伯爵令嬢は、契約結婚した俺にいつ恋をする?   作:カタイチ

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 立派な装丁の日記だった。

 

 なめした(あかがね)色の革表紙には美しい文様が描かれ、レールケ伯爵家の家紋、月桂樹の花が金の箔押しになっている。

 

 表紙をきちんと閉じられるよう、小口には純金の留め金が二か所。鍵はない。この豪華な日記帳をあつらえたとき、ヨハン=レールケ卿には、人に読まれて困ることを書き込むつもりなどなかった証拠だ。

 

 ともあれ、俺とエディットが、彼の罪業のかたまりのような書物を自分たちの手で開くのは、もっと先──ずっとずっと、年を取ってからの話になる。

 

「……これをお願いできますか」

 

 俺は帰りの馬車の中でも、ヨハン卿の日記を放さずにいた。そして本邸到着後、ただちに秘書へ手渡した。ずしりと重たい書物を押しつけられたオーリーンは、眼鏡の奥の一重まぶたを見開いた。

 

「旦那さま、これは」

「レールケ伯爵の、父親の日記なんです」

 

 それだけを耳打ちし、エディットのそばへ急いで戻る。彼女は玄関ホールの真ん中で、突っ立ったままだ。

 

 すでにレールケ伯爵へ剣を向けたときの、ほとばしるような高ぶりは収まっていた。今まで張り詰めていた気力をなくしてしまったのだろう。エディットは瞳を伏せ、ぼんやりと階段の手すりを見つめている……ようにも見える。

 

 秘書はもちろん、レールケ伯爵邸の書斎の前までいっしょだった二人の従者もふくめ、もの問いたげな全員のまなざしが俺に集まっていた。気持ちはわかる。あの男とのあいだになにがあったのか、すべてを知るのは俺だけだ。

 

 しかし、申し訳ない。今の俺はそれどころではない。

 

「エディット」

 

 手を握る。「部屋へ行きましょう?」

 

「…………」

 

 ぱちり、と、表情を失った瞳が、こちらを向いて瞬きした。それでも焦点が合い、かすかに顎を引く。

 

「行きましょう」

 

 みんなの視線は無視である。俺が背中を押すと、エディットはおとなしく階段に足をかけた。

 

 ……こんなときって、なにをしたらいい?

 

 子どものころから探し続けた父の(かたき)は死んでいた。父親が殺された理由は、途方もなく身勝手で、ひとりよがりで、理由だなんて言えないくらい馬鹿馬鹿しいものだ。

 

 腹が立つ。はらわたが煮えくり返るとはこのことだ。俺でさえこうなんだから、彼女はどんなにかやりきれない気持ちだろう。

 

 エディットの──今は俺たち二人の部屋は、亡くなったセドリック卿の書斎兼寝室だった。壁一面を埋めつくす大きな書架の列。読書を愛した父親が集めたたくさんの本。南側に広いバルコニーのある、明るくて静かな部屋だ。エディットの手から剣を取り上げて書きもの机に立てかけ、窓のほうを向いた長椅子へ座らせる。

 

 俺には彼女の気持ちがわからない。俺は彼女自身ではないから。わかるなんて口にできない。でも、どうしても、そばにいたい。

 

「……エディット」

 

 こっちを向いて。

 

 俺の声はちゃんと彼女に届いていた。紫の虹彩が動いたので、ほっとする。

 

「着替えませんか? きっと楽になりますよ」

 

 返事はなかったが、俺は床に(ひざまず)き、エディットの乗馬靴のひもをほどいた。

 

 きつい(ブーツ)と、靴下を脱がせる。すっきりと締まった足首から先、むき出しになった白い素足を見て、彼女をひどく痛ましく思う。立ち上がり、シャツの襟元へ手を伸ばす。俺がカラーをゆるめても、エディットは(あらが)わない。そっと襟を押し開く。

 

 エディットの体が、からっぽのぬけがらみたいにぐらりと揺れた。

 

「…………」

 

 上着の片袖が抜けて、あらわになった鎖骨のくぼみが目に入った。正視できず、視線をそらしたとき、いきなり強い力で腕を取られた。

 

「!」

 

 突然過ぎて、なすすべもなかった。俺は長椅子へ押し倒された。服のボタンが、引きちぎられるようにはずれてゆく。腰のベルトまで、即座に指が伸びてくる。

 

「エ、エディット」

 

 彼女は固く唇を結び、なにも答えない。俺の衣服をはぎ取り、胸にのしかかってくる。──ギシ、と、長椅子が沈んだ。体重をこちらに預け、歯を立てるような勢いで俺の首筋を吸う。彼女の爪が二の腕に食い込んできて、知らず知らず顔がゆがんでしまう。

 

「エ──」

 

 もう一度名前を呼ぼうとした唇は、唇に覆われた。かつてない荒々しい愛撫に、どうしたらいいのかわからない。でも今は、彼女の思う通りにするのがいい。きっとそのほうがいい。

 

 俺は黙って身をまかせた。彼女もなにも、ひと言も口にしない。

 

 ただ、深い川底に投げ出され、水面(みなも)を求めてひたすらもがき続ける人のように、エディットは俺を求めた。俺の体をすみずみまでまさぐる指が、幾度となく震えを帯びる。

 

 

 ◆◇◆

 

 俺が部屋着に袖を通し、足音を忍ばせて寝室を抜け出したのは、日も落ちて、すっかり夜になってからだ。

 

 一階の居間をのぞいてみた。誰の姿もないので秘書の執務室へ向かう。扉の下から明かりがもれている。人の話し声もする。

 

 ──コンコンコン。

 

「……どうぞ」

 

 扉を開けると、眉間にくっきりと縦じわを寄せたオーリーンと、別邸からきている家士が三名、広い机の上に開いた例の日記を取りかこんでいた。

 

「旦那さま」

 

 オーリーンが立ち上がる。彼の(おもて)はいつにも増して沈鬱だ。「奥さまのご様子は、いかがですか?」

 

「さっき、やっと眠りました」

 

 つい今しがたまで、エディットは俺を放そうとしなかった。彼女はほとんど口をきかず、俺も無理に話さなかった。

 

 今日起こったことはもちろん、これまでのことも、この先のことも、(つと)めて考えないようにした。エディットは常に俺の体のどこかに触れ、俺も彼女のどこかに触れて、それで互いの存在を確かめ合っている──そんなふうに時を過ごした。

 

 オーリーンは、疲れたように息を吐く。

 

「ご覧になれますか」

 

 ()()()、だ。見たくない。いや、今の俺に見られるものじゃない。俺は黙って首を振った。秘書はうなずいた。

 

「……犯行の、およそ二か月前から始まっています」

 

 彼の説明によれば、書き出しはその年の冬が終わるころ、孫の誕生を喜ぶ言葉で始まっている。毎日必ずではないが、一週の大半の日に、短くともなにかしらの記述があるというから、きっとヨハン卿は几帳面な性格だったんだろう。

 

 これでもう何冊目、などと書かれた箇所もあり、ヨハン=レールケ卿には若いころから日記をつける習慣があったと思われます、とオーリーンは言う。

 

「……間違いなく、レールケ伯爵の父親が義父上(ちちうえ)を手にかけたという部分はあったんでしょうか」

「ええ、ございました」

 

 秘書は卓上に散った紙の中から一枚を手に取った。──どうやら彼が読み上げた部分を皆で書き取ってまとめ、内容に整合性があるかを確かめていたようだ。

 

 ただし──と、オーリーンは続けた。

 

「むろん、まだ目を通したのは()()()だけではございますが、当時これを書いた人物は、かなり動揺していたようですな」

 

 最初は箇条書きに近いほど簡潔だった文章が、日が経つにつれて変化する。家族の話題などの、私的で日常的なできごとの述懐が減り、代わってマティウス王子、すなわち、現在のアセルス国王マティウス二世の立太子についての記述が増してゆく。

 

 どうしたらマティウスさまが王太子になれるのか──その言葉は、犯行の日が近づくごと、憑かれたように、くり返し文章の中に現れるそうだ。

 

「旦那さま、レールケ伯爵邸でなにがあったのか、お話しいただけますか」

「はい」

 

 うながされ、俺は椅子に腰を下ろした。

 

 ──それからは、長い夜になった。

 

 俺はフィリップ=レールケ伯爵とのやり取りを、可能な限り思い出して、順に語った。できるだけ正確に話そうと時間をかけた。

 

 家士たちが交代で、俺の言葉を紙に書き取っていく。途中で執事のワトキンスが顔をのぞかせ、みんなの夜食を運んできた。エディットが目を覚ましていないか気になったが、深夜を過ぎるころ、侍女のバルバラが様子を見に行ってくれた。──大丈夫です。よくお休みでいらっしゃいましたよ。

 

 きっとお疲れになったんですね、と、幼いころから、あるじとともにいる侍女は言った。

 

「……今日はここまでにいたしましょう」

 

 ひと通り話し終えると、秘書が告げた。賛成である。家士たちも、当然俺も、くたくただった。

 

 執務室を出ようとしたとき、オーリーンに声をかけられた。

 

「旦那さま」

 

 振り返れば、秘書は眼鏡を中指で押し上げながら言う。「……ありがとうございました」

 

「え?」

「奥さまをお止めいただいたことです。あなたがごいっしょで、本当によかった」

 

 ──俺は部屋へ戻った。エディットはベッドの中で眠り続けていた。隣にもぐり込んでも彼女が身じろぎひとつしないので、少しだけ心配になる。

 

 エディットの唇へ手のひらを近づけると、指に温かな息がかかった。闇に溶け出すように黒い髪を、そうっとなでる。

 

「……カイル?」

 

 俺を呼ぶ彼女の声。

 

「はい」

「……いるのか?」

「はい、ここにいます」

「よかった……」

 

 ほっと、息を吐く気配。俺を探して伸ばされた右手を取って、甲に口づけする。「僕はここにいます」

 

「……カイルがいなくなってしまう夢を見たんだ」

 

 俺はかぶりを振る。

 

「それは夢です」

 

 額にも、頬にも口づける。「ただの夢です」

 

「うん」

 

 強く抱き寄せられた。俺は彼女に寄り添って、背に腕を回す。──俺の体温がエディットに伝わればいい。俺がここにいると、彼女に伝わればいいと思う。

 

 小さな声で、エディットは言う。

 

「そうか、夢だな……」

 

 

 

 

 

 翌朝、目を覚ましたときには、とっくに日が高くなっていた。隣は()()()()()()だ。俺は、大あわてで飛び起きた。

 

 エディットは前庭で、ドワーフおじさんと剣の稽古をしていた。というか、もう稽古を終えたところだった。

 

「おはよう、カイル」

 

 乾いた布で汗を拭きながら、エディットは笑顔を見せる。

 

「朝食はすませたのか? まだならいっしょにどうだ?」

 

 秘書のオーリーンが始めたヨハン卿の日記の分析は、着実に進行していた。記述があるのは犯行の年からおよそ八年間。以来彼は病の床に伏し、筆を取ることができなくなったようだ。その後二年余りで他界している。

 

 エディットは、まる一日、部屋で本を読んで過ごした。王宮へ出仕しないのは()()のつもりだからだそうだ。俺をそばから離そうとしないので、オーリーンの話を聞きに行くのも、ひと苦労である。

 

 フィリップ=レールケ伯爵が語ったように、彼の父親のヨハン卿が、セドリック卿を刺したのは事実だと思われる。前日セドリック=エレメントルートが参内した時刻、当夜王宮へ着いた時刻、刺した部位、凶器の形状などの記載が、エレメントルート家側で把握している事実と一致するからだ。特に王宮へ着いた時刻は、セドリック卿が通った門の門衛を探し出して尋ねなければ、知りようがない。犯人ではないものが、わざわざそこまでして書き残す理由がない。

 

「いくつかの疑問の余地はありますが」

 

 と、秘書は言う。

 

「特に、ヨハン卿はなぜ、突然()()()()()()()、国王陛下の立太子に対する焦燥感が増したのか、という点です」

 

 彼がなんとしても王太子にしたかったマティウス王子、現国王マティウス二世は、当時三十三歳である。アセルス王家では、正妃を母とする第一王子が、格別健康上の理由もないとしたら、成人する十五歳から遅くとも二十歳ごろまでには立太子するのが通例だ。それが、三十を過ぎても世継ぎと認められなかった。彼の青年時代の行状がうかがい知れるというものだが、ヨハン卿はマティウス王子の守役だったのだ。もっと早く、彼の立太子のため周囲に働きかけてもよかったのではないか。

 

 ことに、ヨハン卿が口添えを頼もうとしたエルヴィン夫人は、前の年も、そのまた前の年も王都へきているのである。

 

「弟のシベリウス殿下の立太子の話が現実的になったのが、この年なんじゃありませんか?」

 

 俺の問いに、秘書はうなずく。

 

「それはあるでしょう。先王陛下もお体の具合がすぐれなくなっていらしたころです。側近の誰かにでも、シベリウス殿下を王太子に──と、もらされたのかもしれません」

 

 その点に関しては、今のところ、明確な記述が見当たらないらしい。前年までの日記になら書かれているのだろうか。

 

 別邸の家士たちが、レールケ伯爵邸の見張りを根気よく続けていた。彼は一度だけ王宮へ出かけたが、以後は邸内に引きこもり、訪ねてくるものも、出ていくものもいないと聞く。

 

 そうして、数日が経ったころ。

 

 テレリア領主、フィリップ=レールケ伯爵が退()()するという報が届いた。

 

 

 

 


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