伯爵令嬢は、契約結婚した俺にいつ恋をする?   作:カタイチ

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 誰かが歌っている。

 

 神々を(たた)える言葉。神々が、地上に暮らすすべてのものに与えたもうた命を讃える歌。生を尊び、生を幸いとし、この世に生きる喜びを歌い続けている。──ひそやかに、とてもとても、小さな声で。

 

 ぱらり──時折、紙をめくる音がする。ペンで文字を記す、かすかな気配が混じる。

 

 俺は目を開けた。

 

 天井の、うろこ雲みたいに見える木目の模様を、しばらくのあいだぼんやりとながめていた。

 

 これは、癒やしの歌だ。最高位の神官が(うた)えば、死者でさえ(よみがえ)るという力ある言葉。力など持たない人々も、身近な人が病気になれば口ずさむ。誰もが知る、癒やしの神へ捧げる歌。

 

「……あら、もう目が覚めた?」

 

 歌声はやんだ。顔を向けると、銀星館(シルヴァ・ブレイズ)の老館主ラウラが、金縁の鼻眼鏡をはずし、閉じた帳面の上に載せたところだった。

 

「はい」

 

 俺は目をこすって起き上がった。泣いてしまったあとのほっぺたが、少しひりつく。全身の鈍い痛みは続いていても、食事をとって眠ったせいか、ずいぶん楽になっていた。

 

 眠りに落ちるまでの階下のにぎわいは、すでに終わっていた。鎧戸が閉じたままだから、朝にはなっていないだろう。静けさの中に、ほかの部屋でおしゃべりをする女の子たちの声が、さざ波のように聞こえてくる。

 

 ラウラが水差しを取り、カップへ水をそそいでくれる。ほっそりした手が、俺の額に伸びてくる。

 

「……さっきより下がったようね。よかったわ」

 

 頬に刻まれた()()()と、品のいい目尻のしわを見て、俺はどこかでこの人に会ったことがあるかもしれない──そんなふうにも思う。

 

「ラウラさんは、いつから兄たちと親しくされているんですか?」

「さあ、いつだったかしら」

 

 ラウラは膝のショールを広げて俺の肩にかけてくれた。よいしょ、と声を出して揺り椅子へ戻る。

 

「ずうっと昔よ。確か、一番上のアウグスブレヒトさまが、ティ坊やと同じくらいの年のころ」

 

 俺は目を(みは)った。七人兄弟の長兄と末っ子の俺とでは、倍以上も年が離れている。

 

 甘やかされて育った俺とは異なり、兄たちはみんな、成人直後から父の執務を手伝っている。長兄はきっと父の参勤のお供で王都を訪れ、役目か観光のついでにでもここへ──

 

 ……立ち寄ったのか?

 

 むちむちの女の子が()()()()の、この銀星館へ。妻子ある現在の長兄を思い出し、俺がしみじみと感慨深く思ったときだ。

 

 ノックの音がして、扉が開いた。

 

「ラウラどの」

 

 剣を腰に下げ、燭台を手にしたエディットだった。猫のように足音も立てず、するりと室内へすべり込んでくる。

 

「わたしたちはやはり、出ていったほうがよさそうだ」

「エディットさま、もうそのお話はすんだはずでしょう?」

「……どうかしたんですか?」

 

 熱のせいか、それとも寝起きのためか、頭はまだぼうっとしている。けれど、エディットがひどく張りつめていることくらい、俺にもわかる。

 

「建物をかこまれている」

 

 エディットは俺を見て、厳しい声を出した。

 

「向こうはおそらく十人以上だ」

「え」

 

 ダーヴィドの手のものか。でも、どうして俺たちがここにいるってわかったんだ?

 

「ティ坊やが眠っているあいだに、やくざものが訪ねてきたのよ」

 

 俺の疑問を察したらしいラウラが、小さくため息をこぼす。

 

「当たりさわりのないことを言って娘たちが追い返したのだけれど、気がつかれていたようね」

「入るところを見られていたんだろう」

 

 と、エディットも険しい瞳になり、うなずく。

 

「ラウラどの、これ以上あなたがたに迷惑をかけるわけにはいかない。わたしたちは──」

「いいえ」

 

 ラウラがきっぱりとさえぎった。「お二人を追い出すような真似は、できません」

 

「だが」

「エディットさま、わたしに任せてくださいな。さっきお話しした通りに。ね?」

「…………」

 

 青緑色の老いた瞳に見上げられ、エディットは大きく息を吐き出した。

 

「わかった、世話になる。──カイル、立てるか」

「は、はい」

 

 俺はうながされ、裸足のままで廊下へ出た。

 

 一階の楽屋兼居間では、セリーヌと呼ばれた亜麻色の髪の女の子が俺たちを待っていた。彼女は最初に出迎えてくれたときと同じ、申し訳程度の布の衣装に、羽根冠という姿である。化粧も落としていない。

 

「ここ」

 

 セリーヌは自分の足元を指でさす。よくよく見れば、床板には、一メートル四方ほどの切れ目が入っている。セリーヌがかがみ込んで取っ手を引くと、四角い穴が、まるで切り取ったようにパカリと現れた。

 

 エディットは燭台を手に、暗い穴の底へ降りていこうとする。だが、俺が足を止めたので振り返った。

 

「カイル、どうした?」

 

 いえ……この手の地下には、いい思い出がないもので……

 

「ここは、なんですか?」

奈落(ならく)よぉ。床下で、あっちまでつながってるの」

 

 俺は唾を飲み込んだ。俺たちは楽屋と舞台を行き来する通路に身を隠すのか。そういうことでしたら……

 

「静かにしててねえー」

 

 セリーヌは、俺たちが地下へ降り立つのを見届け、唇の前に人差し指を立ててみせる。彼女のいたずらっぽい笑顔はすぐに引っ込んで、奈落の蓋はパタンと閉じた。

 

 上から敷きものをかぶせる音がする。ほどなくして、すきまからもれ出るかすかな明かりの気配も消え、動き回る人の気配も立ち消え──銀星館は静まり返る。

 

 奈落の底は狭い。横幅は、俺たち二人がやっとならんで歩けるくらい。ほんの数メートル先に、舞台へ上がる階段がある。たったそれだけの、ただの通路だ。エディットは舞台側の階段の一番下に座り込み、燭台を足元へ置いた。

 

 床に剣の鞘尻を立て、固く(つか)を握りしめる。彼女の瞳は闇を映すように(かげ)り、沈んでいる。

 

「……すぐに気がつかなくて、すまなかった」

 

 また、主語がない。

 

 踊りにでも使うのか、壁には大きな輪や房飾りのついた棒などがいくつもかけてあった。俺はエディットの隣に腰を下ろした。「……なにがですか?」

 

「あなたの体調だ。怪我をしていると、もっと早く気づくべきだった」

 

 手の甲が、俺の頬に添えられる。

 

「まだ、熱があるな」

 

 白い手が離れてゆくとき、ふと思う。──俺がどんな怪我をしているか、彼女はラウラから聞いただろうか。

 

「……きたぞ」

 

 エディットはろうそくの炎を吹き消した。

 

「──おい、開けろ! いるんだろう! わかってるんだぞ!」

 

 荒っぽい大声は裏口からだ。ドンドンドン! と、乱暴に扉がたたかれる。

 

 しかし、何度呼ばわっても応じるものはいない。すると今度は、ガチャ、ガチャ、ガチャ──音を立ててノブを揺さぶり始めた。

 

 ガリリリッ、ガキッ。

 

 大胆な。侵入者たちは、ノブごと錠前をはずそうとしているのか。いくらも経たず、扉は開いてしまった。入り乱れた足音が、どかどかとなだれ込んでくる。

 

「探せ!」

 

 野太い胴間声が命じた。闇の中、俺は息を殺してエディットに寄り添った。

 

「七人……いや、八人……」

 

 俺の耳元で、エディットが低くつぶやく。

 

「どこだ?!」

「おい、いたか?!」

 

 二、三人が階段を駆け上がってゆく。部屋の扉や物入れが開けられ、家具をひっくり返す音。

 

「こっちは誰もいねえぞ!」

 

 みんなはどうしているんだろう。今さらのように、心配になってくる。

 

「どこへ行きやがった!!」

 

 衝立(ついたて)がバタンと倒された。靴音と、苛立ちに満ちた声の群れは、舞台へと突き進む。──と、突然。

 

 ジャーン、と、何挺かの弦楽器とアコーディオンの、陽気な音色が始まった。

 

「わっ!」「な、なんだ?」

 

 ならずものどもの戸惑う様子に重なり、

 

「「「おかあーさぁーん! お誕生日、おめでとう!」」」

 

 女の子たちの甲高い声が、いっせいに叫んだ。

 

 俺たちの頭上では、にぎやかな前奏から聞き覚えのある調べに変わり、楽曲が続く。そうだ、これは誕生日を祝う歌だ。

 

 コトン、コトン、コトン──ラウラの杖の音だ。ゆっくりとした足取りで、舞台へ上がってくる。

 

「……まあまあ、みんなどうもありがとう」

 

 なにが起こっているんだろう。俺は地上ぎりぎりまで階段をのぼってみた。どうやら明かりがついたらしい。上げ蓋のすきまから、こうこうと輝く光がもれてくる。

 

「カイル」

 

 エディットに上着の裾を引っ張られた。

 

「我慢しろ。ラウラどのに任せるんだ」

「……でも」

 

 銀星館(ここ)にいるのは大半が女の人だ。大勢のやくざものに脅されて、もしも乱暴されでもしたら──言い返す前に、腰に腕が回った。軽々と抱き寄せられ、階段から降ろされてしまう。

 

「カイル」

 

 怖い顔をされた。「いいから、おとなしくしてろ」

 

 わかってる。俺だってわかっているけど、でも。

 

 ──舞台の上では、どすの利いた声がラウラに詰め寄っていた。

 

「……おい、婆さん。ふざけるのも大概にしろよ」

「ふざけるですって? どういう意味?」

 

 少しも臆する様子はなく、ラウラは続ける。

 

「ご覧の通り、可愛い娘たちがわたしのために、誕生パーティーを開いてくれたんですよ。それで、少しばかり早めに明かりを落としただけのこと」

「パーティーだあ?」

 

 はしゃいだ女の子たちの声が、次々に言う。

 

「だって今日は、おかあさんのお誕生日だもん!」

「そうよ、 お祝いだもん!」

「ねえ、おじさんたちもぉ、あたしたちといっしょに踊らなぁい?」

「俺とかい? あ、あんた、セリーヌちゃんだよな? じつは俺、前からあんたを贔屓(ひいき)にしてたんだ」

「わあ、ほんと? うれしいー」

「馬鹿野郎! んなことしてる場合か!」

 

 あの衣装の女の子たちに取りかこまれでもしたんだろうか。かなりひるんだように、首領格の男の声が裏返った。

 

「か、(かくま)ってんだろぉ?! いいからとっとと出しゃあがれ!」

「匿う? なんのことかしら?」

「くっそ婆あ、なめやがって……若い男と女だ! ここの裏口から入るのを、見たやつがいるんだよ!」

「ああー、そいつァ、ひょっとすると」

 

 このすっとぼけた口ぶりは、確か()()()()の若い男だ。「たぶん、あっしらじゃねえかなあー」

 

「やだあもう! ヘンリーったら、ないしょだって言ったじゃなぁい!」

「でもさ、マリッカちゃん。言っちまわねえと、こいつら帰っちゃくれねえぜ?」

「あらまあ、二人とも、どういうことなの?」

 

 呼び込みのヘンリーとやらは、仕事をずるけて()()()()()()()逢引(あいびき)に出かけ、裏口からこっそり戻ってきたことを、くどくど詫びる。それを聞いたマリッカちゃんは、二人だけの秘密だったのに、と、つんけんする。彼女との仲を認めてほしい! と、ヘンリーは男らしく宣言した。女の子たちがキャーキャーご両人を冷やかした。

 

「──こんな理由(わけ)のようですよ。さあ、あなたたちが探しているのは、いったいどなた?」

「なにぃ?!」

「その人たちは、どうして追われているの? ろくでもないことをしているのはそっちじゃないの? ──ほら」

 

 ラウラの声音が、人の悪い笑みをふくんだ。「……あなたたちのほうにも、()()()がきたようよ」

 

 ピィー……

 

 長く鋭い呼び子の音が地下の闇を()き、俺たちの耳にまで届いた。やくざどもは、あっというまに浮き足立った。

 

「てめえ! 役人を呼びやがったな?!」

「ええ、もちろん。いけなかった?」

 

 今のひと幕は、町役人が到着するまでの時間稼ぎだったのだ。ラウラはまるで少女のように、ころころ笑う。

 

「わたしは出るところへ出たって一向にかまやしませんからね。こんな真夜中に、人のうちに扉を破って押し入るなんて、夜盗だって訴えられるのが当然でしょう?」

 

 ぴしぴしと決めつける。

 

「だいたい、あなたたちは誰の子分? アダム? それともトマス?──そう、わかったわ。トマスなのね?」

「な、なにおう?!」

「帰ってトマス坊やに伝えなさい。これ以上いわれのない因縁をつけるなら、二度と金輪際うちへの出入りはお断りよ。いいわね?」

 

 見事な言いっぷりだ。相手のギリギリ歯噛みする音が、ここまで聞こえそうな気さえする。

 

 呼び子の音がせまっている。手下らしいのが、なさけない泣き声をあげた。

 

「兄貴ィ、役人がきちまうよう」

「けッ、馬鹿馬鹿しい!」

 

 とうとう首領(ボス)が捨て台詞を吐いた。

 

「婆あ、この借りは近えうちに必ず返してやるからな。──おいっ、引き上げだ!」

「困るわねえ。散らかしたところを片付けてからにしてくださいな」

「うるせえッ!」

 

 やかましい靴音は、俺たちが隠れる奈落の上を通り過ぎ──やがて、裏口から出ていった。

 

「「「やったあー!」」」

 

 音楽はやみ、代わりに女の子たちが大歓声をあげた。

 

「もう出てきても大丈夫よぉー」

 

 ギ……と、上げ蓋が開いた。暗い地下へ、ランプの光が差し入れられる。

 

 エディットが、俺から腕をほどいた。──彼女の体と体温が、離れてゆく。

 

 俺たちは階段をのぼり、ぐるりと明かりの(とも)ったまぶしい舞台の上に出た。夜も更けているというのに、女の子たちも若い衆も、みんな元気いっぱいだ。

 

「ラウラどの、こんなことをして、あなたたちは大丈夫なのか」

 

 エディットが気にしているのは、やつらの報復だろう。銀星館の館主は、老いた(おもて)をにっこりさせる。

 

「なんてことはありませんよ。この街で四十年も、あんな連中の相手をしているんですもの」

 

 ラウラは、パンパン、と手をたたいた。

 

「さあ、みんな、もうひと踏ん張りよ。さっさと後片付けをして、お茶でも入れましょうか」

 

 

 

 

 


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