彼、ジュリアン=オドネルとは──
王宮魔法士である。魔法をもってあるじに仕える「魔法士」の中でも、王宮勤めをするから「王宮魔法士」だ。現在のアセルス王国にはたった一人、彼しかいない。
年齢はまだ三十になるかならずか。以前彼は、弟子のユーリに問われてそんなふうに答えた。ちなみに、そのとき弟子が
(ふーん、
であった。それ以外のことは考えなかった。オドネルにとっては非常に気の毒なお話だ。
魔力を保つためとかで、彼の髪は長い。黒い髪を腰まで伸ばし、後ろでひとつに結わえている。たいていはどこぞの神殿でお参りしたらもらえるような安手の祈りひもをもちいるが、可愛らしい赤や水色の組ひものときもある。入手経路を知るのは当人だけだ。
彼は常にローブをまとう。時代がかった衣も魔法使いの
痩せて高い頬骨。焦げ茶色の瞳は穏やかで優しい。彼が笑むと、口の端には深いしわが刻まれる。それでいっそう知的に見える。彼には魔法使いというより学究肌の神官のような高潔さが漂う。
一方、彼女──ユーリ=ローランドは、これまたアセルス王国に唯一無二の女性である。
なぜなら彼女は、一人きりの王宮魔法士の一人きりの弟子だからだ。けれど、己れがどれだけたぐいまれな存在か、ユーリはまったく気づいていない。それだけ気ままで、わが道をゆく性分だともいえる。
若い女性にしては、彼女の身なりはかなり地味で目立たない。ひっつめて頭のてっぺんでまとめている髪も、若干
ただし、ジュリアン=オドネルなら、彼女について以下のように述べる。
「おお! トラス川のほとりにたたずむうるわしのデルフィーヌも、彼女には遠く及ばない!
あくまでも、心の中で、であるが。
その日、エレメントルート伯爵主従が帰宅したあと、ユーリはオドネルに向かい、『伯爵』こと、『ティ坊ちゃま』の話題を口にした。彼女はたいそう驚いたのだ。坊ちゃまはユーリの元教え子である。家庭教師を務めていた時分から、いつもものごとの移り変わりについてゆけず、ぼんやりと日々を過ごしていた
単なる話の流れだった。なかばからかうような気持ちで、あなたが想いを寄せる女性とは誰なのか、と尋ねたユーリに、オドネルは真摯な答えを口にした。
「きみだよ、ローランドくん」
まっすぐに彼女を見つめ、彼は言った。
「きみのような女性は、この世に二人といない」
いつでもとても楽しそうに話をする彼なのに、このときはひどく真剣な、思いの
のちのち考えてみても、ユーリは己れがなんと返したのか、どうしても思い出せなかった。もう日暮れ間近だったので、
季節は春もたけなわだ。暗くなっても風はゆるりと暖かい。石畳の通りを足早にゆけば、やけに体がほてる。
(びっくりしたびっくりしたびっくりした!)
──これが、オドネルの告白に対する、ユーリ=ローランドの偽らざる本音であった。
◆◇◆
翌朝。
ユーリの住まいは、にぎやかな歓楽街のはしっこの小路にある。今年で二十一歳になる彼女は一人暮らしだ。
「おはよう、ユーリちゃん。どうしたの?」
「今朝は元気がないんじゃない?」
一人二人がけげんそうに首をかしげる。ぜんぜん、と、ユーリがかぶりを振ると、けばけばしい身なりの一団は、「お仕事がんばってねえ」と、陽気に見送ってくれる。──
(なんてことを言い出すんだろう、まったく)
自分から尋ねたことは棚に上げ、ユーリはむかむかと腹を立てていた。日ごろ「師匠」と呼んではいても、オドネルはユーリの勤め先の上役である。しかも、たった二人ぽっちの職場なのだ。どんな顔で会えと言うのか。
けれど、彼のほうに気に病む様子は少しもなかった。
「ローランドくん、聞いてくれたまえ!」
「雲海のかなたまで届くシュルヴィア城の跳ね橋にかけて! ダルトンなる人物の正体を突き止めたよ! 誰だったかわかるかね?」
もちろんわからない。
昨日『ティ坊ちゃま』に借りた『ダルトンの呪文の書』の話のようだ。坊ちゃまが子どものころからちょっとした魔法をあつかえるのは、これと、もう一冊の魔法の本のおかげである。──オドネルは今朝までのあいだにさまざまな文献をひもとき、著者がなにものかを調べていたらしい。
「トラローム=ダルトンとは、四百年も昔、時のカンドナヴィア国王暗殺未遂事件に連座したため追放された魔道士長だったんだよ」
「同一人物なんですか? 本当に?」
先祖の名をもらった子孫かもしれませんよ、と、ユーリは言ってみる。──結局彼女もこの手の話が好きなのだ。それに、互いに気づまりな思いをするくらいなら、彼の長広舌につき合うほうが遥かにましだ。幸い、と言ってよいものか、例によって本やら巻物やらがそこらじゅうにとっちらかっている。片付けているあいだは、顔を合わさなくてすむ。
「そう思うかね?」
ユーリが話に乗ったので、オドネルは大机の
「偉大なるダルトン家の男たちよ! 彼らは
「あっ、師匠!」
止めたって聞きやしないのである。オドネルは、右の手のひらを高く差し上げた。
「『
刹那──
黒く
止められなかったんじゃない。ユーリは
とはいえ、直撃を食らっては大怪我をする。
「師匠! 危ない!」
だが、オドネルは音もなく、光の矢を左の手のひらで受け止めた。
「……これは『ダルトンの呪文の書』の一節だ」
目を細め、捕らえたいかずちを愛でるように言う。「いにしえの魔法使いは、己れが生み出す稲妻を
「王に、捧げた……?」
「そうとも。カンドナヴィア王国の第三王朝、ラプラード家のフリード王へ。彼の時代に『トラローム=ダルトン』は一人しかいない。──魔道士長の、オーガスタス・トラローム=ダルトン」
オドネルの指の動きとともに、光のかたまりは色を変え、形を変える。幾何学模様を描き、とりどりの極彩色へとうつろい、やがては淡く輝く金銀の星になる。
「ダルトンは国王の
「なにかあって、仲たがいしたんじゃありませんか?」
「確かに! ローランドくん、至言だね!」
光を収めたオドネルは、とてもうれしそうだ。
「それとも、追放されたのちに詠んだ呪文かもしれない。自らを滅ぼした王の威光を、天からくだる
ただいま現在オドネルの興味のおもむく先は、大昔の魔法使いと彼の魔法だけであるようだ。昨日あれだけのことを言っておきながら──とは、ユーリでなくとも思うだろう。
きみのような女性は、この世に二人といない。
(なんで? どこが? いつからそんなことを? 本気で?)
──などと、尋ねてみたくとも、口をはさむ余地などこれっぱかしもありはしないのだ。
とにもかくにも息苦しい雰囲気にならずにすみ、互いにとって大変結構なことだったのだが。
昼に近くなったころだ。蒼の塔の巨大な扉は、すわ敵襲か、と思う勢いで開け放たれた。
「おはようございます!!」
駆け込んできたのは、ティ坊ちゃまの従者、魔法剣士のグレイだった。
「旦那さまがっ! 本日こちらへ伺えなくなりましたので、お知らせに参りましたっ!」
魔法使いという連中は、常にどこか
「グレイさん、ティ坊ちゃまがどうかしたんですか?」
「それが……それがですね……」
グレイは膝に両手をつき、せいせいと息を切らす。お屋敷から走り通してきたと見える。魔法を使えばひとっ飛びだろうに、彼はなんとも律儀ものだ。
「エディットさまに赤ちゃんができたんです! お二人のお子さまが生まれるんですよ!」
なんと。ユーリはあんぐりと口を開けた。驚天動地とはまさにこのこと。かたわらでは、オドネルも、おお、と目を
『ティ坊ちゃま』の美貌の奥方の懐妊は、今しがた知れたばかりだそうだ。いつのまに……と、ユーリは呆然とする。以前寝室は別だと聞いた気がするのだが。別だからって、あれのなにの機会が皆無というわけではないけれど。
グレイはエレメントルート伯爵家のちょっとした混乱ぶりを語り終えると、ようやく額の汗をぬぐう。──彼は背が高い。腰を伸ばすとユーリがまるで子どものように見えるほどだし、オドネルと比べても頭ひとつ分は違う。くすんだ金髪が乱れているが、目尻の下がった青灰色の瞳が、いかにも優しげだ。
「ユーリ、水を一杯いただいてもかまいませんか?」
「いいですよ」
ところが、今朝はばたばたしていて、普段使いの水がめがからっぽだった。
「今、汲んできますから。待っていてくださいね」
「ああ、それは申し訳ない。私もいっしょに行きます」
ユーリとグレイのやり取りをながめていたオドネルが、いつになく強い口調で言った。
「グレイくんは休んでいたまえ。またお屋敷まで戻らなければならないんだろう?」
「え? ええ、そうなんです」
すみません、と、従者は肩をすぼめる。ユーリは一人で手桶を下げて、裏口から外へ出た。
──さて。
果たしてユーリは今のひと幕で、なにかに気づいただろうか。それとも、なにも気づかなかっただろうか。人生の機微を知りつくした姐さんたちでもなければ、はたからうかがい知るのは難しい。ユーリ=ローランドは、あまり人前で己れの内面をあらわにしない女性なのだ。彼女は好奇心旺盛で観察力にも優れているが、そういった人物も、えてして自分のことには無頓着だったりする。
初めてグレイに会ったとき、ユーリは彼から
また、こう見えてユーリは町屋育ちだ。歓楽街を歩く男たちに、グレイのようなのは珍しくもなんともない。自分が対象になることはまずないのと、いきなりだったので驚きはした。けれど、グレイが本気だったとは思っていないし、彼もその後は極めて紳士的な態度を取っている。しかも何か月も前の話だ。ユーリはなにも気にしていない。
──井戸端には顔見知りの倉庫番が水を汲みにきており、ついでにユーリの手桶も満杯にしてくれる。彼女は礼を言って、よいしょ、と持ち手をつかむ。蒼の塔に戻るのである。
水をふるまうと、グレイはひと息でカップを
ユーリとならんで彼を見送ったオドネルは、ふいときびすを返した。ローブのきぬずれの音と、ペタン、と、サンダルの音。──いつもと様子が違うような気がしなくもない。
『きみ、やめたまえ。ローランドくんが嫌がっている』
あのとき、ユーリに寄り添い、手に花を握らせようとしたグレイへ、オドネルは毅然と告げた。
そう。
何か月も経っているのに、一人だけ気にしている人物がいたのだ。──グレイがユーリに無体な真似をしないか、ずーっとずーっとずーっと案じ続けている人物が。