてできなかった。こちらの思考を的確に見抜いたような少年の言葉。何故、どうしてという戸惑いばかりが頭を満たしている。
「……それじゃあ、本題に入ろうか、ハリー君とやら」
唖然としているハリーを無視して、少年が再度距離を詰めてきた。はっとして足を再起動させようとしたが、震える足は後退するだけでほとんど役には立たなかった。そのままぐいぐいと追い詰められ、とうとう背中が壁に達してしまう。
「君がどうしてこの部屋にいるのかは教えてやった。だから君もボクの質問に答えろ。これでフェアになるだろう?」
ぽん、と少年の右手がハリーの肩に置かれた。ほぼ自由の無くなったハリーには紅い瞳を見上げる事くらいしか取れる行動がない。
「……君は自分の意志ではなく、どうやら偶然の出来事でここにいるみたいだ。一体、何をどうやった?ここに来る直前に取った行動は、何だ?どんな魔法を以てボクの部屋に侵入を果たせたんだ?全て包み隠さず吐き出せ。もしも『言えない』だなんて口走ってみろ、絶対にこの部屋から帰してはやらないからな。……さあ、言葉をまとめる時間くらいはくれてやる。良く考えて話すんだ」
「考えて、って……」
「ボクに嘘は通用しないと理解しただろう?ボクの故郷には『正直者は馬鹿を見る』という言葉があるんだが……この場に至っては、『正直者は馬鹿を見ずに済む』と言っておこう。真実を洗いざらい話せば、君に危害は加えないって約束してあげるよ。情報さえ手に入れば、君が生きようが死のうがどうでもいいからな。後は勝手にすればいい。君がこの部屋を出て行こうが何しようが興味の無い事だ」
……何を話せばいいのだろうか。
少年自体は、信頼できたものじゃない。だが、その言葉は信用してもいい……気がする。彼の瞳は、あくまでもここに来るに至ったハリーの行動にしか関心がないみたいだった。正直に話せば、この場から解放してくれそうなのは目に見えて明らかだった。
少年はお世辞にも善良な人間とは言えない性根をしているが、情報を搾り出した後も子供を甚振ろうとする趣味が無いのも確かだ。それに彼の口振りからすれば望んでこの部屋にいる訳ではないらしく、極論この部屋でハリーが何しようが構わない、とでも言いたげだった。
……ハリーは意を決する事にした。
「えと……えっと。上手く言えるか分からないけど。ここに来る前僕は……言うほど何もしてない、と思う。ホグワーツ……あっ、学校の廊下を歩いていたら、後ろから攻撃……?されて、気絶したんだ」
「……、君はホグワーツの生徒だったのか?いや、どうりでそのローブ……赤と獅子の校章……。そういう、事だったのか」
少年はハリーがホグワーツ生だという事実を知り、少しだけ驚いていた。……そういえば、彼も未成年に見えるのだが、ホグワーツに通っていないのだろうか?
しかし、益々不気味だ。ホグワーツの存在は知っている。けれどハリーの名前も功績も知らない。……この件に関しては知らないフリをする事にした。
「そう、僕はホグワーツの一年生だった。……でも、なんというか、先生の一人がその……悪い人で。僕はその人に攫われた。目が覚めたら冷たい石の床の上さ……。縄で全身を縛られてて、何もできなかった」
「……は、攫われた?どうして?教師が何だってそんな事を?」
「話すと長いけど……。『賢者の石』っていうスゴい物を、盗もうとしてて。それがホグワーツに移されて保管されてて、それを先生が狙ってたんだ。それで……あの、僕が攫われて連れて行かれた場所が、『賢者の石』が隠されてるらしい部屋なんだ」
「……『賢者の石』……ホグワーツに移された……。……待て、子供だからしょうがないとは思うが、話が飛んでる。何で『賢者の石』を盗みたい教師が、一年生の君をわざわざ誘拐しなきゃならない?」
少年は「ホグワーツに移された」という点に何故か強い興味を持ったようだった。それからハリーの話が上手く整理されていない事を指摘した。
「ごめん、その、僕が目を覚ましてから、先生が言ってきたんだ。『お前はあの子を誘い込む餌だ』って。あの子っていうのは、僕の友達なんだけど……。多分あの先生、石だけじゃなくて僕の友達も狙ってるんだ。だから、僕を攫って石の隠し場所に連れて来れば、友達もやって来るって企んでるんじゃないかな……」
「……友達。『賢者の石』は錬金術の最終到達点だ。金属を黄金に変換し、生物を不老不死に至らせる。だから誰もが欲しがるのは納得できるが―――どうしてそいつは君の友達まで狙う?」
少年は当たり前のように『賢者の石』の詳細を知っていた。……やはり分からない。何で彼はハリーの事だけは知らないのだろう?
「ごめん、何で友達が狙われなきゃいけないのか聞こうとはしたんだけど、それからはあんまり覚えてなくて。多分、先生がまた僕に呪文を撃ってきた……と思う。もう一度目が覚めたら、その時にはこの部屋だったんだ」
「……失神呪文か。それで?気絶と覚醒のプロセスを経て、気が付いたらボクの部屋に不法侵入って訳なのか?」
少年はどういう訳か……ハリーの答えに心底落胆したようだった。浮かぶ表情は失望一色。ハリーが何一つ嘘を言っていないという事が理解できるからこその、落胆。
自分に一切の非が無いというのに、ハリーはその様子を見て罪悪感を覚えてしまう。少年がどこか絶望したように虚ろな瞳を向けてくる様は、こちらが無実だとしても心が痛むような錯覚がする。
「……嘘じゃない。……でも、信じられないじゃないか。ホグワーツにいる筈の子供が、何をどうしたらボクの部屋に現れる?そもそも、『印』も無いのにこの屋敷に入れる訳が―――」
そこで少年はぎらつく視線をハリーの左腕へ向けた。彼は間髪入れずハリーの左手首を掴み、自分の方へ引っ張った。ぎゃあ、と突然引き寄せられたハリーは躓きそうになりながら少年の胸板へ頭からダイブした。密着するなとでも言いたげに、即座にもう片方の手でぐいっと頭を押し退けられる。理不尽だ、引っ張ってきたのはそっちなのに。
ハリーの頭部が前に後ろにと傾いている最中。少年がハリーの左袖を引っペがすように捲くり上げる。抵抗する暇も無かった。とはいえ、そんな場所の肌を見られたところで困るものは無いが故、ハリーには抵抗する理由も無かったのだが。
少年は暴露したハリーの左腕に鋭く視線を走らせていた。つるりと傷も痣も無い子供特有の瑞々しい皮膚を眺め、不可解そうに眉根を歪ませている。
「……、無い。いや……グリフィンドール生だし、こんな子供に与えられる訳はないか……。おい、君は純血か?」
「へ?ジュンケツ……?」
まるで意味が分からないという表情のハリーを見て、少年は一瞬人間ではなく道端の虫を見下ろすかのような目付きになった。尋ね方を変更し再度問いかけてくる。
「……君の両親は魔法使いだったか?」
「あ、あー?うん、そうだよ。父さんはクィディッチが得意で……母さんも魔法使いだった」
「少なくともマグル生まれではないと。……しかしグリフィンドール……それも脳足りんの一年生……まあ、『印』を持ってる筈がないか」
「ねえ今さり気なく僕をバカにした?」
「気にするな」
「気にするんだけど」
その時だった。
コンコン、と部屋の扉がノックされた。大理石の枠に縁取られた方ではない。あれは恐らくトイレや浴室に通じるものなのだろう。ノックされたのは、部屋の出口に繋がる方だった。
質疑応答を打ち切るノック音に、二人が一斉に扉の方を振り向いた。シンクロした双子のような動きだった。あまりにも合致したタイミングにハリーが理由の分からない気味悪さを抱いていると、少年が動いた。ハリーをあっさり解放し、元の位置まで歩きすとんと椅子に腰掛け、ありとあらゆる感情の抜け落ちた表情で返事をした。
「……入れ」
「失礼します」
その言葉と共に開け放たれる扉。ハリーはそこでやっと気付いた。悪意が無いとはいえ、自分が不法侵入の形でこの部屋に滞在している事実に。
―――もしかしなくてもこれは不味いのでは?
少年にとって大した事ではなくても、この屋敷にいるであろう他の住民にとっては、自分は不法侵入者である。見つかったら―――逮捕されたりする―――!?
しかし時すでに遅し。ハリーが身を隠す暇もないまま、扉を開けた存在は部屋の中に入ってきた。
「食事をお持ち致します」
ハリーは「あっ」と声を出してしまった。入ってきたのは、小柄な身体にぎょろりとした目玉を持つ、背の低い悪魔のような妖精のような姿の生き物だったのだ。その正体は知っている。ホグワーツでも見掛けた事のある、屋敷しもべ妖精という種族だ。彼らは学校内で生徒達の前に姿を現す事は稀だが、その稀な瞬間に立ち会った事があるのだ。
しもべ妖精はぺたぺたと歩いて、テーブルの前で立ち止まった。少年に向かって一度恭しく頭を下げ、そのままパチンと指を鳴らす。するとどうだろう。テーブルの上に、カトラリーと暖かい食事が一瞬で姿を現した。
具沢山で溢れんばかりの、たっぷりとしたルーから湯気を立たせるシチュー。綺麗にスライスされたパンがこれでもかと積み重なる皿。澄んだ水がなみなみと注がれたグラス。シンプルながらに食欲を唆る見事なメニューだ。ハリーは思わず自分の立場も忘れてごくりと唾を飲む。対照的に、少年は全く興味の無い視線をテーブルの上に落としているだけだ。
「ご希望でしたら追加の食事を―――」
「必要無い」
遮るようにして少年が言った。丁寧な態度を無碍にするような言い草に、ハリーがムっとしていると、
「……ところで妖精、この子供を知っているか?」
唐突に少年がハリーの不安を最大限増幅させてくれる言葉を発した。拳から親指だけを立たせハリーの方を指差すという、地味に腹の立つ仕草つきだ。しもべ妖精は少年の親指が指す方向へ目線を向けた。目が合った瞬間、ハリーの心臓はずくんと跳ねる。
「……?こ、子供……。失礼ですが、誰の事でございましょう?」
しかし、しもべ妖精はきょろきょろと部屋中を見回しながら困惑している。目が合ったと思ったあの瞬間は、ハリーの気のせいだったのだろうか?
少年は完全に動きを止め、じろりと粘性の高めな視線をハリーに送った。
「こいつが……見えないのか」
「も……申し訳ございません!私には、何の事か……。子供などおりませんでしょう……?」
しもべ妖精は自分がこの世で最も重い罪を犯したかのような、絶望に満ちた表情に変貌した。
ハリーにも訳が分からない。確かに少年は自分の事を認識していたし、自分に直接触れてきたのだ。なのに、この妖精は自分の姿が見えていない?
「ゴーストか何かでしょうか?そ、それでしたら然るべき対処を―――いえ、あの方に報告―――」
「いや、しなくていい。というか絶対にするな。……今ボクが言った言葉は一言一句全て忘れろ。誰にも漏らさないように。いいな?」
「えっ、そっ、それは……」
「返事」
「はい……!」
「じゃ、今すぐ食事を下げろ」
「は、はい……?」
ハリーはしもべ妖精と同じ表情になった。一切手を付けていないのに、食事を下げる?何を考えたらそんな言葉が出てくるのだろう?
やはりというかしもべ妖精は戸惑っている。がたがたと震え出したのは何故だろう。まるでこの後とんでもない結末が待ち受けているかのような怯えようだ。
「聞こえなかったのか?食事を下げろと言ったんだ」
少年は発言を訂正する事なく同じ言葉を繰り返した。彼の視線は最早しもべ妖精にもテーブルにも向けられておらず、只々自分の指先を弄っている光景にのみ注がれていた。やや深爪気味に切り揃えられた爪の輝く細い指が、戯れにぐねぐねと踊っている。
「し、しかし……お召し上がりになっておられません」
「実は今凄く熱が出て体調が悪い。吐き気もする。だからとてもじゃないが食事なんてしている場合じゃないんだ。分かるだろ?良いからとっとと下げろ、そして出て行け」
どこをどう見ても体調の悪い人間の態度ではなかったが、その自覚がある上で少年は不遜な物言いを貫き通すつもりらしい。ハリーは涙の膜が張り始めているしもべ妖精に心の底から同情した。とはいえ、あちらにはハリーが認識できないらしいので、助け舟の出しようがなかった。
「で、で、ですが……前回も全く同じ事を仰って、お召し上がりにならなかったではないですか……!このままでは、あの方……あの方に……納得いただけません!貴方を飢えさせようものなら、我々は残らず……しょ、処分、され―――」
「別に良いだろ」
「は……」
少年はそこで初めて殺意の篭った視線をしもべ妖精に向けた。ハリーに杖を向けて殺すぞと脅していた時の眼光とはまるで違う。本物の殺意だ。
……ハリーの時は、本気ではなかった。本気にならずにいてくれたのだ。と、この時初めて思い知った。
ハリーは、思わず駆け出してしもべ妖精を抱きしめたくなった。だが、少年の殺気にあてられて動けない。ここで動いたら、あの恐ろしい殺気がこちらに照準を変更しそうで、動けない。
「良いよな、お前達は」
少年はテーブル上のカトラリー……スプーンを手に取り、器用にも指の中でくるりと一回転させた。すると回転が終わった時には、スプーンはナイフへと変化していた。変身術―――杖も呪文も使わない、高度な業。ハリーは場違いにも羨ましいと思ってしまった。呪文を学ぶのは嫌いではないが、変身術だけは別だ。明らかに呪文学よりも難易度の高い学問だからだ。
少年が、今度はナイフをペン回しの要領でくるくると回転させ続ける。やがてぴたりと回転を止めたが、ナイフの切っ先はしもべ妖精の方を真っ直ぐに向いていた。
「本当に良いよな―――
意味ありげに呟かれた一言に含まれる真意は、ハリーには理解できなかった。
しかししもべ妖精には理解できたようで、遂にへなへなと膝から崩れ落ちた。死刑執行を待つ囚人のような絶望した面持ちで、ただただナイフの切っ先を見つめている。
「ボクの祖父もさぁ、どう足掻いてももうすぐ死ぬって知った時、安らかな表情をしていたんだよ。死ぬってさ、どこかの誰かと違って、必ずしも忌避されるべきものじゃないのさ。お前も一回死んでみる?案外、天国とか楽しいかもよ……まあ、ボクには永遠に確かめる術はないから、天国があるかどうかの保証はしないけどね……」
「お、お許しを……」
「何で謝ろうとするんだ?ボクが一度でも謝れって言ったか?お前達のそういうところ、本当にどうかと思うけど。いい加減学習しなよ。怒ってもいない時に闇雲に謝られたって、人は不快になるものだって」
「ですがっ、あのっ、どうしたら、」
「あ~~~、本当に手間の掛かる生き物だな!お前達は!」
ダン!と、少年が持っていたナイフをテーブルに突き刺した。衝撃でガチャンと音が立ち、シチューは零れ、パンは飛び跳ねて崩れ落ち、グラスの中の水が激しく波立ち左右への揺れを繰り返す。
しもべ妖精はすっかりへたり込み、両手で頭を抱えて縮こまっている。ハリーも歪む眉根を抑えられなかった。爆発したような怒声と金属質な激しい物音は、想像以上に胸を抉るような心地にさせてくる。耳の奥から、食卓で怒鳴り散らすバーノン叔父さんやペチュニア叔母さんの金切り声が蘇ってくるようだった。
「……おい、地下室に今何人収容している?」
不意に、少年の話題が180度変わった。それでも「地下室」や「収容」という不穏な単語にハリーの胸はざわめくばかりだ。牢獄みたいな印象を受ける単語、いや、実際彼の口ぶりから考えればまさしく牢獄として使用されているのだろう。この屋敷にはそんな部屋もあるというのか?魔法使いの貴族の邸宅の作りとしては普通の事なのだろうか?
「しょ、詳細は存じ上げませんが……。私の知る限りでは、少なくとも三人は。一人は任務に失敗し拘禁……一人は魔法省の職員を拐かしてきて……最後の一人は……二日程前、貴方がこの部屋にお招きしていた魔女でございます」
「おい、どういう事だ?何でボクの部屋に来ただけの女まで閉じ込めておく必要がある?何も聞いてないんだが」
再び少年は薄らとした怒気を漂わせ低く問う。しもべ妖精はびくびくと身を震わせつつも流暢に説明した。
「わ、分かりません。私はただ、あの方が魔女に声を掛け、地下室へとお連れする光景を目撃しただけなので。それから……あの方に、今後貴方の部屋に近付いた者を『全員報告するように』、とだけ命じられた次第でございます」
「……っ、クソが……っ!」
「ひっ」
今度は自らの拳をテーブルに叩き付ける少年。ガチャンと響く耳障りな物音が部屋を支配した。彼の表情には心底悔しそうな強い無念が滲んでいた。生きる上で持ち合わせていた希望、その一つを無慈悲に奪われたかのような、そんな表情で満ちている。
ハリーは今繰り広げられている会話の内容を理解しようとした。任務とやらに失敗した人が恐らく罰か何かで閉じ込められ。攫われた一人が閉じ込められ。少年がこの部屋に招いた女性が閉じ込められ……。
改めて整理すると、この屋敷内を牛耳っているらしい『あの方』とは、とんでもない奴だ。人間を攫いあまつさえ自分の家に閉じ込めるだなんて?
それに、罰で地下に閉じ込められている一人は理解できなくはないが(ハリーもお仕置きと称して何度も同じ目に遭ってきたからだ)、どうして女性も監禁されなければならなかったのか。少年とどういう関係だったのか。まさか恋仲……と一瞬愚かな推測が過ぎったが、短い間で分かった少年の性格からして、それは絶対に有り得ないだろうという確信があった。
少年と同じレベルの冷酷さを持っているらしい『あの方』だが、しかし少年にはそれが向けられていないのも不可解だ。他の者と違い、地下室に閉じ込めるでもなくこんな豪華で綺麗な部屋に住まわせ、わざわざしもべ妖精に食事を運ばせる。明らかに破格の待遇だ。
流石に部屋に誰かを招き入れるというのは許されない行為のようだが、『あの方』とやらは禁を犯した少年自身ではなく、女性の方を罰した。……そしてそれは、少年にとって望まない結末でもあった。
肝心の少年は額に手を当てて深い溜息を吐いた後、疲労で窶れたような顔で、力無く命じた。すっかり威圧感や覇気が失われた声。
「……いや、お前には関係のない事だったな、悪かった。そうだな……
「恐れ多いです!私のような者に謝るなどおっおやめ下さい!しかし……それでは貴方がっ」
「口応えするな。余計な心配もしなくていい。人間というのは別に一日中飲まず食わずでも死んだりはしない……早く運んでやれ。誰にも見つかるなよ」
しもべ妖精はぼろりと数粒の涙を流しながら慌てて頭を下げた後、命令通りそれ以上口を挟む事もなく無言で素早く行動した。パチンと指を鳴らしてテーブル上の食器を全て消し去り、もう一度指を鳴らすとしもべ妖精自身が姿を消していた。
あっという間に消えてしまい、ようやく会話が終了した少年にハリーが声を掛ける。色々と気になる事―――何故しもべ妖精に姿を見られなかったのか―――もあったが、何としても物申したい事があったからだ。
「……ねえ、どうしてあんな事を言ったの?」
「どうして、とは?」
少年はハリーの方をちらりとも見ずに返した。情報を粗方聞き出したハリーから本当に興味が失せているらしい。自身を蔑ろにしてくるような態度に良い気はしない。ハリーは思わず声を荒げた。
「ご飯のコトだよ!食べずに下げろだなんて……わざわざ運んできてくれてるのに酷いよ!閉じ込められてる人にあげるのは、間違ってないと思うけど……。そもそも、君に食べてもらおうと思って屋敷の人が用意してくれた食事でしょ?君が食べるべきじゃないか!」
「……今なんて言った」
ギリ、と少年はテーブルの上に突き刺さったままだったナイフを強く握った。変身術を受けて変化した器物故か、しもべ妖精の魔法に回収されぬまま放置されていたカトラリーだ。
「用意してくれた食事?ボクが食べるべき?」
バキっと小さく響く破砕音。少年がテーブルからナイフを抜き取った音だ。彼はそのままナイフ片手にハリーの方を振り返った。何の感情も見えない暗い瞳に射抜かれたハリーは、今すぐこの部屋から逃げ出したいという焦燥感を煽られる。
少年の白い手の中でナイフがぎらりと鈍色に光った。そのただならぬ雰囲気に挫けまいと、ハリーは少しばかり上擦った声で続けた。
「……そうだよ。出された食事を食べもせず、持ってきてくれた人に感謝もなく追い返そうとするなんて!食べさせてくれるだけ有難い、とか思わないの?君は……贅沢だ!」
言いながら、ハリーは何を感情的になってるんだと内心で己に言い聞かせた。
幼い頃から、自分がろくに食事を与えられない生活を強いられたからって、今日会ったばかりの少年に説教じみた言葉を浴びせるのは……何か、違う気もする。
それでも、まだ十一歳のハリーに、己の感情を完全に制御する術はない。
自分と違い贅沢な生活をしているように見える他人を妬む気持ち。食事に対する無礼極まりない態度を非難したい気持ち。それらがぐちゃぐちゃと歪に混ざり合って、少年への叱責となって口から飛び出てしまう。……少年が何を思ってあんな行動を取ったのか、大して知りもせずに。
だからこそ少年は、上から目線で一方的に言葉をぶつけてくるハリーへ憤怒の睥睨を静かに向けた。
「……贅沢?贅沢だって?ボクがいつ……こんな生活をさせてくれなんて頼んだ?」
がたんと椅子を転がしながら少年は立ち上がった。片手にナイフを握り締めたままだ。怒りからだろうか、かたかたと震える手の内で、鈍色の輝きがハリーの網膜にちらちらと焼き付いた。
「君はあれを『食事』だと思っているんだろうが、ボクから言わせればあんなもの、『給餌』と変わりない!分かるか?『給餌』だ!ペットに餌をあげるのとおんなじ感覚なんだよ、あいつにとっては!」
「え、エサ……?」
「そうだ餌だ!家畜やペットにやるヤツさ……。そんな物を誰が食べたいと思える?例えあいつらの認識が君と同じ『食事』だとしても、ボクにとってはいつだって『給餌』としか感じられないんだよ!」
叫びながら、少年はづかづかとハリーに歩み寄り、今すぐにでも飛び掛からんとするような獣性を剥き出しにした表情で見下ろしてきた。ハリーは少年の手にあるナイフに嫌でも意識が集中し、身を守ろうとする本能が働き反射的に両手で身構えてしまう。
「そんな、だって……こんな立派な部屋まであるのに、」
「ああそうだな!ペットが病気になったら飼い主は困るだろう?だから清潔で安全な『
「ペット、いや、ケージ……、僕、そんなつもりじゃ。君のコト何も知らなくて、その、」
「じゃ、知ってくれなくて構わないから、永遠にその生意気な口を閉じててくれないか?それが無理そうならボクが手伝ってあげようか?遠慮しなくていい、丁度いい物もあるからな……」
「ひっ!来ないで!」
少年がナイフを振り上げたので、ハリーは悲鳴を上げ咄嗟に動いた。真横に両手から飛び込んで、床を転がりながら少年との距離を離す。
しかし、少年の仕草はただのフリであることがすぐに分かった。彼は無様に床を這い自分を見上げているハリーを追いかける事もなく、ただハリーが立っていた場所へ視線を落としているだけだった。その表情は今までで一番悲壮感に満ちていて、世界の全てに絶望を抱いている者にしかできないものであった。かつて、ハリーもダーズリー家でその表情に堕ちた瞬間があるからこそ、それが嫌と言うほど理解できる。
「……」
少年は回避行動で視界から消えたハリーを捜す素振りも見せなかった。ただ無言で、ダーツのように片手を振りかぶって持っていたナイフを投げ飛ばす。綺麗なストレートを描くナイフは、毒を思わせる緑色の壁紙を的として突き刺さった。ガツっという小気味良い衝突音が場違いにも鼓膜を震わせる。
「ぼ……僕は……」
「……」
突き刺さったナイフにのみ向けられる少年の視線は、ハリーのか細い声が場に響こうがぴくりとも動きはしない。それでもハリーはめげずに、彼の暗い横顔を必死に見上げながら話す。
「僕は……君と君の世話をしている人達のコト、よく知らないけど……。きっと、君のコトを大切に、してくれてるんだと思う……」
少年は、震える声で必死に声を掛けるハリーの方を振り向きはしない。大切に、という言葉の部分にだけ、彼の眉間に若干の皺が現れた気がする。
「大切じゃなきゃ、こんな部屋をあげたり、しないもの……。君はペットみたいな扱いだとか言ってたけどさ。もし君に嫌がらせをしたかったり、大切にする気がなかったら、こんな生活させないよ。だ……だから、偉そうに言えないけどさ。ほんの、ほんの少しだけでも……屋敷の人達のコト、う、受け入れて、あげても……」
「……」
「その、ごめん。生意気で身勝手なのは自分でも分かってるのに……抑えられなくて」
「……ボクは」
その時、ようやく少年が口を開いた。相変わらずその視線はハリーの方を見向きもしなかったが、それでも彼は確かにハリーの言葉へ反応を示した。彼はハリーの一言一句を、決して聞き流してはいなかった。
「ボクの方は、あいつらの事が大切だなんて思ってない」
「あ……」
「これから先も、思う事はない」
「……それは」
「今にして思えば、ボクに大切なものなんてこの世界に何一つ無い……」
言いながら、少年はふらふらと芯の入っていない弱々しい歩き方で椅子の元まで戻る。彼が人差し指をくいっと動かすと、転がっていた椅子は瞬く間に起き上がり、部屋の主人へ再びその柔らかい座面を提供した。
「……ボクは、何の為に生きてるんだろうな…………」
椅子に深く腰を沈めながら、少年はやけに様になる仕草でゆっくりと足を組んで、ぽつりと呟いた。膝の上で両手を握り込み、顔を上げてシャンデリアの煌めく天井をぼんやりと眺めている。
少年の言葉。何の為に生きているか。
人間は何の為に生きるのか?
これはハリーにも答えられない。どこかの偉い人や頭の良い人なら答えられたかもしれないが、ハリーにはそれっぽい理由などさっぱり分からない。というよりも、この議題に正解など無いのではとも思う。
ただ、少年の様子があまりにも同情や不安を掻き立てられるものであったので、ハリーは思わず口を開きそうになった。少なくとも、君を大切にしてくれている人の為に生きてみたら……その言葉を、すんでのところで呑み込んだ。
少年の事情を知らない分際で言うべき言葉ではない。そもそも、今考えている全てはハリーの勝手な憶測である。
もしかしたら、屋敷の人間は少年の事を大切には思っていないのかもしれない。
もしかしたら、嫌がらせの為に少年をこの部屋で生活させているのかもしれない。
だからこそ少年は……現在の生活に幸福を感じておらず、先程から鬱屈とした雰囲気を放っているのかもしれない。
「……逃げないの?」
ふと思いついた考えが口を突いて出た。
ハリー自身も、何度ダーズリー家から逃げ出したいと思った事か。その度に、食事や寝床の自力確保が困難である未熟な子供である自分を呪い続けた。結局、子供は大人の庇護下でなければどうしようもないのだ。
しかし、少年は?彼は自分の杖を持っており、傍目だけでもかなり高度な魔法を操っている。これほどの実力と傲慢で強気な性格を持ち合わせているならば。あまり偉そうな事は言えないが、この屋敷を一人飛び出してもなんとか生き抜いていけそうではある。安直な考えだろうか?
「……ふっ」
少年はハリーの疑問を耳にした瞬間、思わずと言った調子で控え目に吹き出した。馬鹿にした感じではなく、自然と零れてしまったような印象を受けるものだった。彼はそのまま、まるで別人の如く柔らかな笑みを湛えて、ハリーの顔をじっと見つめる。人間離れした紅い瞳に注視されるのは、申し訳ないがあまり良い心地はしなかった。
全てを正しく理解はできないが、彼の表情変化を見る限り、あれはきっと愚問だったのだ。ハリーに言われるまでもなく、少年だってかつて同じ思考に至っていた。そして過去に、その思考が無意味と化す何らかの出来事に見舞われ、彼はとうに思考を放棄する事を決めた。つまり、逃げる事そのものを。……だからこその、この笑みなのだろう。
ハリーは随分と馬鹿げた疑問を投げ付けてしまった己が恥ずかしくなり、じわりと赤らむ顔を隠そうとして、うぐっ、と俯いた。失態を誤魔化すように話題を変えようと試みる。
「きっ君は、どうしてそんなにも紅い目をしているの?」
非常に助かる事に、少年は素直に話題変更に乗ってくれた。自身の片目に人差し指を向けながら説明し始める。
「ああ、これ。体質というか……後遺症」
「後遺症?病気ってコト?」
「いや、病気でもないし命に別状もないんだけど。……ボクの体の半分は非魔法族の血でできているから、魔法を使う度にどうしても肉体に負担が掛かるんだ。その負担が眼球内の血管を少しずつ傷付けてしまって、血管から溢れた血液が眼球内を満たして……それが積み重なって……すっかり真っ赤になってしまった。小さい頃は時間を置けば血は引いたんだけど……今は魔法を連続で使うのが日常になったからね。ここまで来てしまったら、もう元の色には戻らないだろうな」
「えっ?でも……ホグワーツにも君みたいな混血の子はいっぱいいるけど、魔法で体に負担が掛かるなんて話、聞いたコトない……。それで調子を崩してる人も見たコト……」
「いや……混血といっても、ボクの場合はちょっと……他の混血の魔法使いと比べて特殊なんだ。それに、負担といってもボクの体は上手い事受け流そうとしてるみたいでね。魔法使用の負担を全身ではなく体の一部分、つまり眼球に集約させる事で、体調を崩すなんて羽目にならないように脳が頑張っているんだとさ。そのお陰で、ボクは魔法を使っても倒れるまではいかず、目から血を流すだけで……化け物じみた見た目になるだけで済んでるという訳だ。ま、たまに脳が負担を受け流す先を間違えて、鼻血が出たりもするけど……。目と鼻は繋がってるからしょうがないんだが」
初めて聞く話だ。混血の魔法使いには、こういう体質の子もいたのか。常人ではあり得ない眼の色に変貌してしまうのは可哀想だが、脳が魔法による負担をどうにかしようと適応させた結果なら仕方のない事なのだろう。
「……、いや、待てよ」
少年の事情について一つ詳しくなって謎の達成感に浸っていたハリーだが、少年がふと考え込むように顎に拳を当てて思考の沼に沈み始めた。ぶつぶつと聞き取れぬ小声で何事かを呟いた後、ぎらりと妖しい光を輝かせた瞳をハリーに向けてきた。
「……おい!君、物に触れないのか?」
「えっ?さ……触る?」
「物体だ、触れないのか!?しもべ妖精の反応から考えても、此処に居る君がゴーストなのか生身なのかよく知りはしないが、少なくともボクには君が見えているし触る事ができた。逆に、君はどうなんだ?ボク以外の物体に触る事は可能か!?」
「え、えっと……?やってみないとそれは―――」
「今!すぐ!試せ!」
「え、ええぇっ!?」
少年は何故か豹変して、再び椅子を派手に転がしながら立った。そのままハリーの元まで詰め寄っては杖を壁のナイフに向ける。
「《アクシオ》!」
突き刺さっていたナイフがひとりでに引き抜かれ、そのまま空中を滑るように浮遊し少年の左手に収まる。彼はナイフの向きを変え自分は切っ先の方を持ち、相手が安全に受け取れるようにしてからハリーの方へ差し出してきた。
「ほら!こいつを早く握ってみろ!」
「あっ、えっ、わ―――分かった、うん」
どこか焦っているように見える少年の変化に戸惑いつつも、ハリーは素直に従う事にした。ハリー自身も、今の自分の状況を正確に把握しておきたいからだ。
何故ゴーストのようにこの部屋に現れる事になったのか。何故しもべ妖精には見付けてもらえなかったのか。今の自分の肉体は、どういう状況下にあるのかも試しておいた方が良いだろう。
しかし、結果は惨敗だった。
ハリーが意を決して手を伸ばしてみても、少年の差し出したナイフに触れる事は叶わなかったのだ。ハリーの片手は、ナイフを握ろうとする瞬間見事なまでに透けてしまい、空を撫でるだけで終わってしまった。―――物体に触る瞬間だけ、ハリーの肉体は透明になる。
「……っ!」
その光景を目の当たりにして、少年がショックを受けたように固まった。それから悔しそうに唇を噛んでいる。彼はそれでも諦め切れないのか、出口とは違うもう一つの扉―――大理石の枠に囲われた方を指差して言った。
「いや……扉はどうだ?触って開けてみろ。あっちはトイレや浴室に繋がってるんだが……鍵は掛かってない。誰にでも開けられる筈なんだ」
その言い方は、逆に「
「だ、ダメだ!透けちゃう……」
やはりノブには触れられなかった。少年によく見えるよう体勢を変え、何度も試して何度も透ける瞬間を見せ付けた。彼は続けて次の命令に移る。
「全身はどうなんだ!?扉の向こうへすり抜けられないか!?ゴーストみたいにやってみろ!」
ホグワーツのゴースト達を思い出す。彼らは重力に囚われず自在に飛び回り、壁も床もすり抜けて移動していた。今のハリーなら同じ事ができないだろうか?両手を前に出しながら扉に向けて歩き続けてみる。
「うっ。……すり抜けない?ノブには触れないのに!」
だが、これは不可能だった。ハリーは扉を越えて向こう側の空間へすり抜けられない。前に突き出した両手は扉にぴたりとくっつくだけで、透けもしないのだ。
扉だから駄目なのかと、数歩横にずれて壁をすり抜けようとしてみる。……やはり、できない。何故か扉や壁だけは全身を阻まれてしまう。
次に、両手を振り上げて拳を壁に叩き付けた。拳は壁をすり抜ける事はなく壁にぶつかり、衝撃と若干の痛みが返ってくる。しかし、不思議と物音だけは立たなかった。
「……物には触れない。扉や壁には触れるようだがすり抜ける事はできない。そして触った時の音は発生しない、か。ゴーストに近いがゴーストと全く同じではない……それが君の状況という訳か」
少年が先程までと打って変わって冷静に現状を分析している。ハリーはすっかり失念していたが、段々と不安感が蘇ってきた。
今の自分は、どう考えても生身ではない。透けたり物音を立てられない存在。やはり自分の生身は今もホグワーツ城にあり、クィレルに攫われ縛られているままなのだろう。
……どうしたらいいのだろう?このままでは、ゴーストかどうかもよく分からない謎の存在として過ごしていくしかないのだろうか?
そして、もしも元の場所に帰れたとして。待っているのは、クィレルによる拉致拘束だ。どちらの結末を迎えてもハリーには地獄だ。自分が一体何をしたというのか。
「……君は今、ホグワーツで教師に攫われ気絶している可能性が高い、と言っていたな」
少年がゆっくりとハリーに歩み寄ってくる。
「ボクもこんな不思議な現象を目撃するのは初めてだが……。恐らく、気絶した君の意識……というか精神だけが、ボクの部屋に何故か瞬間移動した……。こう仮定するのはどうだろうか」
「でも、どうして君には触れるんだろう……?それに、あの子……しもべ妖精には見られなかった……」
ハリーは少しだけ泣きそうになりながら尋ねた。最早、頼みの綱は自分を認識してくれるこの少年だけである。もし彼に見放されたら、自分は何をどうしたらいいのだろう。
「……。……これも仮定だが……ボクら二人には何らかの魔法的な繋がりがある、としたら?だから君とボクは……互いを認識し、触れ合う事ができる、と」
少年が徐にハリーの頭に手を乗せ、くしゃくしゃと軽く撫でてみせた。すぐに手を離し、己の手の平に残る感触を辿るように見つめている。
「ただ不可解なのが、ボクは君を知らないし君もボクを知らないという点だ。一見、ボクらには何の繋がりも無いように見える……。だが、この状況はその逆を示しているとしか思えない……。今の段階では答えは出ないが、繋がりが無いよりかは有る、と考えた方が納得がいくだろう」
「僕達の知らないところで、僕達には繋がりが有る……というコトだよね」
「そうだ。例えばボクらの先祖が実は親戚でした……とかな。まあまず有り得ない話だが、意外とそういう理由だったりして。……それで、ハリーだったか?実は君に頼みたい事があるんだ」
「頼みたい?」
「……『何よりもまず優先的に頼みたい事』があったんだが、君の性格的に……頼んだところで絶対聞いてはもらえないだろうからな。だから、聞いてもらえそうな頼みに変更する事にするよ」
「何をさせたいの……?」
言いながら、少年は持っていたナイフに向けて自嘲気味の笑みを零し、変身術を解いた。元の姿―――何者も傷付ける事がない安全な形のカトラリー―――スプーンが彼の手の中に姿を現した。
そういえば、彼はハリーが何らかの物体に触れないか試させようとした時。何故か真っ先にナイフを握らせようとしてきた。そして、ハリーがナイフを受け取れない様を見てとてもショックを受けていた。……あれはどうしてだったのだろうか?
本当は、ハリーにナイフを持たせて何かをさせたかったのかもしれない。それができなかったから、彼はショックを受けた。
では、ハリーがもしもナイフを受け取る事ができていたら?
彼は……その後に、一体何をさせようとしていたのか?
それこそが、『何よりもまず優先的に頼みたい事』だったのだろうか……?
「これはボクの予想だが―――この現象は、今回だけではない。ボクらに繋がりがある限り、再び同じ事が起こるだろう。つまり、君はこの先、ホグワーツに意識が戻ったとしても―――いずれまた、ボクの前に現れる」
「ま、また?何度かこういうコトが起きて、そしたら、ボクは意識が無い時に君と出会うって?」
少年の仮定が当たっているなら、ハリーはまたこういう体験をする羽目になるのだろうか。
二人の間にある繋がりが健全であるなら、確かに一回だけで終わりそうにはない。
「ボクの予想は大体当たるんだぞ?まあ……本当は、ボクの方が君の所に行きたいんだけどな。どうも、君の意識の方がボクの所に来てしまうらしいな。そして、その座標にこの部屋は関係ない。繋がりがあるのは、あくまでもボクらの魂とか精神の方だ。だから、ボクがこの部屋に居ない時であっても―――君はボクの前に現れる筈だ」
「そもそも、僕はホグワーツにある体の方に帰れるのかな……。全然意識が戻る気配が無いよ?」
「それは、君がまだ気絶しているからだ。体が回復して意識が自然に戻れば、ボクの前から消えるのだろう。此処に現れる時は透けていたから、消える時も君は透け始める筈だ。……そこで、君の意識が帰ってしまうまでに、頼んでおきたい事がある」
「い、言っておくけど、危険なコトとかはやらないよ。やりたくないコトもゴメンだから」
「君に危険な目は遭わせないと約束するさ。ボクにとっても君がいなくなったり死んでしまうのは御免だからな。取り敢えず、頼みたいのは簡単な事だ」
少年はそこで一度言葉を切り、数回ほど深い呼吸を繰り返して頼みとやらを羅列した。
「君にはホグワーツに帰った後、調べて欲しい事がある。一つ目、《夜鳴き呪文》の解除方法。二つ目、高度な《施錠呪文》の解除方法。三つ目、魔力注入による支配術の解除方法だ」
「……え?な、何が何だって?」
想像よりも小難しい言葉が連続して、ハリーは思わず聞き返してしまった。
調べて欲しいと言われた事のほとんどが何かの魔法の解除方法だった気がする。何故そんなものを知りたいのだろうか?
少年はハリーの様子を見て、ペチュニア叔母さんが物覚えの悪いダドリーに度々向けるような、湿性を含んだ生々しい視線を向けてきた。
「人の話は一回で聞き取るようにしろ。これだからガキは……。まあ一年生だから使い物にならなさそうなのは目を瞑るが……。低学年の君にとっては授業でも習っていないだろうし、仮に高学年になっても習わない内容かもしれない。それでも調べて欲しいんだ。ホグワーツの教職員や図書館の本ならば、今言った内容の答えが得られるかもしれない。……ボクはこの屋敷から滅多に出る事はないから、ホグワーツ生の君に頼みたいんだ。もし、君が無事に誘拐事件を乗り越えて生き延びられたなら―――その後の人生で、もう一度ボクの前に現れる日が来るだろう。その時に、調べた内容をボクに、教えて……欲しい」
教えて欲しい、とどこか躊躇いがちに頼む少年の顔は、緊張で強張り落ち着きがない。ちらちらとハリーの顔から時折視線を逸らし、胸の前で組んだ両手をそわそわと揉んでいる。
「この屋敷にも色んな本があって、色んな魔術の知識を得る事はできるんだが……今挙げた三つだけは、未だに得られない。だから、ボクにしか見えない君に、ボクの前に意識が移動する君に、情報収集をしてもらいたいんだ。《夜鳴き呪文》の解除方法と、《施錠呪文》の解除方法。そして―――魔力注入による支配術の解除方法。簡単な調べ物じゃないのは解っている。だから、調べると約束してくれるなら、当然君にも対価を払おうと思っている」
ハリーはちらりと部屋の本棚を見た。あの、どう見ても眠気しか与えてくれなさそうな分厚い本の全てを彼はとっくに読破しているという事だろうか。ハリーからすれば正気の沙汰ではない。自分なら最初の数ページだけで放り出したくなりそうだというのに。
そんなハリーにとっては、調べ物をしろと言われるのは苦行に近いのである。ただでさえ自分の勉強でも割と忙しいのに、ホグワーツの試験と無関係な魔法の調査にまで手を出せとは容易に頷ける頼みではない。だが、対価を貰えるのなら一考の余地はあると思った。
「対価……君も僕に何かをしてくれる、ってコト?」
「ああ。そうだな……取り敢えず、今の君が最も欲しているものは―――誘拐事件の突破方法しかないだろ?」
「……!」
「急いだ方が良いだろう。君の意識がいつ此処から消えてしまうか分からない。勿論、ボクは君に、『誘拐された状況における有効的な打開策』を教える事しかできない。実際に意識が戻った後は、君自身がどうにかしなければならないのは念頭に置いておけ。君の肉体がある場所にボクの意識が移動する事はないみたいだからな……。さあ、どうする?強制はしないから好きに選んでくれ。最初に言った通り、決定は急いだ方が良いだろうけど」
少年の提案は願ったり叶ったりだった。ハリー一人きりでは、クィレルに誘拐されている現状を脱するのは困難、というかまず不可能だろう。そして、縛られていたあの状況では助けを呼ぶ事もできない。ハリーが今助けを求められるのは、目の前の少年ただ一人だった。
頼まれているのは、ただの調べ物だ。何か危険な仕事をやれだとか、命を賭けろだとかそういった類のものではない。無理に怪しんだり拒絶する理由は無いように思える。
どうしても大変そうならトムに協力を要請すればいい、と思った。彼の持つ魔法に関する膨大な知識量を当てにすれば、一つくらいはすぐに達成できそうだ。……しかし、トムと再会を果たし調べ物を手伝ってもらう為には、やはりクィレルをどうにかするしかない。ハリーはすぐに調べ物を引き受ける事を選んだ。行動は早い方が良いに決まっている。
「わ、分かった!僕の方も、どうしたらいいか教えて欲しいし……!でも、その調べ物っていうの、あまりよく……分からないというか」
「ああ、そうだな……一年生には意味が分からないかもしれない。《夜鳴き呪文》や《施錠呪文》は一般的に知られている呪文の筈だ。教師や上級生でも知っている。ボクが知りたいのは《終了呪文》のフィニートが通用しない場合の、それぞれの解除方法なんだ。特に《施錠呪文》は術者が高度な場合、単なる《開錠呪文》ではびくともしないからな……だからこそ、調べて欲しい」
「じゃあ、三つ目の……魔力がなんちゃら、っていうのは?」
「魔力注入、ね。魔法には他人の精神や行動を操るものがあるんだが……その中に、とても強力なヤツがある。相手の肉体に直接術者の魔力を注いで、相手の全てを支配するんだ。これが非常に厄介で、抵抗する術がまるでない。意志が強かろうが全力で殴られようが、被害者の自我は戻らないんだ。……こんな魔法を野放しにしていたら、多くの人間が酷い目に遭うだろう?だから、そんな無実の人間を守る為にも君に解除方法を調べて欲しいのさ。ホグワーツの本を片っ端から捲っていけば、もしかしたら解除の糸口が見つかるかもしれない……。まあここは一つ、人助けだと思って頼まれてくれよ」
ハリーに詳しい説明を語る少年の顔は、やけに暗く、重い雰囲気を放っていた。それはとても人助けを頼む者の顔ではなかったが、ハリーは特に深く考えもせずうんうんと頷いて引き受ける。
「よし。それじゃ、今度はボクが君に教える番だな。縛られていて杖も無いならできる抵抗は限られているが……君だってれっきとした魔法使いだろう。杖が無くても魔法を使える筈さ。死ぬ気でやれば縄ぐらい解ける」
「ほ、本当に?僕、自信ないよ」
「もっと小さい時を思い出せ。ホグワーツに入る前の君は、杖なんか無くても魔法を発生させていただろう?だから、死ぬ気でやればできると言っている」
「そ、そういえば。あの時は杖なんて無かった……」
ダーズリー家での日々を思い返せば、少年の言う通りだった。
刈り上げられた髪が翌朝には元通りに生え揃い、無理やり着させられそうになった古着は勝手に縮んだり。あれらの現象は全部、杖も無しにハリーが引き起こした魔法なのだ。であるならば、ホグワーツ生になった今でもきっと、杖を奪われたって……。
「それに相手は教師で、君は一年生。誘拐犯は確実に君を舐め腐っている筈だ。だからちょっと縄で縛った程度で満足している。本気で相手を雁字搦めに拘束しようとしたら、疲れるし面倒だからな。魔法使いなんて、格下の相手にはそれなりの拘束で済ませるものなのさ。これは百パーセント保証してやる。殺人鬼は手錠や鎖でこれでもかと縛りたくなるが、子供だと縄でちょっと縛るだけで良いと思うだろ?だから君は、それなりの拘束で余裕こいてる教師の隙を突くんだ。一年生の君でもその拘束は絶対に解ける。自信を持て」
「……うん、頑張ってみるよ!」
「じゃ、呪文を教えるぞ。縄を解く呪文だ……ああ、解いてからの行動も教えておかないとな。よし―――この呪文は―――」
―――コンコン。
その時、またしても二人の会話を中断するノック音が響き渡った。
ハリーは全身を跳ねさせ、咄嗟に少年の背中に身を隠す。しもべ妖精にも認識されなかったのだから、この行動には意味が無いのかもしれないが、ほとんど反射的に動いてしまった。
対して、少年は大きくチッ!と舌打ちを鳴らした。苛々と出口の扉を睨み付け、片手をしっしっと振ってハリーに部屋の隅へ引っ込んでいるようにジェスチャーで伝える。ハリーは大人しく部屋の隅っこに移って、壁に背を預けながら腰を下ろし、膝を立ててぺたりと座り込んだ。その瞬間を確認した後、少年が扉に向かって声を放つ。
「―――何の用だ」
「失礼する」
しもべ妖精と違って、少年から入れと言われていないのに、無神経にもガチャリと扉が開いた。すたすたとした優雅な足取りで、外から男性が入ってくる。
長く淡いブロンドの髪を後ろで結んだ、成人男性だ。誰かに似ている気がする、とハリーは思った。けれど、知り合いにそっくりと言えるほど酷似している、という訳でもない。誰に似ているのか微妙に思い当たらなかった。
男性は少年の近くまでやって来て立ち止まる。青白い顔の中央で冷たく光る灰色の目が、部屋全体を舐め回すようにぐるりと動いた。部屋の中で立っている少年、何も乗っていないテーブル、閉まったままの窓。少年の予想通り、やはり彼以外はハリーを認識できないのか、その目がハリーに向けられる事はない。その事実を再認識させられて、ハリーはほっとしたような益々不安が募るような、複雑な気分だ。
最後に男性の目はもう一度少年の方へ向けられた。見返してくる臙脂色の瞳が苛立たしげに細められているのを確認すると、対照的に灰色の
「……変わりないようで安心した。それに食事も済んだ様子。……そのスプーンはどういうつもりで?」
男性は食事が済んだと思っている少年が片手に持ったままのスプーンを見て、不可解そうに眉をひそめ尋ねた。単純な疑問でもあったが、彼の視線にはいつ起爆するか分からない爆弾を監視するかのような、薄らとした警戒の色が篭った気がした。
少年はスプーンを眼前にまで持ってきて、事も無げに言う。
「ああ、これ。暇だからスプーン曲げでもして魔法力を鍛えようかなって」
「……スプーン曲げ?」
「知らない?自分を魔法使いだって言い張るイスラエルのマグルが、スプーンのこの部分を曲げたりして能力を披露してるのを見た事があってさ。その真似」
すると、少年が持っていたスプーンの首の部分が、触れてもいないのに唐突にぐにゃりと折れ曲がった。そのまま使い物にならなくなったスプーンを男性に向かって差し出す。
「あげる」
「……」
「何か怪しいと思うなら、持って行って好きに調べれば?」
男性は数秒間、蛇が人間に踏ん付けられたような渋い顔をしてぐにゃぐにゃのスプーンを見つめていたが、結局は少年からスプーンを受け取る事にしたらしい。新種の生き物を摘むような慎重な動きで片手に取った。
「……あ、持って行くんだ」
「……憶えているかな。君はこの前もその椅子を原型を留めないくらいに破壊してしまっていたではないか。また何か仕出かさないかとこちらは心配なのでね。今度はこのスプーンで窓でも叩き割るのではないかと思った」
「別にそんな事しないのに。純血の皆さんは不安症なようで大変だな」
「……そうだね。この部屋の窓は、
「…………」
男性は何故か勝ち誇ったかのような顔で少年を見返した。少年は露骨に顔を顰め、顎を微かに持ち上げて男性を苛々と下から睨み上げる。しかし男性は慣れきったかのようにその視線を平然と受け流し、喋る。
「―――君を訪ねたのは、あの方が呼んでいる事を伝えに来たからだ。なんでも、拷問の人手が足りないのだと。君に手伝って欲しいと仰っている」
ハリーは拷問という単語を聞いてびくりとした。驚いて男性の顔をまじまじと見つめる。
―――拷問?一体この屋敷の住民は、普段から何をして生活しているのだろう?
そして、この少年にすらそんな残酷な仕事を手伝わせようとしている。明らかに真面ではない。少年がこの部屋での生活を望んでいない、と語る理由の一端を垣間見た気がした。
「……拷問だ?そんなのエイブリーにでもやらせておけばいい。ボクは今忙しいんだ」
少年が頷く事なく男性を追い払おうとしたので、ハリーはほっと息を吐いて安心した。彼は指示を受けたところで、拷問などという悪事に加担するような人間でなくて良かった。
しかし男性は大人しく帰りはせず立ったままだ。忙しいと語っておきながら何かをしている様子のない少年をまじまじと眺め、皮肉げに疑問をぶつける。
「忙しい……。はて、何もしていないように見受けられるが」
「『何もしない』をしてるんだよ」
「……」
「お貴族様には分からないだろうなぁ、この感覚と哲学と重要性が。さあ帰った帰った。代わりの人手なんていくらでもあるくせにいちいちボクを駆り出すな、と言っておいてくれ」
皮肉に皮肉で返す少年はしたり顔のまま、男性を追い払うように片手を振った。
「それはどうか自分の口で伝えてもらいたい。あの方に処分される事なく意見できるのは君だけなのだから」
「―――分かったからさっさと帰れよ、魔法使い。お前らのご主人様が許すなら、お前らの命なんか別にどうでもいいんだけど?」
その一瞬で、少年を取り巻く空気が変わった。
首を真横に傾け冷え切った視線で男性を射抜いている。顔には一切の皺はなく表情筋に何一つ力は込められていなかったが、その不気味極まりない無表情の裏側で、圧倒的な殺意がこれでもかと漏れ出ていた。捕食者が獲物ではなく、無遠慮に縄張りを侵す同族と対峙した時に向けるような類の、慈悲も容赦もない敵愾心。飢えを満たし活力を得る為ではなく、自身に不快感や嫌悪感を齎す原因を取り除く為の害意。
少年の血液で染まった真っ赤な双眸には、視界の中に収まる忌敵をどうやって排除するか、その方法を何通りにも渡ってじっくり思案している気配が漂っている。ハリーは空気でさえも重量が増したように感じ、小柄な全身に伸し掛かる圧力に翻弄され浅い呼吸を繰り返した。
「一つ、釈明をしておくとするなら」
だが男性は余裕げな佇まいを崩さず、微塵も怯みはしない。こんな感情を向けられる機会など日常茶飯事だとでも言いたげに、軽く息を吐いた。
彼の態度は決して少年の殺意を侮るでも黙殺するでもなく、正面から堅牢に受け止めた上で、それでもわざわざ屈している暇はないといったものだった。
「君が挙げたエイブリーは前回の任務で負傷し杖の調子も狂ってしまってね。今現在磔の呪文を支障なく行使できる人材が君しかいないのだ。他の者は大半が別任務で出払ってしまっている」
「じゃあお前がやれば良い、アブラクサス」
「……私も別の仕事を言いつけられたばかりだ。それに……あの方は久しぶりに君の手腕をご自分の目で観賞したいのだろう。羨ましい限りだね、他の者は君ほど目をかけてはもらえないというのに」
「……」
「ああ、それともう一つあの方からの伝言だ。君が先週納品してくれた数十本のウィゲンウェルド薬だが……市販の物よりも遥かに出来が良かったと。追加でもう10本ほど調合しておいてほしいと仰られていた」
「何しれっと仕事増やしてるんだゴミカス」
「私ではなく、あの方に直接言ってもらえないか」
少年は腹立たしげにタンタン、と片足の靴裏を床に叩き付けながら悪態をついた。ハリーは、不機嫌な人間の仕草としては一見何の変哲もないように見える彼の足の動きを見て、既視感と違和感を覚えた。
これと全く同じ動きを……つい最近見掛けたような……。
と、彼の足に視線が吸い込まれていたハリーは、いつの間にか自分を見ている少年と目が合った。その瞳には自分の思惑通りにいかない展開へのやるせなさで満ちている。ハリーも少年と同じ気持ちだ。折角拘束から逃れられる手段を教示してもらっていた途中だったのに!
ハリーがアブラクサスと呼ばれた男性に、「とにかく早く出て行ってくれ」という願望を込めた睨みを利かせていると、少年が先に言った。
「……あいつの所には後で行く。ああ、それと……ハリー・ポッターを知っているか?」
「……?」
びくりとハリーの心臓が跳ねた。まさか、この男にそれを尋ねるのか?
どうせ自分の姿など見られないと分かっていても、いざ目の前で自分の情報を出されると全身に緊張が走ってしまう。
「……ポッター家か?我々と同じ純血の一族だとされているが……何故急にそんな事を尋ねるのかね?それに、ハリーという名前の子息がいるなど聞いた記憶もないが」
アブラクサスは訝しげな眼光を輝かせ少年の顔を見返した。質問の意味は理解できても、質問の意図が不明で少年をあからさまに怪しんでいる目付きだ。
彼の言葉を信じるならば、やはりこの男性もハリーの存在を知らないようである。
……一体、どうして?
もしかして自分の意識は、全く別の異世界にでも飛ばされてしまったのだろうか?
肋骨の中でずぐんと心臓が落ち込んだ気がする。
ハリーはぐっと奥歯を噛み締めて涙ぐみながら二人の立ち姿を見上げた。そんな悲痛な面持ちを晒すハリーを、少年は目線だけでちらりと一瞥した。それからハリーを苛む苦悶を紛らわせ霧散させるように、アブラクサスの不審感を受け流す。
「別に、なんとなく気になっただけ。本で純血連中の名前が書き記されたヤツがあっただろ。それを読み返して、こんな奴いなかったっけと思って訊いたまでさ。―――さあ、伝言が済んだなら早く出て行け。お前もボクに個人的な用件なんてないだろ」
「確かに、私個人としては君にこれといって特別な用件もないのだが……助言をしておこうと思ってね。……あの方に呼ばれたのなら早く向かった方が良い。あまり大きな声では言えないが、それほど気の長い方ではないからな。―――そろそろ、君を無理やり引っ張り出そうと考えている頃合だろう」
今度はどこか皮肉めいた言い方ではなく、ほんのひと欠片ほどの憐憫の篭った声色で、アブラクサスは少年の耳元に顔を近付けて言った。まるでこの部屋に誰かが聞き耳を立てているのではないかと恐れるような表情で、その誰かに聞かれまいとしているような、本当に消え入りそうな声量だった。
少年はその言葉を聞いても無表情を保っていたが、ハリーには彼の全身が途端に凍り付いたように感じた。瞬きを忘れ見開かれた紅い瞳の奥に、暗い絶望が渦巻き出している。
「君も、どうせやらなければいけない事なら―――なるべく自分の意志で行動した方が精神的にも良いだろう?……では、私はもう行くよ。君と個人的な会話を増やしてしまっては、あの方の機嫌を損ねてしまう」
「―――……」
少年からはアブラクサスに対する殺意はとうに消え去っていた。それでも、彼の周囲を漂う重厚で冷え切った空気は健在だった。
アブラクサスはその空気を意図的に切り裂くように、貴族然とした動きで踵を返し、出口へと歩き出す。扉を開け、最後に一度動きを止めたままの少年へ振り返る。彼の方からは俯いたせいで前髪に隠れた少年の表情は見えない。アブラクサスは気にする事もなく、淡々と言葉を残した。
「……これは決して世辞ではない本心からの言葉だが……私としては、君が来てくれて本当に良かったと思っている。勿論、君は真逆の感想を述べるだろうがね。―――あの方には君が必要だ」
アブラクサスは少しばかり目を伏せた後、紳士のように優雅な一礼を見せて今度こそ退出していった。
部屋に入ってきた当初こそは、両者とも皮肉をぶつけ合ったりしていたので、ハリーはてっきり互いに仲が悪いのかと思っていたが……どうも、そう単純な関係性ではないようだ。少なくとも今アブラクサスが行った言動には、少年に対する同情に近い哀れみや嘘偽りのない感謝が含まれていた……と思う。
ばたり、と小さく扉が閉まる音が響く。その音に、無言で固まっていた少年がはっと顔を上げた。
「……!」
少年はぴたりと寸分の隙間もなく装着されている首元のチョーカーに、一度だけガリっと煩わしげに爪を立てると、大きく体を捻ってハリーの方を振り返った。
「……、おい!こっち来い、呆けてる場合じゃないぞ。……ボクにはもう時間が無くなった。今すぐ君に呪文を教える!」
「えっ、え―――あっ、うん」
ハリーは少年に気圧され慌てて立ち上がり、彼の元まで走って近寄った。
非常に面倒な展開になってしまった。クィレルへの打開策を教えてくれそうだった少年は、屋敷のボスらしき人物に呼び出される羽目になるだなんて。意識だけになってもハリーの人生は悉く邪魔されるばかりらしい。この世に神がいるならいつか蹴っ飛ばしてやりたいとさえ思った。
ハリーが傍に来た瞬間、すかさず少年が打開策の説明に入る。一刻の猶予もないといった焦りが滲む彼の表情を見て、ぎゅっと身を引き締める。もし聞き取れない事があったとしても、聞き直している暇はない。ハリーは全神経を両耳に集中させる必要があった。
「……いいか、死ぬ気でやれ。一発で覚えるんだ。縄を直接切ったり破壊する呪文は、君には難易度が高いからこいつを教える。縄を解く呪文―――発音は《エマンシパレ》、だ。現実の君に杖は無いから振り方は省いていいだろ。とにかく、縄が消え去り解放される自分の自由な姿をイメージし続けろ。言っておくが、目が覚めてすぐに使うんじゃないぞ」
「……どういうコト?だって僕、縛られてるんだよ?」
「いいから頭に留めておけ。……ここぞというタイミングを探るんだ。考えてみろ、目覚めてすぐ縄を解いたところでどうなる?君の傍に教師がいたら?もしその場で気付かれれば、君は逃げる暇もなくふん縛り状態に逆戻りだ。杖無しで拘束を破られると分かったら、次はもっと厳重に縛られるに違いない。そうなったら君は確実に終わりだ……だから教師にバレないタイミングをひたすら待っていろ。拘束されている人間が脱出を遂げるには、タイミングが重要なんだ」
「た……確かに、そうかも」
「あとはそうだな。……もし目が覚めても、瞼は閉じていろ。気絶したままのフリを演じるんだ。演じながら周囲の状況を把握しろ。近くに誰も居なさそうなら薄目で状況把握。人の気配を感じたら気絶の演技続行だ。誘拐犯が独り言を漏らすタイプなら、聞き耳を立てているだけでも情報を得られるかもしれない。そうやって情報を少しずつ仕入れて、縄を解くタイミングを自分で掴むんだ……肝に銘じておけ」
少年の教示は想像以上に有意義なものだった。拘束解除の呪文だけでなく、ハリーが具体的にどういう行動を取ればいいかまで事細かに教えてくれる。……まるで、少年自身が身をもって体感したかのように、綿密に。
結果的に彼の頼みを引き受けて良かったと、ハリーは心の底からそう思った。
「君は、君の友人を誘き出す為に人質にされたと言っていたな。だったら、友人がやって来るまで待ってみるのもいいかもしれないが……この辺は、もう成り行きに任せるしかないな。友人が来る前に逃げ出してみるか、いっそ来てから拘束を解いてみるか……君が最善だと思ったタイミングで呪文を唱えろ。これ以上はボクにも助言のしようがない……」
「あ……ありがとう。君だって大変なのに、ここまでしてくれて、」
「礼を言うのはまだ早い。ボクがどれだけ教えたところで、実際に動かなければならないのは君の体だ。礼なら―――悪党教師から無事逃げ出して、もう一度ボクと会えた時にしてくれよ」
クィレルから無事逃げ出す。果たして自分にできるだろうか?
少年と出会えた事はハリーにとって救いそのものではあるが、彼の言う通り教えられた内容を活かせられるかどうかはハリー自身の動きに全てかかっている。もしもドジやヘマをやらかそうものならば……何もかも無に帰してしまう。相当なプレッシャーだ。
しかし、事はハリーの安否だけではなく友人であるトムにも及んでいる。ハリーが拘束も解けない無力で愚かな人質のままでいれば、誘き出されたトムはクィレルの毒牙にかかるしか道はないのだ。それだけは絶対に嫌だ。
彼は簡単に死なない身体を持っているからと、命を賭してハリーを守ろうとするのは目に見えている。実際禁じられた森では自分が傷を負うのも気に留めず、怪物達の襲撃を一手に引き受けていた。今頃は恐らくクィレルに呼び出されて、ハリーが縛られているあの部屋へ向かっている最中だろう。自分の身も顧みずに。
彼にとって、ハリーさえ生きていれば最悪自分がどうなろうと仕方がない、といった思考が常にあるように見えた。……彼はきっと、元の世界でも自分の命に頓着するような人間ではなかった。だから平気で危険に自ら飛び込めるのだ。動かしているのが嫌いな他人の身体、という理由もあるだろうが……庇われる側としては、こちらの胸が潰れそうになる自己犠牲を前提にしている彼の足手纏いにはなりたくなかった。
……それに、誘き出された彼に、クィレルが何をしようとしているのか考えたくもない。
うろ覚えだが、意識を失う直前に漏らしていた言葉から察するに、クィレルは彼をハリーの手元からも、ホグワーツからも連れ去ろうとしている。それも、彼に『何か』をしてからだ。その『何か』が悍ましいものであるだろう事も容易に想像がつく。
「……絶対、成し遂げてみせる。僕の友達を……連れて行かせたりしない」
「決意を滾らせるのは結構だが、君に一つ命令しておくぞ。元の世界……いや、元の現実か?そこに帰った後、絶対にボクの情報を漏らすんじゃないぞ。ここで起きた事も全て他言無用だ。この屋敷の存在も、この屋敷で見かけた奴らの名前も、あいつらがどんな行動をしていたかも含めて、何一つ喋るな」
「へっ?どういう意味?」
突然敷かれる箝口令に、思わず素っ頓狂な声を出してしまう。少年はかなり真剣な表情でハリーに言い聞かせた。
「君の周囲にどんな人間がいるか分かったもんじゃない。ボクらの間に起きた現象や繋がりを知って、詳しく調べようとしたり、気味悪がってボクらの繋がりを無理やり断ち切ろうと、余計な邪魔をされるかもしれない。君と再会できなくなるのは御免だ。だから、『気絶してる間に不思議な出会いを果たしました』、『その人に頼まれて色々調べてます』、なんて誰にも言うなって話。調べ物を誰かに手伝わせたりするのは許可するが、何故そんなものを調べているのか訊かれてもボクやこの屋敷の情報は一切出すなよ。適当にはぐらかせ、いいな?」
「えっ……ああ、まあ……。言ってもこんな現象、信じてもらえなさそうだし……うん。それに、約束しちゃったもんね。次に会った時までに調べ物をするって。繋がりの邪魔をされるのは……困る」
その時、突然少年がぐっと苦しげに呻いて膝を折った。両手で首を押さえて荒い呼吸を繰り返し始め、僅かに潤んだように見える双眸は、何かへの恐怖でふるふると震えている。蒼白な顔面には明らかな怯えの色が浮かんでいた。
「あっ、―――ッ!うぅ、ぐ、」
「えっ?……ちょっと、どうし……!?」
今までに見た事のない様子に戸惑うしかできないハリー。
少年は持病か何かを患っていたのだろうか?しかし、彼はそういった疾患に侵されている場合の多い心臓や頭ではなく、苦しそうに首を押さえている。であるなら、呼吸疾患なのだろうか?
少年は床に膝をつきながら、苦しみのせいだろうか、半分ほど閉じられた瞼の隙間から紅い瞳をハリーに向けた。掠れて震える声が彼の唇から漏れ出る。
「……気に、するなッ……。あぁ、もう時間だ……。ボクは、行かないと。お別れだ、ハリー・ポッター……。ボクが頼んだ調べ物、忘れる……なよ……ッ!」
「じ、時間?分かった―――でも、こんな急にだなんて……!それに君、病気か何かなんじゃ、」
「違う……違う。いいから、君は誘拐をどうにかする事だけ、考えていろ……」
ハリーが何か助けになれないかと少年に恐る恐る手を伸ばすが、ばしんと勢いよく払われてしまう。首を押さえていた手が一つ減ったせいか、彼の首元で緑色の宝石が怪し気な燐光を放っている光景が垣間見えた。
は、は、と断続的に息を継いでいる彼は、一度ぎゅうっと目を瞑ったかと思うと、静かに瞼を開け放ちハリーの顔を凛然たる眼差しで見据えた。
「―――ハリー・ポッター」
初めて見る少年の表情に、ハリーの言葉は完全に引っ込んだ。
どうしてか彼の姿は、聖母像の前で祈りを捧げる敬虔な信徒を思わせた。
「君はボクの『
……何故。
何故、彼はハリー・ポッターの事を知らないのに、そんな言葉を口にしたのか。
何故、ハリー・ポッターが魔法界を救った英雄だと知らないのに、ハリーの事を
君は、僕の名前も経歴も存在も、何一つ知らなかったのに。
どうしてそんな、地獄の底で待ち望み続けた救済を見つけたかような、悲しい顔をしているの?
「それってどういう意味―――……」
ハリーが少年の真意を尋ねようとした時。
膝をついたままの体勢で、機械の電源が落ちたようにがくりと少年の頭だけが垂れた。連動して首を押さえていた手からも力が抜け、ぶらりと宙に揺れる。ただならぬ様子にハリーがぎょっと飛び退いた。一体どうしてしまったのだろう?
やがて、少年は頭だけ項垂れたままするりと滑らかな動きで立ち上がる。症状が治まったのかな、とハリーが再び声を掛けようとした時、ゆっくりと彼の頭が正常な位置まで持ち上がった。
「………………」
ハリーの視界に入ってきた少年の表情は、ただひたすらに、何も無かった。
虚無。
無表情すら通り越して、虚無だけが彼を形作る全てに居座っていた。
何の意志も、何の感情も感じられない虚ろな瞳が、ハリーを映している筈なのにハリーを映してはいなかった。
まるで―――呼吸する
あまりの変貌に言葉を失って呆然と立ち尽くすだけのハリーを気にも留めず、規則的な動きで少年は悠々と身を翻し、アブラクサスと同じように出口へと歩き出した。
一体、何が起きたのか?
直前に別れの言葉を送ったからとはいえ―――ハリーを完全に無視するかのような動きで去っていこうとするなんて、どう考えても普通じゃない。
「ね、ねえ……ちょっと、」
遠ざかっていく少年の背中に向けて手を伸ばしながら、おずおずと声を掛けてみる。しかしなんとなく予想できていた通り、何の返事も返ってこなかった。まるで聴覚が削ぎ落とされたかのように、少年はハリーの声に一切の反応を見せない。
「ねえ!何か言ってよ!」
「………………」
今度は大きな声で呼び掛けてみるも、やはり無駄だった。
彼は恐らく、伝言の通りに呼び出された場所へ行くつもりなのだろう。しかし、いくらなんでも奇妙な様相ではないか?
人格が別人に切り替わったかのような現象。でも彼は多重人格者の素振りなど一度も見せなかった。それに例え多重人格者だとしても、ハリーを徹頭徹尾無視するのは絶対におかしい。
少年は歩みを止める事なく扉へ近付き―――片手で扉を押し開け、部屋から出て行ってしまった。
がちゃん、とどことなく虚しげに響く開閉音だけが、ハリーの鼓膜に振動を与える。ついさっきまでその振動の元凶には、少年の声も入っていたというのに。
「一体、何なのさ……」
少しは仲良くなれたかと思ったのに、結局はこの有様である。
ハリーは一人ぽつんと部屋に取り残され、八方塞がりな状況に逆戻り。
意識だけの今の自分は、壁や扉だけはすり抜ける事ができない。認識してくれる少年が去った今、何もできる事がない。
と、自暴自棄になりつつあったハリーの全身が、突然薄らと透け始めた。なんという都合の良いタイミングだろう。
「っ、うわぁ……っ」
眼前に両手を持ってきてまじまじと眺める。今やハリーの輪郭はゴーストのように朧げだ。少年の言った通りの現象である。ハリーはこれから、現実に―――ホグワーツ城に還るのだ。
という事はつまり―――クィリナス・クィレルに立ち向かわなければならないという事。ようやく還れるからといって、手放しで喜んではいられない。
「待ってて……トム……。足手纏いにはならないように、僕も頑張ってみせるから……」
性格は最悪だけど、大事な友人の一人だ。クィレルの思い通りにはさせたくない。
それに、彼もハリーと同じく理不尽な現実に巻き込まれている被害者でもある。突然知らない世界に放り込まれて、他人の体に閉じ込められた被害者。できるなら、少しでも助けになってあげたかった。
薄れゆく全身を見下ろしながら、帰還先で勝ち抜かなければならない闘いに思いを馳せ、ハリーは両の眼をゆっくりと閉じた―――。
―――体に絡み付き、こちらを宙に持ち上げている植物のツルを睨み上げながら、全力で叫んだ。
『呼び出したんなら!仕掛け全部解いておけよゴミカスどもが!!!!』
薄暗い湿った部屋の中央で、両腕を頭上でひと纏めに吊るされる形になっていた。未だ自由な足首にもツルが伸びてくる。
【まあ……普通に考えたら、仕掛けはそのままにしておくだろうね。目的地に辿り着くまで、少しでも多く君の力を削いでおこうという腹積もりらしい】
頭に響く声は淡々とクィレルどもの目論見を分析し報告しているが、どこまでも他人事のような言い方が本当に癪に障る。本来ならこの身体を動かしている筈だったのはどこのどいつだよ、と殴り飛ばしたくなった。
こうしている間にもツルが這い上がり、更に拘束を完璧なものに仕上げようと蠢いている。
表面はなんだかじとりと湿っており、ぬめついているような印象で、真っ黒な色も相まってこの世で一番苦手なあの黒い害虫の姿が脳裏に蘇る。あいつらが視界中で這い回っているような錯覚に陥り、底冷えする悪寒が四肢の末端まで走り抜けた。
『―――んんッ、この……ッ!』
息を詰め、全身の力を腰に集中させた。吊り下げられた体が、まるで振り子のように僅かに前後に揺れる。その揺れを逆手に取り、体を大きく捻る。肩へ痛みが一瞬鋭く走るが、無視した。 右足を膝から折り、腰を軸に回転させる。吊るされた体が弧を描きながら加速し、足が鞭のようにしなる。ツルが足首に触れた瞬間鋭い打撃音が部屋に響き、絡み付こうとしたツルが根元から千切れて宙を舞った。
勢いのままに回し蹴りを続け、もう一本のツルを横薙ぎに弾き飛ばす。黒光りする破片が霧のように散っていく。
(……ミッションインポッシブルを観てなかったら危なかったな……)
両腕が使えない状態で敵を蹴っ飛ばすあのシーンは、この場で実に有益な参考資料となった。ありがとう、トム・クルーズ。……そういえば自分も今は同じ名前だったな。本当に、どこにでもある凡庸な名前だことで。
しかし流石は魔法植物、『悪魔の罠』だ。分霊の身体すら平然と絡み取ってしまうとは。
こいつの特性は、抵抗すればするほど捕らえた対象を強く締め付ける、といったものだが……おかしい。先程も激しく身を捩ったというのに、ツルの拘束力が変化する気配はない。というよりも……このツル、拘束しながらもこちらをどこかへ運んでいるような……
【……魔法が掛けられているな。特性を上書きしている。対象を絞殺するではなく、ツルが届く範囲で特定の場所へ拘引するようにと】
工場にある天井クレーンのようにツルに運ばれていく先には何があったか……と、暗闇の中目を凝らせば、特に何も見つける事はできなかったが、感じ取れるものがあった。
……それは、クィレルがホグワーツや禁じられた森に仕掛けていた、不可視の白線を形作る設置型の魔法罠。あれから放たれる魔力と全く同じ気配が、連れられて行く先の空間から感じた。
『何だよもう!またかよ!!』
触ったら全身が痺れて、その隙に頭上から網が降ってくるやつだ。
……あのクソ帝王!人を特定の場所まで来いとか命じておきながら、辿り着く前に確保するつもりなのか?
てっきり『賢者の石』のある部屋にこちらを誘い込みたいのだと思っていたが、そう甘くはないらしい。油断していれば、クィレルとハリーのいる最奥に到着するまでもなく拘束される。その場合、ゆっくりと石を手に入れてほくほく顔のクィレルが、帰り道でくたばっているこちらをついでのように捕獲するのだろう。
隙あらば道中で捕まえてやる。罠を切り抜けられても人質のいる場所には来させる。本当に狡猾極まった連中だ。
……何なのかな?何でここまでして狙ってくるのかな?
まさか、ヴォルデモートがまだ学生で、日記帳が奴の懐にあった時。
嫌がらせの一環で、スリザリン寮寝室の枕をネズミに変身させて。奴が授業中で不在の間、奴のベッドにネズミを置いてウンチさせたりしていたのがバレた……のか?
嫌がらせの犯人がこちらだと、遂にバレたか?あの時の復讐を果たそうとして、だからしつこく狙ってきているのだろうか?思い当たる原因なんてこれくらいしかない。
【孤児院のガキもびっくりなぐらい陰湿だったよ、アレは】
『そう言うなよ。僕が心の安定を保つ為に必要な犠牲だった』
【勝手に殺さないで】
『一回ハリーに殺されたようなもんだろうが、たわけ』
と、会話に興じていると、いよいよ罠のすぐ近くにまで運搬されそうになっていた。なるべく魔法の使用は控え、できるならば物理的な手段で突破しようとしていたが、こうなってはやむを得ない。
『……《エマンシパレ》』
一般的には縄を解く呪文であるが、こいつは拘束全般に有効だ。唱えた瞬間、両腕を吊り上げていたツルはぶるりと震えた後に解けた。そのまま地面に着地。やはり杖を持てない状態でも魔法が使える才能というのは便利である。
【悪魔の罠の弱点なんて分かり切っているだろう?どうして実行しないんだい】
『節約だって言ってるのが分からないのか、たわけ』
こいつらは光や炎に弱い、だなんて百も承知である。しかし拘束を解くだけならさっきの呪文の方が遥かに魔力消費は抑えられる。今の目的は最奥への到達であり、仕掛けを律儀に破壊する事でない。
……それに、死なないと分かっていても、自分にも燃え移りそうな状況下で火を放つつもりは皆無だ。アラゴグの襲撃に遭った時も火は使いたくなかった。脳裏にちらつく血の繋がった焼死体と紅蓮の海、それらの記憶を隅へ追い払う。
『……、……?』
その時、何かの違和感を覚えた。
《エマンシパレ》。
ただ拘束を解くだけの効果しかない呪文。闇の魔術にも属さず、特別な魔法でもなんでもないというのに、どうしてだろう。
何か……この呪文の存在が、どうにも気にかかるような、そんな感覚が。
『……』
【何を気にしているんだい?】
『いや……ハリーにもこの呪文を教えておけば良かった……今更過ぎるが……』
人質にされているという事は、今のハリーは恐らくこの呪文が必要な状態だ。こんな事になるなら、いや、ヴォルデモートがハリーの殺害に執着しているという時点で、こういった呪文を最初から教えておくべきだったのだ。
子供が習得するには難易度が高過ぎる、というほどの呪文でもない。何か一つでも、拘束に抗える呪文を教えておけば……。
だが、後悔などクソほどの役にも立たない。何ヶ月も意識を失っていた自分には、ハリーにそういった呪文をじっくり教えている時間などなかった。意識を取り戻してからも、病み上がりだから、とハリーはなるべくこちらを頼らず一人で勉学に励んでいた……。
そもそもハリーには『愛の護り』があるから、クィレルが襲撃してこようが、大した危害を加える事も叶わず死ぬだけだろうと慢心していた。その結果がこれだ……。
『……自業自得、だな』
自嘲の笑みを浮かべ息を吐く。
ああ、ハリーの知り合いか誰かが、彼に拘束を解く呪文の一つでも教えてくれてはいないだろうか。友人の多い部類ではないが、それでもハリーには勉強を教え合う仲である人間はいた筈だ。
儚い願望を抱きながら、すかさず視線を巡らせる。するとある一点に、ツルが塊のように重なり覆っているものを発見した。近寄ってツルの塊にぼんぼんと拳を叩き付けてみる。
『おーい、生きてるか?』
「…………ッッッ……!」
ツルが覆う隙間から、涙が決壊しこれでもかと潤み切った灰色の瞳が覗いた。首を絞められ口を塞がれたせいでくぐもった呻きが零れている。
『……やっぱり僕以外だと容赦なく絞め殺そうとするのか。お前達、そいつからどけ。まだちっぽけな小僧とはいえ、闇の帝王が直々にお呼びしてるんだぞ?』
懐からゆっくりと杖を取り出し、こいつらの弱点である光を放つ。
『……はあ……折角節約してるのに……。勿体無いけど仕方ないな。火より光……《ルーモス・マキシマ》』
眩い黄金の光が空間を埋め尽くす。ツルの塊がぐぬりと解け、びくびくと痙攣しながら呆気なく退散していった。
『いや動き気持ち悪』
子供の頃、家の中に侵入したムカデをハサミで真っ二つに切断した時の動きを思い出す。頭側は敵を探り当てようとくねくねしていて、体はバタバタと悶えていて非常に面白いが気持ち悪くもあった。興味本位で動画を撮ろうとしていたら気付いた母にその場で軽くぶたれてしまい、あの時は撮影し損ねたんだよな……。何故怒られたのか本気で理解できなかった。誰にも迷惑かけていないのに。
まあ、あんな風に虫を甚振る日々の中で獲得していった知識が、禁じられた森でのアクロマンチュラの洗脳に役立ったので結果オーライだったが。
『生きてるようで何より。こんな所でくたばっている場合じゃないぞ?』
「うぶっ……ハァッ……!ハァッ……!」
解放され、酸素を求めて喘ぐ少年……ドラコ・マルフォイがツルの中から姿を現した。
かなり苦しんでいる。そりゃあそうだろう。自分だってクィレルに首を吊られた時は死ぬほど苦しかった。人間の体とは妙なところでしぶとくて、妙なところで脆いのだ。
『早く息を整えておけよ。……先はまだ長いんだから』
奥へ続く石の一本道を見据える。
これから先待ち受ける仕掛けの数々は、自分にとっては致命的ではない。しかし、同行者である未熟な一年生、ドラコを連れている身としては微妙に厄介だ。
こちらが日記帳を直接触って運べない以上、彼に運び手として働いてもらう必要があるのだ。彼の命をも保護しながら進まねばならない。
【まあ、協力するから頑張って。禁じられた森の時みたいに、君ならどうにか切り抜けられると信じているよ】
『お前、僕が何でもかんでも打開できる無敵の超人かなんかだと思ってる?限度ってものがあるんだよ人間は』
例え仕掛けを切り抜けられたところで、自分にできる事は限られている。
ハリーを死なせない為には、結局奴らの命令に従うしか道はない。
今から自分がやろうとしているのは、捕食者の眼前にわざわざ自分の身を差し出すという、傍目から見ればかなり滑稽な真似なのである。
【……それでも、君なら】
何かを期待するような眼差しで見つめられているような気がする。変に持ち上げられたところで、都合よくパワーアップして覚醒、なんて奇跡は起きないのに無意味な事を。
そもそも自分は、禁じられた森の時よりも弱体化しているのだ。病み上がりだし、魔力は潤沢でもないし、ドラコという未熟者も連れているしでほとんど絶望ものだろ、これ。
だが、立ち止まっている暇はない。
―――「君が戻ることは二度と許されない。例えその歩みがどれだけ遅くなろうとも、必ず道の先に進むことしかできないんだ」
……いつか見た夢で言われた言葉を思い出す。
どこか予言めいたあの言葉は、この状況を指していたのだろうか。
『……行こう』
戻れない。進むしかない。
どれだけ遅い歩みでも……道の先に。
情けなく呻いている少年の首根っこを掴んで引き摺り歩く。
王の御前で道を開く従者のように退いたツルの先。
開けた暗い空間に、重たい足を踏み入れた。
策謀と執着の渦巻く道の終着点で自分が得られるものが、一体何であるのか。
何もかもを捨て去って逃げ出したい衝動を抑え付けながら、ただ歩き続ける。
主人公が言っていた映画とは
ミッションインポッシブル ローグ・ネイションのことです
トム・クルーズ万歳!
ハリーの精神が謎の屋敷に飛んだ現象は、
ハリーが死んだら困る誰かさんが、
彼を生存させる為に引き起こしたもの。
結果的にハリーは呪文と助言を手に入れたので、
誰かさんの目的は現段階で一部果たされました。
3/24追記
更新が一旦止まっちゃってますが
単にリアルでゲームにハマってるだけなんで
失踪する予定はないです。
一段落ついたら更新再開するつもりです。