料理長のネロがお茶うけにこしらえたのは、とりどりのフルーツが塔のように盛りつけられたタルトだった。突貫工事だというのに見た目も味も見事なもので、クローディア王女は大喜びである。
「エレメントルート卿、わたくしね、今日は本を見せていただきたくて伺ったの」
クローディアは子どもとは思えない完璧なテーブルマナーを披露しつつ、子どもらしくないため息をつく。
「お父さまに伺ってみたのだけれど、『クローディア、残念だけど、お城に魔法の本はないんだよ』なんておっしゃるのよ。つまらないでしょう?」
うーん、それは……嘘、とまで申し上げては失礼でしょうか……?
彼女の父上、王弟シベリウス殿下は、オドネルの魔法研究所の
俺は爵位授与式でお目にかかった王弟殿下の、ものやわらかな面差しを思い出す。あの人も、エディットの伯父さんだもんなあ……
秘書の視線は痛いし、
お茶の時間が終わると、俺はクローディアを二階の自分の部屋まで案内した。もちろん彼女と二人きりではない。ばあやのミリスと、うちの従者たちもいっしょである。
お姫さまのご所望の品は、衣装部屋にしまってあった。俺が奥から本を二冊も持ち出してきたのを見て、ミリスは「まああ」と口を開け、ドワーフおじさんは目をむき、グレイはにやにや笑い出した。誓っていかがわしい本じゃないので、誤解しないでいただきたい。
「このあいだの、風の呪文が書かれている本はどちら?」
クローディアは、空色の大きな瞳をきらきらさせて問う。俺は『ダルトンの呪文の書』──トラローム=ダルトンという魔法使いが著した覚え書を差し出した。革の表紙に破れの目立つみすぼらしい書物で、王女さまはどう思うかな──と、考えないでもなかったが、クローディアは恐れげもなく受け取った。
「これなのね……」
小さな手指が、茶色くあせた題名を一文字ずつなぞってゆく。きっと彼女は、日ごろから本を大切にしているんだろう。
俺たちはならんで長椅子に腰を下ろした。クローディアが笑顔になって表紙を開く。──そのときだった。
「泥棒ッ!」
突如、鋭い叫びが響き渡った。俺たちはハッと顔を上げた。あれは、侍女のバルバラの声だ。
二人の従者が目と目を見交わし合った。グレイがただちに扉へ向かう。
「グレイ!」
もう一方の従者の声は、相棒を止めようとしたものか──しかし、内実はともかく、扉は勢いよく開け放たれた。
「!」
廊下へ飛び出したグレイと鉢合わせたのは、見たこともない男だった。男は
「ぎゃあーッ!!」
ミリスがびっくりするような金切り声をあげた。──だが、すでに小柄でずんぐりした体が俺たちを背にし、侵入者へ立ちはだかっていた。クローディアが俺にしがみつき、クローディアの小さな肩へ、腰くだけのミリスがすがりつく。
「おいおい、困るなあ」
グレイのとぼけたにやにや顔は変わらない。鞘ごと長剣をはずし、切っ先を
「うちには今、大事なお客さまがいらしてるんですよ? いったいなんのご用です?」
「うるせえッ!」
男が飛びかかった。グレイは軽く体をかたむけ、たやすくかわしてしまう。勢い余った男は、室内へ転がり込んできた。
「だから、お客さまだって言ってるでしょ」
目をぎらつかせ、大きく肩を上下させる男はまだ若い。グレイといくつも変わらないだろう。一見、身なりは職人ふうだ。
「──さっさと捕まえて! もう一人いるッ!」
向こうでバルバラが叫んでいる。続いて、ドタン! バタン! と、派手に取っ組み合う音。
「ややや、そいつは一大事」
グレイは青灰色のたれ目をぱちくりさせた。彼がひょいと腕をくり出すと、乾いた音がして、銀色の光が宙を舞う。男が手にしていたはずの刃物はくるくる回り、ぶっつりと絨毯へ突き立った。
ひっ、と、ミリスが息をのみ、クローディアの体がびくりと震えた。グレイは人並みはずれて長い脚で、短刀を蹴り飛ばした。男の腕をねじ上げる。
「痛ででででで! 痛でえーッ!!」
「そりゃ痛いでしょ。痛くしてるんだから」
「畜生ッ! 放せッ!」
「申し訳ありませんが、お断りします」
「──ボリスさん、ごめん!」
金茶の髪を振り乱したバルバラが、駆け込んできた。「もう一人は、逃がした!」
「かまうな。下でどうにかするはずだ」
「やあ」
わめき散らす男を引きずるように立たせながら、グレイが言う。「白、ですね」
「はっ?」
侍女の少年めいたきつい瞳が丸くなった。そばかすの浮いた頬が、みるみるうちに紅潮する。バルバラは大あわてでメイド服のスカートの裾を押さえた。
「馬鹿?! ねえ、あんたって、ほんとに馬鹿なの?!」
「いえ、そんなことはないですよ。──ボリスさん、この男、どうします?」
「連れていけ。ご婦人がたに、いつまでもお見せしておくものじゃない」
「了解」
グレイは男を小突きつつ剣を肩にかつぎ上げ、部屋を出ていった。バルバラがぎゃあぎゃあ文句を言いながらあとへ続く。
「どこにもお怪我はございませんでしょうな?」
いつもはしかめつらばかりの中年男が、クローディア姫の前へ片膝をつき、信じられないくらい優しい声を出した。
「王女殿下はたいそう勇気のあるおかたのようだ。だが、今日はもう、お帰りになるのがよろしかろう」
「え、ええ。そうですわね」
震え声で
「お供のかたがたをお連れいたしましょう。──いや、いっしょにおいでになったほうがよろしいかもしれませんな。そろそろ片がついているころだ」
「いいいいい、今の男は、ななな、なんだったのでしょうか?」
「なに、ご案じ召されるな。どうせ、こそ泥のたぐいですよ」
「……エレメントルート卿」
クローディアがようやく口を開いた。俺は彼女にうなずいてみせた。
「行きましょう。彼といっしょなら、大丈夫ですよ」
「…………」
彼女の内心は、不安と恐怖でいっぱいだったろう。それでも気丈に唇を結ぶと、俺の袖から手を離し、こくりと首をうなずかせる。
──玄関ホールでは、もうひとつの捕りものがちょうど終わったところだった。
従者に制され、俺たちは吹き抜けの手すり越しに、階上から様子をうかがった。一階まで逃げたのは、猿みたいな顔をした小男だ。こちらもグレイに捕らえられた若者同様、職人ふうの上っ張りを着込んでいる。
「……ハイベルガー造園の
執事のワトキンスが言う。オーリーンの眉間のしわときたら、二階からでもわかるほどだ。
「ハイベルガーはどこにいる」
「さ、おそらく庭ではないかと。呼んでまいりましょうか」
「いや、今はいい」
オーリーンは、
「なにを探していた? 金か? それとも……」
秘書の声音は愉快そうでさえあった。小男はなにも答えない。
「まあ、いい」
オーリーンは、階段を降りてゆくグレイとバルバラ、二人が引っ立ててきた若い男へ目を移す。
「ワトキンス、役人を呼べ。これ以上
「かしこまりました」
「──旦那! 申し訳ねえ!」
裏口のほうから、年配の男が足音高く現れた。大柄な体が転がるように秘書へ駆け寄り、帽子を取ると、白髪混じりの頭を床へ
「申し訳もねえ! うちの若えもんが、とんだことをしでかしちまって!」
「ハイベルガーさん!」
息を切らして追いついてきた下男のマイルズが、
「てめえら、なんて真似をしてくれたんだ!! こちらはな、長年うちの、
マイルズの制止など目もくれず、ハイベルガーは小男を揺さぶった。
「ええ?! どうしてくれるんだよ! おい、なにをぶつぶつ言ってやがるこの野郎──」
「離れろ!!」
だしぬけにグレイが抜剣した。ネロがあわてたように小男から手を離し、マイルズはハイベルガーの背に飛びついた。──しかし、親方は小男の胸ぐらをつかんだままだ。
「──どけ!」
驚くべき力強さを見せ、グレイはマイルズもろともハイベルガーを突き飛ばした。小男は、思いのほか機敏な身のこなしでやいばを避ける。だが、そのはずみで彼は、
猿面の小柄な男の唇が、動いている。
「………………!」
枯れ枝みたいに痩せた腕が、俺たちへ向かって差し伸べられた。まるで、水におぼれる人が助けを求めるように。
──あとになって俺は、このときのことを何度も思い出しては、くり返し神々に感謝した。
もしも俺が、ほんの五十センチもない距離を動けず、すくんでいたとしたら、もう二度と自分を許すことなどできなかっただろう。でも、再び同じ場面に出会ったとして、同じようにふるまえる自信はない。そのくらいの僥倖だった。
俺の体は動いてくれた。左へ、わずかに半歩。なにが起こったのかわからないでいるクローディアを抱きすくめ、覆いかぶさって──そのまま、その場に倒れ込んだ。
グレイが