伯爵令嬢は、契約結婚した俺にいつ恋をする?   作:カタイチ

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 エディットは、なにも言わない。

 

 彼女の瞳は水を打ったように静かだ。軽く唇を結び、自分の母親の上の兄──向かい合って座る、国王マティウス二世を見つめている。

 

 だから俺が、彼女に代わって問いかける。

 

「ヨハン=レールケ卿が義父(ちち)を殺害したことを、陛下はご存じだったとおっしゃるのでしょうか」

「その通りだ」

 

 彼の暗い茶色のまなざしも、低い声音も、悠然と感じるほど穏やかだ。簡素な家具がならぶだけの小部屋である。だが、平服の彼が腰を下ろして脚を組めば、小さな椅子はたちまち玉座に変わった。さほど大柄な男ではないのに、俺たちを圧するおかしがたい威厳に満ちている。

 

 エディットも俺も、彼が激しく猛々しい青年だった時代を知らない。彼の果敢さは若いころのなごりなのかもしれないが、一国の王であればむしろ好ましい資質ではないかと思ってしまう。

 

 ──またどこからか、女の人の泣く声がする。涙をこぼすまいと懸命にこらえ、こらえきれずにもれ出るような嗚咽(おえつ)は、一人ではない。母上を失った王后アントニエッタさまと、悲しみをともにする女官たちなのだろう。

 

 マティウス二世の口角が、少し上がる。

 

「いつかはおまえがくると思っていた、エディット」

 

 エディットは、彼の妹の子だ。強く愛した──恋に落ちた臣下に果たし合いを申し込むほど愛した、ただ一人の妹の子だ。

 

 彼女が近衛騎士となり、二人の伯父をすぐそばで見ていたように、彼もずっと見ていたのだ。父の(かたき)を討つため剣を手にし、凜々しく、美しく成長する姪の姿を。

 

 ()()()()()()()()()()()()、と、国王はためらわずに言った。そのまなざしは堂々と、厳しくも誇り高い。

 

「すべては、(わし)がヨハンに命じたためだ。──王になりたい、と」

「王に……」

「そうだ」

 

 十四年前、マティウス二世、当時のマティウス王子は、若いころの奔放に過ぎるふるまいのせいで、人望を失っていた。心を吹き荒れた兇猛な風はしばらく前から()いでいたが、失くした人心は取り戻せない。第一王子の彼を、王太子に推すものはいなかった。

 

「そのころの儂は、己れは王にはなれぬと考えていた」

 

 アセルス王家の王位は、国王の長男へ継承されるのが原則だ。だが、()()ではない。過去に女王が立った例もある。病弱な第一王子に代わって、第二、第三王子が立太子した例もある。

 

 高位の人々は、マティウス王子に見切りをつけていた。幸いにも王の息子は二人いる。猛り狂った長男は廃嫡し、次男が跡を継げばよい。実現しなかったのは、弟のシベリウス王子が自身の立太子を承知しなかったためだ。

 

 その年、老齢に差しかかった国王ディートヘルム一世には、病の(きざし)があった。王宮では幾たび目か、シベリウス王子擁立の気運が高まった。

 

「……それで、ひさかたぶりに、ヨハンが儂の()へ訪ねてきた」

 

 やかましやの守役とは、疎遠になって久しかった。王子宮に(こも)るように暮らしていたから、面と向かって話すのは数年ぶりだった。第一王子の守役は名誉な職のはずなのに、かつてのマティウス王子の行状のせいで、ヨハン卿は長年肩身の狭い思いをしていた。

 

 ──あなたさまは、ご自分の行く末をどのようにお考えなのですか。

 

 幼いころから嫌というほど聞かされた、説教とも愚痴ともつかぬ()()()()を、くどくどと口にする。シベリウス殿下が立太子されたら、どうなさるおつもりです、と、くり返し問う。

 

 どうもせぬ、と返しても、引き下がろうとしない。──このまま無為にお暮らしになるくらいなら、いっそ国外へお行きなさい。息子が留学していた国であれば、伝手(つて)があります。あなたさまお一人くらい、ご不自由はさせません。

 

 ()ね、と、拒んだ。けれど、ヨハン卿はかたくなだった。

 

 なぜなのです、マティウスさま。このうえこの国に()って、あなたさまにはまだなにか、なさりたいことがあるとおっしゃるのですか──

 

 だから答えた。長いあいだ誰にも見せなかった、たったひとつの己れの意志だ。

 

()は、王になりたい』

 

 それは──

 

 なんと哀れな言葉だろう。

 

 俺は国王の、険しい瞳と厳しく引き締まった面差しを見つめながら思う。

 

 この国の正当な第一王子として生まれ、王になって当然の存在が。それも、父でもなく、母でもなく、ただの元守役へ、()()()()()()と頼むしかなかったと言うのか。

 

 彼の言葉を聞いたヨハン卿は、強い衝撃を受けたようだった。目を(みは)り愕然と顎を落としたまま、石像のように表情を失って、硬直しているばかりだった。

 

 公式の場に姿を見せなくなって久しいマティウス王子だ。ヨハン卿は、もう彼は玉座を望んでいないと考えていたのだ。国を捨てろと勧めても断りはすまい──そんなふうに思っていたのだ。

 

「ヨハンが儂を王太子に推す工作を始めたのは、儂の命を受けたからだ」

 

 国王は言う。

 

 だがそれが、本当に()()といえるだろうか?

 

 ヨハン卿は「命令」と受け取った、と言われてしまえばそれまでだ。それとも、ヨハン卿にはマティウス王子が昔とは違う、国王にふさわしい人物に見えたのかもしれない。マティウス王子が王太子になれば、今までの自分の労苦が報われると思ったのかもしれない。もしかしたら──マティウス王子が王になれずにこの国にとどまれば、不幸な未来が待ち受けていると案じたのかもしれない。

 

 ともあれ、高位の人々に、マティウス王子を王太子にと望むものは少なかった。しいていえば、王位は国王の長男が継ぐべき、と主張する、頭の固い、世の中の流れがわからない老人くらいである。ヨハン卿はその一人一人を回り、改めてマティウス王子を次代の王に推してほしいと説く。決して人付き合いが得手とはいえず、長らく王宮で孤立していた彼には、酷な役目だった。

 

 早く、早く、早くしなければ。国王陛下は今にもシベリウス殿下を王太子に指名してしまう──

 

「あれを狂わせたのは儂だ」

 

 マティウス王子に味方はいなかった。同じように、ヨハン卿にも味方はいなかった。以前から工作していたわけではないから、セドリック卿を介してエルヴィン王女に口添えを願おうと思いついたのも、短い期間で必死に考えた末だった。権勢など微塵もなくなった老いぼれどもではだめだ。()()()、国王夫妻の愛する娘に()い願うことさえできれば、必ずや事態は好転する──

 

 俺は、殺害されたセドリック卿の胸の内を思う。

 

 深夜ヨハン卿と会い、彼の話を聞いたセドリック=エレメントルートは、なにを考えただろう。目を血走らせたヨハン卿が、常軌を逸していると感じたのではないか。苦労を重ねていると同情したかもしれない。ひと言も否定せず、妻に伝えると答えた。

 

 けれど、セドリック卿がすぐに(うべな)ったがために、ヨハン卿はかえって言い知れぬ不安感に襲われてしまった。これが王女に伝わったら、国王夫妻に伝わったら、()()()()()()()()、卑劣な(はかりごと)を私に頼んだと知れてしまったら……

 

「……陛下は、いつ、お知りになったのですか?」

 

 俺は問うてみる。「ヨハン卿が、義父を殺害したことをです」

 

 マティウス二世は肘掛けに片肘をつき、こめかみへ指を添えた。目元がなごむ。

 

「はじめから知っていた。──セドリックを刺してしまった、と、ヨハンが儂のところへきたからな」

 

 本当に?

 

 日記を調べているオーリーンからは、そんな記述があったとは聞いていない。ヨハン卿がセドリック卿殺害を誰かに──ましてや、マティウス王子に告げたとあれば、秘書は必ず俺に言う。

 

 それに、息子のフィリップ=レールケ伯爵も、国王が知っているとは、ひと言も言わなかった。

 

「ずっとご存じでいらしたのに、誰にもおっしゃらなかったのでしょうか」

「むろんだ。誰かに知られてしまっては、王にはなれぬ」

 

 ヨハンは儂の望みを叶えようとした。セドリックを殺すことになったのは、儂のためだ──彼は、静かに続ける。

 

 日記に書かれていないから、レールケ伯爵が口にしなかったから、実際に起こらなかったとは言い切れない。人は真実を黙っていることも、嘘をつくことも、どちらだってできる。

 

 ……ああ。

 

 もはや、十四年も昔の、本当の真実を知ることは叶わない。

 

 マティウス二世が国王になってから、六年近くが経つ。即位はヨハン卿が(やまい)に倒れるより前だ。ヨハン卿は、自分が育てた王子が王冠を戴くのをどんな気持ちで見たのか──日記の調査は、まだそこまで進んでいない。

 

「どうして……」

 

 ずっと疑問に思っていた。

 

「どうして王弟殿下は、立太子されなかったのでしょう」

 

 彼が王太子になっていれば、いくつもの悲劇を未然に防ぐことができたのに。それほどまでに、兄を立てる必要があると思い込んでいたのか?

 

 すると、国王は笑った。

 

「シベリウスは、儂よりよほど賢い男よ」

 

 賢い?

 

 何年も経った、即位ののちだ。マティウス二世は自らの弟、シベリウスへ問うたことがあるという。──おまえはなぜ、王になろうとしなかった?

 

 王弟は答えた。──そんなことをしていたら、兄上、今ごろあなたは確実に死んでいますよ。

 

 たった二歳しか違わない弟。容貌は双子のように似通った、けれど、兄とは異なり柔和な物腰を身に着けたシベリウス。彼はマティウス二世へ平然と告げたそうだ。

 

 ──もしも私が立太子していれば、のちの憂いを絶とうと誰かが間違いなくあなたを暗殺する。私は別の誰かの恨みを買ってしまう。

 

 十四年前、マティウス王子に妻子はいなかった。だとしても、たとえば、ヨハン卿のような存在が。

 

 ──刺客におびえて生涯を過ごすなど、私はお断りだ。

 

 王弟は首を振った。そして兄の瞳を見つめ、言い切った。

 

 ──私なら、あなたが再び道を誤ることのないよう、常に見張っていられる。私が即位し、兄上が殺されたら、誰が私を見張るんです? 私が絶対に道を踏みはずさないと言えますか?

 

「あの男とは反りが合わぬ……」

 

 マティウス二世はくつくつと笑う。

 

「シベリウスと意見が合ったのは、セドリックがエルヴィンを自分のものにしようとした、あのときただの一度きりよ……」

 

 二人の王子はそろってセドリック卿に果たし合いを申し込んだのだ。エディットが少しだけ不服そうな口をする。それを見た国王は、なおも笑った。

 

「──エディット」

「はい、陛下」

「父の仇を討ちたければ、その剣で儂を殺せ」

 

 豪胆な笑みを口の端に残したまま、マティウス二世は言う。

 

「儂はおまえになら討たれてもかまわん。宰相がいいように取り計らう。──今の儂には息子がいる。テオドアは王になるには幼いが、シベリウスが(たす)けるだろう」

 

 暗くとも力のあるまなざしが、エディットを見据える。

 

「それとも、儂の(かばね)を乗り越え、おまえが女王として即位するか? それもよかろう。おまえは王家の血を引くうえ、民にも好かれている」

 

 ──しばしのあいだ、伯父と姪は互いの顔を見つめ合った。

 

 マティウス二世の言葉を、エディットはどう思っているだろう。真実だとしても、作りごとだとしても、なぜ彼は俺たちにこんな話をするんだろう。

 

 きっと、それは──

 

「…………」

 

 やがて、エディットが口を開いた。

 

「昨日、わたくしは……」

 

 かたわらの俺へ瞳を移す。「なにがあっても伯父上を(あや)めたりはしないと、ここにいる夫に誓いました」

 

 ゆっくりと、静かに息を吐き出す。

 

「約束は、守るつもりです」

「……そうか」

 

 マティウス二世はうなずいた。

 

「そのうちでいい。アントニエッタを慰めてやってくれ」

 

 エディットはなにも言わずに立ち上がった。一礼し、部屋を出ていこうとする。俺もあとへ続いた。

 

「──エレメントルート卿」

 

 扉を開けたとき、重々しい声に呼び止められた。──振り返ると、マティウス二世は椅子の肘掛けに頬杖をつき、こちらを見ていた。

 

「カイルといったか。おまえは、バルドイ男爵の息子だったな」

 

 驚いた。俺の出自を、国王が覚えているとは。

 

「はい、そうです」

「カイル=バルドイとは、敵のやいばから、わが祖先を守りぬいてくれた男だ」

 

 わずかに、からかうような光が彼の瞳に宿ったようだ。「……礼を申す」

 

 なんと(こた)えたらよいかわからない。俺は黙って頭を下げた。

 

 ──薄暗い廊下を行った先に、背の高いほっそりとした人影が待っていた。宰相ゾンターク公爵である。

 

「その顔では、逆徒にならずすませたと見ゆる」

 

 唇に典雅な笑みを浮かべ、大胆極まりないことを言う。この人は、本当にすべてを知っていて俺たち二人だけを国王に会わせたのか。

 

 エディットは、上機嫌とは言いがたい面持ちになる。

 

「……秘書を(かた)に取られておりますので」

 

 そうだったそうだった、と、宰相はとても楽しげだ。

 

「すぐにでもお返しくださいますか」

「なにを?」

「オーリーンをです」

 

 エディットが、廊下を足早にゆくゾンターク公へ追いついた。宰相は鷹揚にうなずいた。

 

「もちろん。いつまでもあの男を置いていては、姫が()()()()を焼いていけないよ」

「宰相閣下」

 

 (とう)の立った美貌の貴公子の横顔を、エディットが見上げる。

 

「わたくしたちにこうまでしてくださるのは、どうしてなのですか?」

「さて、どうしてだろうねえ」

「閣下!」

 

 宰相の姿を認めた衛兵が、巨大な扉を押し開く。──俺たちは外に出た。

 

 ひんやりと心地のよい夜気に包まれる。王宮に入ってからずっと心が張りつめていて、俺の体はひどくこわばっていた。今さらのように気づく。

 

 月の光に照らされて、ゾンターク公爵は階段を降りる手前で足を止めた。

 

 くすくす笑いながら見返り、エディットの頬をふちどる前髪へ指を伸ばす。

 

「……エルヴィン王女は、まこと月の女神と見まがう女性(にょしょう)であったよ」

 

 彼が手を離すと、ひとすじの黒髪はふんわりと夜風に流れた。宰相は右手を上げる。

 

「では、またな」

 

 帰りは送ってくれるつもりがないらしい。待っていた馬車は、彼が乗り込むとさっさと走り出してしまった。

 

「…………」

 

 それを見送って、石段の上に残された俺たちは、顔を見合わせる。

 

 かまわない。本邸まで、歩いて苦になる道のりではない。幸いにも満月の光が、主宮殿の前庭に白くそそいで美しい。

 

「──帰ろう」

 

 エディットが言った。

 

「はい」

 

 俺は彼女を見上げ、うなずいた。

 

 

 

 

 


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