その晩、
「すてきなお話ねえ、ユーリちゃん!」
夕食のしたくをしている姉のダーナが、うれしそうに叫んだ。
「そうかなあ」
寝台に寝転がって子どもをあやしながら、ユーリは気のない返事をする。
ダーナが連れ合いと息子と暮らす
「魔法使いって言っても、王宮にお勤めのお役人でしょ?」
「うん」
「きっと高給取りよねえ」
うっとりと姉が言うので、ユーリは目をむいた。己れの職場の上司、ジュリアン=オドネルの俸給がいくらかなど、考えたこともなかったのだ。
「官舎にお住まいなの?」
「うん、まあ……」
というか、彼の住まいは
ちなみに食事も込みである。王宮で働くほかの人々とともに大食堂へ出向いてすませる。王宮魔法士とは、寝場所のほかに三食までつくいい商売だ。
「いくつ?」
「確か三十くらい」
「ちょっと年上かしら」
ダーナは顔をしかめるが、本当のところをいえば、彼女のほうがオドネルよりも年上だ。ユーリとは年の離れた姉妹なのだ。
早くに両親を亡くしたユーリは、姉に育てられた。髪や瞳の色は同じでも、ダーナは地味な妹とは正反対の、垢ぬけた色街の女である。なにをしてもしぐさに艶っぽさがにじみ出る。ユーリが化粧もせずに堅い勤めをしていられるのは、全部ダーナのおかげだった。
ダーナは年季が明けたあと、常連客の一人だった義兄と所帯を持った。伴侶を得たのが人より遅かったので、子を持つのも遅かった。だから急いで産むからね! との宣言通り、現在姉の腹には二人目の子が宿っている。どこのうちでも
じつはユーリの特技は百面相だ。両手で頬をはさんでひょうげた顔をすると、一歳と半分になる甥っ子はケラケラと笑いこけた。
「あたしはいいお話だと思うわよぉ」
と、言われても……実際当人に会わせたとして、姉が同じように答えるのか、ユーリには自信がない。
(うむ)
子どもが喜ぶので、ユーリは上唇を鼻の頭まで引っ張り上げ、妙な声を出しながら考える。──まあ、あれだ。彼女も人の子なのである。職場の上司なら多少奇天烈でも屁とも思わないが、あまりにも
「やあ、ユーリちゃん、いらっしゃい」
野太い声は、勤めを終えて帰宅した義兄である。頭を大きく下げて戸口をくぐった姉の連れ合い、トレヴァーは、短い茶髪を逆立てた体格のいい大男だ。彼が帰ると、ただでさえ狭い空間からもう半分空きがなくなる。
「ね、ユーリちゃんが、お勤め先の偉い人から
「そいつはすげえや」
このうちに、秘密と名の付くものはいっさいない。ダーナがさっそく報告するので、トレヴァーの目が丸くなった。
「よかったなあ、ユーリちゃん。こいつは俺のおかげってもんだぜ。そうだろ?」
一年と少し前だ。仕事を探していたユーリは、義兄が持ち帰った話に飛びついた。──ユーリは学問が好きだ。姉の尽力で分不相応な学校へ行かせてもらったが、王立の大学へ入れるまでの金はない。働きながら独学で勉強していた彼女を、末っ子の家庭教師に、と見初めてくれたのが『ティ坊ちゃま』のお父上、ユーリが働いていた宿屋を参勤の際の定宿にしていたバルドイ男爵である。
アルノーで過ごした一年余りは楽しかった。けれど、おととしの秋、西部を襲った大嵐と洪水のせいで、王都に帰省していたユーリは、アルノーへ戻れなくなった。手狭な姉夫婦のうちに、いつまでも居候はできない。一人暮らしをしなければならないユーリにとって、蒼の塔での求人は、給金の面でも願ってもない話だった。
魔法の研究をしている王宮魔法士の助手。話を聞いたユーリは、アルノーの領主館にあった二冊の魔法の本を思い出した。──どんなに読んでみたくても、昼間のうちは坊ちゃまが放さない。夜中に幾度かこっそりと
さっそく応募に出向いた。考えることは誰しも同じだ。口伝えで広まっただけなのに、塔の扉の前には、老若男女取り混ぜて三十名を超す応募者がいた。
そこへ──
お役人なのだから、いかめしい官服を着ていると思っていた。サーカスでもないのにローブを着る魔法使いなど、そうそうお目にかかれない。ジュリアン=オドネルは、体中を使って「われこそは魔法使いなり」と主張しているような魔法使いだった。たとえて言うなら、おとぎ話の挿絵から抜け出たような。
オドネルは、大勢の応募者たちを見て驚いたようだった。残念だが予算の都合で定員は一名だ、と彼は皆に告げた。なのでこれから
その場に集まった全員に向かって彼が語りかけたとき、ユーリは奇妙な感覚に
応募者たちは、塔の中に通された。経歴などを問われた最初の面接では、三番目か四番目くらいに呼ばれた。後ろにならんでいたわりには早いな、と、ユーリは考えた。もしかしたら、いくらかでも才能があるように見えただろうか、と、なんとなくうれしくなった。
次はオドネルが即席でこしらえたという
その後、五名程度にまで減った最終面接では、会話の受け答えを見られたようだ。ユーリは田舎町とはいえ、直前まで貴族のお屋敷に勤めていた。その気になれば、いくらでも礼儀正しくふるまえる。
そうして彼女は見事、「王宮魔法士の助手」の座を射止めた。倍率はおよそ三十倍。なかなかの難関だ。
「………………」
──姉夫婦と、一歳半の甥っ子と、ユーリ。にぎやかに食卓をかこんで姉の手料理を咀嚼しつつ、ひょっとしてあれは……と、ユーリは首をかたむける。
正解といえば正解である。
もしも地上を見下ろす始まりの大神が、あの日この世で一番幸運な男を選んでいたとしたら、間違いなくジュリアン=オドネルに決めたはずだ。──応募者の中には、思わず二度見してしまうような、
オドネルもまた人の子だ。当然、彼は彼女──ユーリ=ローランドを採用した。これを公私混同と言うか否か、難しいところではある。
『
初出勤の日の朝、ユーリは言った。
書類や書物の整理をするだけの助手ではなく、わたしに魔法を教えてください。そう頼んでみたら、オドネルは笑みを浮かべた。いまだかつて、あんなにうれしそうに笑う人を、ユーリは見たことがない。
──夕食を終え、日は落ちても夜はこれからの騒々しい街並みを、義兄のトレヴァーが息子を抱いて、ユーリを住まいまで送ってくれる。
「ユーリちゃんがお嫁に行くなら、俺もがんばって稼がなきゃならねえなあ」
トレヴァーは上機嫌だ。気が早い。けれど、うれしい。彼はふた親のいない義理の妹を、じつの娘のように思っている。四十男の彼から見れば、ユーリは本当に娘でもおかしくない年ごろだ。
明日こそちゃんと尋ねてみよう──と、ユーリは思う。師匠は本気であんなことを言ったんですか?
しかし、人生とは、思い通りにならないものである。
翌日の午後、近いうちに父親になるという『ティ坊ちゃま』が、従者を連れて蒼の塔を訪れた。当分きやしまいと思っていたユーリは、内心歯噛みした。午前中に
「やにさがる」という言葉は、今日の坊ちゃまのためにある。いや、これからはきっと、毎日こんな調子だろう。
「今朝、エディットのお医者さまにも
誰も間違いなんて言っちゃいないのに、ユーリの坊ちゃまは、にやにやしっぱなしで
「オドネルさん、男の子か女の子か、生まれる前にわかる魔法はありませんか?」
あったとしても、赤ん坊が豆つぶほどの大きさの現時点では、どうにもなるまい。
だらしのない顔になってはいるが、短い赤毛に緑の瞳の少年は、ずいぶんと大人びた。ユーリが勉強を教えていたころは、小さくて弱々しくて、いつも夢見る少女のように遠くを見ていたものだが、このところで背丈も伸び、体つきも前よりよほどしっかりしている。──彼はさきごろ十六歳になったばかりだ。貴族は結婚が早いとはいえ、もう父親って……と、この時代の観念だとそろそろ年増の部類に入るユーリは、少々複雑な気分になる。
「ふむ、どうだろうね」
「『
「人の体を透かしてみるってことですか?」
魔法剣士の青灰色のたれ目が丸くなった。「私は試したことはありませんが」
「むろん私もだよ。どうかね、この機会に新たな
「ははあ、エディットさまで、ですか。──そうですねえ、旦那さまがおっしゃるんですから、ここはひとつ」
「やっぱりだめです!」
なにか別なものを
坊ちゃまと従者は、おやつがすんだらとっととお帰りになってくださった。お屋敷で奥方さまがお待ちかねなのだそうだ。ようするに、わざわざ自慢しにきたのである。暇な伯爵閣下もいたものだ。
魔法学院のための教本の執筆と、じきにおこなう魔法の会の準備。合間にはオドネルが興味を引かれたあれやこれやの研究。元魔法士の家から借りてきた書物の整理。オドネルとユーリは、いつだって忙しい。魔法学院のことにかかりきりでなくてもどこからも文句が出ないのは、最高責任者である王弟殿下の
きみのような女性は、この世に二人といない。
「師匠」
坊ちゃまたちが帰ったのは天啓だ。今度こそ、ユーリは尋ねようと思った。──師匠はいつからわたしを見ていたんですか?
「なにかね?」
このあいだ、
ユーリのどこを好ましく思ったのか、尋ねることにも意味はない。彼は貴族の生まれだそうだが、彼女が下町育ちなことも、両親がいないことも、面接で話しているから知っている。それに、オドネルはユーリと毎日顔を合わせている。地味で平凡な顔立ち、飾りけのない衣服、学問好きで身なりにかまわない彼女を、いつでも彼は見ていた。
ましてや、あの台詞は本気で口にしたのか? など、愚問もいいところだ。誰が言ったと思う。オドネルだ。彼がユーリをそんな言葉でからかうなんて、あろうはずがない。絶対にありえない。
ユーリが知るオドネルは、
ずっと、ひと言も口に出さずに。
ユーリは大きく息を吸いこんだ。
「師匠……わたしの姉に会ってみます?」
「なっ」
オドネルは魂が消し飛んだような目つきになり、バタリと本を閉じた。
「ローランドくん、き、きみは、だしぬけに、なにを言い出すのかね?!」
秀麗な面差しが、一瞬で火をつけたように赤くなる。──うん、そうだった。ジュリアン=オドネルとは、こういう人だったはずだ。ユーリは一人得心する。
「なんだかやけに期待されているものですから」
「き、き、期待とは?!」
「そこはまあ、いろいろと」
「いろいろとはなにかね?!」
「いろいろはいろいろですよ」
「…………」
しばしの沈黙。
──やがて王宮魔法士は、威厳を取り戻そうとしてだろうか、こほん、と、ひとつ、咳払いをした。
「……いいとも、考えておこう」
「考えておいてください」
オドネルは赤い顔のまま、ぱらり、と、また本を開く。元は
「なんだね?」
むっとしたように、オドネルは目を上げる。
「いいえ、なんでも」
ユーリはかぶりを振って、書物の整理につけている帳面を開いた。──どの棚にどこの家から借りたなんの本があるのか、しっかり管理をするのもユーリの役目だ。オドネルはすぐになんでも散らかしてしまう。元に戻しているのは誰なのか、ちょっとは考えてほしいものだ。
結構うまくやっていると思う。こんな変わりものの相手を毎日こなせるのは、王都広しといえど自分だけではないか、と、ユーリは考える。その点では、ジュリアン=オドネルの人を見る目は確かだと言えよう。
「……都合は?」
「は?」
「きみのお姉さんの、都合のいい日どりだよ」
「たぶん今夜でも歓迎されると思いますが」
「……………」
「いけませんか?」
「……せめて、明日の晩ではどうだろうかね」
「意外と意気地がないんですね、師匠。──ええ、わたしは明日でもかまいません」
こんな日々がずうっと──このまま生涯続くのも悪くないんじゃないか、と、ユーリ=ローランドは思うのである。