12
暗い森の
茂った木々にさえぎられ、星のひとつぶすら見えない夜。まだ若い母親の右腕には十にも満たない姉娘、左腕にはもっと幼い妹娘が、しっかりとしがみついている。
どうしてこんな夜に、どうして明かりもなく、ただ三人、体を寄せ合って歩いているんだろう。
不気味に鳴くふくろうの声。時折なにかが、ガサッ、と茂みを揺らす。ひそひそ、くすくす、小鬼や小霊がささやき交わす声もする。
母娘の靴を夜露が濡らす。三人の足取りは、次第に重たくなってくる。
もう歩けない、と、小さな妹がぐずり出した。気丈にふるまう姉だって、本当はへとへとだ。困った母親は、娘たちを年経た杉の太い根元へ座らせた。
──二人とも、ここにいてちょうだい。今、母さまがお水を探してきますからね。
妹はかぶりを振ってしがみつき、姉は母の手を強く引く。
──いや、母さま、行かないで。
──母さま、怖い、行っちゃいや。
──大丈夫よ、聖なる大樹がおまえたちを守ってくれるから、
つらくなったら、口笛を吹くのよ……
……そうだっけ?
◆◇◆
夢に見たのは、昔読んだおとぎ話のワンシーンだった。
『つらくなったら口笛を吹け』
『さびしくなったら歌を歌え』
別れぎわ、兄さまたちに言われた言葉を考えながら、ベッドに入ったせいらしい。
思いつくのは、お母さんと二人の女の子が森を行く、この物語だけ。結末はどうがんばっても思い出せない。姉妹が口笛を吹いてお母さんを呼ぶんだったか。それとも、歌を歌うと誰かが助けにくるんだったか。
アルノーから持ってきた本を、残らず開いてみた。けれど、それらしい台詞は見つからない。
たぶん、家族とはなればなれになる俺を励ますために言ってくれたんだろうな。すっかり忘れちゃってるけど。
……などと考えつつ身じたくし、食堂へ降りていく。
エレメントルート伯爵家自慢の
実家の食事がまずかったとは言わないが、おしなべて質素であったことは否めない。最初は海老がたっぷり入ったふわふわのオムレツから。サラダには酸味のきいたドレッシングをかけ、
「──医者を呼ぶ必要はなさそうだな」
びっくりし過ぎて、桃、丸のみにしちゃったよ。おたおたしながら振り返ると、黒髪の天使がそこにいた。
神々しい、という言葉は、彼女の美しさを表すためにある。
もしかすると、今日は仕事が休みなのかも──エディットは、襟の大きなブラウスの上にゆったりしたガウンをはおり、絹糸のような髪を下ろしたままだ。
「どうだ?」
「え」
「ここの暮らしだ。少しは慣れたか?」
「は、はい」
俺の隣を、ふんわりといいにおいが通り過ぎた。エディットの視線が俺の手元へ、ちら、と落ちる。
ワゴンをカタコト押して、執事のワトキンスがあとに続く。──黒光りするまなこが、カッ、と見開いた。俺の皿が、すべて
これだけ食べちゃったら、もう病人とは思われないよね……
彼女と食堂でいっしょになるのは今朝で四度目だ。そのうちの三度が朝である。若いのに
不思議だ。
夜通し降っていた雨がやみ、大きな窓から入る朝の日差しのせいだろうか。くつろいだ衣装に変わっただけで、席につく彼女の瞳がひどく穏やかに見える。
「退屈してるんじゃないのか?」
「いえ、そんなことはありませんが……」
「そうか、ならいい。読みたい本があればワトキンスに言え。王都で手に入るものなら取り寄せよう」
実家の家族全員が座ってもまだ余裕があるほど長い食卓の向こうから、こんなふうに話しかけられるのも、初めてかもしれない。
「……ありがとうございます」
なんと答えたものやら。俺が当たりさわりなく礼を述べると、目の
「ああ、忘れるところだった。カイル、近いうちにあなたも──……」
この屋敷は使用人が少ない。俺たちの給仕だけではなく、料理を運ぶところからが執事の役目である。ワトキンスはエディットの前に皿をならべると、俺の器を下げ、お茶をそそいでくれる。それがすむと、女主人の後ろへ控えに戻る。
彼は一見、どこにでもいる痩せ型の五十男だ。髪には霜が降り、黒の上下に、かっちりしたシャツ。寝るときまで締めていそうなタイ。控えめな立ち居ふるまいは、まさしく執事そのものだ。
しかし、俺は知っている。彼の眼光は鋭い。気配を消してたたずんでいるかのごとく見せかけて、彼のくぼんだ瞳は
彼は今、床に落ちている糸くずを発見した。しかめつらがますますしかめられる。と一転、黒目がこぼれそうにひんむかれた。あれはテーブルクロスの染みに気がついたんだな。あとで侍女のバルバラが、
この屋敷の人物相関図なら、俺もそろそろ飲み込んでいる。ワトキンスはバルバラより強くて、バルバラは従者のグレイより強い。──ユーリ先生からは、「ティ坊ちゃまは、他人に興味がない」なんて言われたけれど、そんなこともないでしょう。
「……カイル、聞いてるか?」
いつのまにか、エディットがティーカップを片手に、面白そうな目つきで俺をながめていた。
「は、はい!」
飛び上がる俺を見て、彼女はくすりと笑う。
「近々あなたもいっしょに、王宮へ行ってもらうことになる。そのつもりでいてくれ」
「王宮ですか?」
すねに傷持つ身の俺としては、避けたい種類の話題である。どこまで知っているのかいないのか、エディットはなんだか意地悪そうな笑みだ。
「そうだ。
なんですって?
「父が亡くなってから空位だった伯爵位は、あなたに授与されるんだ。当然だろう?」
はい、そうでした……
アセルス王国の王位爵位は男子継承が原則なのだ。女子にあるのは財産の所有権と、
すっかり忘れてた。俺はもう、カイル=バルドイじゃなかった。今の俺の名前は──カイル・ティ・キトリー・ディルク=エレメントルート。
彼女と結婚するとは、すなわちキトリー領主、エレメントルート伯爵になるってことだった。
「国王陛下との謁見もあるぞ。王后陛下、王弟殿下、王族の皆さまがたもおそろいだ。お一人お一人から、なにかお言葉を
俺が死にかけた金魚みたいに口をパクパクさせているのに、エディットは涼しい顔でパンをちぎっている。
「どうだ? 光栄だろう? 今夜はオーリーンが戻る。衣装の打ち合わせをしておけよ」
オーリーンとは、彼女の秘書のことである。衣装って、衣装って、まさか……
「ああ!」
と、エディットは
「
やっぱり
あのさ、美人はそんなふうに、にやにやしないほうがいいと思うよ。絶対性格悪く見えちゃうんだから。