今回のお話は現時点で一番最初も最初にあたるやつです、多分。
『賢者の石』編の更新じゃなくて申し訳ない。
Page37の更新もなるべく早く行えるよう頑張ります…。
「僕と一緒に来てくれる?」
項垂れる黒い背中に声を掛けた。
その少年は生きる希望を失ったかのようにぺたりと座り込み、ヒビだらけの地面に両の拳を叩き付けたせいか少量の血が飛び散っている。意地でも顔を上げまいとしているのか、その表情は先程から延々と伏せられて殆ど窺えない。
時折、ボソボソとした小声で「何故」とか「帰れない」といった独り言が聞こえてくる。その声色は酷く震え、そして掠れていて、彼がちゃんとした絶望の渦中に嵌まっているという事実を再認識できる有様だった。ただ、ありがちな鼻声ではない為少なくとも涙を流すまでには至っていないらしい。この状況で、随分と気丈なものである。
そういえば、昔から彼はこういう時、普通の人間のように惨めったらしく泣き出しはしなかった。むしろ、自分をそういう状況に追い込んだ原因に対して憤るタイプである。しかし今はその気力を滾らせる余裕は無いようで、こちらに声を張り上げて文句を捲し立てる、などという事もしてこない。
彼は、正しく絶望していた。
「我が君」、という声が隣からした。
わざわざ聞き返さなくても分かる。これ以上時間を与えるのは、思考する余地を与えるのは如何なものか、と言いたいのだろう。
彼もまた、我々と同じく狡猾な面を持っている。ああして絶望に打ちひしがれているフリを晒し、隠れて見えない表情の裏側で実は打開策を練っている、などという可能性は充分にあった。返事を待ち続けるのは得策ではないかもしれない。
だが、それでも。
あくまでも、彼の口からイエスかノーの解答が欲しかったのだ。
そこで、彼が初めて動いた。亡霊のようにゆらゆらと上体を動かし、座り込んだまま首だけを真横に傾けて、目だけで背後にいた我々の姿をまじまじと見つめてきた。
その両眼は光を宿していなかった。
その両眼は澱んだ血を垂らしていた。
その両眼はたった一つの激しい感情で漲っていた。
「―――殺してやる」
ぎり、と、充血しきって悲惨な見た目の彼の眼が睥睨と同時に細められた。
雑念を切り払うように乱暴な手付きでチャキ、と懐から取り出した鈍色の鋭利な何かを、己の胸に近付けて。
彼は、涙の代わりに暗い色の血を垂らし続けながら、吐き捨てた。
「―――殺してやる。お前が『欲しい物』を!!」
ぷつり、とその鈍色が彼の黒いジャケットに穴を穿って、その先の皮膚―――奥に潜む心臓さえ突き破ろうとした時。
判断の早い優秀な同志の一人が杖を振るい、無言の武装解除呪文を以てその鈍色の凶器を彼の両手から弾き飛ばした。少量の血液の球がいくつか空中を跳ねただけで、致命的な外傷は何一つ刻まれる事は無い。
彼は幼子のようないじらしさすら感じる、呆然とした表情を一瞬だけ晒して―――それさえ演技だったのだろうか。失った鈍色の方へは目もくれず、ダンッ、と素早く立ち上がっては跳躍し、瓦礫を軽々飛び越えて走り出した。冷静な同志達がその背中を失神呪文で狙い撃とうと、一斉に杖を構えたが手を上げてそれを制する。
「必要無い。どうせ無駄な事だ」
忠実な彼らは追撃を中断して、歩き出したこちらの後ろを大人しく付き従う。進行を阻害する邪魔な瓦礫を追い払い呪文で吹き飛ばし、優雅な足取りで彼の向かった方向へ歩いていく。予想通り、十秒も経たない内にそれは聞こえた。
「うあっ、ぐうぅ……ッ」
喘ぎにも近い苦悶の声。
歩いた先で目に入ってきたのは、瓦礫の中心。頭上から降ってきたであろう、発光する網に捕らえられた、哀れな獲物。
その華奢な全身は、電流を注ぎ続けられるかのように絶えず弱々しく痙攣しており、自由な動きができない様子だった。麻痺と網の二重の拘束。
何処に隠し持っていたのか、彼は先程と全く同じ鋭利な鈍色を、震える手付きで無意味にも網に押し当てている。しかしその網は僅かにしなるだけで何の変化も起きない。地面にピッタリと縫い付いた様に固定されており、彼の逃げ道を完全に潰していた。ただ黙って獲物に覆い被さって、その身柄をこちらへ献上してくれている。
彼はきっと、周囲に張り巡らされているその罠を、見抜く事自体は可能だった。だがこちらとて、罠を解除する時間をまんまと与えるつもりはない。そして余裕の無い彼は、目の前に罠があると理解していても走る足を止められなかったのだろう。その結果がこれだ。
……今更逃げようとしたって何の意味も無いのに。
それは彼自身よく分かっている筈なのに、やはり人間というものは、それでも自分が置かれた絶望を素直に享受できず、抗いたくなってしまうのだろう。それは生物の本能の一つである生存欲のようなものだろうか。
けれど、彼は確かに生きる為ではなく、逃げる為にその命を終わらせようとした。生物の本能に反した行いだ。……やはり、彼の思考回路はよく解らない。難解過ぎる。そこが彼の長所で、気に入っているところでもあるのだが。
「クソ……、クソッ……!!嫌、だ…………、嫌だ。こんなッ、とこ、ろ―――……」
こちらが興味深い眼差しで眺めている間、彼はしばらく網を壊そうともぞもぞ蠢いていたが、その健気な抵抗が実を結ぶ事は無く。やがて彼は泣き疲れた赤子のように、必死に起こしていた頭部をこてんと地面にぶつけて意識を失った。その寝顔は、瞼の隙間から血を垂らしている痛ましい様相に似つかわしくない、無垢なものだった。
無神経な一人の同志が彼の体を運ぼうとしていたので、魔法で軽く突き飛ばした。こちらに手間をかけさせるまいという行動なのだろうが、その気遣いは今無用だ。『自分の所有物』を、他人に触らせる趣味は無いのだから。
申し訳ございません、とこちらの意図をようやく察して頭を下げてくるそれを無視し、彼に近付く。用済みの網を杖のひと振りで消して、両手でぐったりとした体を抱き上げる。見た目通りに軽いその体は随分あっさりと持ち上がった。だらりと力無く垂れ下がった両の手首には、複数の痛々しい切り傷の跡が覗いている。
彼を示す特徴でもあるそれに一瞬迷ったが、『自分の所有物』に傷を残す趣味も無い。左右それぞれに杖を押し当て口の中だけで呪文を呟き、本来なら一生残る筈だった傷跡は綺麗さっぱり消え去った。
続いて伸びた前髪の裏に隠れ潜む額の裂傷にも杖を滑らせ―――そして、途中で下ろした。これは、確かこちらが刻んだものだったか。少しの間逡巡し、これだけはやはり残しておく事にした。消えない額の傷跡、なんとも感慨深い響きではないか?
「ああ、忘れていた」
ふと思い出して背後を振り返り、再び杖を振るう。
あちこちに降り注いでいた瓦礫の塊が一つ残らず浮かび上がり、積み重なり、凝集し、かつての姿形を取り戻していく。まるで時間の巻き戻し―――
此処は、こちらにとっても趣深い場所だ。そんな場所を、このままにしておく訳にもいかない。在るべき場所にまで送り届けてくれる出発点。だが結局、『欲しい物』の一つであった『在るべき場所に留まれる職業』だけは、手に入れられなかったけれど。
せめて、もう一つの『欲しい物』だけは確実に手に入れようと。
在るべき場所を、円満に離れたばかりのこの足で。
在るべき場所からの巣立ちを、祝福する式を後にしたばかりのこの足で。
此処へ、やって来たのだ。
念入りな準備と罠をこれでもかと施した甲斐もあってか、全てはこちらの望む結果を充分に齎してくれた。
手の平から伝わってくる温もりと重みが、今抱いている存在がゴーストでも亡者でもなく、確かに此処に実在しているのだという事実を、しっかりと伝えてくる。
そうして、傷の一つに至るまで完全に修復された
『欲しい物』をようやく手に入れた昏い悦びを伴って、我々は姿くらましを行った。
この全ての苦痛から救って欲しかった。
闇の色、溺れる前に。
「トム!遅れたのはあなただけよ。早く席につきなさい」
耳障りで甲高い鳴き声の横を通り過ぎて、最早慣れた座り心地の、ガタガタの椅子に腰掛ける。
僕の知る世界は、いつもこの食堂のように灰色だ。
壁は古い煉瓦でできていて、所々に細かなヒビが入り、雨漏りの跡が黒いシミのように広がっている。窓ガラスは埃っぽく、朝の光がぼんやりと差し込むだけだ。床は擦り切れたリノリウムで、足を踏みしめる度に軋む音がする。傷だらけの木製テーブルがずらりと並び、その周りに、痩せ細った体躯の子供たちが肩を寄せ合って座っている。みんな灰色のチュニックを着て、首筋に煤のような汚れがついている。まるで工場から吐き出された廃棄物みたいだ。
ロンドンのウール孤児院、こんな場所が僕の「家」だなんて?……笑い話にもならない。
親の顔なんて知らない。物心ついた頃からここで、毎朝の祈りと罰のルーチンに耐えてきた。他の連中―――このテーブルを囲む他の子供はそんな生活に慣れっこになって、ただ黙々とパンを齧るだけだ。
僕は違う。僕は特別だ。
この腐った檻の中で、ただ生き延びるんじゃない。
いつかこいつらを置き去りにして、外の世界を支配するんだ。
今日の朝食は、いつもの惨めなやつだ。
配給されたパンは一枚きりで、厚さは親指ほどもない。表面はパサパサに乾いて、噛むと口の中に埃みたいな粉が広がる。マーガリンを薄く塗っただけじゃ味なんてない。いや、味があるとすれば湿気とカビの臭いぐらいだろうか。栄養ではなくただの充填物。僕の胃は毎朝これで文句を言い続けている。脳の働きを維持するには、せめてミルクが必要なのに。
トレイに載せられた卵料理――スクランブルエッグのつもりらしいが、塊は黄身ではなく、殆ど白身の固まりだ。フォークで突つくと、ぽろりと小さな殻の欠片が落ちる。
……殻が入ってる。厨房のあの女、ミセス・ハリスの犯行だ。五十過ぎぐらいの、太った体にエプロンを巻いた無能。あいつ、卵をちゃんと割る手間すら惜しむのか。憂鬱な気分はたちまち倍増していく。こんなゴミを食わせて、僕たちを「育ててる」つもりか。
他の連中は気付きもしないで口に運んでいる―――例え気付いたとしても、声を上げる勇気もない臆病者どもだろうけど―――僕は違う。僕は見てるんだ。この無秩序を、全て。
怒りで震えそうになる手を諫め、静かにフォークを置く。ぎろりと厨房の方へ視線を移す。
ミセス・ハリスが、湯気の立つ鍋をかき回しながら、満足げに鼻歌を歌ってる。あの豚みたいな顔に、こんなミスを許す価値はない。
胸に、熱いものが込み上げる。ひたすら、睨み続ける。心の中で、ただ一言。
―――壊れろ。
その瞬間だった。ぴしっ、という乾いた音が響く。
ミセス・ハリスの後ろ髪を束ねていたリボンの紐が、突然千切れた。黒い布切れがふわりと床に落ちる。彼女の灰色の髪が、乱れて肩に落ちる。
気付いた子供達の一部が、一瞬ざわつく。
「おい、何だあれ?」
「風?」
「いや、窓閉まってる」
ミセス・ハリス自身が、びっくりして振り返る。
「あら、こんな時に……。まあ、年寄りの髪紐だもの、古かったのよ」
彼女は笑って誤魔化す。みんなもすぐに納得した。
まあ、そこまでおかしいことじゃないよね、なんて顔で互いを見合ったりしている。
……そうだとも、
この孤児院じゃ、こんな「不思議」は日常の端くれだ。僕自身、幼い頃からなんとなく感じていた―――この力。物が勝手に動いたり、誰かの心が変わったり。でも、正体は掴めない。「特別な何か」の一部である、という事以外は分からないままだったけれども。
だが、一つだけ突き刺さってくる視線を感じた。テーブルの隅で食事の手を止めているミセス・コール。僕の監視役。あの痩せた女は鋭く目を光らせて、いつも僕を睨んでくる。彼女は騒ぎを大きくしないよう、口を閉ざしたまま僕の方へ顔を向けていた。咎めるような、探るような視線。まるで、「またお前か」と心で怒鳴っているみたいだ。
昔から、この院で起きる奇怪な現象―――皿が割れたり、鍵が外れたり―――の犯人は僕だって、彼女だけは勘付いているらしかった。証拠なんて無い。でも今のあの目は、僕の秘密が理解できずとも裁こうとしているものだった。
視線を逸らし、表面上は従順にパンに齧り付くフリをした。同時に心の中で嘲笑う。
お前みたいな凡庸な女に、僕の力が分かってたまるものか。
いつか、全てを明かしてやるのだ。この力の正体を。
そして完全にコントロールして、こいつら全員を跪かせるんだ。
揺るぎない誓いを立てる英雄の如く、スープの中で揺蕩う豆へざくりとフォークを突き立てた。
食堂の惨めな朝食を終え、自由時間が訪れる。
他の連中は、いつものように外で騒ぎ立てるんだろう。下らない遊びで時間を潰す。僕には関係ない。馴染む気なんて毛頭ないし、あんな群れに混じるのは時間の無駄だ。
僕にとっては素晴らしい独りの時間だ。このロンドンの街を知り尽くした足で、孤児院を抜け出す。職員の目を盗むのは朝飯前であった。
地理は僕の武器だ。東部の路地裏、ドックスの倉庫街、霧の立ち込めるテムズ河畔まで、すべて頭の中に刻んである。
今日は朝から憂鬱が溜まりに溜まってる。混入した卵の殻、あの無能女の髪紐――僕の顔を睨み付けるミセス・コールの鬱陶しい視線が脳裏にこびり付いている。
……発散が必要だ。いつもの道じゃつまらないので、少し違う路地を歩いてみようとした。何か面白いものが見つかるかもしれない。事件の一つでも起きていたならば尚良いと、むくりと膨れる好奇心が駆り立てる。正義心なんてそんな下らないものじゃない。ただの、退屈しのぎだ。
狭い路地を進む。石畳は湿って滑り、両側の古い民家から下水に近い臭いが漂う。相も変わらずこの街は、陰鬱とした霧と煤で覆われている。馬車の残骸や捨てられた新聞が足元に散らばる中、ふと耳に声が届いた。
「誰か……助けて……」
息も絶え絶えな、か細い女性みたいな声。
路地の奥、物陰からだ。心臓が少し速くなる。
事件か? 誰かが刺されたとか、強盗の類だろうか?
だとしても、酷く面白そうだ。静かに声のする方へ足を進める。わざわざこれを見過ごすだなんて、自分の知的好奇心を裏切る行為だ、そうだろう?
ほんの数秒で曲がり角の向こうに辿り着く。助けを求める謎の声の主と、助けを求めさせた犯人の正体、全ての真実がそこにあった。
太くて長い大蛇の首根っこを、片手でぶら下げてる少年が薄暗い路地の中心に立っている。
鴉のような黒髪が風か何かで少々乱れていた。老若男女に好かれそうな形の良い童顔に、深海を思わせる瑠璃色の碧眼が収まっている。
彼は
身長はこちらより頭半分ほど高いので、一、二歳くらい年上だろうと思う。それでもなんとなく平均より低めな気がした。
少年に首の後ろを掴まれている蛇は傷一つないのに、酷く弱っていた。自由な胴体で抵抗して少年を締め付けるなんてできず、ただぶらりと力無く項垂れたまま、静かに揺れている。
「何だ、もう終わりか? もっと頑張ってみたら助かるかもしれないのに。ほら、頑張れ頑張れ!」
茶化すような軽い声が少年の唇から紡がれる。蛇の体がぴくりと微かに震えた。
あの声――助けてと囁いたのは、こいつか。僕は気付く。
前に孤児院の遠足で連れられた先で出会った蛇に、人間の言葉で話しかけられたことがあったのだ。あの言葉を聞くまで、蛇なんてただの爬虫類だと思っていた。でも、僕だけが言葉を理解できた。
あの出来事以来、知っているのだ。蛇の言葉が聞こえるのは、僕の力の一部であると。
生き物の生死なんて、どうでもいい。いざとなれば平気で殺す事だってできる。……でも、蛇だけは別だ。僕の特別さを証明する、唯一の生き証人みたいなものなのだ。
―――この現場を、見過ごせない。冷静に、声をかける事にした。
「何してるんだ」
少年が、こちらに気付く。いきなり声を掛けられたというのに、特に驚きもしない。ただただ冷淡に、蛇をぶらりと揺らしたままだ。荒れも傷の一つもない艶のある唇が短く動き、答えた。
「―――何? こいつ、君のものだった?」
改めて聞こえた少年の声に、思わずこちらの目元がぴくりと痙攣してしまった。彼は歌うように滑らかで、見事な発音だったのだ。こちらとはまるで違う、不愉快すら感じさせる完璧なクイーンズ・イングリッシュ。その内容は単なる質問。だが少年の態度は、こちらに全く興味が無いという感じだった。その辺に放棄されたゴミや道端の石ころを眺める目付き。
―――こいつ! 特別な僕に対して、なんという無礼な態度を取るのだろうか?
瞬間的に胸に怒りが込み上げる。僕を見下すなんて、絶対に許せない。許せないに決まっている。
だが、すぐには応えない。ここで泣き虫のエイミーみたいにみっともなく喚き散らす訳にはいかない。今はただ、先に感情を乱した方の負けだと解っていた。
返事が無いからか、少年が少し不機嫌そうに続ける。光のない暗い目で、嗤いながら。
「……君のものかって聞いてるんだけど、耳ついてる? もし聞こえてないならその両耳要らないよね、ボクが切り落としてやろうか? ははっ」
露骨な挑発だ。綺麗な顔立ちに似合わない、残虐な響き。蛇の首を握る手が、より強く締まっていく。蛇の囁きが、また聞こえた。
「痛い……ごめんなさい……。ただ、貴方に気付いて欲しかった、だけなの……。放して……」
それが聞こえているのか聞こえていないのか、僅かに蛇の顔へ首を傾けた少年の碧眼に、残酷な愉悦の色が浮かんだ。
とんだ狂人め―――だが、生き物を嬲るその姿は、最近兎を殺したこちらとどこか似ていた。……いや、違う。こんな奴と少しでも似ているだなんて?そんなのは馬鹿げているだろう。
怒りを必死に抑える。勝負の為だ。感情を爆発させたら、負けなのだ。なんとか声を絞り出す。
「……それは僕のじゃない。でも目障りだからその手を放せ」
少年が、はぁ? と端正な顔をこれでもかと顰める。他人の目を気にせず、信じられないものを見る目付きだった。
「君の所有物じゃないなら、こいつに何しようがボクの勝手だろ? そんな理屈も分からないのか君は? きっと教養もない、碌でもない親に育てられたんだな、可哀想に」
見下され、哀れまれ――そして、使用された「親」という単語。
沸点が、限界突破する寸前だった。
辛うじて抑えている最中、目の前の狂人は更なる爆弾を落としてきた。
「―――あぁ~、ボクとした事が、しょうもない間違いをするなんて恥ずかしい!ごめんね?そういえば、君―――親なんていなかったんだねぇ!」
「……!」
くすくすと控え目に、無駄に上品ぶって嗤う声が響く。両目に薄らと笑い涙さえ浮かべて、少年は悪党のように表情を歪めきって、もう一言。
「『父親』が迎えに来ないのはどうしようもないけど、『母親』が生きていればまだ真面な教育が受けられたのかもしれないのにねぇ!」
あっという間に全身の血液が急速に冷えていく感覚。頭の中は煮え立つ溶岩そのものだったが、頭以外の全てに雪崩が到来してきたような、冷たい怒りが吹雪き出した。
―――何故、この狂人はこちらが孤児だと分かった?
あの孤児院は子供達全員が同じ服装をしている。だから、孤児という事実自体を悟られるのはまだ分かる。
しかし、孤児である理由なんて人それぞれだ。親が死んだか、親が捨てたか、個人の事情など、孤児院の関係者以外に分かる筈もない。それに、こいつは普段からロンドンを歩き慣れている僕でさえ、明らかにこの辺で見かけた事がない部外者だった。
なのに、何故。
「『父親』が迎えに来ない事」を。
「『母親』は死んでいる事」を。
それぞれ正確に突き止められた?
どんなに推測や分析に長けた人間だろうが、まず知り得る筈のない情報を、どうやって―――。
いや、今、それはどうでもいい。
こいつは、確かに今、僕を侮辱しているのだ。
「ふざけるな!!」
ぐつぐつと吹きこぼれる寸前の鍋のようだった頭に、抑えきれない憤怒が投げ込まれた。最早、負けだとかなんとか気にしていられなかった。
自分を中心に空気が震え旋風を形作り、そこから産声を上げた鋭い風の刃が何枚も少年へ向かって飛んでいった。 路地のゴミが次々と舞い上がり、風に煽られた蛇の体が揺れた。
空気が裂けるような鋭い唸りを上げ、少年の全身をズタズタに引き裂かんと迫りゆく。僕の怒りが、その力を余計に増幅させているらしい。だが、奇妙な事に―――刃の勢いが、まるで誰かに無理やり削ぎ落とされるように、徐々に弱まっていった。全身を切り刻むはずの攻撃が、少年の額だけを狙う小さな刃に収束していく。
何だ、これは? 僕の力じゃない。別の何かが、僕の刃を抑え込んだのだ。沸き上がる困惑。僕の力が、僕の特別さが、誰かに操られてるなんて―――そんなのは有り得ない。
少年は目の前で起きる不可思議な現象を前に、逃げようともせず無表情で突っ立っている。風を受けてばさばさと揺れる前髪から見え隠れする碧眼が、ただじっとこちらを見つめている。その無感情な顔に、特別な力を目撃しても尚こちらに何の関心も抱かない有様に、怒りを更に掻き立てられた。
そして、次の瞬間――ばしり、と刃が少年の額をそこそこ深く切り裂いた。その反動で、平手で叩かれたように彼の顔が少し横を向いた。鮮やかな朱色が流れ落ち、血色の良い頬を伝う。絶対に痛い筈だろうに、少年は最初から最後まで悲鳴一つ上げなかった。驚くどころか、感心したように目を僅かに見開くだけ。まるで、今起きた全てを品定めしているみたいだった。
少年が、遅れて頬に流れる血に気付く。徐に動かした親指で血を掬い、やはり無表情のまま、ぺろりとそれを舐めた。……舐めた?
「……不味い」
不味い? 僕の力で傷付けられ、血を流して、最初に口にするのがそんな言葉なのか?
さっきまで孤児である僕を踏み躙り、侮辱した怨敵だった。だが、今目の前にいるのは、傷を負って最初に血の味を気にする狂人であった。
何なんだ、こいつは? 困惑が怒りを追い越す。
論理的に考えろ。こいつは、普通じゃない。ミセス・コールが目にすれば、間違いなく僕よりも異常だと判断して怒鳴り散らしていただろう。そして鞭で打っていたに違いない。
その時、少年の表情が、突然変わった。
「あ~~~~~~……」
何かを思案するように上目になり、こちらでも空でもない、どこか遠くを虚ろに見上げている。露骨にずらされた視線。それから数秒後、ゆっくりとその視線をこちらに落としてきた。
端正な顔立ち、深海のような碧眼。だが、僕には見える。他人の顔色を読み取る力―――貧しい孤児院で生き延びるために磨いた技術が、しかと教えてくれる。
―――あの眼光には、明確な殺意があった。
一秒にも満たない、ほんの一瞬の、しかし圧倒的な殺意。無言で相手を刺し貫くような、冷たく凍えた鋭い意志。ぞくりとした怖気が素早く項を這って消えていく。
―――こいつ!!
ほんの一瞬だけだとしても……確かに僕の事を、本気で殺そうとした!!
恐怖より怒りが先に立つ。
『死』―――それは許し難い概念だ。母の『死』によって、この惨めな孤児院生活は始まったのだ。例え子供同士だろうが、殺意を向けられるのは許せない。特別な僕を、僕の存在を、否定するなんて!
だが、本当にこちらへの関心が薄いようだ。そんな僕を無視して、少年は「あ」、と小さく声を上げた。
とろり、と傷を負ってない筈の彼の右目から、血が垂れ始めた。よく見ると、少年の青かった右の碧眼が、充血したように臙脂色に染まりかけている。眼球内の血管のどこかが千切れでもしたのだろうか。まるで化け物だ、気味が悪い。思わず顔を顰める。
「ん~……」
少年は殺意を滾らせる直前と変わらぬ呑気な声を出し、自然な仕草で右目を片手の甲で拭う。血は少量だったからか、すぐに消えた。そして、さっきの殺意が幻だったかのように、少年の態度は一変する。綺麗な顔に、急に元気がなくなったような影が差したのだ。
「……萎えた」
萎えた? 何だ、その言い草は?
彼の蛇を握っていた方の手が、雑に振りかぶった。べちゃり、と放り投げられた大蛇が石畳に落ちる。弱り切った蛇は、気力を振り絞って這いずり、路地の脇に溜まった汚水の溝に潜り込んで姿を消した。
少年を不審げに睨む。額から血を流したままだ。それが癖だというのか、精神病患者のようにどこかずれた目線で明後日の方向を見つめている。
何故急に蛇を解放した? さっきまでの冷酷な態度、殺意の篭った目はどこへ行ったんだ?
少年の碧眼――いや、右目だけ臙脂色に染まりかけた目は、今、妙に力が抜けたようにぼんやりしている。その姿は、疲労を滲ませて椅子に座る孤児院の職員を思い起こさせた。
額と片目からの出血で、貧血でも起こしたのだろうか。普通に考えれば、雰囲気が変化した理由はそうだろうが……。
しかし、と僕の直感が囁く。こいつは、ただ出血が原因で消極的になった訳じゃないのだろう、と。では一体、何が原因なのだろう。それに関してはよく分からなかった。
もしかして、あの時。僕の風の刃を、意図的に受けた―――?そんな馬鹿な考えが、頭を過ぎる。
こいつの行動は、計算ずくだったのかもしれない。ずっと無表情で、驚きもしなかった。挑発して、僕の力を、試した? いや、そんなわけ―――でも、さっきの風の刃が不自然に弱まったのは、僕の力じゃなかった。まさか、こいつが……?
ところが、少年は思考を巡らせる僕を完全に無視して、突然ジャケットのポケットからパンを取り出して、むしゃりと食べ始めた。見ただけで分かる――孤児院のあの薄っぺらい、埃みたいなパンとは比べ物にならない、ふわふわとした白いパンだ。表面はほんのり焼き色がつき、香ばしい匂いが路地の湿った空気を塗り替えるように漂い始める。
まさか、こんな状況で、こんなものを見せられるなんて?
さっきの惨めな朝食――パサパサのパンと殻入りの卵が脳裏に蘇る。そして、胃の中にまだ隙間がある事を改めて自覚してしまう。いつだって、孤児院の食事でお腹が一杯になるなんて経験は無かった。
……いや、こいつ、本当にイカれているのか?どんなにマイペースだとしたって、タイミングというものがあるだろう? 不思議な力で攻撃された直後に、人間は呑気にパンを齧れるものだろうか?
しかしそのパンは、とても美味そうで、高そうで――正直、目の前にいるのが狂人だということも一瞬忘れて、「食べたい」という本能が頭に浮かんでしまった。全てを喰らい飲み込もうとする憎悪も、逃げ遅れた者を囚え沈める津波の如き怒りも、生理的欲求の前では霞んでしまう。
……くそ、何でだ。こんなことで揺らぐだなんて。本能というのは、なんと力強く、衝動的で、煩わしいものであろうか。
少年の碧眼―――いや、右目だけ臙脂色に染まりかけた目が、僕の表情の変化を捉える。目敏い。まるで、こちらの心を覗き込むような視線だ。
「何? もしかしてこれ、食べたかったりする?」
もぐもぐと口を動かしながら、少年はパンをわざとらしく掲げ、挑発するように揺らしてみせた。
「さっきの蛇もさぁ、君みたいだったよ。お腹空いてたんだろうね。でもさぁ、人の物に手を出すのは良くない、そう思わない?」
その言葉に、ピンとくるものがあった。蛇があの時助けを求めたのは、こいつのパンを狙って返り討ちに遭ったからか? こいつが蛇を虐めていた理由は、そんな下らないもの?
でも、待てよ。おかしな話だ。蛇がパン? 生き餌やネズミじゃなく、人間のパンを欲しがるなんて? あの蛇はパンの匂いに惹かれただけで、食べる気はなかったんじゃないか? そんな余計な推測が次々と頭を過ぎっていく。
少年は更に続ける。
「不思議だよねぇ、蛇のくせにパンを欲しがるだなんてさ。前世は人間だったりするのかな? ……だとしても、ボクの物に手を出そうとするのは許さない」
前世? 人間? 何なのだその言い方は。
少年の口調は軽いけど、どこか確信めいた響きがある。まるで蛇の正体を薄々知ってるような。だがそんな些事より、こいつの態度が気に食わない。僕を舐め腐った態度。僕の特別さを、踏み躙るような物言い。
射殺したい視線で睨み続けていると、少年がにやりと笑う。
「じゃ、そこで三回回って、ワン!って鳴きなよ」
「は?」
思わず目を見開く。何だその意味不明な命令は。ワンだと? 犬の真似でもしろと?
少年は僕の困惑に気付き、まるで教養の無い愚か者に教えるように説明する。
「ボクの故郷で使われる言語表現。絶対服従の意思表明さ。ボクの物が欲しいなら、三回回ってワンって鳴け。そうしたらパンを分けてやらない事もないよ、見窄らしい孤児君。ちゃんと栄養取らないと、大きくなれないぞ?」
その言葉は、僕の地雷を完璧に踏み抜いた。
貧しい孤児だろうが何だろうが、プライドというものはある。
他人に従う? 冗談じゃない。
僕は媚びて貰う側じゃない――奪う側だ! 支配するのはこの僕だ!
絶えない怒りが沸騰する。ふざけるな、こんな奴の命令に従うなんて有り得ない!
意識的に、力を発動させる。手を触れず物を動かす力――特別な力の証だ。
少年の手からパンがふわりと抜け出し、宙を舞う。僕の手元に、勢い良く吸い寄せられるように飛んでくる。その動きがあまりにも速かったせいか、少年は一瞬反応が遅れていた。
「……へえ」
どこか納得したような声。悪意は感じない。むしろ、初めて好意的な―――いや、興味を引かれたような目。だが相変わらず余裕たっぷりだ。驚きもしない。
僕は見せ付けるようにパンへ豪快に食らいついてやった。サクサクの食感、濃厚なバターの風味―――最高だ。孤児院で味わってきたどの食べ物より、断然美味な代物だ。
「ざまあみろ」
ほら、どうだ。やっと意趣返しできた。得意げに少年を見やる。僕の勝ちだ。
孤児院じゃ、いつもこうだ。他の子供の玩具、ボール、ハーモニカ、ボロボロの絵本―――それらは別に欲しい訳じゃない。ただ、奪う事で僕が上なのだと、支配者なのだと証明するのだ。
戦利品は誇りである。このパンだってそう。僕の力で奪った、最高の戦利品だ。奪い返されない内にと、一息にパンの残りを口に詰め込んでごくりと飲み込んだ。
少年はそんな僕の表情を黙って眺める。向けられる側にとって気分が良いとは言えない、面白い観察対象を見つけたような研究者の目。そして小さく、聞こえるか聞こえないかくらいの声でぽつりと呟いた。
「随分とまあ、しょうもない戦利品なことで」
ぴしりと身体が硬直する。
聞き間違いか? こいつ、今、戦利品って言わなかったか? 僕の心を、読んだ? そんな馬鹿な。だが少年の目は、僕の内心を見透かしたようにじっと僕を捉えている。
気味が悪い。頭の中を覗かれたような心地で表情が固まる。こいつ、ただの狂人じゃない。何か、もっと重要な何かを隠している。
それに腹立たしい事だが、持っていた物を奪われたというのに、こいつは妙に平然としているのだ。手を出そうとしたらしき大蛇のことはしつこく甚振っていたくせに、実際に横奪を成し遂げた僕を加害する気は一切無いようだった。
少年の表情、態度、出で立ちから何となく察せる。……こいつは恵まれているから、『自分の物』を奪われようが失くそうが、代わりはいくらでも手に入るし、新しい物を容易に仕入れる事が可能な立場にいるのだ。だから、『自分の物』を奪われそうになったら不愉快にはなるが、いざ自分の手から奪われたら奪われたで、その事実に興味が失せてしまう性質なのだ。
良く言えば執着心が薄く切り替えが早い人間、悪く言えば諦めが早く抵抗が長続きしない人間。
……本当に、人の気も知らず腹立たしい奴だ。どうにかして捩じ伏せてやりたい。
「ねえ君、名前は?」
唐突に、少年が尋ねた。
さっきまで僕の事なんか興味も無かったくせに、急にこれだなんて馬鹿げている。答えるつもりは毛頭無かった。口を固く結んだままの顔を見て、少年は途端に表情が抜け落ちた。
「まあ、君の名前なんてボクにはどうでもいい事だ」
いや、いくらなんでも興味が失せる速度が速過ぎるだろう、どうなっているんだ、こいつの諦めの早さと思考回路。ある意味で羨ましいその思考速度は、逆に僕の方の不快感を煽り高めてくるものだった。
「……喋らなくても、分かってしまうんじゃないのか?」
「まあね。でも、
カマを掛けてやれば、少年は相手の思考を解明させる現象をあっさりと肯定した。説教する大人の真似でもしているのか、わざとらしい咳払いの後に偉そうな口調。どうにかしてその余裕ぶった態度を崩して隙を作らせようか思案する頭に、天啓のように閃く策があった。
「―――トム」
「え?」
「僕の名前だ。トム・リドル」
思った通り。大人しく質問の答えを提供してやれば、少年は不意を突かれたように目を丸くした。まさか僕が手の平を返して質疑に応じるとは思わなかったのだろう。予想外の展開に、少年のペースが少し崩れ出した。これでいい、あとは……
「―――縁起の良い名前だな」
ぴたり、と動こうとしていた足が止まった。少年の言葉が、聞き慣れない単語を含んでいたからだ。
縁起が良い名前、だって?冗談じゃない。こんな平凡な、有り触れた―――一体、どこが縁起の良い名前だって言うんだ?僕は有象無象とは違う特別な存在なのに、この名前はいつだって僕を凡庸な存在へと貶めてくる厄介な―――
「マーリンに祝福された子供の名前だ」
「マーリン……?」
その名前には聞き覚えがある。伝説の魔法使い、マーリン。この国で有名な架空の人物だ。
人間と、人間ならざる者との間に誕生した『混血児』。混血故に他の人間には無い特別な力を持ちながら、それでも自分自身が支配者となって君臨する選択を取らず、最後まで『従者』の身分に収まり続けた変わり者。この国でその名を知らぬ者はいない。
「知らないのか?魔法使いだよ、魔法使いマーリン。あいつの伝説って、この国発祥だろ?童話の一つにあるんだよ、マーリンの魔法とか祝福によって生まれた子供が、色んな冒険をするお話。それと同じ名前だ―――君は。童話の話だとしても、祝福が込められた名前なんだ。縁起が良いだろう?」
……初めて、そんな言葉を掛けられた。
いつでもどこでも、僕が名乗れば相手は決まって同じような顔をするのだ。
―――ああ、なんて覚え易い名前だろうと。なんてよくある名前だろうと。
そこに、例え僅かでも悪意が無かったとしたって、そんな表情をいつもいつも向けられるこちらとしては、心底忌まわしいのだ。まるで、僕は、お前は特別ではないと嘲笑ってくるようで。
けれども、目の前の狂人だけは生まれて初めて、有象無象とは違った反応と言葉を寄越してきた。
―――お前の名前は縁起が良いのだと、それは祝福された名前であるのだと。
そう語る少年の視線は、もうこちらを嘲るものではなくなっていた。何か大切な記憶に思いを馳せているかのような、暖かい何かを内包した視線。それを正面から見返した瞬間、ぎちりと心臓の辺りが引き攣れる音を聞いた。
「昔、絵本で読み聞かされた記憶がある―――確か、『親指トム』ってタイトルのお話だよ。
そこで、少年はしまった、とでも言うような表情をした。うっかり情報漏洩をやらかしたような、そんな感じの表情。その失態を誤魔化そうとでもしているのか、会話の途中だというのに余裕げな態度を崩し、咄嗟に踵を返した。
「……、……まあ、どうでも良い事だったな。こんな路地、何も面白くないし今日はもう帰るよ。さようなら。……精々物乞いでも頑張れば良いさ」
不自然な切り替えだ。何か知られたくない事情があるのか、彼の顔はもうこちらへ向けられはしない。そのまま早歩きで路地の奥へ立ち去ろうとしている。だがそれで良い。むしろ、当初の思惑通りの隙を晒してくれているのだから。
まだ、僕の溜飲は完全に下がっちゃいない。
憂さ晴らしが終わるまで、逃がすつもりなど微塵も無い!
散々侮辱してくれたお返しだ。無防備なあの背中に、もう一度攻撃をお見舞いしてやろうと思った。あの小綺麗な顔面やジャケットに傷の一つでも負って帰るがいい。
だが、相手を害する為に力を発動させようと意識を集中させた瞬間だった。
「―――ッ!?」
頭頂部にぞくりとした寒気を感じて、訳も分からずそれから逃れようと後方へ足を動かし、案の定バランスを崩して尻餅をつく羽目になった。そして、さっきまで僕が立っていた場所にびちゃりと落下してきた、象牙色の液体。辛うじて回避したその正体は、ツンと香る悪臭により嫌でも想像がつくものだった。
「あ~~~、残念!ノーコンだ!」
耳に慣れ親しんだ嗤い声。顔を上げれば、こちらを振り返った少年が眉根を歪めて口角を吊り上げている。次に頭上を見上げると、曇り空を横切る黒い影が視界の端に映った。恐らく、鴉か何かだったのだろう。
「他人が立ち去るまで大人しくできない悪い子には、罰が当たると思ってたんだけど……どうやら正解だったみたいだ」
「……、な、」
「そんなにおかしい事じゃないだろ。こんな街でも、野鳥なんて掃いて捨てる程生息してる。その糞が偶然、
まるで、
にやにやとした笑顔を片手で覆い隠しながら、今度こそ少年はこちらを見る事なく路地の奥へ姿を消した。僕は何かを言い返す事もやり返す事もできないまま、結局その後ろ姿を眺めるだけしかなくて。
―――あいつ、まさか、生き物を操った……?
タイミングの完璧な糞撃。背後からの奇襲すら予測した言葉。事前にあの鴉を操っていなければこんなの、不可能に決まっている……。
今日ここで起きた全ては、現時点であの少年の方が僕よりもよほど『特別』であるという事実を、如実に証明するものだった。
「―――…………ッ」
じわじわと、急激ではなく漸進的に昇ってくるものが、胸の内にあった。
しかし、今はどうにかそれを無視しなければならなかった。
もう少しで自由時間が終わる。それまでに孤児院の中に居なければ、待っているのは容赦ない仕置きだ。
胸中で暴れ狂うもののお陰でふうふうと荒くなる息を吐きつつ、その場でなんとか立ち上がった―――。
「ああ~、もしかしてあの子かな?そりゃ覚えてるとも。なにせ、血をだらだら流して歩いてくるもんだからね。忘れろって言う方が無理のある話だ」
固くて品質の悪いベッドの上に寝転がりながら、熟考を重ねる。
孤児院に帰ってくるまでの道中、通りすがりの老人に話を聞いた時の事だ。
どうにかあの狂人についての情報を収集しようと、路地の近くを歩いていたその老人に、駄目元で「額に傷のある身なりの良い子供を見なかったか」と尋ねたのだ。
すると、やはりあの見た目は他人の記憶に焼き付く程のインパクトがあったのか、嬉しい収穫を齎してくれた。
目撃者の老人によると、あの少年は最近この街で見かけるようになったのだという。裕福そうな子供がたった一人で出歩いているのは少し珍しい光景で、なんとなく気に掛けていたとか。彼はやはりこの街の出身ではない可能性が高く、前にキングズ・クロス駅から出てくる瞬間を何度か見た事があるとも語っていた。普段はどこか遠い所に住んでいて、駅を使ってこの辺りまで来ているのかもしれない、と。
流石にこのご時世にあの格好で一人きりは色々な面で危ないだろう、と、冷たい人間も多いロンドンで、老人は稀有な親切心を発揮して声を掛けていた。
「一人は危ないからウロウロしないで帰った方が良い、って言ったんだよ。そしたらあの子はね、『暇潰しの観光なのでウロウロするのが目的なんです』って。でも、あの年頃だよ?観光だとしても大人と一緒じゃないのはおかしな話だ。だから家族はいるのかって聞いたら、『見窄らしい孤児と一緒にしないで下さい』だと。……多分家族はいるんだろうけど、一緒に出歩く仲ではないんだろうね」
「『観光』っていうのもこの情勢でおかしい話だが……あの子、随分と肝が据わってるみたいでねぇ。オススメの観光名所はありますかって、美味しい飲食店は知ってますかって、そういう質問ばっかりだったよ。一人で回るつもりかって聞いたら、『ボクの近くに誰か居るように見えますか』って、何故か怒り出して。その日は結局、そのまま行ってしまったよ」
「今日はびっくりしたよ。顔に怪我したまま歩いてるんだから、もうこの前の事を謝ろうとか、そういうの吹き飛んでね。お節介かもしれないけど、せめてうちにきて止血しなさいって言ったら、『死にはしないんで大丈夫です』って突き放されたんだ。そういう救急道具は貴重だから、なるべく自分の為に使って下さいだってさ。まあ……優しい子なんだろうねぇ」
その話を聞いた時は冗談だろ?と思った。
一体、あいつのどこが『優しい子』だと言うのだ。
あいつ―――通りすがりの老人と見窄らしい孤児とで、こんなにも態度を変えるのか?
……益々捻り潰したくなってきた。
「―――でも、殺しはしない」
そうだ。あの狂人、あいつは、最後まで『死』を恐れなかった。
僕の力を受けても、傷を負う羽目になっても、その表情が恐怖に揺らぐ事はただの一度も無かった。あいつにとって最大の恐怖とは、『死』ではないのだろう、という事実を嫌という程思い知った。
ならば、『死』を与える訳にはいかない。今日受けた屈辱を何百倍にもして返すには、『死』では不十分だと理解したからだ。それよりもあいつが恐怖を覚え、屈辱だと感じるものを与えなくてはこちらの気が収まらない。
幸い、老人の話では『観光』と称してこの辺りを彷徨いているらしいので、このまま『勝ち逃げ』させずには済みそうだ。頑なに一人で出歩いている様子から、しばらくこの街を離れるつもりはないらしい、とも言われていた。孤児院の外に出れば、また遭遇する可能性自体は残されている。
その時に備えて、あいつに恐怖と屈辱を堪能させる準備をしなければならない。
絶対にこのままでは終わらせない。
……それに。
「この『力』―――あいつの方が詳しそうだな」
両手を目の前に持ち上げて見つめる。この体に宿る謎の『力』、それをあいつは僕よりも自在に行使しているように見えた。恐らく、『力』の正体についての知識も所有しているのだろう。
とっ捕まえて、聞き出す必要もある。一体どうしてやろうか。孤児院の物置に、ロープなどは置いて無かっただろうか、後で忍び込んで確認しなければならないな……。
……いや、それよりも、もっと―――
「……欲しい」
純粋に、あれが欲しいと思った。
鬱屈で、退屈で、窮屈しか感じなかった灰色の世界に突如として舞い降りた、異物。
髪の色も着用している衣服も黒で統一されてはいたが、あれはまさしく『灰色』だと、何故か強くそう思わせた。
『黒』でも『白』でもない、しかし
『灰色』の少年。あれが、欲しい。
毎日が色褪せた下らない絵本のように感じていたというのに、今日受けた屈辱の数々は、全てがただ怒りを与えるものではなかったからだ。
今まで、誰があそこまで堂々とした侮辱を向けてきたか?
今まで、誰があそこまで不思議な『力』を操っていたか?
今まで、誰があそこまで―――僕の名前を、「縁起が良い」と言ってくれただろうか。
思い返せば、苛々とした気分と正体不明の熱が頭に上ってきた。振り払おうとしてこめかみをガシガシと掻き毟る。
……何を考えているんだ。あいつに幾度となく投げ付けられた言葉を思い出せ。それはたった一つの「世辞」ごときで、到底覆るものではない筈だ。
しかしこの孤児院のように、臆病者どもが陰でこそこそと僕への中傷を言い募らせるよりかは、遥かにマシだった。……面と向かって、正直に思った言葉をぶつけてくる子供なんて、あいつだけだった。
あいつの犯した犯行の数々は、一つの「世辞」で覆りはしない。しないが、まあ、あの「世辞」は度外視するものでもないだろう。
―――決めた。
あれを僕の所有物にする。
『死』を突き付けても平然としていそうだし、ならいっそ僕の物にして、従属させた方があれにとって最大の屈辱になるのではないだろうか?
それが良い。例え、いつか「殺してくれ」と懇願してきたって、絶対に殺してはやらないのだ。それよりも自傷させないように対処する方が重要かもしれない。あれは傷を負う事に何の抵抗も無いみたいだから。
加えてあの『力』。恐らくは僕と同等の素質を秘めている。だがあれはどうしてか『力』への執着がどうにも薄いように見えた。僕よりもずっと『力』に詳しそうだが、習熟や鍛錬といった努力の痕跡をあまり感じられなかった。上手く表現しづらいが、本当にただの素質だけで『力』を使っている風なのだ。
このまま時が進めば、確実に僕の方があいつより強くなれる確信があった。ならば、同じ『力』を持つ者同士、あれよりも上に成って支配し、いずれ僕の『野望』に協力させるのも名案か。
孤児院では通用した心を変える力が、あれにも効果が望めるかはまだ分からないが。どちらにせよ、最早あれを放置するという選択肢は眼中に無かった。
……それに。
初めて会った時からずっと、あれに対して、謎の予感が走っていたのだ。
―――彼とはきっと、とても長い付き合いになる。
誰にも目撃される事の無い部屋の中。
僕は一人、大悪党のような笑みを浮かべた。
あれ?Memory4は?
となるかもしれませんが、いつかひっそりと更新しておきます…
お互いがイカレクソガキッズなので
どう足掻いてもぶっ飛んだ展開にしかならない
冒頭で拉致られた子が結局どうなったかの答えはハリーだけ垣間見てます
次の更新は『賢者の石』編の続き、Page37の予定です。