伯爵令嬢は、契約結婚した俺にいつ恋をする?   作:カタイチ

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 怖くなかったと言ったら、嘘になる。

 

 自分よりも大きくて、強くて、美しい彼女になにかを要求するなんて、俺は今まで考えたこともなかったんだ。

 

 エディットが()()()を高く掲げたから、俺は夢中で手を伸ばした。──その手首を、つかまれてしまった。

 

「!」

 

 この細い体のどこに、こんな力を秘めているんだろう。確か、前にも似たようなことを思った。

 

 気がつけば、ほとんど抱えられるようにして廊下へ引きずり出されていた。床から何度も足が離れた。どんなにもがいても、彼女は俺を放してくれない。

 

「──捕まえたぞ!」

 

 獲物を手にした狩人、それとも戦利品を得た将軍のように、彼女は高らかな勝どきをあげた。

 

 みんなが階段の下に、わらわらと集まってくる。「えーッ?!」と叫んだのは侍女のバルバラだ。料理長のネロが大きな腹をゆすって笑い出し、下男のマイルズは、ヒュウ、と口笛を吹く。執事のワトキンスが、すさまじい目で俺を見る。

 

 あとからくるこわもての従者が、苦虫を噛みつぶしたあげく、飲み込んだような顔をしている。うすっぺらな俺の紙切れは、彼の手に握られていた。

 

 居間へ突き出された俺は、裸足で寝間着のまんま、本当の寝起きみたいに髪なんかぐしゃぐしゃになっていた。

 

「………………」

 

 深呼吸二回分以上の時間が経ってから、秘書のオーリーンは中指で眼鏡を押し上げた。

 

「……()()()()()()()()()、旦那さま」

 

 いや……さすがに俺だって、ずっと部屋にいたと思ってもらえるなんて、考えてませんでしたよ……?

 

 戸口からグレイがひょっこり姿を現した。俺を見て彼の青灰色のたれ目は丸くなり、それからにやにや笑い出した。なんだこいつ、思ってたよりぜんぜんやるんじゃないか──そんな顔を、彼はした。

 

 立ちんぼのままでたっぷり一時間、俺は冷血眼鏡男から説教を食らっていた。そのあいだに見物人は一人減り、二人減り、やがてエディットと秘書を残して誰もいなくなってしまった。

 

 本でも読んだことはないけど、罪人の取り調べをながめる監獄長って、こんな感じなのかと思う。

 

 エディットは室内靴を脱ぎ捨てて長椅子に足を投げ出し、飲みものを運ばせ、優雅にくつろいでいる。椅子の背に片肘をかけて、俺を見ているのが視界のすみに映る。

 

 とにかく、今度ばかりは洗いざらい白状させられた。

 

 俺は前日より遥かに遅い時間に庭へ入った。昨日は使用人たちの食事のすきに勝手口から入れたのに、今日はもうみんな夕食をすませており、ネロの巨体は厨房から動こうとしない。

 

 あせった俺は、入れる窓がないかと探してみた。だが、手近なところはどこも内鍵がかかっている。俺の魔法は、じかに鍵穴へ触れなければ効果が出ない。

 

 俺が部屋にいないことは、すぐに知られてしまったらしい。日没を過ぎていくらも経たないうちに、騒ぎは途方もなく大きくなっていた。あとから思うに、俺なんかには想像もつかない迅速さで別邸から応援が呼ばれたのである。明かりを持った家士がそこかしこへ歩哨に立ち、俺は建物に近づくことすらできなくなった。

 

 ようやく中に入れたのは、別邸の連中がすべて引き上げたあと、王宮を出てからおよそ四時間後であった……

 

「……()()

 

 神経質な画家が描いた肖像画みたいな細面をゆがめるオーリーンは、得心できかねるふうである。

 

「つまりあなたは、この人物から魔法を教わったとおっしゃるのか?」

 

 通行証は、彼の手に渡っていた。

 

「違います」

 

 俺は力いっぱいかぶりを振った。そりゃあもう、ぶんぶん振った。なにがどうなろうとも、オドネルに迷惑はかけられない。

 

 俺が魔法をかじった理由(わけ)も、彼と出会ったいきさつも、すべて包み隠さず口にした。秘書はあきれ果てたと言わんばかりだ。

 

「まったくわかりませんな。では、なんのために王宮までおいでになったのです?」

「え、それは……」

 

 そもそも俺、なんのために出かけたんだっけ?

 

 ──そうだ、俺は。

 

「かっ……」

 

 彼女のことを、もっと。

 

「──()()です!」

 

 俺が言い切ったとき、くくく……と、長椅子から笑う声がした。

 

「カイル」

 

 見れば彼女の前のテーブルには、皿に盛られたサンドイッチと、なみなみとミルクをそそいだグラスが置かれている。

 

 ごくり。

 

 いつのまに。ついつい喉が鳴ってしまう。ワトキンスが届けてくれたのかな。

 

「食事をとっていないんだろう?」

 

 俺を見るエディットの瞳が、夕暮れどきの澄み渡った湖みたいに深い藍色に見えた。彼女は床へ足を下ろし、ちょっとだけ横にずれる。もう一度、俺を見る。

 

 椅子ならほかにいくつもある。彼女がよけなくても、広い長椅子にはいくらでも余裕がある。だが、彼女は俺に、隣へ座るよううながしている。

 

 エディットは俺を見ていた。終始、おかしくてたまらないと言いたげな瞳で、艶のある唇を結んでいた。

 

 怖くなかったと言ったら嘘だ。でも、怖いわけじゃなかった。それは、彼女が怒っていなかったから。

 

「…………」

 

 俺はおそるおそる彼女のそばへ行き、隣に腰を下ろした。

 

「──オーリーン」

 

 うなずいた秘書は軽く一礼して、居間を出てゆこうとする。

 

「待ってください!」

 

 俺はあわてて立ち上がった。通行証は彼が持っている。エディットが穏やかに俺を制した。

 

「カイル」

「でも、あれは!」

「いいから、食べてしまえ」

 

 振り返りもせず、オーリーンは行ってしまう。

 

「…………」

 

 ……俺は空腹に負けた。

 

 厚切りのハムとチーズをはさんだサンドイッチは、ちょっぴり辛子がきいていて、とってもおいしい。

 

 水で割ったワインのグラスをかたむけながら、エディットは口を開いた。

 

「……いじめ過ぎたかと思ったんだ」

「?」

「今朝」

 

 なんのこと?──俺はしばし考える。ごくん、と飲み込んで、思い出した。もしかして朝食のときの、()()()()()の話だね?

 

「…………」

 

 俺はかぶりを振った。無言だったことに他意はない。次のひと口を噛むのに忙しかっただけだ。

 

 どうもこの人の台詞は主語を欠くきらいがある。でも、それはつまり、彼女がからかったために俺が出ていったと思ってたって意味で……

 

 俺がそんなことをするわけがない。だって俺は、彼女に買われたんだから。実家にお金を出してもらう代わりに夫になる。彼女の邪魔はいっさいしない。それが約束だったはずだ。

 

 エディットは自分のグラスを空にして、ことりとテーブルへ置いた。

 

「──当分はうちでおとなしくしてろ」

 

 息をのんだ俺を、じろっと見る。

 

「わかったか?」

「嫌です。だって──」

「カイル、()()()()()?」

 

 鋭く細めた切れ長の瞳と、情のすべてを消し去った声音に、俺は喉元へ剣を突きつけられたような気持ちになった。

 

「はい……」

 

 丸腰の彼女にさえかなわない俺が、うなずくほかにできることなど、なにもない。

 

 俺が黙り込んでしまったせいかもしれない。エディットは小さくため息をついて立ち上がった。

 

「食べたらもう寝ろよ。──おやすみ」

 

 夜着のきぬずれに続き、カチャ、と、扉が開く。その音にまぎれるほどの、かすかな声。

 

「……あまり心配をかけるな」

 

 俺は振り返った。

 

 エディットも扉のノブに手をかけたまま、こちらを見ていた。

 

「……ごめんなさい!」

 

 思わずこぼれた俺の言葉に、紫色の瞳がなごんだ。

 

 エディットは時々、俺を見てこんなふうに笑う。そうすると、彫像のように整った頬が、ほんの少し、ゆるむ。

 

 彼女はあまりにもきれいだから、だから男みたいな口をきいているんだろうか、俺はそう思ってしまう。うっかり女性らしくふるまいでもしたら、周りの男たちはみんな、彼女の魅力に()じけづいてしまうから。

 

「いや」

 

 エディットは小さく首を振る。

 

「……おやすみ、カイル」

 

 ──そして、静かに扉は閉じた。

 

 

 

 

 


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