誰かが歌っている。
神々を
ぱらり──時折、紙をめくる音がする。ペンで文字を記す、かすかな気配が混じる。
俺は目を開けた。
天井の、うろこ雲みたいに見える木目の模様を、しばらくのあいだぼんやりとながめていた。
これは、癒やしの歌だ。最高位の神官が
「……あら、もう目が覚めた?」
歌声はやんだ。顔を向けると、
「はい」
俺は目をこすって起き上がった。泣いてしまったあとのほっぺたが、少しひりつく。全身の鈍い痛みは続いていても、食事をとって眠ったせいか、ずいぶん楽になっていた。
眠りに落ちるまでの階下のにぎわいは、すでに終わっていた。鎧戸が閉じたままだから、朝にはなっていないだろう。静けさの中に、ほかの部屋でおしゃべりをする女の子たちの声が、さざ波のように聞こえてくる。
ラウラが水差しを取り、カップへ水をそそいでくれる。ほっそりした手が、俺の額に伸びてくる。
「……さっきより下がったようね。よかったわ」
頬に刻まれた
「ラウラさんは、いつから兄たちと親しくされているんですか?」
「さあ、いつだったかしら」
ラウラは膝のショールを広げて俺の肩にかけてくれた。よいしょ、と声を出して揺り椅子へ戻る。
「ずうっと昔よ。確か、一番上のアウグスブレヒトさまが、ティ坊やと同じくらいの年のころ」
俺は目を
甘やかされて育った俺とは異なり、兄たちはみんな、成人直後から父の執務を手伝っている。長兄はきっと父の参勤のお供で王都を訪れ、役目か観光のついでにでもここへ──
……立ち寄ったのか?
むちむちの女の子が
ノックの音がして、扉が開いた。
「ラウラどの」
剣を腰に下げ、燭台を手にしたエディットだった。猫のように足音も立てず、するりと室内へすべり込んでくる。
「わたしたちはやはり、出ていったほうがよさそうだ」
「エディットさま、もうそのお話はすんだはずでしょう?」
「……どうかしたんですか?」
熱のせいか、それとも寝起きのためか、頭はまだぼうっとしている。けれど、エディットがひどく張りつめていることくらい、俺にもわかる。
「建物をかこまれている」
エディットは俺を見て、厳しい声を出した。
「向こうはおそらく十人以上だ」
「え」
ダーヴィドの手のものか。でも、どうして俺たちがここにいるってわかったんだ?
「ティ坊やが眠っているあいだに、やくざものが訪ねてきたのよ」
俺の疑問を察したらしいラウラが、小さくため息をこぼす。
「当たりさわりのないことを言って娘たちが追い返したのだけれど、気がつかれていたようね」
「入るところを見られていたんだろう」
と、エディットも険しい瞳になり、うなずく。
「ラウラどの、これ以上あなたがたに迷惑をかけるわけにはいかない。わたしたちは──」
「いいえ」
ラウラがきっぱりとさえぎった。「お二人を追い出すような真似は、できません」
「だが」
「エディットさま、わたしに任せてくださいな。さっきお話しした通りに。ね?」
「…………」
青緑色の老いた瞳に見上げられ、エディットは大きく息を吐き出した。
「わかった、世話になる。──カイル、立てるか」
「は、はい」
俺はうながされ、裸足のままで廊下へ出た。
一階の楽屋兼居間では、セリーヌと呼ばれた亜麻色の髪の女の子が俺たちを待っていた。彼女は最初に出迎えてくれたときと同じ、申し訳程度の布の衣装に、羽根冠という姿である。化粧も落としていない。
「ここ」
セリーヌは自分の足元を指でさす。よくよく見れば、床板には、一メートル四方ほどの切れ目が入っている。セリーヌがかがみ込んで取っ手を引くと、四角い穴が、まるで切り取ったようにパカリと現れた。
エディットは燭台を手に、暗い穴の底へ降りていこうとする。だが、俺が足を止めたので振り返った。
「カイル、どうした?」
いえ……この手の地下には、いい思い出がないもので……
「ここは、なんですか?」
「
俺は唾を飲み込んだ。俺たちは楽屋と舞台を行き来する通路に身を隠すのか。そういうことでしたら……
「静かにしててねえー」
セリーヌは、俺たちが地下へ降り立つのを見届け、唇の前に人差し指を立ててみせる。彼女のいたずらっぽい笑顔はすぐに引っ込んで、奈落の蓋はパタンと閉じた。
上から敷きものをかぶせる音がする。ほどなくして、すきまからもれ出るかすかな明かりの気配も消え、動き回る人の気配も立ち消え──銀星館は静まり返る。
奈落の底は狭い。横幅は、俺たち二人がやっとならんで歩けるくらい。ほんの数メートル先に、舞台へ上がる階段がある。たったそれだけの、ただの通路だ。エディットは舞台側の階段の一番下に座り込み、燭台を足元へ置いた。
床に剣の鞘尻を立て、固く
「……すぐに気がつかなくて、すまなかった」
また、主語がない。
踊りにでも使うのか、壁には大きな輪や房飾りのついた棒などがいくつもかけてあった。俺はエディットの隣に腰を下ろした。「……なにがですか?」
「あなたの体調だ。怪我をしていると、もっと早く気づくべきだった」
手の甲が、俺の頬に添えられる。
「まだ、熱があるな」
白い手が離れてゆくとき、ふと思う。──俺がどんな怪我をしているか、彼女はラウラから聞いただろうか。
「……きたぞ」
エディットはろうそくの炎を吹き消した。
「──おい、開けろ! いるんだろう! わかってるんだぞ!」
荒っぽい大声は裏口からだ。ドンドンドン! と、乱暴に扉がたたかれる。
しかし、何度呼ばわっても応じるものはいない。すると今度は、ガチャ、ガチャ、ガチャ──音を立ててノブを揺さぶり始めた。
ガリリリッ、ガキッ。
大胆な。侵入者たちは、ノブごと錠前をはずそうとしているのか。いくらも経たず、扉は開いてしまった。入り乱れた足音が、どかどかとなだれ込んでくる。
「探せ!」
野太い胴間声が命じた。闇の中、俺は息を殺してエディットに寄り添った。
「七人……いや、八人……」
俺の耳元で、エディットが低くつぶやく。
「どこだ?!」
「おい、いたか?!」
二、三人が階段を駆け上がってゆく。部屋の扉や物入れが開けられ、家具をひっくり返す音。
「こっちは誰もいねえぞ!」
みんなはどうしているんだろう。今さらのように、心配になってくる。
「どこへ行きやがった!!」
ジャーン、と、何挺かの弦楽器とアコーディオンの、陽気な音色が始まった。
「わっ!」「な、なんだ?」
ならずものどもの戸惑う様子に重なり、
「「「おかあーさぁーん! お誕生日、おめでとう!」」」
女の子たちの甲高い声が、いっせいに叫んだ。
俺たちの頭上では、にぎやかな前奏から聞き覚えのある調べに変わり、楽曲が続く。そうだ、これは誕生日を祝う歌だ。
コトン、コトン、コトン──ラウラの杖の音だ。ゆっくりとした足取りで、舞台へ上がってくる。
「……まあまあ、みんなどうもありがとう」
なにが起こっているんだろう。俺は地上ぎりぎりまで階段をのぼってみた。どうやら明かりがついたらしい。上げ蓋のすきまから、こうこうと輝く光がもれてくる。
「カイル」
エディットに上着の裾を引っ張られた。
「我慢しろ。ラウラどのに任せるんだ」
「……でも」
「カイル」
怖い顔をされた。「いいから、おとなしくしてろ」
わかってる。俺だってわかっているけど、でも。
──舞台の上では、どすの利いた声がラウラに詰め寄っていた。
「……おい、婆さん。ふざけるのも大概にしろよ」
「ふざけるですって? どういう意味?」
少しも臆する様子はなく、ラウラは続ける。
「ご覧の通り、可愛い娘たちがわたしのために、誕生パーティーを開いてくれたんですよ。それで、少しばかり早めに明かりを落としただけのこと」
「パーティーだあ?」
はしゃいだ女の子たちの声が、次々に言う。
「だって今日は、おかあさんのお誕生日だもん!」
「そうよ、 お祝いだもん!」
「ねえ、おじさんたちもぉ、あたしたちといっしょに踊らなぁい?」
「俺とかい? あ、あんた、セリーヌちゃんだよな? じつは俺、前からあんたを
「わあ、ほんと? うれしいー」
「馬鹿野郎! んなことしてる場合か!」
あの衣装の女の子たちに取りかこまれでもしたんだろうか。かなりひるんだように、首領格の男の声が裏返った。
「か、
「匿う? なんのことかしら?」
「くっそ婆あ、なめやがって……若い男と女だ! ここの裏口から入るのを、見たやつがいるんだよ!」
「ああー、そいつァ、ひょっとすると」
このすっとぼけた口ぶりは、確か
「やだあもう! ヘンリーったら、ないしょだって言ったじゃなぁい!」
「でもさ、マリッカちゃん。言っちまわねえと、こいつら帰っちゃくれねえぜ?」
「あらまあ、二人とも、どういうことなの?」
呼び込みのヘンリーとやらは、仕事をずるけて
「──こんな
「なにぃ?!」
「その人たちは、どうして追われているの? ろくでもないことをしているのはそっちじゃないの? ──ほら」
ラウラの声音が、人の悪い笑みをふくんだ。「……あなたたちのほうにも、
ピィー……
長く鋭い呼び子の音が地下の闇を
「てめえ! 役人を呼びやがったな?!」
「ええ、もちろん。いけなかった?」
今のひと幕は、町役人が到着するまでの時間稼ぎだったのだ。ラウラはまるで少女のように、ころころ笑う。
「わたしは出るところへ出たって一向にかまやしませんからね。こんな真夜中に、人のうちに扉を破って押し入るなんて、夜盗だって訴えられるのが当然でしょう?」
ぴしぴしと決めつける。
「だいたい、あなたたちは誰の子分? アダム? それともトマス?──そう、わかったわ。トマスなのね?」
「な、なにおう?!」
「帰ってトマス坊やに伝えなさい。これ以上いわれのない因縁をつけるなら、二度と金輪際うちへの出入りはお断りよ。いいわね?」
見事な言いっぷりだ。相手のギリギリ歯噛みする音が、ここまで聞こえそうな気さえする。
呼び子の音がせまっている。手下らしいのが、なさけない泣き声をあげた。
「兄貴ィ、役人がきちまうよう」
「けッ、馬鹿馬鹿しい!」
とうとう
「婆あ、この借りは近えうちに必ず返してやるからな。──おいっ、引き上げだ!」
「困るわねえ。散らかしたところを片付けてからにしてくださいな」
「うるせえッ!」
やかましい靴音は、俺たちが隠れる奈落の上を通り過ぎ──やがて、裏口から出ていった。
「「「やったあー!」」」
音楽はやみ、代わりに女の子たちが大歓声をあげた。
「もう出てきても大丈夫よぉー」
ギ……と、上げ蓋が開いた。暗い地下へ、ランプの光が差し入れられる。
エディットが、俺から腕をほどいた。──彼女の体と体温が、離れてゆく。
俺たちは階段をのぼり、ぐるりと明かりの
「ラウラどの、こんなことをして、あなたたちは大丈夫なのか」
エディットが気にしているのは、やつらの報復だろう。銀星館の館主は、老いた
「なんてことはありませんよ。この街で四十年も、あんな連中の相手をしているんですもの」
ラウラは、パンパン、と手をたたいた。
「さあ、みんな、もうひと踏ん張りよ。さっさと後片付けをして、お茶でも入れましょうか」