指の背で俺の頬にちょっとだけ触れて、レオンハルトは言った。
『ティ、なにか困ったことがあったら、オレース街にある
マクシミリアンは、ひどく真面目な顔になった。
『本当に困ったときだけだぞ』
兄たちの言葉を思い出し、少しのあいだ
陽気な音楽が裏口まで響いていた。どっと沸く大勢の客の声。やんややんやの拍手喝采。甲高い口笛も、ひっきりなしに飛んでいる。
「……どちらさまぁ?」
すごい
「ええと……」
こんなとき、なんて切り出したらいいんだろう。俺はまったく考えていなかった。
「僕は、アルノーのバルドイ家の、カイルといいます」
「………………」
「僕の兄たちをご存じかと思うんですが──」
「ううん」
きっぱりと首を振られた。よもやの言葉に、俺は目をむいた。
娘は赤く塗った唇をとがらせ、胸の
やめていただきたい。谷間がいっそう盛り上がって、目のやり場に困る。
「ほんとにマクシィの弟? ぜんぜん似てなーい」
マクシィって誰さ……ひょっとして、マクシミリアンのこと?
実際俺は、典型的なアセルス人の容姿をした兄たちと、あまり似ていない。髪も目も、俺が生まれるずっと前に亡くなった父方の曾祖母と同じ色であるらしい。
「ねえ」
娘は、ずいっと前へ出る。突き出す胸を避けねばならぬ。俺は必然的に後ろへ下がる。
「みんなの名前、言ってみなさいよ」
「え」
「兄弟全員の名前。ほんとの弟なら、言えるでしょ?」
そりゃ、もちろん。
俺は答えた。──上から順に、アウグスブレヒト、マクシミリアン、レオンハルト、ベンヤミン、ハンネス、ニクラス、
ここまできたところで、じゃあ、あんたは? という顔をされた。俺はいたしかたなく
すると娘は、くるりときびすを返した。失礼かとも思ったが、俺も回れ右をした。だって、ますます目のやり場がなくなっちゃう。
大きく瞳を
「──おかあーさぁーん、
はっとするほど幼い声だった。彼女は俺といくつも変わらないくらい、いや、もしかしたら俺より年下なのかもしれない。
「「「ええーッ?!」」」
嬌声にあわてて振り返る。めくるめく華やかな色合いの波が、いっせいに俺たちめがけて押し寄せてきた。
「末っ子ちゃん?!」
「わあっ! かっわいいー!」
「ねえ、後ろにいるかた、エディット姫じゃない?」
「いやーん、『
「すてきー! でも、どうして?!」
少々、ではなく、相当露出が過剰な女の子ばかり、四人? 五人? あっ、やめて。お願い、それ以上近寄らないで。
俺たちはほとんど引きずり込まれるように、建物の中へ足を踏み入れた。キンキラキンで羽根だらけの衣装とすごい化粧、むちむちの肌にかこまれて、俺は目を回しそうになる。
質素だが家庭的な居間に、楽屋裏のにぎやかさを加えた部屋だ。真っ白な羽根冠が長椅子の上に投げ出され、食卓には大きく広げた異国風の羽根扇。すみに置かれた背の高い
たくさんの人でごったがえしているのがわかる。音楽も喝采も、みんなそちらから聞こえてくるのだ。
──コトン。
奥の階段から、踏み板を突く乾いた音がした。
「まあまあ、思いがけないお客さまだこと……」
コトン、コトン。
「あっ、おかあさん!」
最初のおっぱい娘が、大きな胸を揺らして階段を駆け上がった。
杖をついた老婦人が降りてきた。左手を娘にゆだね、ゆっくりと一段ずつ、踏み板へ足を下ろす。長いスカートの裾からのぞく右脚が、いささか不自由であるようだ。痩せて小さなおばあさんではあるけれど、スッと背筋を伸ばしたさまには、不思議な威厳のようなものが感じられる。
娘の介添えで、老婦人は一階に降り立った。──ちょうどそこへ、劇場からの大きな拍手と歓声が重なった。まるで、彼女が登場するのに合わせたみたいだ。
「アセルティアの菫の君が、この
波打つ銀髪をきれいにまとめた老婦人は、色白の頬に深いしわを刻み、上品な笑みを浮かべた。
「ようこそ銀星館へ。わたしは館主のラウラと申します、エディット姫、ティ坊や。お兄さまたちから、お話は伺っていますよ。──それとも、エレメントルート卿とお呼びしたほうがいいかしら?」
あっ──と、女の子たちが、そろって俺を振り返った。みんなが口々になにか言おうとするのを、ラウラが目顔でたしなめる。
まじまじと見られると、だんだん恥ずかしくなってくる。俺はなんとなくエディットの
それまでずっと黙っていたエディットが、口を開いた。
「お初にお目にかかる、ラウラどの。突然訪ねたうえに
彼女の腕が、前に押し出すように俺の背へ回された。
「彼には今すぐ治療が必要だ」
え、俺?
「おやまあ」
と、ラウラは青みがかった緑の瞳を丸くした。エディットは、なんだか怒っているみたいなきつい目つきをする。
「熱が高い」
ひんやりした手のひらが、俺の額へあてられた。「それに、怪我をしているだろう」
「いいえ、僕はなんともありません」
「カイル」
右腕をつかまれる。ずきり、と刺した鋭い痛みに、つい顔がゆがんだ。
ラウラは穏やかにうなずいた。
「……二階へどうぞ。一番手前の、右側の部屋を使ってくださいな」
「ありがとう」
こちらに向き直るエディットの瞳の色を見て、俺の体には熱のせいではなく、震えがきた。
大変だ。このままではまた、
「結構ですから」
「なにが」
「歩けますので、自分で」
すきを見せたら負けである。俺は背後を取られないよう、じわじわと横歩きで階段へ向かった。──エディットは俺の左側に回り、体を支えてくれた。どうにか気迫で勝てたようだ。
階段をのぼると、廊下をはさんで左右に三つずつ、六つの扉があった。ラウラが言った部屋は彼女自身の私室だろうか。広くはない板張りの床に、寝台がひとつ。書棚。ランプと分厚い帳面をならべた小さな書きもの机。揺り椅子の上には、手製らしい刺しゅう入りのクッションが載せてある。
エディットは俺を寝台へ座らせた。自分の剣をはずして机に立てかけ、それがすむと、俺の外套をさっさとはぎ取った。次いで、上着の襟元に手が伸びてくる。
「あの……?」
知らず知らず身を引いてしまう俺を見下ろし、極めてぶっきらぼうに、かつ、大真面目な顔でエディットは告げた。
「脱げ」
「えっ?」
「
きゃあっ、と、黄色い悲鳴があがった。見れば、開け放しの戸口に女の子たちが鈴なりだ。俺の顔はいっぺんに熱くなった。それまでどうだったかはともかく、今の俺は間違いなく高熱を発している。
なんとか上着の身ごろをかき合わせ、声を震わせて答えるよりほかはない。
「……嫌です」
エディットは、むっと眉根を寄せた。
「ふざけている場合じゃない。怪我の状態を見るだけだ」
「嫌です。触らないでください」
「カイル! 腕が一生上がらなくなってもいいのか?!」
いつもの涼しい美声はどこへやら。腹の底からしぼり出した怒声に、俺は思わず首をすくめた。この人、軍人だけあって、本気を出すとすごい迫力になる。
突然目の前がぼやけた。のしかかってくる彼女をかわそうと体をよじったとき、はずみでひとつぶ、頬に涙が転がり落ちてしまった。
急いで顔をそむけた。だが、もちろん見られていた。エディットは口をへの字に曲げた。
「どうして泣くんだ?!」
そんなの知らない。俺が
「──さあ、みんな、通してちょうだい」
コトン、と鳴る杖の音に、女の子たちが道をあけた。ラウラが姿を現したのだ。
「エディットさま、ティ坊やは具合が悪いのでしょう? 大きな声を出してはいけないわ」
「あ」
エディットは顔を赤らめ、俺から手を離した。「……すまない」
コトン、コトン──ラウラは俺の隣に腰を下ろした。キシ、と、かすかに寝台が沈む。
「セリーヌ、今夜辺り、ルーカス先生がいらしているはずよ。探してきてちょうだいな」
はぁい、と、声をあげたのは、はじめに俺たちを出迎えてくれた亜麻色の髪の女の子だ。すぐに廊下へ駆け出してゆく。
「ティ坊や、奥さまは、あなたのことがご心配なんですって」
俺は無理矢理首をうなずかせた。ぬぐってもぬぐっても、どうしても涙が止まってくれない。
「じきにお医者さまがお見えになりますからね」
ラウラの声音は、染み入るように優しい。
「こんなおばあちゃんなら平気でしょう? お手伝いさせてもらっても、かまわない?」
「……はい」
俺がもう一度うなずくと、ラウラは微笑んだ。
「みんな、あちらの部屋で、エディットさまにお茶を入れてさしあげて。確か、どなたかにいただいたビスケットがあったはずね?──ティ坊やも、なにか食べられる?」
俺はかぶりを振った。まる一日以上、水以外口にしていない。もう空腹さえ感じなくなっている。
それを告げるとラウラは目を瞠った。女の子たちに、台所へ行ってシチューを温め直すよう言いつける。
エディットは女の子たちに取り巻かれ、剣を手にして出ていった。……パタン、と扉が閉まってしまう。だが、彼女たちは階下ではなく、向かいの部屋に入ったようだ。俺は少しだけ安心した。
うながされ、俺は上着のボタンをはずした。シャツまですっかり脱いでしまうと、ラウラが息をのみ、口元を押さえた。──自分で見える範囲だけでも、体中がすり傷や青黒い
「……ひどいことを」
肩にやわらかな毛布をかけられた。それで俺は、ますます泣けてしまった。ラウラが俺の手に、たたんだハンカチを握らせてくれる。
「──患者はここかね?」
ドタドタと騒々しい靴音がして、ノックもなしに扉が開いた。入ってきたのはラウラと同年配の、短い白髪頭の痩せた老人である。
「まったく、イザベラちゃんの出番が終わってしまうではないか!──おう、これはむごい!」
医師はおかしながに股でずかずか歩み寄るなり、大仰に顔をしかめた。手にした黒い鞄を、書きもの机の上に乱暴に載せる。
「ラウラさん、
「ルーカス先生は、いつだって鞄をお離しにならないわ」
銀星館の館主はにっこりする。医師は揺り椅子を寝台のそばまで引きずってくると、俺の前へ腰を下ろした。
「ふむ、熱がずいぶん高いな。ここは痛むかね? ここは? 腕は上げられるかね?」
「どうしてこんな怪我を?」
と、ラウラが問う。ためらいながら二人を見比べる俺に、つけ加える。
「大丈夫よ。こちらの先生はね、うちの身内みたいなものだから」
俺はダーヴィドに捕らわれていたこと、エディットに助けられ、逃げてきたばかりであることを、かいつまんで説明した。ルーカス医師は大いにうなった。
「どうりで今夜は、やくざものが騒がしいわけだ!」
そのうち、温かいシチューの皿、ぴかぴかに磨かれたスプーンと、水差しを添えたお盆が部屋まで届けられた。体の至るところに膏薬をペタペタ塗られてしまう。幸い、骨には異常がないとお墨付きが出た。
治療と食事を終えるころには、俺の涙もようやく引っ込んだ。勧められるまま、寝台に体を横たえる。
「ゆっくり休んでおいきなさい。お屋敷へは、あとで誰かを使いにやりましょう」
「はい、ありがとうございます」
飲んだ薬が効いてきたらしい。だんだんまぶたが重たくなってくる。こんな安らかな気持ちで眠りにつくのは、何日ぶりだろうか。──俺はそのまま、目を閉じた。