明日になれば、エディットはハティアに向けて旅立ってしまう。
「軍の飯はまずいんです。昔っから相場が決まってます」
厨房では料理長のネロが決めつける。彼は大きい。どれだけ食べたらこんなに大きくなれるんだろう、というくらいに大きい。
薄くなりかけた頭に手ぬぐいを巻いて、額の汗をふきふき、ネロは保存食の準備に余念がない。日持ちのするさまざまな食料──燻製肉、チーズ、堅焼き菓子、
「夜中にこっそり食べる
ネロは堅パンの切れはしに、スモークチーズをひょいと載せた。
「ないしょで独り占めしてもいいし、手柄を立てた部下へのご褒美にしたっていい。うまい食いものはね、なんにでも役に立つんですよ、旦那さま」
差し出されたのを、ひと口ほおばってみる。──なるほどうまい。
乾燥果物を小袋に詰めながら、ネロはご機嫌に鼻歌交じりだ。あのエディットが、一人でこそこそ甘いものを飲み込んでる図なんて、想像しづらいけど。
俺は居間へ足を向けた。するとそこでは、執事のワトキンスが、手にした革の小箱をじっとりとにらみつけている。
「……軍医など、あてになるものではございません」
と、執事は暗黒のまなこを光らせて言う。いつも以上に生気を吸い取られそうな、
彼が小箱に押し込めていたのは、何種類もの薬だった。痛み止め、気つけ薬、膏薬、解毒剤、胃薬、熱さまし……こんなに? 多過ぎない?
「とんでもないことでございます」
カッ──と、ワトキンスは両の瞳を見開いた。
「そなえあれば憂いなし、と申します。お役に立てばよし、立たなければなおよし……」
そ、そうですね。すみません。
エディットの旅じたくは、もはや佳境を迎えたと言ってよい。
彼女は朝から出かけているし、みんなは忙しい。どうせ俺の部屋には誰もこない。読みかけの本を開いても、気が乗らずに閉じてしまう。
『カイル』
声がした。俺の
「……なに? カローロ」
きたぞ、と、俺だけに聞こえる声が言う。──
「旦那さま、本日のお出かけはいかがなさいますか?」
従者のグレイの声である。
「はい、行きます」
俺は立ち上がった。
廊下へ出ると、背高従者が神妙な顔で控えていた。どうもこの男は食えない。俺が守護精霊を持ったことを知っているのかいないのか、至ってそ知らぬふうだ。
──
いつもの黒のローブの裾を、腰まで高々とからげている。彼がこうやって貧相なすねをむき出しにしているとき、ユーリ=ローランドは決まって留守だ。
床にも、机や棚の上にも、開いた書物が好き放題に散らかっていた。この人は読みかけの本をそのままに、思いつきで次のを開くのでこのようになる。ユーリに叱られるまでほったらかしが
「カイルくん、いいところにきてくれた。手伝ってくれないか」
「はい。でも、ユーリ先生はどうしたんですか?」
「ああ、ローランドくんには──」
オドネルはせかせかと言いかけたが、俺を見ていぶかしげに言葉を切った。
「顔色がよくないようだが、気分でも悪いのかね?」
「いいえ」
俺は驚いてかぶりを振った。まったくそんなことはない。夜も眠れているし、食事だってとれている。
「そうかね。ならいいんだが」
ユーリは元魔法士のなんとか伯爵家まで、魔法関連の蔵書を借りに出かけたらしい。夕方までは戻らない、と、どうにか大机を
「……オドネルさんは」
石の床一片ごとをわざわざ埋めたみたいに、広げた書物がびっしりと敷き詰められている。踏んでしまわないよう注意深く歩きながら、俺は尋ねてしまった。
「ユーリ先生が一人で出かけても、気にならないんですか?」
「気になる? なにがかね?」
なにがって……
「………………」
ちゃんと
オドネルは眉を上げた。かたわらの棚の上に、手にしていた数冊の本を積み上げる。それから俺に向き直った。
「われわれが住まううるわしのアセルティアは、昼間から女性の一人歩きができないほど治安の悪い街ではないよ」
「…………」
「それに、彼女は若いが世慣れていて、とてもしっかりした人だ。貴族の屋敷へ出向いて交渉ごとをおこなうにしろ、安心して任せておける」
「じゃあ」
なんとなく、反抗的な気分がこみ上げてきた。「オドネルさんは、ユーリ先生のことが少しも心配じゃないって言うんですね?」
「………………」
オドネルは目をぱちくりさせた。そして──薄い唇の両はしを持ち上げて、笑みを見せた。
「カイルくん」
「……はい」
「きみが心で思う気持ちに、名前を付けてみるといい」
……名前?
「そうとも。きみがきみだけの精霊に名付けたのと同じだよ」
王宮魔法士は、額の上に左手を掲げた。呪文を
「名前は万物の始まりだ。物に、事象に、現象に、もしも名前がなかったら、言葉は生まれなかった。──名前とは実存の
「え、ええ……」
確かに召喚魔法の講義に出てはきた。だが、それがさっきの問いとなんの関係があるのか、俺にはわからない。
俺より遥かに大人であるジュリアン=オドネルの、これもまた彼なりの
ポーン、ポーン……時計が鐘を打ち始める。オドネルは飛び上がった。
「こんな話をしている場合じゃない。カイルくん、急がなくては」
「なにがあるんですか?」
「視察だよ。なんともはや突然のお達しでね。まもなく
それは、まごうことなき一大事である。
人手は一人でも多いほうがいい。俺は扉の外で待っていたグレイを、塔の中に招き入れた。
「すまないね。よろしく頼むよ」
威厳をかき集めるためか、ローブの裾を下ろして整えつつ、オドネルは昂然と
「できるだけお手伝いさせていただきます」
と、極めてにこやかに従者は返す。
立場は違えど魔法士同士。しかも彼らは同じ女性を
三人になって、がぜん作業ははかどった。グレイは俺たちが拾い集めた本やなにかを、手当たり次第に高いところへ積んでいく。さしたる時間もかからず、塔の中の混沌ぶりはいくらか落ちついた。足の踏み場もできた。
「きみたちはこちらに隠れていたまえ」
オドネルにはひと通りのことを話してある。俺とグレイは、王弟に姿を見せないほうがいい。
大きな本棚と
──国王マティウス二世の二歳違いの弟、シベリウス。
クローディア王女の父親で、以前お茶会に招かれたクララさまの夫君。国王から王立魔法学院の再建を任された、この蒼の塔の最高責任者だ。
そして──若き日のセドリック=エレメントルートに果たし合いを申し込んだ、エルヴィン王女の二人の兄の一人である。
やがて、入口付近がにぎやかになった。
衝立に近づき、向こうの様子をうかがってみる。──入ってきたのは男性ばかりが五人。王弟はどの男か、ひと目でわかる。
彼は生き写しといってよいほど国王に似通っている。整った目鼻立ち、雨に濡れた地面のように濃い茶色の髪と瞳。背格好もほとんど変わらないのに、彼らを取り違えることはない。国王が
爵位授与式でまみえた王弟は、ごく円満な人柄と見受けられた。けれど、彼も妹のためになら相手の男へやいばを向けることも
「……旦那さま」
俺の
彼が言うのは仮面の男のことだ。──長身、痩せぎすの文人肌。茶色の瞳の、若くはない高位の貴族。国王も王弟も、仮面の男その人ではないと調べがついている。同伴者は、側近らしい男性が二人と、護衛の若い近衛騎士が二人。
「……まだ、わかりません」
俺も小声で返す。二人の貴族はどちらも中年だ。一方は背が低く、でっぷりとした体格だから
アセルス人にはありふれた、濃い茶色の髪である。離れているので瞳の色まではわからない。面長の顔立ちには品があり、やや頬がこけて青白い。線の細い、痩せた男だ。
「どうかね、オドネルくん」
太った貴族が、珍しそうに周囲を見回しながら問うている。
「おかげさまで、材料は順調に集まっておりますよ」
オドネルはすまして返す。「新たな教本の執筆にも取りかかっております」
「開校までにはどのくらいかかりそうだね?」
「さ……いささか人手が不足しておりまして。来年中に目処が立てば上々、というところですな」
「──そういえば」
王弟が口を開いた。彼は国王と、声まで似ている。
「オドネルくんには、以前助手の世話を頼まれていたね」
兄ほど重苦しくはない、やわらかみのある気さくな口ぶりだ。
「申し訳ない。うっかり忘れていたよ」
話しながら、一同は棚の陰に隠れて見えなくなった。王弟が頭でも下げたのだろうか。オドネルが大あわてで、おおとんでもない! もったいなきお言葉! などと叫んでいる。
もう一人の貴族は黙ったままだ。──俺はあの男の、声が聞きたいのに。
オドネルは授業に取り入れる予定の魔法の種類を説明したり、教科書の下書きを見せたりしているようだ。受け答えするのは太った貴族のほうである。長身の貴族と思われる声は、一度も聞こえてこない。
「──では、いずれまた、進捗を聞かせてもらうよ」
滞在はわずか二十分足らずだった。室内をほんのひとめぐりしただけで、一同は扉へ向かう。──そのとき王弟が、一歩下がって付き従う長身の貴族に目を向けた。
「フィリップ、次の予定は?」
「コーティアからの使節団に、国王陛下のご名代で謁見を」
この声は……
「似てますか?」
グレイに問われて、俺はうなずいた。「はい、そんな気が……」
「あとをつけましょう」
魔法剣士は、ひょいと右手を上げた。「『
──ふいにカローロが、俺の上着の袖を引いた。
「グレイさん、待って」
「え」
おそらくグレイは小霊のたぐいを召喚して、フィリップと呼ばれた貴族を追跡させようとした。しかし俺は、彼の手をとどめた。従者はただちに詠唱をやめた。
そうこうしているうちに、王弟一行は扉を開けて出ていってしまう。かまわない。『フィリップ』の身元は、オドネルが知っているだろう。
カローロが、俺の
「旦那さま、どうなさったんです?」
オドネルが衝立の向こうから顔をのぞかせた。「どうかしたのかね?」
「オドネルさん」
俺は立ち上がった。ずっと床にかがみ込んでいたので、膝が少々しびれている。脚をさすりながら、『フィリップ』とは誰なのかを尋ねてみる。
「ああ」
オドネルはうなずいた。
「レールケ卿だよ。シベリウス殿下の側近だ。──フィリップ・ジールマン・テレリア・ディルク=レールケ伯爵」