高らかにベルが鳴り、
「オーリーンは戻ったのか」
「いいえ、まだでございます」
出迎えの先頭に立つのは、本邸の留守を任されていた執事のワトキンスだ。エディットは玄関ホールへきびきびと足を踏み入れ、
軽く首を振る。たばねた黒髪が、乗馬服に包まれた肩から背へ、流れるように落ちる。
全員が無事、王宮から脱出していた。バルディビア侯爵が
「どこからも連絡や使いはなかったか?」
「ございません」
「よし、首尾は上々だな」
エディットの口の端に、怖じけのない笑みが浮かぶ。彼女が
「まだ気は抜けないぞ。ボリス、念のためだ。オーリーンを迎えに行ってくれ」
「は。さっそく」
「宰相閣下は得体の知れないところがあるからな。疲れているだろうが、頼む」
ドワーフおじさんはうなずいて、足早に出ていく。
中年従者の後ろ姿を見送ると、エディットの肩の力はようやく抜けたようだった。強い意志と緊張でこわばっていた横顔も、ふっとゆるむ。──そうすると、驚くほど表情が変わる。唇がみずみずしい色を得てゆっくりとほどけ、微笑みがやわらかく、深くなる。
最高の彫刻家が刻んだとびきり美しい女神像に、温かな血が通い出す瞬間だ。その落差に、思わず見とれてしまうというか、なんというか。
「どうした、カイル」
振り返る。輝きを増した
「いえ、なんてきれいなんだろうと思って……」
みんながいっせいに俺を見た。うわの空で考えていたことを答えてしまったようだ。彼女もきょとんと俺を見る。なんの話か、わからなかったか。
「エディットが、です」
つけ加えると、ひと呼吸、
──いきなり、彼女の顔が真っ赤になった。体当たりされそうな権幕でこちらに詰め寄ってくる。ささやく声は、押し殺すように小さい。
「……あとで聞く」
「えっ?」
「……その話は、あとでゆっくり聞かせてもらう」
ほっぺたは赤いのに、とても怖い顔で見下ろされた。つい言っちゃっただけだから、ゆっくり聞くほどの話じゃないと思うんだけど……
現時点で追っ手がないとはいえ、私邸に逃げ帰ったレールケ伯爵の気が変わるかもわからない。別邸から応援にきている家士たちが歩哨に立ち、グレイも屋根の上で見張ることになった。春は近いが、まだ雪が消えたばかりである。屋根に一人は気の毒だ。
「僕も行きます」
「いけません。旦那さまは、先にお湯殿ですよ」
バルバラに捕まってしまった。しかたがない。まるまる二日と半日分の埃を落としてさっぱりする。さて、グレイに付き合って屋根へ上がるかと思ったのに、今度は料理長のネロが俺を食堂に連れ込んだ。
「旦那さま、牢獄の飯はさぞやまずかったでしょう」
巨体を震わせ、さめざめと泣かれてしまった。うん、うまくなかったのは事実だ。でもネロの料理と比べたら、たいていの食事はまずいことになっちゃうんだよね。
最高の
「……まったく、あのおかたは化けものだな」
全員の顔を見回し、オーリーンはつぶやいた。
「それはともかく、奥さま、ザン将軍が謹慎を申しつけられました」
「なに?」
驚いて問い返すエディットに、秘書の冷静な口ぶりが頼もしい。
「私の前でご下知を出されましたので、間違いございません。見て見ぬふりとおっしゃいながら、われわれのために動いてくださいました」
「宰相閣下が……」
あの場を収めるためにバルディビア候を派遣してくれたのみならず、そこまでしてもらえるとは。エディットは安堵したように大きく息を吐いた。
ザン将軍は、なにかとうさんくさいところのある人物なのだそうだ。いい機会だから
エディットは、わずかに首をかしげた。
「しかし妙だな。なぜわたしたちに、こうまでしてくださるのか……」
ゾンターク公爵は以前から俺たちに好意的だ。国王との謁見のときにも、俺たちの肩を持つような発言があった。積極的に味方をしてくれるというほどではないが、時折俺たちが優位に立つような言動を見せる。不思議といえば不思議である。
「……奥さま」
なぜかオーリーンが、ひどく重苦しい声音に変わる。
「今回のこと、宰相閣下より条件がございました」
「条件? なんだ?」
いっそそのほうがわかりやすい。身を乗り出したエディットに、秘書は深々とため息をつく。
「
「どういう意味だ?」
「ゾンターク公ご自身の秘書になるよう、ご命令を受けました」
ざわっ、と、みんなが動揺する。俺の隣では、エディットが瞳を
秘書は長い中指で、銀縁眼鏡を押し上げた。
「──お断り申し上げました」
ふうー……と、みんなが息を吐き出す。エディットは、すとん、と長椅子に腰を落とした。
「……間違いなく断れたんだろうな」
「ええ、むろん」
遅まきながらオーリーンは帽子と外套を取り、両手で髪を整えつつ、そっけなくうなずく。
「本当か?」
エディットは疑わしげだ。
「宰相閣下はああ見えて
「なるほど」
秘書は眉を片方つり上げた。
「奥さまのおっしゃる通りかもしれません」
「オーリーン!」
「私が宰相閣下のお屋敷へ連れ去られたあかつきには、きっとお迎えにきていただけると信じておりますので。──ネロ、食事だ!」
さっさと居間を出ていってしまう。「公爵邸の料理長は、おまえの足元にも及ばんぞ!」
「なんなんだいったい、あの男は」
エディットは唇をとがらせ、ずいぶんなふくれっつらになっている。俺は笑いをかみ殺した。
下男のマイルズが、闇にまぎれてレールケ伯爵邸の様子を見に行った。動きはなく、サウロや家士たちも交代で体を休めることになった。
あっけないほど静かに、夜が更けてゆく。
湯を使ったエディットが寝室に入ってきた。俺は本を読みながら待つつもりが、いつのまにか、うとうとしていたらしい。カチャ──ナイトテーブルに剣を立てかけた気配で、目が覚める。
枕辺までレイピアをたずさえる女性が、俺のただ一人の妻だ。ベッドがきしみ、エディットが隣へもぐりこんできた。手を伸ばすと、俺の指に彼女も指をからめてくる。
やっと、会えた──
腕をたぐり寄せるようにしてキスすると、抱きしめられた。非常に真剣で、探るような声音が耳元で問う。
「……さっきの話は?」
「え」
あらたまって
「カイル?」
「……い、言われ慣れているでしょう?」
「まさか。そんなことがあるか」
腹の底から心外だと言わんばかりに首を振る。それはこっちの台詞である。たとえば、ほら、
おうわさ通り、たいそうお美しい──
「ダーヴィドが、言ってたじゃありませんか」
エディットは目を細くした。
「あんな男が、なにかのものの数に入ると思うのか?」
えっ、そう?──でも、ほかにもいたよ。いたいた。
「クララさまもおっしゃってました。お茶会のとき」
王弟妃殿下である。だって俺、訊かれたもん。──こんなに美しい奥方をお持ちになるなんて、どのようなご気分かしら?
「そうだ、クローディア姫のばあやも!」
思いっきりため息をつかれた。「お二人とも、女性だろう……」
まあ、そうですね……
大きな
いつだって思ってる。見るたびに、エディットは美しいと心から思う。二日以上会わなかったせいなのか、たまたま口から出ちゃっただけなんだ。
「……本当に誰からも言われたこと、ないんですか?」
「ああ、ないな」
雄々しい口ぶりは自信満々だが、絶対に嘘だ。
彼女が誰よりも美しいのは単なる本当のことなのに、どうしてこんなに言葉にできないんだろう。
俺は、大きく息を吸いこむ。
「エディットは…………い、ですよ」
「聞こえない」
一気に顔が熱くなった。「きれいです、すごく」
俺の額に、彼女が額をつけてくる。
「どこが?」
「全部」
「全部じゃだめだ」
わがままなんだから……
俺の手より少しだけ小さい彼女の手のひらに、そっと触れる。
「……手が」
「手?」
「はい」
握って、甲に口づけした。子どものころからずっと鍛え続けている、硬い剣だこのある手指。
「エディットの右手は、ほかのどこよりも一番美しいと思っています」
彼女が俺に差し出す手が、俺は好きだ。
「…………」
「……エディット?」
あのね……こんなに恥ずかしいことを言わせたんだから、なにかひと言くらいあってもいいでしょ?
紫の瞳が上目になる。
「……二番目は?」
「えっ、二番目?」
「三番目は?」
ねえ、絶対面白がってるよね?!
わざとのように上目になったまま、エディットはくすくす笑い出す。俺もつられて吹き出してしまった。
俺が美しいと思う彼女の手のひらが、俺の頬に触れる。輪郭をたどり、くすぐるように顎に指がかかり、唇に唇が触れた。俺たちは夜具の下で体を添わせる。彼女と触れ合うすべてのところが温かい。
「……明日、レールケ伯爵は王宮に出仕するでしょうか」
「どうだろうな」
エディットは軽く眉根を寄せた。
「今夜のことで、彼は追い詰められたと感じただろう」
宰相が明らかな彼の敵に回った。だからといって、このうえ物騒な手段を取らせるわけにはいかない、と、エディットは言う。
「すまないが、カイルはしばらく
「はい」
俺が白金の塔から脱出できたのはオドネルのおかげだ。早くお礼を言いたいが、エディットの言う通りである。
そのまま、俺たちは肌を重ねて眠りに落ちる。
翌朝、エディットはみんなに告げた。──フィリップ=レールケ伯爵に面会を申し込む、と。
「『手紙』は偽物だと彼に明かし、父の死について知っていることを話してほしいと頼もうと思う」
誰一人、反対するものはいなかった。
◆◇◆
主宮殿の廊下をせかせかと歩く、一人の貴族がいる。
彼は背が高い。青白く血の気のない頬、病身のように痩せた体。年齢は四十代のなかばほどか。乱れた髪と目の下の
「──レールケ卿」
若い女の声に呼ばれて、彼は歩みを止めた。
彼は相手がなにものかを知っていた。王都に住まいして、彼女を知らぬものなど一人もいないだろう。この国で最も美しく、最も勇敢な女性と
「……なにか用か」
「ああ」
亡くなった父親と同じ漆黒の髪、切れ長の瞳は母親と同じ菫色、王家に剣を捧げた
エレメントルート伯爵令嬢──いや、夫を迎えた今は、若き伯爵夫人か。
彼女の瞳が、彼を見据える。
「わたしはあなたと話がしたい。日にちと場所を決めてもらえるか」
父親を殺した
「……なんの話を」
問い返した声はかすれていた。驚いたわけでも、おびえたわけでもない。ただ彼は、いささか面倒に思っただけだ。
「死んだわたしの、父の話を」
「…………」
「あなたが決めないなら、わたしが決める。明後日、二十日の正午だ。こちらからあなたの屋敷へ出向いていく」
彼はなにも、答えない。答えられない。
「どうしても話を聞きたい。必ず行くから、待っていてくれ」
それだけを言って、ひとけのない廊下を、彼女の足音が引き返してゆく。
彼は固くこぶしを握りしめ、その場に立ちつくしていた。