エディットが、俺のそばで──
屋敷の自分の部屋にあるような、何人もが大の字になれる巨大なベッドじゃない。大人一人横になるのがせいぜいの、つつましやかな寝台だ。もちろん毛布も一枚だけ。そんなに引っ張られたら、俺がかける部分がなくなっちゃうんだけど。
足を伸ばせない。ちぢめることもできない。うっかり動けば彼女に触れてしまう。
……ひょっとして逆? むしろ、期待されてるのか?
橙色のランプの炎が、ほどけた髪をやわらかく照らし出す。
なにを考えているんだ、俺は……
自分の思考に首を振った。話し声が隣の部屋までつつぬけになる小さな家である。聞こえるのはよくない。物音とか、声とか、絶対によくない。
……そうだ。
本の続きを読もう。そうしよう。
読みかけの本は、俺が背にした寝台の棚に載せてある。この姿勢で後ろへ手を回すのは、つらい。痛めた右肩が悲鳴をあげる。
そろり、と、足を引く。徐々に膝を曲げる。両腿が胸までくっつけば、少しは向きを変えやすくなる。
ジジ……
ランプの
膝頭の上で、
「……………………」
とぼけた老剣士と生意気な若い弟子。二人が道中でくり広げる軽妙なかけ合いは、文句なしに面白い。面白いんだけど……
こんな環境で、集中できるわけないだろ!
勢いよく本を閉じた。バタン、と、案外大きな音がした。エディットは微動だにしない。こちらに背を向けている。
……もう寝たの?
あんまり動かないと、かえって気になるじゃないか。
本を棚に戻し、おそるおそる首を伸ばした。乱れた髪のあいだから、形のいい耳たぶがのぞく。
辺りは静まり返っているのに、寝息はひそとも聞こえてこない。もしかしたら、俺は彼女のまぼろしを見ているだけじゃないか、そんなふうにも思う。
──よし、ちょっとだけ。
エディットが本当にここにいるのか、確かめてみよう。
薄い木綿のブラウスに包まれた肩を、人差し指でそうっとつついてみる。──確実な手ごたえがあった。なのに彼女は、ぎゅっとレイピアを抱きしめたまま、身じろぎひとつしない。
じゃあ、もう一回。
今度はもっと強く。ぐいーっと。
「………………」
これでも起きないの? 熟睡? もうはや?
敷布に手をついたとき、寝台がきしんだ。背中側からのぞき込んでみると、エディットは両目を閉じている。
やっぱりまつ毛、長いなあ。
そういえば、思い出した。俺たち何度か、最初に出会ったときとか、結婚式とか、爵位授与式とかで……なんていうか、
さらに身を乗り出してみる。
いつもエディットからだ。俺からは、いっぺんだって、ない。
上質の陶器のような白い頬。まろやかな曲線を描くうなじ。──俺は、軽く唾を飲み込む。
「カイル」
うわあ! びっくりした!
思いきり飛びすさった。もしも壁がなかったら、間違いなく寝台から転がり落ちていた。
「もう、休め」
誰のせいで眠れないと思ってるの!
だいたい、男の部屋に一人できて、いっしょに寝ようって、
顔も体も熱いなんてものじゃない。また熱がぶり返したかもしれない。でも、俺は。
「すまない……昨日から、眠っていないんだ……」
俺は、彼女の肩へ伸ばしかけた手を止めた。──本当に、眠たそうな声。
昨日から。
このうえなにかを言われたら、羞恥のあまり
どうしても、背中が彼女の背に触れる。
──昨日から、眠ってないって。
俺が、うちに帰らなかったから?
「……ごめんなさい」
聞こえないかもしれない、と、思った。けれど、いらえは返ってきた。
「いや……」
彼女が眠りに落ちようとしているせいか、いつもと同じ、そっけない言いかたなのに、不思議とどこか甘い響きが漂う。
「謝らなければいけないのは、わたしのほうだ……」
すう、と、言葉の最後は寝息にまぎれてしまう。それで俺も目を閉じた。誰かの体温を感じながら眠るなんて、最後がいつだったか思い出せないほど久しぶりだった。
二人で眠る寝台は、とても暖かくて、とても狭くて──俺は、彼女に口づけされる夢を見た。
◆◇◆
「ティー、もう起きてえー」
元気よく扉をたたく音と、相反するけだるい呼び声に目が覚めた。──隣はぽっかりと、誰もいない。敷布には、彼女のぬくもりがわずかに残っているだけだ。俺はあわてて起き上がった。
「おはようー、具合はどお?」
おっぱい娘のセリーヌが、ずかずかと入ってくる。化粧を落とし、当たり前の服を着ていると、青い瞳が可愛らしい普通の女の子である。セリーヌは俺の顔色を見て、にこりとした。
「平気なら下まできてねえ。朝ごはんだからぁ」
「はい、ありがとうございます」
夜の商売だけあって、銀星館の朝は遅いらしい。とはいえ、すっかり日は高い。俺は急いで身じたくをして階下へ降りた。
女の子たちはとっくに朝食をすませたようで、居間でだべったり、床で手足を伸ばして運動したりと、思い思いに過ごしている。食堂ではベーコンと卵料理の器、まばゆいばかりのエディットの美貌が、俺を待っていた。
「おはよう、カイル」
さっそく額へ手が伸びてくる。「下がったようだな」
そ、そう? まだ顔が熱いような気がするんだけど。
「これから、どうしましょうか」
彼女に問いかけながら、ここに至るまでの一連の騒動を思い出す。銀星館に立てこもっている現在の状況は、ダーヴィド一家にとって、俺たち二人をそろって捕らえる好機に違いない。昼ひなかから昨夜のような無茶はしづらいとしても、簡単に手を引くだろうか。
「ラウラどのが、本邸まで使いを出してくれたんだが……」
エディットは気がかりそうに立ち上がり、小窓から外の様子をうかがった。──彼女が指すのは塀の向こう、うろうろと行き来する人の頭が見える。ダーヴィド一家の見張り番だ。どの窓から見ても同じだ、と、エディットは瞳を険しくする。
「──ちわーす!」
そこへ、裏口から威勢のいい声がした。「ガストン酒店でござーい! ご注文の品をお届けに上がりやした!」
「「はあーい!」」
居間で寝そべっていた女の子が二人、跳ね起きた。一人が木の扉に、ピタリと両手をつく。
「……『
なんだろう。奇妙なささやきだ。扉の向こうではしばしの沈黙。──ややたって、負けず劣らず意味不明なささやきが返ってきた。
「……『クロスビー』」
女の子たちは目と目を見交わしてうなずき合う。今のはどうやら
「毎度どうもぉ!」
男が一人、戸口から中をのぞき込み、ひょいと帽子を取った。「酒樽二つ、運んじまってもよござんすかね?」
ちりちりの金髪に、角張った顎の四十男だ。俺は目を
「マイルズ、無事だったか……!」
きょろきょろと辺りを見回しつつ、中年男が顔を出す。金色のちぢれた髪が、目深にかぶった鳥打ち帽の下からはみ出ている。帽子の男は小路に誰もいないのを確かめ、後ろへ向かって合図した。
続いて現れたのは、
ずいぶん大きな酒樽だ。しゃがみ込めば、人一人がすっぽり収まるに違いない。あとから同じような二人組にかつがれた樽がもうひとつ。合わせて二つ。
その様子を、塀の陰からじっと見ているちんぴらがいた。彼は酒屋の連中が樽をかついで入っていくところから、すべてを見届けていたのだ。ちんぴらは大きく手を振った。すると、薄汚い風体のごろつきが何人も、小路のあちこちから湧いて出たように集まってくる。
「よう、兄さんがた。そいつはなんでえ」
顔に大きな傷跡のあるやくざが、樽に向かって顎をしゃくった。酒屋の若い衆が取りかこまれてちぢみあがる中、帽子の男が如才なく腰をかがめた。
「へい、こちらさまからご注文をいただきました、ワインでさぁ」
「ワインだあ?」
「今ほど新しいのをお届けに上がりましたんでね。代わりに前の、空いた樽を引き上げますんで」
やくざものはにやりと頬をゆがめた。そうすると、こめかみから走る傷跡も大きく引きつれ、たいそう凄みのある顔になる。
「
「お客さまへのふるまい酒だそうですよ」
と、帽子の男はあくまで愛想よく答えた。けれど、傷のやくざは首を振る。
「本当にからっぽかい? たいそう重そうに見えるがなあ」
「とんでもねえ。中身が入った酒樽を引き上げてちゃ、商売にならないじゃありませんか」
「じゃ、今ここで、中を見してくんな」
「い、今? ここで?」
うろたえた帽子の男が、傷のやくざへすり寄った。
「……兄貴、ねえ兄貴」
「んん?」
「見て面白いものなんて、なんにも入っちゃいませんぜ」
汚らしい手のひらへ押しつけたのは、ごくごく小さな紙包みだ。「後生ですから、今日のところはこれでご勘弁を……」
帽子の男はもみ手をしながら、えへらと笑う。
傷のやくざは紙包みを
──かと思いきや、突如
「いいや、その樽の中身は、うちの大親分のご機嫌をそこねたガキと小娘に違えねえ。四の五の言わずに開けてみせろい!」
「えっ、兄貴、そりゃねえや」
あたふたと、帽子の男が両手を振り回したときである。
「邪魔だ邪魔だ!」
通りの向こうから、ガラゴロとすさまじい音を立て、小さな荷馬車が全速力で近づいてきた。
「どけどけどけい! 大工のフーゴー親方のお通りだ! 跳ね飛ばされたくなかったら、とっととどきやがれ!」
手綱を引きしぼり、鞭を振り回すのは日に焼けた白髪頭の老人だ。老いぼれた馬が泡を吹きそうに高くいななき、前足を上げる。ぽかんと口を開けたごろつきどもを目がけ、親方は呵々と大笑した。
「さあ、このフーゴー親方がきたからには、どこぞの大馬鹿野郎がぶっ壊したラウラさんちの裏口なんざ、たちどころに元の通りの通り道よ!──そらっ、みんな!」
親方が右手を振ると、小路の出口をふさぐように停まった馬車の荷台から、若い男が何人も続けざまに飛び降りた。二人一組で長い木箱をかつぎ上げ、酒屋の連中とやくざもののあいだを通り抜けようとする。──見れば木箱の寸法は、ちょうど棺桶ほど。小柄な人物を収めるにはぴったりの幅と奥行きだ。
「おいっ、待ちやがれ! なんだそいつは?!」
「なんだろうと、てめえらの知ったこっちゃねえや!」
親方は勇ましくも御者台に足をかけ、大きく腕を組んで怒鳴りつけた。
「材木だの釘だの、入り用のもんはいっくらでもあらあな! わからねえなら引っ込んでろ、このすっとこどっこい!」
「なんだとぉ?! たかが戸の一枚直すのに、そんなでっけえ
「お、小僧ども、やろうってのか? いい度胸だ、受けて立とうじゃねえか!」
「──じゃ、兄貴。あっしらはこれで」
「待て酒屋! 行ってよしなんて誰が言った!」
銀星館の裏口は、なかなかどうして大変な騒ぎになったのである。
「──フーゴーのとっつぁん、うまいことやってくれてるようですぜ」
裏口の様子を見に行っていた呼び込みのヘンリーが、にやにやしながら戻ってきた。
「さ、坊ちゃん、お姫さんも、このすきに早く」
エディットと俺は、木戸口から表通りをそっくり見渡せる、ひとけのない舞台にいる。──エレメントルート伯爵家の下男マイルズが、近所の酒屋の助力のもとに用意した大樽は、もちろん本当にからっぽだ。
「ティ坊や、またいつでも、本の続きを読みにいらっしゃい」
ラウラが微笑んだ。
「双子さんにも伝えてちょうだいね。うちは
俺のすぐ上の双子、ハンネスとニクラスは、まだ銀星館を訪れたことがないそうだ。ほかの兄たちといっしょに王都へきたことがないからである。
「はい、必ず伝えます」
「ありがとう、ラウラどの」
「挨拶はいいから、早くしなせえよ!」
そわそわと通りを見ていたヘンリーが、勢いよく手招きしている。
俺が名ごり惜しく思うのと同じように、いや、それ以上に、エディットは後ろ髪を引かれるようだ。振り返った彼女の顔を見て、腑に落ちた。──銀髪と、青みがかった瞳の老婦人。ラウラは、亡くなったおばあさまによく似ている。
正面から外へ出る。裏口に面した小路は、ものすごい人だかりだ。──と、そこに、小型の二頭立てが一台通りかかった。まるで流しの辻馬車みたいになにげなく、ひとつ星の看板の下へ横づけになる。見れば御者は、俺の従者のドワーフおじさんだ。
「エディットさま! 旦那さま!」
中から扉を開けたのは、侍女のバルバラだ。俺たちは大急ぎで馬車へ飛び込んだ。
「怪我はないんだろうな?!」
エディットが勢い込んで問う。バルバラもダーヴィドの館で別れたときと変わらず、どこにも傷ひとつない。
「はい、平気です。みんなでお二人をお探ししていました」
馬車はすぐさま走り出した。うちへ──お屋敷街にある、エレメントルート伯爵家の本邸へ。
ほっぺたにそばかすを散らした小柄な侍女は、俺に向かって大きな笑顔になった。
「おかえりなさいませ、旦那さま」