文字数増え過ぎたので前後編ではなく
前中後編の三つに分割します。すまねえ…
戦闘シーンの執筆カロリー高過ぎてしんどいっす
扉を開けて最初に見えたのは、怪獣と見紛うほどの巨大な犬。床と天井に肉体の全てがみちみちと接するくらいの巨体だ。ただ大きいだけの犬ではなく、見事な頭が三つ、太い首の上にくっ付いている。
伝承では冥界の番犬として描かれる魔法生物、ケルベロスに違いなかった。その漆黒の毛並みは死者の国から飛び出してきた闇そのもので、六つの血走った赤い眼が、薄く開かれた。扉を開けた音が覚醒を促すきっかけになったようだ。
「…………ッッッ!!」
危うくドラコが声を漏らしそうだったので、素早く片手を横に振って彼の口を物理的に塞いだ。横目で睨み付け、騒ぐなと声無き伝言を寄越す。冷や汗を吹き出しながらも、彼は大人しく従った。
スンスン、と三つの鼻が透明な侵入者を暴かんと、バラバラの方向を嗅ぎ出した。幸いにもとろんとした微睡みを宿している眼は、薄く開かれたままで全開とまではいっていない。この場に生じた違和感でも、三頭犬を完全な覚醒までは導けなかったようだ。
奴の足元にハープが設置されているのが見える。それは誰も触っていないのに勝手に弦が弾かれ、ひとりでに穏やかな音を奏で続けている。
邪魔者を眠らせ奥へ進む為に、クィレルが仕掛けたのだ。ケルベロスは竪琴の音色で眠ってしまうという習性があり、その弱点を突かれてしまえばただ頭が多いだけの駄犬と化す。
そんな駄犬を前に、押し殺した小声でドラコが疑問を訴えた。
「な、何でこんなのが居るんだ……!」
『神話通り、正しく門番の役割に徹しているだけさ。ダンブルドアが入学時に此処を立ち入り禁止にしただろう?無関係な生徒をこの先に侵入させない為だよ。クィレルは最奥で僕らを待ち受けている』
「こっ、こいつ……きっとあの森番が持ち込んだに違いない……!門番代わりの生物なら、もっと小さくて利口な奴がいただろうに、珍しいものばっかり扱うんだ……!知ってるかい?あいつ、ドラゴンの赤子まで育てようとしていたんだ……!ワーロック法を知らない愚図だよ!」
『確かに、他の国の魔法省じゃマタゴとかいう、君の言う通り小さくて利口な生き物を警備に利用しているみたいだしな。防犯が目的なら、別にケルベロスでなくても良かった筈だね』
『知識』を探ると、フランス魔法省は黒猫にそっくりなマタゴという魔法生物を警備に用いている、という情報があった。
攻撃呪文を受けても怯まず増殖する能力があり、その昔、省内に侵入したイギリスの魔法使いを追い詰めるのに役立ったらしい。その時の記録では、ズーウーという厄介な魔法生物を侵入者が使役していた為、残念ながら捕縛は叶わなかったそうだ。だが能力だけで見ても、マタゴ自体はとても有能な警備員だと思える。
【しかし、分かり易く獰猛で巨大な生き物の方が警備に好まれるのも、否定できないだろう?】
『視覚的、直感的に恐怖を覚えさせ近付かせない、という人間の心理を利用しているのだとすれば、ハグリッドの人選ならぬ獣選は合理的と言えるな』
「そんな合理性、少なくとも今は欲しくなかったよ……」
『まあまあ。今はクィレルが置いたハープが動いている。下手な真似しなければ起きない筈さ』
と、ドラコを宥めようと発言した瞬間だった。
まるで今までの会話を盗聴されていたかのように、見計らったタイミングでハープの演奏がぴたりと止んだ。鼓膜に痛みを錯覚する程のしんとした静寂が広まる。
『…………』
「…………、トム?」
ドラコが信じられない、といった目付きでこちらへ視線を向けてくる。そんな目で見られても、別に自分は何もしていないんだが?
『…………そりゃ、そうだ。きっと【あいつ】は……躾や懲罰と称して僕を甚振ろうとする計算が、あるだろうから』
ハープを設置し先に此処を通り抜けた張本人は、後続する自分達を大人しく通すつもりはない、という事なのだろう。だからこそ、このタイミングでハープに掛けられた自動演奏の魔法が尽きた。分霊箱と運び手が入ってきた際に音色を途切れさせ、覚醒したケルベロスがこちらを襲うようにと。
グルグル、と三つの喉の奥で岩を転がすような唸りが鳴り始める。ドラコは咄嗟に動きを止めたハープを指差した。
「と……トムッ!あのハープだ、もう一度音を奏でれば!」
自動演奏の効果が終了したのなら、自分達で掛け直せば良い。ドラコはそういう魂胆だったのだろう。
だが、ドラコが指摘した一秒後。これまたタイミングを見計らったかのように、目の前でハープの中心がグキリとひん曲がると、バヒュン!と爆発四散した。
おいこら、と突っ込みたくなるくらいの、馬鹿みたいな爆発の仕方だった。幸いにも炎を発生させるタイプの爆発ではなかった為、受けた被害は最小限だ。周囲にハープの欠片が真っ直ぐな軌道で飛散し、その内の一つがこちらの片頬を掠める。横線の形で刻まれた傷口から一筋のインクが垂れていった。
『……成る程。もう一度奏でれば良い、そういう浅はかな考えはお見通しらしいね、ドラコ?』
振り返りもせず皮肉げに言ってやれば、彼はすっかり言葉を失ったようで、返事は無かった。
一定の時間が経つ、もしくはこの空間に誰かが立ち入る。どちらかの条件を満たした場合にあのハープは演奏が止まり、自壊するよう細工されていたのだろう。演奏が止まった後でハープを再利用させない為に。
さて、どうやらこの場で自分が果たさねばならないミッションは、運び手に一切の被害を与えずにケルベロスを突破する事らしい。
試されている。
分霊箱がただの未熟者なら、運び手を殺されて自身も痛手を負わされて終わり。
分霊箱がこの程度の苦難を乗り越えられる玄人なら、無事にクィレルの元まで進行できる。
前者であればヴォルデモートは、反抗し続けた分霊箱を痛めつけるという目的を達成できる。後者であればクィレルは、最奥にて客人を待つ時間が減るだけ。
二つに一つ。禁じられた森でもそうだったが、どうやらヴォルデモートは人質を取っていても尚、分霊箱の性能を観測したいようだ。……あの森の状況と同じように、この場で起こる出来事を奴は何らかの方法で監視している可能性が高い。かといって、監視方法を見破ったり解除する為に費やす時間は無い。
『あんまり手の内、見せたくないんだけどなぁ』
ケルベロス、面倒な相手だ。透明になっていても、三つの嗅覚が敵の存在を正確に暴き出す。故に迂闊な真似は御法度だ。片手で動くなというジェスチャーを背後の少年に送っておく。
眠りを誘う音楽が途切れ、その後のけたたましい爆発音が決定的な覚醒を引き起こす。とろとろと上下運動を繰り返していた六つの瞼は、呆気なく開いた。
低く、地響きのような声が三つの喉から同時に溢れ出す。牙を剥き、涎を垂らしながら身を起こすケルベロス。観念して目くらまし術を解いたこちらを真っ先に視界に捉えると、奴は威嚇を示す唸り声で空間を震わせた。
「トム、途轍もなく怖いんだが……!」
『任せなさい。魔法生物も人間もコミュニケーションだ』
【君、あんなものと意思疎通できるのかい?僕は蛇となら自信あるけど】
『だから任せろって。グッドモーニング、ナイストゥミーユー』
気さくに挨拶を送ると舐めた態度と取られたのか、ケルベロスの口がぐわりと開いた。グアアアア!と物凄い威嚇の声が鳴り響く。ドラコが涙目で叫んだ。
「トム!何がコミュニケーションなんだ、ちっとも通じてないじゃないか!」
【しかも朝の挨拶だったね】
『黙れ。こんな体で生きてきたら、昼夜の感覚なんて無くなるに決まってるだろうが』
「そもそも話が通じる相手じゃないって!」
『おかしいな。もしかして英語分からないのか?你好、Bonjour、Buenas tardes!……まさかこいつ、純国産?ギリシャ語じゃないと通じなかったり?随分お高くとまってるんだな、獣畜生の分際で』
溜め息を吐いた後、埒が明かないので静かな足音だけを響かせて近付いていく。日課の散歩を行うかのように、自然に。
ケルベロスは全く恐れもせず悠々と歩いてくる獲物に、一瞬小首を傾げてぱちくりと不思議そうな瞬きを披露した。それから即座に姿勢を低くして、いつでも飛び掛かれる体勢を取る。
それでもこちらは立ち止まらない。ただ、薄く唇の端を吊り上げた。
『好きにしろ』
ケルベロスの眼前で停止する。零した声は低く、張り詰めた空気をそっと解くような響きでもあった。
逃げもせず構えも取らず、隙だらけの棒立ち。挑発するでもなく、ただ「来い」と全身で語りかける。それからゆっくりと両腕を広げた。飼い主が戯れあいを誘うように、飛び込んでくるであろう愛玩動物を迎え入れるように。
その姿が攻撃の合図となったのか。次の瞬間、ケルベロスの中央の首が吠えながら跳ねた。
ズブリ。
刃物が獲物に突き立つ刺突音と、肉を穿ち潰す咀嚼音が混じり合った、生々しく聴き心地の悪い音が上がる。同時に、強烈な衝撃が左肩を抉った。
甲高く純粋な恐怖の叫び声が耳を劈く。ドラコのものだろう。まるで自分が襲われたかのような苦痛の滲む迫真の悲鳴。哀れな事に、痛みの共感覚を起こしてしまっているらしい。
巨大な顎が仮初の肉を噛み砕く。漆黒の飛沫が掘り当てられた原油の如く吹き出す。傷口から溢れ出すその液体は粘度を帯び、黒く光っていた。
『よーしよし、いい子だ』
僅かに眉を寄せながらも両手をゆっくり伸ばし、肩に噛み付いたままの頭の側面を撫でた。前の世界で飼っていた犬にしてあげていたように、慈悲深い手付きで。
非常に憤慨すべき事件だったが、あの子は無残にも殺された為あまり長い期間共に過ごす事は叶わなかった。勿論、犯人には「死よりも恐ろしい目」に遭ってもらったので今更憎悪を思い出す事もない。久しぶりに犬と酷似した動物と触れ合えた今の体験は、どこか感慨深いものがある。
鎮痛呪文が働いているとはいえ、魔力の消費を抑えているせいで完全に無痛ではない。肩から絶えず叩き込まれる痛みに声は少し上擦ってしまうが、それでも背筋は伸ばしたまま微動だにしなかった。
ケルベロスは、親の仇でも睨み付けるかのようにギリギリと眉間に深い皺を刻んでいた。自由な他の二つの頭は、獲物が妙な動きをしないよう見張る役割なのだろうか。首を斜めに傾けて油断せず牙を剥きながらこちらを覗き込んでいる。
「あ、あ……」
背中に突き刺さるドラコの掠れ声と視線からは、人間に向ける感情が完全に失われていた。彼の顔が見えずとも、しっかりと感じられる。ケルベロスに肩を噛み砕かれても尚平然とし、あろう事かその頭を撫でているという異常な姿を目の当たりにして、それに恐怖を抱いている様子が。
……どれだけ取り繕ったところで、今の自分は分霊箱。こんな視線や感情を向けられる方が当たり前だったのだ。むしろ今までがおかしかった。
……自分がやってきた事なんて、所詮虚しい「人間ごっこ」、か。不老不変の体を持っている存在が、人間と同じ枠組みに入れる訳がない。
恐れる少年に構わず、告げる。
粗相を仕出かしたペットを優しく叱りつけるように、穏やかな笑顔のままで。
『―――でも、人間に噛み付いたら駄目じゃないか。僕の世界じゃ、殺処分だよお前』
遠回しに、『死』を宣告した。
「ガ……ッ……!?」
優しく目元を撫で上げてやった瞬間、噛み付いてきた中央の首が、異様な動きを始めた。
ぎょろぎょろと眼球が不規則に動き、焦点が合わない。牙をこちらの肩に深く埋めたまま、首がガクガクと震える。口の端から溢れ出す涎は、もはやただの唾液ではなかった。黄色っぽい色が混じり、煙のような蒸気を上げて落ちると、石床をじゅうじゅうと溶かしていく。
左の首が苦悶の咆哮を上げた。右の首は突然幻覚に囚われたように虚空を睨み、他の首に向かって牙を立てる。
パニックを起こした三つの頭が互いに絡み合い、噛み合い、引き裂き合う醜い争いが始まった。涎が飛び散り、毒々しい色の泡が口の周りに白くこびりつく。呼吸が荒く、短く、苦しげな喘ぎに変わる。胸郭が激しく上下するが、空気が入っていないかのように酸欠を思わせる痙攣を始めている。
巨体がよろめいた。四肢の筋肉が硬直し、力が入らない。
三つの首はそれぞれ別々の苦痛に悶え、互いの首を噛みながらも徐々に力が抜けていく。目から生気が失せ、黄色と白色の混ざった泡を吹き、舌を長く垂らして震える。
やがて、ズドンという重い音と共にケルベロスは崩れ落ちた。
三つの首はだらしなく床上に投げ出され、微かに痙攣を続けている。息はハアハアと乱れ苦しげだが、完全に絶命したわけではないようだ。それでも死んだように弱り果て、動く力は残っていない。
しばらく同じ姿勢だったのに加え、巨犬の頭一つ分の体重が肩の上に乗っかっていたので筋肉が凝ったような感覚がする。それ解す為グリグリと準備体操の如くゆっくり首と肩を回し、噛み傷から滴る自分の黒い体液を眺めた。咬傷と複数の穴を穿たれたローブは、既にじわじわと修復を始めている。
痛みはもう、殆ど感じていない。倒れたケルベロスの巨体を一瞥すると、静かな声で呟いた。
『はい終わり。お前の生命力が頑丈なら、職員が発見して救助するまで生き延びられるかもね』
淡々と別れの挨拶を告げて、先程までケルベロスの足元にあった床の仕掛け扉へ近付く。人差し指を下から上へくいっと折り曲げると、魚が跳ね上がるようにして扉は開いた。
『ドラコ、いつまで突っ立っているつもりだ?もう駄犬はくたばった。ハリーを助けたいならとっとと動け』
未だ一歩も動かない死喰い人の息子へ苛立ちを隠さず命令を飛ばす。彼はガチガチと歯を慣らしてこちらを呆然と見つめていたが、冷たい命令の言葉に覇気を削がれながらもよたよたと歩み寄ってくる。
「今の……一体、どうやって。……《磔の呪文》……?」
ドラコがやっとの思いで絞り出した声は、単純な疑問だった。
ケルベロスは警備に利用される程の強力な魔法生物だ。容易に突破できる軟弱者ではない。
ハープの音色という弱点を突いた小賢しいクィレルはともかく、一見すると何の魔法も呪文も行使していなかったこちらが、どうして三頭犬を打ち負かしたのか。一部始終に立ち会った人間にとっては当然の疑問だろう。
だから、その疑問に堪え切れない笑みを浮かべながら返答しておいた。人差し指を口元に立てて囁く。
『これ以上は企業秘密さ。知りたかったら情報料を支払う事だ』
ドラコはその答えを聞いて、誰にも発見されていない未確認生命体を目撃したかのような表情で見つめてきた。得体の知れない存在に向ける眼差し。
酷く、懐かしい視線だ。遠い昔、母や父がよくこんな視線を注いできていた。……祖父や叔父は少し毛色の違ったものだったが。
『下らない事考えてる暇あったら僕の役に立とうか』
懐かしくも不愉快な視線を断つ為、近寄ってきたドラコの背後に回ると、署名によって直接触れ合えるようになった背中を軽く蹴飛ばした。体勢を崩した彼はみっともない悲鳴と共に、仕掛け扉で隠されていた穴へと落下していった。
「ぎえっ―――ギャアアアアア!!」
『先行して偵察しておくんだよ、よろしく』
身に纏う透明マントのせいで、恐怖で顔をぐしゃぐしゃにした生首だけが暗い穴に転がり落ちていくような、不気味で滑稽な有様である。思わずくすりと笑ってしまった。
何でいちいち面白い見世物を提供してくれるんだ、あの少年は。自分の知る物語でもそうだったが、本当に見ていて飽きない。
ああ、そうだ。こんな面白いものが日常的に見られるのなら……
元の世界より、この世界の方がマシ、なのかもしれない……。
無気力で退屈な日々を過ごすだけだった魔法の無い世界よりも。此の場所で、この身の内側で脈打つ魂が、確かな活力を得ている自覚がある。
他人の不幸や絶望を糧にする分霊箱という存在であるせいだろうか。いや、例えそうでなくても……この感覚は、この世界に来るずっと前から持ち合わせていた。それが分霊箱になったことで増長されているだけなのだろう。ゼロに何を掛けてもゼロの筈なのだから、こういった性質は元々、ある程度自分の中にあったものだ。
『飽きないねぇ……。もっと成熟した、力のある魔法使いの滑稽な姿なら、より面白いだろうな』
ただ日記帳の中に閉じ込められるだけの、鬱屈とした50年間を忘れ去ってしまうぐらいの高揚感がふつふつと湧き上がってくる。
だが、これを表に晒してはいけない。上がりそうになる口角を、唇を引き結ぶ事で防いだ。
『クィリナス・クィレル……お前なら、必ず面白くなるよね』
ずちり、と肉が縫い合わされるような感覚。かなり深かった筈の左肩の傷が完全に塞がったようだ。違和感を拭い去るように一度その場所を片手で揉んでから、ドラコの後に続いてとん、と床下へ飛び降りる。
後には、ただ苦痛に喘ぐ冥界の番犬だけが残された。
はしたなく舌を放り出し、ヒイヒイと弱々しい呼吸を繰り返すだけの哀れな生き物。守っている筈の扉の中に侵入された事すら気付いていない。否、気付けるほどの余裕は無い。
【……やはり君は、今まで見てきた人間の中で最高に面白い】
底の見えない暗闇へ落ちていく最中。抑え切れないという様子で、そんな呟きが聞こえてきた気がした。
「いっいきなり突き落とすなんて酷いじゃないか!どう考えても酷いじゃないか!どうしてあんな酷い仕打ちができるんだ!僕が何をしたって言うんだ!せめて心の準備ってヤツをだな……ッ!」
『はいはいはいはい』
穴の底で待ち構えていた仕掛け、『悪魔の罠』。
それにまんまと捕獲されていたドラコを救出し、首根っこを引き摺って安全地帯まで連れて行き、しばし落ち着かせている間。彼はぐずぐずと鼻水を啜りながら文句の数々を垂れていた。自分はそれを右から左へ聞き流して、適当な相槌を返すだけの簡単なお仕事に取り組んでいた。
『でも君、誰かが無理やりにでも背中蹴っ飛ばさないと、ああいう暗い穴底に飛び込むの躊躇しただろ?僕はその無駄な時間を短縮してやったんだけどなぁ。文句を言われる筋合いは無いと思わない?』
「そっそれは……一理ある、が。でもやっぱり、せめて何かしら合図とかを送ってくれれば、」
『君さぁ、友人の命が関わってるんだよ?先に進むのにいちいち合図だの何だのを気にする暇なんか無いと思うけど?どんなに怖くてもさっさと進行するのが当然じゃないかな、ん?』
「……いや……それも間違っちゃいないけど……あの、」
『可哀想なハリー。拉致の被害者になって、君よりよっぽど怖い目に遭って、命の危険を間近に味わっているというのに。君は先へ進む時、心の準備をしたいから合図を送れだなどとしょうもない不満を垂れている!今頃あの子は器の小さい君に失望して、声を押し殺しながら慎ましく涙を流しているだろうね……あ~あ』
「あ、あの……何もそこまでは。僕は、そんなつもりはなくてだな、ハリーを助けたいのは本心であって」
『本心であるならば、こんな所でぐちぐちと僕に文句をぶつける時間は無いと思うなぁ。下らない不平不満はしっかり制御して口に出さず、とっとと動くべきじゃない?こんな処世術、大人だって毎日やっている事だよ。ほら、君が尊敬してやまないお父上とか特にね。息子として彼の生き方を見習おうとは思わないのかい?』
「…………、はい」
立て続けに出力されるドラコの反論を、有無を言わさせず丁寧に丁寧に潰していった。やがてこのやりとりが無駄になるだけだと悟ったのか、最後には随分と従順な態度へと様変わりし、彼は身を縮めて肯定の返事だけ声に出すようになった。
……成る程?服従の呪文無しでも、反論を抑え付ける正論を投げ続ければ、いずれ立場の低い他者は疲れて従うだけになる。ヴォルデモートもしばしば使っていた手法。ここまで上手くいくとは思わなんだ。
奴のように、大勢の他人を操る事で満足感に浸るような征服欲は特段持ち合わせちゃいないが、確かにこれは気持ちの良いものである。言葉だけで人を操る快楽。学生時代の奴が労力を費やしてまで優等生を演じ切った理由が少し解った気がする。
……でもまあ、社会の秩序をぶち壊すような組織の大将になりたがる気持ちまでは、絶対に理解できないけども。
あんなの、どう考えたって面倒なだけだろう。よくもまあ熱心に『ヴォルデモート卿』をやれるものだ。真似したいとも思わないお勤め、ご苦労様としか言いようがない。
……世界を、人間を支配する。
それほどの価値があれらにはあると、本気で信じているのだろうか。奴はあれらを支配する価値を見出しているから、『ヴォルデモート卿』になったのだろうか。
魔法界を支配するという野望。それは己の過去を、名前を葬り去ってでも成し遂げたくなるほどに楽しいものなのだろうか?
どうであれ、理解できない価値観と野望を持つ人間に与するつもりは毛頭ない。
それに例え善人だろうが悪人だろうが、奴の思想に付き合ったり協力したりするのも面倒臭い。
ああいった面倒事を押し付けられる結末を避ける為にも、今は先へ進まねば。
『じゃあ、休憩終わり。行くぞ』
「あ……ああ、分かった」
悪魔の罠を脱した先にあった一本道の通路。その半ばで止まっていた足を再び動かした。座り込んでいたドラコが立ち上がって後ろに続く。
歩き出した自分達の足音以外には、壁を伝い落ちる水滴の音だけが聞こえてきた。しかしそこへ別の音が混じるようになる。徐々に下っていく通路の奥から、何か柔らかい物が擦れ合う音と、チリンチリンという不思議な音が流れてきている。
『……、へえ』
「うっ……臭っ……!」
出口へ辿り着くと、そこは眩い輝きに支配された部屋だった。だが、部屋の雰囲気と不釣り合いな、鼻の奥を刺激する不快臭が充満している。ドラコは不快げに顔を歪めて鼻を摘んだ。
見上げると高いアーチ形の天井。何故この部屋だけこんなに天井が高いのか、理由は明白だった。宝石のようにキラキラとした無数の小鳥に見えるもの。それが部屋中を飛び回っていたからだ。そして奥には分厚い木の扉が見える。
……最後に、一つ。この部屋を訪れた者の視線を掻っ攫う程目立つ存在が、中央に堂々と佇んでいた。
「何で、何で、あんなのが」
ドラコは飛び回る生き物よりもそいつに目を奪われて、透明マントの端を掴む両手にぎゅっと力を入れた。困惑で震える声がやたら大きく聞こえる。
「何で、トロールがこんな所に居るんだ……!」
居場所に気付かれまいと声を押し殺したのだろうが、無意味だった。
灰色の肌を持つ山トロール。奴はこの部屋の入口、つまり自分達が居る場所の方を最初から見据える形で立っていたからだ。ケルベロスと違ってしっかりと起きており、その視線はずっとこちらとドラコへ向いている。
部屋に入った瞬間から漂ってくる臭いの正体。一日中履き続けた靴下のような、放置された公衆トイレのような酷い悪臭を放つ犯人。
ドラコの言う通り、何故か山トロールが本来なら居る筈のない部屋に居座っている。奴の異常に長い腕の先に棍棒が握られていた。材木は樫だろうか、あの頑丈そうな武器が掠りでもしたら、人間の骨などいとも簡単に砕け散るに違いない。
『……、これも、僕を痛めつけたり弱らせる為の「仕掛け」、か?』
【だろうね。しかし山トロールか。レシフォールドと違い、《死の呪文》を撃つだけで葬れる雑魚だが】
(そんな魔力の無駄遣い、トロール如きで仕出かす訳がない)
ドラコから魔力を頂戴できる状態であるとはいえ、だ。彼が不調をきたして動けなくなっては本末転倒。無事『運び手』の仕事を全うしてもらうには、魔力の徴収量を微々たるもので留めるしかない。それは間違っても潤沢とは言えず、《死の呪文》一発分にすら届かない程度の少量なのだ。
「ひっ、動いた……」
棍棒を引き摺りながらブァー、と低く唸ってトロールが歩き出した。あの棍棒でこちらを殴り殺す気なのだろうか。実にシンプルな仕事だ。
トロールはケルベロスと違って嗅覚に優れている訳ではない。獲物を探り出す知能も低い。透明マントをしっかり被らせれば、ドラコだけは標的から逃れられる確率は高いだろう。だが……
『念には念を入れる。僕は、足手纏いを近くで彷徨かせる趣味は無い。―――ドラコ、ポケットから日記を出せ』
「えっ、あ、ああ……ちょっと待ってくれ、こっちの方に入れた筈……」
がさがさと懐から日記帳を取り出したドラコへ向けて、静かに片手を翳す。その仕草に彼はびくりと体を揺らして怯えた表情を浮かべた。それに対しにっこりとした微笑みを返してやる。
「トム、な……何をして、」
『君を守る為だよ。しばらくの間我慢しててくれ』
「だ、だから、せめて何か説明を、」
『子供には見せられないシーンがこの後始まる』
「ぼっ僕だって色々知る権利が―――!」
『ぐだぐだと喚く悪い子はしまっちゃおうね』
ドラコが手にした日記帳が、強風で煽られたようにバサリと開く。開いたページには六月十三日と書かれており、小型のテレビ画面のような枠で囲われていた。ページのノドの部分から眩い黄金の光が迸る。
ドラコは何がなんだか解らない内に自然と体が前のめりになる。頭から突っ込む形でページに浮かんだ小窓へと、恐るべき吸引力で引き摺り込まれていく。悲鳴を上げる暇も無いぐらいの、マグルの家電である掃除機もびっくりな吸引力だった。
少年の全身を飲み込んだ日記帳は、数本の光の筋の残像を吐き出しながら、パタンと静かに閉じた。後に残されたのは、重力に従ってトサっと石床に落ちる分霊箱のみ。
ブァ?とトロールが訝しげな声を上げた。突然視界を占領した光の消失と、獲物を一人見失った事による疑念から来るものだろう。
だが今起こった現象に対して思考を巡らせる知能が無いのか、未だ此処に残る獲物へと構わず突進を始める。勿論、その残る獲物とはこちらの事だ。ドシドシと重量感のある足音と地響きが一体化して近付いて来て、小さい地震でも起きたのかと思った。
『便利だよね、この分霊箱。他人を完全に匿う事だってできるんだから』
日記帳に保管された記憶の閲覧者として、人間一人を物理的に収納する能力。本来の物語でも、ハリーに「ハグリッドを捕まえる場面」を見せる為に使われていた。
永遠に収納、とはいかない。そもそも、「閲覧者を閉じ込める事」を目的に作られた機能ではないからだ。
ページに表示されていた月日、その当時に起こった記憶の再生が終了した瞬間に、日記帳は飲み込んだ閲覧者を排出するようにできている。それでも、記憶を閲覧している間の閲覧者は日記帳の内部へと全身を飲み込まれ、外界のあらゆる環境や危険から保護される形になる。
基本的に他者を害する能力ばかり所有する分霊箱だが、使い方によっては人間を匿ったり守る事だって可能なのだ。他の分霊箱では絶対に不可能な機能。つくづく便利過ぎるぞ、この日記帳。
(……だから、狙われているんだろうか)
明らかに他の分霊箱とは一線を画す機能の数々。ヴォルデモートが執拗に略取しようとするのもどこか納得がいく気がした。
【……まさか、あの機能をこんな風に使うとは】
友人が―――リドルが、少しばかりの驚きと、愉快そうに弾む声を漏らした。
【君、本当に面白いね】
『言ってる場合か!』
突進で距離を詰めてくるトロールに向けて臨戦態勢を取る。いつでも動けるように軽く両足を開き、杖を握り締める。
本当に、安全地帯にいる奴はお気楽なものだ。自分はここから、一体一でトロールをしばき倒さねばならないというのに。
【死の呪文を使うのは?】
『却下。無駄遣いが過ぎる』
【でも楽だよ。一撃で終わる】
『それよりも試したい事があるんだ』
闇の魔術マニアだからか、やたら死の呪文を使わせてこようとするリドルをあしらって、迫るトロールを冷静に待ち受ける。床に落ちた日記帳は相手がバジリスクでも無い限り破壊不可能なので、放置で良いだろう。
やがて互いの距離が数メートルという近距離になると、トロールは手にした棍棒を思い切り振りかぶりながら飛びかかってきた。
こちらを叩き潰さんと斜め上から降ってくる棍棒は、決して速くはない。これなら、余程運動神経の鈍い人間でない限りは、ハリーにだって避けられそうだ。真横に飛び込んで棍棒が纏う風圧ごと避ける。転がりながら身を起こし、数回後方に跳んで距離を離す。
ゴシャ!と響く破砕音。自分が立っていた部分の床に棍棒が突き刺さり、大きな蜘蛛の巣状にひび割れている。……人間が真面に受けてたら死ぬだろこれ。やはり危険度XXXXの魔法生物の実力は伊達じゃないという事か。
トロールは動きを止めず、振り向きざまにこちらの居場所を把握すると、再びズシンズシンと追い掛けてきた。随分と戦い慣れている個体のようだ。相手にとって不足なしで何よりである。
『隙あり。―――《エクスペリアームス》』
片手に握られたままの棍棒へ素早く杖の照準を合わせる。武装解除呪文である事を示す赤い閃光が、トロールの手から棍棒を弾き飛ばした。そのまま空中を舞う棍棒へ、続けて引き寄せ呪文を唱える。
『《アクシオ》―――《レヴィオーソ》』
くるくると回転しながらこちらへ引き寄せられる棍棒。目の前まで来たら浮遊呪文で空中に留める。
トロールはすっぽ抜けるようにして自分の手から消えた棍棒に遅れて気付き、足を止めた。不思議そうに空になった片手を閉じたり開いたりしている。
武器を奪ったところで奴の脅威度が下ったりはしない。禁じられた森では素手で殴られただけで結構な被害を被った。分霊箱じゃなければあの時とっくに死んでいただろう。
では何故、武器があろうがなかろうが危険な生物から、わざわざ武器を奪ったかというと。
『《グラディフォース》!』
ゴツゴツとした棍棒へ向けて変身術を掛ける。棍棒は宙に浮いたまま一瞬で銀色の光に包まれ、キリィン、と刃物と刃物がぶつかり合うような音を立てた。そして光が収まった時には、すっかり美しい長剣へと変身していた。
『来いよ、トロール。棍棒なんて捨ててかかってこい』
にやりとした笑みを浮かべながらくいくいと手招きをしてやる。
トロールは頭上を飛び続ける輝く小鳥のようなもの、それらから降り注ぐ光をきらりと反射する長剣に視覚を刺激されたらしい。棍棒を握っていた片手から視線をこちらへ移す。一瞬だけ頭から抜けていた獲物を再発見し、止まっていた足を動かしてこちらへ駆けてくる。
『魔法生物に呪文だけで対抗するのはナンセンスだ。魔法族はマグルのやってきた戦い方を蔑ろにし過ぎている』
ドラゴンやアクロマンチュラ、トロールなど多くの強力な魔法生物の皮膚は、魔法への耐性を持っているものだ。
逆に考えれば、「魔法の介入が一切無い、武器による物理的な攻撃」は通る事が多いと言える。神話や伝承でも、ドラゴンといった化け物級の生物でさえ、剣や槍などマグルの武器で討伐されていった歴史がある。物理的な攻撃は、原始的だが意外と有効だったりするのだ。
例え用意した武器が変身術で変化した物だとしても問題無い。変身術は、物質の分子構造や本質そのものを書き換える魔術。変身が成功した物体は、物理的にも化学的にも本物と何ら変わりないからだ。
棍棒を剣に変身させた瞬間、これは『魔法による産物』ではなく、ただの物理的な質量を持った『本物の鉄の剣』として世界に存在する事になった。魔法生物の魔法耐性は、この剣に対して働く事はない。
武器をゼロから生み出し召喚する呪文だと、その武器は純粋な魔力の塊なので防がれただろう。だが既存の物質を書き換えた変身術の剣ならば、一度物質として定着しているから魔法耐性をすり抜けられる筈だ。
【……君の発想、着眼点。非常に興味深く、素晴らしいものだ。どうしてそこまで考えが到るんだい?】
『世辞は要らん。そんな事より、お前は奴の挙動を見て報告してろ!』
いちいち称賛してくるリドルに吐き捨てて動く。自分一人こそが特別な存在だとか思い上がっている人間に、褒め言葉を聞かされたとて何の感慨もない。むしろ何か企んでいるのではないかと気味悪く感じるものだ。
トロールがすぐ目の前に迫る。杖を宙に浮かぶ剣に向けたまま、視界にはひたすら奴の全身を収め続けて隙を見計らう。
【―――狙うなら右の脇。筋肉の動きが妙に偏っているな……左手を伸ばしてくる】
視界を共有しているリドルが短く告げた。
トロールは走りながら、リドルの予測通り左手をこちらの頭へ伸ばしてきた。右脇がガラ空きになる。
『《トランス》!』
的確にそこを狙う事にした。呪文を唱えながら杖を真横に振る。剣は宙に浮いたまま空気を斬り裂くようにして、その場で素早く横に薙ぐ動きをした。
ギャウ、と醜い悲鳴が上がった。トロールの右脇腹に刻まれた傷から血液が飛び散って、返り血がこちらの顔面にいくつか掛かった。微妙に熱を感じるのは奴の体温が高いからだろうか。
トロールは弾かれたように後退りし、傷口を右手で押さえた。視線がドクドクと流れていく血に注がれる。痛みと怒りで顔を歪めたかと思うと、ブァァァ!と叫んで再び左手をこちらへ伸ばしてきた。今度はしっかりと握られており拳を形作っている。
『……少し冒険してみるか』
トロールの拳では死なぬ体。鎮痛呪文が作用している状態。ひと思いに奴の懐に潜り込んでやろうと考えた。
剣を自分の頭上に浮かぶよう位置を調整してから、拳が直撃するギリギリのところでジャンプした。トロールの拳の上に左手を添えながら開脚し、跳び箱のようにかわす。そのまま脚を閉じてトロールの腕の上に乗ってみせた。今は剣と奴の頭の位置が、丁度同じ高さに並んでいる。
左腕に乗っているこちらを振り払おうとして、靴裏に接するトロールの筋肉が収縮する瞬間を感じた。
『《オブリーク》』
筋肉へ命令が到着するより速く、自由な右腕で杖を斜めに振った。動きに連動するように、こちらの頭上に浮かぶ剣が斜めに斬り下ろす動きをする。銀に光る斬撃はトロールの額から片目、鼻、反対側の頬へと走り抜けた。鮮血が舞って今度はこちらの胴体にまでこびり付いてくる。
耳を劈く絶叫が響き渡った。トロールが突き出していた拳を引っ込める。直前に拳の上から飛び降り少し離れた位置へ退避した。
両手で顔面を覆い全身を左右に振って悶えていたが、流石の屈強さとでも言うべきか。トロールは数秒もすると顔から手を離し、憤怒に染まった形相でこちらを睨んで凄まじい咆哮を上げた。
「ブアアアァァァ!!」
袈裟斬りをされたかのような斜線型の切り傷から、たらたらと滴る血が奴の顔を汚していた。最早視覚としての機能を果たさぬ片目は眼球ごとざっくり切り裂かれていて、見るも無惨な光景だ。
トロールは両の握り拳を頭上に掲げたかと思うと、左右同時に石床へと振り下ろした。頑強な敷石が悲鳴を上げて爆ぜ、灰色の石塵が巻き起こり、足元が激しく震える。
『くっ……』
大地震を思わせるほどの震動に体幹を狂わされ、倒れないように床へ片膝と片手をついて揺れが収まるのを待った。剣を移動させ、背中に張り付いているように見える形で浮かばせておく。
トロールの拳の直撃を受けた床はまるで薄氷のようにあっさりと粉砕され、周囲の敷石がボコボコと不格好に捲れ上がった。
奴は拳を一度引き抜き、今度は歪んだ床の隙間へと、熊のような太い五指を力任せに突き立てた。メキメキと石が引き剥がされる、耳障りな破壊音が轟く。
そうして奴の両手が無造作に掴み上げたのは、抉り取られた床の破片―――尖った角を残す、重々しい石材の塊だ。表面はまだ埃被っており、鋭利な破断面が薄く光っていた。
標的を定めた奴の片腕が、恐るべき速度でしなった。大砲の弾の如き勢いで石塊が投げ付けられる。轟々とした重い風圧がこちらの頬を叩いてきた。
『まさかの投擲か!』
学習している。迂闊に近付くのは危険だと、離れた所から投擲による攻撃を行う方が得策だと。
ゴゥン!という音と共に石塊がこちらを押し潰そうと迫ってくる。棍棒を回避したのと同じ要領で真横に疾駆した。背中に浮かぶ剣も一緒に付いてくる。後ろ髪を掠めていった石塊は速度が緩まる事なく真っ直ぐ飛び続け、遂には壁にまで到達し、激突してゴシャリと砕け散った。
【まだだ、二投目が来る】
鋭い忠告が思考の片隅に突き刺さる。
トロールは続けて、もう片方の手にキープしていた石塊を大きく振りかぶった。再びこちら目掛けて猛進してくる投擲物。非常に小賢しい事に、こちらの回避先を予測した偏差撃ちだった。
【当たるぞ、避けろ!】
『……、このまま当たった方がマシだ!』
走り続ければ直撃は避けられない。かといって急に進路を変更しようとすれば、全身に掛かる慣性によって一瞬の硬直が生じてしまう。その一瞬すら命取りだ。あの投擲速度では、どの選択を取っても完全な回避は難しいだろう。
『チッ……《プロテゴ》!』
なるべく節約したかったが仕方ない。走りながら消耗の激しい盾の呪文を体の左側に大きく展開させた。花が開くようにして中心から四方に広がる魔力は、投擲物と同じサイズ―――こちらの全身より一回りも二回りも大きな丸盾へと変化した。
直後、ガゴン!という衝突音。ノーダメージで済んだが、衝撃全ては緩和しきれなかったらしい。盾越しに襲い掛かる衝撃波のせいで軽く吹き飛ばされた。
『ぐぅッ……』
だが傷も痛みもゼロだ、まだ慌てる必要は無い。
横倒しになった体を即座に起こしたが、トロールはいつの間にか両手に石塊を補充し終えていた。
体勢を崩したこちらを見て、憤怒の形相がニヤニヤとした底意地の悪そうな笑顔へと様変わりした。さっきまで無様に悶絶していたくせに、ほんのちょっと優勢になったくらいであの表情だ。一瞬にして頭に血が上りそうになったが、必死に堪えて代わりに杖をギリギリと握り締めた。
トロールは両手を左右交互にしならせ、三投目、四投目を連続で投げ放ってきた。こちらは身を起こしたばかりで、走って回避しようにも初速すら出ていない。追い払い呪文で対処する事にした。
『《デパルソ》―――ぐうっ……!』
先に投げられた三投目の石塊に向けて呪文を放ち、トロールの方へと弾き返してやった。巨大な物体を動かすには相応のエネルギーが必須で、そこそこの魔力を持っていかれる感覚が病み上がりの体を苛む。
トロールは戻って来た石塊を余裕たっぷりに対処した。大きく構えた右のパンチで迎え撃ち、いとも容易く粉々に破壊してしまう。こちらはこちらで続く四投目が迫っており、展開させたままだった盾で受ける。
『うっ』
またしても無傷のまま衝撃だけを食らう。今度は倒れなかったが膝をついてしまった。その隙を狙って放たれる五投目と六投目―――トロール側が一連の作業に慣れたのか、投擲の間隔が速過ぎる!
『お前ッ……ふざけるなよ!いかにも肉体派ですみたいな出で立ちのくせに!遠距離攻撃ばかりで品が無いじゃないか!クィレルに飼われている畜生の分際で!卑怯だとは思わないのか?』
【……これがブーメランというヤツだろうか】
思わず子供みたいに喚いてしまったが、トロールの取った戦法は実に合理的な選択だ。
勝つ為には手段を選ばない。それは人間以外も同じ事、という訳か。
盾の位置を調整して五投目を受けた。だがトロールの人間離れした筋力が齎したのか、投擲物が持つ凄まじい運動エネルギーは、衝撃を受け続けてきた盾を遂に破損させた。バキャッと心臓に悪い音を上げ、眼前にてボロボロと崩れていく盾。―――これでは到底、六投目を防ぎ切れない。
盾を修復する暇も、新しく展開させる暇もなくこちらへ到達する石塊。全力で駆け出したが顔の端、左目を削り取るようにして石塊が通り過ぎていった。一瞬首がもげたかとさえ思う衝撃と、皮膚を摩擦熱が焦がす感覚が同時に襲う。だが意地でも悲鳴は零さず、足も止めない。
『―――リドル!!』
【解っている】
名前を叫びながら、今度は回避の為ではなく、敵へ接近する為に足を動かす。
ボタボタと、ダムが決壊したかのように床に垂れていく黒い液体。左目は完全に潰れて、視界の左側は暗闇しか映していない。幸運と言うべきか、それ以外の箇所に石塊は当たらなかったようだ。それでも鎮痛呪文を貫通した激痛が居座っていて、絶えず意識を揺らがしてくる。
正面から走ってくる獲物を訝しげに睨んだトロールは、それでも大した動揺は見せず七投目を繰り出した。
激痛と狭まった視界のせいで空間認識能力が著しく低下していたが、自分はそれらを放棄して肉体の操作に意識の全てを捧げる事にした。代わりに、視覚と指示をリドルに委ね役割を完全に分担させる。
一つの器に、二人分の意識があるからこそできる芸当。
【―――七投目、頭を狙おうとして下に隙間ができている】
リドルが淡々と現状を報告する。それを疑わず信じ、先行して襲ってくる風圧で投擲物との正確な距離を計算し、ここだというタイミングで石塊の真下目掛けてスライディングした。限界まで上体を低くして滑りながら石塊を避ける。身を起こした時には既にトロールが八投目を振りかぶろうとしている最中だった。
【八投目。十時の方角、《減速呪文》を】
『《アレスト・モメンタム》!』
指示通りの方角へ杖を向け唱える。左目の視覚が機能していない為確認しづらかったが、トロールの手から石塊が離れた直後、その呪文は作用した。今までと打って変わって、鈍い速度で宙を滑る投擲物。
【今だ。二メートル上、跳んで】
極めて正確な数値を添えた指示。大きく跳躍し、緩く迫る石塊に手を掛けた。一息でよじ登り、表面の凹凸を階段代わりにして頂きまで駆け上り、足場にして再び跳ぶ。トロールの頭上を飛び越えるようにして。
奴は頭上の獲物をポカンと見つめていた。さっきまで離れた場所で物を投げ飛ばしているだけで翻弄できていた獲物が、どうしてあんな場所にいるのだろう、と心の底から疑問に思っているような表情だった。
『《ディフィンド》』
その間抜け面に向けて空中で切断呪文を飛ばしてやった。
ギャッと短い悲鳴を上げて、奴は浅く裂けた鼻を片手で押さえて隙を晒した。浅いといっても、前に受けた切り傷とほぼ同じ場所を襲う痛みは、単純に耐え難いようだ。
やはりと言うか「魔法による斬撃」は、魔法耐性を有する皮膚に威力を軽減されてしまうらしい。結構本気で放った筈だが、実際にトロールが負った切創は浅いところで留まっている。
つまり―――このトロールは、「物理的な斬撃」の方が確実に仕留められる。
今の呪文が齎した結果は、それをしかと証明してくれたのだ。
空中で体勢と落下位置を調整する。そのまま重力に従って、隙だらけである奴の項に伸し掛かった。獲物が首の後ろに取り付いても振り払う余裕がないのだろう、奴は相変わらず二度も裂けた鼻を覆って呻くばかりで、反撃はされなかった。
『《ウェルティカ》』
トロールの項にしがみついたまま、ずっと背中に浮かばせていた剣を頭上に持ってきてから、杖を縦に振り下ろした。
ザシュッ、と根菜を切るような小気味よい音。トロールの後頭部が、薪割りの如く縦に切り裂かれる。事前に身を捩っていたので、噴霧しゆく鮮血を回避できた。
脳天にまで斬撃を叩き込まれたトロールは、とうとう力尽きたらしい。悲鳴も上げず前のめりに身を投げ出し、呆気なく石床へと倒れ伏した。こちらも項から飛び降りる。
致命的な一撃を与えたが、それでも危険度XXXXの魔法生物だ。万が一息を吹き返されても困るので、念の為オーバーキルをしておこう。
杖をゆるりと動かして、ぷかぷかと浮かぶ剣をトロールの背中の中央、その真上に移動させる。飢えた獣が剥く牙のように、下に位置する剣の切っ先がぎらりと光っている。
『……《プンクトゥーラ》』
フェンシングのように杖を突き出した。弾丸の如く射出され垂直に落下した剣の切っ先が、まるでサンドイッチにピックを刺すように、トロールの背肉をブスリと容赦無く突き破る。
背肉の向こう側にある終着点の腹肉まで到達するとカンッ、と剣が石床に突き当たった音がした。一度だけびくりと跳ねた巨体は、それきり何も動かなくなった。トロールの腹と床の隙間から、じわじわと円状に流血が広がっていく。
『魔法生物への物理攻撃、これほど有効とはね……。馬鹿正直に呪文を連発するよりかはずっと攻撃の通りが良い』
顔に付着した返り血と、左目周辺の流血を拭いながら呟いた。
死の呪文以外の攻撃呪文をひたすら当て続けるより、剣による斬撃を与えるだけでトロールの皮膚は豆腐のようにズタボロとなった。勿論、変身した剣の切れ味が極限まで高くなるよう、かなり意識して変身術を掛けておいたのも一因だろう。この変身術が地味に難易度が高く、一番気力を持っていかれた部分だ。
だがしかし。自分が剣に対して使用していた、《物体を動かすだけの呪文》。あれは、一般的な攻撃呪文よりも遥かに魔力の消耗が少なく済んだのだ。これほどコスパの良い攻撃手段が他にあるだろうか。
【君自身がトロールに近付く必要はあったのかい?】
『ラジコンカーと一緒だよ。動かす物体と魔法使いの距離が離れ過ぎると、遅延が起こったり操作し辛くなる。確実に斬撃を当てたかったんだ』
【ラジコンカーというのは知らないが、それにしても危ない橋を渡るじゃないか。……トロールに対して不死身とはいえ、だ。君はああいう戦い方が本当に好きだね……】
そりゃ自分だって、分霊箱じゃなかったらあんな風に怒れるトロールに近付いたりはしない。拳や投擲物が直撃でもすれば、生身の人間はお陀仏だろう。まるで恐れ知らずみたいな言い方をされているが、流石の自分も生身だったらこの戦法を選ぶ事はなかったのだ。
戦闘後の雑談をしている間に、潰れた左目が完全に修復された。元通りに広がる視界に安堵の息を吐く。本当にとんでもない再生力だな、分霊箱というものは。
【危険極まりないが、君の行動はいつだって面白い】
満足げな感想を送られる。まあ、少なくとも退屈ではないだろうな。他人の視界を共有しているだけで、自分は何の被害も受けない状態で観戦する死闘の光景は。
【そう苛々しないでくれよ。僕だってその共有している視界で役に立ったじゃないか】
『……はぁ』
悪態をつく気力もないので、溜息を吐くだけで返事はしなかった。どんな罵倒も、どうせするりと受け流されてしまうので罵るだけ無駄だ。結んだ友人関係により、リドルの協力はして当たり前の仕事なので礼の言葉も掛けはしない。
無事にトロールを突破できたが、ずしりとした疲労感が降って沸いてきた。走って跳んでを繰り返していたから当然だが、あまり看過できる現象ではない。
多少の魔力はドラコから徴収して補充できるものの、どう足掻いても消せない疲労が蓄積していくのはとても不味い。
『……この先も、魔法生物が待ち構えてないと良いんだが』
物理攻撃のみで撃破する。この戦法は自分が分霊箱なのと、敵が動きの鈍いトロールだったからこそ噛み合ったものだ。もしも俊敏だったり空を飛ぶような魔法生物相手だったら、同じような戦い方は通用しづらいだろう。そんな相手が仕掛けられていない事を祈るばかりだ。
絶対に有り得ないだろうが、もしもドラゴンとでも対峙させられた日には普通に降参しようかな。絶対に有り得ないだろうけど。
【……ケルベロスにしたのと同じ事をすれば良いんじゃないか?】
『…………』
もっともな意見。
確かにケルベロスに対して行った突破方法であれば、この先に他の魔法生物がいても問題は無いし、トロールとの戦いで疲れる事は無かっただろう。
しかし―――
『しない』
簡潔に告げた。
トロールのような、多少疲れても最後には討伐できるような相手に、する訳がない。
『―――
床の上に点々と零れている黒い液体を眺めながら、くすりと笑った。
それにしても、ドラコを日記の中に収納しておいて本当に正解だった。あんな風に連続で投擲が行われたのだ。透明マントに隠れさせていても、絶対に戦いの邪魔になっていた。もし流れ弾が当たったりでもしたら、あの少年は二年生に上がる事もなく終わっていた筈なのだから。
【充分な戦果だね。初めての共同作業は楽しかったよ】
『これ以上ないくらい豪華な葬式開いてやるから、明日には死んでてくれない?』
【そんなに気持ち悪がらなくてもいいじゃないか】
悲しいよ、と嘘丸出しの呟きが聞こえてくるがそれも無視した。忘れた頃に気持ちの悪い発言をしてくるが、本気で口にしているのか、冗談のつもりなのかいまいち判断がつかないので地味に不愉快である。
『……そろそろ、記憶の再生が終わる頃か』
適当な日付の中に放り込んだので何の記憶を観ているか知らないが、帰還のタイミングは感覚で分かる。あと数分もすれば、ドラコは日記の中から現実へと吐き出されるだろう。
疲労で若干重い足を動かして、離れた床の上に放置されている日記帳の元へ歩き出す。すぐ傍まで辿り着くと、床の上に胡座をかいて座り込んだ。少しでも体を休ませておきたい。
全身にはトロールの返り血をびっちゃりと浴びており赤く汚れていたが、払拭呪文を使うのも億劫で、その程度の魔力すら失うのが勿体無い気がして、そのままにしておいた。
と、全身に引き締めていた緊張を弛緩させている時、リドルがぼそりと零した。
【あの機能の使い方はユニークだけど……少し不味いんじゃないかな】
『何がだ?』
【だって君が開いたのは六月十三日のページだ。『秘密の部屋』が開かれて、バジリスクが生徒を殺して、その罪を半巨人のアクロマンチュラになすり付けた日だろう?】
『……。……あれ?』
そういえば、そんな事もあったような。
本来の物語で、ハリーも見ていた記憶である。
【君にとっては正しく他人事だろうけど、今現在閲覧者となっているドラコ・マルフォイにとって、その日の出来事は『君の記憶』という認識になると思うよ】
『……、不味い?』
【不味いね】
静かに頭の中で響く返事。ふと生じた疑問をぶつけてみた。
『……記憶の再生って、どこまで流れる?』
【本来なら君の好きなタイミングで終了できるんだけどね。君は匿う目的で機能を使ったから、記憶の再生を終了させるタイミング……特に指定しなかっただろう?つまり……】
『ハグリッドを捕まえた「その後」……罪をなすり付けてご満悦の真犯人、「トム・リドルの本性」を、ドラコに観られる……』
そこまで思考が至った瞬間。
閉じた状態で床に落ちていた日記帳が、ページの隙間から黄金の光を溢れさせたかと思うと、パラパラとひとりでに捲れ始めた。やがて開かれたページには六月十三日という日付が書かれており、溢れ続ける光の中から一人の少年が飛び出してきた。
作中オリジナル呪文
《グラディフォース》(Gladiifors)
⇒物体を長剣に変身させる呪文。
《トランス》(Trans)
⇒物体を横薙ぎに動かす呪文。
《オブリーク》(Oblique)
⇒物体を斜めに動かす呪文。
《ウェルティカ》(Vertica)
⇒物体を縦に動かす呪文。
《プンクトゥーラ》(Punctura)
⇒物体を突き刺すように動かす呪文。