秘書は言う。
「軽挙妄動は慎んでいただきたいと申し上げたはずですが?」
ええ、そうでした……
「まったくもって、うかつにもほどがある。
だから俺だって反省してますって……
「とはいえ、お断りするわけにも参りませんからな。──ワトキンス、本日の予定はどうなっている?」
「まもなく大工のノイマン親子が、母屋の屋根の修繕に」
黒服の執事が、ごく慇懃に答えた。オーリーンは眉を片方つり上げた。
「屋根だと? それは今日でなくてはならんのか」
「この先降りさえしなければ、いつなりと」
あいにくここ二、三日雨が続き、今朝になってようやく雲に切れ間ができたばかりである。どこがいけないのか知らないが、雨が降るたび図書室の壁から水がにじむ。俺としても早急に直していただきたいところだ。
奈落の底まで届きそうなため息をつくオーリーンへ、ワトキンスの暗黒の目力が追い討ちをかける。
「本日は二十日でございますから、ハイベルガー造園も庭の手入れに参ります」
なにやら指折り数えながら、下男のマイルズが口を出す。
「炭薪問屋のナバリー商会が配達にくるのも、今日ですよ」
「──おお」
分厚い腹の肉を、どよん、と、たわませて手を打ったのは、巨漢の料理長ネロである。
「そういや、
「鋳掛屋?」
オーリーンは盛大に顔をしかめ、銀縁眼鏡を押し上げる。ネロも大真面目にうなずいた。
「ええ。なにせ、大鍋に穴が開いちまいまして」
「あれこれ気に病んでいても、しかたがないだろう」
近衛隊の礼服に着替えたエディットが、侍女のバルバラに扉を開けさせ、居間に入ってきた。背高の従者、グレイがあるじの剣を捧げて付き従う。
俺の妻は今朝も大変に美しい。肩から銀の飾り帯をかけた純白の礼服に、対照的な黒髪がよく映えている。礼服を身につけることはめったにないので、今日はなにかの行事があるのかもしれない。
彼女が副隊長を務めるのは、王后さま付きの部隊なんだそうだ。うちでは仕事に関することを──それ以外のことも──あまり口にしないから、俺は彼女がどんな人なのか、ほとんど知らないままだ。
エディットがつかつか歩み寄ってくる。このところは毎朝なのに律儀に身構える俺を見て、くす、と笑う。──腕を押さえられ、軽く頬に接吻された。美人は三日で飽きるそうだけど、見飽きるような美人はたいした美人じゃない、っていうのが俺の持論。
「──グレイを置いていく」
うろたえる俺を放り出し、あっさりと彼女は言った。秘書は首を振った。
「それは感心いたしませんな」
「なぜ? 王宮はすぐそこだ。なにもあるわけがない」
「そのような問題ではございません。高貴なおかたがお一人で出歩かれるものではない。ならばボリスをお連れください」
二人の従者のうち、現在はひょろ長いたれ目の青年が彼女の、ドワーフ似のずんぐり中年が俺のお付きである。エディットは肩をすくめた。
「それでは意味がない」
「ですが奥さま」
「オーリーン、
当の従者たちは、すました顔で暖炉の脇にならんで立っている。エディットは、グレイから受け取ったレイピアを剣帯へつるすと、バルバラが差し出す鏡に向かい、ちょいと襟を直した。
「マイルズ、馬のしたくを頼む」
「へいっ! ただいま!」
「奥さま!」
「わかったわかった。なるべく早く帰るから、適当な時間に迎えをよこしてくれ」
「それは承りましたが、しかし」
「まさかお泊まりになるとまではおっしゃるまい。
きっちりとたばねた髪をひるがえし、俺に向き直ったエディットは、このうえなく美しく、かつ、人のわるーい笑みを浮かべた。
「姫をよろしく頼む。王宮の外へなど、めったに出ることのないおかただからな」
「は、はい」
「それにあのかたは、あなたにご執心のご様子だ」
ちょっと! 高貴なおかたがなんて言いかたするの!
「い、いいえ、そんなことは」
「あなたの、
「は……」
玄関のほうから馬のいななきが聞こえてくる。どうやら
お見送りから戻った一同を見回し、オーリーンはなにもかもをあきらめたらしい。
「マイルズ、ただちに別邸まで出向き、サウロに人を回すよう伝えてくれ」
「へい!」
「バルバラ、掃除は応援が到着してから一時間以内に終えろ。そのつもりで準備しておけ」
「はい!」
「それから、旦那さま」
え、俺?
有能な秘書は、眼鏡の奥から俺を見下ろした。そのすさまじい眼光たるや、ワトキンスも顔負けだ。
「
「ハイ……」
本当にごめんなさい……
オーリーンはきびすを返し、みんなと「おもてなし」の打ち合わせを始めた。人手が足りないので、買いものがあれば従者たちが走ることに決まったようだ。
──本日はクローディア王女が、うちへ遊びにくるのである。
◆◇◆
いきさつはこうだ。
俺にとっては波瀾万丈だった爵位授与式が終わり、ようやく開放されるかと思いきや──そうでもなかった。
式の翌日から一週間以上、ひっきりなしの訪問客に、みんなてんてこ舞いだったのだ。
俺は正式にキトリー領主となった。アセルスの貴族は、役付きでなければ一年の大半を領地で過ごす。しかし、エディットは王宮騎士である。そうそう王都を離れられない。となれば、新婚の俺も彼女とともに王都で暮らす。もはやこれは、決定事項であるらしい。
それに業を煮やしたキトリー地方の豪族やら商人やらが、爵位授与式を機に、大挙して王都を訪れた。いや、用意周到にも王都入りしていたんだから、訪れていた、というべきか。新しい領主さま──ようするに俺──に、ひと言ご挨拶を、というわけだ。
どうにかひと段落ついたのが、昨日である。なのに今朝早く王宮から──より正確にいえば王女宮から、お使いの人が訪ねてきた。
クローディア王女殿下が、『このあいだはとても楽しかったから、遊びに伺ってもよろしくて?』とおっしゃっている、と。誰もが仰天だ。お忍びなのでどうぞおかまいなく──と言われたところで、あのオーリーンがかまわないわけがない。
しかも使者の人は、うちの姫さまは『魔法』を見たがってるからよろしくね! てなことを言い置いて帰ったものだから、さらに話が面倒になってしまった。
──そして午後になり、彼女は本当にやってきた。
「お忙しいところにお邪魔してしまったのではないかしら?」
馬車から降り立ち、王女宮とやらに比べれば相当こぢんまりしているであろう屋敷を珍しげに見回す姫君は、いまだ九歳。銀の巻き毛に空色の瞳をした、愛くるしい美少女である。花のかんばせを曇らせて、「エディットお姉さまはお留守なのね」と、残念そうではあるが……どこまで本気?
ひとまず居間まで案内すると、クローディア王女は、背伸びをして俺に耳打ちしてきた。
「……エレメントルート卿、よろしいの?」
「なにがでしょうか?」
クローディアは、ちら、と戸口へ瞳を向けた。──扉の左右には、両手を後ろに回したうちの従者二人組が、番兵よろしく立っている。開け放した扉からは、ワゴンを押すバルバラに付き添うワトキンスも入ってきた。
さらにいえば、先日の
「……あのね、魔法の力を失ってしまうのではなくて?」
あ、その話。
俺は「仮装」をしていないのだ。エディットの口からでまかせによれば、魔法使いは他人に真実の姿を見られたら、力を失くしてしまうのである。
「平気ですよ」
俺は精いっぱいの笑みを浮かべてみせる。──どうか神さま、俺から大人の余裕が
「みんな、私の秘密を知っていますから。知っていて、ないしょにしてくれているんです」
「そうだったのね! よかった……!」
クローディアは小さな両手でドレスの胸を押さえた。
「ミリスなら大丈夫よ! とっても口が堅いんですもの。──誰にもないしょよ? ね、ミリス?」
大きくうなずくミリスの丸顔は、ますます慈悲深く、いつくしみに満ちた──というより、むしろかわいそうな生きものを憐れむような目つきになってゆく。
どうせオーリーン辺りがなにかを吹き込んだんだろうけど……いったいなにを言ったのさ……
なんであるにせよ、俺は知らないほうが幸せな内容だと思う。それだけは間違いない。