転生したら分霊箱だった件   作:@ゆずぽん@

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Page 39 「裏切る相手は君じゃない」

 「名前が魂を縛るものだって?」

 

 昼休みのチャイムが鳴ってから、もう十分以上が経っていた。教室はいつものようにざわついていた。

 窓際のグループが大きな声で笑い合い、女子の何人かは机をくっつけてお喋りに夢中。前の席ではサッカー部の連中が、去年の試合の話をしながらコンビニ産おにぎりを頰張っている。この歳にもなって幼児みたいに米粒を唇の端に貼り付けているものだから、彼らが言葉を発する度に白い澱粉の塊も一緒になって上下動を繰り返している。漂う空気が少し甘ったるいのは、誰かが買ってきたメロンパンの匂いだろう。

 廊下の方からは、足音と話し声が絶え間なく聞こえてくる。財布を片手に持った生徒たちが、ぞろぞろと食堂へ向かっていくのが窓から見えた。

 「早く行かないとカレーなくなっちゃうよー」と友達を急かす声、「今日の焼きそばパン残ってるかな」と心配そうな声、そして「俺今日はラーメンにするわ」と決めている声。教室のドアが開く度に、外の喧騒が少しだけ流れ込んでくる。各々がそれぞれの「昼休み」を全力で楽しもうとしているのが、なんとなく伝わってきた。

 

 「人間がこの世に産まれ落ちて、初めて与えられるもの……それが名前だからね。祝福でもあり呪いでもある。故に、誰であろうとも逃れる事はできない」

 

 机に座ったまま肘をついて、隣の席から聞こえてくる声にぼんやりと視線と耳を傾ける。同級生であり同じ部活動の部員でもある青年は、昼食の時間であるにもかかわらず何も乗っていない閑散とした自分の机を晒しながら、今し方こちらが尋ねた疑問への返答を語る。

 

 「じゃ、仮に『悪魔』って名前を付けられたら、そいつは悪魔みたいな性格になるって訳?」

 

 「いや……必ずしもそうなる、という訳ではないんだけど。でもまあ、多少は精神に影響を及ぼす可能性はあるね。名前には『こうであれ』という、名付け親の身勝手な想念が往々にして宿っているものだから。だからこそ、それが魂に絡み付く強固な鎖と化すのさ。……にしても酷いな君の挙げたケースは。どんな人生を送ってきたら子供に『悪魔』だなんて名前を与えようという発想になるんだ?」

 

 「実際に起きたケースだけど、結局役所が受理しなかったから『悪魔』君は実在しないんだなこれが」

 

 「……そう。この国はお優しいみたいだ。僕の国ではそういった名前、極端に有害と判断されれば拒否される可能性はあるけど、絶対的に禁止している訳ではないから」

 

 「ふ〜ん、じゃあイギリスにはデーモン君がいるかもしれないって事か」

 

 「実際にその名前を持つ人間を発見した事はないけど……可能性はゼロと言えないかな」

 

 一連の話を聞いて、むくりと膨らむ一つの疑問があった。その解消を求める脳と好奇心の赴くままに、ほとんど間を空けず質問が口をついて出た。

 

 「……名前が魂を縛るって言うんなら、長寿を願われた名前を持つ人間は、望まずして肉体が長生きしてしまうって事か?」

 

 その質問を聞いた瞬間、目の前の青年の表情がほんの僅か力んだ気がした。何か心当たりがある、そんな人間の表情だった。彼は軽く眉を寄せて聞き返してくる。

 

 「……望まずして、というのは?」

 

 「さっき言っていただろ、名前は親の身勝手な想念が宿っているって。つまり、親は長生きして欲しいと思っていても、子供は早死にしたいと思っているケースがあるかもしれないだろ?」

 

 「……そうだね。名前は魂を縛るから……それが長寿を願うものならば、想念により本人が期せずして生き永らえる可能性は、ある」

 

 「……ん、そうか……」

 

 とはいえ、突発的な事故や災害で、名前に関係なく短命となった人間とて大勢いるのではないだろうか。彼の話が事実だとしても、名前による長寿はあくまで自然寿命にしか作用しないのかもしれない。

 

 「けれど、名前とは恩恵ばかり齎してくれる訳ではないから、注意しないといけない。名前は時に当人の弱点になり得る」

 

 「弱点?」

 

 「ほら、童話でもよくあるじゃないか。本当の名前を知られると力を失う、といったお話が。名前はその存在の本質や魂そのもの、という考えが古くから言い伝えられている。名前を知る事で相手を魔法的にコントロールできる、という信仰に基づいて、こういった『真名』が弱点となる物語が語り継がれていった」

 

 「……そんな童話あったかな」

 

 「有名なものだと『ルンペルシュティルツヒェン』、といったか。とはいえ、この国にはあまり馴染みがないかもね」

 

 よく似た話を知っている。

 ある娘が、自力では到底成し遂げられない理不尽な仕事を王様に課され、できなければ殺すと言いつけられてしまう。娘が困っているところに小鬼のような生き物が現れ、助けてくれるのだが……仕事の対価を要求されるのだ。

 しかし指定された対価は娘に払えるものではなく、やはり娘が絶望していると小鬼が、「期限までに自分の名前を言い当てられたら、対価の件を帳消しにしてやる」と提案してくる。

 最初は小鬼の名前を言い当てられず、ただ迫りくる期限に嘆いていた娘も、色々あって最終的には見事に小鬼の名前を突き止める事に成功した。名前を呼ばれた小鬼はその場から消え去り、娘は無事仕事を終え殺される事なく生き延びてハッピーエンド、という童話だ。

 

 「ああ、そういう話ならなんとなく覚えがあるような……。確か、『トム・ティット・トット』……だったっけ」

 

 隣の青年がぴたりと不自然に動きを止め、居心地悪そうに微かに身を捩る衣擦れの音が聞こえた。何かおかしな事を言っただろうか。昔、祖父に童話の類をよく読み聞かされていた記憶を振り返っていると、青年がちらちらと落ち着きなく視線を散らかしているのが横目に見えた。

 

 「……まあ、僕も知っているよ。そもそもの発祥がイギリスだからね、その童話は……」

 

 「子供の頃、絵本とかを読み聞かされていたからなぁ。ああいう話って子供だからとか関係なく、いつ聞いても割と面白いんだよね」

 

 「ところで……君はどう思う?その童話の……タイトル、とか」

 

 「え?タイトル?」

 

 「ほら……タイトルそのものが話に出てくる小鬼の名前を表しているだろう?」

 

 「あー、『トム・ティット・トット』。多分、『トット』、っていう音の響きでいかにも童話らしい雰囲気を出してるんだろうけど、『トム』ってのはよくある名前だろ。名前がバレたら力を失うっていう設定の小鬼なのに、どうしてか有り触れた名前だもんな。作者はどういう意図で名付けたのやら」

 

 『トム』と口にした瞬間、青年の目が徐にすっと細められた気がした。他の人間では気付き難い表情の変化。一見するとほとんど無表情にしか見えない。何かを期待するような眼差しで、何かを引き出そうとする口振りで追求してくる。

 

 「……『よくある名前』……本当に、それだけ?」

 

 「それだけって……他に何かある?」

 

 「いや、何と言えば良いか……。例えば、マーリン……とか」

 

 その名前には聞き覚えがある。イギリスで有名な魔法使いだ。

 人間と夢魔との間に生まれた混血児であり、それ故にとても強力な魔法の力を生まれつき持っていたとされ、予言や変身の術に長けており、その能力を以て一人の少年を『アーサー王』へと至らせた従者。

 凄い力を持っているくせにどうして自らが王になる訳でもなく、従者として他人に跪く道を選択し続けたのか、など色々と謎の多い存在でもある。実際、現代でも彼については様々な考察や検証が続けられていたりする。

 実在したかどうか定かではないが、実在していたと考えた方が色々とロマンのある人物である。あの『アーサー王伝説』とも縁のある魔法使いで、子供の頃は柄にもなく彼らの伝承や円卓の騎士に憧れていたものだ。

 剣と魔法が絡むお話は、いつだって全男児の夢と希望が詰まっている。誰しも子供の頃、木の枝を振り回して「エクスカリバー!」と叫んだ日があった筈だ。……あった筈だろう?いいや、絶対あるに決まっている。中には「カリバーン」派がいたかもしれない。

 

 「マーリン?イギリスの伝説だよな?あの童話、マーリンなんか出てきたっけか?」

 

 「うーん、その。君はイギリスで有名な童話をいくつか知っているだろう?だから、マーリンに関係する……その……」

 

 「……『トム・ティット・トット』の話とマーリンに繋がりがあるなんて聞いた事ないけど」

 

 「いや、そうじゃなくて、うーん…………。まあ……君が思い至らないなら……」

 

 結局相手が何が言いたいのか分からず、疑問符を貼り付けた表情のまま訝しげに見つめ合っていると、どういう訳か少々ぶっきらぼうな態度で顔を逸らされた。

 ……これはもしかして、拗ねている……?

 いや、今の会話のどこに拗ねる要素があったのか全く意味不明である。名前とそれに関する童話について話していただけだというのに。

 

 「……あの時は、『縁起が良い』と言ってくれたじゃないか…………」

 

 ぶつくさと小声で文句を言い連ねているようだが、絶妙に聞き取れない声量を保っているのでまるで分からなかった。

 そもそも、こんな会話をしている事自体初めてと言っても過言ではないのに、彼はどんな言葉をこちらから引き出したかったのだろうか。

 

 「―――ちわっす!任務完了でござい!」

 

 と、突然声を掛けられ目線を上げた先には、二人組の男子生徒が立っていた。片手では敬礼のポーズを取り、もう片手にはガサリと音を鳴らすビニール袋が下がっている。

 

 「こちらがご所望の『焼きそばパン☆デラックスタイプ』と『クロワッサン☆ポータブルタイプ』です!」

 

 「ああ、ご苦労」

 

 短く感謝を伝えてから差し出されたビニール袋を受け取る。中を確認すれば、ちゃんと言葉通りのブツが入っていたので彼らに向かってくいくいと手招きした。動きから何が行われるか察した二人が両手を開く。机の引き出しから財布を引っこ抜き、ブツの定価に上乗せした金額を彼らに手渡す。

 

 「いつも通り、色を付けておいたから」

 

 「うっへへ、感謝感謝」

 

 「これで今夜はガチャ解禁だぜ」

 

 分かり易く口角の緩んだ二人は、手の中にある紙幣と硬貨にしばらく見惚れていたが、こちらの隣にいた青年にじっと見つめられている事に気付くと、気恥ずかしそうに咳払いしてから表情を戻す。それからおずおずと続けた。

 

 「えっと、それで……今夜は一緒にパーティを組んでくれるんすよね?」

 

 「氏がいれば冗談抜きで千人力なんで!ぜってぇバジリスク倒せるんで!お願いしますよ!?」

 

 「分かってるって。ダンジョン前に九時集合で良いんだっけ?」

 

 「うっす!それじゃまた夜に!」

 

 サムズアップを送ってきた後に、二人は肩を組んで鼻歌を歌いそうな上機嫌のまま教室を去っていった。後に残されたのはブツを手にした自分と、異様にテンションの高い二人組に不審そうな表情を受かべている青年だった。

 

 「……今のは?」

 

 「ボクが買いに行くの面倒だから、代わりに昼食調達しに行ってくれって頼んでた二人組」

 

 「パンの名前に『☆』ってどういう……?」

 

 「学食のおばちゃんの趣味だな。全部のパンに☆を付けるんだよあの人。パンこそが主役(スター)だとか言い張って、おにぎりを買おうとする生徒に圧を掛けてくる。ついたあだ名は『妖怪パン買えババア』」

 

 「バジリスクがどうというのは……?」

 

 「『ダイファン』のボス。早い話がゲームだよゲーム。君にはあまり馴染みがないだろうけど。今夜あいつらと一緒に電子の世界で大蛇討伐を果たしに行くのさ」

 

 一つ一つの質問に回答を送りながらガサガサと袋の中を漁って、目標物を取り出した。手の平から余裕ではみ出すほどの大きな焼きそばパンがこんにちはしてきた。流石、デラックスの名を冠するだけはある。一方、ポータブルの名に恥じぬ小ぶりなクロワッサンが慎ましくこんにちはしている。

 

 「……君達がよく話題にしているその遊戯(ゲーム)、だっけ?君の叔父が作っているんだよね」

 

 「ああ……あくまでゲームディレクターってだけだよ。ボクがやってるのもあの人から『絶対に最後までプレイしてほしい』ってしつこく言われたのが切っ掛けなんだけど……まあ面白いから良いんだけどさ……」

 

 「へぇ……()()()()、ねぇ」

 

 どこか意味有りげな呟きが静かに吐き出されたが、袋を漁るガサガサという雑音のせいで耳にも記憶にも残らなかった。しかし、その雑音もすぐにぴたりと止める羽目になった。

 ……例の妖怪の仕業だな。指定したブツにおまけを足されている。つまり『クロワッサン☆ポータブルタイプ』がもう一つ、袋の奥に潜んでいた。

 彼女は常日頃からパン食派の子供達の増殖を画策しており、こういった「なんか一つ多くね?」事件を引き起こす事がしばしばある。

 ……やられたな。育ち盛りの青少年達にとってこの事件は地味に有り難いハプニングであるのだが、「今日はちょっと腹に入らなさそう」な日には少々困りものだ。

 いや、しかし今の状況は自分に味方している。包装にくるまれたクロワッサンを一つむんずと掴み、隣に躊躇いなく差し出した。

 

 「これ、やる」

 

 「え?」

 

 「パンは嫌いだったか?」

 

 「いや……食べられないものは特に無いけど」

 

 「じゃ、貰ってくれ。君がどれだけ少食だったとしても、このサイズ一つなら食べ切れるだろ」

 

 「…………」

 

 青年はしばらく手の中の膨らんだ包装へ向けて、まるでこの世に生まれて初めて目にしたと言わんばかりの視線を注いでいた。

 無垢な幼児のように、ぱちりと彼の双眸が瞬く。再び開いた瞳の中には、どうしてか相反する二つの感情が両立していた。割合にして表すなら九割くらいの喜びと、一割くらいの憤り。……あの僅かに含まれている憤りは、一体どこから来ているのだろう。やはりパンが嫌いだったのだろうか。

 

 「―――ありがとう」

 

 やがて返される短い感謝の言葉。その頃には謎の一割の憤りは鳴りを潜めており、表情は困ったように眉を下げながらも口角を上げている様相となっていた。単純に嬉しいけれど、過去の思い出が邪魔をして素直に喜べない―――彼の表情はそう物語っている。昔、彼に何があったのだろう。

 

 「前も君は……僕にパンをくれたよね」

 

 「……」

 

 過去の思い出に意識を向けながら、青年がこちらを見つめてくる。相変わらず複雑そうな表情で、それでも口元には小さな笑みを浮かべて。しかしそんな表情を向けられたとて、こちらには何も思い当たる事がない。記憶をまさぐりつつも青年の言葉の真偽が理解できず、当惑した視線を返す事によりやんわりと彼の言葉を否定しておく事にした。

 

 「いや……あげてないけど……?」

 

 何について言及しているのかさっぱりだ。その複雑な表情で見つめてくるのをやめてほしい。どうしてか居心地が悪くなってくるような、そんな錯覚に襲われるので。

 

 「―――ちゃんと君から貰ったよ。まあ、こんな風に優しく手渡し、という訳ではなかったけれど……」

 

 「?」

 

 懐かしいといった雰囲気を放っているが、こちらとしては全く身に覚えがない出来事だ。パンなんて昔生きていた飼い犬か、近所を棲家としている仲の良いカラスにしかあげた事がない。

 そういえば、前に腐れ縁の女から「お前って顔は良いけどどこにでもいそうな造形だね」と鼻で笑われた記憶がある。

 多分、青年も別人と勘違いしているのだろう。何せ、自分はどこにでもいそうな顔らしいので。今日以外でも見知らぬ誰かと間違われた経験は時折あった。女の方は後にしっかり肘打ちで報復しておいたので問題無い。

 

 答えの出ない問題を長々と考えるのは時間の無駄だ。バリバリとやや乱雑に包装を破り、顔を出した焼きそばパンに齧り付く。ソースと小麦の見事に調和した香りが鼻腔を満たす。安定した味にいつもの満足感が湧き上がった。

 こちらの姿を見て、真似するように青年も包装を女子のような丁寧な手付きで破る。彼は小ぶりなクロワッサンをぱくりと控えめに一口、上品そうに食んだ。女子か。

 無表情を保とうとしていたようだが、目は口ほどに物を言う。彼の口元は無機質に咀嚼の動きだけを繰り返しているが、少しだけ下がった目尻が、現在受け止めている味覚が「美味」であるという事を如実に語っていた。

 

 「で、さっきの話だけど。どうすれば名前の縛り?とやらを外せるんだ?」

 

 互いにパンを処理しながら、先程の会話を再び立ち上げた。青年はやはり貴族の如き上品さを保とうとしているのか、一口一口小さく生地を味わいながら語る。女子か。

 

 「名前は本人がその家系に属する者であるという証明でもある。つまり、名前で子供を家に縛る訳だね」

 

 「法律上でも形式上でも逃れられないよな」

 

 「縛りから逃れる方法は二つ。自分の家系……血縁に属する者を根絶やしにする事。もう一つ、名付け親に与えられた名前を唾棄し、新たな名前を自ら生み出し己に命名する事」

 

 「なんか物騒な話になってきてない?」

 

 「仕方のない事さ。名前は人間を家系に縛り付けるものだからね。だからこそ、家系に属する者を全員消す必要がある。そうすれば家系は断絶し、同時に縛りも自然崩壊を迎える。その家系からは自由になれるんだ」

 

 「オーマイガー」

 

 「だが、この方法だけだと家系への縛りからしか解放されない。真の自由を手に入れるには、やはり魂の縛りを解かければいけないんだ。まず血縁を排除し、それから自分自身で古き名前を捨て新しい名前を生み出す。ここまでやり遂げる事で、ようやくその人間は全ての縛りから解き放たれるのさ」

 

 「……最初に血縁皆殺しって事だろ?難易度高過ぎじゃないか?親兄弟はともかく、従兄弟や叔父叔母、再従兄弟までになったら全部で何人いるか分かったもんじゃないぞ」

 

 「その点については心配無用だよ。排除すべき血縁は直系の一、二親等程度で済む。名前による家系への縛りが強い親族の範囲がここまで、という事だね。傍系……つまり横の繋がりの排除は考慮する必要が無いよ」

 

 「……ん?何か、明らかに詳し過ぎないか?え?何でそんなに詳しいんだ?」

 

 今まで大人しく話を聞いていたが、青年の語りは終始淡々としており、それでいてかなり詳細な部分まではっきりと解説している。まるで自分が本当に実行に移したかのように、鮮明に。青年から若干距離を取るように、座った姿勢のまま僅かばかり身を仰け反らせて尋ねた。

 

 「うーん、まあ、君達と同じ活動をしているから、かな?」

 

 彼は涼しげな顔のまま事も無げに言った。

 確かに、自分達の部はこういった科学的根拠のないオカルティックな話を調査したり、考察を重ねたりするのが主な活動だが……それだけで青年の答えに納得できるかと言われると、微妙である。

 二人共パンを食べ終わった頃。どこからか取り出したハンカチで口元を拭っている青年の姿から完全に顔を背け、視線を教室の前方に向け直した。

 

 「ねえ、約束してくれるかな」

 

 ふと、青年が神妙な声色で言った。彼の方へ向き直りはしない。

 

 「何を」

 

 「もしもこの先、君が誰かに別の名前を与えられても、それを決して受け入れないって」

 

 「……」

 

 視線を感じる。

 彼はこちらを見ている。

 少なくとも、自分の片頬に突き刺さる眼光からは、お前もこちらと視線を交わらせろという無言の命令が込められていた。

 目を逸らすな。向き合え。明日の朝には忘れているような些事として流すな。どうしてか目を合わせずともその意志が流れ込んでくる。

 けれど、自分はその命令を無視した。教室前方の壁に取り付けられている大きなダークグリーンの長方形を、何の目的意識もなくただ漠然と視界に収め続ける。

 授業の無いこの時間帯では何も刻まれていない空虚な鋼板。教師が来るまでにされた落書きも、教師が書き込んだ試験範囲の授業内容も、日直が雑に消し去った後の薄汚れた白い筋さえ残っていない。どれだけ数多の情報を記載されたところで、最後には何もかもまっさらな状態に戻るのを繰り返すだけの器具。逃れられないリセットの象徴。

 

 あれはまるで自分のようだ。

 

 与えられたものを一時的に受け止めるだけ。結局は興味が失せ放棄しては向上や進歩を拒み、自分の中には何も残らないし何も得られない。ラーフルが定期的にあの鋼板を白紙にしてしまうように、何の変化も遂げられない空疎で無価値で退廃的な存在。

 名前が魂を縛る。何の科学的根拠も無い、傍目からすると滑稽な論理だが、案外すんなりと納得できる気がした。名前に込められた想念によって当人が影響を受けるというのなら、決して出鱈目とは言い切れないと思ったからだ。

 母がかつて我が子に押し付けた想念は、向上や変化を期待したものではなかった。ダークグリーンの鋼板のように、存在さえしてくれれば空疎で無変のままでも構わない。そういった類の願いを込めた名前を与えられたからこそ、此処にいる自分はこんな性質になってしまったのだろうか。

 

 「……何で」

 

 だったら、もしも。

 もしも、今とは違う名前を与えられたなら。

 全く別の願いが込められた名前を、自分の物として所有できる機会が訪れたなら。

 この無精な魂の縛りから解放される日を、新しい自分に変われる日を、望めるという事なのだろうか。

 

 「何で、君とそんな約束をしなくちゃいけないんだ?」

 

 視線は合わせないまま、口を開いた。想像以上に低い声が出る。視界外で相手の表情が曇った気配がする。

 

 「そんな約束に、一体何の意味があるというんだ?」

 

 何故、自分は不快な思いをしているのだろう?

 青年が語るような、誰かに別の名前を与えられる機会なんてまずありはしないだろうに。それこそ、母が役所に子供の改名を申し出るでもしない限りは。

 あり得ない機会に対して、どうして不快になっている?

 理由の分からない不快感が突き動かす口からは、不貞腐れたような無愛想な声が飛び出していった。

 

 「……名前は魂を縛るもの、だと言った筈だよ。別の名前を与えられたところで、名付け親が変わるだけ。魂を縛り付ける支配者が変わるだけだ。君には……もう縛られてほしくない、と思って」

 

 「だとしても、君に何の関係がある?血も繋がってない他人に妙な心配をかけられる筋合いはないね」

 

 「……じゃあもしも僕らの間に血が繋がっていたなら、君は大人しく約束してくれたのかい?」

 

 愚かな質問内容に、有象無象の真っ只中に放り込まれているという事も忘れて、冷たい嘲笑を浮かべそうになった。理性を総動員させて踏み止まる。それでも隣の青年に聞こえる声量で、性根の腐りきった悪辣な笑みを唇の端にだけ乗せて囁いた。

 

 「―――血の繋がった人間なら、とっくの昔に殺しちゃったよ」

 

 ぴくり、と。

 近くの席で下らないお喋りに興じていた二人の女子生徒と、前の席で米を頬張っていた男子生徒だけ、違和感を覚えた雰囲気を湛えてこちらへ視線を向けてきた。僅か一、二秒で聞き間違いか空耳だと勝手に判断し、すぐに元の状態へと戻っていく。

 あの子が、あいつがそんな事言う筈がないな。本当に口に出していたとしても、きっと冗談だろう。そんな独断の下、こちらに注がれる視線はあっという間に散っていった。

 

 「……君、それは、」

 

 「だから、君も()()ならないと良いね」

 

 有無を言わさせず、約束とやらに対する拒絶の意を込めて、短く言い放った。緩くカーブした唇の端はそのままに。それは間違いなく嘲笑に分類される表情だっただろう。

 どうしてたかが他人と、真意も不明な約束なんぞ結ばなければいけない?

 名前。約束。血縁。自分を縛ろうとするものは、誰であっても、何であっても許し難い。

 

 「ボクが従うのはボク自身の思考。それ以外には、この身が滅んでも従わない」

 

 【そうだ】

 

 声が聞こえた。

 教室に居る誰かの声ではない。

 

 【あの男に従うな。言葉に耳を傾けるな。厚情を信じるな】

 

 すぐ耳元で囁いている。目には視えない誰かが、自分以外に聞こえない声で囁いている。

 

 【自分を縛るものは誰であれ許せないのだろう?約束なんぞ忘れてしまえ】

 

 前へ真っ直ぐ視線を飛ばしたまま、眼球だけをぐるりと右へ向けた。視界に入ってきた青年の表情は、信じられないものを目撃でもしたかの如く凍り付いていた。

 

 【―――そうすれば、お前の『今』を縛るその名前。忌まわしい『それ』から間もなく解放してやろう】

 

 骨ばった不可視の手が、自分の片頬をするりと撫でていく。蜘蛛のように無駄に長い五指の感触。その透明な手を掴んで引き千切ってやろうかと野蛮な考えが巡り始めた頃には、気味の悪い感触は綺麗さっぱり消え去っていた。

 

 「……【お前】に従うとも言ってないだろ」

 

 気が触れた人間にも見られる独り言を構わず吐き捨てて、がたりと椅子から立ち上がる。硬くなった表情でこちらを見上げる青年は、予想していた通り引き止めようとしてきた。

 

 「何処へ行くんだい」

 

 「気分が悪い。保健室」

 

 「……次の授業は、どうするのかな」

 

 「君が教師に伝えておいてくれよ。『彼は保健室に行ったので欠席です』って」

 

 嘘だった。

 今日はもう、何かに取り組むような気分ではなくなった。

 全部放棄しよう。このまま家に帰って、ベッドに潜り込んでしまおうと。

 たった一日、午後の授業を受けなかったとして、自分には何の損害も発生しないのだから。

 ビニール袋の中にゴミとなった包装紙を詰め込み、袋ごとズボンのポケットに突っ込んだ。机の横にぶら下がっていた学生鞄を片手で持ち上げる。右肩に紐を掛け、教室の出口へと歩いて行く。今から下校を始めるといった異様な格好を見かけても、教室内の有象無象は誰も声を掛けてこない。たった一人を除いて。

 

 「どうして、帰るんだ」

 

 興味本位で振り向いた先には、同じように立ち上がってこちらを見つめている青年。無断欠席を敢行しようとする姿が余程気に入らないのだろうか。赤の他人を咎めたところで、時間の無駄になるだけだというのに律儀な事だ。

 

 「意味が無いから」

 

 「何に対して、意味が無い?」

 

 「学校にいる事さ。それに、今ある全て。生きる事全て」

 

 そう、全てに意味を見い出せない。

 朝起きて、食事を終えて、学校に向かい、授業を受けて、知識を蓄えて、試験を迎える。

 家に帰って、食事を終えて、明日の準備をして、眠りに就く。これらを繰り返す事。

 何の意味があるのだろう。

 どうして自分は意味を見い出せないのだろう。

 他の有象無象みたいに、それが『常識』だからだと無理やりにでも自分を騙して納得させて、大人が誂えた軌条の上を歩いていればいい。それさえ心掛けていれば、取り敢えずは『普通』の演技(ふり)ができるのに。

 

 どうして、他人と同じ事ができないのだろう。

 どうして、誰かに従えないのだろう。

 ……どうして、『普通』の人間に、なりきれないのだろう。

 

 『普通』になれない原因が、魂を縛るという名前にあるのなら。

 平凡で、有り触れて、自らを凡庸とするような名前になれたなら。

 大人の思惑通りに生きていくという『常識』に、いちいち疑問を浮かべては小賢しく反抗の意志を沸き立たせるような子供ではなくなるのだろうか?

 

 ―――母が自分に求める『普通』に、なりきれる?

 

 「……君は、『普通』じゃない学校の存在を知っても……通いたい、なんて言わなかったよね」

 

 ふと、青年がぽつりと零した。

 自分が耽っていた思考と同じ単語を口に出された。心情を読み取ったかのような的確な言い草。顔に出てしまっていただろうか。それでも、出された話題がこれまでの会話とはほぼ無関係な代物だったので円滑な理解には至らなかった。

 

 「何の話だ?」

 

 「学校の話さ。今、君は学校なんて意味が無いと言っただろう」

 

 「……言った」

 

 「知識を学ぶ事に意味を見い出せない、と?」

 

 「ボクには学んだ知識を活かす機会なんて永遠に無い」

 

 「……そう思っているから、君はあの時も入学の意思が無かったんだね」

 

 「……さっきから、一体何の話をしてるんだ?」

 

 話の終着点が見えない。

 互いに突っ立ったまま向き合い会話をしている最中にも、誰かが声を掛けてくる事はなかった。教室のど真ん中を陣取る格好になっているのに、誰もこちらへ意識を向けない。

 青年だけが、尚もこちらを真っ直ぐ見つめ返してきていた。感情の読めない瞳が、逃がさないという眼光を発し続けている。何故か目を逸らしたくなるが、それは叶わず彼の紅い瞳に釘付けになっていた。

 

 「君は『未来』を一切考えていないから、学校に通って知識と力を育むという『常識』を拒絶した」

 

 「……君には何の関係も無い話だ」

 

 「関係はあるよ」

 

 「無い。さっきから何様のつもりで話してるんだ。ただの転校生のくせに」

 

 突き放す口調で言い返してやれば、青年は一瞬だけ傷付いたように目を伏せて、一瞬だけ燃え上がるような怒りの色を瞳の中に滾らせたように見えた。だから揺らめく炎にも似た真紅に光っているのだろうか。

 

 「……関係あるとも。君があの時……入学でもしていれば……もしかしたらこんな事には」

 

 絞り出すような声は途中で途切れた。失言を恥じ入ったのか青年はきゅっと唇を結ぶ。あれは余計な一言を漏らしてしまったという不手際を自戒している表情だ。事実、彼の言葉の九割はまるで理解できず、こんなところで戯言を聞かされたのかと本気で思った。

 

 「入学って何だ?ボクはとっくにこの学校の生徒なんだけど」

 

 「……すまない。他の人間との話を混同してしまったみたいだ」

 

 「……やっぱりか」

 

 その謝罪を耳にして、瞬間的に御し難い苛立ちが血液に乗って全身を駆け巡る。

 

 「うんざりだ。君だけじゃない。他の奴も……何だってボクを『よく似た別人』と間違えるんだ?目が腐ってるのか?世界には自分そっくりな人間が三人いるなんて通説があるけど、それにしたって頻度が多過ぎる。いい加減、別の人間と見間違えるのをやめてくれないか?ボクはボクだ」

 

 捲し立てるようにして青年へ煮え滾る苛立ちをぶつける。彼は……読みにくい表情を形作って見返してくるだけだった。

 何を考えている?

 別人と混同してしまったという、申し訳なさげな後ろめたさ?

 こちらの怒りに触発されて、同じく不快感で満たされている?

 どの見当も正しく、どれも誤っているような気がした。

 相手の心根が解らない、読めない。でも、それで良いのではないかと思った。

 『普通』の人間なら、それが本来あるべき姿だからだ。『普通』なら、他人の思考なんて見通せる筈がないのだから。

 

 「……萎えた。帰る」

 

 最後にそれだけ呟いて、今度こそ振り返ることなく教室を後にした。

 誰も自分に目を向けない。誰も自分へ声を掛けない。誰も自分を認識できない。邪魔をする人間は誰一人としていなかった。

 玄関へ向けて歩いている最中、職員室付近の廊下に見覚えのある後ろ姿を見かけた気がしたが、気のせいだと思いたくて無視を決め込んだ。しかし向こうは目敏く違和感を気取ったのか、こちらの方を振り向いた。だが無意味だ。教室の有象無象と同じく、その血縁者は悠々と歩き去るこちらに声を掛けてくる事はなかった。否、()()()()()()

 つうっと片目から垂れてくるものがある。頬が擽ったくて鬱陶しかったので、即座に片手で拭う。手の甲にべったりと赤い軌跡がこびり付いてしまったが、いつもの事なので気にも留めない。頭がつきりと一度だけ痛んだ。

 

 この時の選択を。

 随分と後になってから、致命的に間違っていたと後悔する日が来るなんて、思いもしなかった。

 一時の感情に支配されて、碌に聞き入れる事なく忠告を遇らってしまったこの日の自分を。

 

 

 

 

 この世界を去った今でもずっと、絶えず恨んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「あの……リドル君いますか?」

 

 出入り口を起点にして発された小さな声が、教室内のざわめきを優しく切り裂いた。

 何人かの視線が一斉に声の方向を向いたが、すぐに自分への呼びかけではないと理解して霧散する。

 出入り口に立っていたのは大人しげな女子生徒だった。片手でスカートを軽く握り締め、視線を少し伏せ気味に教室を見回している。やがて中央に立っていた青年と目が合うと、少し声を張って言った。

 

 「先生が、保護者の人来てるから、職員室に呼んでくれって」

 

 言い終えると彼女はほんのり顔を赤らめて、直視に堪えない、と言った様子で視線を逸らした。それは悪い意味ではなく、顔の整った人間を視界に収める事に慣れていないからこそ取ってしまう悩ましい仕草だった。

 青年が出入り口まで静かに近付くと、彼女は再び相手の顔を直視しないように視線を散らばせながら尋ねた。

 

 「あの、リドル君、□□□君とよく一緒にいるよね」

 

 「いるね」

 

 間髪入れずに返ってくる簡潔ながらも聴き心地の良い声に、女子生徒はどうしたらいいか戸惑うように身を捩らせる。それから聞き辛そうにしていたが、結局は好奇心が勝ってしまった罪悪感に苛まれながらも質問を重ねた。

 

 「今来てるリドル君の保護者の人……何で、□□□君と同じ名字なの?」

 

 悪意もなく、ただ純粋な疑問を以ってして静かに響き渡る問いかけ。

 青年もまた、一切の悪意無く穏やかな笑みを浮かべ、小首を傾げつつ質問を質問で返した。

 

 

 

 

 「―――さあ。一体どうしてだと思う?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 冷たい石の廊下を歩き続ける。

 試験期間中の夜間という状況もあって、生徒達の居場所は完全に談話室か図書館に集中しており、自分のように廊下を通る者はゼロに等しい。とはいえ、いつどこで誰に姿を見られるか分かったものではない為、目くらまし術は解けない。

 ゆっくりとした歩行速度では、中々廊下の終わりまで辿り着かなかった。透明化に使われる魔力が少しずつ、だが確実に消費されていく感覚が焦燥感を煽るが、目的地まで駆け出すほどの気力はない。病み上がり故、身体に激しい動きをさせようという意志が湧いてこないのだ。大分弱まったとはいえ、この胸には未だにチクチクとした痛みが居座っている。歩行により肩が上下する度、胸の痛みが僅かに増して体内を突き刺してくるのである。

 

 『……ッ、はぁ……、ふ…………』

 

 痛みを少しでも逃そうとして、吐息と一緒に小さな声が漏れる。

 全く情けない。情けなくて自分で自分を張り飛ばしたくなる。唯一の救いは、ヴォルデモートが課した制限時間が夜明けという点だろうか。どれだけ自分の動きが鈍臭いものとして計算しても、時間切れまでにはかなりの余裕がある。

 それでも、きついものはきつい。辛いものは辛い。しかし泣き言を吐くなんて許されない。もしそんな痴態でも晒して時間を浪費しようものなら、ハリーは容赦なく殺されてしまう。

 

 ―――大人しく指定された場所へ向かって、この身を差し出して、真実を知らせたら。

 ヴォルデモートは、ひと思いに自分を殺してくれるだろうか。

 

 それは、ありうる。

 物語でも、気に入らない事が少しでもあれば、あの男は息をするように死の呪文を連発していた印象が強い。きっと、分霊箱の正体を知れば、入れ替わりの事実を知れば一瞬で殺してくれるに違いない。……そうなれば、今も尚己を苛む痛みの一切から脱却できるだろうか。

 でも、この選択は、駄目だ。

 ヴォルデモートが素直にハリーを解放してくれる保証はない。真実を知れば、怒りに我を失ってこちらと一緒にハリーを処刑してもおかしくはない。

 ならばこそ自分に許された選択肢は、全ての真実を抱えたまま身柄を差し出し、ハリーの存命を懇願するしかないのだ。

 

 『……………………』

 

 どうしてこうなったのだろう。

 少しの間立ち止まり、思案する。

 そもそもの話として。

 どうしてこの世界に放り込まれたのか。どうしてこんな存在にさせられたのか。

 犯人や原因があったとして、それは今問題ではない。

 問題なのは、禁じられた森で起こった襲撃の際、自分が『今の名前』を心から受け入れてしまったという事。

 今となってははっきりと理解している。もう、()()()()という単純な事実を。

 ここまで受け入れてしまったのだ。自分にはもう、この器として生きていくしか道はない。

 

 『……馬鹿だなぁ』

 

 口から漏れるのは溜息と自虐だけ。

 薄々、名前を受け入れる事のリスクは察していた。

 名前は魂を縛る。本来の名前を忘れ、別人の名前を受け入れるという事は、別人の肉体、別人の器に自分の魂を縛り付けられる―――つまりは収容されるという事だ。他人の体に完全に閉じ込められてしまうのだ。

 それは、元の自分の肉体を捨て本当の意味で他人に生まれ変わるという事を意味する。だからこそ、他人の体に宿る全ての能力が自分の物として扱えるようになるのだが、代償として二度とその体からは出られなくなる。魂が定着して離れられなくなる。

 霞の状態であるヴォルデモートは、自身を受け入れる者の肉体へ取り憑いては自由に離脱する事が可能なようだが、それは奴が取り憑いた者の名前や能力を受け入れる気が無いからこそできる芸当である。憑依した人間を最後には見限る心算でいるのだろう。クィレルに待っているのは逃れられない破滅だ。同情の余地もないのでどうでもいいが。

 

 別の名前を与えられても決して受け入れない事。

 力を受け入れる行為には代償が伴う事。

 

 リスクを忠告してくれていた人間が、元の世界で生きていた時点で確かにいたというのに、結局こうなるしかあの日はどうしようもなかった。この器に備わった能力や才能を当てにしなければ、魔法族としての人生経験などない自分には危難を乗り越えられなかった。

 彼らの忠告は、何の意味も無かった。

 ……いや、意味あるものとして忠告を活かせられなかったのは自分の失態だ。彼らは……何一つ悪くない。

 

 【一つ、良いかな】

 

 『……』

 

 唐突に声を掛けられたが、声色には悪意が感じられないので無言で肯定の意を示す。

 

 【あの日……禁じられた森で彼に命じられた時。君は勝手に動きまるで操られているようになってしまったが、あれは避けられないものだったと思うよ】

 

 クィレルの背中に傷を与えてから逃走を続行しようとした時の話だ。確かに服従の呪文などを使用された気配が微塵もないのに、あの時自分の体は勝手に動いてはされるがままだった。

 

 『避けられない、とは?』

 

 【こちらとて、全知全能という訳じゃない。だからこの話の内容が全て正解だと断言するつもりはないけどね。あの時の君は、君本来の名前を忘れたままだから起きた現象ではないかと考えていただろう。それは概ね合っているのではないか、という話だよ】

 

 『……概ね』

 

 【自分の名前を忘れている。だから器の本能に影響された、と。君はこの仮説を立てていた。こちらもそうではないかと思っていてね。長年この体の中で生き続けた上、本来の名前を取り戻さなかった君の魂が、『この体と名前こそが自分の器である』と誤った認識を固めてしまっている。だからあの夜、君の体は君の意志を裏切った……】

 

 それが本当の原因だとしたら、恐ろしい事ではある。

 服従の呪文をかけられた訳ではないのに体が勝手に動くだなんて、なんとふざけた仕様だろうか。これがゲームだったら絶対に許し難い致命的なバグだ。製作陣に延々とクレームを入れてやりたいぐらいの。バグなんて尻で壁をすり抜けて吹っ飛ぶとか無を取得するとか扉の前で波に乗ると謎の場所に行くとか、そういうので良いのに。

 

 『……で、何で今更その話を蒸し返したんだ?』

 

 このタイミングで何ヶ月も前の出来事の原因を究明するような会話をしてきたのは、どうしてなのだろう。意図が不明で思わず尋ねると、やはり悪意の感じられない声で相手は言った。

 

 【遅かれ早かれ君の魂は、君が望もうが望むまいが『その名前』を受け入れていたという話だ。……あの夜は、君がレシフォールドという下等生物のせいで止むを得ず『その名前』を受け入れたけれど、例えあのケダモノがいなくても時が経てば、君の魂は君の意志を無視して『その名前』を受け入れる羽目になっていた。それだけは確かだ】

 

 『…………』

 

 語られた内容と意味をじっくりと咀嚼して、やがて行き着いた一つの可能性が単純な疑問を己に齎した。

 

 『……えっ?何?……もしかして僕の事慰めてる?』

 

 【慰めというか。どの道君にとって、名前を受け入れる事は逃れられない軌条だったという話をね】

 

 『……』

 

 ……自分の意志で名前を受け入れてしまった後悔に苛まれている最中の人間に、実は避けられない出来事だったという話をするという事は。つまり「あの時の決断に対してお前に非はない」のだと、慰めるつもりがあったという事ではないのだろうか。

 いや、顔も見えない相手の心情なんて本当に解らない。今のは自分の見当違いな結論かもしれないのだが……。何せ、相手は他人を慮るような行為とは無縁の人間だ。他人の不幸を見て喜ぶタイプの人間だ。慰めだなんてそんなつもりは毛頭なかった、という可能性の方が高いだろう。

 

 『まあ、良いさ。今の話が合っていようが間違っていようが、考察を行うのは無益じゃない筈だから』

 

 【理解してくれて感謝するよ】

 

 『ああ、そう……』

 

 【……】

 

 駄目だ。胸の痛みでどうも集中できない。どうしても意識が逸れる。

 そもそも思考に耽る暇はあまりないのだ。優先すべきはハリー救出に力を注ぐ事。故に覇気の無い声で返事をすれば、相手は何を思ったのかまだ話を続けようとしてきた。

 

 【もう一つ良いかな】

 

 『最初に一つって言ったのにもう一つ加えようとするのは良くないと思う。自分の発言には責任を持つべきじゃない?』

 

 【そんなに目くじら立てなくてもいいじゃないか、これまで一緒にやってきた仲だろう?】

 

 『起きてきた出来事を全部安全地帯から眺めるだけだった人に、「一緒にやってきた仲」だとか言われたくない僕の心情を充分に推し量った後で発言しようか?』

 

 【―――じゃあ、『そういう仲』にさせておくれよ】

 

 『は?』

 

 真意不明な発言の後に、予想だにしない衝撃的な爆弾発言をぶちかまされた。

 

 

 

 

 【僕を、君の友人にさせてくれないだろうか?】

 

 

 

 

 ……何を言われたのか理解できない。

 いや、きっと自分の頭は理解を拒んだと思う。

 時間にして十秒くらい全身が凍り付いていたが、頭の中は問題なく活動していた。その活動によって、どうにかして爆弾発言の意味を理解……理解、しようと……

 

 ―――理解、できる訳ないだろう!!

 

 『ちょっと、待て』

 

 【待つよ】

 

 『……えっと、もう一回言ってみろ』

 

 【君と友人になりたい】

 

 『……理由は?』

 

 【僕がそうしたいからだけど】

 

 『いや「だけど」じゃなくて』

 

 【そうしたいからする、というのは普遍的な動機たりうると思うのだが】

 

 『そりゃ空腹だから食事を摂るとか、眠たいから寝室へ向かうとか、お前の理屈は理解できるけど……』

 

 いや、普通に意味が分からないのだが?

 何でこのタイミングとか、知り合いが誘拐されてるのに空気読めないのとか、そうする事で何の意味や利益があるのかとか、色々な疑念がふつふつと沸き上がって混乱してきた。

 ただでさえ頭の痛い命令に従わなければいけない状況下で、こいつは一体何を思ってこんな発言をぶちかましてきたのだろう。十割嫌がらせじゃないのか?まあ、嫌がらせされても文句は言えない態度を取り続けてきたから、これは絶対不可避の意趣返しかもしれないのだが。

 

 『ちなみに、僕がお前の要求を呑む筋合いはないよな?』

 

 【そうだね。だから、友人になってくれると言うのなら協力するよ】

 

 『協力、だ?』

 

 【今までも要所要所で君に必要な情報をあげてきたけど、それでも最低限だった。君の思考の邪魔にならないようにしていたのもあるけどね。でも、友人関係なら話は別だろう?】

 

 『何がどう別になるんだよ』

 

 【友人を助けるのは『常識』だ。僕と友人になってくれるなら、全面的に協力しよう。どれほどの時間が経とうとも―――君が友人でいてくれる限り、この先何が立ちはだかろうと君に助力し続けると誓うよ。目下のところ、クィレリナス・クィレルへの対処が必要だろう?】

 

 多分、今、「こいつの要求通りに友人になりますか?」とアンケートを作って街頭調査したところで、「はい」と答える人間は少数だと思う。詐欺師の指定した口座にのこのことお金を振り込むのと同レベルの愚行。

 たまにテレビで報道されていた、詐欺により相手にお金を振り込んでしまったという被害のケース。あれは本当にどうして発生するのか常々疑問だったが、こういった場面で友人になってしまうような人間が世界にはそれなりの数存在するという事なのだろうか。

 

 『え、普通に嫌なんだけど?』

 

 【どうして?】

 

 『極めて冷静な「どうして?」をありがとう。嫌なものは嫌でしかないし、これ以上説明のしようがないんだけどね。取り敢えず、信用できない相手と友人になるほど僕は愚かではないという最低限の事実をお前は理解すべきだと思う、うん。そんなに理解が難しい内容ではないよね、うん』

 

 どうしてくれるんだ。あまりにも他意がなさそうにどうしてと聞かれるものだから、つい低学年の子供にも分かってもらえるよう言い聞かせる教師みたいな口調になってしまったではないか。

 

 【今の君には、この状況を打開する為の協力者が必要不可欠だと思うのだけど】

 

 『お前も僕を脅すつもりか?』

 

 【脅しだなんて。友人になろうとしている相手にそんな加害を企む訳がないじゃないか。これまで以上に君の力になるという提案をしているだけさ】

 

 『…………いや、なんていうか……』

 

 【そんなに信用できない?今までだって、僕が君の邪魔をした事はなかったじゃないか】

 

 その言葉に嘘偽りはない。

 根本的な話だが、こいつには肉体が無い故に、物理的にこちらの邪魔をするという行動は絶対に取れない。そして、こいつの齎す情報や知識が役立った瞬間は実際にある。しかし……

 

 『それは、僕に何かあったらお前も道連れになるからだろ。邪魔をせず、協力するという選択しかなかったからそうしていただけじゃないか』

 

 【それもある。でも、だからといって君への助力が全て打算のみだったという事になる訳ではないだろう?】

 

 『お前は打算だらけの人間じゃないか。自分のしてきた事にちゃんと目を向けてみろ』

 

 【酷いなぁ。君は一回でも罪を犯した人間がいたら、そいつが死ぬまで疑い続けるのかい?】

 

 『僕が誰を信用して誰を疑うかは僕の自由だ』

 

 【……どうしても信じてくれないのかな】

 

 逆に、どうして信じてくれると思ってるのか。自分がどんな人間かを考えたら、疑われるのは当然だと思わないのか?

 いや、しかしこいつは実績があったな。自分がどれだけ社会に適合していない問題児かの自覚があった為に、ホグワーツでは教師を欺き本性を隠し抜いたという実績が。それは並大抵の努力では完遂できなかった筈だ。問題児が優等生を演じるのは決して楽な仕事じゃない、それは想像できる。だからこそ―――

 

 『…………いや、だってさ』

 

 【何だい?】

 

 『―――だってお前、絶対裏切るじゃん……』

 

 隠す意味も無いので、容易に想像がつく未来を正直に述べた。

 こいつが行ってきた所業を知る者なら、全員が抱くであろう率直な感想。

 

 『お前、2クールくらい経ってから「楽しかったぜお前との友情ごっこ」とか言ってきそうなタイプじゃん』

 

 【何だか妙に具体的な裏切りの場面を想像されている】

 

 『それで、気持ち悪い顔芸晒しながらアヒャヒャとか笑ってそうなタイプじゃん』

 

 【そんな品の無い醜態を晒すと思うのかい、僕が?】

 

 『品の無い高笑いはよくやってただろ、僕相手にご本人が』

 

 【あれは彼が彼の意志でやった事であり僕は無実だ】

 

 『どうしても信じて欲しいって言うんなら、せめて指の骨全部自分で折るくらいの気概は見せてくれないと……』

 

 【ここに悪魔がいる】

 

 どっちが悪魔だ。優等生は学内で殺人事件なんか起こさないんだよ、たわけめ。

 こいつの本名、実はデーモンとかじゃないのか?こちらの国だと不可能だが、この国では子供に『悪魔(デーモン)』と名付けるのはできなくもないらしいし。

 ……本当にこいつ、何で生徒なんか殺したのだろう。被害者に家族を殺された訳でもなかろうに。あの少女が、マートルが殺したくなるほど憎悪を煽られるような生徒だったとでも言うのだろうか?

 百歩譲ってマグル生まれを排除したい気持ちはギリギリ理解できなくもないが、あの少女がこいつに何かをしたという訳ではないだろうに…‥。異常者の心情は想像もつかない。

 

 【それで、返事を聞きたいのだけど】

 

 『念の為確認するが、お前と友人になれば本当に協力を誓うんだよな?』

 

 【そうだとも。攫われたあの少年を助ける為の知識も、情報も、君に授けられるものなら惜しみなく提供しよう。勿論、今回の障害を突破した後も協力を約束するさ】

 

 普通に怪しい。その自覚は間違いなく向こうにもあるだろう。怪しまれるのは承知の上でこんな提案を申し出ているのは解る。

 目的は何だろうか。友人になった後で、油断させたところを裏切るとか?

 しかし、そんなお粗末な奸計をこいつが目論むとも思えない。

 怪しまれるのを理解した上でやっているのだ。見え透いた安易な裏切りなど働いたところで、こいつに何の実益があるのやら。こちらにとっても大した痛手じゃない。どうせ裏切ると分かっている相手に裏切られたところで、「ああそうですか……」としかならないし。

 

 『裏切りそうな奴と友人になるって……何の意味も無い気がするんだけど』

 

 【裏切りそうなんて、そういう固定観念や偏見は良くないと思うよ】

 

 『お前にだけは言われたくない!人の出自で差別するような選民思想に染まった人間にだけは言われたくない!』

 

 【差別ではない、選別さ。魔法族とマグルの選り分けと住み分けは大切だよ。互いのより良い暮らしの為にもね】

 

 『都合の良い言葉に変換する才能だけは凄まじい奴だな、きっと父親に似たんだろうな知らんけど』

 

 【そうかな、彼はどんな才能に恵まれているか知る前に死んじゃったけど】

 

 『こっ……こいつ……』

 

 おかしい。こいつにとって父親の存在はコンプレックスの塊だったんじゃないのか?

 いつの間にか話題に出されても平然としている。もしかして克服したのか……?何勝手に乗り越えてるんだよ、効果の見込める中傷の単語が一つ減ったじゃないか馬鹿。

 

 こいつの言う通り、ハリーを誘拐されている今の状況では、少しでも有用な協力者は必須だ。友人になると言ってしまえば全面的に協力を誓ってくれるらしい。その裏で本当は何を企んでいるのかこの場で問い詰めたところで、まあ絶対に吐露する事はないのだろうが。今この瞬間も、裏切るだろという話に対し、明確な返答を寄越さず曖昧にしたまま流しているし。

 ……簡単な話、嘘でもイエスの返事を与えて協力を約束させれば良い。

 しかし、どうしても駄目なのだ。

 頭の片隅に居座る自分の一部が、先程からずっとやめろと叫んでいるのだ。

 

 ―――例え自分が嘘のつもりでも、こいつと友人になってしまえば永遠に後悔するだろうと。

 

 裏切られるとか騙されるとかそういう次元の話ではなく。

 相手の思惑は一切関係ない。

 口約束でも、友人という関係を結んでしまえば最後。

 裏切られる事がなかったとしても、お前はいつか後悔の念により苦しみ続けるだろう、と。

 自分の一部が、強く、切実に訴えている。

 だが、全面的な協力を受けられるという話は決して見過ごせる訳でもなく。

 だって、今の自分を助けてくれる存在なんて、誰もいなかったのだから。

 

 『……、良いだろう』

 

 何とか声を絞り出した。気のせいだろうか、胸の痛みがどこか遠くに追いやられているようで、思考が邪魔されにくくなっていたのは幸いだった。

 じわりと到来する屈辱感を直視しないよう目を閉じたまま、人差し指をピンと立てて言い捨てた。

 

 『特別サービスだ。お前の詐欺に引っ掛かってやる』

 

 【詐欺だと決め付けるのはやめてほしいんだが……】

 

 『黙って話を聞け。お前、このタイミングでこの話を持ってきたのは完全に故意だろう?僕に判断する為の時間が不足している今の状況だからこそ、こんな話をしたんだ。……他人を騙して操るのに適している状況は、相手に考える時間が残されていないタイミングだ。誰だって時間的余裕のない局面で罠にかかるケースが多い』

 

 ……本当に邪智深い人間だ。相手に余裕がない隙を見逃さず仕留めにかかってくる。

 今の自分にはぐだぐだ悩んで判断を先延ばしにする猶予はない。そんな失態を犯してうっかり日が昇りでもしてみろ、さっくりハリーを殺されて終わるだけだ。裏切られる危険性とかを延々と考慮するのも心底面倒臭いので、ここらで決断を下す事にしたが普通に判断ミスだったと自分でも思う……。

 非常に癪だが、今回は絶妙なタイミングでこの話を持ち掛けてきた相手の完全勝利だ。

 

 『不本意だが今回は勝ちを譲ってやるよ』

 

 【別に勝敗を競っていた訳じゃないのに】

 

 『……お前と友人になってやる。これで満足か?』

 

 【ありがとう。君なら良い返事をくれると思っていた】

 

 『良い返事しかできなくなるような盤面が用意されるまで待っていたのはどこの誰だか』

 

 【まあまあ】

 

 ……ああ、クソッ。完全に、選択を間違えた。

 ずくり、と槍を刺されるような、物理的な痛みを孕むような後悔が荒波の如く押し寄せてくる。

 裏切ったな、と自分の一部が自分自身をぎろりと睨みつけている。

 

 そうだ。お前は裏切った。

 唯一従っていた自分の思考を裏切ったんだ。

 やめろと叫ぶ自分を裏切って、時間が無いからと言い訳を連ねて、誤った決断に身を任せて寝返った。

 自分で自分を裏切る薄情者。

 

 どうしようもなく沸き上がる自責の念が、ひたすらに攻撃の手を緩めてくれない。閉じた瞼の裏に、自分そっくりの影に四方から指差される光景が浮かんでくるようだ。

 すっかり気力を失い、罵倒の言葉すら出てこず肩を落としているこちらを知ってか知らずか、呑気な口振りで念を押された。

 

 【ただの口約束ではないからね。僕も協力を惜しまないから、君も友人になるという言葉を虚言にしないでくれよ】

 

 『言っておくが、誰かに裏切られるくらいなら、僕は先に裏切ってやるタイプだからな』

 

 【そんな悲しい結末は嫌だなぁ。君に裏切られないようにしっかり尽力しないとね】

 

 発言の全てが白々し過ぎて今すぐ友人を解消したくなった自分の感覚は、果たしておかしいのだろうか?と思っても、相談できる相手は残念ながらどこにもいない。

 そもそもこいつと友人になるくらいなら首を吊って死んでやるくらいの心構えで過ごしてきたのに、結局迎えた展開がこれだ。どうしても苛立ちを隠せず、額に青筋が浮き上がりそうな迫力を湛えながら吐き捨てる。

 

 『文句があるなら《破れぬ誓い》でも結ぶか?あ?』

 

 【その必要は無い。まあ、結び手もいないし、僕には肉体が無いからどの道無理な話だが……。魔法使いは発する言葉にも微弱ながら魔力が篭っているからね。口約束でも一応は簡素な『魔法契約』が成立するものなんだよ】

 

 『は?聞いてないんだが?おい、今すぐクーリングオフだ馬鹿野郎。さっきの話はナシだ!友人関係なんて破棄だ破棄!契約破棄!』

 

 【もう遅いよ。全てのケースで『魔法契約』が成立する訳ではないが、君の体であるその器は魔法使いとしての先天的な能力が非常に高い。おまけに、不完全だが実体化している今の君は剥き出しの濃厚な魔力の塊だ。故にそこらの有象無象と違って、言葉を交わすだけでも契約が成立しやすくなっている。ちょっとした特異体質……と言えるかな?】

 

 『要らん!そんな体質要らなさ過ぎる!おまッ……ほんとふざけるなよ……ッ!やっぱり詐欺だろこのやり口……!!』

 

 あ、なんかもう、こいつ相手に色々気にするの面倒になってきた。どうでもいいや。いちいちあれこれ反応して翻弄されるのは時間の無駄である。早々に諦めるのが肝心だ。

 『魔法契約』というのを破った場合、どんなペナルティが発生するのかとか気がかりではあるが、まあ《破れぬ誓い》ではないのだから死ぬ訳ではないだろう。本当に、気にしている時間が無さ過ぎるのだ。

 こいつのせいで思わぬ時間を食ってしまった。一刻も早く遅れを取り戻さなければ。とはいえ、『魔法契約』だなんて大袈裟な拘束力が生じてしまった以上、きちんと確認しておかないといけない事項が残っている。

 

 『……ところで、今更なんだが確認しておきたいんだけど』

 

 【確認?】

 

 『そもそも、友人ってどういう関係の事を指すんだ……?何をするのが友人なんだ?何を以てして友人と呼ぶんだ?』

 

 【……、そこから?】

 

 そこからと言われても、解らないものは解らない。

 会話をする仲が友人、という訳ではないだろう。それだと仕事先の上司や学校の教師も友人の分類に当て嵌まってしまう。ならば一緒にどこかへ遊びに行く仲が友人、だとしても、普通の人体を持っていない自分達には到底実現不可能な関係だ。

 

 じゃあ、自分達は互いに何をすれば友人と言えるのか?

 友人という単語が表す本質的な定義とは、何なのか?

 考えれば考えるほど解らなくなってしまう。

 

 【え……解らないまま約束していたのかい?君、本気で言ってる……?】

 

 『友人になろうとか言い出したのはお前だからな。お前ならどういう関係を指すか知っているんだろ……?』

 

 信じられない、といった声色で尋ねられるが、責められる謂れはない。誠に遺憾である。

 ……友人が何なのか、明確に理解できないくらい人生経験が浅くて悪かったな。

 

 『……僕に友人がいなかった事くらい、お前なら想像がついただろ』

 

 【……うん、まあ……。先は長いし、これから互いに知っていこうか?】

 

 いつもならべらべらと軽快に回る舌が、今回だけは具体的な説明を省くようにして有耶無耶な回答を叩き出してきた。

 ……何だよ、こいつも友人がどんなものかはっきりと説明できないのか。一体全体、何でそんな状態で関係を結ぼうという発想に至ったんだ。

 つまり、この状況はあれか?お互い、友人というものが何なのかちゃんとした答えを知らないまま、友人になる約束を交わしたという事か?

 ……馬鹿過ぎる。何だこれ、改めて文字にするととんだポンコツタッグじゃないか。末代までの恥だよ。ヴォルデモートに知られなくて良かったな、本当に。

 ……ヴォルデモートは友人なんか必要としていないだろうに、こいつが友人だのなんだの言い出してくる時点で、とんでもない異常が発生しているような気がするのだが……。面倒なのでこれ以上の思考は諦めよう。

 

 【そうそう。君と友人になった以上は協力しないとね。早速だが、君が前々から欲していた呪文を教えるよ】

 

 『僕が欲していた……?』

 

 【君は調べる余裕がないからと『知識』へのアクセスを後回しにしていた。今でも余裕はないだろう。だから僕が補ってあげるよ。取り敢えず、自身に向けて《ナムブラス・ドロリス》と唱えてみてくれないか】

 

 初めて聞く呪文だ。効果の説明はされなかったが、語感からなんとなくどんな呪文であるかの予想がついたので、疑う事なく杖を自分に向けて唱えてみた。

 

 『…… 《ナムブラス・ドロリス》』

 

 瞬間、杖先から淡く青みがかった銀色の光がゆっくりと溢れ出した。それは霧のように細かい粒子と化すと、肌を優しく撫でるような感触で全身に広がっていく。視界の端がほんの少しぼやけ、まるで頭から透明な面紗(ベール)を掛けられたかのように、世界の輪郭が薄く見えるようになる。

 同時に、胸の内側で身勝手に振る舞っていた痛みの脈動が、徐々に遠のいていく。完全に消え去った訳ではないが、押し当てられていた針の表面が削ぎ落とされ丸みを帯びるように、痛みの『性質』が柔らかく、楽になった。

 

 ……そう、これは紛れもなく、喉から手が出るほど欲しかった《鎮痛呪文》だ。

 

 『痛みが……。これは、麻酔のような……』

 

 【今の君にとっては、これ以上ないくらい便利だろう?……しかしまあ、効果が続いている間はしっかりと魔力を使うから、目くらまし術との併用は倍の速度で魔力が消費されていくという注意点は念頭に置いてくれ】

 

 『解っていたけどな。僕にとって有用な呪文は大体燃費が悪いって解っていたけどな!』

 

 やっぱりこの世界の魔法の法則全般、燃費の悪い分霊箱に厳しくない?

 見てろよ、絶対いつか自由に魔法をぶっ放せる日を実現してやるからな。

 

 『いやしかし助かった、感謝する。微妙に集中を削がれるから邪魔だったんだ、この痛み』

 

 【お褒めに預かり光栄だよ。では、『運び手』の元へ向かおうか】

 

 鎮痛呪文なんてものがちゃんと存在するのなら、もっと早く日記帳の中の『知識』をよく探っておけば良かった。

 ……療養期間中に何やってたんだって?そりゃ療養してるんだから、いちいち『知識』の中を物色するだなんて面倒な仕事に取り掛かる訳がないじゃないか。

 日記帳の中の『知識』の総量は、いくら実用的なものが詰まっていても、検索を投げ出して放棄したくなるくらいには恐ろしく膨大なのだから。

 本当に、これだけの『知識』を頭に詰め込むのにどれほどの努力と研鑽を培ってきたんだろうか、本人は……。

 勉強も努力も嫌いな自分には絶対に真似できまい。試験なんて授業の内容を記憶しているだけで点が取れる簡単なゲームだったし、それ以上の『知識』を求めて勉学に励む人間の気が知れない。努力を怠らなかった事実に関しては、凄い奴だなと素直に思わなくもない。

 

 『運び手』に指定された少年の元へ急ぐ。

 この世界に、この城にとっての部外者とも呼べる異邦人の自分にとって、歓迎されていないように感じる温度の無い廊下を駆ける。鬱陶しくてしょうがなかった痛みに悩まされる事なく移動できる事は、非常に喜ばしいものだ。陰鬱極まった苦悩を振り払ってでも友人関係を結んだ甲斐があったというものである。

 

 【あの教師までの道中で何が起こるか、も警戒しておかなくてはね。実際に体を動かすのは君だから、それに関しては頑張ってもらわないと】

 

 『僕に成果を求めるなら対価を払ってもらわないと。勿論受け付けは現金のみで』

 

 【そんな事言われても、僕には肉体もないし用意できる状態ではないよ】

 

 『魔法界にはグリンゴッツとかいう立派な銀行があるだろ。お前の金庫の鍵を寄越せ』

 

 【ここに悪魔がいる】

 

 どっちが悪魔だ、という突っ込みは面倒なので胸の内にしまっておく事にした。

 こんなポンコツタッグで現状をどうにかできるのか、という懸念もしまっておく事にした。

 

 ―――なるようになれ。

 

 『賢者の石』を起点にして始まったこの騒動が、どんな結末を迎える事になったとしても。

 大人しく受け入れようと覚悟を決め、廊下の端で出迎えた階段目掛け、勢いを殺す事なく一気に飛び降りた。

 

 

 

 




作中オリジナル呪文
《ナムブラス・ドロリス》(Numbulus Doloris)
⇒対象の痛覚を弱める鎮痛呪文。
詠唱者の技能と魔力消費量によっては痛みを完全に消したりできる。効果が持続している間は詠唱者の魔力が継続的に消費されるのでご利用は計画的に。
実は同居人君が空白の数ヶ月の間に新しく発明した呪文であり、主人公が日記帳の中を探っても決して発見する事はなかった、という裏事情がある。

物語の最初に「日記帳マルフォイ家滞在ルート」を選んだ場合、
問答無用でバッドエンドに至るのですが
いつかそのifルートを書きたいと思うけど
まず本編進めますはい。

あと二、三話で『賢者の石』編終われるかもしれない
かっ飛ばせ
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