もうすぐ正午を回ろうかという時刻。
冬の陽光は白く冷たく、空はどこまでも澄み渡っているのに、容赦なく雪が降り続けていた。いわゆる、風花という現象だ。粒子のように細かく、しかし確実に積もっていく雪。交通機関が完全に止まるほどではないけれど、足元を白く染め、息を白くさせるには十分な冷たさだ。
そんな白銀色に満たされた空間を切り裂くようにして、ある一人の青年が歩を進めていた。疎らに日を遮る小さな林を抜けると、そこにぽつんと――いや、異様なほどに堂々と佇む一軒の屋敷があった。
その屋敷は周囲の田園風景や低い山並みとはまるで調和しない、異物のような存在感を放っている。シャープな屋根に雪が厚く伸し掛かり、黒い柱と白壁が際立つその建物は、まるで神の手違いによってこの雪景色の中に無理やり配置されてしまった、別世界の遺物のように見えた。
豪奢で、どこか古めかしく、でも不思議なほどに手入れが行き届いている。明らかに、普通の田舎の家ではない。そこへ向かって、青年は淡々と歩いていく。
彼もまた、屋敷が放つ雰囲気と同じく、普通とは思えないほど端正な容姿を所有していた。黒い髪が雪に濡れて額に張り付き、長い睫毛の先にも小さな雪の結晶が光っている。濃紺のコートに緑色のマフラーを巻き、首元までしっかりと隠した姿は、どこか儚げで、それでいて凛としていた。足音は雪に吸い込まれ、ほとんど響かない。
ただ、息だけが白く、規則正しく吐き出される。屋敷の前に立つと、彼は一度だけ深く息を吸った。そして、凍てついた鉄製の門扉をくぐり、玄関の重厚な扉の前に立った。雪は相変わらず止む気配もなく、しんしんと降りしきっている。
青年は、ゆっくりと右の拳を持ち上げた。ほんの一瞬、逡巡が発生したかのようにその動きが不自然に乱れたが、それでも結局、彼の拳は扉目掛けて振り下ろされた。コン、コン、コン。乾いた音が、静寂を打ち破るようにして響いた。
扉の向こうから、誰かが近付いてくる気配。青年はその場で一歩だけ後退し、居住者が姿を現す瞬間に備える。しかし扉が開かれる事はなく、中の居住者は屋敷の中から声だけで青年を出迎えた。
「―――セールスなら結構。宗教なら回れ右して帰れ。電気もガスも昨日払ったし……あと何かあったっけな……」
声は訪問者だけでなく、この世全てのありとあらゆる他人を拒絶するかのような冷たさを含んだものであったが、乗せられた感情に反してやたら美しいものであった。絶妙に聞き心地のいい音程で、中性的な声色。
青年は、最早聞き慣れたと言ってもいい冷たくも美しいその声に、思わずくすりとした笑みを零してしまう。よく通る声を張り上げて、居住者に告げる。
「―――僕だよ。セールスでも宗教でもないから、取り敢えず開けてくれないかな?」
「いや誰だよお前はよ。新手の僕僕詐欺なら帰れよ今すぐよ」
すかさず芸人のようなテンポの良さで突っ込みが挟まれた。相手も意図はしていないのだろうが、互いの呼吸が合ったかのような返事に、青年がまた思わずといった様子の笑みを零す。
「酷いな君は。いつも学校で顔を合わせているというのに、僕の声も解らないのかい」
無意味だと分かり切っていても、青年は敢えて露骨な演技臭さを滲ませた悲しい声を上げた。すると扉の向こうで、居住者の様子に明確な変化が現れたのを感じ取る。間髪入れずにバンッ、とやや乱暴に玄関扉が開かれた。
そこに立っていたのは、青年にどこか似た顔付きの黒髪の少年だった。充血したかのような臙脂色の瞳が、不機嫌そうに半分伏せられた瞼の狭間で静かに光りながら、青年を見据えている。少年は右手で扉を開いており、空いた左手は不自然に背中の後ろに回されていた。
「―――、」
「……」
ようやくお出ましの居住者に、青年が無言で相手からの一声を待機していると。
「―――誰だっけ?」
「……ッ、」
こてん、と心底訳が分からなさそうに首を傾げてきた少年の様子を見せ付けられて、青年が片手で額を覆いながら項垂れた。それでも苦笑の浮かぶ顔を上げてめげずに会話を続ける。
「……本当に見覚えがない?これでも結構顔を合わせていると思っているんだけどな」
「……ん~、見覚えはある……気がするけどな。ん~~~……」
「何故そこで考え込むのか僕の方が聞きたいよね。一応初対面じゃない筈なんだけどね」
対面しても尚自分の正体を突き止めてくれない少年の言葉に、それでも青年は人に好かれそうな笑みを崩さず保ち続けていた。時折唇の端がひくついてしまうのは致し方ないだろう。
「……あ~、もしかして君か?確か、学校で会ってるもんな」
「うん、僕の名前、やっと思い出してくれた?」
「―――そうだ、ドリル!」
「そんな切削工具みたいな名前ではないかな」
頭に電球が灯ったかのような自信に満ちた解答だったが、それは残念でも惜しくもない、完璧な不正解。そんなものをお出しにされた青年は真顔になりながらも、あくまで冷静に少年を否定した。
「……僕の名前、リドル、なんだけど」
「あれ?ドリルじゃなかったのか?」
「人の名前を勝手に
「だって覚えにくい名前だから……」
「嘘だろう?自己紹介するの、これでもう五回目くらいなんだけど。あと、たかが三音の名前を覚えにくいと言われても、それは絶対僕の名前ではなく君の記憶力に落ち度があると思う」
「最近物忘れが激しくて」
「未成年でその言い訳は通らないよ。君はもう少し他人の情報を記憶に留められるよう努力すべきだよ、本当に」
「努力は嫌いだって言ってるだろ!」
「情緒を安定させる努力もすべきだね……」
「ごめんて」
マイペースが過ぎる少年の言葉の数々に、リドルだと名乗った青年は呆れ顔を隠さず、はあ~、と蒸気のような白い溜息を零した。こうしている間にも彼の肩や頭の上に雪が付着しては溶けていく。
「『覚えにくい名前』だなんて、生まれて初めて言われたよ……全く。君は本当に……有象無象とは違う反応をしてくれる」
小声で呟かれた愚痴―――と言っても、どこか嬉しそうな気配を滲ませるリドルなど露知らず、少年は機械音声を再現しているのかと思わせるくらいの無感情な声で問うた。
「で、こんなクソ寒い中何しにきたんだ、ドリトル」
「当たり前のように改名させないで。ヒュー・ロフティングのキャラクターでもないから。……今日は折角のクリスマスだろう?だから―――ちょっと遊びに来た、という感じかな」
「クリスマスぅ?」
その言葉に少年が益々不機嫌そうに瞼を細める。折角綺麗な顔をしているのに台無しだな……とリドルは思ったが、本人が生まれ持った容姿を有り難がっている訳ではない、という裏事情を知っているので口には出さなかった。
「実は、冬休みに入る前に彼女―――サラフィナから言われていてね。『冬休みなんて、後輩はどうせ干からびて腐っているに違いないから、クリスマスぐらい家に押し掛けて様子を見に行ってくれ』、って」
「あの女ボクを干物か何かだと思ってんのか」
「だからまあ、こうして僕が来たという訳さ。名前すら言い当ててくれなかったのは予想外だったけど」
「そもそも何でボクの事を君に頼むんだ?あいつの事だから嫌がらせで本人がやって来そうなんだけど、ってか実際夏休みは押し掛けてきやがったし」
「ああ……実は彼女、最近インフルエンザと牡蠣とヒートショック、とやらに襲われたらしくてね。とてもじゃないが外を出歩けるような状態じゃなかったんだ」
「災厄のバーゲンセールかよ」
通っている学校の先輩という関係性でしかないが、話に出てきた彼女を見舞う災厄を想像して、少年が不快げに顔を歪めた。相変わらず、持って生まれた容姿を無駄にしてしまう表情変化。その様子を、リドルは懐かしい思い出に浸るような眼差しで見返していた。
少年が、ふと思いついた疑問を投げ付ける。
「……一つ、聞いていいか?」
「何でもどうぞ」
柔らかい笑みでそれを受け入れるリドル。少年はそこで初めて、眼球の一部を覆っていた瞼を完全に開き、目の前の青年の全身を視界に収めた。直後、心情を見透かすようにして、彼の視線は鋭くリドルの顔に注がれる。
「……感染症、食あたり、血圧の乱高下。そんな状態の人間が真面に喋れるとも思えない。それに君、あいつの連絡先も知らないし、これも持っていないだろう」
少年がシンプルな部屋着のポケットから、ガラスを貼り付けたような薄い板を取り出した。それはこの世界で、この時代で、誰もが持っていてもおかしくはない、人類にとって身近になり過ぎた通信機器の一つであった。
表情を変えずにその薄い板を眺めるリドルに、一時も目を離す事なく少年が問い掛ける。
「君の言葉に何一つ嘘は無い。……じゃあ何で、喋れもしない、連絡も取れない人間の病状を、身内でもない君が完璧に把握しているんだ?」
少年の瞳は、これといって敵対するでもなく、単純な疑問を消化せんとする意思で満ちていた。リドルは一度たりとも目を逸らさずに、にこりと好青年の仮面を貼り付けて言った。
「―――友達から聞いたんだ」
「友達」
オウム返しの如くリドルの言葉を繰り返す少年。その間にも臙脂色の瞳は一点に集中して、決して閉じられる事はない。
「そう、僕には情報収集が得意な友達がいてね。その子から色々な話を仕入れているって訳さ」
「……ふーん」
途端に、少年の表情から一切の疑問や興味が消え失せた。友達、とやらについて追及したところで、そこから先の真実へ辿り着く事に特別意味を見い出せない、と早々に諦めの態勢に入ったようだった。
リドルは、少年の恒例行事と言っても良いほどの、他人に興味を持てない有様や諦めの早さを感じ取ると、口元を緩めた笑みを見せ尋ね返した。
「僕からも一つ聞いていいかな?」
「聞く
「……どうして僕の言葉に嘘は無いって言い切れるんだい?」
感情の読めない空虚な表情に成り下がりつつあった少年の眼光に、僅かな怒りが過ぎったように見えた。人が知られたくない事情を暴かれそうになった際に垣間見せる、有り触れた姿。しかしそれは、すぐにゆっくりとした瞬きによって消え去る。
「……君のような勘のいいガキは嫌いだよ」
若干背の高いリドルを見上げるような上目を向けながら、少年は低く呟いた。言葉こそ荒々しかったが、少年の表情にこれといった敵意は篭っていなかった。リドルは不思議そうに瞬いて再び疑問を口にした。
「……今の、何?」
「錬金術師の真似」
「……?妙だな……君達の学校のカリキュラムに『錬金術』なんて無かった筈……」
「お前は何を言ってるんだ」
微妙に噛み合わない会話。少年は自分の台詞の意味がまるで通じないリドルを訝しみ、リドルは錬金術という単語に何故か食いついて思考を巡らせている。
……と、どさくさに紛れて自分の質問を無かった事にされたリドルは、これ以上少年を問い詰める事はせず、あっさりと話題を切り替えた。
「……で、君は、遊びに来た僕を迎え入れてはくれないのかな」
「様子を見たら帰るんじゃないのか?」
「帰るとは一言も言ってないよ。……こんなにも雪が降りしきる中訪ねてきた知人を、無情にも追い返すつもりかい?」
「アポイントも無い訪問なんて追い返されても文句言えないだろ―――いや、待て」
完全に追い返そうとする流れだったが、少年は唐突に右手を上げてリドルの言葉を制した。その後に何かを思い出すようにして握った拳を顎に添える。やはり彼の左手だけは背中に回されたまま動かない。
「……、そこでちょっと待ってろ。
「……?うん、まあ……待つよ」
そして、バタンッと素早くも乱暴な動きで扉が閉められた。屋敷の中に入っていった少年の、ダンダンという荒っぽい足音が外のリドルにもはっきり聞こえてくる。
何を確認しに行ったのだろう、と不思議に思いながらも、リドルは律儀にその場に突っ立っていた。今や剥き出しの耳や頬は寒さのせいですっかり赤らんでおり、抑えきれない
待っている間、非常に不可解な事に、屋敷の中から度々正体不明の物音が響いてきた。何かを連続で殴り付けるようなガンドンという打撃音、全速力で疾走しているかのような激しいドカドカという足音。そして極め付きは、明らかに火事の一つでも起きたんじゃないかと思うくらいの、不安にさせる大きな爆発音。バゴン!!と玄関先で立っているリドルにも伝わる衝撃波が発生した時は、それまで冷静だった彼も流石に周囲をきょろきょろと見回すしかなかった。
そうして謎の物音に翻弄されながらも待ち続けていたが、再び少年が玄関扉を開けたのは、十分も後の事だった。
「……確認は終わった。まあ、入りなよ」
「うん、いくらなんでも遅いよね?流石に雪の中客人を外に十分近く放置するのはどうかと思うよ?」
「ごめんて」
笑顔ながらも言葉の節々に明らかな刺を含ませた物言いのリドルに、少年は「ごめん」なんて微塵も思ってなさそうな謝罪を口にした。
しかし、少年にしてはよくできた方だと知っているリドルは、それ以上の文句を付けなかった。肩の上に居座っている雪を払いながら、大人しく彼の招待に従って屋敷の中に入っていく。もっと酷い時、この少年は謝罪すら口にしない性根をしていると、ずっと昔から知っているから。
屋敷に入ってすぐの所にコートハンガーがあった。少年がちらりと振り返って顎でハンガーを指し示したので、リドルは遠慮なく着ていたコートをさっと脱いでその上にマフラーを重ね、一緒にハンガーへと掛けさせてもらった。防寒着を脱いでも、屋敷の中は暖房が効いているのか快適な温度が保たれている。
「さっき、明らかに家の中からしてはいけない音が聞こえたんだけど……」
「今はボクしか家にいないぞ。空耳だろ」
「君、それはちょっと無理があるんじゃない」
リドルが出したさり気ない質問に、しかし少年はそれきり口を閉ざし物音の正体を明かす事は無かった。
大きな玄関ホールに迎え入れられたリドルは、ぐるりと眼球の動きだけで前を歩く少年を観察した。背中を晒す格好になっても尚、リドルの視界から外れるようにして、彼の左手が今度は腹の方に回っていた。玄関先で対峙した時は確かに背中の後ろに隠されていた、左手。
「―――君、大丈夫かい」
「あ?」
少年が首だけ動かして背後のリドルを見やる。平面的な声で話し掛けたリドルは、何でもない事のように少年の左手を指差した。
「左手、血が出ているよ」
ただの一度も、少年の左手を視界に収めた事のないリドルが、普通なら知り得ない事実を簡潔に告げた。
少年は視線をリドルから己の左手首に移すと、眼前まで持ち上げた。その左手は、言われた言葉の通り確かに出血を起こしていた。手首に刻まれた切り傷から、獲物を目前にして涎を垂らす獣のようにたらたらと零れる鮮やかな朱色が、重力に囚われて屋敷の絨毯に丸いシミを描いた。
「……忠告、どうも」
無感情な声でそれだけ言うと、少年はそれ以上一言も発する事なく前方へ向き直り、屋敷の中を歩いていく。この件について、絶対に会話を続けさせないという、無言の圧力が滲む背中だった。……リドルもまた、彼の背中を見て余計な言葉を付け足す事もなく、無言で少年の後に続いていった。
ある廊下を通り過ぎる際、壁に掛かっている貴族の肖像画の配置に、謎の空いたスペースがあった。人一人が収まるぐらいの大きいスペース。不自然に何の絵も飾られていない壁の一部分を見上げながら、どことなくひりつく空気を変えようとリドルが口を開いた。
「……この廊下、色んな絵が飾ってあるけど……どうして不自然に何も無いスペースがあるんだろう」
「あ~、そこな。おじ……祖父が昔元気だった時、このスペースにボクの肖像画を飾ってやるって言ってきて……。『血筋はお前で最後だから』とかなんとかって、何かの記念……で?でも正直、そんな事されても嬉しいと感じる思考回路を持ち合わせていなかったから、やめてほしいって断ったんだよ。絵よりお金が欲しいって騒いでた……気がする」
「君は昔から風情という概念を持ち合わせて無いな……」
「逆に絵を描いてもらって嬉しい人間なんているのか?そんなの、人が生きる中で何の必要性も感じない。貰って確実な実用性がある物、現金の方がずっと合理的に決まってる」
「君が病的なまでの拝金主義者って事は理解した」
そうして二人はリビングと思われる部屋に辿り着いた。
少年はふかふかのクッションで構成されたルームチェアを引きずり出すと、ガラステーブルの前に置いてリドルに座るよう促した。自身はアイランドキッチンの方へ向かい、小奇麗に整頓された食器棚から二人分のコップを用意し始める。衛生の問題に気を遣っているのか、そのまま飲み物を注ぐ事はせずスポンジに洗剤を垂らし、コップを洗い直そうとしている。左の手首にはいつの間にか大きいガーゼが貼り付けられていた。
「……大した物は出せないけど、一応客人だし座ってなよ」
「わざわざありがとう。この椅子、とても高そうだね」
「汚しても気にするな。どうせ親の金だ」
「いや気にするよ……」
リドルは少年が飲み物を用意してくれている間、手持ち無沙汰なのでガラステーブルの上へ視線を巡らせた。読書の途中だったのだろうか、開かれた小説が一冊だけ裏返しにされて置かれている。タイトルは『変身』。表紙には気味の悪い虫の姿が黒く描かれており、目にする者に何とも言えぬ不快感を与えてくるようだった。
リドルはその小説の内容を偶然にも知っていた。ある日突然、何故か人間から虫の姿に変わってしまった男を描く物語。最終的に虫に変わり果て、元の姿にも戻れない男は家族全員に疎まれ、家族自身の手で殺されてしまうという、あまりにも救いがなく酷い結末だ。
テーブルの上には他にも雑多に本が散らかっていた。確認できるタイトルは、『アーサー王物語』、『指輪物語』、『お金は寝かせて増やしなさい』、『親指トム』、『完全自殺マニュアル』、『そして誰もいなくなった』、『フィネガンズ・ウェイク』……。
数冊変な本が混ざっている気がしたが、見知ったタイトルも幾つかあった。リドルが興味深そうにそれらを眺めていると、突然リビングの壁際に設置されていた大きな液晶テレビの電源が点いた。陰気臭い面をした若年の男性アナウンサーが、お昼のニュースを読み上げている場面が映し出される。
少年の方を見れば、その手にリモコンが握られていた。彼が点けたのだろう。これでも見て暇を潰せという事らしかった。
『都内の武道館近辺で、複数の少年による集団自殺とみられる痛ましい事件が発生しました。警察によりますと、午前6時ごろ、会場から約500メートル離れた公園で、16歳から18歳の少年7人が死亡しているのが見つかりました。現場には遺書のようなメモが残されており、警察は自殺と断定する方向で捜査を進めています。この事件を受け、主催者側は本日夜に予定されていた人気アーティスト、フェニックス高橋氏のクリスマスライブを、急遽中止することを発表しました。主催者は「観客の皆様ならびに、近隣住民の安全と心の平穏を最優先に考えた苦渋の決断です」とコメントしています。会場付近では現在、警察による現場検証が続いており、周辺住民からは「ショックで言葉が出ない」という声が。引き続き、詳しい情報が入り次第お伝えします―――』
『少年』、『集団自殺』という単語を耳にした瞬間、リドルの顔色が変わった。最小限の首の動きだけで少年の様子を確認する。彼はニュースに興味などないらしく、物騒な単語を垂れ流すテレビなどお構いなしといった真顔でコップの泡を水道水で洗い落としていた。
「……君、このニュース、知ってた?」
リドルが静かに尋ねると、少年は一瞬だけ画面をちらりと見た。
「ああ……フェニックス高橋、あいつの好きなマルチタレントだよ」
「いやそうじゃなくて。というか彼女、こんなふざけた名前の人間のファンだったのかい?」
「解ってると思うがそれ本名じゃなくて芸名だぞ。まあ不幸中の幸いじゃないのか?体調死んでて観れない筈のライブが中止になったんだろ。今頃他のファンに向かってざまあみろってゲラゲラ笑ってるさ」
「いやそうじゃなくて。君と同じくらいの年頃の子が自殺したんだよ」
「名前も知らん赤の他人が生きようが死のうがどうでもいい」
「……ちなみに君、自分が今何歳か言える?」
少年はぴたりと動きを止め、数秒間記憶の引き出しをまさぐっていたようだが、成果は実らなかったらしい。正確な答えを用意できなかった事実に少々恥じ入っているのか、居心地悪そうに視線を逸らして呟いた。
「え、……?さあ……意識した事ないな……」
「……自分の年齢が言えない子は初めて見たよ」
「だってしょうがないだろ?普通意識しないだろ年齢とか」
リドルは事もなげに言ってみせる少年に、ほんの少しの憐憫が籠った視線を注いだ。
……普通の両親の元に生まれて、普通に育ってさえいれば。自分の年齢が分からない、興味も持てないなどという子供に成長する筈がない。これだけの短い会話の中でも、少年の家庭は『普通』ではない、という悲惨な事情がはっきりと顔を覗かせていた。
だって、青年の故郷でも、少年の生きるこの世界でも、歳を重ねた子供の誕生日を祝うという文化自体は確かに実在するからだ。
「君は他人だけでなく自分自身にもっと興味を持つべきだ」
「えぇ……?面倒臭……」
ただの知人にも拘らず、わざわざ有り難い助言を提供してくれるリドルなど眼中にないのか、少年は何もかもに無関心な台詞だけ零した。結局ニュースの内容にも興味を示す事はなく、彼は持ってきたコップの一つをリドルの前にことりと置いた。
「はい、飲み物」
「ああ、ありがとう、遠慮なくいただくよ……ッ、」
しかし、礼を言いながらコップに口をつけようとしたリドルの全身が強張った。中の飲み物が、僅かな澱みもない透き通った無味無臭の液体だったからである。
動揺を咄嗟に抑えながら、ぎこちない笑顔を湛えて少年に問う。
「えっと、これって……」
「水道水ですけど」
「水、道水……」
「大した物は出せないって言っただろ。ちなみにこの村だと軟水の方。おかわりはご自由に」
至極単純な説明をしながら、少年はリドルの眼前で立ったまま、やたら美味しそうに自分の分をぐびぐびと飲んでいる。固まっているリドルなど完全にお構いなしだ。
「……君は、いつもこれを飲んでいる?」
「コーヒーだのお茶だの大衆が無駄に通ぶりたがるヤツは嫌いだ。ボクは昔も今も水派なんでね」
「……水派」
「蛇口を捻るだけでいつでもありつける。この国の安全基準なら絶対に腹を下す事もない。これ以上手軽で完璧な飲料なんてボクは知らないね」
少年があまりにも細やかな幸福を味わうような飲みっぷりを晒しているので、リドルもゆっくりと透明な液体を一口飲んでみた。……なるほど、特別美味くも不味くもない。それでいて見た目はとても澄んでおり一切の不快感はなく、余計な味が何一つない。これはこれで、水分補給の手段の一つとしては優れていると感じる。
……しかし。どうしてもリドルには思うところがあった。テーブルの上にコップを置いて立ち上がる。
「……この家、住んでるのは君だけじゃないだろう?君の家族は別の物を飲んでいると思うんだけど」
「ああ、母さんはやたら紅茶が好きで、いつも一人で飲んでるけど。確か戸棚に茶葉が残ってた筈……ダージリンとかいうの」
「やっぱりあるんだね。……茶葉とキッチンを使わせてもらっても?」
「自分で淹れるのか?お好きにどうぞ。別に気にしなくていい、どうせ親の金だ」
「……君は自分の物じゃなかったら、何が減っても気にしないんだろう」
キッチンのカウンターに立ったリドルは、軽く息を吐きながら周囲を見回した。この国のキッチンは彼の故郷であるイギリスのものとは違うが、基本は同じだ。道具さえ揃っていれば、完璧な一杯は作れる。
少年はいつの間にかソファに座って腕を組んで、どこか嘲るような目で彼を見ている。水道水で十分だろうに、そんな面倒な事をして何の意味があるのか、とでも言いたげだ。
リドルは臙脂色の瞳に向けて一度微笑み、言葉を掛ける事なく作業に取りかかった。
まず水道の蛇口をひねり、新鮮な水をケトルに注ぐ。ダージリンは繊細だから、水の質が命だ。少年の言葉通りなら、この軟水は紅茶の素材として最適なものであった。
ケトルをコンロに置き火を点ける。沸騰するまでの間、彼は戸棚を開け、少年の母親が買っておいたというダージリンの茶葉を探した。あった―――インド産のファーストフラッシュ、黄金色の葉が輝くパッケージ。満足げに頷き、それをカウンターに置く。
ケトルが沸き始め、軽い笛のような音が響いた。リドルは素早く火を止め、お湯を少し冷ます為に数秒待つ。ダージリンは沸騰し過ぎたお湯では渋みが強くなる――― 90度前後が理想だ。次にティーポットを手に取り、中に少量のお湯を注いで内側を温める。ぐるぐると回し、熱を均等に行き渡らせたらお湯を捨てる。これで茶葉が急激に冷めないようにするのだ。
ティースプーンを手に、茶葉を計る。作ろうとしているのは二人分だから、ティースプーン山盛り二杯を正確に。葉をティーポットに落とすとふわりとした香りが広がる。新鮮なダージリンの、軽やかでいて花のような香り。リドルは鼻腔を優しく擽るそれに目を細め、ふうと小さく息を吐いた。
次に、ケトルからお湯を注ぐ。高くから注いで空気を含ませ、茶葉を優しくかき回すように。注ぎ終えたら蓋をして、蒸らし時間を計測。ダージリンには3分が最適だ。壁に掛かる時計の針をちらりと確認する。待っている間の隙間時間に指先でティーポットを軽く叩き、熱の具合を確かめてみた。
彼の全ての動きは素早く、しかし丁寧に、無駄のない動きで進んでいった。まるでこれが当たり前の日常であるかの如く。
ついに3分が経ち、リドルはティーポットを傾け、ソーサーの上に用意しておいた二つのカップにそれぞれ注いだ。
ミルクは入れない。ダージリンはストレートでこそ、その繊細さが生きるのだ。レモンも砂糖も不要。―――完璧な一杯だった。
リドルは徐にカップの一つを少年の元へ運び、給仕のような洗練された仕草でソーサーごと差し出した。
「さあ、飲んでみてくれ。この面倒な工程に、何の意味があったのか?言葉じゃなくて、味で分かる筈だ」
少年はリドルが自分の分まで作っているとは思わず、少し目を見開いた。ややあって面倒臭そうにカップを受け取り、鼻を近付けてみる。最初はただの熱いお湯だと思ったが、その内鼻腔を擽るものがあった。花畑のような、軽やかな甘みのある香り。
本当に意味がある出来栄えなのだろうか、と疑いながらも少年は一口啜った。そして、目を見開く。口の中に広がるのは、水道水の無味無臭とは全く違う世界。軽い渋みと果実のような甘みが絶妙に絡み合い、喉を通る度に体がじんわりと温かくなる。思わぬ衝撃が全身を駆け巡った。
「これは……水じゃ味わえない……」
少年の言葉は途中で詰まり、再び二口目を飲み始める。先程までの舐め腐った態度が溶けていくように、自然と顔が緩んでいき、とうとう魅了されてしまった目付きでカップを見つめ始めた。こくりこくりと嚥下を繰り返す喉が止まらない。
すっかり飲み干してしまったところで、少年がはっと我に返る。同時に、呆気なく紅茶の魅力に屈してしまった自分自身を恥じるようにぐぬぬ、と悔しげに眉根を歪ませた。あっという間に空になったカップの底を睨み付けている。終始黙り込んでいたが、彼のその眼光が、何よりも雄弁に本音を物語っていた。―――できるならもっと飲みたい、と。
リドルは立ったまま自身もダージリンティーを優雅に味わいつつ、予想通りの光景を目の当たりにし、上品そうにくすりと笑った。
「これこそが紅茶の意義さ。単なる水分補給じゃない―――人生を彩る小さな贅沢だよ」
「くっ……イギリス人め……!」
「君にも僕と同じ血が流れているんだから、是非紅茶の魅力に触れて欲しいと思ってね。楽しんでくれたのなら幸いだ」
「ケッ!どうせボクは混血だよ。エセイギリス人さ」
『混血』という単語にカップを摘むリドルの指先がぴくりと動いたが、少年がその些細な異変に気付く事はない。
二人が紅茶を堪能している間にも、点けっぱなしのテレビからはアナウンターの声が垂れ流されている。
『―――つまり長年、夢物語とされてきた「クライオニクス」―――。コールドスリープとも言える、人体を極低温で凍結保存し、未来の医療技術によって蘇生させるという技術が、現実のものとなっているのです。スイス・ジュネーブの国際研究機関と、アメリカのアルコー延命財団が共同で発表した最新の研究結果によると、18ヶ月間液体窒素で凍結されていたヒトの脳組織が、ほぼ完全な機能回復を果たして蘇生に成功したとされています。この実験では、ナノスケールの修復ロボットとAI支援の神経再構築技術を組み合わせ、凍結による細胞損傷を99.7%修復することに成功したということです。研究チームのリーダーは、「この結果は決してSFなどではない。我々は、『死』を一時的な状態として扱える時代に足を踏み入れたのだ」、と語っています。―――この発表を受け、世界中のクライオニクス施設では、新たな登録希望者が急増。未来の自分に賭ける人々、愛する人を待ち続ける人々―――その数は、もはや数え切れないほどです』
小難しい専門用語の字幕と、若干グロテスクな人体の内部構造を入れ替わりで映し出す画面。
『しかし、同時に多くの専門家は懸念すべき不確実性を強く訴えています。「蘇生は可能になったかもしれない。でも、記憶や人格が完全に保たれるのか? それはまだ未知数だ」と。人類は今、永遠の命への扉を、ほんの少しだけ開いたのかもしれません。あるいは、それは新たな倫理的葛藤の始まりとなるのかも―――』
画面の奥のスタジオの空気は、どこか希望に満ちて揺れていたように見える。
次々と映し出される、科学者と思わしき白衣を着た人物の写真を流し見しているリドルの表情は、穏やかではなかった。自分が遥か昔から信じ続けている『何か』、それを不遜にも掻き回され、冒涜されたかのような怒りを内包した彼の目は、静かに細められていた。
『―――続いてのニュースです。本日、
話題は次のニュースに移る。原稿を読み上げるアナウンサーはやはり真っ直ぐカメラを見据えて語っていたが、その眼差しには懐疑的な不審感が見え隠れしていた。
『言葉を発しない他人の思考を読み取る能力、身体の一切を触れずに物体を数センチから数十センチ動かす現象、近くにいる生物に特定の行動を取らせる事例。これらの現象は、複数のカメラ、センサー、独立した観測者による監視の下で観測され、統計的に有意な結果が得られたとの事です。研究主任は、「これは最早偶然やトリックでは説明できない。科学的に検証可能な形で、超常的な能力が実在する可能性が、初めて明確に示された」と述べています。ただし、彼らは慎重な姿勢を崩していません。「この能力がどのように生じるのか、脳のどの部分が関与しているのかはまだ不明です。また、倫理的、社会的な影響を考慮し、被験者の身柄確保及び保護を最優先に進めるべきではないかと考えています」と。この発表は、超心理学の歴史において画期的なものとなる可能性がありますが、同時に、プライバシー侵害や能力の悪用といった深刻な懸念も呼び起こす事になるでしょう。もしこの発見が事実であるならば、人類史に残るパラダイムシフトとなります。超能力とは、もはやフィクションだけのものではないのかもしれません……』
スタジオの照明が、先程までより少し暗く感じられた。言葉の一つ一つが、重く、静かに響く。
リドルは僅かに目を見開いて、それから悟られないように少年の顔へ視線を向けた。しかし少年は今までのニュースなどまるで聞こえていないらしく、テーブルの上に裏返して置いていた『変身』の小説を手に取り、本を傷ませないよう栞を挟んでいる最中だった。どこか眠そうな虚ろな瞳は、テレビの画面すら視界に入る事はない。
そんな彼の様子を眺めた後、再び画面に視線を戻したリドルの空いている片手の拳が、ゆっくりと握り締められた。自身の記憶の片隅に居座る、忌々しい過去の体験を握り潰さんとでもするかのような、怨嗟に満ちた動き。
「……本当に、お前達マグルは……どこまでも―――」
抑制し切れない憎悪が搾り出され、とても小さな呟きへと姿を変え、リドルの唇から吐き出される。それ故に、彼の言葉は彼自身にしか聞こえなかった。
最早睨み付けると言って良い程の苛烈な眼光が、画面の向こうのアナウンサーと―――そして、研究主任だと紹介された男の写真に向けて、ぎらぎらと注がれていた。疎らに白髪の混じった男の顔写真は、そんな睥睨など露知らず、と言った様子の澄ました顔面を晒しているだけであったが。
「……、……そういえばずっと気になっていたんだけど、どうして君はクリスマスの日に家で独りなんだい?」
リドルは鬱屈とした思考を無理やり霧散させるように、今し方脳内に仕入れてしまったニュースの内容を掻き消すように―――屋敷を訪ねた時から抱えていた違和感をやっと口にした。
少年があまりにも当たり前のように孤独な時間を享受していたので、何となく尋ねづらい空気になっていたのだ。
「こんな日に独りきりなんておかしいよ」
「……んー、年末年始が近いとこんなもんだ。両親はこの時期、二人で旅行に行ってる」
少年はやはり事もなげに答える。声に一片の憎しみも悲しみも乗っていない、淡々とした口調。温かい飲み物を摂取したせいか副交感神経が優位になり、完全なリラックス状態となっている。真昼だというのに、彼の両の瞼は今や眠そうに開閉を繰り返していた。
「お陰で自由に過ごせる楽しい冬休みさ……。家に誰も居ないっていうのは、素晴らしい事だ……」
「……いいかい、君の歪んだ認識では大した事はないんだろうけどね。僕の国だって1933年には青少年法が制定されていて、子供の放置は犯罪として扱われる事もある。はっきり言って、今の君の状態は異常だと思うよ。勿論、君ではなく両親に非があるものだ」
「……ん~~~…………。どうでも……いい……」
少年はこの場に居ない人間に対し、当事者の如く怒りを滲ませるリドルの言葉など完全に聞き流している。頭はうつらうつらと船を漕いでおり、明らかに夢の旅路へと出発する準備に入っていた。
リドルは屋敷に来てから自分の言葉が何一つ響かない現実に対して、隠し切れない憤りで表情を顰めた。
―――どうして目の前の少年は、こんなにも―――この世界の全てを、諦めてしまっているのだろうか。
「……やっぱり、様子を見に来て正解だった。僕が来なければ君、休みの間に死んでいたんじゃないか?大体、ちゃんと生活できている?食料の貯蔵は?もしもこの雪が激しくなった日には、補充さえ困難になるよ」
「ん……昨日は、コンビニに、公共料金払いに、行った……」
「―――だから?」
「しばらくは外出する体力、無い……。終わり。解散。閉店ガラガラ……」
「何も終わってないよ解散しないでくれ」
思わずと言った調子でリドルは声を張り上げ、飲み終えたカップをテーブルへ静かに置いた。次に、キッチンの奥にあるメタリックな光沢を放っている冷蔵庫の元へ向かう。
他人の食料事情を勝手に覗くのは本来なら憚られる行為であるが、この場では致し方ない。彼が抵抗なく扉を開くと、凍て付いた冷気の襲来と共に中身が露わになった。全ての収納スペースは、見事な伽藍堂を披露している。何故か紛れ込んだ目薬の容器が一つだけ、雑に横たわっているだけであった。本当に何も無い。肉も、野菜も、卵も、パンも、調味料も、何もかもが備わっていない。
「なんにも無いじゃないか!どうなっているんだ君の家は……!普通、こういう時は少しくらい食べ物が残っているものじゃないのかい?」
「あれ……そんなにすっからかんだったかな。んんん……泥棒でも入ったんじゃない?まあどうでもいいよ……人間なんて案外頑丈だから。三日くらい食べられなくても、死にはしないって……」
「このままだと君は!絶対に三日過ぎても動かないだろう!」
延々とやる気の無い少年の様子に痺れを切らしたリドルが、珍しく大声を上げた。直感などではなく、確信したからだ。この少年は―――自分が干渉しなかった場合、絶対に独りで朽ち果て死に至るだろうという確信。
―――干からびて腐っているに違いないから、家に押し掛けて様子を見に行ってくれ。少年の腐れ縁である少女が齎した頼みごとは、実に的確だった。彼女もまた何らかの確信に至って、最悪を回避する為、予め頼れそうな自分に声を掛けていたのだろう、とリドルは思った。
―――そうだ。この少年はずっと……『死』に付け狙われているのだから。
『死』はとても狡猾で、手段を選ばない。少年にまとわりつく怠惰は、決して彼がただの怠け者だからではない。彼を殺そうとする明確な意志が関与しているからこその、忌まわしい産物であった。
そして、リドルの目的は……そんな『死』を、見過ごす事ではなかった。
「悠長に構えている場合ではないよ。……買い出しに行かないと」
リドルがちらりと少年に視線を向ける。少年は未だソファに座っている。瞼をしっかり閉じたまま応答した。
「何?行ってきてくれるんだ?」
「何で当然の如く僕に行かせようとしてるんだ。一応こちらは客人であって、君の召使いではないよ。図々しいにも程がある。……金銭を持っているのは君だろ?」
「財布なら渡すから買ってきてくれない?」
「駄目に決まっているだろう。……君がその重い腰を上げて行くというのなら、手伝うくらいはしてあげるよ。ほら立って。君がちゃんと動くまで、僕は絶対に帰らないからね」
「えぇ~……。しょうがないなぁのび太君は……」
「これは驚いた。本当に人の名前を覚える気がないよこの子」
少年は寝ぼけ眼ながらもなんとか立ち上がった。よく見ると彼の目元には黒ずんだ隈がこびり付いている。やたら眠そうにしている要因はこれにあるのかもしれなかった。のそのそと、腰の曲がった老人のように鈍重な動きでリビングを出て行こうとする。
「んじゃ着替えてくるから……」
「言っておくけど、また十分も待たせたら許さないよ。引き摺ってでも外に連れ出してやるからそのつもりで支度をしてくれ」
「え、怖……本気で怒ってるじゃん……」
リドルのにっこりとした満面の笑みから漏出する怒りの感情を正確に読み取った少年は、そのせいで従いそうになっていた微睡みが吹き飛んだのか少しだけ歩行速度を上げて消えていった。あくまでも少ししか早くならない彼の動きに、リドルは消えゆく背中に向けて笑みを消しながら溜息を吐いた。カタツムリが重たい殻を捨ててナメクジになったかのような、呆れる程大差のない速度変化でしかない。
「……あれじゃ
この世界に存在しない生物と比較しながら、彼はもう一度呆れの感情を乗せた溜息を吐いた。
ピロピロピロ!と軽快な電子音が鳴り響く。
少年は自室で外出用の衣服に着替えながら、ベッド上に放り投げていた薄い板―――通信機器を手に取った。画面に表示された相手の名前に覚えがあった為、何の躊躇いもなく通話ボタンを押す。
「もしもし?」
黒いジャケットに袖を通しながら電話での定型句を述べると、低い成人男性の声が響いた。隠そうともしない焦燥感で溢れた声だった。
『―――あぁ、良かった繋がったか!無事なのか!?』
「ボクが事故にでも遭ったかと思ってる?」
少年は自身を案じるかのような相手の声色に表情を変える事なく応じる。使用した形跡がほとんどない勉強机の一番上の引き出しの鍵穴、そこへ目掛けて銀色の鍵を差し込んで回す。
『いや、心配したんだよ!今朝電話掛けてみたらうちのアホな妹、何て言ったと思う?子供をほっぽり出して呑気に旅行と来たもんだぞ!?そりゃ心配の一つもするだろう!』
「……叔父さん、ボクもう小学生でも無いんだけど。家に独りだろうが自分で大抵の事はできるって」
『駄目だ駄目だ駄目だ!子供を独りにするだなんて何かあったら遅過ぎるっていうのに!あのアホ女はいっつも自分と旦那の事ばっかりだ!何歳だろうが、未成年を家に置き去りにするのは許されない行為なんだよ!』
電話口の相手―――少年にとっての叔父は、怒りのままに捲し立てている。少年はうげえ、と面倒臭そうに顔を顰め、いっそ通話を切ってしまおうかとその親指が板の表面を這いずった。
『旦那の方も身勝手が過ぎる!聞けば、今日に限ってはアホ女と別行動でどっか出て行ったそうじゃないか?全く何考えてるんだあのクソ野郎は……!クリスマスぐらい、妻や子供の傍に留まる事もできんのか?いや、そもそも―――
叔父の怒りの矛先が父親に向いた。
少年の記憶の中では、確かにあの男は家の中に居る頻度など低いものだった。いつもいつも分厚い書類をカバンの中に詰め込んで、高級車を駆り出してどこかの研究所に社畜の如く収監されに行っていた。社畜だと思ったのは、帰宅の際には必ずげっそりと具合の悪そうな顔色をしていたからだ。さぞや奴隷のように扱き使われているに違いない。
『何で自分がこんな事』だの、『これも金の為だから我慢』だの、悲観的な思考を垂れ流すあの陰気臭い顔を見ながら、陰でいつも溜飲を下げさせてもらっていた。
子供の頃からずっと、あの書類に何が書かれているのか盗み見てやろうと思ったが、印刷された書類には全て暗号処理が施されていて、絶対に解読する事はできなかった。
『……という訳で、あいつらは話にならん。今から君の家に行く事にした』
「は?―――それはないよ叔父さん、突然過ぎるじゃないか」
予想だにしない言葉をぶつけられて、通話を切ろうか迷っていた少年の指が止まる。快適な孤独の時間を邪魔されそうな気配に歪む眉根を止められない。
『ああ、君は何もしなくていい。客人としてもてなさなくていい。ただ君の様子を見に行くだけだ、俺が来ても居ないものだと扱ってくれて構わないから』
「そういう問題じゃ……。ボク、独りで過ごす時間も気に入ってるのに」
『流石にクリスマスに独りぼっちはないだろ!「ホーム・アローン」なんて今時流行らないからな。あんなストーリーは、アレだ、あのアレ、「コンプラ違反」とかいうヤツだ!』
「叔父さん絶対『コンプラ違反』の意味よく知らずに使ってるだろ」
クリスマスに置き去りにされた幼い主人公が、不法侵入者を返り討ちにする有名な映画。確かに今の時代にあの映画と同じような設定のストーリーは、各方面から盛大に叩かれて炎上しかねないだろう。
だが、少年は別に全てがどうでも良かった。自分にとって快適だと感じられる生活さえ保証されていれば、世の中の大抵の事象など本当に興味が無かった。
「叔父さん……別に大丈夫だから、わざわざ来なくていいって、本当に。あ、そうだ、学校の知り合い―――いや、その……。と、友……友達?が遊びに来てるから……。一応、独りじゃないから……」
今現在この家に滞在している青年。彼の事を『友達』だという設定にしてしまえば、叔父の訪問を避けられるかもしれない。そう目論んだ少年は、全く言い慣れない『友達』という単語に舌を縺れさせながらもなんとか言い放った。恐らく、生まれて初めて声に出したと言ってもいいくらいに言い慣れない単語だった。
『何だって?友達……?君に、友達?いや……今、家に来ているのか?』
叔父の方も、まさか少年に友達と呼べる存在がいるだなどと想像もしていなかったのか、素直に応じる事はなく怪しむような口調に変化した。それはある意味大変に失礼な態度ではあったが、「自分に友達なんて小洒落た存在ができる訳ない」、と思われても仕方の無い人生を送ってきた自覚のある少年は、文句を垂れる事なく黙って受け入れた。
「そう、友達……多分?買い物を手伝ってくれるって―――」
『いや待ってくれ、その子―――今、そっちの家に、居るんだな?一体、何ていう子なんだ?』
空気が、明らかに変わった。
叔父の様子は、最早友達が実在するのかを怪しむとかではなく。まるで、少年の家の中に殺人鬼が侵入したのではないか?と言わんばかりに、慎重な口ぶりとなっていた。今現在も少年が無事である事実が、平然と電話に応じている事実が信じられない、そんな警戒と緊張が伝わってくる震えた声。
少年はどうしてこんなにも叔父の様子がおかしくなったのか、訝しみながらも淡々と質問を処理する事にした。
「あー……、えっと。何だっけ、そうだ、ドリトルとかいう奴」
『は、え、ドリトル?え―――誰???』
叔父は完全に困惑していた。まあ、彼にとっては会った事もない人間なのだからこの反応は当然だろう。と、少年は大して気にする事もしなかった。
「誰って言われても、さっき言った通り学校の……友達、だけど……」
『そ、そうか、ドリトル……っていう子なのか?一体……どんな子なんだ?』
非常に不可解な事に、叔父の声から滲む警戒心は完全に消え去ってはいなかった。まだ疑うのかと、そんなにも自分に友達が存在する事実が信じられないのかと、少年が心底うんざりした表情を浮かべた。
別に、自分もあの青年を友達だなんて思っちゃいない。嘘八百だ。叔父を避ける為の『材料』として消費するだけの、都合の良い存在。だが、それほど杜撰とも思えないこの嘘が、まるで通用しなさそうな会話の流れは流石に嫌気がさしてくる。
「どんなって言われても。んー……、どこにでもいる胡散臭い優等生というか、まあ、気遣いは上手だね。あ、わざわざ紅茶を入れてくれたりして……そうだ、イギリス出身の子なんだよ。髪も目も黒いけど」
ガタガタガタッ!と、電話の向こうで激しい物音がした。高所に設置されていた物体が立て続けに落下してしまったかのような、そんな光景が目に浮かぶ音。
何だ何だ?と、少年が思わず意味も無いのに通信機器を耳から離して画面を凝視した。当然、そこには通話中である事を示す簡素な表示しか映っていない。
「……もしもし?何か事故った?」
『あ、ああ、済まない、いや、ちょっとびっくりしてしまっただけで―――いや、いやいやいや!待って、待ってくれ!』
「何を」
ガタンガタン、と何か重たい物を動かす音。推測するに、どうやら先程の物音の正体は、驚いて体が動いた拍子に棚か何かにぶつかってしまい、そこから落下してきた荷物が発したもののようだ。
『も、もしかして、その子―――ドリトルって……君が聞き間違えたか何かじゃないか?なあ、もしかして―――その子本当は、「リドル」って名前じゃ―――縺?縺ィ縺励◆繧牙菅縺悟些縺ェ縺?掠縺上◎縺薙°繧蛾??£』
その時。
叔父の言葉の途中で、ザリザリザリ……ッ、と、通話に不快なノイズが走り、全く聞き取れなくなってしまった。
「もしもーし?」
少年は再び通信機器を耳に押し当てたが、ザザザザーッ!や、ガガーピピーッ!と、鼓膜を震わすのは最早酷いノイズのみで、叔父自身の声は1デシベルたりとも聞こえなかった。電波障害にしてはやけに唐突過ぎではないだろうか。
「トンネルにでも入ったか……?」
しかし、叔父が立てた物音から考えれば、車中や電車内から電話を掛けてきていた、というのは考えづらい。狭い車内で高所なんて存在しないし、電車だって客の頭上に荷物を置くスペースはあれど、人が動いた程度の衝撃で落下するような作りでもないだろう。
「まあ、いいか」
面倒な通話を切断する切っ掛けを生み出してくれたノイズに、少年はむしろ感謝していた。たっぷり十秒程待ってもノイズだけを垂れ流す様を確認して、迷いなく通話終了のボタンを押す。
「でもなあ……あの様子じゃ、今頃こっちに来る準備してんだろうなあ……面倒臭……」
例え通話を切っても、叔父の訪問まで中断されるとも思えなかった。叔父の住所から逆算すれば、今夜にはこの家に押し掛けてきてもおかしくはない。まあ、もてなさなくていいと明言していたし、適当に納得させて帰ってもらえばいいか、と少年は内心で結論を出した。
通話中で鍵を差し込んだままだった引き出しに手を掛け、一気に引く。中に入っていた財布と―――亡くなった祖父が遺した遺書、その中の一枚である白い紙を、取り出した。
財布はジャケットのポケットへ、白い紙は眼前へ持ってきて、少年はそこに書かれている内容の、最後の一文を
『―――大事な事であるから此処に書き記しておく。いつかきっと、クリスマスにお前のもとを男の子が訪ねてくるだろうが、
酷く簡潔な一文。
簡潔過ぎて、大事な事とも思えなくて、今日に至るまで少年自身もすっかり忘れ去っていた遺書。
しかし。あまりにも文章と合致したタイミングで起こった訪問を体感して、曖昧だった記憶を掘り起こされた少年はあの時、客人を雪中に放置してわざわざ遺書の内容を確認しに行ったのだった。この遺書さえなければ、あの青年などとっくに追い返していたところだろう。
……そう。少年にとって遺書を遺した祖父は、特別な存在であった。
例え、未来を予知するかのような、奇妙で現実離れした不気味な命令文だったとしても。それ自体にいくら疑念を積み重ねようとも、最後には忠実に従うくらいには特別な存在。
少年は部屋の出口を担う木製の扉を振り返った。その向こうで待っているであろう人物の姿を思い浮かべると、ゆっくりと瞼を閉じる。
「……叔父さんを追い払う『材料』でもあるし、大人しく付き合うか」
ぽつりと小さく呟く。
青年の目的も、正体も―――祖父の真意も、何もかもがどうでも良かった。
ただ、遺書の内容に従うだけ。従った結果、例え自分に何が起ころうとも全てを受け入れる決意はできていた。
わざわざ祖父がこんな事を書き残したのだ。きっと、あの青年は祖父と何かしらの繋がりを持っている。それならば、わざわざ邪険に扱う必要は無い。いや、もしかしたら、『普通』の人間ではないのかもしれないが―――
「……人の事言えないしな」
少年は壊れ物を扱うようなとても丁寧な指の動きで白い紙を畳み、再び鍵付きの引き出しの中へ仕舞いこんだ。忘れずにしっかりと鍵を掛け、施錠する。
最後に、勉強椅子のクッションの下をまさぐって―――手に持ったそれを眺めて、買い出しに携帯していくか逡巡して―――結局は、置いて行く事にした。鈍色に光るサバイバルナイフは、乱暴にベッドの上に放り投げられた。そうして、少年はすり……と己の左手首に貼り付くガーゼの生地をゆっくりと撫でさする。
「……何も、起きないと良いねぇ」
意味深に、他人事のように独り言を垂れ流して、外出の準備を終えた少年は自室の扉を開け放つ。扉を出てすぐの廊下に、こちらを見つめ返しながら腕を組んだリドルが立っていた。コートとマフラーをしっかりと着用し、準備万端の態勢である。
「うわ、よくこの部屋が分かったな。行く気満々じゃん」
「言っただろう、君が行くまで帰らないって」
「君は本当に興味の無い他人の発言に対する記憶力が怪しいね」、と付け加えてリドルが鼻から息を吐いた。それから、何かに気付いたように固まって、少年の全身を爪先から頭の天辺まで観察し出す。彼の顔に浮かぶのは、懐かしい光景に思いを馳せる表情。
「……君、その格好……」
「ん?ゴミでも付いてたか?」
「いや……、そうじゃないけど……。それに似た服を昔、見掛けた事があるだけだよ」
「―――ほう。コーディネートはこうでねえと」
「……………………」
「笑えよベジータ」
「リドルね」
この国の人間にしか通じない、いや、この国出身であっても今時の若者にはほとんど通じないであろう駄洒落を少年が口走るも、当然ながらそんな言語表現の文化を知らないリドルはくすりともせずに突っ立っているだけであった。さり気なく自身の名前を訂正しておく事は忘れない。
少年は言語や文化の壁のせいでネタが通じない事に「つまんな……」と軽く吐き捨てた後、改めてリドルに向き直った。
「……君は、何でここまでボクに付き合おうとしてるんだ?金にでも困ってる?」
「生憎、そんな物を必要とする身の上ではないんでね。―――心配しなくても、この同行に対価なんて求めちゃいないよ。君が差し出す物は何も無い」
報酬目当ての下心を持つ下賎な人間だと思われたくないのか、リドルが不愉快そうに表情を歪めた。その中に一片たりとも邪な心情が含まれていない事を把握した少年は、興味を失ったような真顔となった。
「あぁ……そう。ふーん……」
「僕の方も聞きたいんだけど、さっき部屋の中で誰と喋っていたんだい?」
「ああ、親戚の叔父だよ。聖なる夜ソロプレイのボクがよっぽど心配だったらしい。いちいち電話を掛けてきたんだ」
「え、君、まさか……仲の良い親戚なんていたんだ」
「どういう意味だクソボケ。この国は年が明けたら、親戚の子供に現金を贈る風習がある……と言えば、仲良くするメリットは言わなくても解るだろ?未成年にとっての数少ない合法的な収入源、だよ……しっかり良好な関係は保っておかないと、ね」
「この国の子供は血縁の事を『合法的な収入源』と認識しているのかい?恐ろしい魔境だな……いや多分絶対君がおかしいだけなんだろうけど」
にやりと悪党そのものの笑みを浮かべ、片手で薄い板をひらひらと揺らして見せびらかす少年。
相変わらずの、最早意地汚いと呼べる境地に達している拝金主義を見せ付けられて、リドルはすんと感情の抜け落ちた視線を向けていた。確かに子供にとって、自由に使える現金というのは抗えない魅力で充満しているが、ここまで欲深い姿を晒さなくても良いだろうと思うのだ。せめて心の中で企むくらいに留めて、人前では演技でも良いから真面なフリをしていて欲しい。
……自分は無心を仕掛けられるような血縁には恵まれなかったが、例え恵まれていても流石にここまで意地汚くはなれないだろう。
と、失礼な感想を抱かれているとも知らず、少年が唐突に話題を変えた。
「あ、そうだ。絶対起こり得ないとは思うけど……言っておこう。今みたいにこの家を勝手に歩き回るのは結構だけど、もしもボクの部屋に入るような事があったら、殺すから」
突如として放たれた、簡素で、純然たる刹那の意志。
少年の口調はとても気軽なものであったが、決して冗談を言っている雰囲気ではなかった。正面からリドルを見返す紅い二つの眼光には、嘘偽りの無い殺意のみで漲っていた。恨みも憎しみもまるで存在しなかったが、例え何の動機が無くても相手を殺してやるという凄絶な決意が其処にはあった。
不可視のそれを全身に突き付けられて、リドルは恐怖や怒りを覚えるというより至極不思議そうに聞き返した。
「殺す……?」
「そう、殺す」
「…………」
「まあ、絶対に起こり得ない事だ」
言いながら、すっかり無表情になったリドルを無視し背後の扉をガチャリと閉めて、少年は「そういえば」、とさっきの殺意など幻であったかのような調子で切り出した。
「準備してる時にボクの部屋で見付けたんだけど―――カップラーメンが一つ残ってたんだよ。とてもラッキーな発見だ」
少年がどこからともなく未開封のカップラーメンを取り出すと、両手でリドルの眼前に差し出した。リドルの視界に映っている、包装された容器の表面に表記されている賞味期限は、一ヶ月が過ぎている事を示していた。それを理解しながらも、彼は表情を変える事なくただ静かに聞き返した。
「―――だから?」
「これだけで、五日はもつ!だから、やっぱり今すぐ買い出しに行く必要は―――」
「さあて行こうか。僕が万が一にも君の頬を引っ叩いてしまいそうになる前に」
少年が言い終わる前に、リドルはぐわし、と万力の如き強烈な握力で少年の首根っこを掴み、玄関の方へと引き摺り出した。世界を狙えるレベルの凄まじい握力は、誰にも振り解けない。少年は引き摺られた事により体勢を崩し、持っていた容器を床に落としてしまった。情けない声を上げながら無様に連行されていく。
「うわ何をするやめ―――人攫いだぁぁぁ」
ジタバタと藻掻くも全ての抵抗は無意味。手すりに蛇の彫刻が掘られた階段、肖像画の飾られた廊下を問答無用でずりずりと引き摺られていった。
平素の少年からは想像もつかない痴態を間近で観賞できたリドルは、囚人を捕獲した執行者を連想させる格好ではあったが、鼻歌でも歌い出しそうなくらい上機嫌な雰囲気を全身から滲ませていた。マイペースを貫いて散々人を振り回してくれた存在が、自分の下で醜態を晒しているというのはやはり少なからず爽快感を覚えるものなのである。
―――くすくす。
その時。
屋敷を出て行く二人の姿を見世物のように消費し、嘲笑う声が、屋敷の中に小さく奏でられた。それは、壁の隙間から染み出るような、抑えきれない愉悦の吐息。二人の姿が遠ざかるにつれ、その声は微かに震えを帯び、仄暗い喜びを秘めているかのようだった。
彼らが下り、通り過ぎた、階段の頂上。
真昼でも妖しげな輝きを放つ、二つの臙脂色の瞳が、階上から二人の後ろ姿を悠々と見下ろしていた。その瞳は、小さくなっていく足音が廊下の闇に溶け込むまで、決して瞬きはしなかった。影のように静かに、息を潜めて。
二人は気付かぬまま屋敷の外へ踏み出したが、謎の視線はその影を追い、絡み付く糸のように、決して逸らされる事は無かった。
その瞳の奥に潜むものは、ただの好奇心か、それとも悪意の残滓か。屋敷の空気は気付けば重く淀み、二人が去った後にも、目には見えない微かな息遣いが残る。
誰かが、確かに其処に居た。
そして―――待っている。屋敷を出て行った子供達の、帰還の瞬間を。
作中に登場した組織名や団体名は実在のものと同名ですが、
物語内での行動、設定はすべて架空のものです。
少年が一向に青年の名前を覚えられないのは、
別にふざけている訳でも悪意がある訳でもなく。
青年もその原因を正確に理解してしまっているからこそ、
堂々と怒れないんですよね、これ。
後編はもし間に合ったら年内に更新したいのですが、
間に合わなかったら察して下さい…。
大人しく賢者の石編でも書きますわ
それでは皆さん、メリークリスマス
12/31追記
年末だからって食べ過ぎて数日腹壊してしまい
後編全然間に合いませんでした。解散!
後編は出来上がり次第賢者の石編と同じタイミングで更新しときます…
良いお年を