仮面の男は、笑い続ける。
「
長身である。どちらかといえば痩せぎすなほうか。武人よりも文人と考えたほうがしっくりくる体つきだ。服装は立派で、金をかけてある。
男の顔全体を、黒い布が覆う。二つのまなこばかりが光を放ち、鼻や口はもちろん、顎から首にかけても包み隠しているから、顔の輪郭すら定かでない。
「どうかね、デメトリオ?」
旦那──ダーヴィドが問うた。穏やかな声と物腰に似合わず、きつい目つきの老人だ。高い鷲鼻とがっしりした体のせいで、引退した元勇士、といったふぜいである。だが、身なりからすると彼は平民だ。帯剣もしていない。
「……見ただけですべてがわかれば、苦労はせん」
ぼそぼそと答えるデメトリオとは、ダーヴィドに呼ばれて現れた人物だった。どう転んでも魔法使いにしか見えない漆黒のローブ。ごていねいにもフードまで目深にかぶり、その下から長い白髪がのぞく。こちらもずいぶん年取った男のようだ。
「だがまあ……
「おまえの言うことはいつもよくわからないよ、デメトリオ」
ダーヴィドはあっさり断じた。
「さ、お殿さま、ご満足いただけましたかな?」
親分、と呼ばれるからには、もっとやくざな人物を想像していたのだが、彼は柔和な笑みである。
「いいや、まだだな」
仮面の男は、喉の奥で押し殺すような声を立て、笑った。「おまえはこれから、こちらの若き伯爵どのを
「意地の悪いおかただ。せっかく息子が舟遊びの手配りをしておりますのに」
──このとき、俺は一瞬ではあるが、もうここから出ることは叶わないかもしれない、と考えなくもなかった。彼らは謀略に加担していることを少しも隠そうとしない。それはすなわち、俺を生きて帰すつもりがないからか、そんなふうに思えたのだ。
部屋は広い。壁に造りつけられた豪華なマントルピース、肘掛けつきの椅子、凝った飾り脚のテーブル──内装も調度も、貴族の屋敷の応接間のようだ。ここがどこなのか、
「よそ見をするんじゃない。しつけの悪い子どもだ」
一転、猛禽類を思わせる鋭い視線で、ダーヴィドは俺をにらみつけた。
「私たちが欲しいもののことは知っているんだろう? 美しい奥方のもとに帰してほしければ、とっとと口を割ったほうが、身のためだよ」
また──
胸の内側でなにかがざわめいた。昨日から幾度となく感じていた違和感が、じわじわとこみ上げてくる。
なぜだ?
「おや、可愛い顔をして、意外に強情そうだ。そうこなくてはね。──デメトリオ、手の
「……いいのか?」
「伯爵閣下ともあろうおかたに、椅子も勧めないわけにはゆくまいからね」
──なあ、エディット、証拠の手紙があるって、本当なのか?
爵位授与式のとき、リュカ=サーヴェイは、なんと言った?
──だから、お父上のことさ。うちの馬丁のレジー、わかるだろ? あいつがゆうべ、街で聞いてきたんだ。ずいぶん評判になってるみたいだけど……
「これで楽になったろう? あのベリンダも、あれでなかなか優しい女なんだがね。時々こうして、むごい真似をする」
『証拠の手紙』のことは街で評判になっていた。だから知られていて当然だ。でも、どうして評判になる? エディットは手紙を隠しているのに。彼女の居室にならぶ書架、ぎっしり詰まった本の奥の、小さな隠し戸棚の中へ。鍵をかけて。
誰かがもらしたのか? いったい誰が? 秘書のオーリーンをはじめ、二人の従者、執事のワトキンス、侍女のバルバラ、下男のマイルズ、料理長のネロ──あるじの秘密を暴露するような使用人は、一人としていない。
──わかった。
わざと評判になるよう、仕組んだんだ。
「食事はすませたのかね? 連中といっしょにいたのでは、ろくなものを食べていまいね。今、なにか運ばせよう。──誰か! お客さまへ
セドリック=エレメントルート卿を殺害した犯人は、いまだ不明のままである。黒幕を示唆する手紙の存在を知れば、敵がたは取り戻そうと動きを見せる。じかに動くのは
だとしたら、エディットは。
自分自身を、
──コンコンコン、と、誰かが扉をたたく音。
「失礼いたします」
女の声。「お食事のしたくに参りました」
お仕着せを着た中年の侍女が、ワゴンを押して入ってくる。
カタ、カタ、カタ、カタ……
「……『
小さな声で。ワゴンの車の音と、重ねるように。
「……『
集中しろ!
俺はダーヴィドへ向けて手のひらを突き出した。老人はとっさにひるんだ顔になる。すかさず、彼のたくましい手首をつかむ。
「──ッ!」
白い眉のあいだにしわが寄る。俺は即座に駆け出した。悲鳴をあげた侍女の脇をすり抜ける。
扉を開け放ち、外へ足を踏み出した、と思った。
「……『
絨毯を敷きつめた廊下へ走り出たはずが、目の前が真っ白になった。──錯覚ではない。俺は突然
「おお、熱い」
ダーヴィドは
「デメトリオ、今のはなにかね?」
「今の……とはまた、えらく
ぼそぼそと、愚痴るようにデメトリオが言う。
「おおかた、あんたが
「今さらおまえさんの魔法について尋ねてもしかたがない。坊やのほうだよ」
俺は必死で身を起こそうとしていた。今朝打ったばかりの右肩をギリギリと
「いにしえの炎の
「なるほど」
ダーヴィドの筋張った手首には、赤みが差している。けれど、それだけだ。火ぶくれひとつできていないし、彼は
「縛めを解いてやったのに、この仕打ちか。もっと痛い目を見せたほうがいいのかね?」
右腕を
「──
「知り、ません……」
強く頬を打たれた。俺は再び床へ倒れ込んだ。
──ふと、ダーヴィドの視線が、俺からそれた。
彼が見るのは俺の頭の少し先だ。いぶかしげに眉をひそめ、手を伸ばそうとするのを、デメトリオが制した。絨毯の模様に重なって、平たく、小さな丸いものがある。
まるで汚いものでも持つように、ローブをまとった右手の指が、結んであるひもをつまんだ。鈍く光りながらくるくると回るそれを、目の高さまで持ち上げる。俺はダーヴィドを振り払って跳ね起きた。
「返せ!」
倒れても、かつがれても、今まで左胸からこぼれ落ちることのなかった、俺の幸運の
デメトリオにつかみかかることはできなかった。ダーヴィドの太い腕が、後ろから俺を羽交い締めにしていた。
「──なんだ? 魔法の道具か?」
仮面の男が、戸口に手をかけて立っていた。魔法使いはフードをかぶった頭をかたむけた。
「いや、さしたる魔力はないようだが……」
言いつつ、
「さあ、お殿さま」
ダーヴィドの腕が俺の首へ回り、ぐっ、と喉が絞まった。息ができない。次第に気が遠くなる。──だが、頭上からの声音は、あくまでも穏やかである。
「息子が待ちかねておりますよ。そろそろ、おいでになりませんか?」
「ああ。では、おまえに任せることにしようか」
「そうなさいまし」
ようやく、俺の首に巻きついていた腕がゆるむ。
「デメトリオ、牢へ連れていけ」
と、ダーヴィドは、俺をあざけるように言った。