転生したら分霊箱だった件   作:@ゆずぽん@

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どうしてか無限に文字が増えるので流石に前後編に分割しました
連続して後編も投稿していますので読後はそのまま次の話へどうぞ


Page 40 「絶望の味は蜜の如く(前編)」

 忍び込んだ空き教室の中、呪文を唱えた。

 

 『《パルチメントゥム》』

 

 空中に小さな長方形を描く形に杖を振り、その中心を軽く突くと、そこから羊皮紙が虚空からパッと広がって出現する。

 次に、左手の平に向けて切断呪文を放つ。パクリと口を開いた裂傷から、真っ黒なインクが次々と滲み出してくる。生み出した羊皮紙に近付けるようそのまま左腕を持ち上げた。

 滲み出すインクを操作する。幾筋もの細長い滝となって手の平から零れ落ちようとしていたインクが、重力に逆らって留まる。空中に浮かんだまま静止している羊皮紙の表面に、手の中で小さな丸い塊となっているインクの球を、滑らすように手首を横に捻って投げ付ける。

 パシャ、とインクの球をぶつけられ、悲惨な汚れ方をした羊皮紙が真っ黒に染まった。紙に染み込ませたインクを再び操作し、伝言を表す文字を浮かび上がらせる。余分に染み込んだインクを消滅させその部分を余白に戻し、真っ黒な文字だけを紙に残した。

 

 『日記帳の分霊箱……インクがいつでもどこでもほぼ無制限に使える、っていう点だけは便利だな……』

 

 何の役にも立たないゴミ能力かと一時期は思っていたが、いざこういう場面になると実に有り難い能力だった。紙さえ生み出せれば文字を書き込む事ができる。そいつをメッセージとして利用すれば特定の個人を呼び出す事も可、なのである。

 メッセージとして出来上がった羊皮紙を掴む。まだしっとりとしているインクを一瞬で乾燥させてから、鳩の形になるよう折り畳んでいく。魔法によって生み出した物質であれば問題無く触れられる。

 こうした折り紙なんて何年ぶりだろうか。小学生の頃、被災地への寄贈品として折り鶴を作らされた記憶が蘇る。実に下らない児戯であったが、完成した折り鶴を窓からパタパタと飛ばすのはそこそこ楽しかっ……いや、別にどうでもいい事だ。

 

 『待てよ……インクは確か高級品だった筈……。この能力で大量生産すればいくらか儲けが、』

 

 【君はすぐ現金の話に持っていくね。インクが高級品だったのは僕が生まれるよりも前の話だ。この時代で生産したところで大した儲けにはならないと思うよ】

 

 『お前!人の夢をすぐに壊すなよ!やっぱり肝心なところで使えない能力だ……』

 

 【……君にとって金銭にならない能力は全部役立たず判定なのか】

 

 『当たり前だろ。手を触れずに物を動かせても、動物を思い通りに操っても、嫌いな人間を拝徐できたとしても……』

 

 他人から金品を奪えるかもしれない。操った動物を見世物にして収益を得られるかもしれない。他人を消す事で入ってくるお金があるかもしれない。

 ……だが、この世界ならともかく。

 自分がかつて生きていたあの世界では、科学があまりにも発達し過ぎたあの世界では……

 

 (街中のどこにでもある監視カメラ……衛生写真……ドライブレコーダー……デジタルタトゥー……。まあ、魔法みたいな力で楽に金を搾取しようとしたって、絶対に誤魔化せないだろうな……)

 

 あの世界、あの時代に魔法使いとして君臨したとしても。

 能力を一切露見させず、安全に金を稼ぐ方法など存在しない。

 開き直って強盗のような犯罪者にでもなったところで、所詮人一人で社会からの制裁に抗える限界などたかが知れている。能力を危険視されて、軍や自衛隊が出動するほどの騒ぎに行き着いて、武装した彼らが本気を出したが最後。どんな魔法使いであっても、永遠に捕まらず自由を謳歌し続ける生活なんて、実現困難な筈だ。

 もしも戦闘機なんかで本格的に絨毯爆撃でもされたら、今の自分でも防ぎ切る自信はない。人間の―――マグルの軍事力を舐めてはいけないのだ。

 この世界のマグルならともかく、自分のいた世界は今よりもずっと未来の時間軸に存在する。この時代と違い、兵器も技術も遥かに洗練されている筈の、元いた世界のマグルと事を構えるのは実に愚かしい。

 

 危険視される結末を避け、比較的平穏な魔法の使い方で金を稼ごうとするならば。いっそ匿名性をかなぐり捨てて、超能力者だとか自称して表舞台に立ち己自身を見世物にでもすれば、興行収入のような形にできなくもないだろうが……。

 万が一そんな承認欲求に溺れた愚行を仕出かせば、本人の生活はどうなるか想像に難くない。あの世界で一度でも出回った写真や動画を、跡形も無く消す事は不可能だ。ガセネタでもフェイクでもない『本物』と理解されてしまったが最後、一生『普通』の生活を送れはしないだろう。そんな光景を一瞬でも思い浮かべるだけで恐ろしい。

 だからこそ……自分が元いた世界では、魔法力なんて目覚めたところで……。

 

 『鍛える価値も無い』

 

 精々、誰も見ていないところでちょっとだけ生活を便利にしたり、暇潰しや退屈凌ぎに使用するぐらいしか、力の使い道なんて。

 一瞬だけ脳裏を過ぎる、疎らに白髪の混じった男の姿。重く、静かに響くアナウンサーの声。『倫理的、社会的な影響を考慮し、被験者の身柄確保及び保護を最優先に進めるべきではないかと―――』咄嗟に首を何度も横に振ってそれらを霧散させる。少し呼吸が乱れてしまったが、すぐさま整えて乱れを刹那の間だけに留めた。

 

 ……大丈夫だ。何一つ問題は無い。

 あの連中は……この世界にまで来れる筈が、ないのだから。

 

 『……どこの世界でも夢が無いねぇ』

 

 はあ、と吐息を零し、折り畳んだ鳩に魔法をかけてふわりと飛ばした。ひとりでに羽ばたき始めた紙の鳩は、魔法で僅かに開けた扉の隙間へ消えていった。同時に、開けた扉をしっかり閉じておく。

 紙飛行機の形の方が良かったかと考えたが、鳩は昔から伝書の役割を与えられた動物として有名だ。このままで構わないだろう。

 

 さて、『運び手』の少年へ伝言は送り終えた。如何なる状況であっても無視できないような細工を施しているので、あの子供は必ずここへやってくるだろう。

 『運び手』を待っている時間を無駄に浪費するつもりはない。時は金なり。やれる手段は全て試しておく。全てに於いて不利な盤面を押し付けられている現状の打破には、重要となる抵抗。

 

 『……空いた時間は最大限活用する。これより、クィリナス・クィレルとの間に生じた繋がりを辿って、ヴォルデモートの精神への侵入を試みる。不測の事態が起きたらお前も協力しろ』

 

 【まさか、こんな日が来るなんて思いもしなかった。……誰かの精神に直接入り込むなんて初めてじゃないか?それも、彼に対してだなんて】

 

 『そりゃ今まで必要無かったからな。他人の精神に入りたいなんて思った事も無い。折角備わっている能力には悪いと思うが、こんな力を使った日にはハリーを弱らせるだけだ』

 

 やろうと思えば、分霊箱としての能力を用いて、心に隙のある他人の精神を好きにする事自体はできる。しかし自分には必要の無い事。

 必要は無い。だが、相手がヴォルデモートなら話は別だ。

 奴が、どうして『秘密の部屋』に関する使命を無視してまで日記帳を取り戻したがっているのか。日記帳をいざ取り戻したあとは、一体何を企んでいるのか。日記帳の分霊箱に何をさせようとしているのか。

 ずっと不可解な謎を解明できれば、何かしら優位性を獲得できるかもしれない。それに何を考えているのか、その精神に侵入し探り当てる事ができたなら大収穫だ。今から対策を取れる可能性だってある。

 

 物語で、ハリーがヴォルデモートの思考を垣間見ていたのと同じように。

 クィレルとの繋がりを利用して、彼に憑依しているヴォルデモートの思考を覗く。今から行うのは、少々特殊な開心術である。

 開心術の技術が乏しかった物語のハリーでも成せた業だ。ぶっつけ本番の自分にだってできる筈。お手本を知っているというのは実に便利だ。最早出会う事のない別人のハリーへ感謝を捧げておこう。

 

 『……始める』

 

 【どうぞ】

 

 目を閉じ、意識を集中させる。

 ……あった。自分の胸から糸のように伸びるもの。際限なく、壁も床も無視して伸び続ける透明な糸。これこそが、『繋がり』。糸が伸びる終着点には、恐らくクィレルがいるのだろう。

 糸に、自分の意識を移す。不完全な実体化を果たしているこの体は置き去りにして、意識だけを糸へ。強力な目くらまし術をかけているので、一時的な抜け殻となっている体が他人に発見される可能性はまずない。

 糸に乗った意識が―――精神体とでも呼ぶべきか。精神体が、まるでジップラインのアトラクションのように糸の終着点へと滑り出した。徐々に高度が下がっていく感覚がするのは、クィレルが居座っている部屋が地下に位置するからだろうか。

 

 (……ッ。……辿り着いた―――入る―――!)

 

 直感で理解する。

 糸の終着点。ヴォルデモートが持つ精神への入口。

 中々の速度で滑り落ちていく勢いは、最早自分でも止められない。

 ―――墜ちる。下へ―――ひたすら下へ。精神体は崖上から海面へ飛び降りた自殺者のように、バチャリと全身がバラバラにでもなりそうな衝撃を伴って、乱暴な侵入を果たした。

 

 そこは、例えるなら緑と黒が混じり合った色合いの不気味な海中だった。360度どこを見回しても、どんよりとした薄暗いポイズングリーンの世界が広がっている。

 侵入を果たした途端、全身をぬるま湯に沈められたような重く生温い感覚が包み込む。肌に纏わりつくような不快感が精神の奥まで染み渡った。

 地面も重力も存在しない空間ではあったが、解放感や浮遊感といった心地良さとはまるで無縁だ。溺死しかけている不可視の人間が、こちらの胴体にしがみついて真下に引き摺り込もうとしているような、そんな気味の悪い引力を海底から感じる。

 

 うげ、と思わず顔を顰めそうになった。視界を埋め尽くす緑、緑、緑……。なんと酷い色をした海だろうか。

 スリザリンのシンボルカラーでもある緑だが、前の世界にいた時からあまり好きな色じゃない。どうしてか好きになれない色だった。それが何故なのか思い出そうとすると、いつも思考がぼんやりとしてきて最後にはどうでも良くなってしまうので、理由は自分でも不明のままなのだが。

 どうせなら同じ海でも、有名なナヴァイオ海岸で見られる鮮やかな紺碧。あんな雰囲気の青こそが自分にとって一番好みの色だ。

 

 ……父親似の顔が好きな筈の母が、珍しくお気に召していたかつての碧眼。

 彼女から唯一色濃く受け継いでいた身体的特徴。

 厄介な出血によって二度と戻らなかった紺碧。

 下らない感傷を振り払って、毒々しい海の底を真っ直ぐ見下ろした。

 

 海底の更に底の方。

 墨汁が沈殿したかのような近寄り難い真っ黒な渦潮が、圧倒的な存在感を放っていた。

 眺めているだけであの黒からどろりとした強い粘性を感じるのは、精神の所有者が抱いている執着心といった欲望が、視覚的に具現化しているからなのだろうか。

 天文学の教科書でよく描かれているような、渦巻銀河。あれを彷彿とさせる。とはいえ、宇宙の神秘性を感じさせる銀河の印象とは程遠い。あの渦には神秘なんて一つも有りはしない。ただの欲深い異常者の心を表しているだけだ。

 あそこがヴォルデモートの心の中枢である。あの渦の中心にまで到達できれば、奴が何を考え、どんな陰謀を企てているのか、全てが手に取るように解るはずだった。

 

 精神体を滑らせるように、ゆっくり深部へと降りていく。急いては事を仕損じるもの。阻むものが何一つ見当たらなくても、相手の心の深奥への侵攻は慎重に。

 物語でもハリーとヴォルデモートがそうだったように、互いの物理的な距離がどれだけ離れていようと、この繋がりの前では無意味だ。距離を無視した精神への侵入。今だけはどんなに浅ましくても勝ち誇りたかった。散々悩まされ苦しめられてきた相手への優位性を確立させるまで、あと一歩。

 

 だが次の瞬間、世界が変わった。

 黒い渦潮の底から、これまた同じく黒い縄のような蛇が無数に、ぬめつく液体状の影を引きながら飛び出してきた。それらは一匹一匹が人の腕と同じ太さで、獲物を求めぎらつく眼光を伴って、しゅるしゅると蠢いている。

 ……勿論、この世界に存在する獲物とは、たった一人しかいない。獲物が誰であるかを理解した瞬間、殆ど無意識にひゅ、と声にならない空気音が喉から漏れ出た。

 渦から飛び出した大量の蛇は両の眼で獲物を捕捉すると、一匹残らず一斉にこちら目掛けて迫ってきた。

 慌てて後退しようとしたが、遅かった。淀んだ海が一瞬で収縮し、全身にかかる水圧が増し逃亡を妨害してきた。動きが鈍った瞬間を見計らって、先頭を陣取っていた黒い蛇が一匹足首に、二匹目が左腕に、三匹目が上半身に絡みつく。

 

 『うぁ、ひっ……!?』

 

 引き千切る為両腕に命令を出そうとした瞬間。上半身に絡んできた一匹が、こちらの胸から首筋にかけて身体を伸ばし、頭を近付けてきたかと思うとペロリと裂けた舌を出して、首の側面を舐め上げた。ぞくりとした寒気のせいで、反射的に情けない悲鳴が上がる。

 必死に振り解こうとするが、接近する蛇は増える一方だ。絡み付いてきた蛇どもは例外なく舌をちろちろと伸ばして、肌を、ローブを執拗に舐っている。その行為に何の意味も無いだろうに、絶対にやめようとはしなかった。

 少しずつ、だが確実に重量を増し、沈み始める全身をどうにかしようと四肢を振り乱していた最中、笑い声が頭蓋の内側で響いた。

 

 【―――ようこそ、俺様の精神へ】

 

 『ッ!?』

 

 響いた言葉は歓迎というよりも、獲物を目前にした獣の愉悦が滲んでいる。間違いなくヴォルデモート本人の声だった。

 

 『お前―――ッ、心の中ですら、迎え撃つ準備を……!?』

 

 【迎撃というよりも罠と呼ぶ方が近いな。繋がりの利用―――俺様にできた事がお前にもできないと断定する訳がなかろう?】

 

言葉を失った唇からがぼ、と音を立てて泡と空気が同時に漏れた。全身が強ばった隙に顔面にまで巻き付いてきた個体が口を塞いでしまう。

 奴は、この繋がりが構築された時からこうなる事を想定していたのだ。繋がりを利用して精神に侵入される事態を。だからこそ自分の精神の中に予め罠を張っていた。のこのこと訪問してきたこちらの精神体を逆に拘束し、小賢しい策略や抵抗を潰す為に。

 今の奴は肉体を失ってから十年以上も過ごしてきた、精神体の玄人、とも言える生物だ。例え肉体が無くとも、心の弱い人間に憑依したり操ったりといった、「人間の精神を手玉に取る知識や技術」は、ハリーに敗れる前よりも洗練されている筈だ。

 この空間を完璧に支配している現状は、起こるべくして起こるものだったのだ。

 

 【お前の方からわざわざやって来るとは殊勝なものだな。そんなに俺様の内側を覗きたかったのか?仕方のない奴だ】

 

 『……んんッ!…………ッッッ!』

 

 思いつく限りの罵倒をぶつけてやろうと全力で藻掻く。しかし顔面に巻き付いている蛇を外そうとしたところで、両腕が疲弊するだけで何の成果も得られなかった。言葉を成さない呻き声しか上げられず、そしてその間も全身は下へ下へ沈み続ける。

 

 【はは、目を剥いて興奮する程喜ばしいものだったか。では望み通り好きなだけ此処に滞在すると良い。……ああ、どうせ現実の本体には何一つ損傷は起こらんのだ。折角なら、この場でお前を陵辱してみるのも悪くない余興か?】

 

 『―――ッ!?んん~~~……ッッッ!!』

 

 何をする気なのか想像もつかなかったが、精神の海全体を襲ってきた悴みそうな寒気が全身を苛んでばたばたと暴れる。寒い。さっきまでぬるま湯だった空間が手の平を返して牙を剥いた。

 拘束されている状況で味わう凍えるような寒さは、前にレシフォールドに消化されそうになった時と酷似していた。地獄同然の記憶が蘇り危うくパニックになりかけたが、冷静さをどうにか掻き集めて戦慄を無理やり押し殺す。蛇どもが、そんな自分をまるで慰めるかのようにして、舌先で全身を撫で続けてくるのが鬱陶しくてしょうがなかった。

 

 【怖い顔をするな。元はと言えば今まで俺様に従わなかったお前に非があるだろう。此処でちょっとした懲罰を与えるのも所有者の務めではないか】

 

 『…………』

 

 気が付けば底の渦潮が大きく口を開け、自分を飲み込もうとしていた。

 精神の主に気取られず自らの意志であそこへ入り込むのと、ヴォルデモートが獲物を渦に引き摺り込むのでは、辿る結末は全く違うものになる。

 このまま渦潮に飲まれたが最後、自分に待っているのはヴォルデモートの思惑を露見させる、という当初の収穫ではない。相手の精神の中枢に連行されるという事は、こちらの精神が奴の支配下に置かれるのと等しい。

 

 【例え俺様の大事な所有物であるお前であっても、ここまで徹底して反抗の意思を示すのであれば、それなりの報いを受けてもらわねばならん。とはいえ磔の呪文を与えるよりも遥かに温情のある処分だ、大人しく受け入れろ】

 

 『―――舐めるな』

 

 一時的に魔力を纏わせた両手で顔面を覆う蛇の胴体を鷲掴みにして、全力で引き千切った。シャアアと悲鳴のような鳴き声を上げ、体が真っ二つになった蛇はボロボロと崩れて消えていく。

 続けて右手と左手を交互に動かし、上半身に絡み付く連中を一匹ずつ引き剥がす。魔力を使っているからか、呆気なく解かれていく蛇。

 こちとら腐っても分霊箱だ。生身を持たぬまま過ごしてきたという点では、ヴォルデモートと同じ。経験値では劣っていても、精神体で活動する際の地力は元々備わっている。所有者に取り憑き、その心を操る為に備えられた設計。

 

 拘束を解いたなら、やる事は一つ。逃げの一択だ。罠があるのならこれ以上此処に留まる理由などない。

 身を翻し、頭上に向かって両手を掻き、平泳ぎの要領で海面の方へ体を推進させた。まだ無事である蛇の一群が追随を始め出す。

 現実に帰るには繋がりを解除するしかない。そしてそれができる場所はヴォルデモートの精神世界、その入口のみ。あそこへ戻ってからでしか不可能だ。少しでも帰還を邪魔する為に、奴は海底に沈めようとしてきたのだろう。

 しかし、この時になって肝心な事実に気付いた。

 

 ―――自分は、泳ぐより走る方が得意だという事に、だ。

 だからこそ小さい頃は、祖父からしつこく「一人だけで川の近くに行くな」と言い付けられていたというのに!

 

 みるみるうちに蛇が距離を詰めてくる。

 ふざけないでいただきたい。そもそも、何で精神世界が海の姿を模しているんだ。

 心の海……確か、フロイトだったかユングだったかがそんな感じの例えをしていなかったか。あいつらのせいか?いや、そういう捉え方を広めていただけで、彼らが何をしなくとも、人の心とは元来こういう世界だったのかもしれない。

 しかし、あまり水泳に慣れていないこちらとしてはたまったものじゃない。本当にふざけるなよ。人間は陸の生き物だろうが、何で心の中が海になっているんだよ。こういう矛盾が内包している感じ、ヴォルデモートらしいと言えばらしい……のか……?

 

 (―――追いつかれる)

 

 落ち着け、絡み付かれてももう一度引き剥がすだけ。下手に動揺して泳ぎが乱れればいつまで経っても帰れない。

 と、泳ぎ続ける自分の横に並ぶようにして飛び出してきた影があった。今までの蛇とは違い、大木のような太さの黒大蛇だ。絡んできた訳ではない。大蛇の頭は丁度こちらの頭と同じ高さまで並ぶと動きを止め、じっとこちらを見つめてくる。

 

 (は?―――なんか大きくない?)

 

 思わず間抜けな感想を抱いてしまった。

 大蛇は噛み付くでも絡み付くでもなく、ただこちらの浮上に合わせてぴったり並んでくるだけ。

 えっと、普通に鬱陶しいな。見逃してくれる訳でもなく、大蛇は自分の頭がこちらの目線と同じになるような位置を保ち続けている。眼下でゆらゆらと悠長に揺れている胴体が微妙に苛つく。

 

 (……かといって何もできない。このまま海面を目指すしかやれる事が……)

 

 必死に海水を掻き分けてどうにか大蛇と距離を離そうと試みるも、全く変化は起きない。いつでも奇襲できる位置に並び続けられるというのは、想像以上に心が削られる感覚を齎した。

 

 ―――このままじゃ逃げられないのではないか。

 

 そんな絶望がじわじわと忍び寄ってくる。沸き立つ焦燥が、意識していなかった疲労感を呼び起こす。それに競り負けて、一瞬だけ疲れた腕から力を抜いた。そしてその隙を待っていたかの如く、大蛇は満を持して動いた。

 グバっと大口を開けたかと思うと、大蛇はそのままこちらへ向かって飛びかかってきた。―――避けられない。

 脱力し、両腕が不揃いの高さに上がった万歳のような格好で、為す術もなく丸呑みにされた。

 

 『なん、だ―――これ、』

 

 大蛇の腹の中。

 何も見えない暗闇の中、ジジッ……と、目の前がテレビの砂嵐のような光景に埋め尽くされる。

 状況を把握する暇も無く、全身はスノーノイズの奔流へと否応なしに呑み込まれていった。

 

 

 

 

 「―――おやおや。辛気臭い孤児が辛気臭い面晒しちゃってるねぇ」

 

 生意気な素振りを隠そうともしない嘲りが聞こえる。

 気が付けば、少し離れた所に二人の子供が見える。昭和時代のレトロテレビの画面を思わせる、色の抜け落ちたモノクロの世界に、見知らぬ子供が二人きり。

 今し方発された声は、色の無いベンチに腰掛けて本を読んでいた少年に向けたもののようだ。そして傍らに立つ声の主もまた、読書中の少年と殆ど変わらない年頃の少年だった。

 モノクロの世界であるが故、容姿による見分けが困難でややこしい。一つだけはっきりと判明しているのは、二人共まるで鴉の如き濡羽色の髪であるという点のみ。

 判別の材料に容姿を基準にするのは諦めて、服装に注目すれば見分けがつかない事もない。声を掛けている少年の方は新品同然の黒いジャケットを羽織っており、ベンチの少年はあちこちが擦り切れて痛んだ古着に身を包んでいる。家庭環境の違いがこれでもかと如実に表れている現状は、見ているだけで少々哀れになってくるものだ。

 

 「……お前、何で此処にいる」

 

 声を掛けてきた犯人へ向けられたベンチの少年の瞳が、一瞬だけ驚愕に染まる。しかし、すぐに幼さの残る外見とは似つかわしくない澄まし顔へと変わった。切り替えが早い。子供のくせに可愛げのない早熟を経てしまっているようだ。

 先程掛けられた言葉から推測するに、ベンチの彼は哀れな事に孤児らしい。それにしては孤児にありがちな品位の無さや知性の無さ、育ちの悪さを感じさせないのは不思議だった。……家族が存在していても育ちの悪い人間は幾らでもいるので、よくよく考えればそれほど不思議でもないのだろうが。

 

 「別に、ボクが何処で何をしていようがボクの自由だと思うけど」

 

 人を馬鹿にしたような舐め腐った言動の少年には、どこか既視感を覚える。なんとなく嫌な予感と、不快感がふつふつと沸き上がってくるのはどうしてだろう。

 

 「動き回ってないと退屈なんだよな。この辺は大体観光し終わっちゃったし。何か暇潰せそうな場所知らない?」

 

 「……何故僕に聞くんだ」

 

 「だって君、この辺の事なら何でも知ってますみたいな顔してるじゃないか。自分の足と身をもって知ってるんだろ?いつもロンドンを独りで出歩いてる」

 

 「そんな事を喋った記憶は無い」

 

 「喋らなくても分かっちゃうんだなぁこれが」

 

 「……」

 

 「ボクに隠し事したいなら、仮面でも被る事だね。それかいっそ、酷い火傷でもして顔面をぐちゃぐちゃにするとか―――」

 

 そこで、少年はパンと両手を合わせて叩いた。パっと花開くような腹立たしい笑顔で言い放つ。

 

 「―――ああ、君には無理か!だって死ぬの怖がってるから、致命傷とか絶対避けるもんね」

 

 ギリギリと、本を持つ少年の両手の力が増して、開いているページに見事な皺が作られてしまっている。あれは確実に内心でブチ切れているに違いない。見ているだけの自分でさえ、今すぐにあの糞餓鬼の首根っこを掴んで引き摺り回したい衝動に駆られる。それほどまでに癪に障る態度だった。

 

 「……失せろ」

 

 一瞬の間に数多の罵詈雑言を思い浮かべていたようだが、それらを全て押し殺して、この場を立ち去れという言葉だけ絞り出した。ベンチの少年は素晴らしい自制心を秘めていたようだ。

 しかしわざとらしく小首を傾げた糞餓鬼は、その命令を無視した。

 

 「そう怒るなよ。事実を言っているだけなのにみんな同じ反応をする。理解に苦しむね。何も間違った事を言ってないのに、一体ボクのどこが悪いんだか」

 

 怒られる理由が思い当たらない純粋無垢な子供の演技をしながら愚痴を吐いていたが、何故か言葉の途中で僅かに本物の殺意をチラつかせていた。

 煩わしく思う他人への鬱憤を晴らしたいと願う、無責任で衝動的で身勝手な殺意。報道でしばしば語られるような、下劣な殺人犯の動機―――「誰でも良かった」。あれと全く同じ雰囲気を湛えていた。

 それに目敏く気付いたのか、ベンチの少年はぴくりと瞼を痙攣させて両脚の筋肉に緊張が走っている。生物に備わった、自らに死を与える可能性のあるものを避ける為の逃走本能。

 だが、プライドが高いのか恥を晒すのが嫌なのか、それとも―――一瞬だけ顔を覗かせた殺意が行使される事はない、と結論を下しているのか。彼は、筋肉への命令を更新する事なく座り続けたままだった。

 

 「……お前、」

 

 ぱたん、と冷静に本を閉じながら、ベンチの少年は初めて視線だけではなく顔を向けた。一瞬の殺意を零した生意気な少年へ。

 

 「どうして、学校に来なかったんだ」

 

 「……」

 

 言葉の意味が理解できないとでも言いたげに、立っている少年は大袈裟に眉を顰める。

 

 「何の事だか。それに、ボクが何処で何をしようがボクの自由だとさっき言ったばかりだと思うなぁ。学校だって?そんなものに何の意味があるのかさっぱり」

 

 ベンチの少年は先程までとは打って変わって、真剣な表情で彼の顔を睨んでいた。嘘と真実、どちらを語っているのか鋭く探っているように見える。

 

 「あんな場所に通うより楽しい事の方が多いだろ。さては君、真面目ぶってるな?親も家も持ってないから、せめて学校じゃ自分の居場所だとか立場を確保しようとしてサボらず律儀に通ってるんだ。ご苦労様だね、本当に」

 

 「…………」

 

 「ま、そうだよねぇ。孤児が正当な評価を得られる場所なんて学校ぐらいしかないよねぇ。ああ、君の学力なら将来大物になって周りの奴らを見返せる可能性は大いにあるよ。頑張れ頑張れ」

 

 相変わらず少年は他人の心情を見透かしたかのような言動だ。それでいて馬鹿にする態度を絶対にやめようとはしない。逆に、ベンチの少年は途中から取り繕う事をやめたらしく、誰がどう見ても分かり易い殺意を全身から滾らせていた。

 

 「分かったような事を言うな。何も知らないくせに」

 

 「そうだな、別に孤児の苦労なんか知ったところで何の役にも立たないや。金持ちがご大層に隠してる金庫の暗証番号とかの方が、よっぽど役立つ情報だよ」

 

 そこで、初めてベンチの少年は立ち上がり、蛇のように素早く接近して生意気な少年の胸倉を掴んだ。突然上体が傾く感覚に、流石の彼もぐっ、と一度だけ呻いた。

 胸倉を掴んだ少年は、今にも一線を超えた行動を仕出かしそうな迫力の睥睨を放っている。

 

 「いい加減五月蝿いその口を閉じたらどうだ。いっその事永遠に。僕がしてやろうか?」

 

 「あれ、そうやって気に入らない奴には加害を仄めかすんだ?良いね、原始的で。でもボクは『他の方法』があると思うなぁ」

 

 胸倉を掴まれるという暴挙を目の当たりにしても尚、生意気な少年は動じない。

 その時、ふと理解できてしまった。

 

 ―――あの少年が飄々とどこか投げ遣りな気配を出しているのは、全てを馬鹿にしたような態度を取るのは、そうしないとやっていられないからだ。

 自分に用意された人生の舞台や、歩まなくてはいけない未来の軌条に意味を見い出せず。絶望し、それでも鬱屈とした日常から逃げる術を持たず、抱いた望みは悉く叶えられない。

 だからこそ、視界に入った他人を馬鹿にしなければ―――常に他人を見下さなければ、生きていけないのだ。「あんな他人より自分の方が余程マシである」と思い込まないと、付き纏う絶望に押し潰されそうになるからだ。

 

 ―――人間という生き物はね、自分よりも()()()()を見て安心しないと気が済まないんだ。

 

 『……う、ぁぁっ、』

 

 ズキリと頭が痛む。自然に声が漏れる。

 昔、誰かに言われた言葉が、頭蓋を切り裂くような痛みを以て、蘇る。

 

 そう、そうだ。

 他人が自分より『下』だと認識し続けていないと、そうやって安心していないと、駄目なんだ。

 だって、そうしないと―――狂ってしまいそうだったから。

 それ以外に、絶望を少しでも追い払う手段を知らなかったから。

 いつも付かず離れずの距離に引っ付いていた絶望を、どうすれば良いか分からなくて―――『もしこの発見が事実であるならば、人類史に残るパラダイムシフトと―――』脳裏にこびり付く音声を掻き消そうとして、駄々を捏ねる子供のように頭を振り乱した。

 

 『お、前。お前達は―――、』

 

 ……知っている。

 知っている、筈だ。

 自分は、この二人が何処の誰なのか……知っていた……筈、だ……。

 ―――でも、一体何処で、どうやって、知った……?

 

 行方知れずの記憶へ誘引されるように踏み出した足。だが世界はそれを許さぬと言わんばかりに、記憶へ辿り着けないよう足元に地雷を仕込んでいた。

 数歩もいかぬ内に、見計らったかのように襲来する頭痛が追憶を阻む。起爆した地雷が生み出す閃光の如く、刹那、明滅する光景。

 

 

 

 

 いつだって心に傷を負い、かといって決してそれを表に出す事はしなかった一人ぼっちの孤児。

 恐怖でこれでもかと顔を歪め、それでも尚罵声を止めようとしなかった三人の大人。ディナーの格好をしたままだ。構わず、執行人のように彼らの元へ歩みを進める誰かの背中。その誰かを興味深そうに眺めるだけで、動こうとせず止めようもとしない視界の主。

 慎ましい外観とは裏腹に、豪奢な内装の屋敷。テーブルに食事を並べる生き物と、それを緊迫した面持ちで見守る少年。

 誰も見当たらない無人の駅で客人を待つ列車。黒い革表紙の日記帳を、失くさぬようにとしっかりポケットにしまい込んだ。すぐ隣に青年が立っている。すらりとした長身の彼と一緒に、乗車口に足を踏み入れて―――

 

 肩をさする誰かが不安を滲ませて声を掛けてくる。意識が朦朧として薄目を開けるぐらいしかできない。

 少しだけ見えた景色は、困惑した顔色のまま何かを話し合う大人達。多くが駅員の格好をしている。その中で駅員ではない一人が目に付いた。見覚えのある血縁者の男で、他の駅員から黒い日記帳を渡されている。

 「この子の持ち物で間違いないですか」と尋ねられ、男は何故か凶器を目の当たりにしたかのような動揺と驚愕の表情を浮かべた。ただの日記に対する反応としては酷く不自然。

 「表紙の名前とこの子の名前が一致していないようですが」と聞かれて、男は瞳の色と同じくらい青くなった顔をどうにか取り繕って誤魔化した。「この子が起きたら、何処から持ってきたか確認してみます」……。

 気付けば男におぶられる格好になっており、彼の手にはあの日記帳が有った。それを眺めながら男が一つ、悩ましげに呟いた。

 

 ―――こんな忌物、一体どうして連れて来てしまったんだ。

 

 

 

 

 そこで全ては、眼球が焼かれそうなほどの真っ白に染まった。痛む両目と頭を片手でそれぞれ押さえる。重心が崩れてよろめく。地面に倒れまいと力を入れた足が、ふらふらと勝手に歩を進め、二人の少年の方へ意図せず近寄ってしまう。

 その時、二人の顔が同時にこちらを向いた。双子のようなシンクロした動き。びくりと僅かに肩が跳ねる。

 

 ―――気付かれた。

 あの二人は、単なる幻覚だとか映像だとか、干渉できない曖昧な存在じゃなかった。

 確実に、こちらを認識している。

 

 「―――ねえ、お前もそう思うだろう?」

 

 いつの間にか掴んでいた胸倉を放された少年が、こちらを真っ直ぐに見据えて声を掛けてくる。馬鹿にされていた方の少年は、感情の抜け落ちた表情で視線を向けてくるだけだった。彼は何一つ声を上げない。

 

 『何、を、』

 

 「『他の方法』があった筈だ。こんな愚行に取り憑かれなくても、何かできた筈なんだ。他人を馬鹿にする暇があったら、何かできた筈なのに」

 

 どくどくという脈動が耳元で絶えない。心臓を失って久しい分霊箱の体なのに、その音がしっかりと聞こえてくる。心臓が真っ二つに引き裂かれて、両耳に一つずつ移動したのかとさえ思った。

 

 何だ、こいつらは。

 

 ヴォルデモートが仕掛けた罠?妙な体験をさせて、混乱させようとでもいうのだろうか?

 いや違う。あいつならこんな、意図の伝わり難い幻など作らない。もっと……分かり易く人を狂わせたり、絶望させるようなものにしている筈だ。

 これは、あいつが意図して見せているものじゃない……。

 

 「どうしてこんな行動しかできなかった?どうして同じ絶望を持つ人間を理解しようとしなかった?少しでも解り合おうとしていたなら、お前が今此処に立っている筈は無かったかもしれないのに」

 

 何かを尋ねられている。何かを責められている。

 少年に何を言われても、答える事ができなかった。

 

 「―――ねえ、そろそろ、ボクの名前―――思い出してくれた?」

 

 唐突に、少年が言った。

 何を考えているのか読めない、曖昧で面妖な表情で。

 そこに漲っている感情は、期待か諦観か。どちらとも取れるし、どちらとも取れなかった。

 対して自分はひくり、と喉の奥が震えるだけで、その質問にやはり返答を出せないまま。

 呆然と突っ立っていると、しばらくして少年は失望の篭った溜息を吐き出した。

 

 「……そっか。じゃあ、もう()()()()()()お前の『道』は無いみたいだね」

 

 次の瞬間。

 ぐにゃり、と。ベンチに座っていた方の少年が、散々馬鹿にされ続けていた孤児の少年の全身が、崩れた。具体的には肉体が捩れ、変形し、ぐにゃぐにゃと気味の悪い崩壊を繰り返し、やがて漆黒に輝く鱗を持つ大蛇へと姿を変えた。アナコンダぐらいの巨大な蛇だ。

 突然起こった奇怪な現象に、逃走本能が正常に稼働した。ざりざりと素早く数歩後退して、疾走の準備を取る。

 少年はそうしたこちらの様子を見て、うんざりとした表情を浮かべた。伝わってくるのは、逃げるなと咎め非難する、声なき声。何も解らないフリをして無視する。

 彼は傍らの大蛇に顔を向けた後、首をこちらの方に振って獲物が誰であるかを無言で示した。直後鎌首をもたげ、恐ろしい速度でこちらに這いずってくる、少年だった大蛇。逃げる準備が整っていた体は問題無く動き出し、身を翻して走った。

 全力を出しているというのに、すぐ背後でズルズルと大蛇の動く音が聞こえてくる。引き離せない。互いの距離を把握しようと振り返りでもしたなら、間違いなく終わる。

 

 真っ直ぐ走り続けるしかなかったその時。

 突然数メートル前方の空間に、ぱきりと大きな蜘蛛の巣状の亀裂が入ったかと思うと、中心の部分だけが砕け大穴が口を開いた。大穴の向こうは緑光で満たされており、モノクロの世界に鮮明な色を齎し、異様な存在感を放っている。

 大穴の中からするりと人間の片手が差し出された。黒いローブの袖から覗くのは、傷一つない、健康的な皮膚で覆われている色白の手。

 

 【―――こっちだ】

 

 白磁器のような手の持ち主が、唯一の脱出口へと誘う。それ以外に道は無いと悟って、拒絶する事なく大穴へ直進した。

 走りながら右手を伸ばす。酷くあっさりと、伸ばした手は白い手に重なり合う。同時に、ぐいっと力強く大穴の向こうへ引き摺り込まれた。

 「あーあ」、と不満げながらも呑気な声が飛んでくる。掴まれている右手の事も忘れ、大穴の中で振り返ると驚く光景が広がっていた。

 先程自分を飲み込んでくれた黒い大蛇が、力なく目の前に横たわっている。直前にくぐり抜けた大穴は、その大蛇の腹の部分を突き破るようにして開いていた。つまり、自分は大蛇の体内から救出される形でモノクロの世界を抜け出したらしい。

 

 大穴の向こう。大蛇の腹の中。追ってきていた大蛇が、苛立たしげに大穴の入口へ闇雲な突進を繰り返していた。何故か大穴の入口は透明な壁のようなもので塞がれているらしく、大蛇はこちらへの侵入を果たせないようだった。

 大蛇の中に大蛇がいる―――なんとも奇妙でシュールな景色である。こんな状況だというのにマトリョーシカ人形を思い出した。

 大蛇の後ろ、少年が頭の後ろで両手を組みながら、呆れた表情でこちらを眺めていた。可哀想なものを見る目付きだった。

 あちらの世界はモノクロのままであるが故、少年の瞳の色が解らない。碧眼か?それとも―――臙脂色?

 

 「どうせ理解しようとしないくせに、そいつの手を取っちゃうんだ」

 

 『…………、理解、』

 

 「後悔するよ」

 

 少し離れた位置にいても、少年の声は通りが良く、はっきりとした言葉が聞こえてくる。

 

 「そうさ、お前はいつか必ず後悔する。そいつの手を取ってしまった事を」

 

 振り返っていた顔の向きを元に戻す。大穴の中、緑の光が満つる中、誰かが傍に立っていた。

 その誰かが、自分の右手を掴んでいる。圧力によって皮膚が白く変わるほどしっかりとした強さで。

 

 「―――そして、自分の方から手を差し出さなかった事もね」

 

 触れ合う互いの手から視線を上げ、傍らに立つ人間の顔を確認しようとした時。

 今いる空間の中、何も無い所からひゅるり、と無数の黒い蛇が現れ、四方八方から迫ってきた。

 ぎょっとして周囲を見回し、そして理解する。緑光だと思っていたのは、モノクロの世界に放り込まれる前にいたポイズングリーンの海だった。脱出など果たしていない。まだ、ヴォルデモートの精神世界の中でしかなかったのだ。

 

 【―――繋がりを断つんだ】

 

 狼狽を鎮めるような冷静な声が奏でられる。

 その間、蛇達は互いの身体を寄せ合い隙間を敷き詰めて、逃げ道を完全に潰していた。今や動いて逃げる事は不可能だった。

 

 【今ならできる。君の逃走は無駄じゃなかった。精神の『層』の中でもかなり浅い所まで辿り着いている。此処で解除するんだ、早く】

 

 その言葉に、相手の顔を確認する事も放棄して目を閉じた。意識を総動員させ、「戻る」という一点のみで思考を埋め尽くす。戻る……戻れ……

 蛇の大群が自分達を包み込む寸前、全身が「外」へ凄まじい勢いで跳躍していくのを感じた。

 

 【戻るか、それも良い。お前ができる抵抗は何も無くなっただろうからな、今回の件は無かった事にしてやろう。ヴォルデモート卿は慈悲深い。小僧には手を出さずにおいてやる。次に会うのは現実だ】

 

 空中に投げ飛ばされ、放り出されるような感覚の中。

 最後に耳に残ったのは、余裕げな態度のままこちらを嗤うような男の声だった。

 

 

 

 

 ―――孤児院に君がいてくれたらと思う事があった。

 君と僕は似ているようで全く違ったりして、絶対に解り合える訳がないと決め付けていた時もあったけどさ。

 実際、口喧嘩は絶えなかったし、君の方も決して歩み寄ろうとはしなかった。

 互いが互いを譲れなくて、意地を張って、下らない馴れ合いを嫌っていた。

 仮に君が傍にいても、僕の世界は不愉快で苛立つ機会が増えていたに違いないだろう。僕も認めるけどさ、君の方も大概腹立たしくて可愛げのない悪童だったしね。

 それでも、色褪せた絵本の中のような、あの灰色の檻が少しでも色付くものになってはいたと思うから。

 ……でも、君が安易に手を差し出すような同情の姿勢を見せなかったからこそ、僕は君への妄執に囚われていったんだろうね。

 ―――ねえ。君の方だって、同情とは言わなくても。

 僕の事を―――ほんの少しだけでも。

 理解しようとは、してくれていたんだろう?

 

 

 

 

 繋がりを辿る力を解除した瞬間、精神体はようやく現実の肉体に戻った。

 全身が汗だくになっている錯覚。偽りの呼吸で激しく上下する肩。指先が小刻みに震えている。それでも―――戻った。戻ってきたのだ。

 

 『……ミイラ取りがミイラになるところだった』

 

 自虐的な苦い笑いが、自然と零れ落ちた。同時に安堵の息も吐き出しておく。

 奴の目的を知ろうとした。なのに結局、何も掴めずに逃げ帰ってきた。奴もこちらの精神体を捕らえ損ねた。

 ……痛み分けか。互いに一歩も譲らず、ただ単に警戒心を刺激し合っただけだ。汗が滲んだ錯覚のする額を乱暴に拭い、唇を強く噛んだ。

 

 (―――あの光景)

 

 体験したばかりのそれを思い起こそうとすると、激しい頭痛が襲った。

 今までハリーの頭痛を他人事のように眺めていたけれど、今日この日からそうもできなくなった。成る程、思考力の要である頭が痛むというのは中々に辛いものがある。

 

 『痛ッ―――いや、何で』

 

 そういえば自分には鎮痛呪文が働いている筈だ。今この瞬間も、とくとくと流れ落ちる液体のように減り続けている魔力の感覚が、それを証明している。この鎮痛を貫通してくる頭痛は一体?

 

 『欠陥呪文……?』

 

 【手ずから教えてあげた呪文を批判しないでくれ。君のその頭痛、心当たりはないのかい】

 

 『心当たり?』

 

 【……魔法は万能ではない。意図して激痛を与えるような呪いの前では、鎮痛呪文も無力だ。完璧な鎮痛呪文なんて発明できたら、誰も闇の魔法使いの存在に困らない。《磔の呪文》のような強力で悪辣な『痛み』を弱めるなんて不可能なんだよ。ああいった呪いは、まず防げないからこそ《許されざる呪文》と呼ばれている面もある。その鎮痛呪文は、あくまでも自然的な痛み―――創傷や病気を起因とする痛みを弱めるだけ。呪いによる作為的な痛みはどうにもできない】

 

 『それは―――そう、か』

 

 【頭痛を起こす、そのような呪いを掛けられた記憶や心当たりは?】

 

 『いや……特に何もされてない筈、だが。そもそも精神世界では呪文なんて使えないし』

 

 【現実ではないからそれもそうなんだけどね……不可解だな】

 

 こいつの言う通りだ。非常に不可解な事に、あの光景―――ヴォルデモートの精神世界で見かけた少年達を思い出そうとした時にのみ、この頭痛は牙を剥くらしい。思考を無理やり遠ざけ目を逸らした瞬間、ふっと痛みの全ては消え失せる。

 思い出させないよう、何かしらの魔法的な力がこの体に働いている……。そう捉えれば納得はできる。自然な痛みではないからこそ、鎮痛呪文を貫通しているのだろう。では、魔法的な力とは一体何で、どういった仕組みで、誰が作用させているのか。そこまでは不明だ。

 

 (―――諦めよう。後回しだ。時間が無い)

 

 自分は、忘れてはいけない何かを忘れている。それだけは確かだ。

 しかし、今更でもある。この世界に放り込まれる前の記憶が存在しない時点で、幾つもの記憶が欠落してしまっているなんて今更な話。

 思い出そうとしたら頭痛に邪魔される。なら諦めるしかない。どうしても思い出さなくてはいけなくなったらその時に、頭痛の正体や引き起こしている原因を調べるなりするしかない。

 

 「運命を変える事を望むならば―――光と共に真実へ到る道を捜し出せ。その道へ誘う(いざな)鍵は、汝が廃忘せし片割れが握る―――」、ふと蘇る予言めいた言葉。

 廃忘せしとは……つまり、忘れているという事……。

 まさか……あの少年達が、自分の忘れている何かと関係、あったりするのだろうか。

 

 【君が飲み込まれた時はどうなる事かと思ったけれど、取り敢えずは無事なようで安心した】

 

 『……やっぱりお前が大蛇の腹に穴を開けたのか。スリザリンを象徴する生物なのに、随分と残酷な仕打ちをするな』

 

 【心外だな。君に協力すると誓ったから助けたのに。それに、あれは現実の生物ではないのだから手を掛けたとて何の問題も無い筈だよ】

 

 『……お前、見て―――ないのか?』

 

 【何をだい?僕はただ、君が脱出できない所に閉じ込められてしまったから腹を破いただけ。腹の中で何かあったと?】

 

 『何か、というか、まあ、混乱して幻覚でも見てたんだろ』

 

 心を閉ざして適当にはぐらかす。

 こいつが外からあの大蛇の腹を破いたというのなら、腹の中―――大穴の向こうに広がるモノクロ世界を目にしていてもおかしくはない。だが、嘘を言っていないと仮定し、言葉の通りに受け取るならば、こいつは何も見ていないらしい。

 ……こいつはあの時、自ら破いた大穴の中を見て、こちらの存在しか認識していなかったのだ。あの少年達の事を何も知らない。これが意味するものは、一体何なのだろう。

 

 前から薄々気付いていたが―――どうも、こいつと自分は全ての感覚を共有している訳ではないようだ。自分が体感している不可解な現象や錯覚に関しては、恐らくこいつには伝わっていない。

 正体不明の灰色の女に頼まれた願い事も、誰かに手を掴まれるような錯覚も、八方塞がりな状況で思わせぶりな言葉を残していった謎の声も、全て。こいつは、何一つ知らないまま。

 

 逆を言えば、こいつが味わっている感覚もまた、自分に伝わってはいない……?

 

 ふとした時に疑問に思っていた事。

 母の護りにより直接触れるだけで、ヴォルデモート本人やヴォルデモートの魂を宿らせている人間を容赦なく焼き尽くすハリー。しかし、一応はヴォルデモートの魂の欠片でもあるこちらに対してだけは、今まで護りの効果は発動しなかった。彼とは何度も触れ合っているけれど、痛くも何ともないのだ。

 本人ではなく魂の欠片でしかないから、護りの効果は発動していないのだろうと適当に考えていたが……。

 自分が平気であるだけで、自分と共に在るこいつの魂は……ハリーを護る魔法の力に焼かれているのではないのだろうか……?その度に、こいつは自分との共感(リンク)を断ち切っている、とか……。

 だとしたら、これは『有意義な発見』である。それとなく精神の蓋の一部を閉じて、情報の漏洩を防いでおく。

 

 『―――というか、聞いてないんだが?人の心の中に入ったら罠を張られてるなんて聞いてないんだが!』

 

 【……あれは流石に僕も初耳だよ。あんな芸当ができるなんて初めて知った。人の精神に侵入し操るならまだしも、侵入してきた相手を逆に支配下に置こうとするなんて】

 

 『……肉体が無い状態が長かったから、精神世界での立ち回りが巧みになったってところか。経験値の差が露骨に出たな』

 

 一応自分も、他人の精神を操る事に特化した性能を持つ分霊箱なのだが……。

 生憎と、その性能を発揮した経験は一度も無い。そんな性能を行使すれば持ち主であるハリーが衰弱するだけだし、使おうとすら考えた事が無い。結果、精神体で活動する場合の経験値は、ヴォルデモートに比べ圧倒的に劣る。

 自分の経験値を1とするなら、ヴォルデモートの経験値は30010ぐらいだ。スライムとメタルキングぐらいの差がある。こうして目に見える数値に表すと、とんでもなく虚しい気分になれるよ。

 

 まあ、そもそも魔法族としての経験値も勝てないのだがね。

 自分がこの世界にやって来た時、あいつは16歳だった。つまり、魔法族としての経験値は16年以上も差が離れているのだ。

 ……真っ当な勝負じゃ勝てる筈がないね。ここから入れる保険は無いそうです。解りきっていたけどさ、分霊箱に転生するって本当にクソゲー過ぎない?誰かやりたいなら代わってあげようか?

 

 『……これで打つ手無し。できる抵抗は全て終わった。めでたく僕に残された行動は、あいつの待つ場所まで向かうだけという訳だ』

 

 【…………】

 

 ―――そう。これで良い。

 罠を張られているのは完全に予想外だったが、結局は罠から逃げられたのだから良しとしよう。

 終わり良ければすべて良し。過程でどんなアクシデントに見舞われようと、最後に結果を出せた人間は評価されるべきである。

 これで、大まかな下準備は整った。

 

 【……君は、わざと……】

 

 『何か言いたい事でも?』

 

 【いや―――何でもないよ】

 

 『…………』

 

 そういえばこいつは、気を抜けばこちらの思考を読み取ってしまうのだったな。

 ……まあ、四六時中己の心を閉じ続けるというのも面倒なので、読まれても問題の無さそうな思考に関しては、ある程度垂れ流しにしてはいるが……。

 と、覚えのある足音と気配を感知した自身の体が、勝手に扉の方を向いた。同時に目くらまし術を解除しておく。

 

 『―――ああ、丁度良いタイミングだな。「運び手」君がご到着らしい』

 




作中オリジナル呪文
《パルチメントゥム》(Parchmentum)
⇒羊皮紙を生み出す呪文。
伝言、メモ用紙、ちょっとした契約書など用途は多岐に渡る。
作成量と持続時間は詠唱者の意思で変更可。

後編は同時投稿です
ここまで読み終えた方はそのまま次の話へどうぞ
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