「101」のちょっと前。
──カチィン!
あるじがソーサーに戻したティーカップが、やけに甲高い音を立てた。
「先月だと?!」
「は」
これはボリスの
「先月の、何日だったんだ?」
「末日のはずで」
クララ王弟妃が主催したガーデンパーティーの当日である。あるじ夫妻はそろって出席した。長らく邸内に引きこもっていた二人の、久々の外出だった。当時、エレメントルート伯爵夫妻の動向はまだまだ世間に注目されており、周囲に気を配る必要もあった。その日がなんの日かなど、考えている暇はなかった。
だが、およそ一年前、アルノーへ出向き、バルドイ男爵家の子息たちを調査したのはボリスである。当然ながら、少年がいつ
「…………」
あるじは唇をかみしめる。こうも日にちが経ってしまっては、今さらなにをどうしようと言い訳にしかならない。
「奥さま」
秘書のオーリーンが、神妙な面持ちで前へ出た。
「ボリスの責任ではございません。私こそが気づくべきでした」
「いや……」
あるじは首を振った。「わたしがいけなかった。もっと早く
居間中に悲愴な空気が立ち込めた。ときすでに遅しとは、まさにこのこと。少年はとっくに十六歳だ。
気を取り直したらしく、あるじが生真面目な面持ちでつぶやいた。
「たとえ過ぎたとしても、ここは贈りものをするべきだろう」
料理長のネロが、なぐさめるように言う。
「エディットさま、おっしゃっていただければ、俺がどんな料理だって作ってみせますよ」
神のごとき
「なにか新しい本でも届けさせましょう」
執事のワトキンスも続く。あるじは即座にかぶりを振った。
「本は以前カイルに贈ったことがある。ほかのものにする」
と、言い切られたところで……あの少年に、読書以外で好むことがあるかといえば。
あるじは仰向いた。彼女が見つめる先は、二メートルの高みにある魔法剣士のとぼけた顔だ。
「グレイ、カイルへの贈りものにふさわしい、魔法の道具はないか」
「えっ、道具ですか?」
「なにかあるだろう。空を飛べる
むちゃくちゃを言う。ふとボリスは、というか、おそらくこの場にいる全員が、この背高従者当人こそが、彼女の注文のものに相当するのでは……と考えたが、それはまた別の話だ。
グレイは困ったように、青灰色のたれ目をぱちぱちさせた。
「エディットさま、簡単におっしゃいますが、いまどき魔法の道具なんて、いいかげんな
「そうか……」
グレイの言葉は理にかなっていた。あるじは深くため息をつく。
「あのう……」
おそるおそる、下男のマイルズが口を出す。
「旦那さまは、このあいだから馬のお稽古を始められたでしょう」
あるじの瞳が輝いた。「馬か!」
「へ、へえ」
「よし、今すぐ馬の仲買人を呼べ!」
「お、お待ちなせえよ。まさかエディットさま、馬をお求めになるおつもりなんで?」
マイルズはあんぐりと口を開けた。
「お言葉を返しちまいますがね、そいつはおよしになったほうがようございますよ」
「なぜだ?」
「だって旦那さまは、やっとニケ号とタカ号にお慣れなすったところなのに」
少年は乗馬を始めたばかりである。不慣れな若駒よりも、年取って気性の穏やかな馬のほうがよい。馬具にでもなさいまし、と、馬丁も御者も兼ねる下男に諭され、あるじの唇は、むうっととがる。
「なら、乗馬服はあるのか? 靴は? 鞭は?」
「前にひと通りお作りしてありますけど」
侍女のバルバラが首をかしげる。
「まだ用意のないものといえば、乗馬用の手袋でしょうか」
「そうか、手袋だな!」
「でも今はエディットさまのお古をお使いですし、それはそれでご満足のようでいらっしゃいますよ」
よもやあの彼が乗馬をする日などくるまいと、あつらえるのを忘れていたらしい。少々きついようだが、さすがは貧乏男爵の末っ子だ。まったく頓着しないばかりか、愛する妻の
「いいや、だめだ」
あるじはきっぱりと言い切った。
「大きさが合わないせいで、落馬でもしたらどうする」
手袋がきついがゆえの落馬とは……ボリスは寡聞にして耳にしたことがない。皆も同じ意見だろうが、口に出せる勇気を持つものなど一人もいない。
「すぐに手の大きさを測らせよう。帽子屋を呼べ!」
「エディットさま、エディットさま」
バルバラが、大あわてだ。「お渡しするまでは、ないしょになさらないと」
「……そうか?」
「ええ。贈りものって、そういうものですから」
「──エディットさま」
廊下の気配に感づいたワトキンスが、刺すような視線で注意をうながした。さあ、大変だ。皆あたふたと己れの持ち場へ戻ろうとする。湯を使っていた少年が、戻ってきたのだ。
「エディット」
湯上がり用のガウンを着て、自身の髪と同じくらい赤く頬をほてらせた少年が、居間に現れた。はんぱな時刻に皆がぞろぞろ出ていくので、きょとんと不思議そうな顔をする。まだ大いにあどけなさを残すこの子どもが、今年のうちに父親になるというのだから恐れ入る。
最後にボリスが扉を閉める寸前、もう全員去ったと思ったのだろうか。少年が、あるじにねだる声がした。
「エディット、あの……」
「ん?」
「少しだけ……おなかに触ってもいいですか?」
睦まじくてまことに結構、と、言わざるを得ない。
◆◇◆
セドリック卿が殺害され、エルヴィン夫人が赤子とともに亡くなってから、およそ十四年──
誰が言い出したわけでもなく、エレメントルート伯爵家では、あるじの誕生日を祝うことが禁じられていた。
むろん、かつては違った。領地キトリーの城で、一家はそれぞれの生まれた日を祝った。贈りものを手渡し、ごちそうを食べ、笑顔で時を過ごした。
けれど、両親の死とともに、あるじはそんな習慣を忘れ去ったようだった。過ぎた歳月を数えたくない、幸せだったころを思い出したくない──あるじには長いあいだ、そんなかたくなな雰囲気があった。
「エディットの誕生日って、いつなんですか?」
春のある日、少年が無邪気な笑顔で誰かに問うた。大勢の身内にかこまれて育った彼である。家族の生まれた日を祝うなど、彼にとっては朝がくれば目覚めるのと同じくらい、当たり前の行為だったのだ。しかし、ボリスたちには青天の霹靂だった。長年そんなことは忘れていたから。
ほぼ時を同じくして、少年がそろそろ十六歳になるのでは、と、あるじも思い至ったらしい。おそらくは、自身の誕生日が近づいたことがきっかけだ。ふと、少年の誕生日はいつなのか、皆に尋ねた。
なんという美しい話であろうか。夫の存在が、孤独だった妻の心を解きほぐした。彼女の胸には、幼いころの幸福な習慣が
なのに……
少年の誕生日は、半月以上も前に過ぎていた。
(奥ゆかしいにもほどがある)
ボリスのように世慣れた男なら、腹が立つほどだ。あの少年のことだ。おおかた、訊かれもしないのに自分の誕生日を口にするのは気が引ける、とくらい、考えたのだろう。
「……どうする?」
侍女のバルバラがため息をつく。
問題は、少年の誕生祝いをあるじが失念していた点にある。彼女は率直な性格だ。ほうっておけば、「忘れていてすまなかった」などと、直截に詫びを入れてしまう。それではどうにも格好がつかぬし、彼が少しでも──ほんの少しでも──しょぼくれた顔を見せようものなら、妙にいたたまれない心地がするに違いない。たとえて言うなら、慕いよってきた子犬に気づかず蹴飛ばしてしまったような罪悪感を覚える。
「エディットさまも、お忘れだったわけではないのよね」
バルバラは、あるじを
「お祝いをごいっしょになさったらいかがですかね?」
下男のマイルズが言った。名案だ。彼の意見をもとに、皆で知恵をしぼることになった。──あるじの誕生会の席で、あるじからも少年への贈りものを手渡す。彼は大いに喜ぶだろう。
互いにないしょで祝いごとを考えさせよう。特に少年には、あるじからの贈りもののことはひた隠しにする。彼を驚かせ、「忘れられていた」という事実を忘れさせることが目的だ。
となれば、双方に知られぬよう、
片方の湯あみのあいだ、もう片方へ、寄ってたかって知恵をつけるのだ。
「旦那さまは、エディットさまのお誕生会をなさろうとお考えのようですよ」
味方だと思わせるには、秘密を共有するふりをするのが一番だ。バルバラがひそかに打ち明け、旦那さまを驚かせてさしあげましょう、と提案する。あるじは面白がって賛同した。これで第一段階は成功だ。
一方、妻の誕生日が近いことを知った若き伯爵閣下もたいそう喜んだ。「エディットにないしょで、お祝いをしたいんですけど」とは、ボリスたちの狙い通りの台詞である。
「どうにかして、旦那さまに花を持たせてさしあげませんと」
と、首をひねるグレイは、現在少年の従者を務めている。そのうえ彼は女好きだ。女好きとは、むろん恋する男の心にも通じている。
秘密を暴露してしまったからには、少年の側の贈りものは、とびきり上等の、あるじが思いもよらぬものでなければならぬ。エレメントルート伯爵家は裕福なのだ。あるじは必要なものならなんでも持っているし、不要なものには興味を
なにがなんでも成功させなくては。であれば、少年のちっぽけな
さて、少年を
「わたしがドレスを着るのか!」
あるじは目を丸くするが、ここは本来驚くところではない。わが国で一番の美貌が、よほどのことがない限りドレスを身にまとわないほうがどうかしている。
ドレスの色は、赤だ。それも、深い深い紅色。少年が魔石のために用意する宝石、すなわち彼自身の魔力の色だ。
けれど、少年からの贈りものがなんなのか、そこまであるじに明かすわけにはゆかぬ。彼の髪の色だから、と噛んでふくめるように言い聞かせる。派手な色合いに渋る彼女がなにを言おうと全員一致、断固たる勢いで押し通す。
そんなせわしない日々を送るある夜、しみじみとグレイが言った。
「でも、来年あたりは、お風呂までごいっしょなさってしまいそうですよねえ……」
確かに。
初々しい若夫婦には、子を成してもなお恥じらいがある。今は彼らが別々に湯を使うので、こうして全員で謀議をこらす余地がある。それすら、なくなってしまったら……
「………………」
皆はなんとなく顔を見合わせ、ため息をつく。
残るは、読書好きの『旦那さま』が宵っ張りで、懐妊前は朝から剣術の稽古をするのが日課だった『奥方さま』は、早寝早起きな点だけだ。以後はそこに賭けるしかあるまい。
──ついに訪れた、二人を祝う当日の夕べ。
あるじは屋敷への帰り道、馬車に同乗しているボリスに問う。
「ボリスは、カイルがわたしになにを贈るつもりなのか、知っているのか?」
「いえ、まったく存じません」
ふうん、と、つぶやくあるじは、なにを思うのか愉快そうだ。
あるじのドレスは、少年の留守を狙って届けさせた。彼女が自分で決めた彼への贈りもの──乗馬用の手袋も、悟られないよう少年の手の大きさを測り、極上の革をもちいてあつらえた。
二人は互いの贈りものがなにかを知らず、二人ともに寝室のどこかへ隠しているようだ。少年があるじの留守のあいだに魔力をそそいだ
カラ、カララン──
大扉のノブを軽く引いて、次に強く引いて。ボリスは合図のベルを鳴らす。
出迎えるのは執事でも侍女でもなく、少年一人だ。玄関ホールの向こう、居間の戸口から勢いよく駆け出してくる。せっかく大人らしい正装なのに、と、ボリスは微笑を禁じ得ない。
「おかえりなさい」
たった半日ぶりの逢瀬に、少年は息をはずませ妻のもとへ駆け寄った。まるで一年もはなればなれだったというように。それとも、今初めて運命の女性にめぐり会ったというように。
あるじを見つめるたびに、少年のひすいのような緑の瞳は、たとえようもない喜びをあらわにする。それに気がつくと、あるじがうろたえることを、ボリスは知っている。使用人ではなく、家族からの出迎えに、いまだ彼女が慣れないことも知っている。
この家は、これからにぎやかになるだろう。昔と同じに愛し合う夫婦が住まい、子が生まれるのだ。
カラン。
できるだけ静かに大扉を閉める。
ようやく肩の荷が下りた。これで己れのしくじりも一点取り返せただろうか──赤く染まった西の空を見上げ、ボリスは大きく息を吐いた。
◆
──そしてただいま、二人でお誕生会の真っ最中。
「名前をどうしましょうか」
口の中に広がる牛フィレ肉の甘味を堪能しながら俺が言うと、エディットは不思議そうに小首をかしげた。──うーん、
「名前? 赤ん坊のか?」
「はい」
「今から決めてどうするんだ?」
男か女かもわからないのに、と言われてしまう。ふっふっふ、そう思うでしょう。違うんだなあ、これが。
「男の子の名前も、女の子の名前も、両方考えておくんですよ」
「なぜ?」
「赤ちゃんが生まれたら、どちらでもすぐ名付けられるようにです」
俺の長兄夫婦に子どもができたとき、アルノーの実家は、上を下への大騒ぎになった。長らく男の子しか生まれなかったバルドイ男爵家である。今度こそ女の子を! と期待するし、やっぱり跡継ぎを! との期待もある。結局みんなで、両方の名前を考えていた。
「ああ、そうか……」
エディットは瞳を伏せた。テーブルの下で、俺はそっと手を伸ばす。すべらかなドレスの布地の上から、彼女の下腹に触れる。その手の甲に、白い右手が重なった。──次第に彼女の唇の両はしが上がり、頬には小さなえくぼが浮かぶ。
「そうだな、男の子の名と、女の子の名を、両方……」
きたるべき未来を想像したのか、それとも過去を思い返したのか、エディットは歌うようにささやいた。彼女も両親といっしょに、生まれてくる赤ん坊の名前を考えたことがあるのかもしれない。
「もしもこの子が女の子だったら、おばあさまのお名前から、頭文字をいただいてもいいだろうか?」
ためらいがちに問われ、俺は大きくうなずいた。おばあさまは『エレオノーラ』。そして
「ええ、そうしましょう」
「男の子だったらどうする? カイルの名から、一文字取って名付けるか?」
「うちではあまり、そういう名前の付けかたをしないんですよね」
俺には六人の兄がいるが、頭文字は兄弟全員ばらばらだ。
「しいていえば、名前が少しずつ短くなっていて」
「どうして?」
「父と母は、男の子の名前を考えるのがだんだん面倒になっていったんだと思います……」
生まれに生まれたバルドイ家の七人兄弟の名は、上から順に、アウグスブレヒト、マクシミリアン、レオンハルト、ベンヤミン、ハンネス、ニクラス──そして俺が、
ちなみに、俺のすぐ上の兄二人は双子である。
くっくっくっ、と、エディットは声を出して笑った。ワインのグラスを手に取り、横目で俺を見る。
「それはいいな。──よし、わたしたちの赤ん坊が男の子だったら、『カイル』よりも、もっと短い名前にしよう」
「えー……」
「短くて、
「僕は、長いほうが格好いいと思いますけど……」
だって『カイル』って、うちでは
ついついふくらませてしまった俺の頬へ、エディットの指が触れる。
「いいや、わたしはそうは思わない」
「え」
「『カイル』とは、英雄の名だ」
けむるような紫の瞳が、俺を見つめる。「わたしだけの、一人きりの英雄の名だ」
「…………」
大真面目に言われるのって、とっても顔が熱いんですけども……
「嫌か?」
「いえ……」
「かまわないだろう?」
「……はい」
「どんな名にする?」
「すぐになんて決められません」
「そうだな。これからゆっくり考えよう」
時間はまだたっぷりとあるんだ、と、頬にキスされる。
「そうですね」
なんだか、からかわれてるような気もするけど、まあ、いいかあ。彼女が楽しそうだから。──俺も彼女の頬に口づけを返し、うなずいた。