伯爵令嬢は、契約結婚した俺にいつ恋をする?   作:カタイチ

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幕間 従者、雨の夜に想う。

 雷鳴と同時に、激しい雨が降り出した。

 

 他家の従者や馬丁らが、たちまち前庭を右往左往する。だが、ボリスは外套(マント)のフードをかぶっただけで、その場から動かずにいた。

 

 どこかで雷に驚いた馬が高くいなないている。一瞬気を取られ、そらした瞳を元に戻したとき、お仕着せ姿の小姓が駆けてくるのが目に入った。

 

「──エレメントルート家のかたでしょうか?!」

 

 亜麻色の巻き毛を濡らした小姓は、まだ子どもといってもいい年だ。額に手をかざし、雨音と周囲の喧騒に負けまいと、声を張り上げる。

 

「馬車がお着きになりました! どうぞこちらへ!」

 

 品のある顔立ちだった。おそらくどこかの貴族の子弟なのだろう。あるじの夫より、ひとつくらい年上かもしれない。

 

 雨よけのある車寄せには、扉に(ひいらぎ)の紋章をつけた二頭立てが停まっている。ボリスと同じくすっぽりとフードをかぶる御者は、なんでも屋の下男、マイルズだ。

 

 まもなくあるじが現れる。邸内の明かりとざわめきがこちらへ近づいてくる。彼女をひと目見ようと、他家のものたちも集まってきた。

 

 幾人もの侍女や小姓が、うっとりしたまなざしを送る。貴人たちさえ雨にもめげず、鈴なりの見送りだ。

 

 王宮騎士団の花形であるはずの近衛隊の制服は、あるじの肢体を包むにはあまりにも簡素である。白い手に剣をたずさえ、男性にしては小柄だが、女性にしては長身の部類に入る。整った輪郭は唇を引き締め、まるで薔薇の(つぼみ)のように硬く、近づきがたい。

 

(無理もない)

 

 どれほどうるわしくとも、また、どれほど気丈であろうとも、ボリスのあるじは、まだ十八の乙女だ。

 

「……ご苦労だった」

 

 憂いをふくむ、かすれていればいるほど艶のある声。だが、ボリスの心は揺らぎはしない。

 

 彼はあるじとの同乗を許されている。ボリスが扉を閉めると、馬車はすぐに動き出した。

 

「……いかがでございましたか?」

 

 ご容態は、とは、十年以上付き従うボリスとて、続けることが(はばか)られた。あるじは組んだ脚の上に両手を重ね、雨つぶの流れる車窓へ目をやっている。

 

「うん……」

 

 子どものように、こくん、と首をうなずかせる。

 

「きっともう、あと何日もない」

「…………」

「おばあさまが亡くなられたら、わたしは……」

 

 言葉はそこで途切れてしまった。車輪の音に合わせて揺れる窓の外では、稲妻が光る。春に咲く花と同じ色をしているはずのあるじの瞳は、(くら)い。

 

「あのかたにきていただいたおかげで、キトリーを召し上げられずにすみますからな」

「ああ……そうだな」

 

 ボリスが話を変えたのに、あるじのほの白い頬は硬いままだ。無理もない、と、ボリスはもう一度思う。積年の思いを解き放つ日が、ようやく訪れようとしている。だがそれは、彼女を愛する人がまた一人、この世から消え去ることを意味している。

 

 

 

 ◆◇◆

 

 あれから二十余年が経つ。

 

 王都を揺るがす大スキャンダルが巻き起こったころ、ボリスはまだ青年だった。剣の師を亡くした直後、さびしくも気ままな日々のつれづれにキトリーを訪れ、あるじの祖父に当たる当時のエレメントルート伯爵に拾われた。若いころ大陸をくまなく旅したという磊落(らいらく)な伯爵と意気投合し、そのまま仕えることになった。

 

 先王の末の姫、エルヴィン・イルメンガルド=アセルティス王女は、国一番と(うた)われた美女だった。

 

 母親譲りの銀の髪と(すみれ)の瞳。月光の精にたとえられた可憐で(はかな)げな美しさは、アセルス国内のみならず、かなたの国々までも知れ渡っていた。

 

 エルヴィン王女は当時十七歳。年ごろにもかかわらず、婚約さえまだだった。引きも切らず持ち込まれる見合い話に当人が嫌気を感じていたとも、末娘を溺愛する両親──すなわち前の国王と、そのころは王后であった現王太后が嫁ぎ先を選りすぐっていたから、とも言われている。

 

 だが、エルヴィン王女は恋に落ちた。なんとお相手は、ボリスが仕え始めたばかりのエレメントルート伯爵の一人息子である。

 

 のちにあるじの父親となる若者は、名をセドリック・クライド・キトリー=エレメントルートといった。つまり、エレメントルート伯爵家は、ディルク姓を持ってはいなかった。今のように裕福でもなかった。セドリックは王宮へ上がり、書記官を務めていた。

 

 当時──現在もであるが──王女の伴侶となる男性は、国王または王子が当然とされていた。外交上の観点からも、エルヴィン姫は他国へ嫁ぐと目されていたわけだ。近隣諸国との(いくさ)に明け暮れていた昔ならいざ知らず、今の時代、国内に相手を求めるなら、大公か公爵の子息がぎりぎりのところである。

 

 ()()()()()()()は、そのいずれにも当てはまらない。

 

 二十二歳だったセドリックは、父親にまるで似たところのない、落ちついた黒髪に灰色の瞳、見るからに穏やかで優しげな若者だった。彼が領地へ帰郷する際はもちろん、伯爵が王都へ出向くときにも、供のボリスは必ず顔を合わせていた。

 

 彼と王女は王宮で出会ったとしか思えない。彼らは誰にも知られずに逢瀬を重ね、ことが露見したときには、互いに互いを失う事態など、考えられなくなっていた。

 

 ひ弱な見かけのセドリックは、文官らしく言葉をつくしてエルヴィン王女に愛を伝えたのだろうか。ボリスにはわからない。彼は世間知らずの少女を口先でたぶらかせるような男ではなかった。

 

 誰もが()()身分違いの恋をなじった。父の伯爵さえもである。しかし、セドリックは引かなかった。彼が父親に逆らったのは、おそらくこれが最初で最後だったろう。

 

 婚約までには、二年の月日が必要だった。王女の二人の兄、現在の国王と王弟とがセドリックに決闘を申し込む、という騒ぎもあった。恋人との仲を引き裂かれる悲しみに、美しいエルヴィン姫はやつれ果て、玉の緒が絶えんばかりの儚い風情は、貴族の子弟たちの心を騒がせた。

 

 結局は愛娘に甘い国王夫妻が、このまま本当に死なれてはかなわない、と、折れた。エレメントルート伯爵も、妻の忘れ形見の()()()()()()を、ついには無下(むげ)にできなかった。

 

 心労のためもあったのだろうか。ある朝突然倒れた伯爵は、短い闘病生活ののち、この世を去った。残された息子は爵位を継ぎ、喪が明けてからは晴れてディルク姓を名乗ることを許された。エルヴィン王女が降嫁したのである。王女の持参金により、エレメントルート伯爵家は途方もない大金持ちになった。

 

 それが、セドリック=エレメントルートの命取りになった。

 

 一年後、夫妻は最初の女の子を授かった。睦まじい暮らしを続けてさらに五年後、セドリックは王宮内で、()()()()()()()()()()()

 

 そのとき、エルヴィン夫人の胎内には、伯爵家の跡取りとなるはずの男の子が宿っていた。だが、出産の際、母子ともに亡くなった。

 

 ボリスは思った。ほかに死者が出なかったのは、むしろ幸いである、と。このうえ王后までが身まかられていたら、アセルスの国民はどれほどの悲嘆にくれただろうか。

 

 しかしボリスとて、次々と襲ってくる主家の不幸に、がらにもなく動じていたようだった。

 

 彼はいささかも予想していなかった。ぬばたまの黒髪は父と同じ、菫の瞳は母と同じ。成人のあかつきには、母よりも美しくなるだろうとうわさされていた、愛くるしくもいとけない六歳の童女。彼女がある日、ボリスに告げたのだ。

 

「ボリス、わたしに剣を教えてちょうだい」

 

 ──以来、彼はあるじとともに()る。

 

 ボリスはあるじの思惑をすべて知るわけではない。むしろ、ことさらに尋ねていない。彼には彼なりに思うことがある。自分のようなものにも(へだ)てなく、友人としてあつかってくれた『伯爵』への思いが、目の前に座るあるじへの忠節につながっている。

 

 暗闇に走る稲妻を見つめるあるじの横顔は、美しい。母親の消え入りそうな可憐さとは異なる、戦いの女神の美しさ。

 

 ボリスはそれを、とても誇りに思っている。

 

 

 

 

 


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