承前 従者たちのある日
ヴァストル街のど真ん中にある酒場、『闘鶏亭』。
ボリスが足を踏み入れたのは、日もとっぷりと暮れ、晩飯をすませた連中が一杯やろうかと、腰をすえはじめたころだった。
「──よお」
もじゃもじゃの髪をした店の亭主が、やぶにらみの目をすがめて寄ってくる。
「久しぶりだな、いつものでいいかい?」
「頼む」
ボリスはうなずき、長剣をはずすと適当な席へ腰を下ろした。
「今度は長かったじゃないか」
「まあな」
トン、トン、と目の前に火酒の壺と杯がならべられる。『闘鶏亭』でのボリスは、隊商の用心棒というふれこみだ。ずんぐりした体を埃にまみれた旅装束で包み、いかにもしばらくぶりに王都へ帰ってきた、というふうを装っている。
言葉少なによもやま話を続けるうち、ぽつぽつと見知った顔が増えてくる。訪れる客は皆が似たり寄ったりの、隊商の一員だの、行商人ばかりである。ここはそういう店なのだ。
「
「南だよ。キトリーさ」
「またずいぶんと田舎だな」
隣国コーティアから戻ったのが昨晩、という壮年の男が笑い出した。
「あんなのどかなところに、あんたみたいな手だれが行って、なんになる」
「なに、俺の主人はさびしがり屋でな。話し相手さ」
「もったいないねえ」
身なりのいい太った旅商人が、あきれ顔で首を振った。
以前ボリスはこの『闘鶏亭』で、酔って喧嘩を始めたならずものを三人ばかり、片腕一本でたたき出したことがある。以来彼は、ここにやってくる連中のあいだでちょっとした顔なのだ。
「だから、あんたのご主人が払う倍は出すと言ったろう? お言いよ、いくらもらっているんだね?」
「気持ちはありがたいが、俺には先々代からの義理がある。そうそうあるじ替えはできんよ」
「キトリーくんだりまで、旦那のご主人はなにを商いに行ったんだい?」
「わかっちゃいねえな、小僧」
水気のない
「キトリーにゃ、じきに祝いごとがあるからな。商売するなら今さ。──そうだろ、旦那」
「さぁな。俺は商いのことはさっぱりなんだ」
「祝いごとってな、あれかい? 新しい領主さまがおいでになるっていう」
商売をするものは皆、それなりに世情に通じている。己れの商う品の売れ行きを左右するから当然だ。
「でもさ、王太后さまがお隠れになったばかりだぜ。派手な祝いは
「だからおめえは
ボリスのあるじが先日崩御した王太后の外孫であることを、王都の民で知らぬものはいない。訳知り顔の小間物売りに、元船乗りが鼻で笑った。
「そらな、王都じゃそうかもしれねえ。だが国許じゃ、殿さまがことが一番の大事だ。今ごろ家令がお国入りにそなえて、城中磨きたててらあ」
「そうかなあ」
若者は、叱られた子どもみたいに頬をふくらませた。
ボリスのあるじは世人にたいそう人気がある。周囲はたちまち彼女の話題で持ちきりになった。
「『
「あのお
「強い男なぞ、かえってつまらんのだろ。第一、なまなかの男じゃ歯が立つめえ。そら、いつぞやの剣闘会の五人抜き、ありゃあ見ものだった」
「──あたし、見に行ったんだ。お婿さんの、か・お」
『闘鶏亭』の若い女給が、火酒のおかわりを運ぶついでに口をはさんできた。どうやら彼女は、あるじの結婚式の折、大聖堂を幾重にもかこんだ群衆の一人だったものらしい。
「へえ。
「おめえ、どんだけ前まで行ったんだ? あの人出でさ」
「もちろんかぶりつきよ。前の晩からならんだもん」
「で、どんな色男だった?」
口々に問われた女給は、少々紅がはみ出た唇を、得意そうににんまりさせた。
「んー、そうね、きれいな金髪だった。素直そうで、結構可愛かったわよ。なんだかよろよろしてたけど」
「おいおい、可愛いときたぜ」
「おっかさまの血なのかねえ。身分が下の男を好むってのは」
男たちは苦笑いだ。空いた皿や酒壺を片付けながら、女給は首をかしげた。
「お貴族さま同士でしょ。上も下もないんじゃないの?」
「馬鹿だな。伯爵と男爵じゃ、うんでいの差なんだよ。
「そうなのぉ?」
──ころやよし、と見て、ボリスはおもむろに口を開いた。
「……俺はキトリーで、ちょいとばかり気になるうわさを耳にしたぜ」
皆の視線が、いっせいにボリスへ集まった。
「なんでも十三年前の、先代のエレメントルート伯爵が刺し殺された事件な──」
故セドリック=エレメントルート卿は、『菫の君』の父親である。先年彼が極めて不幸な亡くなりかたをしたことは、周知の事実だ。皆一様にうなずいた。
「どうやらエレメントルート家のほうじゃ、真犯人の目星はあらかたついているらしい」
「なんだってェ?!」
小間物売りの若者が、すっとんきょうな声をあげた。
「おかしいじゃないか。それじゃ、どうして今まで黙ってたんだ?!」
「さあ、俺にはわからんが──なんでも、近々黒幕を告発する準備があるんだとか」
「あのおかたは孝行ものだ」
旅商人がしんみりと言う。「王太后陛下がお亡くなりになるまでは、言い出せなかったのだろ」
「……面白くなってきやがったじゃねえか」
元船乗りの老人が、にやりと唇をゆがめた。
「あのお姫さまが、ちっちぇえ時分からあんな
「どういうことだよ?」
目をきょときょとさせる若者に、女給がため息をつく。
「あんた、なんにも知らないのね。──あのねえ、エディットさまは、お父さまを殺した犯人を捕まえたら、おばあさまである王太后さまがきっと悲しむだろうって、今までこらえてらしたんじゃないの。そういううわさ」
「ええっ、するってえと──」
「なあなあ、あんたはどいつが首魁だと思う?」
「おや、私に不敬罪を犯させるつもりかね?」
「とも限ったもんじゃねえ。俺はもうちっと下のやつらがくせえとにらんでる」
『闘鶏亭』は、いっそうにぎやかになった。
──さかのぼること数時間前。まだ昼下がりの、王都北部、アルボルタ通りにて。
「あたしの叔母さんが、キトリーへお嫁に行ったんだけどね──」
花売りの姿に扮しているのは、金茶の髪を肩でそろえ、頬にそばかすの散った小柄な娘──エレメントルート伯爵家本邸の侍女、バルバラであった。
買いもの帰りのおかみさん連中と、彼女たちの子どもらが、目をまん丸にしてバルバラの話に耳をかたむけている。
また、東部のトランシア街、大勢の老人たちが憩うレニエ広場にて。
「おいらこのあいだ、久しぶりにキトリーまで里帰りしたんだ。そしたらさあ……」
ほうきを手にした掃除夫が、幾人かの年寄りを相手に、身振り手振りを交えて語っている。ちぢれた金髪に、働きものらしいがっちりした体つきの四十男──下男のマイルズだ。
さんざめく『闘鶏亭』をあとにしたボリスは、長剣を腰に、うちへ向かってぶらりと歩き出した。かなりの量を飲まされたが、彼の足取りにいささかも乱れはない。
わずかに欠けたところのある月は西へかたむき、周囲をふちどる雲を明るく照らしている。美しいそれをながめ、ボリスは思う。
今こそ、時はきた。