100.5
カチャ……
俺はそうっとノブを回した。部屋の中にすべり込み、できるだけ静かに扉を閉める。それで一階の喧噪が、ほんの少し遠くなる。
居室の書架から適当な本を一冊抜いた。小脇に抱え、ぬき足さし足、寝室に向かう。彼女を起こしてしまわないように。
開けた窓から春のそよ風が流れ込み、なかば下ろしたカーテンをふんわり揺らす。エディットは、大きなベッドの真ん中で、分厚い毛布をかき
寝顔が穏やかなので、ほっとした。午睡のまどろみの中、彼女はどんな夢を見ているだろう。俺はベッドのはしに腰を下ろし、本を開いた。
双子の男の子と女の子が主役のお話だ。越したばかりの古い館の庭園で、彼らは小さな金の鍵を拾った。これはきっと、秘密の扉を開ける鍵に違いない。館中を探し回り、屋根裏でついに見つけた古めかしい木の扉。男の子の手が鍵穴へ鍵を差し込んだとき──
二階の一番奥にあるこの部屋まで、別邸の
「……カイル?」
「はい」
振り返れば、エディットがぼんやりと目を開けていた。俺は本を閉じ、巨大なベッドを彼女のそばまではい寄った。澄んだ
「気分はどうですか?」
額にかかった前髪をのけて、接吻する。朝はめまいがしたそうだから、大事を取って休んでいたのだ。
「ああ、わたしは大丈夫だが……どうした?」
下の騒ぎが耳に入ったようだ。
「別邸から、サウロさんたちが着いたみたいですね」
「サウロが?」
エディットは眉をひそめて、ただちに身を起こす。「なにかあったのか?」
「はい、僕たちに子どもができたので──」
俺が言いかけたとたん、エディットは、愕然、という感じで、大きく瞳を
「みんなに言ったのか?!」
「ええ、言いましたけど」
「もう言ったのか?!」
こちらをにらむ彼女のほっぺたが、みるみるうちに真っ赤に染まる。そんな顔をされたら俺だって不満である。みんな気にしてくれてたんだもん、そりゃあ言うでしょう。
「隠しておくわけにはいかないじゃありませんか」
「今日言わなくてもいいだろう?!」
「明日でも同じだと思いますよ」
「………………」
エディットは大いに唇をとがらせる。──かと思ったら、いきなりベッドへ倒れ込み、頭まですっぽりと毛布をかぶってしまった。
「エディット」
肩の辺りをゆさぶってみる。
「今夜はお祝いのパーティーだそうですよ」
「…………」
「ネロさんが、ごちそうを作るって張り切ってます」
「……わたしは出ない」
くぐもって小さいわりに、断固とした声が告げる。
「絶対に出ないぞ。今夜はこの部屋にいる」
みんなの前でキスしたりとかはぜんぜん平気なくせに……俺はため息をついた。もー、ほんとにしょうがないんだから。
「たくさん食べたほうが、赤ちゃんのためにもいいと思いますよ」
返事はない。
「じゃあ、オーリーンさんに頼んで……」
「……言いつけたって無駄だからな」
「わかってます。エディットはここにいてください。──でも、入りきるかなあ」
なにしろエレメントルート伯爵家は、王都にいるだけでも四十数名の大所帯なのだ。
「……カイル」
非常に不服そうな声である。
「はい?」
「なにをするつもりだ?」
「パーティーの会場を、
俺はぐるりと室内を見回した。──居室と寝室がふた間続きの俺たちの部屋。広いとはいえ、全員がやってきたら、さすがにきゅうくつだろうと思う。
エディットが、ガバッと毛布をのけて跳ね起きた。「カイル!」
力強い両手が伸びてきて、俺はあっさりと捕まった。ぐいぐい引き寄せられ、彼女の胸に顔を押しつけられる。こんなにきつく抱きしめたら、おなかの赤ちゃんまで苦しくなっちゃうのに。
「エ、エディット」
「わたしは嫌だ!」
「ちょっとだけですって」
「どうしてそんな意地悪を言うんだ?!」
「エディットが顔を見せたら、みんなが喜ぶからですよ」
というか、俺たち二人の子どもができたお祝いなのである。俺一人ではなんの意味もない。
「食事だけ。みんなといっしょに食事だけして、疲れないうちに早めに休みましょう?」
俺だって、今夜は静かに過ごしたいと思ってる。エディットと俺と、赤ちゃんだけで。
「………………」
──ようやく彼女が腕をゆるめてくれる。俺は顔を上げた。まだすねた瞳の彼女の唇へ、キスをする。
「……ここに
今はどこにも姿が見えず、声もしない。でも、ここにいるのは俺たちだけじゃないなんて、どんな種類の魔法なんだろう。
「うん」
エディットが、くすぐったそうな笑みを浮かべた。たぶん俺も今、彼女と似たような顔をしているはずだ。
「パーティーが始まるまでは、三人だけでいましょうか」
「三人だけ?」
「はい、三人だけで」
「…………」
しばらくのあいだ、エディットは眉を寄せて考え込んでいた。──じきに顔を上げ、大きくうなずく。
「そうだな。確かに三人だ」
俺たちはならんでベッドに横になった。赤ちゃんが寒くならないように、肩までしっかり毛布をかける。俺はエディットに寄り添った。
「わりとすぐわかるようになるみたいですよ。おなかの中で赤ちゃんが動くから」
「……よく知ってるな」
「一番上の兄に子どもがいるんです」
こうしていれば温かいって、エディットも俺も知っている。見つめ合い、指と指とをからめ、口づけを交わし──とりとめのない話をするうちに、俺たちはいつしか眠りに落ちていた。