「──おや」
驚いたように、うすあかい唇をわずかに開いた男は美しい。上等の絹織物をかけた
これなる美貌の男は、ゾンターク公爵だ。彼はただ美しいばかりではない。くっきりと弧を描く眉と、切れ長の濃い茶の瞳が、彼の意志の強さを物語っていた。年齢は四十に近いはずだが、波打つ黒髪に白いものはひとすじも混じらない。
「では、そなたもキトリーへ行ってしまうのかえ?」
「いいえ、閣下」
陽光が差し込む公爵邸の
つまり彼は、慣れている。高貴な人にまみえることにも、世にもまれな美貌を間近にすることにも。
「私は、あるじ夫妻の留守を預かるため、王都に残ることになっております」
「それは重畳」
再び宰相の指が盤へ伸び、なめらかな曲線を描く
「…………」
「あとひとつ、私に勝てたら帰してあげるとしようか」
宰相はくすりと笑う。
──にゃーん、と、あまえた声がした。背後から忍び寄り、寝椅子に飛び乗ったのは猫だった。背は薄茶。顔と長い尾が黒く、足は四本とも白い。大胆にもアセルス王国の宰相閣下の頬へ、顔をこすりつけようとする。
「いけない子だねえ、ミア。今は大事なお客さまがおいでなのに」
にゃーん、にゃーん、と、猫はじれたように高く鳴く。ゾンターク公爵は吐息をついて起き上がり、ミアと呼んだ猫の喉をくすぐった。
「さ、もう少し待つよう、姫に伝えておくれ」
猫は無情にも床へ下ろされてしまう。オーリーンは眉をひそめたまま、むっつりとつぶやいた。
「……もう一局、お願いいたします」
「よかろう」
宰相の唇には、いっそう愉快そうな笑みが浮かぶ。
◆◇◆
エレメントルート伯爵家の『秘書』、オーリーン=ショウという人は、
(かなり面倒くさい男)
と、バルバラは思っている。
風采は悪くない。バルバラの
「「おかえりなさいませ、オーリーンさま」」
本邸の侍女を務めるバルバラは、秘書の帰宅時にも、執事のワトキンスとともに、
「…………」
銀縁眼鏡の奥から、一重の瞳が二人をじろりと見下ろした。いつにも増して機嫌が悪い。もちろん、あるじ夫妻がいないところでは、「ただいま」のひと言だってありはしない。
「お手紙が届いております」
ワトキンスが差し出す封書を、オーリーンは、うなずく、というよりも、形だけ顎を引いて受け取った。眉間にはこれでもかと言わんばかりに縦じわが寄っている。そんなにしてたらしわが取れなくなっちゃうのに、とは、バルバラの心の声である。
「お食事は」
「執務室でとる」
執事の問いに、やっと口を開いた。けれど、大股でさっさと行ってしまう。ゾンターク公爵邸へ招かれた日は、いつもこの調子だ。
まだ二十代のなかばに過ぎないオーリーンが、どうしてこんなにいばりくさっていられるかというと、第一に彼は、家令の跡取り息子であるからだ。
大昔のショウ家は東方からの移民だが、いつしか頭角を現し、キトリー地方の豪族となった。やがてかの地を治めたエレメントルート伯爵に仕え、息女が代々の伯爵へ嫁したことも一度や二度ではない。さらにいえば、亡くなった彼の母親は、あるじの乳母を務めていた。縁戚であり、乳兄弟。同じ家来でも、バルバラたちとは度はずれて格が違う。
──カタカタとワゴンを押して、バルバラは秘書の執務室へ向かう。ノックをすると、簡潔に「入れ」と返事があった。そんな不機嫌な声で、あるじ夫妻のどちらかだったらどうするんだと思ったが、ワゴンの音で食事が届いたとわかったようだ。まったく、可愛げのない。
卓に皿をならべても、手にした書類へ目を落としたきり、徹頭徹尾無言である。バルバラの姫さま──「奥さま」だって相当ぶっきらぼうな女性だが、このようなときには必ず礼を言う。少しは見習ってもらいたいと思う。
切れものだし、これまでのさまざまな難局を彼の采配で乗り越えてきた。王都におけるエレメントルート伯爵家を、オーリーンが支えているのは事実ではある。
とまあ、そんなある夜のこと。
バルバラは、自室でくつろぐあるじ夫妻のもとへ呼ばれた。わざわざお呼びがかかるのは、大変珍しい。この若い夫婦は、暇さえあれば二人っきりでいたいのだ。なんの用かと出向いてみれば、
「来週、
うるわしいあるじは、機嫌よく言った。
おなかに子どもができて以来、あるじはますます美しくなった。心配ごとがなくなったせいもあるだろうか。以前の冷たくかたくなな様子が消え、誰もが振り返る美貌に拍車がかかったようだ。今のところ
「わたしが、お客さまのお世話を、ですか?」
ついバルバラは問い返してしまった。「でも、わたしには、エディットさまのお世話が」
「バルバラさん、大丈夫です。エディットの身の回りのことなら、僕が全部しますから」
うら若き『エレメントルート伯爵』、あるじの夫が横から口を出した。懐妊した奥方のお世話をご自身でなさろうとは、世の亭主どもの規範となるべき発言だ。
あるじは侍女と夫を見比べて、唇をとがらせた。
「二人とも、まるでわたしを子どものように言うんだな。わたしは自分の面倒くらい、自分で見られるぞ」
「だめですよ。エディットはおなかに赤ちゃんがいるんですから」
「おなかに赤ん坊がいたら、なにもしてはいけないのか」
「なにもじゃありませんけど、できるだけ体に負担をかけないほうがいいでしょう?」
「ふーん」
あるじの瞳が意地悪く瞬いた。
「じゃあ、カイルはわたしに、なにをしてくれるんだ?」
少年も負けじと頬をふくらませる。
「エディットが着替えるときに、新しい服を出してきます」
「それだけ?」
「髪も
「ほかには?」
「え、まだほかにもありますか?」
「服を着る以前に、まず、なすべきことがあると思うが?」
とっとと退散するのが
「ええと、それは、エディットが自分で……」
「なんだ、カイルが全部してくれるんじゃなかったのか」
あるじは膝に頬杖をついて夫をながめた。飾りけのない男もののブラウスのボタンをはずしていけば、誰よりも美しく女らしい肢体が現れる。少年も存分に知っているだろうに。
(旦那さま、お願いですから)
そんな目でこちらを見ないでください、と、バルバラは心から願う。侍女は出てゆかぬし、妻は己れの答えを待っている。少年はとうとう小さな声で言った。
「はい、僕は、かまいません……」
──あるじが勝利を収めたところで、話は元に戻る。数日後、この屋敷には客人が訪れ、しばらく逗留する予定である。しかも
「お客さまのお世話なら、別邸から誰か、お呼びになってはいかがでしょうか」
一応は抵抗を試みる。バルバラは本邸でただ一人の女性使用人だ。あるじの世話を任されていることに、誇りを持っている。ところが、あるじはかぶりを振った。
「バルバラにはすまないが、今回は人を増やしたくないんだ」
「どうして増やせないのでしょう」
「うん、それは……」
ここで、あるじ夫妻は顔を見合わせた。まるでいたずらをたくらむ子どものように、二人してくすくす笑う。
「バルバラ、まだ誰にも言わないでいられるか?」
「はい。エディットさまがおっしゃるなら、もちろんです」
あるじは組んだ脚を解いて長椅子に座り直した。
「客人の王都訪問は、マーレーンの頼みによるものだ」
マーレーンとは、領地キトリーを任されている家令である。秘書のオーリーンの父親だ。あるじはごく真面目な面持ちで、バルバラに告げた。
「客人は、ノルデン領の家令、ヘラルド=アルディーニどののご息女で、ロゼッタ嬢という」
一度も耳にしたことのない名前だった。
「ロゼッタ嬢は、オーリーンの
──己れをしつけの行き届いた侍女だと自負するバルバラは、上品に「さようでございましたか」と返した。そして客人の世話を快く引き受け、あるじ夫妻の部屋を辞した。
むろん内心では、
(うっわー……びっくりしたー……)
と、つぶやいていたのではあるが。
おかしくはない。あの男が嫁をもらったところで、少しもおかしくはない。この時代、良家の跡取り息子が二十いくつにもなって、婚約すらしていないほうが変だ。
──光陰矢の如し。歳月人を待たず。あっというまに訪れた当日の朝である。バルバラが、念には念を入れて最後の掃除をする客間に、背高従者のグレイが顔をのぞかせた。
「今日の午後、よその
天蓋付きのベッドの柱を磨きながら、「手伝って」と、雑巾を押しつける。彼が知っているということは、緘口令は解かれたようだ。そりゃそうか。お着きになるのは今日なんだから。
「バルバラは、どなたがいらっしゃるのかご存じですか?」
「さあ」
とぼけてみせると、グレイは腰をかがめ、秘密めかして耳打ちしてくる。「……オーリーンさまの、お身内のかたのようですよ」
「ふーん、そうなんだ」
「あれっ、バルバラはぜんぜん聞いてなかったんですか?」
「伺ってたけど、黙ってろって言われたの」
「エディットさまに?」
「そうよ」
「やあ、ということは」
グレイの青灰色のたれ目がにやにやと笑う。
「うわさは本当のようですね。おいでになるのは、オーリーンさまの
どこから流れたうわさだ。人の少ないこの本邸で。
「ちょっとグレイ、あんたまさか」
「めっそうもない。私はお相手のいるかたにはご迷惑をおかけしない主義ですよ」
バルバラがまだなんとも言わないうちから、グレイはきりきりと顔を引き締める。
『特別なもてなしをするつもりはない。わたしの親戚の娘が遊びにくるとでも思ってくれ』
バルバラを世話係に任命したときの、あるじの言である。
じつをいえば、秘書が親同士の取り決めでロゼッタ嬢と婚約したのは、去年の秋だそうだ。以来半年近く、彼はなにかと理由をつけて、婚約者に会おうとしない。
国許のマーレーンは、伯爵夫妻の帰郷を機にオーリーンもキトリーへ帰ると思っていたらしい。帰ってくれば、挙式の話を始められる。ところが、オーリーンがよこした手紙には、「自分は王都に残る」と、ひと言書かれているのみだ。明らかに彼は、結婚から逃げている。
当のロゼッタ嬢からは、早く挙式を、と矢のような催促で、両家の父親は困り果てたようだ。とうとう婚約者自らが王都まで乗り込んでくることになった。今なら伯爵夫妻にもあと押しをしてもらえる、というわけだ。いったいどんな女傑が現れるのか、バルバラは今から恐々としている。
ロゼッタ嬢のふるさと、ノルデン領は王都の南西に位置し、馬車で七日ほどの距離にある。若いお嬢さんには結構な長旅だ。きっとお疲れだろう。どんなかたでも、できる限りのお世話をしてあげよう──と、心優しいバルバラは思う。
出迎えにはあるじ夫妻も姿を見せた。となれば、オーリーンも執務室から出てこないわけにはゆかない。訪れるのは彼の客人なのだ。憮然としつつも、皆といっしょに大扉の外へ出る。
アプローチの向こうの車寄せへ、馬車が横付けになった。
そこそこ立派な二頭立てだが、御者があまりにも老いた男だったので、バルバラは驚いた。老人はよぼよぼと地面に降り立ち、震えそうな手つきで馬車の扉を開ける。
またもや目を
やや紫がかった瑠璃色の瞳。御者の老人が差し出す手へ、ほっそりとした白い手を伸べる。旅行用の
皆の注目を浴びているのに気がつくと、彼女の頬はひと息で赤くなった。顎のひもをほどき、ちりよけの帽子を取る。──すべらかに肩へ落ちるのは、春の日差しみたいな淡い金色の、直ぐな髪。
まるで陶器でできたお人形のような少女が、首筋までをうすくれないに染めた。すべすべの頬と、あどけないまなざし。年齢は、まだせいぜい十四、五歳だ。
「は、はじめまして」
薔薇の花の精が口をきいたら、こんな声音を出すだろうか。彼女は大きな瞳を伏せると、いささか震えを帯びた細い声で、「ロゼッタ=アルディーニと、申します」と、言った。
このたおやかな美少女が、