アセルス王国の先王、今は亡きディートヘルム一世には、エレオノーラ王太后とのあいだに三人の子があった。
長男は、現在の国王マティウス二世。そのひとり子が、八歳の王子テオドア。
次男が王弟シベリウス。三人の娘のうち二人目までが他国へ嫁ぎ、テオドア王子よりひとつ年長の、クローディア姫だけが手元に残る。
長女にして末子、エルヴィン王女はすでにこの世を去っている。彼女はエレメントルート伯爵のもとへ嫁し、第二子出産の際、母子ともに亡くなった。夫である伯爵は先立っており、一人遺された娘が、エディット──つまりは、俺の妻だ。
貴い血を分けた
「まことに申し訳ございませんが、王子殿下、王女殿下」
どれほど女性らしい衣装でも、二人の前に
「お二方へ魔法をお目にかけるのは、どうかまたの機会に」
「まあ、どうして?」
「そうだよ、どうしてだよ」
クローディア王女が可愛らしく抗議をし、テオドア王子は頬をふくらませた。
「彼はもう、戻らねばなりません」
そばにあった長い金髪のかつらを拾い上げ、エディットは俺へ渡してよこす。クローディアが、きょとん、と首をかしげた。
「どうして隠してしまうの? とても美しい赤なのに」
思いもかけないすばやさで、エディットとテオドアが、そろって彼女を見た。
「美しくなんかないだろ」
テオドアがつけつけと言う。
「こんなの血の色だ。
「いいえ、違うわ。夕日の色よ」
「なんだって」
幼い王子はたちまち顔色を変えた。「クローディア、僕の言うことに逆らうのか」
「王子殿下、王女殿下、ご存じではありませんか? 魔法使いは他人に真実の姿を見られると、力を失ってしまうのですよ」
エディットの言葉に、子どもたちの瞳が丸くなった。
「まあ、本当に?」
「嘘に決まってるよ」
「いいえ、本当です。──ですからこうして」
エディットは俺のかつらを、ぐい、と引っ張り、襟足を整えた。「彼は人前では姿を変えているのです」
「じゃ、ルシオン一座の魔術師も、本当はぜんぜん違う格好をしているのかな」
「そうなのかしら。白い髪のおじいさんだったわ」
「本当は黒髪なのかもしれないぞ」
二人の注意がそれたすきに、エディットが目くばせする。俺は脱ぎ捨ててあった靴へ手を伸ばした。
「僕たちにしんじつの姿を見られたんだから、おまえは力をなくしたのか?」
長い
「お二方がないしょにしてくださったら、大丈夫」
「僕たちが?」
「わたくしも?」
「ええ、そうです。誰にもおっしゃらずにいていただければ、彼の力は失われません。いずれは魔法をお目にかけることもできるでしょう」
「………………」
クローディア王女とテオドア王子は、顔を見合わせた。
真実の姿を見られたら力を失ってしまう、というエディットの言葉が本当なら、俺は危ないところだった。
「姫さま! こんなところにおいでだったのですね!──まあ、王子さままで!」
生け垣の向こうからあたふたとやってきたのは、いかにも
「つまらない。もう見つかってしまったのね」
「つまらないじゃございませんよ! 姫さま、あんまりミリスを困らせないでくださいまし」
「先にわたくしを困らせたのはミリスだわ。大広間へ行っちゃいけない、なんて言うんですもの」
「本日は大人の集まりだからでございますよ。──さあ、王子さまも。宮までお送り申し上げますから」
「えっ、僕もか?」
「相変わらず苦労させられているな、ミリス」
エディットが立ち上がり、声をかけると、ばあやは丸ぽちゃの顔についた丸い瞳をさらにまん丸く
「エディットさまじゃございませんか! 見違えてしまいましたよ!」
「そうか?」
と、エディットは淡い色のドレスをまとった自分の姿を見下ろした。「正直にいえば、剣を持たないのはどうも落ちつかないんだが」
「そんなお召しもののときくらい、
クローディアの乳母は、はっきりものを言うたちらしい。女性にしては上背のあるエディットを見上げて、ほれぼれとため息をつく。
「なんてまあ、さすがは『
「もう、ミリスったら」
クローディアの頬がほんのり桜色に染まる。そんな彼女へ微笑みを向けてから、エディットが俺に瞳を戻す。──あ、今は怒ってない。
「カイル、こちらはミリスどの。クローディア姫の侍女頭を務めておいでのかただ」
「伯爵さまでいらっしゃいますの? 凜々しい若者ですこと!」
「──りりしい、だってさ」
ぷっ、と、テオドアが吹き出した。クローディアは眉をひそめた。
「テオドア、だめよ」
「今度僕にそんな口をきいてみろ、クローディア」
王子の濃い褐色の瞳に、とても八つの子どもとは思えない、暗くて
するとクローディア王女は、ほんのわずか、大きな瞳を細くした。昂然と
「……許さないと、わたくしをどうするとおっしゃるの?」
ただ愛らしく美しいばかりではない。その誇り高いさまには、間違いなく彼女にも、女騎士たるエディットと同じ血が流れていると思わせた。
「お二人とも、もうそのくらいで」
エディットが穏やかに、少年少女をたしなめる。
「さあさあ、王子さまも姫さまも、参りますよ!」
陰りの差した空気を振り払おうとするように、ミリスが明るい声を出した。
「アマリアが姫さまとごいっしょに、刺しゅうをするお約束をしていただいたと申しておりましたよ」
「そうだったかしら?」
「ええー、刺しゅうなんて、つまらないよー」
「はいはい、料理長がパイを焼いておりますからね」
──三人はにぎやかに去っていった。
「…………」
風が吹く。
俺の魔法ではない、本物のそよ風だ。降り積もった
エディットが、こちらを向いた。おもむろに手が伸びてきて、前髪を直される。金色ではない俺の眉が、のぞいていたのかもしれない。
「人前では扮装を解くな」
「…………」
「これからも気をつけてくれ。──戻ろう」
彼女のドレスが風になびく。やわらかな布地のはしが、俺の手の甲に触れる。彼女の肩が俺の肩をかすめてゆく。
「……ほかの男にしておけばよかったのに」
吐き捨てるように、口から出てしまっていた。
「そんなに僕がみっともないんなら、もっと違う男を選べばよかったでしょう」
たとえば彼女の友人のリュカみたいな、背が高くて、年も同じな好青年を。
「──誰がそんなことを言った?」
背後から苛立ちをにじませた声がする。再び、俺の心臓はどきりと鳴った。
振り返ると、彼女の瞳は正面にある。
「わたしが一度でも、あなたを
「ない……かもしれませんけど、でも」
──こんなふうに、姿を変えさせるじゃないか。
エディットは、さも心外だと言わんばかりに眉をひそめた。
「まあまあだと、言ったはずだが」
「な、なにが?」
「顔が」
「えっ?」
そうだったっけ? 言われてみれば、そんなこともあったような気がするけども……ちょっと待て。そもそも、『まあまあ』って、褒め言葉なのか?
眉を寄せるばかりか、薔薇色に塗った唇を思いきりとがらせ、エディットは言う。
「誰かに魔法を見せるような真似も、もうするなよ」
「どうしてなんですか?!」
「どうしてもだ!」
切れ長の瞳に、きつくにらまれてしまった。なぜだろう。彼女が怒っているのに、俺はあんまり怖くない。怖くないのに、俺の体は震えている。
なんだか、おかしい。
俺の胸は、痛いように高く鳴る。それに、彼女がとてもきれいに見える。いや、彼女は前から美しい。さっきミリスが言ったように、この国で一番美しい女性なんじゃないか?
でも、そうじゃなくて、そうではなくて、俺の目に映る彼女が。
精巧な細工ものみたいに整った頬が、くれないに染まった。瞳をうるませて怒る彼女は美しい。まるで芸術品のような美貌から、俺は目を離せない。もっと彼女を見ていたいのに、目を合わせられない。なのに、目をそらすこともできない。
ザッ、と、地面に
「カイル、わかったのか?」
「…………」
「わかったら、返事くらいしろ!」
なんて言ったらいいのか、この人って、意外と。
……可愛いかも。
「わかり、ました……」
舌がもつれて、うまく声が、出ない。俺はどうにか首をうなずかせる。
「……わかればいい」
エディットの声も、喉にからんだようにかすれている。
「……馬鹿げた集まりだが、じきに終わる。辛抱して戻ってくれないか」
それだけを言って、くるりときびすを返された。俺はあわててあとを追う。
この靴、歩きづらいんだから、少しくらい待ってくれてもいいんじゃない?
それにさ、こんな格好をしなきゃならない理由って、結局なんなの?
「僕、別に馬鹿げてるなんて思ってません」
「そのわりに楽しそうだったじゃないか、さっきのほうが」
面白くなさそうにこちらを見られた。──えっ? だって、それは、きゅうくつで歩きにくい格好だったし、俺はダンスも人混みも苦手だし……いやいや、伯爵になるんなら当然の儀式だもの。俺はぜんぜん平気だよ?
エディットは軽く息を吐く。
「できるだけ大げさなことはしたくないんだが、あちこちに義理があるからな」
「だ、大丈夫ですよ、本当に。でも、どうして僕が
「ああ見えてボリスは優秀な男なんだ」
やっと笑みを──にやりとだけど──浮かべた彼女に、なぜだか俺はひと安心だ。んん? でも今のって、いったいどういう意味?
「どうしてここで彼が出てくるんですか?」
「そこはあまり気にするな」
「……どうして?」
「さあ、どうしてだろうな。そうだ、それよりもカイル──…………」