伯爵令嬢は、契約結婚した俺にいつ恋をする?   作:カタイチ

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縁談の話→間章「61 故郷」


秘書の縁談 前編

「──おや」

 

 驚いたように、うすあかい唇をわずかに開いた男は美しい。上等の絹織物をかけた寝椅子(カウチ)にしどけなく寝そべり、クリスタルの駒へ伸ばした手を、ふと止める。

 

 これなる美貌の男は、ゾンターク公爵だ。彼はただ美しいばかりではない。くっきりと弧を描く眉と、切れ長の濃い茶の瞳が、彼の意志の強さを物語っていた。年齢は四十に近いはずだが、波打つ黒髪に白いものはひとすじも混じらない。

 

「では、そなたもキトリーへ行ってしまうのかえ?」

「いいえ、閣下」

 

 陽光が差し込む公爵邸の温室(サンルーム)、籐の椅子に腰かけた銀縁眼鏡の青年は、そっけなく首を振った。相手はこの国の宰相である。けれど青年──オーリーン=ショウのあるじは、王家の血を引くのみならず、宰相に勝るとも劣らない麗人だった。

 

 つまり彼は、慣れている。高貴な人にまみえることにも、世にもまれな美貌を間近にすることにも。

 

「私は、あるじ夫妻の留守を預かるため、王都に残ることになっております」

「それは重畳」

 

 再び宰相の指が盤へ伸び、なめらかな曲線を描く女王(クイーン)の腰を、もてあそぶようにつまんだ。──コツン、と、すみまで引く。すでに盤上の駒は多くない。オーリーンの細い瞳がさらに細められた。

 

「…………」

「あとひとつ、私に勝てたら帰してあげるとしようか」

 

 宰相はくすりと笑う。

 

 ──にゃーん、と、あまえた声がした。背後から忍び寄り、寝椅子に飛び乗ったのは猫だった。背は薄茶。顔と長い尾が黒く、足は四本とも白い。大胆にもアセルス王国の宰相閣下の頬へ、顔をこすりつけようとする。

 

「いけない子だねえ、ミア。今は大事なお客さまがおいでなのに」

 

 にゃーん、にゃーん、と、猫はじれたように高く鳴く。ゾンターク公爵は吐息をついて起き上がり、ミアと呼んだ猫の喉をくすぐった。

 

「さ、もう少し待つよう、姫に伝えておくれ」

 

 猫は無情にも床へ下ろされてしまう。オーリーンは眉をひそめたまま、むっつりとつぶやいた。

 

「……もう一局、お願いいたします」

「よかろう」

 

 宰相の唇には、いっそう愉快そうな笑みが浮かぶ。

 

 

 ◆◇◆

 

 エレメントルート伯爵家の『秘書』、オーリーン=ショウという人は、

 

(かなり面倒くさい男)

 

 と、バルバラは思っている。

 

 風采は悪くない。バルバラの()()()()ほどではないが、背は高く、細身で脚が長い。顎や鼻筋などは、写実主義の彫刻家が精魂込めて刻んだ彫像のようだ。しかし、中身を知ると、見てくれなどどうでもよくなる。

 

「「おかえりなさいませ、オーリーンさま」」

 

 本邸の侍女を務めるバルバラは、秘書の帰宅時にも、執事のワトキンスとともに、()()出迎えるのが義務となっている。この屋敷は使用人が少ない。敵に警戒していると取られないよう、また、家士たちを不要な危険にさらさないよう、できるだけ少人数でというのがあるじの意向だった。難は去っても長年の習慣は、おいそれとは変わらない。よって、近くにいればバルバラも玄関ホールへ出向く。まあ、格好がつけばそれでよい。

 

「…………」

 

 銀縁眼鏡の奥から、一重の瞳が二人をじろりと見下ろした。いつにも増して機嫌が悪い。もちろん、あるじ夫妻がいないところでは、「ただいま」のひと言だってありはしない。

 

「お手紙が届いております」

 

 ワトキンスが差し出す封書を、オーリーンは、うなずく、というよりも、形だけ顎を引いて受け取った。眉間にはこれでもかと言わんばかりに縦じわが寄っている。そんなにしてたらしわが取れなくなっちゃうのに、とは、バルバラの心の声である。

 

「お食事は」

「執務室でとる」

 

 執事の問いに、やっと口を開いた。けれど、大股でさっさと行ってしまう。ゾンターク公爵邸へ招かれた日は、いつもこの調子だ。

 

 まだ二十代のなかばに過ぎないオーリーンが、どうしてこんなにいばりくさっていられるかというと、第一に彼は、家令の跡取り息子であるからだ。

 

 大昔のショウ家は東方からの移民だが、いつしか頭角を現し、キトリー地方の豪族となった。やがてかの地を治めたエレメントルート伯爵に仕え、息女が代々の伯爵へ嫁したことも一度や二度ではない。さらにいえば、亡くなった彼の母親は、あるじの乳母を務めていた。縁戚であり、乳兄弟。同じ家来でも、バルバラたちとは度はずれて格が違う。

 

 ──カタカタとワゴンを押して、バルバラは秘書の執務室へ向かう。ノックをすると、簡潔に「入れ」と返事があった。そんな不機嫌な声で、あるじ夫妻のどちらかだったらどうするんだと思ったが、ワゴンの音で食事が届いたとわかったようだ。まったく、可愛げのない。

 

 卓に皿をならべても、手にした書類へ目を落としたきり、徹頭徹尾無言である。バルバラの姫さま──「奥さま」だって相当ぶっきらぼうな女性だが、このようなときには必ず礼を言う。少しは見習ってもらいたいと思う。

 

 切れものだし、これまでのさまざまな難局を彼の采配で乗り越えてきた。王都におけるエレメントルート伯爵家を、オーリーンが支えているのは事実ではある。

 

 とまあ、そんなある夜のこと。

 

 バルバラは、自室でくつろぐあるじ夫妻のもとへ呼ばれた。わざわざお呼びがかかるのは、大変珍しい。この若い夫婦は、暇さえあれば二人っきりでいたいのだ。なんの用かと出向いてみれば、

 

「来週、本邸(ここ)に客人がお見えになる。何日か滞在するから、バルバラに世話をしてもらいたい」

 

 うるわしいあるじは、機嫌よく言った。

 

 おなかに子どもができて以来、あるじはますます美しくなった。心配ごとがなくなったせいもあるだろうか。以前の冷たくかたくなな様子が消え、誰もが振り返る美貌に拍車がかかったようだ。今のところ()()()も軽く、経過はすこぶる順調である。

 

「わたしが、お客さまのお世話を、ですか?」

 

 ついバルバラは問い返してしまった。「でも、わたしには、エディットさまのお世話が」

 

「バルバラさん、大丈夫です。エディットの身の回りのことなら、僕が全部しますから」

 

 うら若き『エレメントルート伯爵』、あるじの夫が横から口を出した。懐妊した奥方のお世話をご自身でなさろうとは、世の亭主どもの規範となるべき発言だ。

 

 あるじは侍女と夫を見比べて、唇をとがらせた。

 

「二人とも、まるでわたしを子どものように言うんだな。わたしは自分の面倒くらい、自分で見られるぞ」

「だめですよ。エディットはおなかに赤ちゃんがいるんですから」

「おなかに赤ん坊がいたら、なにもしてはいけないのか」

「なにもじゃありませんけど、できるだけ体に負担をかけないほうがいいでしょう?」

「ふーん」

 

 あるじの瞳が意地悪く瞬いた。

 

「じゃあ、カイルはわたしに、なにをしてくれるんだ?」

 

 少年も負けじと頬をふくらませる。

 

「エディットが着替えるときに、新しい服を出してきます」

「それだけ?」

「髪も()かします」

「ほかには?」

「え、まだほかにもありますか?」

「服を着る以前に、まず、なすべきことがあると思うが?」

 

 とっとと退散するのが(きち)の流れだが、肝心の用件がすんでいない。バルバラはじっと瞑目して待つ。──まったくもって、奥さまのおっしゃる通り。着る前には、()()必要がある。気づいた少年は、顔を赤くした。

 

「ええと、それは、エディットが自分で……」

「なんだ、カイルが全部してくれるんじゃなかったのか」

 

 あるじは膝に頬杖をついて夫をながめた。飾りけのない男もののブラウスのボタンをはずしていけば、誰よりも美しく女らしい肢体が現れる。少年も存分に知っているだろうに。

 

(旦那さま、お願いですから)

 

 そんな目でこちらを見ないでください、と、バルバラは心から願う。侍女は出てゆかぬし、妻は己れの答えを待っている。少年はとうとう小さな声で言った。

 

「はい、僕は、かまいません……」

 

 ──あるじが勝利を収めたところで、話は元に戻る。数日後、この屋敷には客人が訪れ、しばらく逗留する予定である。しかも()()だ。だからバルバラを世話係に任ずる、と。

 

「お客さまのお世話なら、別邸から誰か、お呼びになってはいかがでしょうか」

 

 一応は抵抗を試みる。バルバラは本邸でただ一人の女性使用人だ。あるじの世話を任されていることに、誇りを持っている。ところが、あるじはかぶりを振った。

 

「バルバラにはすまないが、今回は人を増やしたくないんだ」

「どうして増やせないのでしょう」

「うん、それは……」

 

 ここで、あるじ夫妻は顔を見合わせた。まるでいたずらをたくらむ子どものように、二人してくすくす笑う。

 

「バルバラ、まだ誰にも言わないでいられるか?」

「はい。エディットさまがおっしゃるなら、もちろんです」

 

 あるじは組んだ脚を解いて長椅子に座り直した。紫水晶(アメシスト)そのもののまなざしが、こちらを見る。

 

「客人の王都訪問は、マーレーンの頼みによるものだ」

 

 マーレーンとは、領地キトリーを任されている家令である。秘書のオーリーンの父親だ。あるじはごく真面目な面持ちで、バルバラに告げた。

 

「客人は、ノルデン領の家令、ヘラルド=アルディーニどののご息女で、ロゼッタ嬢という」

 

 一度も耳にしたことのない名前だった。

 

「ロゼッタ嬢は、オーリーンの()()()だ」

 

 ──己れをしつけの行き届いた侍女だと自負するバルバラは、上品に「さようでございましたか」と返した。そして客人の世話を快く引き受け、あるじ夫妻の部屋を辞した。

 

 むろん内心では、

 

(うっわー……びっくりしたー……)

 

 と、つぶやいていたのではあるが。

 

 おかしくはない。あの男が嫁をもらったところで、少しもおかしくはない。この時代、良家の跡取り息子が二十いくつにもなって、婚約すらしていないほうが変だ。

 

 ──光陰矢の如し。歳月人を待たず。あっというまに訪れた当日の朝である。バルバラが、念には念を入れて最後の掃除をする客間に、背高従者のグレイが顔をのぞかせた。

 

「今日の午後、よその(くに)からお客さまがお着きになるんですってね」

 

 天蓋付きのベッドの柱を磨きながら、「手伝って」と、雑巾を押しつける。彼が知っているということは、緘口令は解かれたようだ。そりゃそうか。お着きになるのは今日なんだから。

 

「バルバラは、どなたがいらっしゃるのかご存じですか?」

「さあ」

 

 とぼけてみせると、グレイは腰をかがめ、秘密めかして耳打ちしてくる。「……オーリーンさまの、お身内のかたのようですよ」

 

「ふーん、そうなんだ」

「あれっ、バルバラはぜんぜん聞いてなかったんですか?」

「伺ってたけど、黙ってろって言われたの」

「エディットさまに?」

「そうよ」

「やあ、ということは」

 

 グレイの青灰色のたれ目がにやにやと笑う。

 

「うわさは本当のようですね。おいでになるのは、オーリーンさまの()()らしいじゃありませんか」

 

 どこから流れたうわさだ。人の少ないこの本邸で。

 

「ちょっとグレイ、あんたまさか」

「めっそうもない。私はお相手のいるかたにはご迷惑をおかけしない主義ですよ」

 

 バルバラがまだなんとも言わないうちから、グレイはきりきりと顔を引き締める。

 

『特別なもてなしをするつもりはない。わたしの親戚の娘が遊びにくるとでも思ってくれ』

 

 バルバラを世話係に任命したときの、あるじの言である。

 

 じつをいえば、秘書が親同士の取り決めでロゼッタ嬢と婚約したのは、去年の秋だそうだ。以来半年近く、彼はなにかと理由をつけて、婚約者に会おうとしない。

 

 国許のマーレーンは、伯爵夫妻の帰郷を機にオーリーンもキトリーへ帰ると思っていたらしい。帰ってくれば、挙式の話を始められる。ところが、オーリーンがよこした手紙には、「自分は王都に残る」と、ひと言書かれているのみだ。明らかに彼は、結婚から逃げている。

 

 当のロゼッタ嬢からは、早く挙式を、と矢のような催促で、両家の父親は困り果てたようだ。とうとう婚約者自らが王都まで乗り込んでくることになった。今なら伯爵夫妻にもあと押しをしてもらえる、というわけだ。いったいどんな女傑が現れるのか、バルバラは今から恐々としている。

 

 ロゼッタ嬢のふるさと、ノルデン領は王都の南西に位置し、馬車で七日ほどの距離にある。若いお嬢さんには結構な長旅だ。きっとお疲れだろう。どんなかたでも、できる限りのお世話をしてあげよう──と、心優しいバルバラは思う。

 

 出迎えにはあるじ夫妻も姿を見せた。となれば、オーリーンも執務室から出てこないわけにはゆかない。訪れるのは彼の客人なのだ。憮然としつつも、皆といっしょに大扉の外へ出る。

 

 アプローチの向こうの車寄せへ、馬車が横付けになった。

 

 そこそこ立派な二頭立てだが、御者があまりにも老いた男だったので、バルバラは驚いた。老人はよぼよぼと地面に降り立ち、震えそうな手つきで馬車の扉を開ける。

 

 またもや目を(みは)ってしまう。真っ先に降りてきたのは、髪の白い老婆だった。丸ぽちゃの顔をにっこりさせて、出迎えの一同に深々と腰を折ってみせたこのおばあちゃんがロゼッタ嬢、なわけがない。彼女に続いてステップへ足を下ろしたのは──

 

 ()()だ。

 

 やや紫がかった瑠璃色の瞳。御者の老人が差し出す手へ、ほっそりとした白い手を伸べる。旅行用の外套(マント)の裾をつまみ、緊張しているのか、足元が少々おぼつかない。

 

 皆の注目を浴びているのに気がつくと、彼女の頬はひと息で赤くなった。顎のひもをほどき、ちりよけの帽子を取る。──すべらかに肩へ落ちるのは、春の日差しみたいな淡い金色の、直ぐな髪。

 

 まるで陶器でできたお人形のような少女が、首筋までをうすくれないに染めた。すべすべの頬と、あどけないまなざし。年齢は、まだせいぜい十四、五歳だ。

 

「は、はじめまして」

 

 薔薇の花の精が口をきいたら、こんな声音を出すだろうか。彼女は大きな瞳を伏せると、いささか震えを帯びた細い声で、「ロゼッタ=アルディーニと、申します」と、言った。

 

 このたおやかな美少女が、()()秘書の婚約者だというのである。

 

 

 

 


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