建ちならぶ倉庫のあいだの細い通路。俺はほとんど駆け足になって進んだ。手入れを
「おお、カイルくん! よくきてくれたね!」
「ティ坊ちゃま、お待ちしてましたよー!」
ローブにたすき掛けのオドネルと、埃よけの布を頭に巻いたユーリが歓声をあげた。見れば、この前まではなかった大量の書物が、大机の上に今にも崩れ落ちそうに積んである。
「この本、どうしたんですか?」
俺が急いで駆け寄ると、二人は顔を見合わせて、にやーっと笑う。
「とうとう開いたのだよ! いにしえの宝物殿の、閉ざされし大扉が!」
瞳を輝かせたオドネルが、両手を大きく広げ、その場でくるくる回り出した。
「ああ、なんということだ……! 偉大なる竜王、ニコデムス・トニ=ルクトレアが五人の仲間とともに黄金竜を
「朝からずうっと、こんな調子なんですよ」
ユーリもとてもうれしそうだ。
「昔の魔法士の子孫がまた一人、ご先祖の蔵書を提供してくれたんです。しかもそれが──」
「かつて王立魔法学院で、教授を務めた人物の末裔なのだよ、カイルくん!」
回り終えたオドネルは、ガシ!と俺の手を握りしめた。
「どれも百五十年前まで実際に使われていた教本なんだ」
オドネルは手近な一冊をうやうやしく取り上げ、いとおしそうに表紙をなでる。
「見てごらん。これは『初等魔法学』──ルーエル=ライト教授の名著だよ。当代のライト侯爵はすっかり政治家だが、名誉ある先祖の偉大な功績を忘れたわけではなかったらしい。こうしてわれわれに協力してくれたのだからね」
「魔法の教科書ばかり集めて、どうするんですか?」
俺とユーリ二人のために、ここまでたくさんの種類は必要ないだろう。
すると、ジュリアン=オドネルは、胸を張って宣言した。
「メイサゴスの翼より巨大な
「坊ちゃまには、まだお話ししていませんでしたっけ?」
本に
「師匠はこの塔に、魔法学校を作ろうとしてるんですよ。王弟殿下のご命令で」
「教本は、今の時代に即した内容に書き換えねばなるまいがね」
「……いいなあ」
つい、口から出てしまった。「その学校、僕も入りたい……」
「──旦那さま」
背後で気配を消していた俺の従者が、無表情に口をはさんだ。
「私は外でお待ちしております」
「あ、はい」
「……どうぞこちらを」
渡されたのは、中年男にそぐわない、可愛らしい
「ありがとうございます」
ドワーフおじさんは黙って一礼する。じろじろと室内をながめまわし──そのまま扉を開けて出ていった。
「……なんだか迫力のある人ですね」
ユーリが栗色の瞳をぱちくりさせている。オドネルもようやく、彼の存在に気づいたらしい。
「カイルくん、今のかたは?」
「ええと、なんていうか、僕の……護衛みたいな人です」
「……すっかり忘れてましたけど」
感心したように、ユーリが口を開けた。
「ティ坊ちゃまって、
そんなふうに言われると、いたたまれなくなってしまう。それに俺はまだ、厳密にいえば伯爵じゃない。
──バスケットの中身は、いろんな種類のベーグルの詰め合わせだった。
「え、なにこれ、おいしい……!」
たっぷりのクリームチーズと焼きりんごをはさんだのをひと口かじり、ユーリが口元を押さえた。
ブルーベリージャムのやつを二つも、ものの二分でたいらげたオドネルは、ティーカップを片手に、うっとりと目を閉じている。
「……どうやらお宅の料理長は、神々に愛されし腕の持ちぬしのようだ」
「そうですね」
ネロの作るものは、なんでもおいしい。──それは、その通りなんだけど。
オドネルが薄目を開けた。
「浮かない顔をしてるじゃないか」
俺は、机の天板にうずを巻く木目へ、目を落とした。
「僕、今はまだ、正式の伯爵じゃありませんが……」
もうすぐ俺は、爵位をもらわなければならないらしい。それは秘書のオーリーンからも、くどいように言われてしまった。
「爵位など、王制の中での、単なる住所録のようなものだと思えばいい」
オドネルが言う。先日彼は、自分のことを貴族階級の出身だと言っていた。
「はい、でも……」
「…………」
「もうすぐ爵位の授与式で、僕は王さまにお会いしなくちゃならないんです」
「国王陛下にお会いするのはお嫌なんですか?」
口をもぐもぐさせながら、ユーリが尋ねてくる。見かけによらず度胸のある彼女なら、きっと平気なんだろう。そう思うとなんだか恥ずかしい。
「いえ、それはそんなに……」
エディットが口にした「光栄」という言葉も、俺にはまだピンときていない。いずれにしろ、彼女と結婚するとは、そういうことだ。──まあ、このところ忘れていたけどさ。
「じゃ、なにが憂鬱なんです?」
「えーと……爵位授与式のときは、もっと違う格好をしなければいけないので……」
俺は今日の自分の服装を見下ろした。誰のおさがりでもない、真新しい衣装。これで充分過ぎるほどなのに。
「もしかして」
ユーリは眉間にしわを寄せた。「また
俺はため息をついた。「ええ、また
「
一人オドネルだけが、けげんな顔である。そこにユーリがさらりと言う。
「ティ坊ちゃまは結婚式のとき、金髪の長髪で、背丈もずっと高かったんですよ」
「ほう!」
黒衣の魔法士は、勢いよく椅子から身を乗り出した。
「確か、前にもそんな話をしていたね。姿変えの魔法なのかね?」
「そんなわけないじゃないですか。
そうかもしれないけど……お願い……仮装って言わないで……
「なぜ結婚式や爵位授与式で、わざわざ仮装をするのかね?」
「そういえばそうですね。坊ちゃま、どうしてなんですか?」
──え、そんなふうに言われちゃうと。
「さあ……? どうしてなんでしょう……?」
と、俺が首をかしげたそのとたん。
「尋ねたまえ!」「
二人がそろって大きな声を出したので、俺はものすごくびっくりした。
「カイルくん、口は呪文を唱えるためだけについているのではないのだぞ」
重々しい口ぶりで、オドネルが言う。
「おいしいものを食べるためだけについているんでもありませんよ」
ユーリは最後のベーグルに手を伸ばす。
「だいたいティ坊ちゃまは、ご自分の身にわけのわからないことが起こったら、どうしてなんだろう、って考えないんですか?」
……確かに。
俺が
アルノーの実家にエディットが現れた日だってそうだ。俺に婿養子の話があることも、その日彼女が訪れることも、当事者の俺だけが知らなかった。俺は家族の変化になにひとつ気づいていなかった。
ユーリ先生が俺の家庭教師を辞めた理由も、きっとみんなは知っていたんだろう。なのに俺は、誰に尋ねるわけでもなく、ただ──ああ、もう先生は戻ってこないんだな、と思っただけで。
「そうですね……」
これじゃあ「他人に興味がない」って言われちゃっても、無理ないかも。
「……今度、訊いておきます」
これからは、もう少し注意深く生きよう……
「それがいいと思いますよ」
「ぜひ、そうしたまえ」
とはいえ、尋ねる機会なんてないんだよなあ──と、どうしても俺は思ってしまう。
エディットとは、あれきりだ。それに、また食事どきにでも会えたとして、前には目力のワトキンス、後ろにはグレイのにやにや顔か、ドワーフおじさんのしかめつらだ。話しづらいことこのうえない。
──あ。
この前の晩は、王都にきてから初めて二人きりで、エディットと話をしたんだ……
「ティ坊ちゃま、どうかしましたか?」
気がつくと、ユーリの不思議そうな顔が目の前にあった。
「え?」
「なんだか顔が赤いですよ」
「……え?」
そうだろうか。俺は自分の頬に触れてみる。──熱いような気が、しなくもない。
「今日のティ坊ちゃまはいつもと違いますね。おうちでなにかあったんですか?」
「な、なにもないですよ。──そういえば」
話をそらすつもりはないが、せっかくなので俺は二人に尋ねてみた。
「どうして僕が三日もこなかったのか、二人ともなにも訊かないんですね」
別にすねてるわけじゃないけど、もしも忘れられていたんなら、俺、ちょっとさみしいかもよ。
すると、オドネルが笑った。彼の口の端には、思慮深げなしわが深く刻まれた。
「知っていたからね」
え?
「お使いの人がきましたから」
と、ユーリも言う。
「ちりちりの金髪の、男の人です。さっきの護衛の人よりもう少し若いかな? 下男だって言ってましたよ」
──マイルズだ。
「旦那さまはおうちの都合で何日かこられません、って。ねえ、師匠?」
「
なにを思い出したのか、二人とも苦笑いしている。
「……それ、いつですか?」
「ああ、きみが炎の
オドネルがお茶の残りを飲み干して、すっくと立ち上がった。
「さあ、カイルくん、ローランドくん、英気を養ったところで、もうひと仕事といこうじゃないか!」
──それから俺たち三人は、いくつかの棚を整頓し、空いたすきまへ新たな本を押し込めるのに数時間を費やした。
オドネルはすきあらば手にした本を広げ、なにがしかの講釈を垂れようとする。それを聞きとがめたユーリが、彼をガミガミ叱っている。
あんなふうに言ったのに、エディットははじめから俺を、ここにこさせてくれるつもりだったんだろうか。
……どうして?
やがて日がかたむき、従者が俺に帰宅をうながした。扉の前に何時間も立ちっぱなしでいたらしい彼は、なかなかすごい男だと思う。
通用門の脇には、下男のマイルズが御者を務める馬車が待っていた。十分もかからない道のりを揺られ、屋敷へ帰る。夕食後、俺は自分の部屋に戻った。
今夜はエディットの帰りを待っていよう──俺はそう思っていた。
俺は彼女に尋ねてみたいことがある。それに、言わなければならないことがある。
夜が更けるまで、俺は美しい湖の精霊と一頭の水竜の物語を読み続けた。水竜が精霊のために尾を失う悲しい結末を迎えても、彼女はまだ帰ってこない。俺はとうとう耐えきれなくなり、明かりはそのままで着替えもせず、ベッドへ倒れ込んだ。
どのくらいの時が経っただろう。
枕元に、人の気配を感じる。ああ、エディットが帰ってきたんだ──俺にはなぜか、それがわかった。この世で一番美しい
──カイル。
彼女が俺を呼んでいる。でも、起き上がろうと思っても、俺の体は動こうとしない。
「……カイル」
今度こそ、俺を呼ぶ声がした。
どうにか目を開く。夢じゃなかった。本当に、ベッドのそばにはエディットが立っていた。ランプは燃え尽きたのか消えていたが、室内は薄明るい。夜明けが近いのだ。
彼女は制服の腰にレイピアを帯びた、いつも通りの姿だった。ひどく疲れた顔をしている。たった今、戻ったんだろうか。
「カイル、いっしょにきてくれないか」
「え」
俺は目をこすり、起き上がった。
エディットは俺を見下ろしたまま、ささやくように声を出した。
「おばあさまが……」