どくん、と鳴る、心臓の音が聞こえたと思った。
『エレメントルート伯爵夫人に関する重要な事実をお伝えいたしたく』
伯爵夫人とは、エディットのことか──そういえば俺は、エレメントルート伯爵だった。俺が伯爵なら俺の妻が伯爵夫人に違いない。忘れていたわけではない。ピンときていないだけである。
『きたる五日午後二時、コンラート広場噴水前までお一人にてこられたし。なお、この手紙の件はどなたにも口外されるべからず』
今日は三日。指定された日時は、二日後。
妻に関する重要な事実を、夫だけに伝えたいという。しかも他言無用と断るからには、いい話ではなさそうだ。
俺はなにをしたらいいのか。その日にではない。今、この場でだ。俺に手紙を渡した男が近衛騎士なら、ただちに捕らえる必要があるほど危険な人物ではないだろう。
だとしたら。
「──エレメントルート卿!」
銀のまき毛をなびかせたクローディア王女が、瞳を輝かせて駆け戻ってくる。なにかあったと彼女に
「行きましょう! 向こうで
王女に手を引かれて行った小道の先では、テオドア王子が面白くなさそうに腕を組み、俺たちを待っていた。
──子どもたちとの散策を終えてテラスに戻ったとき、エディットが珍しくほっとしたような顔をした。伯母さま二人から、いいように
目が合うと、エディットは、けげんそうに軽く首をかしげた。「……どうした?」
「え? なにがですか?」
なにかを尋ねられるような心当たりなんてぜんぜんない。という顔を、俺なりにできたと思う。エディットが重ねて問うことはなかった。ご夫君シベリウス殿下との出会いがいかに素晴らしかったか、クララさまがうっとりと物語っている。相づちを打つのに忙しかったのかもしれない。
お茶会は、極めて
エディットは王后アントニエッタさまのお声がかりで王宮に残り、俺は一人、日が暮れる前に帰宅した。なんの気がねもいらない夕食を早々にすませ、自室に戻る。
テーブルの上にランプを置く。本を広げて長椅子に腰を下ろす。本が逆さまになっていないかくらいは確かめたが、むろん読むためではない。万一誰かがきたとしても、普段通りと思われるようにである。俺には考えることが山積みだ。
──まず、第一に。
コンラート広場って、どこなのさ……
手紙のぬしに言ってやりたい。この俺さまを、いったい誰だと思ってる。自慢じゃないが、俺は荒野のど真ん中にある田舎町、アルノーの領主、バルドイ男爵の息子だぞ?
実家でも名うての引きこもりで通していた俺である。生まれ育った町の地理さえくわしいとは言いがたいのに、住むようになって日の浅い王都で唐突に場所を指定され、簡単にたどり着けると思うのか? 馬鹿じゃない?
……とまあ、不親切な密告者に腹を立ててもしかたがない。
行くべきか行かざるべきか。それを検討するにも、場所がどこかを知る必要がある。だがしかし、俺はこの屋敷で王都の地図を見かけたことがない。
当たり前だよなあ。だってみんな、この街に暮らして長いんだもの。必要な道筋はそらんじているだろう。
ああ、俺はもっと外へ出かけるべきだった──と、天を仰ぎ、
かといって、誰かに尋ねるのも考えものだ。ここんちの人々は、どうにも油断がならない。うかつにものを尋ねたら、痛くもない腹の底まで探られそうだ。
ならば俺の取るべき道は、ひとつ。
──翌日、すなわち、四日の午後。
「えっ? コンラート広場?」
「ティ坊ちゃま、どうしてそんなことを
俺は
「え、えーと……」
つくづく俺は、
「噴水が有名だって、聞きまして……」
「誰から?」
ちょっとユーリ先生……そこまでつっこむの?
「それは、あの……」
「…………」
「し、執事です。うちの。ワトキンスっていう……」
ユーリがまじまじと俺を見つめてくる。ここで逃げては負けだ。俺は
見れば見るほど普通の女性だ──このところの俺は、ユーリに会うたび思う。
髪も瞳も、アセルス人に非常に多い茶系の色だ。いつもてっぺんで髪をまとめているせいで、はたちという年齢よりも、ずっと落ちついて見える。少しだけ
長身のエディットと比べると、彼女はかなり小柄である。でも、成人女性としては普通の範疇なんじゃないかな。体格も、華奢というほど痩せてはおらず、かといって太ってもいない。色白ではないし、地黒ともいえない。──加えて本日の衣装
ううむ。「非常に美しく、かつ、すこぶる魅力的な女性」か……
「……なんですか?」
ユーリは鼻のつけねにしわを寄せ、ちょっと嫌な顔をした。
「いえ、特になにかというわけではありませんが、ユーリ先生は──」
「カイルくん!!」
向こうの棚の前から、オドネルが大きな声を出した。風が起きてしまいそうな勢いで、激しく手招きされる。
「こちらにきたまえ!──いいから、早く!」
「どうかしたんですか、オドネルさん」
そばまで行くと、目を三角にしたオドネルが、声をひそめて詰め寄ってきた。
「なんなのかね、きみは! このあいだから!」
「は?」
「ローランドくんが、あやしく思うだろう!」
え、そう? そういうもの?
見ればユーリは、あからさまに不審な顔だ。さすがの俺だって、オドネルの純情を勝手に開示するつもりはない。俺も声を小さくした。
「……すみません」
「……わかればいいんだよ、わかれば」
「なにをこそこそ言っているんです?」
思いっきり顔をしかめられてしまった。俺とオドネルは力いっぱいかぶりを振った。
「なにもないとも!」「なんでもないですよ!」
「二人とも、最近おかしいですよ?」
ユーリはなにを思うのか、深いため息をついた。「で、ティ坊ちゃま、執事さんの
おお、そうだそうだ。俺の今日の本題は、こちらである。
「そんなに立派だったかなあ。正門前広場の噴水のほうが、ずっと大きいですよ。行ってみるつもりなんですか?」
「せっかく勧めてくれたので……」
「坊ちゃまも、王都観光とかぜんぜんしてなさそうですもんねー」
と、俺の元家庭教師は苦笑いする。
「
「ありがとうございます。頼んでみます」
街の名前がわかればなんとかなる──と、俺は思った。遠くないらしいのは助かった。あとは道すがら、人に訊きつつ行けばいい。
……もしかして俺、すっかり行く気になっているのか?
「では、カイルくん」
話題がそれてひと安心のオドネルが、ようやくいつもの穏やかな笑みを見せた。「ご希望の召喚魔法についてだが──」
自分から教えてくれと頼んでおいて、オドネルには申し訳ない。この日の俺は、まったくのうわの空だった。──俺は、手紙の呼び出しに応じるつもりなのか。エディットに関する重要な事実を、知りたいと思っているのか。
俺たちは、本当の夫婦じゃない。互いに自分の益になると思って結婚しただけの、偽物だ。エディットも、時期がくれば別れてもかまわないと言っていた。ただ、時期とはいつなのか、俺が知らないだけだ。
俺の妻は美しい。それに魅力的だ。俺以外の誰が見ても、同じように思うだろう。だったら、彼女に俺の知らない
──五日の朝。
俺は心を決めた。
行ってみよう。まずは行けるところまで。
こうなってみると、俺の従者がドワーフおじさんに代わっていてよかった。彼は前の従者のグレイとは異なり、朝から晩まで俺に張りつくような真似はしない。
それに彼は、時折姿を見せなくなる。いなくなるのはだいたい朝とか深夜とか、俺の活動時間外だ。彼にはほかにも役目があり、そのために外出を余儀なくされている、と俺は見ている。
午前中に抜け出そう。昼食後、蒼の塔へ行くまでの俺は、自室で本を読むだけと思われている。誰も行き先を知らないんだから、屋敷を出てしまえばこっちのものだ。目的地はそう遠くなさそうだけど、時間に遅れるよりはましである。この際だ。帰りのことは考えない。
厨房の勝手口は前科があるから、避けたほうがいい。一階のどこかの窓からにするか、それとも庭へ出るふりをして、堂々と玄関から出ていくか──
いずれとも決めずに廊下へ出る。あやしまれないよう、部屋でくつろぐときの服装のままである。例の手紙はポケットへ入れた。
部屋の扉に鍵をかけようとしたときだ。
「──旦那さま」
秘書のオーリーンが階段をのぼってきた。あとから続くのはグレイ。──落ちつけ、俺。別になにかばれたわけじゃない。
だが、オーリーンは右手を伸べ、俺が出てきたばかりの扉を指し示した。
「どうか、お戻りください」
──なんだって?
銀縁眼鏡の奥の瞳は、いつにも増して冷酷である。オーリーンは俺が言う通りにしないと見るや、背後へ声をかけた。
「グレイ」
「はい」
進み出る身の丈の高い若者に、俺は一歩、後ずさった。今の俺は、彼が苦手だ。どんなにそらとぼけて見せたって、もうだまされない。けたはずれの力を持つくせに、それをおくびにも出さず、いつもにやにや笑ってばかりいる魔法使い──いや、彼は魔法剣士か。
「……旦那さま、お部屋へどうぞ」
グレイの青灰色のたれ目が瞬いた。彼の声音に憐れみのようなものを感じ、俺は唇をかみしめた。
しかたがない。時間はまだたっぷりとあるんだ。俺は室内へ戻った。オーリーンとグレイも、あとから入ってくる。
「……僕になにかご用ですか?」
「ええ」
オーリーンは銀縁眼鏡を押し上げた。
「旦那さま、お持ちのものを見せていただきましょう」
どこまでもご存じってわけかよ──思わず頭がカッと熱くなる。だが俺は、こみ上げてくる
「ふん……」
オーリーンは広げた紙に目を走らせると、文面をこちらへ向けた。
「旦那さま、あなたはこの呼び出しに、応じるおつもりなのですか」
「……そうです」
「いささか時刻が早いように思われますが?」
それは、俺が道を知らないから……
「……行かせてください」
相手が誰で、なにを伝えようとしているのか、俺は知らない。
でも、そんなことはどうだっていい。この屋敷の人たちは、俺になにも教えてくれない。俺はただ、彼女のことを知りたいだけなんだ。教えてくれるという人に、尋ねたっていいじゃないか。
「僕にも、ある程度のことは、覚悟ができていると思います……」
「覚悟?」
「はい」
彼女はあんなに美しい。彼女は俺のものじゃない。だから、もし、彼女が俺以外の誰かのものだとしても、俺は不思議に思わない。
「相手が誰でも、たいていの男ならしかたないなって……」
「…………」
オーリーンは深いため息をつく。
──コンコンコン、と、ノックの音がする。
「奥さま」
開け放しの扉をたたいたのは、制服姿のエディットだった。──頭だけではなく、顔までが熱くなった。彼女の従者のグレイがきた時点で、気づくべきだった。彼女は出かけていなかったのだ。
濃い紫の瞳が、ひどく険しくなっている。エディットは戸口へ寄りかかり、出口をふさぐように、
「よこせ」
顎をしゃくり、ことさらに乱暴な口ぶりで命じる。エディットは、オーリーンが差し出す手紙を受け取ると、ひと目見ただけで放り投げた。大股で俺に歩み寄ってくる。
「たいていの男とは、ずいぶんな言いぐさだな、カイル」
「……そうでしょうか」
「それはどういう意味だ?!」
だって……日ごろから男の人にかこまれて仕事してるんだから、よりどりみどりでしょ? いつもうちにいないし、機会はいくらでもあるわけで……ねえ。
という目つきを俺がしたとでも言うのか。エディットはぐいと唇を曲げた。
「冗談じゃないぞ! この際だから言っておくが、わたしは今まで誰とも、一度だって──」
一度だって?
「……………………」
俺が見上げると、エディットはなぜか目をそらした。
……うん、それで? 誰とも、一度だって、なに?