「──嫌です」
と、俺は言った。きっぱりと言い切った、つもりだ。
エディットは胸の前で腕を組んだまま、じーっ……と俺を見下ろしている。
「……………………」
長い長い無言の
「待て」
「……なんですか?」
「話はまだすんでいない」
じゃあ、すませればいいでしょう。一刻も早く。
思いきって彼女を見上げてみる。庭に盛りのサルビアの花よりも濃い紫の瞳。透き通った虹彩が目の前までせまってきて、俺は大きくのけぞった。
「どこへ行く」
「図書室へ」
「なにをしに」
「本を読もうかと」
愚問じゃない? 図書室にほかの用事なんて、あるわけがない。
俺は一歩、後ろへ下がる。エディットは一歩、前へ出る。
「あとにしろ」
「すぐに続きを読みたいんです」
「ふーん……今はなにを読んでいる?」
「なんだっていいでしょう」
エディットはじりじり俺にせまってくる。俺はじりじり後ずさる。ついには、壁ぎわまで追い詰められてしまった。
まるで俺を閉じ込めるみたいにして、彼女は壁へ両手をついた。退路は完全にふさがれた。こんなふうにのぞき込まれると、どうしても目をそらせなくなってしまう。
瞳の圧力に負け、俺はとうとう口を割った。
「ひっ……『東の皇国の皇女』……」
「ああ、あれか。東方からきたはねっかえりの皇女が、頭の悪い王子の嫁になる話だろう?」
……あれ、意外。この人、あんなドタバタ話、読んだりするんだ。
驚く俺を見て、エディットは微笑んだ。それも、思わず思考が停止してしまいそうになるくらい、甘やかで蠱惑的な笑みだ。どうして彼女はこんなにも美しいのか。
「……聞きたいか?」
「なにをでしょうか……」
「あの話の、
──なっ、なんてことを……!
俺は顔をそむけた。
「いいえ……聞きたくありません……」
「カイル、あなたは今、あれをふざけた
「わかりました!」
もう、好きにして!!
──ふいに、顔の前から圧迫感が消えた。
エディットは勝ち誇ったように俺を見下ろすと、ひとつにたばねた長い黒髪をひるがえした。
「オーリーン!」
「はい、奥さま」
「奥さまはやめろ。
「かしこまりました」
「どうだ? わたしなら五分ですむと言っただろう」
「ええ、さすがです。少なくとも倍の時間はかかると考えておりました」
意気揚々と引き上げる女主人に対し、平然と秘書は答えた。しかし、中指で押し上げる眼鏡がキラリと光ったのを、俺は見逃さない。
絶対に仕返しだ。俺は三十分余りに及んだオーリーンの説得には、
「──まああ、ご主人さま!」
「お待ちしておりましたのよー!」
「さあさあ、どうぞこちらへ!」
どっちがどっちだかわからない甲高い声で叫んだ二人に、俺はたちまち上着をはぎ取られた。
「あらあ、お
「あらまあ、マリィさん、本当ね!」
ほっといてくれないかな……どうせ五ミリとか、そんな程度なんだから……
彼らは王都アセルティアで一番の、
◆◇◆
「いいんじゃないか?」
エディットは、仕立て屋の片割れが俺に着せかけた上着の見本をながめ、大きくうなずいた。
そうかなあ……
と思いつつ、俺は黙って、されるがままになっている。いったいなにごとかというと、近々俺が爵位を授かるために王宮へ出向くとき用の、衣装を新調するのだそうだ。それで朝っぱらから仕立て屋が呼ばれてるってわけ。
エディットもやはり女性だったということか。それとも単に面白がっているだけなのか。結局彼女は居間までついてきて、あれもこれもと俺を着せ替え人形あつかいだ。本来は秘書が仰せつかっていた役目のはずが、オーリーンのほうはせいせいしたと言わんばかりに、とっくに姿を消している。
俺は大将軍の出馬を招いてしまった自らの不明を悔いていた。オーリーンなら、口うるさくはあっても過剰なまでの合理性を発揮し、結果、俺の苦行の時間は半分以下ですんでいただろう。
「──二センチ!」
巻き尺を手に、背後でなにかしていたもう一方の仕立て屋が、驚嘆した声をあげる。エディットは手にしたティーカップを卓上へ戻し、長椅子から身を乗り出した。
「どうした?」
「ご主人さまの背丈でございますよ! やっぱり
……最初に言ったときより低くなってない?
「まだ十五だからな。──カイル、よかったじゃないか」
そりゃね。兄さまたちはみんな俺より大きいもん。俺だってまだ伸びるでしょうよ。多少は。
「これではすべてのお衣装を作り直さなくてはなりませんわねえー」
「そうか。任せるから、好きなようにしてくれ」
「はい! かしこまりましてございます!」
仕立て屋の夫婦、いや、よく見ると顔も似ているから兄妹か。リリィとマリィは目と目を見交わし、うふふふ、と笑う。
……
エディットは当たり前のような顔をして、チョコレートがけのビスケットをつまんでいる。──たかだか一センチなのに
おばあさまが亡くなってから、エディットはこうして屋敷にいる時間が増えた。
それで俺は、初めて知った。彼女の帰りが毎晩のように遅かったのは、仕事が終わったあと、郊外の離宮まで出向いていたからだった。おばあさまに会うために。
国葬だったというおばあさまの葬儀に、俺は参列していない。オーリーン
だから俺は、お葬式のとき、エディットがどんな顔をしていたのか知らない。──葬儀の日の朝、黒衣に身を包んだ彼女が、いつもと変わらずきびきびと屋敷を出てゆく後ろ姿を見ただけだ。でもなんとなく、今の彼女が不自然にはしゃいでいるように思え、痛々しく感じてしまう。
「──ああ、いいな」
仕立て屋兄こと、リリィが俺の肩にかけた布地を見て、エディットは満足そうな面持ちである。そうかなあ、と俺はまた思う。暗いけれど真っ黒ではなく、わずかに緑がかった繊細な色合いの布。これで作った服って、かなり立派というか、大人っぽい感じになるよね……
「まああ、さすが、お目が高うございますのねえ、エディットさま」
仕立て屋妹、もとい、マリィとエディットは、襟の形はあれだとか袖口がこうだとか、なんだとかかんだとか、俺には意味不明の会話を続けている。立ちっぱなしのこっちの身にもなってほしい。
しかも仕立て屋兄妹は、俺には「ご主人さま」と呼びかけるのに、彼女へは「エディットさま」だ。どうやらエディットは「奥さま」と呼ばれることを好まないようだ。へーえ、ふーん、そーお。
「カイル、あなたはどう思う?」
ようやく彼女がこちらへ顔を振り向けた。俺の意見を
「はい……」
「ん? なんだ?」
「ええと、とてもいいと思うんですけど……でも……」
俺が蚊の鳴くような声で言ったから、エディットはもちろん、リリィとマリィも俺を見る。
「僕には少し、派手じゃないでしょうか……」
「そんなことはない」
エディットは断言した。きっぱり、なんてものじゃない。リリィの捧げ持つ布地をなでた手が、俺のほうへ伸びてくる。
ちょっと、なにするのさ。
顎に指がかかり、くい、と持ち上げられた。これは、いつか通った道。なにがくるかと身構えると、彼女はまっすぐなまなざしで、俺を見つめて言い切った。
「この生地なら、あなたの瞳の色がとてもよく
えっ。
「ええ、ええ、とても! わたくしどももそう思いますことよ! ねえ、マリィさん!」
「そうですわね! わたくしもそう思いますわ! ねえ、リリィさん!」
仕立て屋兄妹は手を取り合い、声を震わせてさえずり続けている。俺は完全に固まっていた。──こちらが抵抗できないと見るや、エディットはすました顔で微笑む。
「では、これに決めることにしようか」
彼女の指が、するりと俺から離れた。絶対に遊ばれている……
まあ、でも、人前で